大和地方の歴史と由緒考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).6.4日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「大和地方の歴史と由緒考」をものしておく。

 出雲王朝の時代、その勢威は後の大和、伊勢にまで及んでいた。史上最大政変となった国譲りは、顕界(表向き)の政治の支配権を高天原王朝に譲り、出雲王朝は幽界(裏方)の宗教的活動に於いて生息すると云う世にも珍しい和睦解決となった。これにより出雲王朝は裏支配的に存続することとなった。ここで採り上げる「大神、大和、石上、元伊勢」は、出雲王朝時代に確立された神道をその後も伝承していった中心的な神社であり、且つその後の歴史に多大な影響を与えている。そういう意味で、これを検証する。

 2006.12.3日 れんだいこ拝


【まほろば考】
 人は、成育した地域地方の影響(自然的諸条件の影響)を蒙ることは免れがたい。そういう角度からみきの誕生生育した三昧田村の土地柄について考察してみたい。

 大和郡山辺郡一帯のこの大和地方(現在の奈良盆地東南部の天理市から桜井市にかけての地域)は、「やまとはくにのまほろば たたたなずく 青垣 山隠れるやまとし うるわし」(古事記)と唄われるほどに四囲を山稜の青垣に囲まれており、昔から「敷島の大和の国」とも称されてもいるように、古代におけるヤマト地方そのもの「大和の中の大和」という、由緒ある聖域の土地柄でもあった。

 伝説として、布留川流域には大和王朝前の王朝を形成していた長髄彦(ながすねひこ)、にぎ速日命が住んでいたと伝えられている。事実、この地域には「まくむく遺跡」(紀元3、4世紀)、箸墓古墳(一説に、邪馬台国女王卑弥呼の墓と云われている)、景行天皇稜(日本武尊の父と云われている)、崇神天皇稜(大和政権初代大王と云われている)、黒塚古墳(33枚もの三角縁神獣鏡が見つかり話題となる)、行燈山古墳、天神山古墳、渋谷向山古墳、珠城山古墳等古代政権の成立上欠かすことのできない考古学的に貴重な遺跡、古墳群が連なっていることで知られている。ツツジの景観で知られる長岳寺もこの地域にある。

 神社寺院も多く、特に、生地の大和神社、三輪の大神(おおみわ)神社、布留の石上(いそのかみ)神宮は格上の神社であることで知られている。してみれば、この地域一帯が、相当な歴史と伝統を持つ村落であることとなる。当然ながら、みきも又こうした地勢的影響を受けながら成長して行ったと思われる。氏宮神社は当然大和神社と思われる。教理上は意味をもたないが、前川家の西北にある春日神社であったとする説もある。

 みきの生まれた三昧田村はそうした大和盆地の只中にある四十戸内外の村落であり、南には大和三山と呼ばれる畝傍山、耳成山、天香具山が見え、その南には吉野の山々が重なり、西には、金剛山、葛城山、更に二上山や信貴、生駒の連山が続く。東には、竜王山がある。この「霊山お山」の持つ意味は大きい。古来、「霊山お山」の山麓を単位として部族国家が形成されていた。部族国家が次第に統合され中央集権化されて行くのが歴史の歩みとなるが、元の部族国家はその後も地域共同体として纏まりを見せて行くことになる。そういう意味で大和盆地は霊山に囲まれている「まほろば」の地でもあった。

 三輪山の麓に沿って古代三官道の一つである古都奈良へと続く「山の辺の道」(やまのべのみち)があった。大和の古道(やまとのこどう)にして日本最古の道とも云われる山の辺の道(やまのべのみち)は、奈良盆地の東南にある三輪山のふもと(桜井市)から天理市を経由して東北部の若草山に並んでいる春日山のふもと(奈良市)まで、奈良盆地の東、平地と山地の間を縫うように南北に通る約35kmの道である。その上ツ道は、奈良県桜井市の三輪山の南西、つばいち観音から山沿いに北へ約20km、奈良盆地の東の山麓に伸びており、古代大和から飛鳥、平城を結ぶ奈良県春日山まで続く古道である。但し、現在のルートが古来のルートと同じかどうかは不明である。この道はヤマト政権発祥の地を南北に縦断する古道であり、昔より往来に利用されること頻りであった。

 とりわけてみき在世中も含まれる近世の頃にいたっては伊勢詣りへの参道となって、爆発的な群衆が行き交うこととなった。俗に云う「おかげまいり」であり、特に慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)等々においてはこの街道筋が連日連夜の賑わい見せることとなった。

 こうした事情を踏まえてみると、三昧田村は静かなたたずまいを見せる集落であったとはいえ、古くよりの文化の程度も高く、又世情の動きがいち早く伝わる交通の地でもあった。そういう意味で、村の北入口のあたりで俳聖松尾芭蕉が残した句とされている「くたぶれて宿かるころや藤のはな」は、この辺りの事情を見事に織りこんだ名句といえよう。これは、「笈の小文」(吉野紀行ともいう)に書かれた句だが、この紀行文は、芭蕉が杜国(万菊丸)を伴い吉野の花見をしたときのものである。ちなみに、句碑の設立をみたのは文化11年(1814年)で、その年のみきは、17才を数え、既に庄屋敷村に嫁いでいた。

 大和は、古代国家の王とが永年にわたって、繁栄を築いたところだけに諸国から移住してきたし、又、飛鳥、藤原、平城京などを中心にした交通路がひらかれていた為に、祭り、政治、産業、宗教、文化等に強い影響力を及ぼしていた。自然に国々から大勢の移住をみることになった訳であるが、それは、今も大和の地名として残る備前、土佐、上総などのような国名によって知れる。昔より「あおによし ならの都は咲く花の にほふがごとく いま盛りなり」と詠われる大和国のもなかであった。

 「」の「三輪・伊勢と修験道」を参照する。次のように記している。出典は、「神道 しんとう」〔参考文献〕村岡典嗣『神道史』(1956,創文社)のようである。
 「大和の東に位置する美しい神奈備(カンナビ)の三輪山を御神体とする大神神社は、日本古来の山岳信仰の中心聖域となってきた。出雲神道と結びついており、大己貴命の幸魂(サキミタマ)、奇魂(クシミタマ)を祀っている。崇神天皇7年、大田田根子が祀ることによって、天皇の国土経営を助ける神となって行く。 爾来この大神神社は大田田根子を祖とする大神氏の氏神となる(日本書紀巻五)。その後時代が下がって貞観元年(859)には正一位が贈られ、大和一宮とされている。因みに令義解の「神祇令」第一条において、大神神社は地祇の筆頭として、 天神の筆頭である伊勢と並ぶわが国の代表的な神社に挙げられている。  

 一方、伊勢の皇大神宮の起源は、崇神天皇6年にそれまで宮中の大殿に祀られていた 天照大神が皇女の豊鍬入姫命に託して倭の笠縫邑に祀らせたとの日本書紀巻五の記録を嚆矢(コウシ)としている。この笠縫邑の社は、現在大神神社の摂社である桧原神社とされている。三輪と伊勢は元々深い関係にあったと思われる。その後垂仁天皇25年3月、天照大神は皇女倭姫命に憑き、新たな鎮座地を求めて、大和の宇陀、近江、美濃を遊幸した後に伊勢国の五十鈴川の川上に鎮座される。これが内宮(ナイクウ、皇大神宮)の起こりとなる。なお日本書紀の一書においては、 その年10月に祠が度会に遷されたとしている。これに対して外宮の豊受大神は、平安時代初期に成る止由気宮儀式帳によると、雄略天皇の御代に、丹波の比治の真奈井に御鎮座の天照大神の御饌神の等由気大神を、度会の山田原に迎えられたものとされている。しかし、正史には何ら記されていない。これに加えて、外宮の神官が外宮の所在地の地名である度会と符合する度会氏であるのに対し、内宮の神官が新たな居住者を指すとも思われる荒木田氏であることから、外宮は、内宮の遷座以前にこの地に居住していた土地の豪族度会氏の守護神であったとする説もある。何れにしろ六、七世紀頃には、大和の大神神社、伊勢の内宮・外宮が成立したと推測される。

 その後、仏教の浸透に伴って神社に神宮寺が設けられるようになる。伊勢における神宮寺の初見は、続日本紀文武天皇2年(698)12月の条所載の斎宮のある多気の地にあった神宮寺を仏穢を避けてか、度会郡に移建したとの記事である。その後天平神護2年(766)には、この神宮寺に丈六の仏像が安置されている。方三輪に於ける神宮寺の初見は、延暦僧録における、唐招提寺の別当を勤めた鑑真から菩薩戒を受けた釈浄三が、天平宝治年間(757~765)頃大神寺において三輪の若宮の法楽のために六門陀羅尼経を講じた、との記載である。

 なお、時代は下がり十二世紀前半頃成立の今昔物語巻二十には、天武、持統に両朝の仕えて功のあった三輪の大田田根子を祖とする豪族大神高市麿が、大和国城上郡三輪の自宅を三輪寺としたと記されている。それ故この神宮寺も大神神社と同様に、大田田根子を祖とする大神氏によって祀られた寺であったと考えられる。因みにこの三輪寺には、本尊十一面観音、脇士地蔵菩薩が祀られていた。  

 こうした奈良時代における当初の神宮寺の成立状況を観ると、伊勢の神宮寺は 聖域就中(ナカンズク)斎宮の在所を避けて、その周辺部に移されている。一方三輪の神宮寺の場合は、主神ではなくその皇子である若宮(王子)の法楽のために造られいる。ただ三輪においては、陀羅尼を唱えたり、悪疫退散を祈るなどの祈念がなされている。 その後古代末から中世初期になると、新たに修験的な遊行宗教者の手になる寺院が造られた。三輪山においては、修験霊山において修行し、死穢の中において即身成仏の秘印を授かり、護法を使役した遊行修験者慶円(1140~1223)が三輪の別所に開いた平等寺、鋳物師や渡守と関係を持つ遊行宗教者の玄賓(818没)の庵などが成立している。特に平等寺は、室町時代に近畿地方の主要な寺院に依拠した真言系修験の結社である当山三十六正大先達寺の一つに数えられている。

 一方伊勢においては、外宮の背後の前山の世義寺や朝熊山の金剛証寺の経塚に観られるように、如法経(法華経)修行や菩提のための修験的寺院が建立されている。このうち世義寺は十四世紀初頭に円海によって中興され、後には当山三十六正大先達の重鎮となっている。また金剛証寺も十五世紀初期に中興された。  

 こうした修験的な聖とは別に鎌倉時代には、南都の仏教を代表する貞慶(1155~1213 )、重源(1121~1195)、叡尊(1201~1290)なども伊勢参宮をしたり、三輪とも関わりを持っている。尤も貞慶は笠置、重源は大峰、叡尊は醍醐と云うように、彼等にしても、修験霊山において修行し、密教や神祇にも関心を持っていた。そして伊勢においては内宮の荒木田氏、外宮の度会氏の氏寺において法要を行っていた。中でも叡尊は伊勢に弘正寺を開いて、金剛界・胎蔵界の大日如来を内外宮の本地として祀っている。また通海(1305~6頃没)のように、神宮祭主の大中臣家に生まれながら醍醐寺において修行し、密教思想に則(ノット)って伊勢の神格を説明し、法楽のために読経や護摩を修する者が出現した。世義寺を中興した円海にしても、中央の密教僧の智円の影響を受けている。

 伊勢において育まれた両部神道の思想は、三輪に大御輪寺を中興した叡僧等によって三輪に持ち込まれる。彼が著した『大御輪寺縁起』は三輪と伊勢の同体を説き、三輪の神格や状景に関する両部神道的説明がなされ、やがて三輪流神道にと結実して行く。因みにこの三輪流神道の思想や次第の中には、修験道と共通のものが数多く認められる。

 一方伊勢においては、前山の世義寺、朝熊山の金剛証寺の他に大和から伊勢への入口にあたる飯高郡丹生山丹生神社の神宮寺、熊野からの伊勢への入口の仙宮院など、神宮を取り囲むように周辺の霊山に修験の拠点が造られて行った。

 これらはまた、朝熊山、東大峰と通称される仙宮院など他界と結び付いたり、丹生のように水銀の存在を彷彿とさせる処です。しかもこのそれぞれにおいて修験的色彩の強い書物が創られた。 空海の開基伝承を記す朝熊山や丹生大神宮の縁起、役行者が開いたとする仙宮院の縁起、大神と大峰の言を記したとの記載のある世義寺に関わる『鼻帰書』などがこれですが、これらは何れも修験者が創ったと推測される。

 そしてわが国の根源として独鈷(トッコ)を重視する『鼻帰書』、内宮・外宮を胎蔵界大日・金剛界大日に充当する『鼻帰書 』や『仙宮院秘文』、空海が虚空蔵求聞持法を修したとする朝熊山の縁起に観られるように、その内容も『大和葛城宝山記』など修験霊山の縁起と類似している。尤も内宮・外宮を胎蔵界・金剛界など密教的原理で説明する試みは、修験道のみでなく、両部神道においてもなされている。

 伊勢において結実した両部神道の思想が、三輪に持ち込まれて修験的色彩の強い三輪流神道に成って行く。こうした両部神道や修験道にも共通する思想は、伊勢や三輪を拠点とした密教や神道に詳しく、修験にも関心を持つ僧侶等によって創られた。これが三輪流神道や御法流神道にと結実して行った」。

【物部氏の本拠地「交野~ 桜井、巻向」考】
 物部氏の土地を歩く 縦断禁断の地交野~ 桜井、巻向」を転載する。
 物部氏の現在における謎は、なんといっても彼らの本願地が大和~北河内の山間地に追いやられていることである。三輪山の山麓・巻向から唐古・鍵、あるいは二上山。葛城山まで彼らの古い言い伝えや記録が残っているにもかかわらず、今、この古代豪族の痕跡は三輪山から北の山間部にしか残っていない。物部氏は本来、彼らの部下であった縄文系海人族たちのいた山の中へと追い上げられているのである。物部氏の「追いやられたコース」を逆に辿ってみる。まず大阪府枚方市から始めよう。

 枚方はもともと「白肩」と書く。新羅のほう・・とでもなんとでも解釈は自由でいい。現在の枚方市~樟葉まで含めて昔は交野である。その証拠に交野天神社は枚方市楠葉にある。ここには継体天皇 樟葉の宮が比定地として同居する。いわゆる物部氏の中では新しい資料に現れる肩野物部氏が住む土地である。枚方市東部、宮之阪から私市・・きさいち・・までは旧・「点野」、「禁野」である。交野という文字には×の字が入っているが、これはもともと禁野から転じたと考えている。天皇の狩猟場として肩野物部氏が献上した記録がある。「禁断の地」・・・それが禁野・・・交野ではなかろうか。

 私市は私市部として記録された人々のいたところ。ここから先は磐船街道が南へ走る。河内磐船駅から歩いて天田神社へ。街道の起点である。天野川に沿ってさかのぼる。太陽神・ニギハヤヒに会うためには、歩かねばならない。遙拝ルートを。磐船神社は物部氏の祖神・ニギハヤヒ命が天の磐船に乗り、そらみつ大和の国を天空から眺めながら降り立ったという、「もうひとつの天孫降臨」の場所、咆哮峰である。神河・天野川は天上の天の川に模して名付けられたのか?関西最大の大河・淀川から別れる支流で、その分岐点にあるのが白肩の津である。枚方から北はもう山城の国、綴喜郡である。大筒木真若王で知られる。「つつき」が今の「つづき」郡と転じて、現在そこは八幡市となっているが、ここに京の南の鬼門とも言うべき三川合流の地がある。男山、石清水八幡宮である。秦氏が祭るこの神宮によって物部氏の侵入はここで止められた格好になる。物部氏はまずここで北の門を閉められたと言っていい。ゆえに「しめの」かとも思える。

 現在、三川合流はこの目ではっきりと見ることができるが、中世以前はここに巨大な湿地帯が存在した。宇治、木津にまで広がる巨椋池である。今でも八幡は低地で有名な流れ橋などさかんに決壊をする川が多い。巨椋池は平安京にとって南の朱雀にあたる。干拓されてしまうと、とたんに首都は江戸に移ってしまった。

 さて元に戻って、磐船神社である。天野川を上り詰めたところに巨石が山のように落ちている。その岩の隙間を縫うように胎内巡りができるようになっている。社務所で、異様に顔の白い宮司さんからこれまた白い遍路着をもらい挑戦する。途中暗がりや、ほこらが点在し、薄気味悪い暗渠には小さな社が置かれ、卵が奉納されている。そう、ここの神は蛇なのである。蛇とは三輪山の大物主のことに他ならない。従って、ここの主祭神ニギハヤヒとは大物主の顕現した実体だったと考えてよかろう。ニギハヤヒ=大和大物主 物部氏を解くための補助線その1がこれだ。

 さて次に参るのは機物神社である。ここは牽牛・織女を祭る。画像データが壊れたためこのページは画像が少ない。申し訳ないが興味ある方はご自分で行かれよ。天の川があるなら、彦星・織り姫がいて当たり前?などと思われるな、これは物部氏にとっての天照大神といっていい存在。道教で言えば二人は伏儀と女禍である。天の星となるのはおそらく物部の眷属であった、水先案内人・海の民の星信仰と混交してのことだろう。海人の星信仰は航海の指標としての星座崇拝であるから、どこかで必ず大陸の道教とはつながってしまう。太一、北斗、参・・オリオンなどの宿星信仰は海に関わる一族なら持っていて当然だろう。大和の氏族がそれをどう扱ったかは、高松塚など見れば一目瞭然である。彼らには彼らの星信仰があり、それは底辺にいる海人族とよく似すぎていた。権威ある者にとってはそれは大変迷惑な話であったろう。当然のような信仰の取り上げと追い立てが始まる。歴史とは迫害の繰り返しと言っていい。

 星田の町に戻り、星田妙見宮へあがる。ここも山頂に巨石があるが、妙見信仰そのものは江戸時代あたりの新しい信仰形態である。だがもともとここに星への信仰が残っていたために後になってもブームはスムーズに入り込んだとも思える。巨石は北の北極星や、それとセットになる北斗七星からのスターライン上にある。同時に日の出も拝んだのかも知れない。

 ニギハヤヒの道の先には大和がある。途次に登美の長髄彦のいた鳥見がある。そこから生駒山地が始まる。生駒を西に下れば日の出の遙拝地・孔舎衛である。そこにはやはりニギハヤヒを祭る石切剱矢神社がある。いわゆるデンボ・・関西弁でおできのこと・・の神様で民間の信仰を集める薬師、祇園、厄除けの神であり、そこにはすでに出雲大国主や少名彦名のイメージが混交されている。

 長髄彦は神武天皇に対して、奉公するニギハヤヒが天から持ってきた天の羽羽矢を見せる。それは天孫の証の品である。神武は困ったことだろう。自分と同じ証を見せられては同族となって殺戮に大儀がなくなってしまうからだ。「天孫にもいろいろあるのだ」などと苦しい言い逃れをするが、実のところよく考えれば、最初からニギハヤヒが大和に先行していることは東征の最初の動機としてちゃんと書紀にかかれているのだ。知っていて侵入すること、それを現在は家宅侵入罪という。もともと神武に大儀などなかったといっていい。それは単なる侵略戦争に他なるまい。

 結局、神武は長髄彦だけを殺害する。それも自分の手ではなく、直属上司であったニギハヤヒが誅殺したことになっている。つまり神武は長髄彦も物部一族もどちらにも手をくださなかったとういことだ。なのになぜ彼は天皇になれたのか?当然、為政者物部氏を懐柔し、自らがその管理者となったのである。とは言っても武力、技術力すべてで在地の物部に地の利があったはずだ。九州から遠路やってきた田舎氏族に余力のあろうはずもない。ゆえにつじつまあわせにヤタカラス(葛城鴨一族)や高倉下(物部亜流の天香語山命一族)が協力したという話を作り出すことになる。物部氏本流をよく思わぬ在地勢力も確かにあったかも知れない、しかし彼らに神武に協力するいわれはない。実際には金や後の役職取り立てなどでおだててあげて懐柔したのだろう。

 あわれなのはひとり殉死させられ、あげく出雲に流された長髄彦の御霊である。祟る可能性のある神霊の監視には葛城鴨氏が随行したのだろう。彼らがやがて出雲千家になるのか、あるいは後からまた管理者がやってきて出雲国造家となったのか定かでない。

 いずれにせよ故なくも死んだ海人族長髄彦の霊は、当時の感覚では、必ず祓いやる必要があっただろう。そしてそれは深い祟りなきよう、同族、あるいは上司の手で行われたであろう。それが祓いと清めのルールである。どっちに転んでも結局、長髄彦の神霊は管理者・物部氏の祖霊・・・すなわち、この時やはり殺されたはずのニギハヤヒ=大物主によって慰霊されなければ収まらなかった。

 それで、大物主はある時急に、出雲に現れることとなる。10代崇神天皇の時代である。「私はおまえの幸魂、和魂である・・・」 彼は大国主にそう言い、「みもろの山にも私の神霊を祭れ」と申しつける。こうして管理者物部氏の手で長髄彦=大国主の霊は出身地出雲に鎮められる。出雲大社はこれより、天皇家が滅ぼした異形の人種達の霊が集まる場所となる。普段は在地で在地の同族に祭られている神々は死の季節である冬が始まる10月に出雲に召還されるのである。

 古代、収穫が終わった時からが冬の始まりであった。春は田植えとともに始まり、梅雨の長雨が夏。そして収穫前のたわわに稲が実る前が秋なのである。つまり一年は今の半年しかなく、あとの半年は寝て暮らさねばならない夜の季節。いわゆる闇の季節なのである。

 国譲りで出雲の御子神たちは天皇家に散会させられている。三人の神・・・八重事代主(異形の海人族)、あじすきたかひこね(高鴨大神、葛城鴨氏、別名高御神)、たけみなかた(九州白水郎族の宗像一族と臣下であるポリネシア系縄文海人族安曇一族)はそれぞれ追いやられた。八重事代主はえびすとなり異形の山の神・海の神としてあじすきたかひこねの葛城に祭られた。鴨氏はこの神霊を祭るため葛城に戻った。たけみなかたは奥地へと追いやられ、父大国主の母方、諏訪へ逃げ込んだ。おそらく姫川という翡翠のルートから中部地方に入り、岐阜、飛騨、諏訪、伊那、新潟、などへおかあがりしていったのだろう。安曇野はこの名残の地名か。

 九州で「すがる」という蜂のことを長野でも「すがれ」という。石見地方の子供の遊びには「かもがきた」という戦争ごっこがある。「かも」とは「鴨氏」あじすきたかひこねのことだろう。この神は漂白の民の間で紙漉の神、祖人として慕われていた。石見のこの遊びは実は被差別民がいた頃の子供らしい、無意識の無慈悲を感じさせる。追われたナガスネヒコ一族に対し、鴨氏はおそらく優しくしてあげたのかも知れない。あるいは彼らも葛城あたりの縄文系海人の血を引いていたのかも知れない。それはおそらく国巣と呼ばれる土俗の巫師集団だったのかも知れない。

天鈴621年 崇神1年 第10代崇神天皇即位。
天鈴623年 崇神3年 史貴御県坐神社の西側にある崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)を新都とする。崇神天皇の御世まで、国常立尊は神璽(かんをして)を神依代として、天照神は八咫鏡を神依代として、大国魂神は八重垣剣(叢雲剣)を神依代として宮中で祭られていた。
天鈴624年 崇神4年 10.23日の勅命によって、豊耜入姫が天照神を笠縫に祭り、渟名城姫が大国魂神を山辺の里に祭り始めた。神武天皇のときに集まった三種神宝が分離した。三種神宝の分離を決定した宮が崇神天皇の磯城瑞籬宮伝承地(しきのみずかきのみや)。
崇神5年 疫病が流行り、半数近くの人民が死に絶える。
崇神6年 民が離散し始める。
天鈴626年 崇神6年 9.16日夜、大国魂神を大和神社へ遷宮し、同年9.17日夜、天照神を笠縫の檜原神社(ひばら)へ遷宮する。
天鈴627年 崇神7年 第2代大物主の奇彦命の神託によって、同年10.1日、大直根子命が大三輪神の斎主、長尾市命(ながおいち)が渟名城姫に代って大国魂神の斎主に任命された。




(私論.私見)