大神神社詣り順路 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).2.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、大神神社の詣り順路を確認しておく。「山の辺の道を歩く」その他参照 2006.12.3日 れんだいこ拝 |
【神遊びお詣り】 |
神遊びは一日の中で一番静かな時にお詣りする。三輪明神(大神神社)は夜のお詣りができる。伊勢神宮の内宮外宮(別宮を含む)などでは正月を除きお詣りすることができない。神社二の鳥居から出迎え灯篭に続けて導き灯篭が連立しており、神社拝殿まで導いてくれる。但し、摂末社の「活日神社・久延彦社」の石段は要注意である。「神遊び」とよぶと不謹慎と思われやすいが「丑の刻詣り」となると誤解される場合があるのであえて「神遊び」とよぶ。 順路は二の鳥居から参道を通り、祓戸社にお詣り後に三輪明神拝殿へ。その後は活日神社(いくひじんじゃ)、磐座神社(いわくらじんじゃ)、市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)、狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわのあらみたま)、久延彦社(くえひこじんじゃ)、若宮社(わかみやしゃ)(大直禰子神社・おおたたねこじんじゃ)、琴平社(ことひらしゃ)とお詣りして、そのまま南に進むと二の鳥居前に戻ることができる。 丑の刻参りとは、山の中を白衣で頭に蝋燭をつけた女性が、木に藁人形を打ち込むことで知られている。丑の刻参りは「丑の刻に神社の木に呪いたい相手を見立てた藁人形を釘で打ち付ける」という呪術である。丑の刻は昔から幽霊や不吉なものと関連付けられることがよくある。 |
【北方詣り順路】 |
【北方詣り順路】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三輪明神(大神神社)北方詣りの順路は次の通り。三輪明神拝殿から日本最古の山の辺(へ)の道を通り、小鳥のさえずりを聞きながら新緑の三輪山の麓を歩くと、大和三山(天香山・耳成山・畝傍山)や磐余の里の街並み、大鳥居などを見ることができ、遠く西方には日本神話の故郷、金剛葛城山や二上山を望みながら摂末社詣りするコースである。道中には大物主(女性・アマテラス)が通ったとされる玄賓庵、日本最古の灌漑用池・イワツボ、二股の古木などの見所がある。また井寺池、大美和の杜、展望台など各所にも素晴らしい風景が見られるところが多くある。
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【北詣り一番/ 摂社/活目(いくひ)神社 】 |
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北方詣り順路一番/ 摂社/活目(いくひ)神社 。奈良県桜井市三輪。酒造りを行う杜氏(とうじ)の祖神を祀る社。祭神は高橋活目命。第十代崇神天皇の御代、国は疫病の流行で混乱を極めていた。そんな時、天皇に、夢で大物主大神様から「私の子孫である大田田根子(おおたたねこ)を祭主にし、酒を奉納しなさい」というお告げがあった。崇神天皇は掌酒(さかひと)で杜氏(とうじ)の高橋活日命(たかはしいくひのみこと)を呼び、三輪の神様にお供えする酒造りを命じた。一夜で酒造りを行い神酒を奉納したところ、疫病は去り国が富み始めた。この経緯により、古図には一夜酒之社と書かれており、土地の人もまた一夜酒さんと呼んでいる。これによって高橋活日命は杜氏の神様となり、大神神社の摂社「活日神社」に祭神として祀られることになった。これにより酒造りに取り組む杜氏らの先祖とも仰がれ、杜氏の祖先神(一夜酒の神)(「酒造りの神」)として酒造関係者からの信仰が篤い社の一つになっており、全国各地から酒造関係者がお詣りに来られる。現在でも丹波や丹後・但馬、北陸、中国筋の杜氏らが、蔵入りする前と無事百日勤めを終えてそれぞれ郷里へ帰る時にこの社に参拝するという。 日本書紀の崇神天皇紀に720(崇神天皇8)年4月の庚子(かのえね)の朔(つひたち)乙卯(きのとのう)に「高橋の邑の人活日(いけひ)を以て大神の掌酒(さかびと)とす」と記されている。日本書紀・崇神天皇条によるところ、大物主神のご神助により、会心の美酒を造ることが出来、その酒を崇神天皇に神酒を献じた時、「この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久(いくひさ)」(「この神酒は、私の神酒ではありません。倭の国を成した三輪の大物主神(おほものぬしのかみ)がお作りになった神酒です。幾世までもいく久しく いく久しく栄えあれ」)と詠って献じたとされている。「大物主神のご神助により、会心の美酒を造ることができました」の詠(うた)いに対し、崇神天皇は「味酒(うまさけ) 三輪の殿(との)の 朝門(あさと)にも 押し開かね 三輪の殿門(とのと)を」(「一晩中飲み明かし「三輪の拝殿の戸を朝開いて帰っていこう。三輪の拝殿の戸を」)と返歌している。この功により日本書紀の崇神天皇紀に崇神天皇八年(720年)四月の庚子(かのえね)の朔(つひたち)乙卯(きのとのう)に、「高橋の邑の人活日(いけひ)を以て大神の掌酒(さかびと)とす」と記されている。 また一夜にして美味しい酒を造ったことから古くは「一夜酒社」(ひとよざけのやしろ)ともよばれ、酒まつり等で舞われる神楽「うま酒みわの舞」は活日命が詠んだ詩で作曲作舞されている。我が国最古の大神神社と日本酒には深い繋がりがあり、古い時代から大神神社に醸造を司る人が存在したことが分かる。 |
余談。大神神社のご神体は三輪山(みわやま)。昔は神に捧げる酒のことを神酒(みわ)と発音しており、さらに古来の人々は神のことを(みわ)と発音したという。 |
【北詣り二番/ 摂社/磐座(いわくら)神社 】 |
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活日神社に続いて山の辺の道の参道を歩くと左手に現れる「くすり道」(山側の道)を過ぎ、少し歩くと右手に原始神道の流れを残す磐座(いわくら)神社が狭井神社に向かう途中に頑固な岩(磐座)がご神座として鎮まっている。この社は社殿がなく、磐座を神座とする形態が原始の神道の姿を伝えている。祭神は少彦名(すくなひこな)の神。三輪山の麓には辺津磐座(神が鎮まる岩)が点在しているが、その一つでもあり代表格である。 少彦名神は別名「神農さん」ともよばれる薬の神でもある。「大三輪社勘文」に「大神崇秘書」を引用して、「辺っ宮は・・・神殿無く磐座あり。辺っ磐座と称す。少彦名命なり。清寧天皇の御世・神託に依り賀茂君之を斎祀す」と記されている。この辺津磐座については「鎮座次第」では、「清寧天皇が大伴室屋大連に勅して当神社に幣帛をたてまつり、皇子無きの儀を以て祈祷せしめられ給いし時、大神が宮能売に憑られ、大神の和魂と共に少彦名命を敬祭あそばされんことを請い、もろともに天津日嗣(ひつぎ)の絶ゆることなく皇孫を守り、人民を済わん」と宣託され、大御心を安んじ給うたと伝えており、同天皇の元年冬十月乙卯の日に、磐境を立て起して崇祭されたのを起源としている。 この神は大物主と協力し、国土を開拓・開発につとめ医薬治療の方法を定め、人間生活の万般・福徳の守護神です。大己貴神は、この常世の穀霊と合体して国造りに成功する。 また磐座神社は別名「三穂神社、石神皇后神社、岩上皇后社、岩倉社、岩倉祠、岩上宮、石上社」とよばれていたことが明らかにされている。三穂神社、皇后神社の名から、かつては大物主の后神である三穂津姫命(みほつひめ)を祭神とする神社とも伝わる。岩上、石上からは岩神、石神に通ずる信仰も少なかれ存在したということになる。 少彦名神は、常世国(とこよのくに)から石(いわ)に示現する神と歌われ、粟茎(あわがら)に弾かれて淡島(あわしま)より常世国に至ったとも語られる。またガガイモの舟に乗り、蛾(が)あるいは鷦鷯(さざき)(ミソサザイ)の皮を着て海上を出雲の美保崎に寄り着いたと説かれるので、この神は常世国より去来する小さな神であったことがわかる。さらにこの神は、多くの場合、国造りの神として大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主命)と並称されるが、その本質は粟作以来の穀霊であったと考えるべきであろう。生成神・神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、田の神の案山子(かがし)(久延毘古(くえびこ)に名を明らかにされる話もその本質と関係がある。大己貴神は、この常世の穀霊と合体して国造りに成功する。 |
三輪山辺津磐座「オオカミ谷の磐座3ヶ所巡り」。三輪明神は三輪山を神体山として成立した神社とされ、拝殿のみで本殿を有しない原始信仰としての神社の形態を維持している。また三輪山の山中には、三輪山山頂の奥津磐座(おきついわくら)、中腹の中津磐座(なかついわくら)、山麓の辺津磐座(へっついわくら)の三つの磐座が存在する。 |
【北詣り三番/ 末社/市杵島姫神社】 |
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市杵島姫(いちきしまひめ)神社は狭井神社境内にある鎮女池の畔に鎮座する。桜井市大字茅原に鎮座する大神神社末社・厳島神社から勧請した神社である。祭神は市杵島姫(いちきしまひめ)の命。素戔嗚命の御子神であり、古事記では天照大神と素戔嗚命の誓約(うけい)から生まれた海の神、水の守護神とされ、安芸の宮島の御祭神として広く知られる。弁財天とも呼ばれ七福神の中で福徳財宝、美容と芸能を司る神としても親しまれている。また市杵島姫命は朝鮮半島と日本を結ぶ海路を守護する海の神として朝廷から信仰されて来た。 |
大神神社の市杵島姫神社の笹百合。大神神社でもこの神社付近の笹百合は最も麗しく、古事記の神武天皇記で「山百合の古い名を『さい』という」と記されるように奈良県の大神神社摂社で神武天皇の御后の姫蹈鞴五十鈴姫命に捧げされる神饌に相応しい神気を感じさせる。 |
【北詣り四番/摂社/狭井(さい)神社】 |
狭井神社(奈良県桜井市三輪1442)は狭井川の畔にある大神神社の摂社で、正式な名前は狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社と云う。本社の荒魂をお祭りしており、延喜式神名帳に記されている古社である。古より「華鎮社」と称された拝殿の左後ろに、この神社の由来になっている神水の井戸・狭井がある。 社伝によれば、創祀は垂仁天皇の時代に、主神として大物主の荒魂(あらみたま)神を祀り、大物主神、神武天皇の皇后となった媛蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)の命、五十鈴姫の母の勢夜多々良(せやたたら)姫、事代主神を配神している。狭井神社の社名の由来は山百合の古名の「サヰ、サイ」からといい、神社近くに流れる「サヰ川」(狭井川)の川辺には山百合が多く咲き誇っていたと伝わる。 第10代崇神天皇が営んだ宮で、即位5年に疫病が流行して人口の半ばが失われた。翌年、祭祀で疫病を治めるべく天皇は天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出された。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現檜原神社)に、倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせた。 狭井神社に祀る荒魂(あらみたま)は荒ぶる勇猛さの反面、粗野で時には人に祟りを及ぼすような霊力であり、神の「怒り」を示しているともいわれる。戦時や災時などにあたって現れ力強いご神威を発揮する。祭祀(さいし)を受けることによって和魂(にぎみたま)の性質に変わり病気平癒の神として威力を発揮するとして信仰が篤い。ここも三輪山を御神体とする神社で拝殿があるのみである。 4.18日の鎮花祭は上古からの由緒をもち「薬まつり」の名前でも知られる。当日は大阪の道修町を初め近畿の製薬会社の方々が参拝に訪れ薬を奉納される。祈祷参拝時には「狭井大神(さゐのおほかみ) 荒魂(あらみたま) 守給(まもりたま)へ 導給(みちびきたま)へ」と唱える。また拝殿の左手奥には「薬井戸」があり、の井戸より湧き出る神水は、万病に効く「くすり水」とされ、多くの皆々が水を求めて健康祈願されている。造り酒屋や素麺を作られる方々は年初の商品の造り始めには、この狭井の神水を用いるという。 神社拝殿右側からは三輪山の登拝口がって入山することができる。登拝所要時間は2-3時間で往復することがでる。標高467.1mの山頂には摂社・高宮神社(こうのみや)、奥津磐座に大物主、中腹には中津磐座に大己貴命、山麓では辺津磐座に少彦名命が鎮座している。 |
【北詣り四番/摂社/)磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)】 |
磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、日本書紀の記述で磯城瑞籬宮、古事記では師木水垣宮、志貴御県坐神社と記されている)は桜井市金屋。第10代崇神天皇の宮があったところで、金屋あたりが伝承地とされている。(実際の宮跡はこの神社の境内ではなく、境内の西側にある天理教会の建物とその北隣りの三輪小学校のあたりにあったと推定されている) ここから北へ三輪・巻向といわゆる山の辺の道が続く。この宮跡は山の辺の道の起点でもある。大正年間に「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が建てられている。本宮の北側には三輪山(大神神社)が鎮座する。周辺には纏向遺跡をはじめとする古墳時代前後の遺跡が存在し、箸墓古墳やホケノ山古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、垂仁天皇陵などの巨大前方後円墳群が点在する。 |
【北詣り五番/末社/貴船神社】 |
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貴船(きふね)神社は山の辺(へ)の道を北へ、狭井川を過ぎた右手に鎮座している。鳥居が木立に隠れ、その奥に社殿がある。小さな社なので気付かずに通り過ぎられやすい社であるが、古くから由緒があり、大和名所図会には別名「鴨峯社」(かもみねのやしろ)として描かれている。祭神は淤加美神(おかみのかみ)、オカミとは古く「雨水を司る龍」を意味し「生命の根源である水の神」でもある。また縁結びの神としても信仰され、夫婦円満、恋愛成就の御利益があるとされる。記紀では伊邪那岐命がが火の神である加具土命(かぐつち)を斬ったときに、剣の柄についた血から闇淤加美神(くらおかみ)・高淤加美神(たかおかみ)が生成したと記されている。勧請由緒・時期などは不詳。祠の右手(南向き)には三輪山「辺津磐座」の一つとされる磐座が鎮座している。
昔の「卯の日神事」(大神祭)には、貴船神社に必ず神饌を捧げて祝詞を奏上したと伝わる。この卯の日祭は崇神天皇が卯の日に大神祭(おおみわのまつり)を始められて以来、大神祭が「卯の日神事」とよばれるほどに卯の日がご神縁の日であり、その干支の日を大切にして毎月行われている。 |
■神様の里で、生まれたそうめん 三輪そうめん |
【玄賓庵(げんぴあん)】 |
玄賓庵(げんぴあん)。桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲して、818(弘仁9)年になくなったという玄賓(げんぴん)僧都の庵と伝えられている。ここは世阿弥の作と伝える謡曲で、玄賓と三輪明神の物語を題材にした「三輪」の舞台として知られている。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移されたという。本尊の三光不動尊は藤原時代の作で、奈良県下で最古の不動尊として、重要文化財に指定されている。 |
【北詣り六番/摂社/桧原(ひばら)神社(倭笠縫邑、元伊勢)】 |
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檜原(ひばら)神社(倭笠縫邑)は大神神社の摂社で三輪山の西北麓に位置し、大神神社付近の摂社群の中では最も北に位置している上に社格も最も高く創建も古い。笠縫邑の伝承地とされている。主祭神は天照大神。日本書紀の崇神記によれば、第十代崇神天皇の御代まで、皇祖神である天照大御神は宮中の皇居内に天皇と「同床共殿(どうしょうきょうでん)」でお祀りされていたところ、第10代崇神天皇の御代6年、崇神天皇がこの状態を畏怖し、崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)にその神霊を託して、皇祖天照大神(八咫鏡)を宮中から「倭笠縫邑」(やまとかさぬいむら)に遷し、その場所に堅固な石の「磯城神籬」(しきのひもろぎ)を造り祀ったという。これが為、皇女豊鍬入姫命が奉持せられた倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)の神蹟とされる。これが始まりとなり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とする。二代目御杖代の垂仁天皇の第四皇女「倭姫命」
(やまとひめのみこと)が引き継ぎ、約九十年の時を越えて現在地に遷座したと伝わる。檜原神社では、伊勢遷幸後も御蹟を尊崇し、檜原神社としてお祀りされ「元伊勢」(もといせ)と伝えられている。昭和61年、境内に豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎された。外宮の祭神である豊受大御神は「止由気宮儀式帳・倭姫命世記」によるところ雄略天皇の時代に天照大御神の神託によって丹波国(丹後国)から遷座したと伝えられている。 室町時代のものといわれる古図(文献12)をひらくと、三輪山の中でも、檜原峯という峯を背景にし、本殿を設けずに本社と同様、三ツ鳥居、拝殿を構え、石壇が設けられており、その前方左右にわかれて末社が祀られ、御供所(ごくしょ)などがある。二ノ鳥居もあり、さらには一ノ鳥居までが、本社一ノ鳥居と同線上、上津街道近くに建っていたことが示されている。このことから、古来より大神神社の摂社の中でもとりわけ重要な神社であることがわかる。また、檜原神社は日原社とも書かれ、三輪山の朝日と二上山の夕日を遥拝する太陽祭祀であり、これが天照大神の信仰につながったものと思われる。 檜原神社は、本社と同じく本殿(神殿、拝殿)がなく、三ツ鳥居を通して御神体である三輪山の「神籬(ひもろぎ)・磐座」を拝む古代祭祀がそのまま残っている。祭神は天照大御神。配祀は伊弉諾尊
、伊弉册尊。摂社は豊鍬入姫命神社。江戸末期より荒れていた社頭を、昭和40年神宮の協力を得て三ツ鳥居を建造し、瑞垣を設け古儀に復したのが現状の姿である。檜原神社から三輪山山頂の間に8群の磐座が連なっており、檜原磐座線と呼ばれる。これは大神神社にもあり拝殿奥磐座線と呼ばれ、拝殿奥から山頂の間に6群の磐座がある。山ノ神祭祀遺跡の遺物の変化と沖ノ島の磐座祭祀の変遷から、6世紀中頃に檜原磐座線から拝殿奥磐座線へと祭祀の中心が移動したと推定できる。それは、伊勢遷宮を契機とした大神神社創生の時期に一致する。
万葉歌人の柿本人麿の「古(いにしえ)に ありけむ人も 吾がことか 三輪(みわ)の 檜原(ひばら)に 挿頭(かざし)折りけむ」の歌が遺されている。葉歌碑「神山(みわやま)の山邊真蘇木綿(やまべまそゆふ)みじか木綿(ゆふ) かくのみ故に 長くと思ひき」(作者/高市皇子)。 この神社には本殿も拝殿もなく中央と左右に脇鳥居がある三ッ鳥居があるだけ。三輪鳥居は珍しい形式で、ここでしか見られないものだという。日本書紀によると崇神天皇が天照大御神を豊鍬入姫命に遷され、磯城神籬(しきひもろぎ)を立て祀った倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)とされる。また、三種の神器の内の剣・鏡を安置したのが、この場所と伝えられる。後に天照大御神は伊勢に遷され、その後は檜原神社として引き続き祀られているため元伊勢(もといせ)とも呼ばれる。境内には昭和61.11月に豊五日豊鍬入姫命を祀る鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎。万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ山の辺(へ)の道の歌枕となり、西に続く檜原台地は大和国中を一望出来る絶好の場所となっている。過去には本社である大神神社拝殿のような大きさの拝殿があったが、寛政年間の台風、落雷により出火焼失し以後再建されることもなく現在の姿になっている。 |
奈良県桜井市大字三輪の「桧原の里(ひばらのさと)」。
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【北詣り七番/末社/富士神社、厳島神社】 | ||
末社「富士神社・厳島神社」 | ||
富士神社・厳島神社は古木の下、木造鳥居の後ろの石垣(古墳石室)の上に鎮座する珍しいお社の一つです。祭神は玉垣内、右に富士社(木花咲耶姫命・このはなさくやひめ)、左に厳島社(市杵島姫命・いちきじまひめみこと)が鎮座します。鎮座地の茅原は占いの場所として知られる神浅茅原(かむあさぢはら)伝承地で、大和政権最強のシャーマン(呪術師)である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を祀る摂社・神御前神社が斜め向かいに鎮座する。
神々の託宣があった茅原で祀られる富士・厳島神社は大神神社系列社の中でも古くから祀られていた神社とされる。富士神社は富士山の麓に祀られる浅間神社の系列で、燃え盛る火の中で子どもを産んだ木花咲耶姫が祀られ、厳島神社の祭神は摂社・狭井神社の鎮女池に祀られている。市杵島姫命は素戔嗚尊と天照大神との誓約により生まれた宗像三女神の一柱であり福岡の宗像神社、宮島の厳島神社の祭神。 この社は弁天古墳(べんてんこふん)の上に建てられており、古墳石室を見ることができる。覆土もなく石が露出しており、発掘調査も行われてないので詳細は謎とされている。古墳の羨道は南向きに開口し両袖式で石室内部に刳抜式石棺の蓋が見える。三輪山麓の後期古墳で石棺が残るのは珍く、また古木の根が石室を取り込むように生えており、古墳の歴史を物語っている。TVではパワースポットとして紹介されており、この古木が剥がされた覆土の代わりに石室を守るように取り囲み覆い被さるように根を張り巡らしていることから特別な場所(パワースポット)と言われている。 |
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【北詣り八番/摂社/神御前神社】 |
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神御前(かみのごぜん)神社は大神神社の北西に位置する茅原の郷。占いの場所として知られる神浅茅原(かむあさぢはら)伝承地に末社・富士神社・厳島神社の近くに鎮座している。祭神は第七代孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲姫命」(やまとととびももそひめのみこと)。日本書紀によれば、第十代崇神天皇の御代、度々起こる国難を憂いた天皇が「神浅茅原」(かむあさぢはら)に八十万神(やそよろずのかみ)を集めて占い、神意を問うたところ、大物主が倭迹迹日百襲姫命に乗り移り「我をよく敬い祀れば天下は平穏になるであろう」と答えたので、神託に従い丁重に祀りを続けたところ国内は平穏になった。その後、倭迹迹日百襲姫命は、大物主の神妃として鬼道を用いて神意を伺い朝廷に貢献した。時が経つにつれて倭迹迹日百襲姫命は、大物主が昼には現れず夜にだけ通ってくるので、ある時「どうかもうしばらく留まってください。明朝謹んであなたの端正なお姿を拝見しとうございます」と願ったところ、大物主は「では明朝お前の櫛笥の中にいるから驚かないでくれ」と答えた。姫は不思議に思いながらも夜明けを待って、櫛笥を開けると中に美しい紐のような小蛇が入っており、それを見た姫は思わず驚き叫んでしまった。怒った大物主はたちまち人の姿に化身し、天空に舞い上って三輪山へ帰った。姫は空を仰ぎながら深く後悔し、尻もちをついてしまった。その時、箸が陰部に刺さり亡くなった。姫の亡骸は「大市墓」に埋葬、人々はこの陵墓を「箸墓」とよぶようになった。この箸墓は大阪山(現在の香芝市穴虫付近)」の石を手渡しで昼は人が運び、夜は神が運び造られたと伝わる。本殿後方には三輪山を望む事ができ、大物主が見守っておられる。 |
【北詣り九番/末社/久延彦(くえひこ)神社&展望台】 |
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久延彦(くえひこ)神社は三輪山の麓、大美和の杜展望台西方に鎮座し、本殿は春日造の桧皮葺。祭神は久延毘古命(くえびこのみこと)。神代の時代、大国主命の国作りを大勢の神々が手伝っているが、少彦名命の名前だけは誰も知らなかったところ、久延毘古命だけがその神が少彦名命であることを知っており、大国主命や他の神々に教えたと伝えられている。この神の知恵は世に類なく優れていて古事記が「足はあるかねど天下の事を尽(ことごと)に知れる神」と記している。久延毘古命はただ立っていることしか出来ない案山子(かかし)となって常に世の中を千里眼の如し見渡している事から、なんでも知っている神として信仰され、特に受験合格・入学・進学・就職等の成就安全をまもる知恵の神として多くの人々に信仰されている。この神社にはそれぞれのの願い事を書いた「願かけ絵馬」が数多く掛けられている。また祭神の久延毘古命は案山子の化身から、田の神・水の神でもある。地元ではは「くえひこさん」とよばれ親しまれている。 古事記にこんな逸話が残っている。大国主命の国作りをたくさんの神々が手伝うが、少彦名命の名前だけは誰も知らなかった。しかしこの久延毘古命だけは、その神様が少彦名命であることを知っていて、大国主命にお教えになられた。古事記に「足はあるかねど天下の事を、尽に知れる神と記されている神様」と記されている知恵の神様。 社殿前の久延彦神社展望台は、大美和の杜展望台より視界が良く、眼下には三輪の町並みや近隣地区の街並み、大鳥居、大和三山や日本神話の故郷「金剛葛城山、二上山」などが一望できることからビューポイントの一つになっている。 |
奥垣内(おくがいと)祭祀遺蹟(大美和の杜) |
1965年に民間業者による温泉地開発によって、狭井川畔の当遺跡が削平をうけ、多くの祭祀遺物が発見された。樋口清之氏の紹介によると、斑礪岩の巨石が集結していた地点に重機を入れたところ、巨石の東側に接して、胴部下半を土中に据えた状態で須恵器の大甕が出土した。この中に、須恵器の杯、高杯、長頸壷など十数点が多量の滑石製臼玉とともに収められていたという。また付近には滑石製有孔円板や土師器の破片が一面に散乱していたとのことであり、現在(大美和の杜)に復元されているような磐座をともなう祭祀遺跡であったと考えられる。この遺跡で出土したとされる須恵器をみると、その主体は5世紀後半~6世紀初頭にあるが、他に4世紀末~5世紀前半の土師器や新羅系陶質土器が含まれている。また狭井川畔でも碧玉製管玉や硬玉製勾玉が採集されていることを考えると、この狭井川畔のやや広い河原では、4世紀後半~6世紀前半の間、繰り返し磐座を祀る神マツリが行なわれ、祭器をまとめて埋納した様子がうかがわれる。
奥垣内祭祀遺蹟の磐座は「大美和の杜」と称する山の辺の道沿いの公園にある。発掘当時のものとはまったく別物の記念碑的なものである。 |
【北詣り十番/摂社/大直禰子(おおたたねこ)神社(若宮社)】 |
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狭井神社前の十字路を西に5分程下ると大神神社(三輪明神)摂社「若宮さん」として知られている若宮社が鎮座している。別名大直禰子(おおたたねこ)神社とも呼ばれる。若宮社は明治の神仏分離までは神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ)であった。奈良時代に神仏習合の姿をとり、大神神社の神宮寺として「三輪寺・大神寺」(おおみわでら)と呼ばれ、鎌倉時代には「大御輪寺」(だいごりんじ)として栄えた。中世には三輪流神道が、この地より広まり各地方に多大の影響を与えたと伝わる。明治の神仏分離までは大御輪寺の本堂として若宮の大神と共に国宝である本地仏「十一面観音」として奉安併祀されていた。現在は日本最初の国宝となり、多武峰参道沿いの聖林寺に安置されている。この神社は昭和62年より3年に亘り解体修理が実施され、1412(応永19)年の姿に重要文化財として復元された。巻向山の中腹にひっそり建つ巻向山不動寺は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となった神宮寺「大御輪寺の奥ノ院」だったと伝わる。 ここに御誕生所社の磐座があり、それにまつわる次のような物語が残されている。三輪大明神縁起によれば、大御輪寺は垂仁天皇99年の草創にかかり、武一原大納言の娘に三輪の明神が通われ、神子を生んだ。この大納言が自分の住む家を、お寺風につくりかえたのが、この大御輪寺の始めだというのである。ところが、その神子は生れて七日目に母を亡くし、その後は、来る日も来る日も母恋しさの日を重ねるうち、ある日、悲しさのあまり邸内の石の上に泣き臥していると、突然、三輪明神が現われて、母の形見を与え給うたのでようやく悲しみも薄れ、それからは父なる神のいます御本社へお参りするのを唯一の慰めとして暮らしていた。十歳の折、大御輪寺の寺内の一室に閉じ籠もったままでふたたび姿を見せなくなった。のちに聖徳太子が御参詣になり、御戸を開かれると、尊くも十一面観音菩薩像に生身入定されていたという話である。 祭神/大直禰子(おおたたねこ)は大田田根子とも書かれ、大物主神の子孫とされる。記紀神話における伝説的な人物で、三輪君の祖神とされる。第10代祟神天皇の御代に、国内に疫病が大流行して多くの民が死んだ。天皇が大いに愁い給うていたとき、天皇の夢枕に大物主神が現れ、「我が児・大田田根子を以て吾を祀らしめたまわば立ちどころに天下は平らぎなん」と告げた。そこで天皇は大直禰子命を探索し、これを茅渟県陶邑で探し出し、神主(かんぬし)として丁重に待遇し、三輪の大神(大物主神)を斎き祀ったところ疫病は鎮まり、天下は泰平になり富栄えたと古事記、日本書紀に記されている。また神社境内池の畔、東側には大物主を祀る末社・琴平社が鎮座する。 |
境内には、正月の御神火祭の時に若宮社の上にある久延彦神社に神饌を供える黒っぽい俎板のような「神饌石」(みけいし)「安産岩」が鎮座しているが、磐座ではない。神饌石(しんせんせき)は、正月元旦の神火祭時に、若宮社のすぐ東方にある久延彦神社に対する神への供え物、神饌(しんせん)を置く石として使われる。長い石段がある久延彦神社の逢拝所として、ここから遥拝することもできる。安産岩については、名称から安産に霊験のある岩石とされ親しまれている。 |
【南方詣り順路】 |
三輪明神(大神神社)南方詣りの順路。三輪明神拝殿から日本最古の山の辺(へ)の道を通り、小鳥のさえずりを聞きながら新緑の三輪山の麓を歩くコースとなる。道中、旧平等寺跡や大物主大神・天照大御を祀った神崇神天皇の皇居が有ったとされる磯城瑞籬宮跡(しきみずがきのみやあと)、金屋の石仏、日本最古の交易の市・海柘榴市(つばいち)、日本に初めて仏教が伝わったとされる仏教伝来の地、欽明天皇の磯城嶋金刺宮跡(しきのみつかきのみやあと)など歴史ロマン溢れる地域を散策しながらお詣りできる。
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【南詣り一番/ 末社/神宝(かむだから)神社】 |
神宝(かむだから)神社の所在地は奈良県桜井市三輪字大宮川上。本社前から山の辺の道を南に出てすぐ、左手(東側)奥の山麓に鎮座している。祭神は家都御子神(けつみこのかみ)、熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)、御子速玉神(みこはやたまのかみ)の熊野(ゆや)三神(別名は熊野(ゆや)権現、三所(さんしょ)権現)。古くから三宝荒神の信仰もあり、財宝の神としても広く崇敬されている。神社左手には本社の禁足地でもある神域を見ることができる。
元旦未明、大神神社本社から御神火(しんか)が奉納され、真っ先に神事が執り行われる。これは繞道祭(にょうどうさい)とよばれ、三輪明神の年頭を飾るご神火の祭典であり国家、御皇室の安泰と国民の幸福を祈る。繞道祭に用いられるご神火は、新年の始まりの午前零時を期して、拝殿の東方の禁足地内で宮司によりきり出され、拝殿大床の燈籠に移し置かれる。宮司により祝詞奏上の後、ご神火を小松明に点し二人の神職が拝殿内を走り出て、拝殿前の斎庭で待つ3本の大松明に火が継がれる。そして、先入道(さきのにゅうどう)・後入道(あとのにゅうどう)とよばれる2本の長さ約3mの大松明と、少し小さめの神饌松明(しんせんたいまつ)の計3本を氏子の若者がかつぎ、神職と共に山麓に鎮座する摂末社19社を巡拝する。 (余談)繞道祭の「繞」とは「めぐる」という意味す。ご神火が境内のご神火拝戴所に移されると、待ちかまえていた参拝者の皆さんが先を争って持参の火縄やカイロに火を移しとる。このご神火はそれぞれの家庭に持ち帰られ、神棚のお灯明や雑煮の祝火に用いられ、一年間の無事息災が祈られる。大和の正月は繞道祭で明けるといわれる年初の勇壮な火の祭典、繞道祭は浄火を尊んできた日本人の古代からの信仰を今に受け継ぐ神聖な神事であね。 |
【南詣り二番/ 摂末社/天王山天皇社(てんのうしゃ)】 |
末社「天皇社」
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天皇社(てんのうしゃ)の所在地は奈良県桜井市三輪字天王山。神宝神社から山の辺(へ)の道に戻る左の小高い山の上に鎮座している。祭神は第十代崇神(すじん)天皇(御真木入日子印恵命、ミマキイリヒコイニエノミコト))。崇神天皇は宮を三輪明神(大神神社)摂社・率川神社境内(奈良率川宮・いさがわのみや)より、三輪山麓の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)に遷り、歴史上初の画期的な政治を行い、祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家(大和朝廷)の基盤を整えたとされる御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称される。毎年11月14日には祭神の聖徳を称え「崇神天皇奉讃祭」(すじんてんのうほうさんさい)が執り行われ、神楽「磯城の舞(しきのまい)」が特別に奉奏される。
崇神の御代、宮中に天照大神、大物主大神の二柱を祀っていたが、天照大神は倭笠縫邑(桧原神社)に遷し、大物主大神は大田々根子命(おおたたねこ)を祭主とし三輪山(三輪明神)に祀り、天社・国社を定め、東海や北陸、西国、丹波の四方に皇族四道将軍「大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)」を派遣、教化を盛んに取り入れた。それに伴い産業交通を発展させ、国民の福利を進め大和朝廷の基礎を築いた。 大物主大神については、崇神の御代に民が死に絶えてしまうような疫病が発生した。これは三輪山の神、大物主大神が起こしたと「お告げ」を受け、天皇は神の意に従い神の子孫となる大田田根子を探し出した。そして大田田根子命に託し、三輪山(三輪明神)に大物主大神を祀ったところ、祟りが鎮まり疫病が治まったとされる。崇神天皇は、いにしえの代、廃れていた大神神社を再興させたという意味では重要な御神になる。 |
【南詣り三番/ 末社/三輪成願稲荷(みわじょうがんいなり)神社】 |
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三輪成願稲荷社(みわじょうがんいなりじんじゃ)は三輪明神の神宮寺「平等寺、大御輪寺、尼寺の浄願寺」の三寺院が知られている。その中のひとつ、浄願寺(尼寺)は鎌倉時代の正応3年(1290年)に鎮守社として創建された。その後、明治時代の廃仏毀釈により寺の跡に稲荷が勧請された。祭神の宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)の別名は稲荷大神。配祀として市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)が祀られる。現在は大神神社の末社となっている。 この社の本殿は二間社流造・三社形式で入母屋造、瓦葺の中にあって特徴的な造り。三輪成願稲荷神社は全ての食べ物を司ると共に商売繁盛・開運招福・念願成就の願いが叶うと伝えられている。また手前には神社の歴史を物語る土塀が出迎えてくれる。この社の参道である高宮地区から続く西の参道入り口には地蔵堂がある。 |
【南詣り四番/ 摂社/神坐日向(みわにますひむかい)神社(旧高宮神社) 】 |
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末社「高宮神社」
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摂社/神坐日向(みわにますひむかい)神社(旧高宮神社) は大和国城上郡御子ノ森(みこのもり)に鎮座する。祭神は櫛御方命(くしみかたのみこと)、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)、建甕槌命(たけみかづちのみこと)親子三代の神が祀られている。大物主神と陶津耳命の娘である活玉依毘売の御子が櫛御方命、その御子が飯肩巣見命、その御子が建甕槌命で、大田田根子がその御子とされている。※建甕槌命は鹿島神宮祭神「建甕槌命」とは別神とされる。この社の鎮座地は旧平等寺跡の西端の高台に位置し、建武三年・延元元(1336年)動乱の幕開けとなり、京都を離れた後醍醐天皇(南朝)の吉野遷幸の折、これを迎えた桜井地域の土豪である三輪神主「大神勝房(三輪西阿)」の三輪城の跡で城山ともよばれる。 明治維新後に社名が誤って入れ替り、本来は三輪山山頂に鎮座する摂社・高宮(こうのみや)神社は「神坐日向神社」であり、現神坐日向神社は「高宮社」(こうのみやしゃ)が本当の社名である。この神社境内入り口左には高宮神主家の家宅があり、この地のよび名も地元では高宮(たかみや)とよぶ。平安時代の「延喜式」神名帳にも記される古社で、御子神を祀ることから神社の古絵図に「御子宮」(みこのみや)として描かれている。高宮神社の高宮とは三輪明神(大神神社)の神主の姓で「大神→三輪→高宮」と変化した。 祭神の追記として、古事記によるところ大物主は陶津耳命(かもたけつのみのみこと)の娘・活玉依毘売(いくたまよりびめ)と結婚、櫛御方命(くしみかたのみこと)をもうけられた。この櫛御方命の子が飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)。その子が建甕槌命(たけみかづちのみこと)。その子が意富多多泥古(おおたたねこ)、日本書紀では大田田根子と記されている。この子孫である大田田根子は、崇神天皇の御代に三輪山の神主となり、三輪明神(大神神社)初代神主の祖となる。 |
【南詣り五番/ 末社/大行事社(だいぎょうじしゃ)(三輪坐恵比須神社)】 |
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大行事社(だいぎょうじしゃ)の所在地は、奈良県桜井市大字三輪。は本社三輪明神(大神神社)の南に位置し、現在の平等寺四つ角を東に進んだところに鎮座している大神神社の摂社。石段上に鳥居が立ち、祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)、 加屋奈流美神(かやなるみのかみ)、 八尋熊鰐神(やひろのわにのかみ)。三輪駅から少し西方に位置する三輪坐恵比須神社(みわえびすじんじゃ)の元宮である。日本最古の山の辺(へ)の道の始発点の「海柘榴市(つばいち)」が栄えていた頃、当社の分霊を祀られていたが、初瀬川の氾濫で海柘榴市が度々流されてからは三輪の町中に移され、三輪坐恵比須神社となった。そのことから日本最初市場を守る三輪坐恵比須神社とも称される。毎年二月六日の初えびすの日に、三輪素麺などの初相場が立ち価格が決められ、古くから商工業の市場の御守護神として篤い信仰を集める。 事代主神は大国主命の子で古事記によれば、国譲りを要求する高天原からの使者に対し、父の大国主神に代り国譲りの誓約をしました。神々の託宣の神とされ神のお告げをのべる役割をもつとされる。加屋奈流美神は記紀には現われないものの、出雲国造神賀詞では、大己貴命(おおなむちのみこと)が皇孫の守護神として倭国の周りに鎮座させた四座「大物主大神、 阿遅志貴高日子根神( あぢしきたかひこねのかみ)、事代主神、加屋奈流美神」の中の一座で加屋奈流美神(飛鳥神奈備三日女神)として飛鳥坐神社に鎮まる。 創建、由緒は不明だが、八尋熊鰐神は書紀・神代紀(第六の一書)、先代旧事本紀に、事代主神が大きな鰐(八尋熊鰐)と化して、三嶋溝杭(みしまのみぞくい)の玉櫛姫(たまくしひめ)の処に通い、神武天皇の皇后である蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を生んだと記され、事代主神と同神とされる。古事記には、豊玉姫が八尋鰐の姿で神武天皇の父である鸕鶿草葺不合尊を生まれたことが記されている。 現在は、十一面観音を御本尊とする曹洞宗の寺院となっている。関ケ原の戦で徳川軍の中を切り抜けた薩摩の島津兵のうち、島津義弘以下十数名が当寺に落ち延び助けを得たことから長く薩摩藩とは縁があった。 ※磯城瑞籬宮跡とされる「志貴御縣坐(しきみあがたにます)神社」は三輪明神の管轄外、管理は三輪坐恵比須神社(日本最初市場守護神)。 |
「初えびす☆湯立て」神事。三輪の初えびすは旧暦正月の行事だったが現在は新暦2月6日に本えびす大祭、7日は「残り福」と呼ばれ湯立神楽(御湯の神事)や御供まきで賑わう。湯立(御湯みゆ)は、拝殿前斎場に据えられた8つの湯釜に白の浄衣と白袴姿の湯立巫女が御幣と鈴で清祓、続いて襷掛けとなり湯釜に塩と洗米、神酒を注ぎ御幣の柄で湯をかき混ぜ釜からお湯3杯ずつ桶に汲み取り神前に宮司を介して献上する。そのあと笹束を両手に執り、一の釜から順に北、西、南、東に向ってお湯を振りまく御湯祓いとなる。拝殿から楽人による雅楽の調べが流れるなか豪快に上がる湯煙と湯花、約8分間神々しく凛とした湯立に周りには緊張感が漂う。湯立神楽のあと振舞われた釜の湯立の残り湯、有難く湯呑でいただき無病息災や商売繁盛などを祈る。 |
【南詣り六番/ 末社/春日社(かすがしゃ)】 |
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末社・春日社(かすがしゃ)は大行事社右横の道路を東へ進むと、大三輪教本院の堂舎に突き当たります。そこを左手に進むと小高いところに石畳の参道があります。参道を少し登った先に木立に囲まれるように鳥居が立ち、春日造の小祠が鎮座します。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、斎主命(いわいぬしみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめのかみ)の春日四神を祀ります。この春日四神は奈良の春日大社から勧請されたということですが、勧請由緒及び時期などは不明とされます。小さな社ですが、禁足地でもある境内の広さは摂末社の中では一番の広さを誇ります。
また神社境内や近隣は旧平等寺跡とされ、江戸後期の絵図には「本堂、奥の院、不動堂、鐘楼」などの伽藍が描かれ、東奥に鎮守社らしい一画が描かれおり、現在の春日社の前身と思われます。大行事社から春日社へ至る小路の左手、北側の草木に覆われた古い石垣の上に平地が残り、江戸時代までは、大神神社の神宮寺として、同じ神宮寺であった大御輪寺(現大直彌子神社)を凌駕する大伽藍を有する盛況を極めたと伝わります。明治維新後、廃仏毀釈により完璧に破壊され、現在は何も残っていません。尚、現在の平等寺は明治二十三年六月十日に河内から移された翠松寺とされます。 |
【南詣り七番/ 末社/事比良社(ことひらしゃ)】 |
末社「事比良社」、所管社「稲荷社」
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末社・事比良社(ことひらしゃ)、所管社・稲荷社(いなりしゃ)は、三輪明神から山の辺(へ)の道を南へ進み、金屋の石仏から数十メートル進むと、左の小高い丘の上に鎮座している。参道が少し見っけにくいが境内からの見晴らしは中々のもの。境内は狭く南側を除いて雑木の混じった竹藪に囲まれており、竹の新緑が快いところでもある。祭神として向かって右側の事比良社は大物主神(おおものぬしのかみ)で一段高い石畳に鎮座している。向かって左側の稲荷社は宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)です。 |
【南詣り七番/ 所管社「稲荷社」】 |
所管社・稲荷社(いなりしゃ)は、末社・事比良社(ことひらしゃ)に向かって左側に鎮座している。祭神は宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)。 |
【南詣り八番/ 末社/八阪神社・金比羅社(やさかじんじゃ)、所管社「大峰社・賃長社」 】 |
末社「八阪神社・金比羅社」、所管社「大峰社・賃長社」
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末社・八阪神社(やさかじんじゃ)は金拆神社へ向かう道中、標識が立てられる、民家の間に参道があります。深い木立の中に立つ鳥居を進み、急勾配の石壇を登り切ったところ、珍しい拝殿のひとつ、建物の真ん中を参道が通る形式の割拝殿があります。拝殿が閉まってることが多く、右に回ると境内にでます。石垣の上には朱色の瑞垣と土塀に囲まれた神域、その中には春日造りの社、左から所管社・賃長社(はにながしゃ)、末社・八阪社、所管社・大峰社(おおみねしゃ)が鎮座します。境内右手に、同じく大神神社末社・金比羅社(こんぴらしゃ)が鎮座します。
祭神として八阪社は素盞鳴命(すさのをのみこと)、大峰社は山の神である大山祇命(おおやまつみのかみ)、賃長社は長寿祈願の神である磐長姫命(いわながひめのみこと)、金比羅社は大物主命(おおものぬしのみこと)です。金比羅社の祭神は三輪明神の大物主大神とは神格が異なります。特徴として八阪神社の灯籠には「牛頭天王」とあり、昔は牛頭天王ともよばれていた可能性があります。神域内に並んだ左手の賃長社の側面には槌の紋が描かれており、他の八阪社、大峯社には三巴紋が描かれてます。 現在の社名は八坂神社とよばれますが、祭神を素盞鳴命とすることから江戸時代までは、防疫神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀る牛頭天王社として村人から崇敬されていたと伝わります。明治初年の神仏分離により牛頭天王が排され、社名を八坂神社へ、祭神は同一神格の素盞鳴命と変更されました。江戸期かそれ以前に、疫病除けの防疫神として勧請されたと思われますが状況は不明です。この神社は近隣村落の鎮守社というのが原点であり、三輪明神の末社となったのは、明治以降で比較的新しいと言うことです。また神社の祭礼は神楽なども行われ華やかな時期もありました。毎年の10月9日の例祭には、地元の老若男女がそれぞれの役割を帯びて集まり、朝6時からおこなわれるという。古い信仰が姿をかえて残っています。 |
【南詣り九番/ 末社/金拆社】 |
末社「金拆社・天宮社・神室社・大峰社」
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三輪と慈恩寺の境にある末社・金拆社(かねさきしゃ)。この神社は瑞垣に囲まれた老樹を中央に拝する形式で、原初の神祀りに近い存在です。同座として末社・天宮社(あめのみやしゃ)、末社・神室社(かみむろしゃ)、末社・大峰社(おおみねしゃ)が祀られている。また摂社・綱越神社と同じく、神事の際には重要な社の一つでもある。
八阪神社から玉列神社へ向う道中に鎮座している。桜井市立学校給食センターの東側に位置し、駐車場の東の端に、三輪山へ登る道がある。三輪山の南の口に当るところでもあり、狭い階段の下には「入山禁止」の立て札が立てられている。学校給食センターの昔はこの地一面、鬱蒼とした不気味な竹林に覆われており狸や狐に化かされるので、気を付けろと言われていたところでもある。また、この神社は三輪山の山中にある磐座(奥津磐座)の遥拝所としての役目があるとされている。 祭神として末社・金拆社には宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)、綿津見神(わだつみのかみ)の子で、阿雲連(あづみのむらじ)などの祖(おや)とされる。「拆」は信濃の佐久郡を意味し、信濃国更級郡の氷銫斗賣(ひかなとめ、ひがのとめ)神社の氷銫と関係深いとされ、同じく綿津見神の御子で安曇宿禰(あづみのすくねつぐなり)の祖である穂高見命(ほたかみのみこと)と同神とする説がある。 |
【南詣り九番/ 末社/天宮社】 |
末社・天宮社の祭神は天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと)。古事記に大物主は陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘・活玉依毘売(たまくしひめ)と結婚、櫛御方命(くしみかたのみこと)をもうけたと記されている。の櫛御方命の子が飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)、その子が建甕槌命(たけみかづちのみこと)であり鹿島神宮の建甕槌命とは別の神。その子が意富多多泥古(おおたたねこ)、日本書紀では大田田根子と記される。子孫の大田田根子は崇神天皇の御代に三輪山の神主となった。 |
【南詣り九番/ 末社/神室社】 |
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末社・神室社の祭神は龍神である闇淤加美神(くらおかみのかみ)。古事記に伊邪那岐神が火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を斬った時、 その剣の柄に集まった血が、手の指の股から洩れ出てできた二神を闇淤加美神、闇御津羽神(くらみつはのかみ)と呼ぶ。 |
本殿横に神宝神社がある。この「神宝」をどう解釈すべきか。スピリチュアル一説に「神宝」は「人間そのもの」とある。「神宝」をして「財宝」だと解する説もある。仮に「三種の神器」と考えれば「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)、「八咫鏡」(やたのかがみ)、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)という可能性が高い。 |
【南詣り九番/ 末社/・大峰社】 |
末社・大峰社の祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。日本書紀では伊邪那岐神が火の神である迦具土神を斬ったときに生まれたと記している。山を司る神「山神」。別名の和多志大神(わたしのおおかみ)の和多は綿津見・海神(わだつみ)であり海を司る意味合いもある。大山津見神を祀る本源の神社、大山祇(大三島)神社の杜伝では山・海兼備の神であるとされる。この神は各地に祀られており、主祭神以外にも境内の小祠や石に祀られていることが多く見られる。 |
【南詣り十番/ 摂社「玉列神社」】 |
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玉列(たまつら)神社は、大神神社から山の辺(へ)の道を南麓へ初瀬街道(旧伊勢街道)に沿う慈恩寺集落の小高い丘の上に、鳥居から本殿背後に三輪山を仰ぐ形式で鎮座している。背後の山に椿の大木が多く古くから崇敬されている。玉椿の名所で近世まで「玉椿大明神」と呼ばれる。「つらつら椿の玉列神社」
と云われるように同社の椿に会いたくて参詣する者が多い。鳥居を入ると参道脇に咲く色鮮やかな赤や白い椿がやさしい花姿で出迎えてくれる。 祭神は玉列王子神(たまつらおうじ)で、本社・大神神社の大物主の御子神(みこがみ)と伝えられる。配祀として天照大御神、春日大御神が鎮まる。初瀬谷に於ける最古の神社でもあり、江戸時代より玉椿大明神(たまつばきだいみょうじん)として地元の皆さんに親しまれている。子宝石と親しまれる「誕生石」に合掌して急な石段を上ってお参りする。神の名に相応しく、神社境内には200種約500本の椿が植えられ昔より「玉列のつらつら椿」、「つらつら椿の玉列神社」として有名で、遠く京阪神、東海地方に至るまで厚い信仰を集めてます。また同じく「金色のお砂」は招福のしるしとして尊ばれています。 この神社は927(延喜式)年の延喜式神名帳に「大和国城上郡玉列神社」とある初瀬谷における最古の式内社神社で、大神神社の境外摂社となる。 「玉列」は玉を貫ねるという意味で「魂貫」(たまつら)、魂を延々と受け継ぐ意味合いがある。一説に雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はせあさくらのみや)伝承地の間近(三輪山南部)に鎮座する事から王権による三輪山祭祀の南礼拝所として創祀されたと伝わる。玉列神社の東隣に「阿弥陀堂」という一宇がある。もともと玉列神社の神宮寺だったといわれており本尊は阿弥陀如来像は12世紀前半の作、桜井市の史跡に指定されている。 |
【南詣り十番/ 末社「祓戸社、金山彦神社、猿田彦神社、愛宕社」】 |
末社「祓戸神社」
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玉列(たまつら)神社境内には末社「金山彦(かなやまひこ)神社、猿田彦(さるたひこ)神社、愛宕社(あたごしゃ)」が拝殿右(東側)に鎮座する。金山彦社の祭神は鉱山・金属・鍛冶などを司る金山彦神(かなやまひこのかみ)、猿田彦社の祭神は道案内の神(塞神・道祖神)、交通安全の神である佐田毘古神(さるたひこのかみ)。愛宕社の祭神は火を司る神で「かまど神」とも呼ばれる火産霊神(ほふむすびのかみ)。この三神は「かまど三柱大神」と信仰されており、「火」を扱う製鉄に携わるタタラ民が関係あるとの説がある。 |
玉列神社の東隣にある「阿弥陀堂」という一宇があり参詣、もともと玉列神社の神宮寺だったといわれており本尊は阿弥陀如来像は12世紀前半の作、桜井市の史跡に指定されている。 |
【南詣り十一番/ 玉列神社境外摂社「素盞鳴神社」】 |
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素盞鳴神社(すさのおじんじゃ)は磐座信仰を現在も残す神社の一つで、近鉄朝倉駅から東に数分の所に鎮座しており、三輪の明神(大神神社)の摂社・玉列神社の境外摂社でもあり、この二つの神社は慈恩寺区の村社でもあります。素盞鳴神社は暴れ者で有名な神「素盞鳴命(すさのおのみこと)」が祀られます。神社拝殿の奧には、小さな社が祀られてますが、その社を守るように巨大な磐座が鎮座しており、この磐座をご神体とする自然崇拝ということから歴史の古い神社です。また本社の玉列神社境内に、この素盞嗚神社の遙拝所があることから、玉列神社よりも古い歴史があり、この磐座は慈恩寺地区の祭祀場として重要視される境外摂社ということです。 また祭神である素戔嗚命ですが、村では「天王さん」とよばれており神仏習合の時に午頭天王(こずてんのう)と混同されたものと思われます。神社境内の公園(ブランコ、滑り台)からは弥生式土器の発掘が見られることから古代から祭祀が行われていたことがうかがえます。余談ですが、一体に広がる地名の慈恩寺は奈良時代から南北朝の頃までの広大な寺院によるもので現在は玉列神社の入口付近の阿弥陀堂が残るだけです。
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素佐男神社(祗園社) | |
平等寺の北側に素佐男神社が鎮座している。地元では親しみをこめて「祗園さん」と呼んでいる。南から入った参道右横に「回り石」または「夫婦岩」と呼ばれる磐座があって、丸餅のような石が2個、南北に並んでコンクリートの枠内に納まっている。これに似た列石は、志貴御県坐神社にもあり磐座を考える上で興味深い。1880(明治13)年の「大神神社儀式」の四月上卯日(春の大神祭)の項には、「回り石」について次のような記述がある。
左側から金比羅大権現、愛宕、白山祠、庚申が祀られている。この祗園社で春祭の中心行事である田植祭が行われたとの見解がある。子供が神事に矢を射るのは、柳田国男氏の説によれば「その年の豊作を占うため」である。また、「はぜう社」は、端山(麓山神)のことで、麓上(はじょ)さんはその俗称とある。 |
【空海と大物主(大黒天)】 |
大物主の妻が眠る箸墓の東にあたる民家の裏に箸中長者屋敷跡がある。昔、箸中村に貧しいが信仰心が篤かった清助という者が、この長者屋敷跡に住んでいた。それを知った弘法大師(空海)が自作の大黒天(大物主)を清助に与えたところ、さらに信仰心を深めることで長者になった。この話は日本子ども昔話にもなっている。その清助の長者屋敷跡には、ネズミモチの木が植えられており、今も姿を見ることができる。このネズミモチは不思議なことに何年経っても枯れず、大きくなることもなく、箸中の人達を田んぼの中から見守っている。 余談。弘法大師の想いが詰まった大黒天は、奈良県大和郡山市山田町松尾山にある、松尾寺に安置される最古型の大黒天(重文)とされている。清助の長者屋敷は三輪山を望むところに位置し、大物主と大黒天は同一視されることから、大黒天を通して三輪山に鎮まる大物主を拝していた。ネズミモチは初夏に花序の多い白花を咲かせ、晩秋にはネズミの糞に似た黒紫色の小さな実を付ける。名前の由来も、この実からネズミモチと名付けられている。 |
【境外摂社/率川(いさがわ)神社】 |
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率川(いさがわ)神社は奈良市本子守町18に鎮座する。本殿三棟の社で平城遷都以前、593年に大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)の勅命により創建された奈良市最古の神社である。祭神は神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)。全国の神社の中では珍しい皇后を主祭神とした神社である。三棟の本殿左には媛蹈鞴五十鈴姫命の父神である狭井大神(さいのおおかみ)、右には同じく母神の玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)が祀られ、中央に祀られる媛蹈鞴五十鈴姫命を両親が寄り添う姿で守るように鎮座する。この事から、古くより俗に子守明神とよばれ、子育ての神、子どもの守り神として信仰を集めている。摂社の中では、磐余の里(大和桜井市)三輪から少々遠いところにある。境内は第9代開化天皇(かいかてんのう)の宮である「開化春日率川宮」があったとされる。 率川神社本殿の東側には三輪明神の摂末社が並ぶ。 末社・住吉社。祭神は上筒之男命(うわつつのをのみこと)、中筒之男命(なかつつのおのみこと)、底筒之男命(そこつつのおのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后。 摂社・率川阿波神社。祭神は天皇を守護する託宣の神事代主神(ことしろぬしのかみ)。出雲の国譲りの際に釣りをしており、釣りの神が転じて、豊漁の神として崇められることの方が多い。別名は「えびす神」ともよばれる。 末社・春日社。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、斎主命(いわいぬしのかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)です。武甕槌神は雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神、武道・競技の必勝、事業の創始、旅行安全の神で別名は「斎主神・伊波比主神(いわいぬし)、天児屋根命(あめのこやね)、比売大神(ひめのおおかみ)」。天児屋根命は祝詞の神、出世の神とされ、中臣連の祖(中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神)である。 境内南側には本社である三輪明神(大神神社)の逢拝所が設けられている。その隣には縁起物の「カエル石」が四方八方を守るように鎮座する。蛙は一度に沢山の卵を産むことから繁殖力、命の再生、豊富、裕福の証として伝えられる。特に「カエル」と言う名の語呂「お金がカエル、幸せがカエル、若カエル、無事カエル、貸した物がカエル」などと言われ参拝者の健康回復、旅行安全、筋力増幅などの御利益を願いこの石を撫で親しまれている。三輪明神の「なでうさぎ」と共に率川神社の「なでカエル」とよばれ人気がある。 |
■率川神社のゆり祭り・・
三輪明神で育てられた「笹ゆり」を、率川神社に奉納し「三枝祭(さいくさのまつり)」が6.17日に執り行われる。境内には笹ゆりの香りが漂う通称「ゆりまつり」として親しまれる。この祭りは神前に酒樽を供え、四人の巫女が笹ゆりをかざして「うま酒みわの舞」を奉納する。また奉納された笹ゆりは厄除けとして参拝者に配られる。神域には神々の食事とされる特殊神饌(とくしゅしんせん)「鯛、鰹、アワビ、イカ、かます」など、生の魚介類と「ニンジン、ゴボウ、餅、白蒸(ごはん)、ゴマ、黒豆、枇杷(びわ)」などが折櫃(おりびつ)に並べられ、両端が細くなった箸が添えられる。柏の葉で編んだ蓋をして黒木の棚にのせて供えられる。701(大宝元)年に制定の「大宝令」では国家の祭りとして定められ、疫病を鎮めることを祈る由緒のある祭りである。媛蹈鞴五十鈴姫命が住む三輪山の麓の狭井川(さいかわ)の畔には、笹ゆりが美しく咲き誇ってていたという古事記に記される伝説から、酒樽を三輪山に咲く笹ゆりで飾り神殿に奉納する神事になっている。笹ゆりの茎先が三本に分かれるところから三枝といわれる。三枝祭は平安時代、盛んに行われたが時代と共に中絶し明治十四年に再興され現在に至る。 |
海柘榴市、仏教伝来の地 | |
八坂神社から金拆社に向かう道中に「海柘榴市(つばいち)」や「仏教伝来の地」に寄り道できる。桜の季節には初瀬川のせせらぎを聞きながら、桜並木のトンネルの中を歩く快いところでもある。初瀬川の桜並木は、昔からここで男女が集い、詩の掛け合いをして歌垣を催されたと日本書紀・古事記・万葉集に記されている。 泊瀬川畔一帯は磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、磯城嶋金刺宮(しきのみつかきのみや)、海柘榴市(つばいち)などの史跡を残し「しきしまの大和」とよばれる古代大和朝廷の中心地といわれる。この付近は大阪湾の難波津(なにはづ)から大和川を上ってきた舟の終着地でもある。難波津に着いた聖明王の使者は、大和川を船で上り、初瀬川河畔の海柘榴市に上陸したと伝わる。大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきた。横大路・磐余山田道・上ツ道・山の辺の道などの主要な道路が交わり、多くの人や物が行き交う水陸交通の要衝として発達した。海柘榴市周辺は古代より栄えた交易市の跡で、最古の交易の市として万葉集や源氏物語、枕草子にもたびたび登場する。海石榴市の説明文は次の通り。
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■長野県長野市元善町にある善光寺の本尊(秘仏)とされる善光寺式如来は百済よりこの地に届いた一光三尊阿弥陀如来。
欽明13年(552年)の冬10月に百済の聖明王(せいめいおう)は西部姫氏達率怒利斯致契等を遣として釋迦佛金銅像(一光三尊阿弥陀如来・百済大仏)・幡蓋若干(はたきぬがさ)・經論(きやうろん)をたてまつると日本書紀に記されている。仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、直ぐに南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされている。また「推古16年(608年)遣隋使の小野妹子が同じ遣隋使である裴世清を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬75頭を遣して海柘榴市の路上で阿倍比羅夫(あべのひらふ)
に迎えさせた」と記されている。
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御県神(みあがたのかみ) |
御県神(みあがたのかみ)は田の神で、大和では高市御県、葛城御県、十市御県、志貴御県、山辺御県、曾布御県の六つの御県神が著名である。御県神は大きな川の流域の田圃の中などにも祭られていることが多い。志貴御県坐神社の境内につづく西側、現在の天理教敷島大教会と北隣りの三輪小学校の両敷地から、縄文式土器、弥生式土器、石器をはじめ須恵器や土師器のほかに金屋の地名どおり製鉄に関係のある金クソ、フイゴの口、石製模造品、玉製品などが出土している。このことから、このあたりが皇居跡ではないかとの説もある。この台地は海抜7~80mの地で、考古学上からも三輪遺跡として重要視されている。 |
(三輪山)平等寺(びょうどうじ) | |
581年、平等寺は、聖徳太子が賦徒を平定するため、賦徒平定後の世の中の平和安寧を念じ、三輪明神に祈願して賦後十一面観音を彫んで三輪山麓に寺を建立し、大三輪寺と称したのに始まるという。本尊は聖徳太子の御自作と伝えられる十一面観音。現在の本尊は平安期に復元したものという。 寺伝は次のように記している。
その後、大御輪寺、浄願寺と共に三輪明神(現・大神神社)の神宮寺で、曹洞宗の寺院。「大神神社史」は、「平等寺境内の開山堂に慶円の像を安置していた」ことを根拠に寺伝を否定し、僧/慶円上人(三輪上人)を開山者としている。「大三輪町史」は空海説にも触れているが、史料上はっきりとした記述は古代にはあらわれない。慶円は鎌倉時代初期の僧で、大神神社の傍らに真言灌頂の道場「三輪別所」を開き、平等寺と改称してから大伽藍を建立したと伝えられる。境内には吉野朝時代の僧/善教が大和の国の熱病平癒のために彫られたという「熱取り地蔵」等がある。関ヶ原の戦いに破れた島津義弘が、一時この寺でかくまわれていたという。江戸時代には、真言宗の寺院ではあるが修験道も伝えていた。平等寺は明治の廃仏毀釈によって一旦廃絶するが、明治23年になって翠松寺(すいしょうじ)が河内から移され、旧平等寺の山門付近に再建された。その後、昭和52年3月に元の「(三輪山)平等寺」という名前に戻った。 |
ホケノ山古墳 |
檜原神社から九日神社への道筋にはホケノ山古墳・箸墓古墳等の有名な古墳がある。豊鍬入姫命の墓との伝承が残るホケノ山古墳はのどかな風景が楽しめる。また、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳は池側からの眺めが素晴らしい。 |
箸墓古墳 |
檜原神社から九日神社への道筋にはホケノ山古墳・箸墓古墳等の有名な古墳がある。豊鍬入姫命の墓との伝承が残るホケノ山古墳はのどかな風景が楽しめる。また、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳は池側からの眺めが素晴らしい。 |
渋谷向山古墳 |
「渋谷向山古墳」は全長約300メートルの巨大前方後円墳で、景行天皇山辺道上陵として、宮内庁により陵墓治定を受けている。これは4世紀後半に築造された古墳時代前期後半の古墳と思われ、この時代の古墳としては国内最大の古墳という。第12代と数えられる景行天皇に関しては日本武尊(ヤマトタケル)の父と言われているが、実在性には疑問が出されている。 |
行燈山古墳 |
行燈山古墳も前方後円墳で、三輪山の山麓に築かれた大和、柳本古墳群の中でも渋谷向山古墳に次ぐ大きさであり、崇神天皇陵に比定されている。崇神天皇は、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。 |
中山大塚古墳 |
中山大塚古墳はこのあたり一帯に展開する大和古墳群の南側に位置する前方後円墳で、前方後円墳が築かれ始めた頃、古墳時代初頭の古墳と判断されているという。ここに「大和神社お旅所」がある。「4月1日は大和神社よりここお旅所(大和稚宮神社)まで神輿渡御が行われる。祭り始めは、ちゃんちゃん祭り、祭り納めはおん祭り、大和の俚謡に歌われる大和の代表的な祭りになっている。「‘ちゃんちゃんと鉦鼓の音が大和に春を告げます」と説明されている。 |
燈籠山古墳 |
燈籠山古墳も前方後円墳だが、発掘調査が行われていないため、埋葬施設は不明。築造時期は古墳時代前期前半(4世紀前半)と考えられている。 |
西山塚古墳 |
西山塚古墳は古墳時代後期前葉の前方後円墳で、前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけという。ここも発掘調査は行われていないが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されているという。 |
波多子塚古墳 |
波多子塚古墳も前方後円墳。墳丘が畑や果樹園等に開墾されていて、築造当時の本来の墳丘形状からは大幅に改変されていると考えられている。築造時期は出土した埴輪の年代から、古墳時代前期、おおむね4世紀前葉と考えられている。この辺りには数多くの古墳が存在していて、大和古墳群と呼ばれている。 |
第10代崇神(すじん)天皇御陵(山辺道勾岡上陵) |
檜原神社からさらに北へ向かうと穴師(あなし)の集落に入り、その先には第10代崇神(すじん)天皇御陵がある。天理市柳本町。 |
黒塚古墳 |
黒塚古墳は、天理市柳本町。ここから卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が33面も出土している。 |
纏向遺跡(まきむくいせき) |
奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡。3世紀を主時期とする。前方後円墳発祥の地とされている。遺跡名称は、奈良県の旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。 |
纒向・日代宮跡(まきむく・ひしろみやあと) |
纒向・日代宮跡(まきむく・ひしろみやあと)。「紀元730年、第12代景行天皇・大足彦忍代別命(おおたらしひこをしろわけ)が、即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた」。 |
九日神社(国津神社) | |
九日神社は九日(くにち、くじつ)または国津(くにつ)と呼ばれる小さな神社である。「国津」と言えば、すでに通ってきた箸墓古墳の手前にある神社も国津神社であった。国津神社(箸中)付近は、祭祀遺跡である。芝と箸中の二つの国津神社は、纏向川を挟んで深い関係にある。国津神社(箸中)にある説明板には次のような説明がなされている。
ちなみに纏向川下流の芝の国津神社(九日神社)には、素盞鳴尊の剣を物実としてうまれた奥津島比売、市杵島比売、多岐津比売の三女神を祭祠している。この箸中と芝で、神の山三輪山を水源とする纏向川をはさみ、二神の誓約によって成り出た神をそれぞれ祭神としていることに、古代神話伝承の原景を見る思いがする。また、天照大神の祭祀に奉じた豊鍬入姫命は崇神天皇の皇女で、その墓所が国津神社裏のホケノ山古墳であるという伝承が地元に伝わっている。(ホケノ山古墳は国津神社から徒歩で往復4分) |
穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社 | |
奈良県桜井市穴師にある穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社。通称は大兵主(だいひょうず)神社 。式内社で旧社格は県社。山の辺の道から300m程東へ、なだらかな坂を上ると神社の入口がある。この地はもと穴師大兵主神社の鎭座地であった。元の穴師坐兵主神社は山中・弓月岳にあった。垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。応仁の頃、上社が焼失した。巻向坐若御魂神社は巻向山中にあった。穴師大兵主神社、穴師坐兵主神社、巻向坐若御魂神社の三社とも式内社に比定されている古社を合祀した。拝殿後方に、穴師坐兵主神社(名神大社)、巻向坐若御魂神社(式内大社)、穴師大兵主神社(式内小社))の本殿3棟(3社)が配置されている。祭神は右殿・若御魂神(稲田姫命)、中殿・兵主神(御食津神)、左殿・大兵主神。境内には慶応2年(1866)の常夜燈が立っている。 | |
次のように説明されている。
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相撲(すもう)神社 |
穴師坐兵主神社の摂社として「相撲(すもう)神社」がある。この神社には鳥居はあるが社殿はない。ただ左手に小さな祠がある。神社境内の中央に土俵があり、土俵の盛り土の四隅には四本柱の代わりに桧の木が4本植えられている。日本書紀によれば第11代垂仁天皇7年、大兵主神社神域の小字カタヤケシで、出雲国出身の野見宿禰と大和国出身の當麻蹶速が天皇の御前で日本最初の勅命天覧相撲(今の天覧試合)を行った。日本最初の勅命天覧相撲が相撲節(7月7日)となり、それがもとで後世、宮中の行事になった。その取り組みを行ったとされている所に鎮座して野見宿禰を祀っており、相撲の祖神として信仰されている。相撲神社の万葉歌碑 「巻向の 山邊響(とよ)みて行く水の みなあわの如し 世の人吾は」(作者/柿本人麻呂)。相撲はもとは神の信仰から出ていて、国土安穏、五穀豊穣を祈る平和と繁栄の祭典であった。 境内には勝った野見宿禰を祀る祠や土俵などがひっそりと佇み、市内の出雲地区には野見宿禰の墓といわれる塚やゆかりの地の十二柱神社がある。弓月岳にあった穴師坐兵主神社の古社地と考えられる場所は「ゲシノオオダイラ」と呼ばれており弓月岳-上社跡-下社-箸墓古墳後円部中心が一直線に並ぶ。垂仁天皇の都は纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや、古事記には師木玉垣宮(しきのたまかきのみや))とあり、奈良県桜井市穴師周辺に比定されている。 |
村屋坐弥冨都比売(むらやにますみふつひめ)神社 |
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奈良県磯城郡田原本町に鎮座している。式内大社で旧社格は県社。三穂津姫命(別名 弥富都比売神)を主祭神とし、大物主命を配祀している。三穂津姫命は大国主命の后神で記紀神話では大物主と大国主は同神、大物主命は大神神社の祭神でその后神を祀る別宮とされている。大物主(おおものぬし)と三穂津姫(みほつひめ)の夫婦神を祭ることから「縁結びの神」としても知られ、大和国一之宮である大神神社の主祭神の妃神を祀っていることから、大神神社を参っただけでは片詣りともいわれる由緒正しい神社である。
五穀豊穣を祈るお田植祭神事、祝詞のあと畦切りと荒田おこし、畦捏ねと畦塗りに続き籾蒔き、牛男に扮した牛を使っての田植え準備、巫女が豊作の祝い神楽奉納があり、最後に神主が田植えを行う。
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十二柱(じゅうにはしら)神社 |
奈良県桜井市出雲にある。十二柱神社は旧初瀬街道沿いにある旧指定村社で、十二柱の名前のどおり国常立神(くにとこたちのかみ)など神世七代の神々と天照大神など地神五代の神、十二柱の神々を祀っています。参道から石段を上ると鳥居脇の大きな狛犬を片方4人ずつで力士が支えている。境内には第25代武烈(ぶれつ)天皇「泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)伝承地」として武烈を祀る武烈天皇社の祠と石塔があり、付近に天皇屋敷や御屋敷などの地名が残されている。出雲集落は当麻蹴速(たいまのけはや)と、我が国初の天覧相撲で勝利した 野見宿禰(のみのすくね)を祖として、相撲を行った穴師の相撲神社と並ぶ相撲発祥の地として知られている。 |
増御子神社 |
猿田彦神、天鈿女命(あまのうすめ)、神武天皇の功臣、椎根津彦の子孫市磯長尾市氏命を祀る。例祭 4月1日 知恵の神、受験・就職・産業開発を祈る。 |
高●(たかおおかみ)神社 |
御祭神/高●大神。天候、産業を司り水利を受け給う。祈雨、祈晴、暴風除けを祈る。社は古く大倭神社注進状にも記載され丹生川上神社上社の本社でもある。 |
祖霊社 |
戦艦大和第2艦隊戦没者霊を祀ると共に、大国主神・氏子崇敬者が鎮まる。昭和20年4月7日 鹿児島県坊ノ岬沖にて撃沈され、伊藤整一命他2736柱を合祀される。 |
朝日神社 |
桜井・奈良街道を行く方は必ず詣でしと言う。殖産を興し交易を奨め給う。 |
夜都岐神社(やつぎじんじゃ) |
夜都伎神社(やつぎじんじゃ)は奈良県天理市にある。旧社格は村社。夜都伎神社とも書かれ、「やつき」「やとぎ」などとも読まれる。乙木(おとぎ)集落の北端に鎮座する。祭神は、春日大社の4神(武甕槌命、姫大神、経津主命、天児屋根命)が祀られている。社地は宮山(たいこ山)と呼ぶ前方後円墳で、現拝殿前附近は土をならして平面にしたという。拝殿は萱葺でこの地方では珍しい神社建築で、屋根の美しい秀麗な神社で、元は神宮寺で十来子(十羅刹)を祀っていたという。 |
この地には元は夜都伎神社と春日神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を約400m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社1社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられている。この神社は昔から奈良春日神社に縁故が深く、明治維新までは当社から蓮の御供えと称する新饌を献供し、春日から60年毎に若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていたと伝えられている。 現在の本殿は、1906(明治39)年に改築したもので、春日造檜皮葺高欄浜床向拝付彩色7種の華麗な同形の4社殿が末社の琴平神社と並列して美観を呈する。拝殿は萱葺でこの地方では珍しい神社建築である。鳥居は嘉永元年(1848年)4月奈良若宮から下げられたものという。石碑には、「山の辺の道ははるけく 野路の上に 乙木の鳥居 朱に立つ見ゆ 東畝」と刻まれている。 |
日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ) |
大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが神社の創建であると伝えられている。(2000余年前)奈良時代、朝廷の命により、唐の国へ渡って学ぶ遣唐使、その他使臣は、出発に際して、当社へ参詣し、交通安全を祈願された。 |
雄神神社(雄神神社) |
雄神神社は、〒632-0221 奈良県奈良市都祁白石町に鎮座する。天理市布留町に鎮座する「石上神宮」の境内摂社「出雲建雄神社」、藺生町に鎮座する「葛神社」と共に式内社「出雲建雄神社」の論社となっている。創建・由緒は詳らかでない。祭神は「出雲健男命」。社格は式内論社。背後にある山には二つの頂があり、東側は標高550.6mの「雄神山」(雄雅山)、西側は標高531.5mの「雌神山」(雌雅山)で、総称して「野野上岳」(野野神岳)と呼ばれている。神社には本殿がなく、野野上岳を神体山としている。野野上岳の山頂には白蛇が住んでいると伝えられ、現在も禁足地となっている。桜井市三輪に鎮座する三輪山の大神神社の元宮(奥宮)と伝わる。三輪山の周辺が大和の中心になる前、この社のある都祁が大和の本来の中心であったとされる。 |
神社の西方500mほどの地に鎮座する「国津神社」との間の田圃には四カ所の「休ん場(ヤスンバ)」と称する小さな森があり、これは神が往来する際に休むところであると伝えられている。 |
式内摂社/出雲建雄神社 |
式内摂社/出雲建雄神社。拝殿は元は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿だった。大正3年に現在地に移築されたという。内山永久寺は神仏分離令により明治9年に廃絶。その後も鎮守社の住吉社は残されたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、拝殿だけが荒廃したまま残されていたので、当神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築したという。従ってこの建物は内山永久寺の建物の遺構として貴重なもので、国宝に指定されている。建立年代については、はじめは保延3(1137)年に建立され、その後13・14世紀に2回の改築によって現在の構造・形式になったと考えられている。 |
出雲建雄神社は江戸時代には所在不明となっていたようで、江戸時代中期の地誌「大和志」は所在未詳としつつ「或いは曰く」として現在の藺生町の「葛神社」を挙げている。対して現在では式内社/出雲建雄神社を境内社に比定する説が有力となっているが、雄神神社がそうであるとする説も唱えられている。現在に貴重な信仰的風景を伝える神社となっている。 |
三輪山出雲屋敷跡(いづもやしきあと) |
出雲屋敷跡(いづもやしきあと)は別名「高佐士野(たかさじの)」とよばれ三輪山の麓、狭井川の川縁近くにある七乙女伝説の地である。伝説ではこの地で暮らしていた七人の乙女たちのことで、その中の一人、伊須気余理比売(いすきよりひめ)を大久米命(おおくめのみこと)が初代天皇である神武天皇に勧めたところ、神武天皇は伊須気余理比売をすぐに気に入り妃にした。 出雲屋敷跡の由来は次の通り。出雲は素戔男尊(須佐能袁命、すさのおのみこと)の子孫、大国主命(おおくにぬしのみこと)を神とする出雲神話の地である。三輪の神は大物主(おおものぬし)とよばれ、大国主命の分身とされる。その大物主の娘たちが住んでいたので出雲屋敷とよばれたとのこと。神武天皇(神倭伊波礼琵古命、かむやまといわれひこのみこと)は、九州高千穂出身の高天原系。それに対し伊須気余理比売は出雲系。この高天ヶ原系と出雲系が結婚することにより、この二つの系譜や神話が一つに統合され、初代天皇誕生へと発展する。 伊須気余理比売(いすけよりひめ)は古事記に伝えられる神武天皇の皇后。その出生にまつわる物語として丹塗矢(にぬりや)の神婚説話がある。三輪の大物主が美女、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に思いをかけ、その用便中に丹塗矢と化して陰部(ほと)を突いた。丹塗矢は立派な男に変じて姫と結ばれた。その後、生まれたのが富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)で、後に「ほと」の名を嫌い、伊須気余理比売と改名した。伊須気(いすけ)は「いすすき」(身震いする)、余理(より)は神霊の依(よ)り憑(つ)くという意味合いがある。 |
素盞雄神社 |
素盞雄神社は奈良県桜井市に鎮座する。 |
大物主ゆかりの緒環塚(おだまきづか) |
緒環塚(おだまきづか)は三輪明神の三輪(みわ)と言う地名の由来が残る塚でもある。この緒環塚には縁結びに肖ろうと、多くの人が赤いリボンを結ぶ赤い糸伝説がある。カップルが石の椅子に座ることで結婚できるという。 昔々、この地に住む三輪氏の祖と伝えられる陶都耳命(すえつみみのみこと)に活玉依姫(いくたまよりひめ)という美しい姫がいた。その姫のもと真夜中になると紫の上衣を着た一人の男が現れるようになり何時の間にか姫と男は夫婦のちぎりを結んだ。姫は姫は間もなく妊娠した。そのことを知った父母は姫に問いかけた。父母は「お前は夫もいないのに妊娠しているがどうしたのか」と尋ねると。姫は「名前すら知らないお方ですが姿の凛々しい男の人が深夜に現れ夜明けになると何処へと帰られます」と答えた。心配になった父母は姫に「今夜、男が現れる前に寝床へ赤い土を撒いて緒環(おだまき)の糸の端を針に通して、その男の着物の裾に刺しておくように」と教えた。姫は教えられたとおりに男の着物の裾に針を刺したそうです。明くる日、周囲の赤土を見ると足跡はなく糸が戸の鍵穴から抜け出ており、その糸をたどると三輪山の神の社に続いていた。毎夜通う男の正体は三輪の神(大物主)とわかった。その時、姫の家の緒環には糸が三輪(三巻)だけが残っており、これが三輪という地名の由来となる。姫は始めて大物主と知り、残った緒環の糸を土に埋めた所が緒環塚である。三輪素麺が糸のように細く作られることから緒環に関係してる可能性もある。 |
長岳寺(ちょうがくじ) |
長岳寺(ちょうがくじ)は、天理市柳本町508。824(天長元)年、淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したという。庫裏(旧地蔵院本堂及び庫裏)はかって48もあった塔頭のなかで唯一残った旧地蔵院の遺構で、寛永7年(1630)~寛永8年(1631)の建築。室町時代の書院造の様式を伝えており、重要文化財に指定されている。本堂は天明3年(1783)に再建された建物で、阿弥陀三尊像と多聞天・増長天立像を安置している。 楼門をくぐって境内に入るが、これはかっては上層に鐘楼が吊られていたために「鐘楼門」と呼ばれる日本最古の鐘門で、下層は室町~安土桃山時代、上層は平安時代のものという。寺伝では空海による創建当初から現存する建物というが、上層部分も空海の時代まではさかのぼらず、平安時代末期頃の建築とされる。 |
内山永久寺跡 |
内山永久寺跡は、平安時代後期の永久2年(1114)に鳥羽天皇の勅願により興福寺僧頼実が創建したと伝えられ、往時は壮麗な大伽藍を誇ったといわれているが、明治年間の廃仏毀釈より徹底的な破壊を受け、いまは境内の本堂池などにわずかに面影を残しているのみになっている。 |
摂社「綱越神社」
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末社「御炊社」
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良縁成就「夫婦岩」
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笠荒神☆笠山三宝荒神社(かさやまさんぽうこうじんしゃ) |
奈良県桜井市笠の西端、標高480mの山中に位置する「笠荒神☆笠山三宝荒神社(かさやまさんぽうこうじんしゃ)」。笠荒神は、初めて火を起こし物を煮て食べる事を教えられた興津彦神(おきつひこのかみ)、興津姫神(おきつひめのかみ)、土祖神(はにおやのかみ)を祀り、カマドの神様として人々から厚い信仰を集めている。清荒神(兵庫県宝塚市)と立里荒神(奈良県野迫川村)の日本三大荒神の一つである。年三回(1月・4月・9月)に行われる大祭、竹林寺からお渡りや甘酒が振る舞われる。氏子代表を先頭に神職によりご神体が到着、祭壇に奉られ厳かに神事が行われる。参拝のあと、笠栽培のソバ100%使用の香り豊かな蕎麦がいただける「笠そば処」に立ち寄り、高原野菜や可憐な花苗を買い求めるのが倣い。 |
(私論.私見)