α氏論考

 更新日/2018(平成30).3.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、諸氏の論考を確認しておく。一般に、人の論考には何がしか為になるところがある。論証の部分はダメだが結論が良かったり、逆に結論はダメだが論証が良かったりすることがある。全体は無茶苦茶だが、その一部がキラリと光っている場合もある。それやこれやで確認しておき、採りいれるところを取り込みしておく。

 2008.4.14日、2013.1.13日再編集 れんだいこ拝


【「イザナギとイザナミ」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 12
日付論考「記紀神話(その6の12)・イザナギ・イザナミの倭人と熊野神社」参照」。
 日本の倭人はイザナギとイザナミが作ったと考えられる。イザナギとイザナミの役目の一つが倭人を生むことだった。陰陽二神のうちの陽神のイザナギは海人を生み、陰神のイザナミは山人を生んだ。イザナギは海の神としての性格を持ち、日本全国の海人族の守護神である。特に北九州のワタツミと南九州のツツノオ(塩土老翁)を生んでいる。ツツノオは塩土老翁と同義。ツツノオ→シオ・ツツノオ・ジ=潮津道之大霊→塩土老翁(シオ・ツチノ・オジ)に変換できる。一方のイザナミは山の神としての性格を持ち、日本全国の山人族の守護神である。スサノオと結婚した出雲の奇稲田姫の祖神は大山津見で、その親神はイザナミになる。同様に奈良県の神大市姫も南九州の木花開耶姫も、その祖神はイザナミになる。記紀神話では、大山津見はイザナギ、イザナミの2神が生んでいる。あくまでもイザナギを海にイザナミを山という対比構造に設定している。海は陽であり男であり、イザナギ(誘う気・精神化)であり上昇する流れである。反対に、山は陰であり女であり、イザナミ(誘う身・物質化)であり下降する流れである。要は、ツイン・システム・二重螺旋の構造になっている。

 イザナギとイザナミの2神が、初めての子作りに失敗したときには、天上に戻って、子作りの仕方のアドバイスを受けている。  

 記紀神話では、イザナギとイザナミが国を産んだり、神を産んだ記述はあるが、人間を産んだ記述はない。旧約聖書では、神が人間を作ったという記述があるが(「創世記」の第1章の1の27あたり)、その点が記紀神話と全く異なる。

【「イザナミの末路」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか氏の2018 年 3 月 05日付論考「記紀神話(その6の16)・イザナミの末路と、記紀神話の発想力」参照。
 記紀神話のイザナミがカグツチを生み、そのときに大ヤケドをした為に命を失う。この「イザナミの末路」は何かを隠喩している。それは、物語の構成上そのような設定になっただけの話で、大体が、神様がヤケドで死ぬことはないし、生まれてくる赤ん坊が燃えながら生まれてくる訳でもなかろう。イザナミの使命は、イザナギと共同して、(山や川や海や木や草などの)人間世界の舞台・ロケーション・土壌を作ることだった。その使命を終えて、もっともらしい理由を付けて退場したに過ぎない。

 イザナミは自然の山の精霊としての神格を持っている。山の民や蝦夷や熊襲などの守護神であるかも知れない。イザナミの「性質」は、イザナギを「陽・プラス」とし、イザナミを「陰・マイナス」として、万物が生成され、力が作用し、世界が成り立つものと思われる。イザナミは、国を生み、神を生んだが、最後には、カグツチに象徴されるものによって消え去った。言ってみれば、イザナミは「地球ガイア」であり、「母なる地球」でもある。

 イザナミは、元々は「神代七代」の神界に所属する神であって、人間世界の舞台・ロケーションを作るために現れた神である。イザナギと協力して、弥生時代に入るまでの日本の国土や自然を作ることが使命です。人間としては縄文人とか倭人を登場させる程度が責任範囲である。イザナミの多重性としては、日本国土の根本神のほかに、山の民の守護神、出雲や越国の守護神、越系倭人の守護神などの性格があった。(イザナギと対象形の構造になっている)。

 熊本県にイザナミを祭る熊野神社が非常に多い。熊襲と何か関係があるのだろうか。熊本県には150社を超える熊野神社があるが西日本で100社を超えるのは熊本県だけである。50社を超えるのは京都、兵庫、高知、福岡、大分、鹿児島で、100社に満たない。熊本県だけが異常に多い。


【「イザナギの使命」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 3 月 05日付論考「記紀神話(その6の16)・イザナミの末路と、記紀神話の発想力」参照。
 イザナギの使命は、イザナミと協力して弥生時代までの日本を作ることと、弥生時代の主役であるアマテラス・スサノオを生み出すこと。脇役としての(倭人の一派の)海人族を生むこと。使命を終えたイザナギは淡路島(あるいは近江の多賀の説)に眠っている。多重性としては、イザナギは、日本国土の根本神のほかに、海の民(海人族)の守護神、呉系倭人の守護神などの性格があった(イザナミと対象形の構造になる)。

 イザナギは、イザナミの亡骸(なきがら)を、出雲の国と伯伎(ハハキ)の国(鳥取県)の境の比婆山に葬ったと記されている(古事記)。但し、日本書記の第五段の一書の五では、紀伊の国の熊野の有馬村と記している。どちらが正解なのか。何で、比婆山なのか。

【「カグツチ」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 26日付論考「記紀神話(その6の15)・カグツチと文明と不幸の始まり」参照。
 通説のカグツチ火の神説にも疑問がある。イザナミは、火の神のカグツチを生むことを原因として死に至るが、イザナミは神様だから火では死なないと思われる。カグツチが燃えながら生まれてきたとは思えない。カグツチは軻遇突智と書く。一般に「火の神」とされているが、本来の言葉の意味は「カクの霊」か「カクの土」だと思われる。カグは天の香久山と同義だと解釈できる。そうすると、カグは土を爬き採る意味になる。「爬く土」、「掻く土」の意味になる。あるいは、土の中に金属を含むと云うなら「輝く土」となる。あるいは、カグツチがハニヤマ姫を娶って、桑や蚕や五穀の神のワクムスヒを生んだと云うなら「耕す土」、「攪拌する土」となる。いずれにしてもダイレクトに「火の神」にはならない。

 つまり、カグツチは、日本書記の「神代・上」の第五段一書(二)の中で、イザナミが(最後に生んだところの)埴山姫(ハニヤマ・ヒメ)と結婚して、(蚕や桑や五穀を生んだ神であるところの)稚産霊(ワク・ムスヒ)を生んでいる。火の神と粘土の神から、蚕や桑や五穀が生まれるというのはシックリしないので、カグツチは「土の神霊」だと考えられる。また、「カク」を、「天の香久山」の「カク」と同じ意味だと解釈すると、「カク」は「掻き出す」と云う意味になる。神武東征譚に天香山から粘土を取ってきた話がある。「崇神天皇」の話では武埴安彦の妻の吾田姫が倭香山の粘土を取ってきて呪文をかけた話もある。香山(カクヤマ)の語源は、掻き取る山、「掻く山」であり、転じて「香山」になったと思われる。以上のことから、カグツチはカクツチであり、自然の状態の土ではなく人の手で掻き取られたり耕された土の神霊であるところの「掻く土」ということになる。そして、イザナミが死ぬ直前に生んだ金山彦(鉱山の神)と重なって話が複雑になる。カグツチは、精錬された金属製品になる子供を生んでいる。その過程で、火を使って精錬するから、そこから転じて「火の神」になったのではないかと考えられる。カグツチの存在意義は、金属文明への第一歩を踏み出すという意味。イザナギが、カグツチを斬ったときに様々な神が生まれたが、金属の精錬で生まれた神がある。

 イザナギの剣の刃先からは、イワサク、ネサク、イワツツノオが生まれたが、これは、岩を裂く「石ノミ」であり、草木の根を割く「鍬」であり、岩を打ち砕く「ハンマー」ではないかと想像できる。また、イザナギの剣の手元からは、ミカハヤヒ、ヒハヤヒ、タケフツが生まれたが、これは、料理の包丁のことや、火箸のことや、刀剣のことかも知れない。あるいは「踏鞴(タタラ)」つまり溶鉱や精錬の「火」に関係があるのかも知れない。イザナギの剣の指の間からは、クラオカミ、クラミツハが生まれたが、これは水に関係する神と思われる。鉄の焼入れとか研磨に使う水とか、金山の土の洗鉱を意味するのではないかと想像できる。

 福岡県の博多の山奥からは磁鉄鉱が採れる。出雲からも磁鉄鉱が採れる。「因幡の八上姫」の山奥からも磁鉄鉱が採れる。「越のヌナカワヒメ」の富山の山奥からも磁鉄鉱が採れる。奈良県からはチタン鉄鉱が採れる。磁鉄鉱とチタン鉄鉱の違いは、磁鉄鉱は比較的低温で溶けるので「野だたら」で生産できるが、チタン鉄鉱は高温でないと溶けないので「ふいご」が発明されるまでは見向きもされなかった。

 出雲の砂鉄の採取では膨大な水を使って洗い流すから川が濁る。徳川時代には、出雲の殿様が、砂鉄の採取業者と川下の百姓との紛争を仲介をしていた記録がある。つまり、弥生時代と縄文時代の決定的な違いは金属の使用ではないかと思われる。火の利用や石器は縄文時代からあったが、金属、たとえば青銅器は弥生時代の初めの頃からであり、鉄器はそれ以降だと思われる。イザナギは金属文明への扉を大きく開いた。  

 記紀神話は文明への警鐘を鳴らしている。イザナミは、火の神のカグツチを産んだことを原因として死出の旅路に発つことになった。イザナギは、愛する妻のイザナミ(美しき天然)を失い、茫然自失として、妻の亡骸(なきがら)に横たわって泣き明かした。日本の歴史は、長い縄文時代を経て、弥生時代に突入し、金属器の製造や米などの穀物の生産技術を手に入れて大きく発展した。日本人の人口は、縄文時代に何人いたかは全くの不明である。江戸時代の初期で2,000万人だろうと云われているが不明で、江戸末期から明治初期の人口が3,000万人程度と云うのが常識的な見解になっている。明治以降は人口統計があるから正確で、明治22年(1889年)の人口統計では男女合わせて3,947万3千人になっている。
 

【「建御名方と建御雷と蝦夷の相関性」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 19日付論考「記紀神話(その6の14)・建御名方と建御雷と蝦夷の相関性」参照。
 アマテラスが出雲を強奪した。国譲り神話では、アマテラスが、高天原にいなが、葦原の中つ国までも『欲しい』として強奪した様子が書かれている。元々の取り決めでは、イザナギが3神を生んだときに、『アマテラスは高天原を治めよ。ツクヨミは「夜の食国(オスクニ)」を治めよ。スサノオは海原を治めよ』との勅命を受けていた。スサノオは、子供の大国主に、葦原の中つ国を「生前贈与」して、自らは「根の堅州国」の責任者に赴任した。これらは全て遵法行為であり適法行為です。アマテラスが、国譲り神話で出雲を領有する権利はない。一方的な侵略行為であり、不法行為です。建御雷は、一方的に、『出雲を受け取りに来た。お前たちは荷物をまとめて出て行け』と通告した。この理不尽な要求に大国主と事代主は従ったが、建御名方(タケ・ミナカタ)は、『信義則に反するから、受忍義務は無い』として抵抗したが、敗れて信州に敗走した。

 ところで、建御雷は、イザナギがカグツチを斬った刀から生まれた神で、「武・御・か・津・霊(ち)」と置き換えると、「武勇に優れた、尊い「か」の霊」と解釈できる。建御名方は、「武・御名・方」と置き換えると、「武勇に優れた、尊いお名前の方」となる。

 日本書記の気になる記述が次のくだりである。
日本書記の「神代・下」の第9段の一書2-2の中で、「於是、大己貴神報曰『天神勅教、慇懃如此。敢不從命乎。吾所治顯露事者、皇孫當治。吾將退治幽事』。乃薦岐神於二神曰『是當代我而奉從也。吾將自此避去』。卽躬披瑞之八坂瓊、而長隱者矣。故經津主神、以岐神爲鄕導、周流削平。有逆命者、卽加斬戮。歸順者、仍加褒美。是時、歸順之首渠者、大物主神及事代主神」とある。 「この時に、従った首渠者(集団の長)は大物主神と事代主神だ」とある。

 天津甕星をボコボコにした經津主と武甕槌が利根川の河口に鎮座している。利根川の流域が蝦夷の領地と大和王権との国境線になる。古代の利根川は上流には鬼怒川しか流れていなかった。群馬県から流れる今の利根川は昔は江戸湾に流れており、徳川家康が関東に入府してから川の瀬換えを行って今の利根川に付け替えたと云われている。

 タケミカヅチ(建御雷)は利根川河口の茨城県の鹿島神宮に鎮座し、フツヌシは千葉県の香取神宮に鎮座して、奥州の蝦夷に睨みを利かせることになった。なぜ、經津主と武甕槌が利根川の河口に鎮座するのか。この2神は、元々は軍人で剣や弓は軍人のシンボルである。記紀神話の中で、イザナミを死に追いやったカグツチを、イザナギが切ったときに剣から流れた血が經津主と武甕槌のルーツになっている。

 ある伝記ではタケミカヅチはワケミカヅチとあり、ワケとはワケ、つまり分家という扱いになる。神の名はいみな(幼名)からはじまり、世襲制で代々名前を受け継いでいった。アマテラスのイミナは「うひるき(ういるき):キ=男)」である。これはキククリの神(白山ヒメ)」が直接訊ねて、赤子である神の声を聞き切り、名付けられたとされている。男神であったアマテラスは初代であり、純粋に神としてその姿を顕現する際、そこに現すのは男神としての姿である。のちに女帝として推古天皇が即位された際、記紀が漢字の当て字の書き換えによって本来の言葉に別の意味が加味され改竄された。真実は記紀にはなく真実は政治的に隠されている。

【「アメノカカセオ(天香香背男)」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 12
日付論考「記紀神話(その6の13)・蝦夷と天香香背男」参照。
 アメノカカセオ(天香香背男)は蝦夷(エミシ)だった。日本書記の神代の下の第九段の一書には、「一書曰、天神、遣經津主神・武甕槌神、使平定葦原中國。時二神曰『天有惡神、名曰天津甕星、亦名天香香背男。請先誅此神、然後下撥葦原中國』。是時、齋主神、號齋之大人、此神今在于東國檝取之地也」とある。翻訳すると、「ある書に曰く、天つ神が、フツヌシとタケミカヅチの二柱の神を派遣して、葦原の中つ国を平定させようとした。この時に、この二柱の神が、『天の高天原に悪い神がいる。名をアマツミカホシ、またの名をアマノカカセオとも云う。先ずはこの神をボコボコにしてから、その後に降臨して葦原の中つ国をゲットしよう』。この時の、祝いの大人(ウシ)とも号する斎い(祝い)主の神は、今の東国の千葉県の香取神宮に居る(經津主の神のこと)」。つまり、天津甕星(天香香背男)は正当な理由もなくボコボコにされてしまったことが分かる。

【「日高見の国」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 12
日付論考「記紀神話(その6の13)・蝦夷と天香香背男」参照。
 日高見の国は、蝦夷の国だった。日高見の国については、秀真伝(ほつまつたえ)に「日高見の国」が登場しており、諸説あるが仙台地方だろうと推測される。大祓詞では「大倭日高見之国を安国と定めまつりて」とある。日本書紀では、「景行天皇廿七年・・・武内宿禰自東國還之奏言 東夷之中 有日高見國 其國人 男女並椎結文身」と記されている。この記述は蝦夷のことであり、「東の夷の中に日高見の國が有る」と書いてある。蝦夷はイレズミをしていたようである。常陸国風土記では、「信太郡の条」に、「此地本日高見国云々」とある。常陸国信太郡は現在の茨城県の霞ヶ浦に隣接する地域と云われている。以上の書証から、「日高見の国」の範囲は、利根川の北岸から仙台地方にまで広がる広大な地域と推定される。これらの広大な地域は古代には「化外の地(けがいのち)」と呼ばれていた。

 関東・東北は「蝦夷(エミシ)」の本場だった。記紀神話に、大和王権に最後まで抵抗したのが九州の熊襲(クマソ)と東北の蝦夷だったことが記されている。蝦夷と熊野神社には何らかの関連性があるのではなかろうか。


【「イザナギとイザナミの2神が生んだ神以外の神が登場」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 12
日付論考「記紀神話(その6の13)・蝦夷と天香香背男」参照。
 イザナギとイザナミの2神が生んだ神以外の神が登場する。たとえば、少彦名(スクナヒコナ)は、日本書記では高皇産霊尊が生んだことになっており、古事記では母神の神産巣日の子供になっている。菊理媛も出自が不明で、思兼神は高皇産霊尊の息子になっているからイザナギ・イザナミとは出自が異なる。

【「熊野神社」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 12
日付論考「記紀神話(その6の12)・イザナギ・イザナミの倭人と熊野神社」参照」。
 熊野神社は、紀伊半島の熊野大社とか、島根県の熊野大社が浮かんでくる。ところが全国の熊野神社の数で考えると関東・東北がダントツに多い。たとえば、福島県では2百社を超え、千葉県では2百社弱、岩手県でも1百五十社を超えている。反対に、熊野の本場の和歌山・三重の両県では2県を合わせて1百社くらいで、島根県では三十社くらいしかない。熊野神社は、全国に凡そ3,100社ほどあるが、東北6県で7百社余りで、うち福島・宮城・岩手で5百社余りを占めている。また、関東7県では6百社余りがある。つまり、関東・東北だけで1千4百社弱も有り、ダントツに多い。なぜ関東・東北に熊野神社が多いのか。諸説あるが不詳である。

 熊野神社はイザナミを祀っている。熊野神社で祀られる神様は、総数を5,236座と仮定した場合に、イザナミが1,458座でダントツの1位であり、2位がハヤタマ神で882座、3位がイザナギで849座となっている。関東・東北の蝦夷は、熊野神社のイザナミを祀った。蝦夷は、縄文人で、古い倭人であったと考えられる。蝦夷は山の民でもあり、イザナミを祀るのは当然と言えば当然である。


【「記紀神話」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 12
日付論考「記紀神話(その6の12)・「イザナギ・イザナミの倭人と熊野神社」」参照。
 国生みと神生みの物語は「造化三神」や「神代七代」から始まる。この部分は、言ってみれば「プロローグ」であり前口上であり、テレビドラマの初発の解説のようなものである。本番の第1幕目には、イザナギとイザナミが登場して、国生みと神生みによる「国家の黎明」が始まり、役目を終えると退場して幕が降りる。第2幕目には、スサノオが登場して、国土の開発を行い、アマテラスの筑紫とクシイナダヒメの出雲に、「国家の骨幹」を作った段階で退場して幕が降りる。第3幕目には、大国主とスクナヒコナが登場して、西日本に「地方分権都市国家連合体」を作って幕が降りる。第4幕目には、(コーヒー・タイムとして)「国譲り神話」譚になり、出雲が消されて、ニニギからの「日向三代」がクローズアップされて幕が降りる。第5幕目には、神武東征で、奈良県に「初期の大倭王権」を作った神武天皇が、ガッツポーズをして幕が降りる。第6幕目以降には、『書きたくない理由があるから、何も書かない』という「欠史八代」が続いて、その後の天皇による大和王権が確立され、大海人天皇による「大日本帝国の完成」によって、万感の思いを胸に幕が降りて「物語」のフィナーレとなる。

 記紀神話は、現界(つまり人間世界)の話と、霊界(ある意味において精神世界)の話がミックスされている。故に記紀神話は机上学では解けない。霊界と現界の相関性。霊界(高天原)の移写が現界になり、霊界の出来事が現界に反映される。ただ必ずしも相似形ではなく、変形したり、時間差が起きたり、時には、逆転したりすることもある。

  記紀神話を真面目に読み解こうとすると必ず壁にブチ当たってしまう。つまり、各段落ごとを他の段落と比較すると、矛盾や異論が出てきて、どうしても一致させることが出来なくなる。これは、記紀神話の構造自体に問題があるからである。つまり、記紀神話は、神界の話と、霊界の話と、現界の話がミックスされている。 

 記紀神話は、机上の平面図では読み解けない。『記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性』。平面的思考ではなく立体的思考、あるいは複立体的思考で、多角的・分裂的な思考構造。読み解く柔軟性・包容性に優れた思考が求められる。記紀神話の構造が、分裂的多重性や複立体性とか複々立体性に作られている。

 ギリシア神話では、人間と神とが親しく交流していた。神々と人間が親しく交流していた「黄金の時代」があった。次に、人間が神々に対して傲慢になった「白銀の時代」が続いた。3番目には、神々が天上に帰還してしまって、人間が絶対の「青銅の時代」を経てから、4番目には、人間の「鉄の時代」が今日まで継続している、と言われている。(ちなみに、今の「鉄の時代」で終わりであり、次の5番目の時代はないそうである。

 記紀神話は、桓武天皇の王朝が作り再編した。記紀神話は、大海人天皇の勅命で編纂されて、完成したのは、(686年に大海人天皇が御隠れになった後の)712年に古事記が完成し、720年に日本書記が完成しています。従って、記紀神話は、大海人天皇のファミリーに都合の良い内容になっている。ところが、673年から769年までの凡そ百年間にわたる大海人天皇ファミリーの天下が終わって、770年からは、天智天皇のファミリーに変った。(光仁天皇の即位)。振り返ってみると、672年に、天智天皇の子供の大友天皇(弘文天皇)と大海人天皇は、壬申の乱で皇位争奪戦を戦った過去がある。光仁天皇も然り、次の桓武天皇も、大海人天皇ファミリーの天下の中で天智天皇ファミリーという過去を背負っている。781年、桓武天皇が即位すると、『大海人天皇ファミリーを全面否定せよ、記紀神話も見直せ』と厳命したらしい。これは、歴代の天皇に申し送りされ、藤原政権にも命じたらしい。その後、日本書記に続く「完結偏」として、901年に、「三代実録」が完成して、いわゆる「六国史」が完成した。この過程で、大海人天皇ファミリーに都合の良い内容はバッサリと訂正されて、中立寄りか、もしくは天智天皇のファミリー寄りの内容に修正されたと云われている。 

 高天原には、天香山という山もあれば、「安の河」という川もあり、名前のない「名なし雉」もいる。人間世界と同じように人々(神々)の生活があり、喧嘩もあれば戦争もある。現界というのは、今の私たちの世界であり、歴史上の世界でもある。また「映し世」でもある。


【「豪族の伝承神話と記紀神話の編纂」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 12
日付論考「記紀神話(その6の12)・「イザナギ・イザナミの倭人と熊野神社」」参照。
 各豪族たちは、祖神が地上に降臨した伝承を持っている。天孫降臨はニニギだけではない。多くの神々が(霊魂として人間の肉体に憑依して)地上に降臨している。そして、豪族ごとに子孫に伝承された「神話」がある。その伝承の集大成・エッセンスが「記紀神話」にまとめられている。

 各々の神々が人間として地上に降臨したところの各豪族には、それぞれに先祖の神話が伝承されていた。後に、日本が中国の唐から律令制や唐文化を導入するなかで、日本も唐に倣(なら)って国家としての統一された一冊の歴史書を作ろうとした時に、天皇家を中心とした歴史書が国家事業として編集されることになった。それが記紀神話である。豪族たちに伝わる先祖の伝承を、稗田阿礼を中心に編集し直して古事記にまとめ、国の歴史書としては、舎人親王を中心に日本書記を編集し、それらを総編集長の太安万侶が加除添削を行い、その最終決裁者として藤原不比等が監督していたのではないかと推理できる。中臣氏(藤原氏)は、中央政界に君臨した最も古い豪族の物部氏に近く、しかも祭祀を取り仕切る家系だったので故事に明るく、また、藤原不比等は当時の中央政界の実力者でもあったから豪族間の調整役も出来たので、総責任者として記紀の編纂にあたった。藤原不比等(659年-720年)の娘の宮子は文武天皇の夫人で、孫が聖武天皇。不比等の別の娘は光明子で聖武天皇の皇后。4人の男の子は「藤原四家」。古事記の編纂は712年、日本書記の編纂は720年。


【「記紀神話の改ざん問題」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 12
日付論考「記紀神話(その6の12)・イザナギ・イザナミの倭人と熊野神社」参照。
 記紀神話は、紙や墨の風化、劣化やカビ、虫の浸食による耐用年数の問題もあり、その時々の政権によって何回も書き写されている。古事記の現存する最古のものは1371年1372年の足利義満時代に書写された「真福寺本古事記」といわれる。藤原時平が、醍醐天皇時代の延喜元年(901年)、日本書記から始まる「いわゆる六国史」の完結編である「日本三代実録」を撰上している。それまでの六国史の編集にあたって、その時々に記紀神話を見直していると考えるのが当然だと思われる。改ざんの根拠としては、古事記の「序文」は平安時代に付け加えたというのが学者間の「通説」。古事記、日本書記、風土記、先代旧事本紀、古い神社の伝承などが相互に食い違いがあり異なっている。古い氏族の系図と食い違いがある。日本書紀は官製の記録書であるので時の政権に都合の良いように改ざんしたことは言うまでもない。現存する様々な古文書でも、朱を用いた加除添削を目にする。次に書写するときには書き換えてしまうのが当然である。

【「太伯の後か、夏后少康の後かの違い」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 12
日付論考「記紀神話(その6の11)・邪馬台国と大宰府の考察」参照。
 太伯の後か、夏后少康の後かの違いについて。

 魏略では、邪馬台国を『太伯の後』とあり、これに従うと呉の子孫の意味になる。魏志(三国志)では『大夫で夏后少康の後』とあり、これに従うと越の子孫になる。両者で食い違っている。伊都国の戸数も異なる。魏略では、伊都国の戸数について『戸は万余』とあるが、魏志(三国志)では『千余戸』になっている。魏略では、伊都国に到着したところで地理の記述が終わっている。魏志(三国志)では、伊都国の後も奴国に続いて、南の邪馬台国まで地理の記述が続いている。邪馬台国の首都は倭国の一番の核心なのに魏略が省略しているのは解せない。魏志(三国志)の中で、『対馬国には千余戸ある』、『一支国には三千ほどの家がある』、『邪馬台国には七万余戸ある』と記されている。

 この当時の一戸を何人とカウントすべきか。仮に10人で計算すると、対馬に1万人、壱岐に3万人、邪馬台国で70万人になる。魏略には『倭の南に侏儒国がある。人の丈は三、四尺』。つまり小人(こびと)の国があると書かれている。魏志(三国志)では侏儒国のほかにも、裸国や黒歯国の記述がある。日本周辺には該当する国は見当たらない。「倭人伝」は参考に出来ても全面的な信用はできない。

 倭人の国(日本)については、紀元後57年には、後漢の光武帝から倭の奴国王が印綬を受けた記録があるから、早くから日本のことを中国人が知っていたことは事実だと思う。だからと言って中国人の記録が正しいとは限らない。間違いもあるし、悪意ある虚偽もあると考えられる。こう疑って掛かるべきだと思う。


【「邪馬台国と大宰府について」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年 2 月 12
日付論考「記紀神話(その6の11)・邪馬台国と大宰府の考察」参照。
 博多の町は当時にはなかった。博多の町どころか博多平野自体がなかった。現在の博多平野を流れる御笠川とか那珂川などの何本かの川があり、川と川との間に段丘があっただけである。その段丘部分に須玖岡本遺跡だとか三雲南小路遺跡だとか板付遺跡だとかが散在している。海岸線は今よりも遥かに後退しており大半の平野が存在しなかった。大宰府市方面から流れる御笠川は大きく後退していたから、船で比較的上流部まで行けた。現在の海岸線からは十数キロも内陸部に入り込んだところの大宰府も、古代には今の平野がなかったので比較的海岸部に近く、しかも御笠川を船で遡れば不便さを感じない距離にあった。戦国時代に入るまで、筑前国の中心地として国府や九州方面司令部としての大宰府があったことには合理的があったと考えられる。太宰府市には大宰府の他にも筑前国府や国分寺も置かれている。

 博多の町が大宰府に取って代わったのは戦国時代からである。平安末期に平清盛が日宋貿易の拠点にするために博多港を築港したが小規模だった。大きく整備されたのは徳川初期に黒田長政が福岡に入城して以降のことで、その後、大規模な開墾が行われた。古代の博多の平野部にあったのは、海人族の本拠地であるところの福岡市博多区の住吉神社とか、東区の志賀海神社とかであり、その辺りまで海岸線が広がっていた。

【「卑弥呼とアマテラスの相違点」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年1 月22日付論考「記紀神話(その6の10)・卑弥呼とアマテラスの相違点」参照。
 アマテラスと卑弥呼は別物である。アマテラスは神霊格に対する名称であって人間ではない。アマテラスは、古事記ではイザナギが禊を行った際に海の中から生まれている。日本書記では、イザナギが禊の際に単独で生んだ説と、イザナギとイザナミの両者が神生みの際に生んだ2説がある。反対に、卑弥呼は人間であって神霊ではない。卑弥呼は、「倭人伝」に登場する女王であり人間である。大国主も事代主も人間である。

 卑弥呼には子供がなかったが、アマテラスには「八柱の御子神」がいた。倭人伝の記録では、卑弥呼には子供がおらず、死後には、男王が立ったが国が乱れたので、「宗女」のトヨが立って女王になったとある。つまり、卑弥呼が、247年か248年に隠れたが、「戦時体制」ということで男王が立った。ところが、ブーイングの嵐で、結局は、宗女(本家筋の娘のことで姪と考えられるところの)トヨが女王になって、衆目の了解を得たと解釈できる。

【「卑弥呼の弟」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年1 月22日付論考「記紀神話(その6の10)・卑弥呼とアマテラスの相違点」参照。
 卑弥呼には弟がいたし、アマテラスにも月夜見という弟がいた。古代は女系相続であり、娘が家を引き継ぎ、家の祭祀も執り行った。男は軍事面や政治面を受け持った。

【「宗像三女神」と三穂津姫の相関性」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年1 月22日付論考「記紀神話(その6の10)・卑弥呼とアマテラスの相違点」参照。
 三穂津姫は、出雲の美保に坐す神で、大国主の妃であり事代主の母神である先代旧事本紀では、大己貴神が、(宗像三女神の)辺津宮の多岐津姫(別名に高津姫、神屋楯姫)を娶り、事代主と高照姫を生んだとあり、神屋楯姫が事代主の母親というのが通説である。別の表現では、「神の矢(男根)が(ホトに)立った姫」という言い方もできるかも知れない。日本書記の神代(下)の第9段の一書には、高皇産霊尊の娘の三穂津姫を大物主に与えたとある。すると、高皇産霊尊の娘で宗像三女神の多岐津姫は三穂津姫、神屋楯姫という別名を持ち、大物主の別名を持つ大国主と結婚して事代主と高照姫を生んだことになる。高照姫は、「アシスキ・高彦・ネ」の妹という設定がポピュラーだが、「アシスキ・高彦・ネ」は「アメノ・若彦」との二役という設定のようです)。また、「宗像三女神」は誰の子か。高皇産霊尊の娘ということになりそうである。

【「邪馬台国」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年1 月22日付論考「記紀神話(その6の9)・邪馬台国の滅亡」参照。
 邪馬台国は多くの謎に包まれており歴史の闇に埋もれている。「倭人伝」の記録があるのみである。「三国志」では、トヨが魏に260年ごろかに遣使しており、「晋書」では、「泰始2年(266年)に倭人が朝貢に来た」との記録が残されている。しかしながら、それ以降の中国の記録では、日本については「倭の五王」以降しか残されていない。魏は、265年に家来の司馬氏(諸葛孔明と戦った司馬仲達の子孫)に皇帝の座を強奪された。晋は、脅迫的な「禅譲」によって建国したものの、内戦・内乱で300年頃から国が乱れて316年に滅亡した。そして、晋の乱れに乗じて、中国の北方の騎馬民族が平原に侵入し、いわゆる「五胡十六国」の大動乱の時代が、581年の隋の統一までの凡そ3百年くらいまで続いた。このような大動乱の中であったことによつてか史書が著されていない。「倭の五王」の記録を残した「晋書」にしても、あるいは「宋書」にしても、動乱当時の「史書」を残したのではなく、その王朝が自分に都合のよい「創作物語」を残したに過ぎない。

 「宋史日本伝」という中国の歴史書がある。これは、唐の滅亡後に、戦乱で失われた歴史書を求めて、平安時代の953年に中国人が日本に来て聞き取りした。その結果に作られたのが「宋史日本伝」とか「新唐書の日本伝」である。これにより親日的内容になっている。これは歴史学者間の「常識」である。邪馬台国について記紀神話には何の記述もない。これは敢えて記さなかったのではないかと思われる。書かなかったのは国体の血統が違うからではなかったのかと思われる。

 誰が、邪馬台国を滅ぼしたか。イザナギ・イザナミの日本の国作りや神生みの後に、幕が変わってアマテラスの高天原が登場し、スサノオの乱入で始まる。第1次アマテラスの「岩戸隠れ」の後で、第2次アマテラスが復活して、スサノオが追放されて出雲に降りる。出雲に降ったスサノオはスセリ姫を生んで、大国主が婿養子に入って西日本の大王になる。大国主の晩年に、アマテラスによる出雲の「国譲り神話」が行われ、どう云う訳かニニギが全く無関係な鹿児島県に天孫降臨して幕が降りる。スサノオの降臨の場所は、古事記では出雲に、日本書記では朝鮮の新羅の説や出雲の説や広島県の山奥の説などがある。仮に神武東征を290-300年頃、崇神・垂仁を340-360年頃、仲哀・神功・応神を380-400年頃、応神・仁徳を400-420年頃と推測できる。「欠史八代」は1・2・3代は直系相続で、それ以降の九代までは3ブロックの兄弟相続で短命だったと思われる。


【「邪馬台国の人種について」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年1 月22日付論考「記紀神話(その6の9)・邪馬台国の滅亡」参照。
 「倭人伝」の記述の中で、「魏略」では、『呉の太伯の後裔、昔、夏后少康の子』と書かれている。ところが、「三国志(魏志)」では、『自ら大夫と称す、夏后少康の子』とある。これにより、呉系倭人の説と越系倭人の2説に分かれる。夏后少康というのは、黄帝を親として、その子の兄の子孫が周や呉になり、弟の子孫が夏后少康になり越になる。元々は、黄帝の子孫ということで、同族といえば同族ですが、なにぶんにも古い神話上の話である。

 「呉王の後裔」について、魏略には、邪馬台国の卑弥呼は『太伯の後』なので呉系倭人の説があり、また別に、『昔、夏后少康の子』とも書かれるので「越系倭人」かも知れません。三国志では、邪馬台国の卑弥呼は『自ら大夫と称す』、『夏后少康の子』と有るので「越系倭人」の説になる。また、平安時代の日本書記の講書に『この国が姫氏国と呼ばれるのはなぜか』の問いに『周呉の王姓は姫で、日本は姫氏の国と中国は認識している』の記録が有るらしいので、これによれば、日本人は呉王の後裔になりそうです(真偽不明、要確認)。

 平安時代の日本書記の講書に、『この国が姫氏国と呼ばれるのはなぜか』の問いに、『周呉の王姓は姫で、日本は姫氏の国と中国は認識している』との記録がある。これによれば、日本人は呉王の後裔になる。邪馬台国が越系倭人であったならば、国体とは全く関係のない他人ということになる。それどころか、越系倭人というのは、紀元前473年に、越王のコウセンが、呉王のフサを滅ぼしている。言ってみれば、親の仇である。

【「呉越戦争」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年1 月22日付論考「記紀神話(その6の9)・邪馬台国の滅亡」参照。
 「呉越戦争」の話を要約すると、呉王フサの父の呉王コウリョが楚を攻めた留守中に越王コウセンが呉に攻め込んだ。急遽、呉王コウリョが越王コウセンに対応したが重傷を負い、それが原因で後に死去した。呉王コウリョが、死の間際に、子供の呉王フサに対して越王コウセンに復讐することを誓約させた。呉王フサが「臥薪嘗胆」で満願成就して越王コウセンを攻めて勝利した。越王コウセンは土下座をして「命乞い」をして服従誓約をした。このとき、呉王フサは、『越王コウセンを殺してしまえ』という家臣の進言を無視して哀れんで助けた。後に、越王コウセンが(呉王フサと同じように)「臥薪嘗胆」で実力を蓄えて、呉王フサを攻めて呉王フサに勝利した。越王コウセンは、『呉王フサを殺してしまえ』という家臣の進言を無視して、哀れんで一命を助けて流刑を申し出た。呉王フサは流刑の申し出を断って自害し呉王朝が滅亡した。 これにより、呉から見た越というのは、『親の仇(かたき)』であり、『不倶戴天の敵』である。

 呉王の子孫の松野連氏。
日本には、呉王の子孫と言われる「松野氏」の記録がある。系図も国立国会図書館に残されている。その系図などでは、周の始祖王の季歴の兄の「呉の太伯」から始まり、呉王夫差を経て、孝昭天皇朝の(BC473年)に渡来して、火の国の山門(熊本県菊池郡)に住み、694年に持統天皇朝から「松野の連」を賜姓したとの記録がある。

【「魏志倭人伝」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年1 月8日付論考「記紀神話(その6の8)・「北九州の邪馬台国」参照。
 「倭人伝」は信用ならない。「倭人伝」の原本は残っていない。何回も何回も書き写されたものが残っているだけである。誤字脱字や加除添削が行われている可能性がある。しかも、「中華思想」の影響から、卑語・蔑称の漢字が盛り沢山であり、内容は悪意に満ちたものもある。但し、「倭人伝」は比較的に早く日本にも伝わり、720年に成立した日本書記にも引用されている。

 張政(チョウセイ)は女王国以外には行っていない。張政は、(魏の朝鮮領であるところの)帯方郡の太守(県知事クラス)の部下の国境警備隊の隊長クラスである。日本の偵察の任務も兼ねていたと思われる。

 張政は、正始八年(247年)に、邪馬台国が狗奴国と武力衝突した際に、魏の命令で朝鮮の帯方郡から派遣された。ここで、当時の中国情勢を分析すると、中国は「魏呉蜀の三国志」の戦争中であり、魏の強力なライバルが呉だった。魏は、揚子江の北側を領有したが、軍事戦略上、北側の満州方面から襲われることを警戒した。そして、魏は、(後漢の地方長官の「太守」で、後漢の後に満州方面を支配したところの)公孫氏と同盟して北方の脅威を取り除いた。ところが、呉の方は、魏を南北からの「挟み撃ち」にしようと画策して公孫氏と同盟した説があり、事実、228年に公孫氏が魏に反旗を翻して、238年に魏の司馬仲達によって公孫氏が滅ぼされた。魏は、満州方面の動向を極度に警戒した。そこで、邪馬台国からの救援要請を受けて、張政の現地視察ということになった。

 
「邪馬台国」という表記は卑語・蔑称である。「邪」の字には邪悪な、よこしまな、捻じ曲がるという意味がある。「馬」の字には家畜のような、従属するような、人間に満たないというような意味がある。「台」の字には下僕、高殿という意味が含まれている。直訳すると、「人間以下の、馬のような、下僕に等しい国」という見方ができる。「卑弥呼」(俾彌呼)も卑語・蔑称である。「卑」は卑しいという意味である。「俾」には僕(しもべ)、訪ねる、使役するなどの意味がある。「弥(彌)」には遠い、過ぎる、経るなどの意味がある。「呼」には叫ぶ、ため息を吐く、名付けるなどの意味がある。直訳すると、「卑しく、遠くに居る、僕(しもべ)のような」女王という見方ができる。女王国の呼び方について、邪馬台国だとか、邪馬壱国だとかの論争がある。古代日本人の発音は「やまと言葉」であり、「呉語」であり、「訓読み」であって、漢音での発音ではなかった。とすれば、「邪馬台国」の「邪馬」は、「ヤマ」であり「山」の意味だと思われる。これは「訓読み」の発音である。「台」は「タイ・ダイ」にしても漢読み・漢音です。訓読みでは「ウテナ・シモベ・タカドノ」などと発音する。「邪馬壱国」も同じように、「壱」(イチ)は漢音であり、訓読みは「ヒト(ツ)」。故に、「邪馬台国」という卑語・蔑称の本来の発音は「ヤマタ(ノクニ)」かも知れない。これによると、山と山の間に広がった平野とか、「山・田」とか「山・谷」とか「山・高殿」が連想される。「邪馬壱国」と発音するなら、本来は「ヤマイツ(クニ)」だと思う。つまり、山に「坐(イマス)」の意味ではないかと思われる。自分の国の国名を、卑語・蔑称の意味でもって名付ける民族は、世界中どこにも居ない。邪馬台国については「ヤマト」の説がある。これなら山門とか山都とか山戸の字がふさわしい。張政は、帰国した後に、「西戎・北狄・南蛮・東夷」という「中華思想」の慣例法に従って、卑語・蔑称の漢字を並べ立てた報告書を提出し、それが後世の「倭人伝」にまとめられたものと思われる。


【「アマテラスの使命」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年1 月8日付論考「記紀神話(その6の7)「イザナミの岩戸隠れ」参照。
 アマテラスの使命と多重性について。アマテラスは高天原(霊界)の主宰神にしてトップスター位置づけになっている。本当は、高天原は、高皇産霊神が総監督で、イザナギが助監督だと思われる。アマテラスには2説あって、1つはイザナギが一人で生んだアマテラスであり、高天原にいるアマテラス。もう1つはイザナギ・イザナミの2神が生んだアマテラスであって、太陽として光り輝くアマテラス。この2説のアマテラスが同一なのか別人なのかは不詳である。ただ、スサノオの高天原への乱入で、アマテラスが岩戸に隠れると、高天原と葦原中国の両方が真っ暗になっている。多重性について。たとえば、邪馬台国の卑弥呼だとか、ヤマト・トト・ヒ・モモソ姫だとか、神功皇后だとかの諸説もあるが、重要な局面での女性には、アマテラスの神霊が宿っていた。

 アマテラスは、「国譲り神話」で出雲を制圧したが、その後の何らかの大変動により、孫のニニギは南九州に天孫降臨した。天孫降臨が霧島だとか高千穂だとか言われ、神武天皇にいたるまで鹿児島・宮崎方面にいたことは歴史的な事実。ニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアエズを「九州三代」と言う。オシホミミの墓所は、遠賀川上流の福岡県田川郡香春町(かわらちょう)の香春(かわら)神社の「忍骨命」というのが定説。

【「スサノオ」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年1 月8日付論考「記紀神話(その6の7)「イザナミの岩戸隠れ」参照。
 スサノオの使命と、多重性について。

 スサノオは、地上世界の主宰神で、地上で人間活動をする人間の「種」を作り終えるまでが使命。つまり、(現界で人間活動をするところの)大国主とか大歳とかの祖神(オヤガミ)を作り終えると、その使命を果たして「根の堅し国」へ転勤した。根の堅し国は、たとえると現界の控え室とか管理室のようなもので、「黄泉の国」とは異なる。また、地上世界の総監督は神産霊神ですが、イザナミやスサノオが助監督の位置づけだと思われる。ちなみに、大国主の窮地のときには神産霊神が救済のために登場している。スサノオが『母に会いたい、母の国に生きたい』と言った背景には出雲(越系倭人)が隠されていると思われる。

 スサノオは、葦原の中つ国(つまり現界)の主役であり、奈良方面で子孫を繁栄させるために選んだのが大山津見神の娘の神大市姫と言うことになる。この頃の奈良方面には、先住民族であった蝦夷と呼ばれる山の民や倭人系の土着人が住んでおり、後に半島から渡来したスサノオの一族が入植して、互いに住み分けしながら、徐々に混血して、奈良方面に子孫を増やしていった。スサノオと神大市姫の間に生まれたのが大歳。スサノオは半島からの渡来人だと思われる。半島南岸東部の金海とか釜山方面が根拠地だったと思う。大歳は古代の「大和湖」の湖岸周辺を開墾して、稲作を主体にして繁栄し、山の民との住み分け・共存共栄を図ったものと思う。

 卑弥呼の養女のトヨが266年(の説)に晋に朝貢したり、卑弥呼が250年ごろに存在した歴史的事実は消すことができない。大国主(アメノホヒ)が宗像三女神を娶り北九州を支配したことも通説。邪馬台国は、半島から北九州までの制海権を掌握していた。スサノオは、大和民族(霊的に天御中主神や国常立神の直系の子孫)の防衛と繁栄を図るために大国主に日本の統一を行わせた。

 歴史上、奈良の王朝と九州の王朝と2つの王朝が同時並列的にあった可能性がある。但し、最終的には奈良に、あるいは京都に一本化された。これは軍事的視点とか国土経営上の視点で見ると当然のことだと思われる。

 スサノオが出雲で退治した「ヤマタノオロチ」は、実は治水事業のことであって、出雲を流れる斐伊川のことであり、多くの支流があって、古代にはよく氾濫したから、たとえ話として「オロチ退治」の話があるのだ、との説がある。


【「スサノオとアマテラスの関係」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2018 年1 月8日付論考「記紀神話(その6の7)イザナミの岩戸隠れ」参照。
 スサノオとアマテラスは、記紀神話では、イザナギが単独で生んだ説と、イザナギ・イザナミの2神の共同で生んだ説があるが不詳である。

【「加茂氏と賀茂氏」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月25日付論考「記紀神話(その6の6)大歳の一族の転落の旅路」参照。
 加茂氏と賀茂氏がある理由加茂氏は古い氏族の大歳の一族であり、賀茂氏は新しい氏族の一族だと思われる。加茂、賀茂は元々は地名であり、「カモ」の土地にいたから「加茂にいる氏族」という意味だと思われる。加茂の地名の語源には、鴨がいたからの説、神野・萱野・蒲野などの縮まった説、あるいは清浄な川が流れ集まった地域のことや、「川盛り」が縮まった説で川の間の盛り上がった土地などの多数が考えられるが不詳である。京都市のカモの場合には、賀茂川と高野川が合流して鴨川になるが、その合流した間の盛り上がった部分にカモの神社があるので、「川盛り」が「カモ」に縮まったのかも知れない。鞍馬や貴船の神霊の宿った清浄な川を指しているのかも知れない。不詳である。

 「神武東征」で加茂氏と賀茂氏の兄弟が東西に別れて戦った。加茂氏と賀茂氏について、加茂氏(賀茂氏)には葛城の賀茂氏と山城の賀茂氏の2系統が知られているが、葛城のほうは大三輪神(大物主神)の系統で、山城のほうは「ヤタガラス」の系統だと云われている。

 記紀神話の中で、ヤタガラス(賀茂建角身)が高天原から遣わされたとあるが、ヤタガラスが「神武東征」で活躍したのは吉野であり、加茂氏の本拠地があったと推定される鴨都波(カモツワ)神社(御所市)や、高鴨(タカガモ)神社(御所市)に隣接している。したがって加茂氏と賀茂氏の兄弟が敵味方に別れて戦った可能性がある。

 大国主の以前に、龍神信仰を持つ種族がいた。

 京都市に賀茂別雷神社(上賀茂神社・祭神は賀茂別雷命))と賀茂御祖神社(下鴨神社・祭神は賀茂建角身命)があるが、その上流には貴布禰(貴船)神社があり、祭神はタカオカミ・ミズハノメ・クラオカミなどで、大和の丹生川上神社と同じ祭神といわれ、龍神信仰があったのではなかろうかと言われ、賀茂の神よりも古い神が祭られているようである。

 神の矢の話。貴船神社に関して、山城国風土記の逸文「賀茂社」の分に、『賀茂建角身(カモタケツノミ)の娘の玉依姫が、石川(賀茂川のことで川上は貴船)で川遊びをしていたら、川上から矢が流れてきて、持って帰って寝床に置いていたら男の子(賀茂別雷の命)を妊娠して出産した』様なことが書かれている。ちなみに、「神の矢」については、大物主と「大物主神の矢(背矢(夫の矢))がホトに立たら姫」の物語や、事代主の父が大国主で母が神屋楯姫(神の矢が立てられた姫のことで、記紀参照)もある。


【「大山津見神と山祇神、大綿津見と少童命(ワタツミ)とか筒男(ツツノオ)の違い」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月25日付論考「記紀神話(その6の6)大歳の一族の転落の旅路」参照。
 大山津見神と山祇神、大綿津見と少童命(ワタツミ)とか筒男(ツツノオ)の違いについて

 2神が生んだ大山津見と、イザナギが単独で生んだ山祇神は同じだとの説があるが違うと思う。2神が生んだ大山津見は自然としての山の神であり、イザナギが単独で生んだ大山祇神は人間活動をする「神人」である。2神が生んだ大綿津見は純然たる自然な海の神であるが、イザナギが単独で生んだ少童命(ワタツミ)とか筒男(ツツノオ)は安曇氏の祖神になったり、塩土老翁(シオツチ・ノ・オジ)になったり、隼人族の祖神になったりしている。(話を戻すと)、大山津見神が純然たる山の自然神だから、そこから生まれた神大市姫も土地の精霊のような位置づけだと思われる。


【「兄弟結婚の話」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月18日付論考「記紀神話「奈良を舞台にした兄弟対決」参照。
 記紀神話の大国主の段では、少彦名(スクナ・ヒコナ)の父の高皇産霊尊には1千5百人の子供があった。

【「一夜の夜伽(よとぎ)の話」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月18日付論考「記紀神話(その6の5)「奈良を舞台にした兄弟対決」参照。
 古代には「一夜の夜伽(よとぎ)」が慣習にある。たとえば、(源家の棟梁であった)源頼朝が遊楽すると、泊まった家の主が娘や妻を一夜の接待に枕を共にした話も有るそうです。また、平安貴族が荘園や領地に遊びに来ると、村長や管理者が夜伽の娘を差し出して一夜の接待をするのは常識でした。さらに、高貴な身分の「ご落胤」を産んだら、場合によっては女の一族の栄達にも繋がり、女自身も「玉の輿」に乗れるわけですから、『お種を頂戴します』と言って喜んで布団の中に入ったケースも有った。史上有名な話として、徳川三代将軍の徳川家光の側室になって五代将軍の徳川綱吉を産んだ「お玉(桂昌院)」の実家の本庄家は、一族郎党が破格の出世をしている。(官を求めて「知らない親戚」までが本庄家に押し寄せて来たそうです)。体を提供させられた女は可哀そうだという考え方もできるが、「女の腹は借り物」という考え方もあれば、「男の種は借り物」という考え方も古代には有ったのではないかと思います。

【「比叡山周辺の勝組と負組の話」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月18日付論考「記紀神話(その6の5)奈良を舞台にした兄弟対決」参照。
 比叡山周辺の勝組と負組の話。

 京都の東の比叡山は、昔は日枝山と呼び日吉(ヒエ)山とも呼んで、全国の日枝神社・日吉神社の総本山であるが、祭神は大山咋神(オオヤマ・クヒ・別名は山末之大主神(ヤマスエノ・オオヌシ)で、この神の父は大歳(大年)で、祖父はスサノオで祖母は神大市姫の説がある。神大市姫は、(先住倭人の総称であるところの)大山祇(大山津霊・オオヤマ・ツ・ミ)の娘であり、別名の説には、神オオツチ姫とか神オロチ姫とかの説もあり、オロチ(大蛇)と解釈すると、龍神信仰があったとされる大和の丹生川上神社や貴布禰(貴船)神社が関連するかも知れないが、大歳(大年)の子にオオツチ(大津霊・ツチノミオヤ・土之御祖)があるので、神大市姫は「神オオツチ姫(神大津霊姫)」と解するのが順当である真偽不明。これとは別に、大巳貴神が大比叡と呼ばれ大山咋神が小比叡と呼ばれた説もある。大山咋神はスサノオの子の大歳の子で、賀茂氏はスサノオの子の大国主の子の事代主の子孫と言われている。

 近畿地方のある広域的地域では、大歳神社(大年神社)・加茂神社・貴船神社が散在して広域的地域の主体となっているが、上下の賀茂神社の系統は目に入らない。故に、加茂氏と賀茂氏は出自が異なる。初めに大年(大歳)の加茂系統が奈良に居て大山祇系の倭人と共存していたのを、後に賀茂の系統が奈良を侵奪して、大山祇系と大年(大歳)系を周辺に押しやったのではないのかと考えられよう。

 「神武東征」では、この他にも、エウカシとオトウカシの兄弟が敵味方に別れて戦い、神武に味方した弟のオトウカシが宇陀の領地を安堵されている。また、エシキとオトシキの兄弟も別れて戦い、勝ったオトシキが後の磯城氏(師木氏)として歴代天皇の皇后を輩出して隆盛したとも言われる。

 奈良・京都では、スサノオの子の大歳の系統や、同じスサノオの子の大国主の系統の事代主・アシスキタカヒコネや、ニギハヤヒの系統の説話が入り乱れている。


【「天孫族と出雲族の相続人争い」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月11日付
論考「記紀神話(その6の4)天孫族と出雲族の相続人争い」参照。
 「天孫族と出雲族の相続人争い」。天孫族の父親は誰かという問題。天孫族は一般にその直接の祖神をアマテラスとしている。が、天孫族の代表である神武天皇の祖神にあたるところの天孫降臨したニニギの父親がオシホミミになる。そこで、『オシホミミの母親はアマテラスだとして父親は誰か』と尋ねると不詳である。アマテラスとスサノオが誓約(うけい)をして「八柱の御子神」を産んだことが書かれているが、出雲族にもスサノオが登場している。

 古代は母系相続だった。

 平安時代までの古代は母系相続であり、親の財産は娘が相続した。これは、古代の男女差を考えると合理的だった。つまり、男は外で働き、軍人になったり、役人になって収入を得る。ところが、女は外で働くことができず、他家の嫁・妾(めかけ)になるか、下働きの下女で住み込みになるか、遊女(売春婦)に売られるかなどの境遇しか与えられなかった。ですから、親の財産(古代は米本位制であり、田畑と薪に利用する里山が財産の主体)は、1人か数人の娘に分配し、残りの娘は外に出るか、家に残って、部屋住みの「飼い殺し」で生涯の独身で一生を終わった。対する男は、有能な者は高級軍人になったり、高級官僚になったりして権力を手に入れ、それでもって各々の家の娘を妻・愛人に持った。女のほうも、権力を持つ男の妻や愛人になることで、その保護下に入り、家を守ることができたから「ギブ・&・テイク」の関係で合理的であった。二人の間に生まれた子供は、基本的に女の家で育てられたが、父親にとっては自分の子供を守るためにも女の家を特別扱いをして保護した。力のない男は、下級の軍人や下級の官吏になったり、有力豪族の使用人になったりしが、家の外に出なかった男の子は家を守るために田畑を管理したり、家のガードマンや執事をしたりして、部屋住みの「飼い殺し」の独身で一生を終った。ただし、天智天皇や大海人天皇による中央集権化で朝廷政治が確立されるまでは、有力豪族による合議制であったから、「役人」という概念はなく軍人は豪族に所属する使用人の地位にあったと思われる。


【「女酋長」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月11日付
論考「記紀神話(その6の4)「天孫族と出雲族の相続人争い」参照。
 女酋長の記録。 記紀神話でも神武東征で、和歌山市に「名草戸畔(ナグサトベ)」という女酋長がおり、熊野には「丹敷戸畔(ニシキトベ)」という女酋長がいたから全国的に母系相続社会でした。 母系相続の中で代表的な存在として、出雲の女王(クシイナダヒメ)、その夫たる大王がスサノオだった。

 出雲はクシイナダヒメの娘のスセリ姫が家督相続したが、その「婿殿」には大国主(実はアメノホヒ)が選ばれた。大国主は支配地を拡大し、北九州から東海地方にまで勢力を及ぼしたが、アマテラスとかニニギを神祖とする海人族の希望の星たる大海人天皇には受け容れ難い歴史であり、大国主も含めた出雲王朝を封印してしまった。

【「妻問婚(つまどいこん)」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月11日付
論考「記紀神話(その6の4)「天孫族と出雲族の相続人争い」参照。
 源氏物語にもあるように、有力な男は何人も妃・妾を持ち、女の家に通って「交友」したが、古代は「女系相続」であり、この制度は鎌倉時代まで存続していた。鎌倉御家人の中には女当主もいたことが記録に残っているが、戦国時代になくなり、江戸時代には戸主は男子に限られてしまい明治に至った。

【「家督相続」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月11日付論考「記紀神話(その6の4)天孫族と出雲族の相続人争い」参照。
 古代は米本位制であり、農地は細分化するよりも(水の分配の問題もありましたから)地主が大規模に総合的な管理運営を行うほうが合理的でした。このため、親の遺産は一人の子供に集中して相続させる「家督相続」が行われた。この「家督相続」の制度は、戦後の日本にも受け継がれたが、戦後の民法の大改正によって、現在のように子供は男女の別無く平等に分配されるようになった。

【「宮中八神殿の神の謎」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月11日付
論考「記紀神話(その6の4)天孫族と出雲族の相続人争い」参照。
 「宮中八神殿の神」の謎。宮中の八神は第1位から、神産日神(カミムスヒ)、高御産日神(タカミムスヒ)、玉積産日神(タマツメムスヒ)、生産日神(イクムスヒ)、足産日神(タルムスヒ)、大宮売神(オオミヤノメ)、御食津神(ミケツ)、事代主神(コトシロヌシ)の順に祭られている。ここで、学者の間で問題にされているのが3点ありますが、第1順位にアマテラス寄りのタカミムスヒよりも出雲との関連が強いカミムスヒがあること、アマテラスが無いこと、出雲神と思われる事代主神が祭られていることです。高御産日神を(タカミ・ムスヒ)と発音しているが、本当は、高天原の神を産み育てる役目を負った「造化三神」の一人だから、神産日神と同じように「高神産日(タカ・カミ・ムスヒ」と書いたり発音するのが正しいと思われる。また、高御産日神は(霊界であるところの)高天原の主宰神ですが、逆に、(映し世であるところの)人間世界の主宰神は神産日神ですから、(映し世の中にあるところの)宮中での祭祀の第1位に神産日神が祀られるのは妥当だと思います。

【「天孫族と出雲族の争い」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月11日付
論考「記紀神話(その6の4)「天孫族と出雲族の相続人争い」参照。
 「天孫族と出雲族の争い」の権力闘争は、「伊勢と出雲」、「伊勢と元伊勢」の関係にも当てはまる。この両陣営の権力闘争は後世にまで延々と続けられたように感じられる。

【「大物主の三輪山王朝」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月4日付
論考「記紀神話(その6の3)大物主の三輪山王朝」参照。
 「大物主の三輪山王朝」。「神武東征」以前に、出雲族の「オオモノヌシ王朝」があった。記紀神話によると、神武東征以前にニギハヤヒの王朝があったことが記されている。神武東征により天孫族が支配し続けた奈良県には、出雲神を祀る古い神社が各所に残されているが、これらの神社は延喜式神名帳には一位とか二位とか三位とかの破格の神格が与えられており、アマテラス系の神社よりも上位に置かれている。オオモノヌシを「大物主」と書くと、物部氏を連想した「武力の神」を連想するが、「物」には「物の怪」の意味や、「物申す」の言葉の意味もあるし、「物の道理」という言葉もあるので多角的な解釈が必要だと思われる。「三輪」の地名も後代のものであって、延喜式の出雲国造神賀詞(カムヨゴト)には「大御和の神奈備に」とあり、古事記の崇神天皇の大田田根子の条には「御諸山に意富美和の大神の前を」とある。

 「三輪(山)王朝」とは崇神天皇や垂仁天皇らの王朝、又は「欠史八代」のことを指す場合もあるが、神武東征以前にあった「オオモノヌシ王朝」のことを云う。オオモノヌシの正体について蛇だとか大国主の分霊だとかの諸説がある。あるいは大国主(別名が宇都志国玉神で、実は天津国玉神と同じ神)の霊も含めた古代日本の建国の神々の総称名を云うのかも知れない。

 「大国主の王朝」。「大国主の王朝」について、奈良を大国主が支配したことは明確にされていないが、越の国のヌナカワヒメとの恋愛や、稲羽の八上姫との恋愛や、伊予での少彦名との国造りの物語もあり、西日本を支配した大王だった大国主の子供とされる事代主やアジスキタカヒコネなどを祀る神社が奈良県の各所に点在し、延喜式神名帳にも記載されていることは歴史的な事実であり、大国主の存在を無視することはできない。大国主について特に注目すべきは播磨国風土記の飾磨郡の条で、『火明命の怒りによって、父神大汝命の船が破られたときに・・・』の記録が残されている。この「火明命」とはニギハヤヒのことではなかろうかと研究者の間で注目を集めている。オオモノヌシと大国主の関係については、記紀神話に、大国主の国作りの途中で少彦名が去って嘆いていると、海上から光が現れて、『私を倭の東の御諸山(三輪山)に祀れ』とある。大国主とか子孫の出雲族が三輪山のオオモノヌシを崇拝した。出雲神であるはずの大国主を主祭神とする格式の高い古い神社が奈良県の各地にある。

 「ニギハヤヒの王朝」のこと。

 「ニギハヤヒの王朝」について、一説に神武東征の前にアマテラスから十種神宝を授かって東征した説もあるが謎が多い。この子孫には、尾張氏や物部氏を代表として多くの氏族が繁栄した。神武東征以前にニギハヤヒの王朝があったことは歴史的事実のように思われる。


【「大物主の三輪山王朝」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月4日付
論考「記紀神話(その6の3)大物主の三輪山王朝」参照。
 「大物主の三輪山王朝」、「神武東征」以前に、出雲族の「オオモノヌシの王朝」があった。

 記紀神話によると、神武東征以前にニギハヤヒの王朝があったことが記されている。神武東征により天孫族が支配し続けた奈良県には、出雲神を祀る古い神社が各所に残されているが、これらの神社は延喜式神名帳には一位とか二位とか三位とかの破格の神格が与えられており、アマテラス系の神社よりも上位に置かれていて「歴史のミステリー」と言われている。「ニギハヤヒの王朝」について、一説に神武東征の前にアマテラスから十種神宝を授かって東征した説もあるが謎が多い。この子孫には、尾張氏や物部氏を代表として多くの氏族が繁栄した。神武東征以前にニギハヤヒの王朝があったことは歴史的事実のように思われる。

 オオモノヌシを「大物主」と書くと、物部氏を連想した「武力の神」を連想するが、「物」には「物の怪」の意味や、「物申す」の言葉の意味もありますし、「物の道理」という言葉もあるので多角的な解釈が必要だと思われる。「三輪」の地名も後代のものであって、延喜式の出雲国造神賀詞(カムヨゴト)には「大御和の神奈備に」とあり、古事記の崇神天皇の大田田根子の条には「御諸山に意富美和の大神の前を」とある。オオモノヌシの正体について蛇だとか大国主の分霊だとかの諸説がある。あるいは大国主(別名が宇都志国玉神で、実は天津国玉神と同じ神)の霊も含めた古代日本の建国の神々の総称名を云うのかも知れない。

 「三輪王朝」とは崇神天皇や垂仁天皇らの王朝、いや「欠史八代」のこととする説があるが、私の云う「三輪山王朝」とは、「神武東征」以前にあった「オオモノヌシの王朝」のことを云う。

 「大国主の王朝」について。奈良を大国主が支配したことは明確にされていないが、越の国のヌナカワヒメとの恋愛や、稲羽の八上姫との恋愛や、伊予での少彦名との国造りの物語もあり、西日本を支配した大王だった大国主の子供とされる事代主やアジスキタカヒコネなどを祀る神社が奈良県の各所に点在し、延喜式神名帳にも記載されていることは歴史的な事実であり、大国主の存在を無視することはできない。大国主について特に注目すべきは「播磨国風土記」の飾磨郡の条で、『火明命の怒りによって、父神大汝命の船が破られたときに・・・』の記録が残されている。この「火明命」とはニギハヤヒのことではなかろうかと研究者の間で注目を集めている。オオモノヌシと大国主の関係については、記紀神話に、大国主の国作りの途中で少彦名が去って嘆いていると、海上から光が現れて、『私を倭の東の御諸山(三輪山)に祀れ』とある。大国主とか子孫の出雲族が三輪山のオオモノヌシを崇拝した。出雲神であるはずの大国主を主祭神とする格式の高い古い神社が奈良県の各地にある。


【「伊勢の地名由来」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年11 月20 日付
論考「記紀神話(その6の2-2)伊勢は倭背だった」参照。
 伊勢の地名は「倭背」だったと考えられる。三輪山周辺は「稜威間(イツマ)」の地で、その背後に位置する伊勢は「稜威背(イツセ)」だった。古代の伊勢の国は伊勢、伊賀、志摩の3国を合わせたものだったが、大海人天皇が680年?(天武天皇9年?)に伊賀国を分置し、7百年代(年代不明)に志摩国を分置した。当時は伊賀の国は存在せず伊勢の国であった。平安時代に編纂されたと云われる先代旧事本紀の国造本紀では、伊勢国造は橿原朝に、伊賀国造と嶋津(志摩のこと)国造は志賀高穴穂朝に定められている。但し、美濃国造は3箇所に、上総国造は6箇所に設けられており1国1国造ということではない。

 元伊勢は出雲族の聖地だったし、霊的因縁を持つ「因縁の身魂」の土地である。
「元伊勢」とは、元々は伊勢があった場所という意味であり、出雲神が祀られ出雲族が支配していた土地という考え方もできる。霊的因縁を持つ「因縁の身魂」が発祥した土地であるとも解釈できる。「元伊勢」の比定地は、奈良県をはじめ京都・滋賀・和歌山・三重・岐阜・愛知・岡山などの各地に80箇所以上が知られている。元伊勢系列の「四つの団体」も元伊勢に関係する土地で発祥しているから「因縁の身魂」と考えられる。「因縁の身魂」というのはスサノウの大神の系統、つまり出雲神の系統ということができる。三輪山王朝が天孫族に滅ぼされて、出雲族の歴史が封印された。大海人天皇の勅命により編纂されて元明天皇代に完成した記紀神話では、「帝紀」や「旧辞」などの改ざんされた一部分だけが残されたものと思われる。奈良県の格式の高い古い神社で出雲神を祭る神社が数多くある。もともとは出雲族の根拠地の一つだったと言われている。

 「伊」の言葉遊び。

 伊勢の「イ」という発音に「伊」という漢字を当てますが、「伊=イ+尹(いん)」であり、「伊」には神に仕える人(聖職者)を表わす意味がある。伊勢・伊豆・伊予・伊賀などは神聖な場所の意味が含まれている。「竹内文書」では、日本が世界の中心であったようなことが書かれている。

 大海人天皇以降には、漢音が登場した。

 古代の日本語の発音は呉音調の大和言葉だったが、大海人天皇の時代に積極的に唐の文化を取り入れて漢文が隆盛し文字も漢音で読むようになった。例えば、人名でも、古事記の人名は呉音調(変体漢文?)で書かれ、日本書記は漢音調(漢文)で書かれている。「ヤマト」は、山戸・山門が、大倭(オオヤマト)になり、大和になった。三輪山周辺は稜威間(イツマ)の地だが国としてはヤマト(山戸・山門)。その語源について、昔の大和の国には大和湖が中央にあり、生駒山地と金剛山地の間を大和川が河内湖に流れ込んでいた。堺市方面から北に伸びる上町台地の東側一帯は全部が河内湖であり、今の大阪平野はなかった(地質学的見地)。当時は大阪湾から船で河内湖に入り、大和川を遡上して三輪山の麓まで行けた。神武東征で神武の軍船が生駒山方面に行ったとしても不思議ではない。現在の大和川は直接、堺市方面に流れているが、これは、1704年(宝永元年)に徳川幕府が長さ14km、幅180m、延べ240万人を動員して、大規模な川の付け替え工事を行ったものと云われている。近年まで二上山方面の明神山周辺は、有名な地すべり多発地帯であり、昭和7年には「亀の瀬」の地滑りが多発した記録が残されており、大和川の川底が底上げされる事態になった。また、古代の湖岸道路であった「山の辺の道」が、かなりの高台にあるが、古代に奈良盆地全体が隆起したと云われ、奈良盆地中央の田原本町の標高が40mとか50mとかにあるのは土地の隆起が原因と考えられる。古代の遺跡が奈良盆地の中央部に全く存在しないのは、大和湖であったことと土地の隆起が原因と考えられる。

 「稜威背(イツセ)」の国が、「倭津背」になり、「倭背」になり「伊勢」になった説。

 和銅6年(713年)に、元明天皇の勅命により「但遅麻」や「遠淡海」などの国名も漢字2文字に改めさせて統一させた。この過程で、読みやすい文字や、気品のある文字に国名を改めさせたので、卑語・蔑称の意味を持つ「倭」の文字も気品のある「伊」に改めさせ、「稜威背」とか「倭津背」の国名も漢字2文字の「伊勢」に改めさせたのではないかと想像できる。

 今の中国語は漢音ではない。

 「倭」を「ワ」と発音するが、本来の漢語の発音は「イ」である。ほかに委・萎・崣なども全部「イ」と発音する。つまり、古代中国で漢語を使っていた漢民族が、後漢の滅亡や魏や晋の滅亡によって、中国内部に北方から異民族が侵入した「五胡十六国」の時代が2百数十年間続き、589年に中国を統一した隋も、その後の唐も鮮卑族系であり漢民族ではなかった。今でも「王」を「ワン」と発音したり、「北京」を「ペキン」と発音している。元々の漢民族の発音は日本にしか残されていない。日本には漢語と呉語の両方が残されている。

 伊勢の地名の語源の諸説。

 「伊勢津彦」。伊勢津彦の以前に伊勢の地名があったはず。大倭(オオヤマト)の東側の「倭背」(イセ)。五十鈴川の説。第4の度会郡の伊蘇(イソ)郷の説。伊勢神宮の磯の説。伊勢国の南端に在り、昔の伊勢国府や国分寺のあった中心地である三重県鈴鹿市からは遠過ぎるし、往来も不便だったから、可能性は少ない。伊勢神宮の地域は、昔は、山田の地名で、江戸時代には「山田奉行所」が置かれていた。また、現在の伊勢市になったのは昭和30年。磯の説。「伊勢」は「イソ」とも発音できるし、日本書記の「垂仁紀25年3月条」に『神風の伊勢国は、常世の浪の重浪(シキナミ)、帰(ヨ)する国なり』とある。しかしながら、古代の最初の伊勢の国は伊勢・伊賀・志摩の3国を合わせたもので、内陸部に在る伊賀方面が「磯の国の一部」というのは少し無理がある。そうすると、伊勢の国を伊勢・伊賀・志摩の3国に分割した段階で、伊勢の長い海岸線の磯から「伊勢」と名づけたと考えるほうが自然だと思われる。

 『磯神社のこと』

 伊勢市磯町に「磯神社」がある。延喜式神名帳に記載された古い神社ですが、垂仁天皇の25年に皇女の倭姫命が天照大神の大宮地を求めて巡幸し、「伊蘇宮(磯宮)」に遷幸されたのが創祀らしい。


【「穴門の地名由来」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年11 月20 日付
論考「記紀神話(その6の2-2)伊勢は倭背だった」参照。
 神功皇后の遠征で、仲哀天皇が「穴門(アナト)の豊浦の宮(山口県下関市)」に御所を構えているが、この「穴門」が長門国の語源との説がある。穴門とは関門海峡のことを云う。また、出雲に宍道湖と中海があり、美保関を抜けて日本海に抜けているが、これは河内湖と大和湖の関係にも相関性を感じる。そうすると、美保関の「美保」の地名の本来の意味は「ミホト」(水戸・水門→水秀戸・水秀門→美秀戸・美秀門→美保)だったかも知れない。

【「宇治の地名の由来」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年11 月20 日付
論考「記紀神話(その6の2-2)伊勢は倭背だった」参照。
 宇治の地名の語源。宇治の地名は一般に平等院のある京都府の宇治市が有名であるが、伊勢神宮の近くにも宇治の地名が有り「宇治山田」の駅名もある。

 記紀神話に、ニニギの天孫降臨を導いたサルタヒコが、元々の領地の三重県松坂市方面の阿耶訶(アザカ)に帰った話がある。その子孫に「宇治土公(ウジ・ツチ・ノ・キミ)」が知られている。これは、「宇治にいた土公」という意味だと思われる。古くから宇治の地名があったと想像できる。そうすると、宇治は京都府の宇治市に限らないことになる。では、宇治の地名の語源は何だったのか。「ウツロ」(空ろ・虚ろ)が語源であり、「ウツロ地」が縮まって、「ウロ地」、「ウ地」になったのではないかと想像する。それは、京都府宇治市の地形が、昔は、淀川に面して「巨椋(オグラ)池」という大きな沼地があり、その奥に宇治川の河口があり、その河口部付近を宇治と読んでいたからであり、この「巨椋池」の形が、「ウツロ」(空ろ・虚ろ)に似ていたからだと思われる。そうすると、伊勢神宮の周辺も、海岸線が神宮の近くまで入り込んでいたから、「ウツロ」(空ろ・虚ろ)の地名になり、それが転じて「宇治」になったのではないかと連想できる。伊勢神宮があった辺りは「磯」であった可能性。古代の海岸線は、伊勢神宮(皇大神宮や豊受大神宮などの大社の18座9社その他の総称名のこと)の近くまで迫っていたと想像できるが、それは、関東平野も濃尾平野も大阪平野も、日本中の平野は土砂の堆積で出来たものであり、比較的新しいものである。故に、昔の五十鈴川(磯鈴川?)の河口も大きく後退しており、伊勢の諸神宮の近くまで海の磯になっていたと想像する。


【「出雲の地名の起源」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年11 月20 日付論考「記紀神話(その6の2)伊勢と出雲の相関性」参照。
 出雲の地名の起源は、一般的には、記紀神話のスサノオの『八雲立つ』の歌を元にしていると云われる。出雲国風土記には、スサノオの『八雲立つ』の歌の伝承はなく、代わりに八束水臣津野命(ヤツカ・ミズオミヅ・ノ・ミコト)の『八雲立つの』歌が出雲の起源だと書かれてある。ちなみに、和銅6年(713年)に、元明天皇の勅命により全国に風土記の編纂を命じ、「但遅麻」や「遠淡海」などの国名も漢字2文字に改めさせて統一させた。また、出雲の国名の由来には、イザナミ大神への敬意から「稜威母」とか「稜威藻」の当て字があったとの説もある。

【「伊勢と出雲の相関性」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年11 月20 日付論考「記紀神話(その6の2)伊勢と出雲の相関性」参照。
 奈良に日本の首都の「出雲」があった。奈良県桜井市に出雲の地名がある。三輪山の東南にある長谷寺に続く谷で、出雲からの移住説とか初めから出雲の地名があった説などがある。出雲を「イツ・マ」と発音し、「稜威・間」と書くと「神聖な威光のある、間(場所)」となり、オオモノヌシの「三輪山王朝」に繋がる。「三輪王朝」とは崇神天皇や垂仁天皇の王朝、あるいは欠史八代の天皇の王朝を指す。私の言う「三輪山王朝」とは大物主を神と崇めた王朝のことを云う。出雲は単なる出雲ではなく、神聖な土地つまり王城の地という意味もある。日本語は、南方言語や半島言語や中国語(古代の呉語・漢語と現在の中国語は発音が異なる)が折り重なっており、発音も地方で異なり、さらに時代でも発音の変遷がある。

【「イザナミの末路」考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62 」のどう思われますか 氏の2017 年12 月4日付論考「




(私論.私見)