日本神話の構成

 (最新見直し2006.12.15日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、日本神話の構成と、古事記、風土記、日本書紀の概要について確認しておく事にする。その他古史古伝については「別章【上古代史研究】」で言及する事にする。

 2008.4.12日 れんだいこ拝


【日本神話の構成及び文体考】
 日本神話は次のように編纂されている。 古事記の上巻は大きく五つの部分に分けている。れんだいこがこれを基に仕分けすると次のようになる。
天地開闢、造化譚  天地開闢(かいびゃく)の三神、五神、神代七代譚等々。
国生み神話  イザナギ・イザナミによる国生み譚等々。
高天原神話  アマテラスとスサノオを中心とした神の国高天原譚、天の岩戸譚等々。
出雲神話  国引き譚、高天原を追放されたスサノオの出雲行き譚、八俣のオロチ退治譚、大国主の因幡の白兎譚等々。
国譲り神話  国譲り譚
日向神話  天孫降臨譚等々。
霧島神話考  海幸彦・山幸彦譚等々。
神武東征神話  日向の高千穂から東を目指して遠征する神武天皇の東征記等々。
大和王朝建国神話  大和王朝によるその後の建国神話、ヤマトタケルの討伐譚等々。
四道将軍派遣討伐神話  四道将軍によるその後の討伐譚等々。

 これを簡略に纏めれば、日本神話は高天原神話、出雲神話、筑紫神話の三部構成と云うことになる。高天原神話はイザナギ、イザナミ二柱の神の国生みと天の窟屋の物語譚。出雲神話は高天原を逐われたスサノオの命の大蛇退治と大国主の神の国譲り譚。筑紫神話は天孫の日向高千穂の嶺への降臨譚、山幸彦の海神(わたつみ)の宮訪問譚が、それぞれの神話伝承の中核をなしている。古事記がこの三部構成を順序を逐って記述し伝えるに対し、日本書紀の神代巻は高天原神話に筑紫神話を直接させて、出雲神話を省いている。ことさらに「一書に云く」として僅かに記載するにとどめている。日本書紀が意図的故意に出雲神話を抹殺した理由が気にかかる。

 2006.12.4日 れんだいこ拝

【古事記編纂考】
 その古事記の序文には、編集に当っての事情が記載されている。それによれば、673年、「現在散乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れている、と聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が詠むところの歴史を記録し、我が国の正しい歴史として後世に伝えようと思う」という天武帝の詔(みことのり)で編纂が開始された。
 「ここに天皇(天武)詔(の)りたまひしく、『朕(われ)聞きたまへらく、『諸家のもたる帝紀および本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ』といへり。今の時に当たりて、其の失(あやまり)を改めずは、未だ幾年をも経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのち)に流(つた)へむと欲(おも)ふ』とのりたまひき。時に舎人(とねり)ありき。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、年はこれ二八。人と為り聡明にして、耳に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき。すなはち、阿禮に勅語して帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつよのふること)を誦み習はしめたまひき。
 ここに、旧辞の誤りたがへるを惜しみ、先紀の謬り錯(まじ)れるを正さむとして、和銅四年九月十八日をもちて、臣安麻呂に詔りして、阿禮阿禮の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむるといへれば、謹みて詔旨(おおほみこと)の随(まにま)に、子細に採りひろひぬ。然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなお)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。・・・

 大抵記す所は、天地開闢より始めて、小治田(をはりだ)の御世に訖(をは)る。故、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下、日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)以前を上巻となし、神倭伊波禮毘古天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)以下、品蛇御世(ほむだのみよ)以前を中巻となし、大雀皇帝(おほさぎのみかど)以下、小治田大宮(をはりだのおほみや)以前を下巻となし、併せて三巻を録して、謹みて献上る。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。

 和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶

 712(和同5).正月28日、大安万呂(おおのやすまろ)は、天武天皇の命を受けて始めた国史として古事記3巻を編纂し、持統、文武の時代を経て元明天皇に献上した。これが我が国初の国史書となった。実際には古事記以前の国史書の存在も推定できるが残存しておらぬ為、古事記が史上最も古い国史書と云う歴史的地位を獲得している。

 古事記の構成は、1・上つ巻(序・神話)、2・中つ巻(初代から十五代天皇まで)、3・下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)の三巻より成り、神代における天地(あめつち)の始まりから推古天皇(在位592〜628)の時代に至るまでのさまざまな出来事(神話や伝説等を含む)を収録している。また数多くの歌謡を含んでいる。

 2006.12.4日 れんだいこ拝

【風土記編纂考】
 713(和同6).5月、元明天皇の詔によって各地の風土記が撰集された。その多くはその後散逸したが、出雲国風土記のみが完本として残され、一部伝存しているのは、播磨、常陸、豊後、肥前の四風土記である。その他各国別の風土記逸文がある。

 2006.12.4日 れんだいこ拝

【日本書紀編纂考】
 720(養老4)年、古事記献上から8年後、天武天皇の第3皇子である舎人親王等が本書紀30巻を上宰し、元明女帝の皇女・元正女帝に献上した。古事記に続く国史書となったが官撰的地位を持つ。大安万呂(おおのやすまろ)の子孫である多人長(おおのひとなが)の著書「日本紀弘仁私記」の序文には、大安万呂が日本書紀の編纂に加わっていたと明記している。つまり、古事記を編纂した大安万呂が、古事記完成の僅か8年後にそれと異なる日本書紀を正史として新たに作り上げた、ということになる。

 古事記同様に序文があったと思われるが失われており、編纂の経緯や携わった人物など編集の仔細が分からない。古事記も日本書紀もいわゆる神代時代から始まって、古事記は第33代推古天皇まで、日本書紀は第41代持統天皇(在位690〜697)までの事跡を年を追って事件を記す編年体で綴っている。古事記は前半部分の方が詳しく、日本書紀は後半部分の方が記事が詳しい。読み比べればどこを訂正しているか歴然とするのであろうが、れんだいこにはその能力も時間も無い。

 古事記と日本書紀は「記紀」と総称され、古事記も日本書紀も和漢混交体と云われる、和語を生かして万葉仮名にして、それに漢字を当てて記すという独特の文体を採用している。その際の漢字の当て字は、音訳と語義の両面から極力相応しい漢字を求めて当て字するという高度な手法が用いられている。但し、古事記と日本書紀では表記が悉く異なっている。そのそれぞれが何らかの適切な意味を持たせて当てられており、当てられた和語の客体を洞察するのに相応しいものとなっている。敢えて言えば、語彙を生かすことに於いて、古事記の方が古くからの言葉をそのまま残そうとしており、現在では母音はあいうえおの五つしかないが、古事記は当時八つあった母音を異なる漢字で書き分けている、とのことである。

 いずれにせよ、古事記、日本書紀に於ける和漢混交体文は、これを記した当時の文官の能力と日本の国家ないしは民族の主体性を示して余りあると云えるだろう。この点がもっと指摘され注目されても良いだろう。

 2006.12.4日 れんだいこ拝





(私論.私見)