その後の歴代天皇神話考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
大和王朝の建国神話から転じて仁徳天皇以降を「かまど神話」と銘打って考察することにする。これを漠然と追跡しても意味が無い。眼目は、「国譲り後遺症」とも云うべき事象を追跡していくことに有る。そのように解析できていないが、今後追々に書きなおしていくことにする。 2006.12.24日 れんだいこ拝 |
第17代、履中天皇の御世 |
【履中天皇時の蘇我氏の登場】 |
5世紀前半の履中天皇2年冬10月の条、蘇我満智宿禰(そがのまちすくね)が国政に参加したとの記述がある。 |
イザホワケ(履中天皇)は、伊波礼の若櫻(難波)に宮殿をおき、葛城氏の娘を妻としていた。このころの記述によると、石上神社が武器庫として使用され、奈良のヤマト地方を倭と呼んでいて、飛鳥地方と区別していたようである。 |
【履中天皇譚、スミノエノナカツミコの反逆事件顛末】 | |
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スミノエノナカツミコ=。アチノアタイ=。ミヅハワケの命=水歯別命。ソバカリ=曾婆加里。 |
第18代、反正天皇の御世 |
【反正天皇譚】 |
ミヅハワケ(反正天皇)多治比の柴垣に宮殿を置き、和邇氏の娘をつまとしていた。事績は伝えられていない。 |
第19代、允恭天皇の御世 |
【允恭天皇譚】 |
アサツマワクゴノスクネ(允恭天皇)は、遠飛鳥の宮にいたが、病身を理由に継位を拒んでいたが大后や諸卿が強く推したので、継位したと記されている、皇太子を自分の子のキナシノカルに定め、各氏や姓を正し、あらたに、軽部、刑部、河部を定めたともされる。454年に没した。 皇太子のキナシノカルが皇位を継ぐはずであったが、同腹の妹と恋におち、それをとがめられ、伊予に流罪となり、そこで、妹と心中した。兄妹相姦は、罪であったのだ。 |
【允恭天皇の皇太子、カルノヒツギの御子譚、禁断の愛事件顛末】 | |
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カルノヒツギの御子=軽太子。カルノオホイツラ女=軽大郎女。アナホの御子=穴穂御子。オホマヘヲマヘノスクネの大臣=大前小前宿禰の大臣。オホクサカの御子=大日下王。ワカクサカの御子=若日下王。オホハツセの御子=大長谷王。 ツブラオホミ=都夫良意富美。シロヒコの御子=白日子王。 |
【オホハツセの御子の逃亡譚】 | |
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カラブクロ=。オホハツセ=。イチノベノオシハシの御子=市辺之忍歯王。オケの御子=。ヲケの御子=。 |
第20代、安康天皇の御世 |
【安康天皇譚】 |
かわって、履中天皇の皇子であるアナホが石上の穴穂の宮で皇位をついだ。安康天皇である。この天皇の御子はいなかったと伝えられている。安康天皇は、宮殿内のもめごとで叔父のオホクサカを殺害するが、後にその子のマヨワによって殺されてしまう。 |
第21代、雄略天皇の御世 |
【雄略天皇譚その1、ワカクサカベの御子との結婚】 | |
天皇の弟のオホハツセは、マヨワを殺すが、兄弟や従弟と皇位の争いになり、対抗者を制圧したうえで、名をオホハツセワカタケルと改めて、皇位をついだ。雄略天皇である。雄略天皇は、長谷の朝倉に宮殿があったとされるが、女をめぐる伝説と歌、さらに血なまぐさい伝承が多い。 稲荷山古墳の鉄剣の発見で、実在したとされている。 | |
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【雄略天皇譚その2、80年の歳月】 | |||||||||
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ワカクサカベの御子=若日下部王。アカヰコ=赤猪子。 |
【雄略天皇譚その3、ヒトコトヌシ】 | ||||
但し、続日本紀の天平宝字8年(764年)11月の条は次のような伝承を記している。
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【金剛山〜葛木神社〜】
金剛山葛木岳頂上に鎮座する葛木神社。御祭神は葛木一言主大神。神社の創祀は今から約2000年前の崇神天皇の御代、事代主神を奉祀したことに始まると伝わる。..また1300年前、役行者が金剛山寺(現:転法輪寺)を創建した際に、鎮守として祖神である葛木一言主大神を奉祀したとも云われている。古事記では雄略天皇に【吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神】と名乗った事が記されている。また日本霊異記では、一言主神を役行者が使役したとされている。 |
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【葛城(座)一言主(かつらぎ(にいます)ひとことぬし)神社】 奈良県御所市森脇に鎮座する。葛城之一言主大神、幼武尊(雄略天皇)を御祭神として祀る大和国葛上郡の社式内社(名神大社)で旧社格は県社。葛城古道の傍に深緑の中に清々しい静寂な神社として鎮座している。全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社。一言の願いであれば何事でも叶えて下さる神様として「いちごんさん」や「いちこんじさん」と呼ばれ、古くから里びとはじめ全国各地から信仰を集めている。 一言主大神は、第21代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をした時、天皇と同じ姿で葛城山に顕現したと伝わる地、神降(かみたち)に祀られている。雄略天皇は大神であることを知り大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献して深く崇敬、大いにご神徳を得られたと伝えられている。 大和朝廷は神武天皇以来、大和各地に先住し従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討伐したとされている。鎮座地付近の高尾張邑には土蜘蛛という先住民が居り、葛網の罠を作って捕殺したとされている。参道二の鳥居傍、御拝殿脇にこの土蜘蛛を祀った塚が残されている。(土蜘蛛の名の由来は、「身体が小さく手足の長い」ことに因んでいるとされている) この逸話により当地を葛城と称するようになったと云われている。 |
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第22代、清寧天皇の御世 |
【第22代・清寧天皇譚】 |
雄略天皇のあとは御子のシラカノオホヤマトネコで、伊波礼のミカ栗の宮で天下をおさめた(清寧天皇)が、皇后も子もいなかった。 |
【清寧天皇崩御譚、後継者騒動】 | |
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【第23代、顕宗天皇の御世】 |
【顕宗天皇譚】 | |
没後、後継者がないため、雄略天皇の従妹のオシヌミノイラツメまたの名をイヒトヨという姫皇子が葛城で、皇位を継いだとされている。初めての女帝であるが、疑わしいともされている。ところが、針間の国で履中天皇の孫にあたる二人の兄弟(オケとヲケ)が見つかり、弟のヲケ(ヲケノイハスワケ)が皇位を継ぎ顕宗天皇となった。ヲケは子がなく没したので、その後を兄のオケが仁賢天皇となり、石上の広高の宮に坐した。天皇は、雄略天皇の姫御子カスガノオホイラツメを妻として6人の子を設けた。 | |
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シジム=。 |
【第24代、仁賢天皇の御世】 |
【仁賢天皇譚】 |
この中の4男のオハツセノワカササギが皇位を継ぐことになる。仁賢天皇の事績は記されていない。 |
【第25代、武烈天皇の御世】 |
【武烈天皇譚】 |
第25代武烈天皇(在位498年~506年)は、小泊瀨稚鷦鷯天皇(おおはつせわかさぎのすめらみこと)といい、小泊瀨と大泊瀨とを対にして、第21代の大泊瀨幼武天皇(おおはつせわかたけるすめらみこと)と共に暴君の代表とされている。「妊婦の腹を割いてその胎児を観られた」、「人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた」、「人を樹に登らせて、弓で射落として笑った」、「淫らな音楽を奏し、奇怪な遊びごとをさせて、ふしだらな騒ぎをほしいいままにした。日夜後宮の女たちと酒におぼれ、錦の織物を褥(しとね)とした」とある。余程武烈天皇に恨みのある者が日本書紀を書いたに違いない。これでは、中国の史書にある夏の桀王や殷の紂王の滅亡物語と同じである。ヲハツセノワカササギ(武烈天皇)は、長谷の列木に宮殿を置いた。 |
武烈天皇の即位前紀に、当時最大の勢力を誇っていた平郡氏との熾烈な権力闘争の様子が記されている。平郡真鳥が国政を恣にし、天皇の座を窺っていたと云う。或る時、武烈天皇が物部系の影姫を娶ろうとしていたところ、平郡真鳥の子のシビに先を越された。武烈天皇が怒り、兵を集めてシビを殺す。勢いに乗じて平郡真鳥の邸宅を取り囲み、焼き討ちした云々。 |
【第26代、継体天皇の御世】 |
【継体天皇譚】 |
第25代武烈天皇には子供が居らず、皇位を継ぐ者が近親にいなかった。皇嗣が絶えたので大臣の大伴金村が、応神天皇の5世の孫であるとされるヲホドを近淡海の国から見つけ、第24代仁賢天皇の娘御子のタラシラカと結婚させて皇后とし、伊波礼の玉穂の宮で天の下をゆだねられた。遠い分家から入り婿になった。これが第26代継体天皇(在位507年~531年)である。 実態的には、ここで王朝の交代があったとみられている。この天皇の時代には、筑紫の君の岩井の乱があり、物部の連と大伴の連を派遣して鎮圧している。考察 この連は神武天皇時代から、軍を指揮したとされているので、天皇の系統だけが交代したとも考えられる。 |
507年、新羅系応神天皇の5世の孫・継体天皇を大伴金村(天つ神系貴族)が越前から迎える。 538年、百済より中国南朝系の仏教伝来。 |
【第27代、安閑天皇の御世】 |
【安閑天皇譚】 |
(私論.私見)