大神神社詣り南方詣り順路 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).2.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、大神神社の南方詣り順路を確認しておく。「山の辺の道を歩く」その他参照 2006.12.3日 れんだいこ拝 |
【南方詣り順路】 |
三輪明神(大神神社)南方詣りの順路。三輪明神拝殿から日本最古の山の辺(へ)の道を通り、小鳥のさえずりを聞きながら新緑の三輪山の麓を歩くコースとなる。道中、旧平等寺跡や大物主大神・天照大御を祀った神崇神天皇の皇居が有ったとされる磯城瑞籬宮跡(しきみずがきのみやあと)、金屋の石仏、日本最古の交易の市・海柘榴市(つばいち)、日本に初めて仏教が伝わったとされる仏教伝来の地、欽明天皇の磯城嶋金刺宮跡(しきのみつかきのみやあと)など歴史ロマン溢れる地域を散策しながらお詣りできる。
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【南詣り一番/ 末社/神宝(かむだから)神社】 |
神宝(かむだから)神社の所在地は奈良県桜井市三輪字大宮川上。本社前から山の辺の道を南に出てすぐ、左手(東側)奥の山麓に鎮座している。祭神は家都御子神(けつみこのかみ)、熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)、御子速玉神(みこはやたまのかみ)の熊野(ゆや)三神(別名は熊野(ゆや)権現、三所(さんしょ)権現)。古くから三宝荒神の信仰もあり、財宝の神としても広く崇敬されている。神社左手には本社の禁足地でもある神域を見ることができる。
元旦未明、大神神社本社から御神火(しんか)が奉納され、真っ先に神事が執り行われる。これは繞道祭(にょうどうさい)とよばれ、三輪明神の年頭を飾るご神火の祭典であり国家、御皇室の安泰と国民の幸福を祈る。繞道祭に用いられるご神火は、新年の始まりの午前零時を期して、拝殿の東方の禁足地内で宮司によりきり出され、拝殿大床の燈籠に移し置かれる。宮司により祝詞奏上の後、ご神火を小松明に点し二人の神職が拝殿内を走り出て、拝殿前の斎庭で待つ3本の大松明に火が継がれる。そして、先入道(さきのにゅうどう)・後入道(あとのにゅうどう)とよばれる2本の長さ約3mの大松明と、少し小さめの神饌松明(しんせんたいまつ)の計3本を氏子の若者がかつぎ、神職と共に山麓に鎮座する摂末社19社を巡拝する。 (余談)繞道祭の「繞」とは「めぐる」という意味す。ご神火が境内のご神火拝戴所に移されると、待ちかまえていた参拝者の皆さんが先を争って持参の火縄やカイロに火を移しとる。このご神火はそれぞれの家庭に持ち帰られ、神棚のお灯明や雑煮の祝火に用いられ、一年間の無事息災が祈られる。大和の正月は繞道祭で明けるといわれる年初の勇壮な火の祭典、繞道祭は浄火を尊んできた日本人の古代からの信仰を今に受け継ぐ神聖な神事であね。 |
【南詣り二番/ 摂末社/天王山天皇社(てんのうしゃ)】 |
末社「天皇社」
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天皇社(てんのうしゃ)の所在地は奈良県桜井市三輪字天王山。神宝神社から山の辺(へ)の道に戻る左の小高い山の上に鎮座している。祭神は第十代崇神(すじん)天皇(御真木入日子印恵命、ミマキイリヒコイニエノミコト))。崇神天皇は宮を三輪明神(大神神社)摂社・率川神社境内(奈良率川宮・いさがわのみや)より、三輪山麓の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)に遷り、歴史上初の画期的な政治を行い、祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家(大和朝廷)の基盤を整えたとされる御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称される。毎年11月14日には祭神の聖徳を称え「崇神天皇奉讃祭」(すじんてんのうほうさんさい)が執り行われ、神楽「磯城の舞(しきのまい)」が特別に奉奏される。
崇神の御代、宮中に天照大神、大物主大神の二柱を祀っていたが、天照大神は倭笠縫邑(桧原神社)に遷し、大物主大神は大田々根子命(おおたたねこ)を祭主とし三輪山(三輪明神)に祀り、天社・国社を定め、東海や北陸、西国、丹波の四方に皇族四道将軍「大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)」を派遣、教化を盛んに取り入れた。それに伴い産業交通を発展させ、国民の福利を進め大和朝廷の基礎を築いた。 大物主大神については、崇神の御代に民が死に絶えてしまうような疫病が発生した。これは三輪山の神、大物主大神が起こしたと「お告げ」を受け、天皇は神の意に従い神の子孫となる大田田根子を探し出した。そして大田田根子命に託し、三輪山(三輪明神)に大物主大神を祀ったところ、祟りが鎮まり疫病が治まったとされる。崇神天皇は、いにしえの代、廃れていた大神神社を再興させたという意味では重要な御神になる。 |
【南詣り三番/ 末社/三輪成願稲荷(みわじょうがんいなり)神社】 |
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三輪成願稲荷社(みわじょうがんいなりじんじゃ)は三輪明神の神宮寺「平等寺、大御輪寺、尼寺の浄願寺」の三寺院が知られている。その中のひとつ、浄願寺(尼寺)は鎌倉時代の正応3年(1290年)に鎮守社として創建された。その後、明治時代の廃仏毀釈により寺の跡に稲荷が勧請された。祭神の宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)の別名は稲荷大神。配祀として市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)が祀られる。現在は大神神社の末社となっている。 この社の本殿は二間社流造・三社形式で入母屋造、瓦葺の中にあって特徴的な造り。三輪成願稲荷神社は全ての食べ物を司ると共に商売繁盛・開運招福・念願成就の願いが叶うと伝えられている。また手前には神社の歴史を物語る土塀が出迎えてくれる。この社の参道である高宮地区から続く西の参道入り口には地蔵堂がある。 |
【南詣り四番/ 大神神社摂社/神坐日向(みわにますひむかい)神社(旧高宮神社) 】 |
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末社「高宮神社」
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摂社/神坐日向(みわにますひむかい)神社(旧高宮神社) は大和国城上郡御子ノ森(みこのもり)に鎮座する(奈良県桜井市大字三輪字御子宮)。 祭神は櫛御方命(くしみかたのみこと)、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)、建甕槌命(たけみかづちのみこと)親子三代の神が祀られている。北向きに鎮座、南中の太陽を拝する。大物主神と陶津耳命の娘である活玉依毘売の御子が櫛御方命、その御子が飯肩巣見命、その御子が建甕槌命で、大田田根子がその御子とされている。※建甕槌命は鹿島神宮祭神「建甕槌命」とは別神とされる。この社の鎮座地は旧平等寺跡の西端の高台に位置し、建武三年・延元元(1336年)動乱の幕開けとなり、京都を離れた後醍醐天皇(南朝)の吉野遷幸の折、これを迎えた桜井地域の土豪である三輪神主「大神勝房(三輪西阿)」の三輪城の跡で城山ともよばれる。 明治維新後に社名が誤って入れ替り、本来は三輪山山頂に鎮座する摂社・高宮(こうのみや)神社は「神坐日向神社」であり、現神坐日向神社は「高宮社」(こうのみやしゃ)が本当の社名である。俗に御子宮とも称し、式内社・神坐日向神社の論社で、大神神社の境外摂社。祭神は、大物主神と、陶津耳命の娘・活玉依毘売の子である、櫛御方命。その子が、飯肩巣見命。その子が、建甕槌命。その子が大田田根子。ということで、大神神社初代神主の祖。この神社境内入り口左には高宮神主家の家宅があり、この地のよび名も地元では高宮(たかみや)とよぶ。平安時代の「延喜式」神名帳にも記される古社で、御子神を祀ることから神社の古絵図に「御子宮」(みこのみや)として描かれている。高宮神社の高宮とは三輪明神(大神神社)の神主の姓で「大神→三輪→高宮」と変化した。
祭神の追記として、古事記によるところ大物主は陶津耳命(かもたけつのみのみこと)の娘・活玉依毘売(いくたまよりびめ)と結婚、櫛御方命(くしみかたのみこと)をもうけられた。この櫛御方命の子が飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)。その子が建甕槌命(たけみかづちのみこと)。その子が意富多多泥古(おおたたねこ)、日本書紀では大田田根子と記されている。この子孫である大田田根子は、崇神天皇の御代に三輪山の神主となり、三輪明神(大神神社)初代神主の祖となる。
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【南詣り五番/ 末社/大行事社(だいぎょうじしゃ)(三輪坐恵比須神社)】 |
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大行事社(だいぎょうじしゃ)の所在地は、奈良県桜井市大字三輪。本社三輪明神(大神神社)の南に位置し、現在の平等寺四つ角を東に進んだところに鎮座している大神神社の摂社。石段上に鳥居が立ち、祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)、
加屋奈流美神(かやなるみのかみ)、 八尋熊鰐神(やひろのわにのかみ)。三輪駅から少し西方に位置する三輪坐恵比須神社(みわえびすじんじゃ)の元宮である。日本最古の山の辺(へ)の道の始発点の「海柘榴市(つばいち)」が栄えていた頃、当社の分霊を祀られていたが、初瀬川の氾濫で海柘榴市が度々流されてからは三輪の町中に移され、三輪坐恵比須神社となった。そのことから日本最初市場を守る三輪坐恵比須神社とも称される。毎年2月6日の初えびすの日に、三輪素麺などの初相場が立ち価格が決められ、古くから商工業の市場の御守護神として篤い信仰を集める。
事代主神は大国主命の子で古事記によれば、国譲りを要求する高天原からの使者に対し、父の大国主神に代り国譲りの誓約をしました。神々の託宣の神とされ神のお告げをのべる役割をもつとされる。加屋奈流美神は記紀には現われないものの、出雲国造神賀詞では、大己貴命(おおなむちのみこと)が皇孫の守護神として倭国の周りに鎮座させた四座「大物主大神、 阿遅志貴高日子根神( あぢしきたかひこねのかみ)、事代主神、加屋奈流美神」の中の一座で加屋奈流美神(飛鳥神奈備三日女神)として飛鳥坐神社に鎮まる。 創建、由緒は不明だが、八尋熊鰐神は書紀・神代紀(第六の一書)、先代旧事本紀に、事代主神が大きな鰐(八尋熊鰐)と化して、三嶋溝杭(みしまのみぞくい)の玉櫛姫(たまくしひめ)の処に通い、神武天皇の皇后である蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を生んだと記され、事代主神と同神とされる。古事記には、豊玉姫が八尋鰐の姿で神武天皇の父である鸕鶿草葺不合尊を生まれたことが記されている。 現在は、十一面観音を御本尊とする曹洞宗の寺院となっている。関ケ原の戦で徳川軍の中を切り抜けた薩摩の島津兵のうち、島津義弘以下十数名が当寺に落ち延び助けを得たことから長く薩摩藩とは縁があった。 ※磯城瑞籬宮跡とされる「志貴御縣坐(しきみあがたにます)神社」は三輪明神の管轄外、管理は三輪坐恵比須神社(日本最初市場守護神)。 |
「初えびす☆湯立て(御湯みゆ)」神事。三輪の初えびすは旧暦正月の行事だったが現在は新暦2月6日に本えびす大祭、7日は「残り福」と呼ばれ湯立神楽(御湯の神事)や御供まきで賑わう。湯立(御湯みゆ)は、拝殿前斎場に据えられた8つの湯釜に白の浄衣と白袴姿の湯立巫女が御幣と鈴で清祓、続いて襷掛けになり湯釜に塩と洗米、神酒を注ぎ御幣の柄で湯をかき混ぜ釜からお湯3杯ずつ桶に汲み取り神前に宮司を介して献上する。そのあと笹束を両手に執り、一の釜から順に北、西、南、東に向ってお湯を振りまく御湯祓いとなる。拝殿から楽人による雅楽の調べが流れるなか豪快に上がる湯煙と湯花、約8分間神々しく凛とした湯立に周りには緊張感が漂う。湯立神楽のあと振舞われた釜の湯立の残り湯、有難く湯呑でいただき無病息災や商売繁盛などを祈る。 |
【南詣り六番/ 大神神社境外末社/春日社(かすがしゃ)】 |
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末社・春日社(かすがしゃ)は大行事社右横の道路を東へ進むと、大三輪教本院の堂舎に突き当たります。そこを左手に進むと小高いところに石畳の参道があります。参道を少し登った先に木立に囲まれるように鳥居が立ち、春日造の小祠が鎮座します(奈良県桜井市大字三輪字平等寺五)。 祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、斎主命(いわいぬしみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめのかみ)の春日四神を祀ります。この春日四神は奈良の春日大社から勧請されたということですが、勧請由緒及び時期などは不明とされます。小さな社ですが、禁足地でもある境内の広さは摂末社の中では一番の広さを誇ります。 また神社境内や近隣は大神神社の神宮寺たる旧平等寺跡とされ、江戸後期の絵図には「本堂、奥の院、不動堂、鐘楼」などの伽藍が描かれ、東奥に鎮守社らしい一画が描かれおり、現在の春日社の前身と思われます。大行事社から春日社へ至る小路の左手、北側の草木に覆われた古い石垣の上に平地が残り、江戸時代までは、大神神社の神宮寺として、同じ神宮寺であった大御輪寺(現大直彌子神社)を凌駕する大伽藍を有する盛況を極めたと伝わります。明治維新後、廃仏毀釈により完璧に破壊され、現在は何も残っていません。尚、現在の平等寺は明治二十三年六月十日に河内から移された翠松寺とされます。 |
【南詣り七番/ 末社/事比良社(ことひらしゃ)】 |
末社・事比良社(ことひらしゃ)、所管社・稲荷社(いなりしゃ)は、三輪明神から山の辺(へ)の道を南へ進み、金屋の石仏から数十メートル進むと、左の小高い丘の上に鎮座している。参道が少し見っけにくいが境内からの見晴らしは中々のもの。境内は狭く南側を除いて雑木の混じった竹藪に囲まれており、竹の新緑が快いところでもある。祭神として向かって右側の事比良社は大物主神(おおものぬしのかみ)で一段高い石畳に鎮座している。向かって左側の稲荷社は宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)です。 |
【南詣り七番/ 所管社「稲荷社」】 |
所管社・稲荷社(いなりしゃ)は、末社・事比良社(ことひらしゃ)に向かって左側に鎮座している。祭神は宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)。 |
【南詣り八番/ 末社/八阪神社・金比羅社(やさかじんじゃ)、所管社「大峰社・賃長社」 】 |
末社「八阪神社・金比羅社」、所管社「大峰社・賃長社」
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末社・八阪神社(やさかじんじゃ)は金拆神社へ向かう道中、標識が立てられる、民家の間に参道があります。深い木立の中に立つ鳥居を進み、急勾配の石壇を登り切ったところ、珍しい拝殿のひとつ、建物の真ん中を参道が通る形式の割拝殿があります。拝殿が閉まってることが多く、右に回ると境内にでます。石垣の上には朱色の瑞垣と土塀に囲まれた神域、その中には春日造りの社、左から所管社・賃長社(はにながしゃ)、末社・八阪社、所管社・大峰社(おおみねしゃ)が鎮座します。境内右手に、同じく大神神社末社・金比羅社(こんぴらしゃ)が鎮座します。
祭神として八阪社は素盞鳴命(すさのをのみこと)、大峰社は山の神である大山祇命(おおやまつみのかみ)、賃長社は長寿祈願の神である磐長姫命(いわながひめのみこと)、金比羅社は大物主命(おおものぬしのみこと)です。金比羅社の祭神は三輪明神の大物主大神とは神格が異なります。特徴として八阪神社の灯籠には「牛頭天王」とあり、昔は牛頭天王ともよばれていた可能性があります。神域内に並んだ左手の賃長社の側面には槌の紋が描かれており、他の八阪社、大峯社には三巴紋が描かれてます。 現在の社名は八坂神社とよばれますが、祭神を素盞鳴命とすることから江戸時代までは、防疫神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀る牛頭天王社として村人から崇敬されていたと伝わります。明治初年の神仏分離により牛頭天王が排され、社名を八坂神社へ、祭神は同一神格の素盞鳴命と変更されました。江戸期かそれ以前に、疫病除けの防疫神として勧請されたと思われますが状況は不明です。この神社は近隣村落の鎮守社というのが原点であり、三輪明神の末社となったのは、明治以降で比較的新しいと言うことです。また神社の祭礼は神楽なども行われ華やかな時期もありました。毎年の10月9日の例祭には、地元の老若男女がそれぞれの役割を帯びて集まり、朝6時からおこなわれるという。古い信仰が姿をかえて残っています。 |
【南詣り九番/ 末社/金拆社】 |
末社「金拆社・天宮社・神室社・大峰社」
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三輪と慈恩寺の境にある末社・金拆社(かねさきしゃ、かなさきしゃ、がなさきしゃ)。この神社は瑞垣に囲まれた老樹を中央に拝する形式で、原初の神祀りに近い存在です。摂末社の中で分かりにくい所にあり、参拝するのが最も困難と云われている。同座として末社・天宮社(あめのみやしゃ)、末社・神室社(かみむろしゃ)、末社・大峰社(おおみねしゃ)が祀られている。また摂社・綱越神社と同じく、神事の際には重要な社の一つでもある。
八阪神社から玉列神社へ向う道中に鎮座している。桜井市立学校給食センターの東側に位置し、駐車場の東の端に、三輪山へ登る道がある。三輪山の南の口に当るところでもあり、狭い階段の下には「入山禁止」の立て札が立てられている。学校給食センターの昔はこの地一面、鬱蒼とした不気味な竹林に覆われており狸や狐に化かされるので、気を付けろと言われていたところでもある。また、この神社は三輪山の山中にある磐座(奥津磐座)の遥拝所としての役目があるとされている。 祭神として末社・金拆社には宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)、綿津見神(わだつみのかみ)の子で、阿雲連(あづみのむらじ)などの祖(おや)とされる。「拆」は信濃の佐久郡を意味し、信濃国更級郡の氷銫斗賣(ひかなとめ、ひがのとめ)神社の氷銫と関係深いとされ、同じく綿津見神の御子で安曇宿禰(あづみのすくねつぐなり)の祖である穂高見命(ほたかみのみこと)と同神とする説がある。 |
【南詣り九番/ 末社/天宮社】 |
末社・天宮社の祭神は天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと)。古事記に大物主は陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘・活玉依毘売(たまくしひめ)と結婚、櫛御方命(くしみかたのみこと)をもうけたと記されている。の櫛御方命の子が飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)、その子が建甕槌命(たけみかづちのみこと)であり鹿島神宮の建甕槌命とは別の神。その子が意富多多泥古(おおたたねこ)、日本書紀では大田田根子と記される。子孫の大田田根子は崇神天皇の御代に三輪山の神主となった。 |
【南詣り九番/ 末社/神室社】 |
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末社・神室社の祭神は龍神である闇淤加美神(くらおかみのかみ)。古事記に伊邪那岐神が火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を斬った時、 その剣の柄に集まった血が、手の指の股から洩れ出てできた二神を闇淤加美神、闇御津羽神(くらみつはのかみ)と呼ぶ。 |
本殿横に神宝神社がある。この「神宝」をどう解釈すべきか。スピリチュアル一説に「神宝」は「人間そのもの」とある。「神宝」をして「財宝」だと解する説もある。仮に「三種の神器」と考えれば「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)、「八咫鏡」(やたのかがみ)、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)という可能性が高い。 |
【南詣り九番/ 末社/・大峰社】 |
末社・大峰社の祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。日本書紀では伊邪那岐神が火の神である迦具土神を斬ったときに生まれたと記している。山を司る神「山神」。別名の和多志大神(わたしのおおかみ)の和多は綿津見・海神(わだつみ)であり海を司る意味合いもある。大山津見神を祀る本源の神社、大山祇(大三島)神社の杜伝では山・海兼備の神であるとされる。この神は各地に祀られており、主祭神以外にも境内の小祠や石に祀られていることが多く見られる。 |
【南詣り十番/ 境外摂社「玉列神社」】 |
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玉列(たまつら)神社(奈良県桜井市慈恩寺383)は、大神神社から山の辺(へ)の道を南麓の旧伊勢街道沿いの台地に初瀬街道(旧伊勢街道)に沿う慈恩寺集落の小高い丘の上に、鳥居から本殿背後に三輪山を仰ぐ形式で鎮座している。旧村社であったが大正10年に大神神社の摂社となった式内社である。 この神社は927(延喜式)年の延喜式神名帳に「大和国城上郡玉列神社」とある初瀬谷における最古の式内社神社で、大神神社の境外摂社となる。本殿は檜皮葺春日造り、1773(安永2)年改造。拝殿は切妻造の瓦葺で本殿と同じ安永2年の改造(創建は不明)。 「玉列」は玉を貫ねるという意味で「魂貫」(たまつら)、魂を延々と受け継ぐ意味合いがある。一説に雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はせあさくらのみや)伝承地の間近(三輪山南部)に鎮座することから王権による三輪山祭祀の南礼拝所として創祀されたと伝わる。玉列神社の東隣に「阿弥陀堂」という一宇がある。もともと玉列神社の神宮寺だったといわれており本尊は阿弥陀如来像(12世紀前半の作)で、桜井市の史跡に指定されている。 祭神は玉列王子(たまつらおうじ)神で、本社・大神神社の大物主の御子神(みこがみ)と伝えられる。配祀として天照大御神、春日大御神が鎮まる。江戸時代より玉椿大明神(たまつばきだいみょうじん)として地元で親しまれている。子宝石と親しまれる「誕生石」に合掌して急な石段を上ってお参りする。 |
神の名に相応しく、鳥居を入ると参道脇に咲く色鮮やかな赤や白い椿がやさしい花姿で出迎えてくれる。玉椿の名所で近世まで「玉椿大明神」(たまつばきだいみょうじん)と呼ばれる。神社境内には200種約500本の椿が植えられ椿の木が多い。背後の山に椿の大木が多く古くから崇敬されている。これは海石榴市からきているという考えや、玉を貫ねるという意味で魂貫という説、あるいは元々この場所はタマツナギという地名だったことからきている等、諸説がある。 毎年3月下旬、三輪明神摂社の玉列神社では「椿まつり」が開催される。昔より「玉列のつらつら椿」、「つらつら椿の玉列神社」として有名で同社の椿に会いたくて参詣する者が多く、遠く京阪神、東海地方に至るまで厚い信仰を集めている。「金色のお砂」は招福のしるしとして尊ばれている。椿が供えられる祭典のほか、髪に椿の花を付けた巫女による神楽「浦安の舞」の奉奏が行われる。「金色のお砂」は招福のしるしとして尊ばれている。椿饅頭の販売や椿煮麺(にゅうめん)の振る舞いもある。 |
【南詣り十番/ 末社「祓戸社、金山彦神社、猿田彦神社、愛宕社」】 |
末社「祓戸神社」
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玉列(たまつら)神社境内には末社「金山彦(かなやまひこ)神社、猿田彦(さるたひこ)神社、愛宕社(あたごしゃ)」が拝殿右(東側)に鎮座する。金山彦社の祭神は鉱山・金属・鍛冶などを司る金山彦神(かなやまひこのかみ)、猿田彦社の祭神は道案内の神(塞神・道祖神)、交通安全の神である佐田毘古神(さるたひこのかみ)。愛宕社の祭神は火を司る神で「かまど神」とも呼ばれる火産霊神(ほふむすびのかみ)。この三神は「かまど三柱大神」と信仰されており、「火」を扱う製鉄に携わるタタラ民が関係あるとの説がある。 |
玉列神社の東隣にある「阿弥陀堂」という一宇があり参詣、もともと玉列神社の神宮寺だったといわれており本尊は阿弥陀如来像は12世紀前半の作、桜井市の史跡に指定されている。 |
【南詣り十一番/ 玉列神社境外摂社「素盞鳴神社」】 |
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素盞鳴(すさのお)神社は磐座信仰を現在も残す神社の一つで、近鉄朝倉駅から東に数分の所に鎮座しており、三輪の明神(大神神社)の摂社・玉列神社の境外摂社でもあり、この二つの神社は慈恩寺区の村社でもあります。素盞鳴神社は暴れ者で有名な神「素盞鳴命(すさのおのみこと)」が祀られる。神社拝殿の奧には小さな社が祀られており、その社を守るように巨大な磐座が鎮座しており、この磐座をご神体とする自然崇拝ということから歴史の古い神社である。また本社の玉列神社境内に、この素盞嗚神社の遙拝所があることから、玉列神社よりも古い歴史があり、この磐座は慈恩寺地区の祭祀場として重要視される境外摂社ということになる。 祭神の素戔嗚命は、村では「天王さん」と呼ばれており神仏習合の時に午頭天王(こずてんのう)と混同されたものと思われる。神社境内の公園(ブランコ、滑り台)からは弥生式土器の発掘が見られることから古代から祭祀が行われていたことがうかがえる。一体に広がる地名の慈恩寺は奈良時代から南北朝の頃までの広大な寺院によるもので、現在は玉列神社の入口付近の阿弥陀堂が残るだけの名残となっている。
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素佐男神社(祗園社) | |
平等寺の北側に素佐男神社が鎮座している。地元では親しみをこめて「祗園さん」と呼んでいる。南から入った参道右横に「回り石」または「夫婦岩」と呼ばれる磐座があって、丸餅のような石が2個、南北に並んでコンクリートの枠内に納まっている。これに似た列石は、志貴御県坐神社にもあり磐座を考える上で興味深い。1880(明治13)年の「大神神社儀式」の4月上卯日(春の大神祭)の項には、「回り石」について次のような記述がある。
左側から金比羅大権現、愛宕、白山祠、庚申が祀られている。この祗園社で春祭の中心行事である田植祭が行われたとの見解がある。子供が神事に矢を射るのは、柳田国男氏の説によれば「その年の豊作を占うため」である。また、「はぜう社」は、端山(麓山神)のことで、麓上(はじょ)さんはその俗称とある。 |
(私論.私見)