ニギハヤヒの命の東遷考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ニギハヤヒ族の東遷を確認しておく。

 2008.4.14日、2013.1.13日再編集 れんだいこ拝


【ニギハヤヒ何者論考その1】
 「日本大和史探訪」の「第三章日本列島に初めて和国を建国した須佐之男尊」の論考1-2、「第4章大和建国の覇王大歳(饒速日)尊」の論考1-4等を参照する。この膨大な記述から何をどう学びとるか。れんだいこ史観は、ニギハヤヒを出雲王朝系譜の大王であり、大国主の命、オオトシ、ニギハヤヒ、大物主の命を同一ないしは同系譜と見立てている。この点で、「日本大和史探訪」は、ニギハヤヒをスサノウの三男・オオトシに注目し、彼を後のニギハヤヒとしている。ニギハヤヒを天孫族系の来航神とせず、国津神系出雲王朝系譜の大王であるとしている点で私観と同じであるが、オオトシ―ニギハヤヒと大国主の命を対立させ、ニギハヤヒの偉業を称える為に大国主の命を架空としたり、大国主の命を極力悪しざまに描いている点で大きく対立している。

 「日本大和史探訪」は、国譲り譚の解析では目を覆わんばかりの、れんだいこ史観よりすればデタラメの記述となっている。「第3章和国始祖王/須佐之男尊-2」の末尾では「大国主は、建国の始祖王スサノオや大和朝廷の開祖ニギハヤヒ(オオトシ)の偉業を抹殺するために創作した目くらましに他ならない」とまで述べている。同氏なぜこのように立論するのか理解できない。れんだいこは逆に大国主の命の偉業をこそ日本政治の鏡として称賛しているので相容れない。同じく出雲王朝を解析しようとしておりながら、大国主の命をここまで落し込める論があることに驚かされている。

 但し、「日本大和史探訪」のサイト管理人の論考「ニギハヤヒ論」はあちこちに必須の史料を寄せている点で貴重な論考となっている。そういう訳で、れんだいこ史観上、有益な個所を抜き書きする。話しがあちこち飛んでいるので内容次第に括り、採用できる個所を取り込んだ。ここに謝しておく。そうこうしているうちに、どこまでが引用文か分からなくなってしまった。追々更に整理し、れんだいこ史観に則り書き直していくことにする。

 2014.10.8日再編集 れんだいこ拝

【ニギハヤヒ何者論考その2】
 「日本大和史探訪」の「★スサノオの遺命を受けて大和に東遷、日本国を創建した大歳尊」が次のように記述している。
 概要「スサノオの遺命を受けて大和に東遷、日本国を創建した大歳尊によると、スサノオの御子大歳尊は、スサノオの遺命を受けて大和に東遷。三輪山麓に政庁を構え、日本王朝大和国を建国し饒速日と名乗ったのがBC102年、45歳の頃だった。父スサノオに見習って善政をしき大和朝廷の始祖となった。66歳位で亡くなられBC81年頃三輪山の磐座に葬られたとみられる」。
(私論.私見)
 構図としては興味深いものになっているのだが若干の疑問箇所があるので指摘しておく。この記述の疑問箇所は、「父スサノオに見習って善政をしき大和朝廷の始祖となった」としているところである。この記述では、この時の大和朝廷と後の神武以来の大和朝廷とが直列的に位置づけられていることになる。これでは古代史上最大の政変「国譲り」が説けないのではなかろうか。

 次に、「その麓に、第十代崇神天皇(推定在位AD171-197年)が建てた大神神社に祀られた」としている。大神神社は果たして第十代崇神天皇(推定在位AD171-197年)が建てたとすべきだろうか。再建とするのならまだしも創建では、それ以前からの大神神社の重要性が見えてこないことになろう。「同社は皇室と同じ菊の御紋を社紋としている」。これはこれで良い。「それ以来、饒速日尊は皇祖天照魂神として祀られていたが」は、これも良い。続く「異母兄弟の甥にあたる狭野命(伊波礼昆古命=磐余彦尊)を、饒速日尊の末娘御歳姫尊(古事記は三輪の大物主神の娘伊須気依姫。書紀は事代主尊の娘媛蹈鞴五十鈴媛と改竄)の婿養子として大和に迎えたことから、万世一系の皇統譜に組み入れなかった」を裏付ける文献を知りたい。。

 「こともあろうに、記紀は狭野命(改名して磐余彦尊)の婿入り東遷を、大和を武力で征服したように書いたが、長兄五瀬尊他、わずか数名での大和入りで、真相は婿入りの東遷だったことが歴然とした。詳細は第四章に譲るが、その段取りはスサノオ尊や、その後を継いだ大己貴尊亡き後、日向宮で和国を統治していたスサノオの現地妻向津姫をはじめ、大己貴尊の御子阿遅スキ高日子根尊(武角身尊)と饒速日尊の長男天香語山(高倉下)尊や弟の宇摩志麻冶尊が、直接の交渉役として奔走したことも判明した」も、これを裏付ける文献を知りたい。

 2013.12.10日 れんだいこ拝

【ニギハヤヒ論予備知識としての記紀の筆法考】
 記紀は、神代編で史実を改竄・歪曲した創作神話を書いている。7-8世紀、飛鳥朝廷のもと、女帝鵜野讃良(持統女帝)と黒幕の権力者藤原不比等のもとで編纂された記紀は、出雲王朝史、その系譜の三輪王朝史、邪馬台国史の史実を抹殺した。ニギハヤヒに付けられていた皇祖天照魂神の神号を天照大神と書き換え、皇祖の地位を横領し、新たな神話を創作することで上古代史を改竄している。これにより天照大神が女神化することになった。

 記紀編纂の途中、女帝鵜野讃良(百済王の子翹岐=書紀名中大兄:天智天皇の娘)は、691年、日本で最も古いとされる大神神社と石上神宮の古文書をはじめ、豪族16家の系図(墓記)を提出させ没収している。十六氏とは、春日氏・大伴氏・佐伯氏・雀部氏・阿部氏・膳部氏・穂積氏・采女氏・羽田氏・巨勢氏・石川氏・平群氏・木(紀)角氏・阿積氏・藤原氏・上毛野氏である。その上で、書紀の編纂を統括していたであろう藤原不比等は、自らの系図を都合良く創作している。後に藤原氏の書いた「鎌足伝」には、「内大臣、諱は鎌足、字は仲郎。大倭國高市郡の人なり。その先は天児屋根命より出ず。・・・美気祐卿の長子なり。母は大伴夫人と曰う」と記している。百済から来た父鎌足(本名智積)の出自を中臣氏の系図に挿入している。

 691(持統天皇6)年三月、天皇(鵜野讃讚良)は、新たに伊勢神宮を創祀し皇祖神として天照大神を祀り、その行幸をしようとしたとき、「ニギハヤヒの末裔の三輪朝臣高市麻呂が冠位を脱ぎ捨ててまで阻止しようとした。しかし天皇は聞き入れず遂に伊勢に幸す」とある。

 702(大宝2)、年二月十七日、ニギハヤヒの陵墓のある大神神社を祀っていた大神(大三輪)朝臣高市麻呂は、(702 )左遷されて長門守に下ったが四年後に没している。また、同年八月十六日、石上神宮を祀る石上朝臣麻呂も太宰府に左遷されている。記紀の編纂がすすんでいた頃のことであり邪魔者扱いされたと窺うべきであろう。708(和銅元)年正月、元明天皇が天下に大赦を出した。「山沢に亡命して禁書を隠し持っている者は百日以内に自首せよ。さもなくば恩赦しない」という詔勅を出している。念には念を入れて、古代王族や豪族の系譜を抹殺しようと図ったのであろう。

 これらにより、スサノウ、ニギハヤヒを祀っていた全国多数の神社の縁起や祭神名までも書き換えさせられている。しかし、記紀の成立以前に創建された多くの神社や地名が生きた化石として残っている。その縁起や伝承、古史古文が史実を今に伝えてくれる。


【スサノウ譚】
 スサノウ一族は弥生の黎明期に大きな偉業を残したが記紀に史実を抹殺されている。スサノウが活躍したのは紀元2前世紀中頃から紀元2前世紀中頃から同1世紀後半頃だったことが同時代の人物の墓誌で明らかになった。弥生時代とは、紀元前(以下BCと略記)三世紀末年から三世紀の時代をさす。これに先立つ縄文時代とは全く違った形式の遺跡や遺物が、明治17年、東京都文京区の旧地名・向ケ岡弥生町で出土したことから、その名がついたもので、考古学的にみて中国大陸や朝鮮半島からの文明が流入したことが判明している。

 物部氏の祖宇摩志麻冶尊が、天理市の石上神宮に祀った祭神布都御魂大神は、スサノウの父とされている。スサノウにつき書紀は次のように記している。「一書に曰く、伊奘諾尊曰く、吾御べき珍の子を生まんと欲う。乃ち左の手を以ちて白銅鏡を持つときに、則ち化り出づる神あり。これを大日靈尊と謂う。右の手に白銅鏡持つときに、則ち化り出づる神あり。是を月弓尊と謂う。又、首を廻して顧眄之間に、則ち化り出づる神あり。これを素戔嗚尊と謂う。即ち大日靈尊・月弓尊、並びにこれ質性明麗し。故、天地に照らし臨ましむ。素戔嗚尊、これ性殘い害るを好む。故、下して根の國を治さしむ」。これによれば、スサノウは120年頃に出雲で生まれことになる。

 記紀は、大日靈尊、月弓尊、そして素戔嗚尊を姉弟にした上で、スサノウを暴れ神として悪ごなしにし、根の国(根の堅州国)に追いやったとしている。根の国とは如何なる国か。これを黄泉の国と解する向きが多いが、アイヌ語では「根」には祖先の意味がある。「堅い」は、「島、土地、国土」等を表すと云う。これによれば、「根の国」とは出雲の国と繫がっている可能性がある。記紀、特に日本書紀には、出雲系神々の系譜を抹殺しようとする意図がありありとみえる。

 スサノウ一族の朝鮮渡来説がある。BC37年、朝鮮半島に在った布流国が滅亡し、国王布都一族が日本列島に移住したのではないかとしている。中国史書「三国志/魏志東夷伝」によると、朝鮮半島は「馬韓、弁韓、辰韓に分かれており、南朝鮮では鉄が出るので、倭その他の諸国は鉄を求めて来往した」とある。スサノウの先祖は南朝鮮にいて製鉄を得意としていた支配階級だったとしている。スサノウの父布都一族は、南下してくる高句麗族に抵抗しきれなくなり、度重なる交戦に疲れて戦乱の朝鮮半島を逃れて日本列島に活路を求めて渡来したとしている。船出した場合、対馬海流に流されて島根半島北側の河下湾に漂着する可能性が高い。スサノオの生まれた地と伝承されている島根県平田市の宇美神社の地は、河下湾のすぐ近くで、その湾周辺には朝鮮半島から上陸した人々のものと考えられる遺物が伝承と共に存在する。この一族の一人にスサノウの父布都命がいたのではないかと云う。但し、確証はない。  

 スサノウは、山陰地方に棲息していた製鉄族(オロチ)を倒して櫛稲田姫を娶り、新出雲王朝を建国した。その後、長男・八島野や次男・五十猛、三男・オオトシ、部下の豪族らを率いて、部下の豪族らを率いて山陰、中四国、九州諸国を和合させ連合連立政権である「ワ国」を形成した。「ワ」は、「環」にして「和」を意味する。中国の史書「漢書」や「三国志・魏志」(以下、魏志と略記する)は、「ワ国」を同音の文字で当て字して「倭国」と記している。但し、「倭」の本来の字義は「背が曲がって丈の低い小人」的意味を持つ。これが後に「ワ国」が「日本」と呼称変更される理由になる。「倭」は見下げた表記であるが、その後の日本では「倭」をヤマトと読ませるようになった。津島神社(愛知県津島市)は総ての神の祖神としてスサノウを祀つおり、810(大同5)年正月、嵯峨天皇が、「素戔嗚尊は則ち皇国の本主也。故に日本の総社と崇め給いしなり」と宣べ「日本総社」の号を奉っている。

 スサノウの第子五十猛尊はスサノウとともに新羅に渡り、半島文化や木種を導入したことが記紀にも明記されている。しかし、新羅が建国されたのは4世紀中頃のことで、当時は新羅国はない。
 スサノウ・オオトシ父子一族は、弥生の黎明期に大きな偉業を残したが、記紀に史実を抹殺された。スサノオは東部の旧出雲国に対し西部に新出雲国を創建、版図を拡大して国の基盤をつくたった。神祖として崇められたスサノウを祀る津島神社(愛知県津島市)に、大同五(810)年正月、嵯峨天皇は「素戔嗚尊は則ち皇国の本主也。故に日本の総社と崇め給いしなり」と称して「日本総社」の号を奉られ、総ての神の祖神として祀られた。

【スサノウ系譜譚】
 スサノウが九州の日向に遠征した時、多紀理姫命(木花佐久夜姫)、多岐都姫命、市寸島姫命の3人の娘を設けている。広島県宮島町にある有名な厳島神社の主祭神はスサノウと向津姫の間に生まれた市寸島姫命(市杵島姫命)である。古事記は、スサノウは大山津見神の娘神大市比売を娶り、大歳と宇迦御魂が生まれたとし、大山津見神は、伊邪那岐神(イザナギ)と伊邪那美神(イザナミ)の子神で、櫛稲田比売・神大市比売・木花知流比売の父としている。記紀ではスサノウはアマテラスとの誓約でこの三女神が生まれたと表現している。誓約というの政略結婚だとみられている。誓約で生まれた男神には天忍穂耳尊、天穂日尊、天津日子根尊、活津日子根尊、熊野久須毘(熊野楠日)尊の五人である。

 広島県宮島町にある有名な厳島神社の主祭神はスサノウと向津姫の間に生まれた市寸島姫命(市杵島姫命)で、インドで聖河の化身とされる女神「弁財天」と習合して各地の神社で水の神弁財天神として広く祀られている。一般に弁天さんと呼ばれるのはこの女神である。

 古事記は、スサノウは大山津見神の娘神大市比売を娶り、大歳と宇迦御魂が生まれたとし、大山津見神は、伊邪那岐神(イザナギ)と伊邪那美神(イザナミ)の子神で、櫛稲田比売、神大市比売、木花知流比売の父としている。古事記の記すこの系譜は隠喩であり史実とは別であろう。

 小椋一葉氏は、大山祇(大山津見)神を祀る神社は全国に一万一千社余りあるが、その総本社は愛媛県大三島にあるとして、各地の大山祇神を祀る神社の祭神関係を調べた結果、大山祇、大山積、大山津見神の正体はスサノウだとみている。そこで、大三島の大山祇神社の由緒をみると、祭神の子孫小千命が創建したとある。そして後出の系図によれば、「小千御子は、孝霊天皇の第三皇子彦狭嶋命の第三子で、九代開化天皇の御宇、彦狭嶋命が勅奉じて三嶋大明神に仕え云云。御子(小千命)十八歳の時、土佐賊田上之毘谷ト云う者を討平らげた。・・崇神天皇三年丙戌に壽齢八十一歳で伊豫國小千郡大濱の殿舎にて薨去」としている。

 「小千・河野・井門家系圖」によると、「人皇七代孝安天皇太子。御諱大日本根子彦太瓊尊。孝靈天皇。母は天足彦國押人の娘押媛命。大和国黒田盧戸宮座、御年十六歳而皇太子ニ立、五十三歳而即位、太歳在辛未、細媛命立而為皇后。在位七十六年春二月崩御。御壽百二十八歳也。帝常信大山積神、是則三嶋大明神也。第三皇子命彦狭嶋王(記は日子寤間命)、伊豫國に下り大山積大明神を祭礼。是則伊豫之國大三嶋社也」とある。孝靈天皇の在位や崩御年齢は書紀を底本にして書いているとみえる。そして、大山積神は七代孝霊天皇の神名だと云う。孝霊天皇が大山津見神として祀られたとするのは記紀や旧事紀にみえず、真偽の程は不明である。古事記によれば孝靈天皇の諡号は「大倭根子日子賦斗邇命」とある。神社の由緒と小千系図の記述に整合性がなろをみると、どちらかが造作されているのであろう。書紀は、「一書に曰く、伊奘諾尊曰く、「吾御べき珍の子を生まんと欲う。乃ち左の手を以ちて白銅鏡を持つときに、則ち化り出づる神有り。是を大日靈尊と謂う。右の手に白銅鏡持つときに、則ち化り出づる神有り。是を月弓尊と謂う。又、首を廻して顧眄之間に、則ち化り出づる神有り。是を素戔嗚尊と謂う。即ち大日靈尊・月弓尊、並びに是、質性明麗し。故、天地に照らし臨ましむ。素戔嗚尊、是、性殘い害るを好む。故、下して根の國を治さしむ」と、大日靈尊、月弓尊、そして素戔嗚尊を姉弟にしている。その上、スサノオを暴れ神として悪ごなしにし、根の国(根の堅州国)に追いやったとしている。根の国とは死者の霊が行くと考えた地下の世界、また海上彼方の世界。底の国。黄泉。黄泉の国とも云う。つまり、死界に追放したというのである。


【スサノウ御代の和(倭)国創建】
 記紀では暴れ神にされているスサノウは、新出雲建国から始まり、和(倭)国を創建した。スサノオが統一した国名は「ワ」(環、和)だった。中国の史書・漢書や三国志魏書(以下、魏志と略記する)では「倭」、「倭国」と書いている。同音に当て字したものである。

 「倭」は、日本人の国。もと中国での呼び方で(中略)、日本人も「倭・和」の字を自称に用いて通例は「やまと」と訓読しているが、室町時代頃には「わ」と音読して単独に日本、または日本のものを意味する語として用いるようになった。「倭」の本来の字義は「背が曲がって丈の低い小人」である。最近の中国では「倭」の字意はどうかと中国の友人に尋ねてみた。すると「隠」の意味に近いという。隠とは人目につかないでいること。人に知られないでいること。人目につかない場所。人知れず隠れしのぶこと。などで「恥ずかしがり屋」とか、「控えめ」、あるいは「引っ込み思案」といった意味が連想される。 

 和(倭)国とは、スサノウが形成した連合国家で、中国地方は周防、長門、石見、隠岐、出雲、伯耆、因幡、阿岐、吉備、針間、多遅摩、丹波からなる。紀(木)。四国は伊豫、土佐、讃岐、粟、淡道からなる。北陸は若狭、能登、越=高志、佐渡からなる。九州地方は筑紫、豊、肥、対馬、隠岐、大隅、薩摩、日向からなる。河内以東の河内、山代、大倭(大和)、淡海、三野(美濃)、伊勢、尾張、遠江、科野、甲斐、相模、武蔵も含まれる。これが当時の日本国の連合範囲である。

 スサノウ御代の和(倭)国が、オオトシ(ニギハヤヒ)御代に日本、その後の御代に「邪馬臺国」、その後の御代に大和(「邪馬土国」)と変遷していくことになる。


【オオトシ譚/東征前のオオトシの履歴】
 記紀は、神代編で創作神話を書いているがオオトシ命に触れていない。故に、従って各地に祀られた神社の縁起や伝承からオオトシの実像を類推していくしかない。

 BC146年頃、父スサノウが43歳の時、スサノウは当時、山陰・北陸地方の諸豪族をまとめて和国を建国し次々と国の拡大をめざして活躍していた頃である。オオトシ(大歳命、後のニギハヤヒ)は、母櫛稲田姫(櫛名田比賣命)の第5子三男として出雲で生まれたとみられる。島根神社庁発行の「神国出雲」には、「須佐之男、出雲において大歳を生み給い」と書いており、これを裏書きしている。スサノオ・オオトシは生粋の日本生まれである。父スサノオにとっては高年になってからの御子で、「歳」、「歳日子」などと呼んで可愛がり、兄の八島野や五十猛から幼年期には何かと仕込まれて成長したものと思われる。

 櫛稲田姫(櫛名田姫)を母とするオオトシ(ニギハヤヒ)の兄弟には、第1子(長男)/八島野命、第2子/五十猛命、第3子/抓津姫命、第4子/大屋津姫命、第5子/大歳(後の饒速日)とあり、他に宇迦御魂(倉稲魂命、稲荷明神)、磐坂彦命、須世理姫命の8人が記されている。原田常治氏は古神社の縁起や伝承から、スサノウ一族の系図を整理している。

 オオトシの姉とされている都麻津比賣命の墓誌が和歌山市岩橋の岩橋古墳群で解読され、「都麻津比賣命墓戊寅年七月五日御年六十四歳」とある。戊寅年はBC103年と比定して在世年代を計算するとBC166~BC103年となる。また異母兄弟の甥においあたる倭伊波礼昆古命(神武天皇= BC107~BC45年)や五瀬尊(神武天皇の兄)の墓誌(BC116~BC63年)からみて、オオトシの誕生年代が大凡類推できた。これによりオオトシの誕生年代はBC146年頃と推定できる。

 若い頃から農業に熱心だったオオトシは、奥出雲の住人らとともに米作りにも精を出した証が地名や神社伝承に残っている。島根県飯石郡三刀屋町(雲南市三刀屋町)にある大歳神社の社伝によると、「大歳尊は三刀屋町に注ぐ深谷川津上に住んで、初めて耕作し田を起こした。稲苗を当郡種郷に蒔き、一窪田に植えると一寸二分の籾が稔った。これを炊いたところを神食田といい、今なお大年新田と称されている」とある。「一寸二分の籾」は伝承の誇張であろうが、その地名はまさに生きた化石である。オオトシの名は稲の生育、その稔りを表す歳と関係していると思われる。

 旧事紀には、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は天道日女命を妃とし、天上に天香語山命を生む」とあり、大和に降臨する前に天香語山命が生まれている。また桜井市三輪の大神神社の縁起や古事記による大物主大神の系譜をみると、大物主大神(饒速日尊)が陶津耳の娘活玉依毘売を娶って生んだ子が櫛御方命で、その五世孫が大神神社の初代神主意富多々泥古(大直禰子)としており、饒速日尊が摂津国陶邑の活玉依毘売を娶って櫛御方命が生まれている。

 また、旧事紀には饒速日尊が大和に東遷した時に同伴した人物に天櫛玉命と云う人物が居り鴨県主等祖としていることから、櫛御方命と天櫛玉命は同一人物とみられる。後々、鴨(加茂)一族から出た大神氏(大三輪氏)の後裔は朝臣として朝廷に仕え、代々、桜井市三輪の大神神社の斎主を継いでいることがわかった。

(私論.私見)
 オオトシの歳はオオク二の国と対をなしていないだろうか。政治的に表現すれば大国主の命、経済的に表現すれば大歳主の命となるのではなかろうか。オオトシを系図を根拠にスサノウの子とする向きがあるが、大国主の命をスサノウの子とする系図もある。つまり系図は当てにならない。

【オオトシの九州平定】
 「第4章大和建国の覇王大歳(饒速日)尊-1」その他を参照する。
 生来、オオトシは頭脳明晰で父スサノウに似て武勇にも優れていたとみられている。父親はじめ、兄の八島野尊や五十猛尊に何かと技量を仕込まれたのであろう。BC136年頃、父スサノウが筑紫・豊(北九州)の豪族に和国への連合を呼びかけて遠征したとき、若干11歳の幼年ながら兄八島野尊や五十猛尊たちと共にスサノウに従って大人顔負けの活躍をしたと伝えられている。その後、日向(南九州)にも遠征してイザナギやその配下と一戦を交えた。日向を平定した後、オオトシは筑紫の統治を任されて滞在したとみられている。 

 スサノウは宇佐に和国政庁を置いた。宇佐は上代の国名で、大化改新のときは西海道十一か国の一つの豊前国に入っている。九州北東部の古称は古くは豊国と呼ばれたが、豊前・豊後の二つに分かれ、それぞれ一国となる。中世には豊州とも呼ばれた。明治四年の廃藩置県により三藩が三県となり、のち小倉県に統合。同九年、東部は大分県に、西部は福岡県に編入された。九州北東部の古称は豊国で、豊前・豊後の両国に分かれたとある。ここら辺りは、オオトシ時代のニギハヤヒが活躍した縁の地である。

 この地でのオオトシはスサノウの片腕となって力量を発揮した。その活躍は抜群で、九州の諸豪族、その地の住民からも篤い信望をあつめた。彼はその後「豊の国魂」として永く讃えられことになった。

 スサノウによって九州全域が概ね平定された後、オオトシは筑紫の久留米市高良山附近に拠点を置いて北九州方面をスサノウの代行として統治した。筑前、筑後は古代、西海道十一か国の一つで、668年に筑紫国から分かれ、それぞれ一国となった。古代からの大陸文化流入の地で、国防上の要地でもあるため、西海道諸国を管轄する大宰府が置かれた。筑後は、現在の福岡県南部、筑後平野の南部を占める地域である。

 本拠地の高良山は標高322メートルという小峯であるが、筑後平野のなかに吃立して、西に佐賀県の背振山( 1055メートル)を指呼の間にし、西南はるかに有明海を望み、足下の沃野に蛇行する筑後川を俯瞰できる場所である。また、北麓には古代の筑後国衛(合川町)、国分寺(国分町)もあり、筑・肥・豊の前後六ヶ国から水陸の交通路が集中している要衝の地である。北九州を統治するに最適地とみて本拠としたのであろう。そのため、高良山頂にある高良大社(旧国幣大社)附近を中心に遠賀川、筑後川沿岸にはニギハヤヒを祭神とする古社が多く、古代から土地の住民に崇敬されていたことが察せられる。

 北九州で、オオトシ及びその従者を主祭神とする神社を列挙する。高良大社(福岡県久留米市御井町、主祭神・霊照大神(饒速日尊、現在は高良玉垂命)、伊勢天照御祖神社(久留米市大石町、主祭神・天火明命、別名饒速日尊)、物部神社(佐賀県三養基郡北茂安町、主祭神・物部経津主神、別名饒速日尊)、福童神社(福岡県小郡市寺福童、主祭神・天照国照彦天火明命、別名饒速日尊)、天照神社(福岡県鞍手郡宮田町磯光、主祭神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)、亀山神社(福岡県鞍手郡小竹町、主祭神大歳尊、別名饒速日尊)、古物神社境内社布留御魂社(鞍手郡鞍手町古門、主祭神・布留御魂神、別名饒速日尊)、赤星神社(久留米市高良内町坂口、主祭神・天津赤星(饒速日尊に従い東遷した従者)。

【オオトシの東征譚】  
 オオトシ軍東征の時期
 BC124年頃、天祖にして父のスサノウは、筑紫を統治していたオオトシに天璽の十種の御宝を授け、大和に東遷してワ国を統合するよう遺言して亡くなった。これにより、筑紫を統治していたオオトシが筑紫の遠賀川河口から部下を率いて東遷に向かうことになった。時期を175年~205年頃と推定している研究もあるが、在世年代からみてBC122年、25歳頃からBC103年(44歳)頃と推定される。
 饒速日尊の東遷と随行部隊
 オオトシに随行した親族・部族は次の通り。御子・天香語山命を筆頭に天鈿売命、天児屋命、少彦根命、天太玉命等が名前を連ねている。「先代旧事本紀十巻本天神本紀」に、「饒速日尊(大歳尊)は天神(スサノウ)より天璽瑞宝を授けられ、三十二人の従者と二十五部の物部(軍団)、その他を従えて大和に天降られた」(「三十二人をして、並びに防衛と為し天降し供へ奉らしむ」)として、大和東遷に随行した人々の名前を克明に記している。
天香語山命(饒速日尊の御子、尾張連等祖)
天鈿売命(猿女君等祖)
天太王命(忌部首等祖)
天児屋命(中臣連等祖)
天櫛玉命(鴨県主等祖)
天道根命(川瀬造等祖)
天神玉命(三嶋県主等祖)
天椹野命(中跡直等祖)
天糠戸命(鏡作連等祖)
10 天明王命(玉作連等祖)
11 天牟良雲命(度会神主等祖)
12 天背男命(山背久我直等祖)
13 天御陰命(凡河内直等祖)
14 天造日女命(阿曇連等祖)
15 天世平命(久我直等祖)
16 天斗麻彌命(額田部湯坐連等祖)
17 天背斗女命(尾張中嶋海部直等祖)
18 天玉櫛彦命(間人連等祖)
19 天湯津彦命(安芸国造等祖)
20 天神魂命(亦た三統彦命と云ふ、葛野鴨県主等祖)
21 天三降命(豊田宇佐国造等祖)
22 天日神命(対馬県主等祖)
23 乳速日命(広湍神麻続連等祖)
24 八坂彦命(伊勢神麻続連等祖)
25 伊佐布魂命(倭久連等祖)
26 伊岐志邇保命(山代国造等祖)
27 活玉命(新田部直等祖)
28 少彦根命(鳥取連等祖)
29 事湯彦命(取尾連等祖)
30 八意思兼神の児表春命(信乃阿智祝部等祖)
31 天下春命(武蔵秩父国造等祖)
32 月神命(壱岐県主等祖)

 「五部人を副従為て天降供奉らしむ」として、
物部造等の祖天津麻良
・笠縫部等の祖天勇蘇
為奈部等の祖天津赤占
十市部首等の祖富々侶
筑紫弦田物部等の祖天津赤星

 「五部造伴領と為し、天物部を率て天降供奉る」として
二田造
大庭造
舎人造
勇蘇造
坂戸造

 「天物部等二十五部人、同じく兵杖を帯て天降供奉る。( 25部隊)」として、
二田物部
須尺物部
芹田物部
赤間物部
横田物部
狭竹物部
浮田物部
肩野物部
足田物部
10 尋津物部
11 田尻物部
12 住跡物部
13 久米物部
14 讃岐三野物部
15 大豆物部
16 筑紫聞物部
17 羽東物部
18 相槻物部
19 布都留物部
20 播麻物部
21 当麻物部
22 鳥見物部
23 嶋戸物部
24 筑紫贄田物部
25 巷宜物部

 「船長同く共に梶取等を率領て天降供奉る」として、
船長跡部首等の祖天津羽原
梶取阿刀造等の祖天津麻良
船子倭鍛師等の祖天津真浦
笠経等の祖天津麻占
曾曾笠縫等の祖天都赤麻良
為奈部等の祖天津赤星

 以上、ニギハヤヒ以下、豪族四十四人の率いる二十五軍団、船方六人とある。
 遠賀川出発
 オオトシの大船団は、遠賀川の河口あたりから出航したものとみられる。当時の遠賀川は河口から20キロほど現在の直方市のあたりまでが入海となっていた。1931(昭和6 )年、遠賀川の下流、立屋敷遺跡で発見された遠賀川式土器は、有文の弥生式土器として弥生式土器の原型がはじめて明らかになった。筑豊盆地を囲む山々を水源とする遠賀川は馬見山の中腹にある高さ6メートルの滝を源流とし、ここから全長61キロメートル、流域面積1030平方キロメートルの流れが始まり、筑豊全域で大小70あまりの支流と合流しながら中間、遠賀を通って芦屋で響灘に流入する。主な支流は飯塚市で穂波川、直方市で彦山川と犬鳴川、河口近くの芦屋で西川が合流している。大船団は遠賀川河口附近に集結し洞海湾をぬけて戸畑附近に出て関門海峡を通り、瀬戸内の各地に滞在しながら大和をめざしたとみられる。

【伊予国の大山祇神社】 
 最初の寄港地は伊予(愛媛県)の松山市三津浜附近と考えられる。久米郡の豪族・伊予久米氏などを従者として東遷に従わせた。25部の物部に名を連ねる久米物部と考えられる。瀬戸内の中心に位置して瀬戸内海の治安を司る要衝の地である大三島に拠点を構えた。現在、この地に日本総鎮守大山祇神社がある。社伝に「御祭神大山積大神は、天照大神の兄神で山の神々の親神に当り(記紀)、天孫瓊々杵尊の皇妃となられた木花開耶姫命の父神にあたる日本民族の祖神として和多志大神と申し上げる」(伊豫國風土記)とある。大山積大神、和多志大神は元は出雲王朝系の神と思われる。社伝は「当社の御遷座は仁徳天皇時代、この地の豪族小千(越智)によって創建された」と記しているが、それより以前のオオトシ東遷の途次に立ち寄られた聖地として、この地に大山祇神社が創建されたと読むべきであろう。伊予風土記に、大山祇神社(愛媛県越智郡大三島)について「大山積神、一名は和多志の大神なり。この神、難波高津宮(仁徳天皇)の御世に顕れましき。この神、百済国より度り来まして津国の御島に坐しき云々」とある。これも後世の改竄伝承である。

 大山祇(大山津見)神を祀る神社は全国に1万1千社余りあるが、その総本社は愛媛県大三島にある。大山祇、大山積、大山津見神の正体は出雲系の古神と見られる。大三島の大山祇神社の由緒をみると、祭神の子孫小千命が創建したとある。系図によれば、「小千御子は、孝霊天皇の第三皇子彦狭嶋命の第三子で、九代開化天皇の御宇、彦狭嶋命が勅奉じて三嶋大明神に仕え云云。御子(小千命)十八歳の時、土佐賊田上之毘谷ト云う者を討平らげた。・・崇神天皇三年丙戌に壽齢八十一歳で伊豫國小千郡大濱の殿舎にて薨去」としている。「小千・河野・井門家系圖」によると、「人皇七代孝安天皇太子。御諱大日本根子彦太瓊尊。孝靈天皇。母は天足彦國押人の娘押媛命。大和国黒田盧戸宮座、御年十六歳而皇太子ニ立、五十三歳而即位、太歳在辛未、細媛命立而為皇后。在位七十六年春二月崩御。御壽百二十八歳也。帝常信大山積神、是則三嶋大明神也。第三皇子命彦狭嶋王(記は日子寤間命)、伊豫國に下り大山積大明神を祭礼。是則伊豫之國大三嶋社也」とある。孝靈天皇の在位や崩御年齢は書紀を底本にして書いているとみえる。そして、大山積神は七代孝霊天皇の神名だと云う。孝霊天皇が大山津見神として祀られたとするのは記紀や旧事紀には記されていない。古事記によれば孝靈天皇の諡号は「大倭根子日子賦斗邇命」とある。神社の由緒と小千系図の記述に整合性がないことになる。これも後世の改竄伝承である。

【讃岐国の金刀比羅宮】
 その後、BC122年、25歳頃、讃岐の金刀比羅宮(祭神:大物主神)の地に遷り、瀬戸内沿岸を治めながら河内・大和以東の統一準備をすすめた。讃岐の金刀比羅宮や島根の金比羅神社に残る社伝がそれを伝えている。ここでは神名を大国主大神の和魂として大物主神に変えられている。これも、桜井市の大神神社の神名と同じく、八世紀の書紀編纂の頃に朝廷からの強要で改変されたとみられる。

 金刀比羅宮の創建創祀年代や創祀者は定かでないが古くよりの出雲系神社である。伝えには、「大宝元(701)年十月、一竿旗あり、空中より飛び来たりてこの地に墜つ。よって祠を建てて旗宮と云う」とある。

 讃岐(香川県仲多度郡琴平町)の金刀比羅宮の由緒書きによると、BC122年、25歳頃、讃岐(香川県仲多度郡)多度津港あたりから上陸して三豊郡(旧三野郡)の豪族たちを懐柔した。この地より讃岐三野物部が加わっている。その後、讃岐の三豊郡に接する仲多度郡の象頭山にある国幣中社・金刀比羅宮(祭神:大物主神)の地に遷った。社伝は、「大物主神が琴平山に本拠を定め、中国・四国・九州などの経営に当たったのが始まり」という。金刀比羅宮は、神名を大国主大神の和魂として大物主神に変えている。金刀比羅宮の由緒は、「主祭神大物主神は大国主神の和魂にあたる神様で云々、国造りの神様として象頭山の金刀比羅宮に祀られていますが、大己貴神、八千矛神、大国魂神、顕国魂神など、多数の名前を持たれた神様です。大物主神は万物をつかさどることを讃えた神名の通り、五穀豊穣や産業、文化などの繁栄と、国や人々の平安を約束してくれる神様です。神霊は実にさまざまな働きをいたしますが云々、大物主神様は平和と繁栄をもたらす和魂です」、「主祭神の大物主神は天照大御神の弟、建速素盞嗚命(スサノウ)の子、大国主神の和魂神で、農業殖産・漁業航海・医薬・技芸など、広汎な神徳を持つ神様として全国の人々の厚い信仰を集めています」、「古伝によれば大物主神は、(中略)この琴平山に行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされたといわれています。その行宮跡に大神を奉斎したと伝えられています」とある。和魂とは柔和の徳をそなえた神霊。神霊の静的・穏和な側面。日本固有の精神。「穏和で落ち着いた大和魂をもち、国や人々の平安を約束してくれる神様」と、大物主神(オオトシ=ニギハヤヒ)の人となりまで詳しく社記に書いている。金刀比羅宮の社地は象頭山と呼ばれ、東麓に広がる平野は太古には一面の海で海上交通の要衝と云う。 琴平周辺を中心に讃岐や伊予から平型銅剣の祭祀遺物が集中的に出土している。そして、平型銅剣には鋸歯紋が彫り込まれているものが多く、これはオオトシのシンボルであると云う。オオトシは民衆統一のため、スサノオ祭祀に磨きをかけた平型銅剣祭祀を行っていたとみえる。また瀬戸内沿岸を統治するかたわら、河内や大和の有力豪族の状況を探っていたものらしい。

 ここには、保元の乱(1156年)に敗れて讃岐に配流され、憤死した崇徳天皇が配祀されている。


【金刀比羅宮(ことひらぐう)考】
 「谷田茂・氏の古代出雲王国-スサノオの光と影-51 ニギハヤヒを祀る金刀比羅宮は大和攻略の前線基地だった!(2009.5.26)」を転載しておく。
 香川県仲多度郡琴平町は金刀比羅宮(ことひらぐう)。こんぴらさんと親しまれ、全国600社を数える金毘羅神社(金刀比羅神社・琴平神社)の総本社である。海の守り神として信仰されており、現在も漁師、船員など海事関係者の崇敬を集め、境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。

 

 金刀比羅宮の由緒については二つの説がある。一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。もう一つは、もともと象頭山にあった松尾寺に金毘羅が守護神として祀られており、これが金毘羅大権現になったとする。いずれにせよ神仏習合の寺社であった。海の守り神とされるのは、古代には象頭山の麓まで入江が入り込んでいたことに関係があるとされる。

 

 江戸時代中期に入ると全国の庶民の間へと信仰は広がり、各地で金毘羅講が組織され、金毘羅参りが盛んに行われる様になる。この頃、金毘羅参りは伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだったといわれ、その様子は、浮世絵の東海道五十三次の一つである「沼津」に描かれた金毘羅参りの後姿や、滑稽本の東海道中膝栗毛に書かれた主人公の弥次さんと金毘羅参りの格好をした男との饅頭の食べ比べの話などからも、伺うことが出来る。明治元年(1868年)の神仏分離令で、金刀比羅宮と改称し、祭神の名を大物主神と定める。また、祭られていた宥盛は厳魂彦命と名を変え、明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座される。それまで金毘羅大権現の本地仏として祀られていた本尊十一面観音像は信仰の対象から外されたが、社宝として現在も観音堂に納められている。またかつては、金刀比羅宮と倉敷市にある由加山(蓮台寺、由加神社本宮)の両方を参拝する両参りという習慣があったといわれている。

 

 祭神

 金刀比羅宮には主たる祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)とともに、相殿に崇徳(すとく)天皇が祀られています。大物主神は天照大御神の弟、建速素盞嗚命の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様として、全国の人々の厚い信仰を集めています。

 

 古伝によれば、大物主神は、瀬戸内海の海水が深く湾入し、潮が常に山麓を洗う、湾奥に横たわる良き碇泊所であったこの琴平山に行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされたといわれています。

Wikipediaおよび金刀比羅宮公式HPより抜粋

 

 十一面観音像につては、小椋一葉氏が著書「覇王転生」の中でニギハヤヒであることを検証している。また、上の「由加神社本宮」の祭神には、スサノオ、オオワタツミが祀られていることを付け加えておく。オオワタツミ=スサノオであることはすでに記した。「両参り」の意味するところが伺える。スサノオ、ニギハヤヒが瀬戸内を支配下に置いていたことの証左といえよう。

 

 祭神の項で、公式ページの中で大物主神を大国主神の和魂神と記しているが、「大物主」=「ニギハヤヒであることは何度も述べてきた。であるから、ニギハヤヒは「農業殖産、漁業航海、医薬、技芸」の神なのだ。スサノオ一族は各地で農業を伝え、感謝されているし、大神神社においても、ニギハヤヒは医薬を広めたと伝えられる。そして、漁業航海。オオワタツミの息子なのだから、当然だ。しかし、それだけではない。

 

 なぜ、ニギハヤヒは琴平の地に、居を構えたのだろうか。父スサノオは、大三島の大山祇神社をすでに抑えていたことは述べた。瀬戸内海の西である。そして、ニギハヤヒを瀬戸内海の東の拠点を抑えるべく送り込んだ。もちろん、その間にある、現在の山口、広島、岡山、兵庫県南部はもとより、四国北部もすでに抑えていたはずだ。実際これらの地には、スサノオやニギハヤヒを祀る神社が多く存在する。社伝に明記されてあるように、「中国、四国、九州の統治」していたのだ。スサノオの九州統治については次章で述べる。大山祇神社と金刀比羅宮は、古来、瀬戸内に名を馳せた二大水軍、伊予水軍と塩飽(しあく)水軍の守り神として信仰を集めてきた。伊予水軍を率いて活躍した越智氏や河野氏は、スサノオを太祖とするニギハヤヒの末裔であったと小椋氏は述べている。

 

 かくして瀬戸内を抑えたスサノオとニギハヤヒ。次にスサノオがニギハヤヒに命じたのが、大和攻略だった。始めに書いたように、古代出雲王国は連合国である。決して強引な武力による侵略はしなかった。だから、どの地でも親しまれ、崇敬されている。先祖を殺害され、無理やり支配された民が、恨みを抱きはしても、神として崇めるはずがない。マレビト。そう、ニギハヤヒはそれまで摂津、難波、大和を抑えていた長髄彦(ナガスネヒコ)の娘婿に入ったのだろう。そして、やがて大和の大王となる。さてここに、注目すべきもう一人の重要人物がいる。表の歴史には出てこない。

 安日彦(あびひこ)または安日王である。長髄彦の兄とされる。彼ら兄弟は摂津、難波、大和を支配していた。古い一族である。恐らくスサノオが出雲で生まれる前からの古代豪族であろう。安日の住んだ地は、その名にちなみ阿倍野と呼ばれた。安日王は阿部氏。もちろん、阿部氏の表玄関は有名な住吉大社である。住吉大社は航海の神様として全国に祀られている住吉神社の総本山だ。阿部氏とは?スサノオ、ニギハヤヒとの関係は?安日王のルーツ、そして東北・・・後章で述べたい。


【播磨国(兵庫県南部地方)入り】
 BC116年頃、讃岐を出て播磨(兵庫県南西部)に遷り、姫路あたりから上陸、神戸辺りに拠点を置き、この地で大阪湾岸、摂津、河内の豪族らと国家連合の交渉にあたったと見られる。兵庫県には大歳神社が三百八十社にものぼり、かなり長期にわたってこの辺りに逗留したと推定される。住民らの信望が篤かったことを裏づけている。兵庫の地名も、オオトシの率いる多くの兵士たちの兵舎や倉庫が起原とみられ、神戸は古代、「かむべ」と呼び、神社に属して租、庸、調や雑役を神社に納めた民戸のことである。この地には大国主の命を祭神とするものも多くある。

 出雲・播磨を中心に、西日本・四国・九州には大歳尊(オオトシ)を祀る神社は多数ある。兵庫県・島根県を中心に大歳尊・大歳明神・大歳御祖として祀る神社が多い。大和以東では大歳神社は少ない。出雲で若い頃のオオトシにまつわる伝承が多いのは、出雲で生まれ若い頃に活躍したオオトシの故郷だからであろう。  

 西日本では多数の大歳神社が、また東日本には大神神社や美和神社、三輪神社のほか、各地に残る天照神社、天照御魂神社などの主祭神として数多く祀られている。丹後国一宮とされている籠神社(元伊勢籠神社)は、今の女神天照大神が伊勢へ鎮座するまでの仮宮だった。ここでは彦天火明命(ニギハヤヒ)は、天照大神や伊勢外宮に祀られている豊受大神よりも上位に祀られている。

【摂津国入り】 
 播磨国に長期滞在の後、摂津国(兵庫県東南部から大阪府の北部)に遷っている。滞在したところは三島平野の北東部高槻市三島江の大山積神(ニギハヤヒ) を主祭神とする三島鴨社の場所と考えられる。この地の豪族が溝咋耳一族であった。その一族が住んでいた所は三島鴨社より西2・5キロにある茨木市五十鈴町(旧溝咋村)溝咋神社附近ではないかと考えられる。オオトシは溝咋耳一族を服従させ、首長溝咋耳命の娘・玉櫛媛を娶っている。日本書紀は、神武天皇の正妃媛蹈鞴五十鈴媛命(古事記では伊須気余理姫命)は玉櫛媛より誕生されたとしている。古事記は伊須気余理姫の住居を狭井河(奈良県櫻井市三輪)之上あたりとしている。伊須気余理姫の母につき、長髄彦の妹三炊屋姫、三嶋溝咋耳命の娘活玉依毘売命、三島湟咋の娘勢夜陀多良比売とする説に分かれている。伊須気余理姫(御歳姫)は、後の大三輪(大神)氏につながる天日方奇日方命(櫛甕玉命)の妹であろう。

 溝咋神社(茨木市五十鈴町)を確認しておく。主祭神正殿・媛蹈鞴五十鈴媛命・溝咋玉櫛媛命。相殿・三島溝咋耳命(玉櫛媛の父)・天日方奇日方命・素盞鳴尊・天児屋根命。由緒「当社は古くは東北500メートルの溝咋村字宮田に「上の宮」(祭神媛蹈鞴五十鈴媛命)、現社は「下の宮」として、その母溝咋玉櫛媛が祭祀されていたが、明治42年に「上の宮」が「下の宮」に合祀された」とある。なお三島鴨神社の鎮座地、高槻市の市名起原は、「神武天皇時代、この地をニギハヤヒの御子・宇摩志麻冶命(亦の名可美真手命)が治めており、命の旗印が月像であったことから、この地を高月と呼ぶようになった」という。

 また、オオトシを太陽神・天照御魂神として祀った新屋坐天照御魂神社が、茨木市福井二四八五番地、茨木市西河原八五九番地、箕面市宿久庄四七七番地の3ヶ所にある。これらの社はオオトシの東遷に関係して、後に祭祀されたと考えられる。社伝は次のように記している。「新屋郷福井の丘に崇神天皇七年九月、ニギハヤヒの六世孫伊香色雄命が、崇神天皇の勅命により、皇居に奉祭されていた饒速日尊の御魂の憑代と考えられる神宝、瑞の宝十種と布都主剣を、天理市石上神宮に遷座祭祀した物部氏の祖によって祀られ、さらに神功皇后が三韓遠征に際して三島県新屋川原で潔禊を行ない、帰国後、西の川上と東の川上に社を作って祭神の幸御魂と荒御魂を祀った。それが上河原と西河原の神社である」。


【河内国の生駒入り】  
 ニギハヤヒ一団は、淀川を渡り北河内に入って交野附近を平定し、この地の肩野物部を加えている。磐船街道に沿った天の川上流・交野市私市の磐船神社附近に入っている。磐船神社の神社名「磐船」は境内に船形をした巨巌があることによる。祭神を饒速日尊としており「磐船による天孫降臨伝承」がある。書紀には、「饒速日命、天磐船に乗りて大虚を翔行きてこの郷をみて降りたまふに至る。故に因りて、なづけて虚空見日本国といふ」とある。旧事紀の「天神本紀」、「天孫本紀」には、「饒速日尊、天神御祖(スサノウ)の詔をうけて天磐船に乗り、河内国河上哮峯に天降り坐す。さらに、大倭国鳥見白庭山に遷り坐す。いはゆる天磐船に乗り、大虚空を翔行きて、この郷を巡りみて天降り坐す。すなはち、虚空見日本国といふは是なり」と記されている。天降られたとする哮峯とは、北河内郡天の川の上流生駒山の北嶺とされている。生駒山の主峰、標高メートルの西の山腹、石切剣箭神社の飛地境内地、通称「宮山」と呼ばれる平坦地辺りと思われる。現在もこの地から土器などが多数出土するという。石切剣箭神社の地はニギハヤヒの滞在された聖地に創建された神社であろうと云う。

【オオトシが饒速日(ニギハヤヒ)と改名する】
 この頃、オオトシは、東遷途次で、饒速日(ニギハヤヒ)と改名したことが神社の縁起や伝承で裏づけられる。御年41歳頃のことと推定される。大和統一をめざしての大事業にかかる心機一転の改名だったのではないかと小椋一葉氏はみている。河内、大和以東で饒速日命として祀られている。「饒速日」の字意を解析すると、「饒」は豊で満ち足りて不足のないさま。富んでいてゆとりのあるさま。豊富なこと。「速」は速度が高いこと。早いこと。また勇気があって勇ましいこと等、多く他の語と熟して用いられる。「日」は太陽、日輪をさし「速日」で太陽が早くあたることを意味する。太陽を崇拝し勇気あることを信念に、自身の名前にしたニギハヤヒの心情を伺い知ることができる。

 生駒山の別名を「ニギハヤヒ山」とも云う。おそらく、大阪湾から難波に入り、東方生駒山から赫々と昇る勢い盛んな朝日を眺めて付けられた名称と考えられるが、饒速日尊という神名も生駒山を越えて大和に遷ってより付けられた神名と思う。

【ニギハヤヒの命来航譚】
 ニギハヤヒの命は、古事記では邇芸速日命、日本書紀では饒速日命。先代旧事本紀では天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ、あまのほあかり、くしたま、にぎはやひのみこと)、他に天火明櫛玉饒速日命、大物主とも記される。この命の素性を廻って天孫系、出雲系、その他系の三説ある。これを詳細に論ずるのは別稿に譲り結論から書きつけておく。れんだいこは、以下の如く推理する。

 物部氏の伝承譚である「先代旧事本紀」(せんだいきゅうじほんぎ)は次のように記している。
 概要「(スサノウ没後の西暦205年頃)ニギハヤヒの尊は、天神より瑞宝十種を授けられ、供奉32神、こ属(こじゅう)5部神、5部造、25部人率いて、天磐船に乗り、河内国河上哮峯に降臨した」。

 これによれば、ニギハヤヒの尊は神武系の高天原天孫族とは別系の外来族ないしはスサノウ系であり、神武の東征以前に河内国に来航したことになる。現在の奈良県大和郡山市矢田町にある式内社の矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこ神社)に、ニギハヤヒが天磐船(あまのいわふね)に乗って、この地に降りてきたとする伝承が残されている。別名「矢落神社(やおちじんじゃ)」。祭神の櫛玉饒速日命が天磐船に乗り空を飛んだという故事から奉納されたプロペラが楼門屋根裏に吊され航空祖神として崇められている。同神社は、独特の神代文字を伝えている。この文字は、熊野大社の奥宮として知られる玉置神社に残る文字と符合している。「河内国河上哮峯に降臨した」の異説に「生駒山の東側山麓の日下(くさか)に降臨した」とも伝承されている。

 大野七三氏の「古事記、日本書紀に消された皇祖神・ニギ速日大神の復権」は、ニギハヤヒの命の出自につき次のように記している。
 「ニギ速日尊の障害の概略を述べると、スサノウの尊が出雲の神・太市姫を妃とされて西暦155年頃誕生されたようである。若い頃の御名を大年の命(大年神、大歳尊)と云う。175年頃、父スサノウの尊の九州遠征に従い、対馬に於いて天道日女を妃として天香山(あまのおやま)の命(高倉下、たかくらじ)が誕生する。スサノウの尊が全九州を平定後、北九州方面の統治を任せられる」。

 「大野推理」の典拠は分からないが、ニギハヤヒの尊はスサノウの尊と太市姫の子のオオトシの命であるとしている。一説に、オオトシの命は「スサノオと櫛稲田姫の第五子でありBC146年頃、出雲で生まれた」とされている。櫛稲田姫(櫛名田姫)を母とした兄弟には、第1子・八島野命、第2子・五十猛命、第3子・大屋津姫、第4子・抓津姫、第5子・大歳(後の饒速日)とあり、他に、宇迦御魂(倉稲魂命=稲荷明神)、磐坂彦命、須世理姫の8人)が記されている。原田常治氏は、神社の縁起や伝承からスサノオ一族の系図を整理している。スサノオの第2子・五十猛命は、スサノオとともに朝鮮半島に渡り、半島文化や木種を導入したことは、記紀にも明記されている云々。
(私論.私見)
 「ニギハヤヒの命はスサノウの命と太市姫の子のオオトシの命である」とする説はニギハヤヒをスサノウ出雲系としていることになる。れんだいこは、ニギハヤヒを大国主の命系とするので多少異なるが、ニギハヤヒの命を出雲王朝系と見なしている点で貴重である。ニギハヤヒとオオトシを別人物ないしは別系列に捉える史観が散見されるが、同一人物ないしは同系列に捉えるべきだろう。その後のオオトシは「毎年の正月に遣って来るメデタイ年神(としがみ)様に祭り上げられている」。

 神大市姫とは、何者か。神大市姫は大山津見(大山の霊の意)の娘であり、スサノオと結婚して大歳やウカノミタマ(穀物の霊)などを生んでいる。古事記ではイザナギ・イザナミが国を生んだ後に大綿津見や大山津見を生んでいる。日本書紀では二神が共同で生んだり、カグツチを斬ったときにイザナギが単独で山祇神を生んだりしており諸説ある。

 大歳の一族は母親の神大市姫の一族である「山の民」を頼った。大歳の一族が、農業の神・穀物の神・山の神と呼ばれた理由の一つ目は、大歳の一族が「大和湖」周辺の湿地帯を開拓して農業を隆盛させたからである。二つ目は、山の民の酋長であったところの母親の神大市姫(神大津霊姫・大いなる土の霊の姫)の一族との融和と共栄を図ったからだと思われる。

 なお、「175年頃、父スサノウの九州遠征に従い、対馬に於いて天道日女を妃として天香山(あまのおやま)の命(高倉下、たかくらじ)が誕生する」とあり、神武東征譚に登場する高倉下(たかくらじ)がニギハヤヒの息子であるとしている。高倉下は、神武東征譚で重要な役割を果たしているひとで知られている。このことは、ニギハヤヒ/高倉下系が神武軍についたことを明らかにしており重要である。

 2013.5.7日 再編集 れんだいこ拝

【ニギハヤヒの命の降臨前の様子】
 一説に、スサノオの命は、出雲王朝建国後、長男・八島野命、次男・五十猛命、三男・オオトシ命を連れ、部下の豪族らを率いて中国、四国、九州諸国まで平定し、これを「和国」と名付けたとある。中国の史書「三国志・魏志倭人伝」は、同音の文字で「倭国」と書いた。若いオオトシの命は、九州遠征後、筑紫に拠点を置き北九州を統治した。その後、BC122年頃、讃岐の金比羅山(祭神:大物主神)の地に遷り、瀬戸内沿岸を治めながら河内、大和進出の機会を窺った。讃岐の琴平宮や島根の金比羅神社に残る社伝が伝えているとある。

 BC116年頃、播磨(兵庫県南部地方)に基盤を広げ、神戸辺りに拠点を置いて大阪湾岸、摂津・河内の豪族らと国家連合の交渉にあたったとみられる。これが為、兵庫県には神戸を中心にオオトシの命を祀る大歳神社が三百八十社にものぼる。かなり長期にわたってこの辺りに滞在したものか、それともオオトシの配下豪族や邑長が多く居たのであろう。住民らの信望が篤かったことを裏付けている。兵庫の地名も、オオトシの率いる多くの兵士たちの兵舎や倉庫が起原とみられ、神戸は古代、「かむべ」と呼ばれた。神社に属して租、庸、調や雑役を神社に納めた民戸(じんこ)を意味している。

 オオトシの命は、磨国から大和統一をめざして東征する前後、河内に滞在した頃に饒速日(ニギハヤヒ)と名乗った。新たな大事業にかかる心機一転の改名だった。
(私論.私見)
 スサノオの命―オオトシの命―大国主の命の「中国、四国、九州諸国まで平定」は、後の邪馬台国連合に繫がっている気がする。

 2013.5.7日 再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)