その後の大和王朝考

 (最新見直し2008.4.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2006.12.3日、2008.4.7日再編集 れんだいこ拝


【大和の豪族考】
 大和王権下において,有力な豪族たちの集団を「氏:うじ」といい,「氏上:うじがみ」(一族の首長的地位)を中心としてまとまっていた。また,氏上は大和王権の構成員であり,それぞれの地位応じて「臣:おみ」「連:むらじ」「宿禰:すくね」「造:みやっこ」というような「姓:かばね」を授けられていた。これを「氏姓制度」という。「姓」の中でも特に,「臣:おみ」「連:むらじ」を賜(たまわ)った豪族は大和王権の中心部にいた。葛城(かずらぎ),平群(へぐり),巨勢(こせ),蘇我(そが),大伴(おおとも),物部(もののべ)などは大和王権における有力な豪族だった。そして,最も力のある豪族には「大臣:おおおみ」と「大連:おおむらじ」という位を授けられていた。軍事や裁判を担当していたのが「大連」の物部氏(物部尾輿:おこし),財政や外交を担当していたのが「大臣」の蘇我氏(蘇我稲目:いなめ)だった。
 蘇我稲目は奈良県飛鳥地方を拠点として全国に進出していった。飛鳥地方の檜隈(ひのくま)には東漢氏(やまとのあやし)という渡来人が多く住んでおり,大陸の技術を伝えた。蘇我氏は彼らと結びつくことで勢力を伸ばした。また,二人の娘を欽明天皇の妃(きさき)とし,天皇の外戚(がいせき)として地位を確固たるものにした。




(私論.私見)