大神神社詣り北方詣り順路

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和5).7.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、大神神社の北方詣り順路を確認しておく。「山の辺の道を歩く」その他参照

 2006.12.3日 れんだいこ拝


【神遊びお詣り】
 神遊びは一日の中で一番静かな時にお詣りする。三輪明神(大神神社)は夜のお詣りができる。伊勢神宮の内宮外宮(別宮を含む)などでは正月を除きお詣りすることができない。神社二の鳥居から出迎え灯篭に続けて導き灯篭が連立しており、神社拝殿まで導いてくれる。但し、摂末社の「活日神社・久延彦社」の石段は要注意である。「神遊び」とよぶと不謹慎と思われやすいが「丑の刻詣り」となると誤解される場合があるのであえて「神遊び」とよぶ。

 順路は二の鳥居から参道を通り、祓戸社にお詣り後に三輪明神拝殿へ。その後は活日神社(いくひじんじゃ)、磐座神社(いわくらじんじゃ)、市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)、狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわのあらみたま)、久延彦社(くえひこじんじゃ)、若宮社(わかみやしゃ)(大直禰子神社・おおたたねこじんじゃ)、琴平社(ことひらしゃ)とお詣りして、そのまま南に進むと二の鳥居前に戻ることができる。

 丑の刻参りとは、山の中を白衣で頭に蝋燭をつけた女性が、木に藁人形を打ち込むことで知られている。丑の刻参りは「丑の刻に神社の木に呪いたい相手を見立てた藁人形を釘で打ち付ける」という呪術である。丑の刻は昔から幽霊や不吉なものと関連付けられることがよくある。

【北方詣り順路】

【北方詣り順路】
 三輪明神(大神神社)北方詣りの順路は次の通り。三輪明神拝殿から日本最古の山の辺(へ)の道を通り、小鳥のさえずりを聞きながら新緑の三輪山の麓を歩くと、大和三山(天香山・耳成山・畝傍山)や磐余の里の街並み、大鳥居などを見ることができ、遠く西方には日本神話の故郷、金剛葛城山や二上山を望みながら摂末社詣りするコースである。道中には大物主(女性・アマテラス)が通ったとされる玄賓庵、日本最古の灌漑用池・イワツボ、二股の古木などの見所がある。また井寺池、大美和の杜、展望台など各所にも素晴らしい風景が見られるところが多くある。
一番 摂社 活日神社 (いくひじんじゃ)
二番 摂社 磐座神社 (いわくらじんじゃ)
三番 末社 市杵島姫神社 (いちきしまひめじんじゃ)
四番 摂社 狭井坐大神荒魂神社 (さいにますおおみわのあらみたま)
五番 末社 貴船神社 (きふねじんじゃ)
六番 摂社 檜原神社 (ひばらじんじゃ)
末社 豊鍬入姫宮 (とよすきいりひめのみや)
七番 末社 富士神社 (ふじじんじゃ)
七番 末社 厳嶋神社 (ふじいつくしまじんじゃ)
八番 摂社 神御前神社 (かみごぜんじんじゃ)
九番 末社 久延彦社 (くえひこじんじゃ)
十番 摂社 若宮社 (わかみやしゃ)
大直禰子神社 おおたたねこじんじゃ
陶荒田神社摂社 すえあらたじんじゃ
末社 琴平社 (ことひらしゃ)
所管 御誕生所社 (おたんじょうしょしゃ)

【北詣り一番/ 摂社/活目(いくひ)神社 】
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 北方詣り順路一番/ 摂社/活目(いくひ)神社 。奈良県桜井市三輪。酒造りを行う杜氏(とうじ)の祖神を祀る社。祭神は高橋活目命。第十代崇神天皇の御代、国は疫病の流行で混乱を極めていた。そんな時、天皇に、夢で大物主大神様から「私の子孫である大田田根子(おおたたねこ)を祭主にし、酒を奉納しなさい」というお告げがあった。崇神天皇は掌酒(さかひと)で杜氏(とうじ)の高橋活日命(たかはしいくひのみこと)を呼び、三輪の神様にお供えする酒造りを命じた。一夜で酒造りを行い神酒を奉納したところ、疫病は去り国が富み始めた。この経緯により、古図には一夜酒之社と書かれており、土地の人もまた一夜酒さんと呼んでいる。これによって高橋活日命は杜氏の神様となり、大神神社の摂社「活日神社」に祭神として祀られることになった。これにより酒造りに取り組む杜氏らの先祖とも仰がれ、杜氏の祖先神(一夜酒の神)(「酒造りの神」)として酒造関係者からの信仰が篤い社の一つになっており、全国各地から酒造関係者がお詣りに来られる。現在でも丹波や丹後・但馬、北陸、中国筋の杜氏らが、蔵入りする前と無事百日勤めを終えてそれぞれ郷里へ帰る時にこの社に参拝するという。

 日本書紀の崇神天皇紀に720(崇神天皇8)年4月の庚子(かのえね)の朔(つひたち)乙卯(きのとのう)に「高橋の邑の人活日(いけひ)を以て大神の掌酒(さかびと)とす」と記されている。日本書紀・崇神天皇条によるところ、大物主神のご神助により、会心の美酒を造ることが出来、その酒を崇神天皇に神酒を献じた時、「この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久(いくひさ)」(「この神酒は、私の神酒ではありません。倭の国を成した三輪の大物主神(おほものぬしのかみ)がお作りになった神酒です。幾世までもいく久しく いく久しく栄えあれ」)と詠って献じたとされている。「大物主神のご神助により、会心の美酒を造ることができました」の詠(うた)いに対し、崇神天皇は「味酒(うまさけ) 三輪の殿(との)の 朝門(あさと)にも 押し開かね 三輪の殿門(とのと)を」(「一晩中飲み明かし「三輪の拝殿の戸を朝開いて帰っていこう。三輪の拝殿の戸を」)と返歌している。この功により日本書紀の崇神天皇紀に崇神天皇八年(720年)四月の庚子(かのえね)の朔(つひたち)乙卯(きのとのう)に、「高橋の邑の人活日(いけひ)を以て大神の掌酒(さかびと)とす」と記されている。

 また一夜にして美味しい酒を造ったことから古くは「一夜酒社」(ひとよざけのやしろ)ともよばれ、酒まつり等で舞われる神楽「うま酒みわの舞」は活日命が詠んだ詩で作曲作舞されている。我が国最古の大神神社と日本酒には深い繋がりがあり、古い時代から大神神社に醸造を司る人が存在したことが分かる。
 余談。大神神社のご神体は三輪山(みわやま)。昔は神に捧げる酒のことを神酒(みわ)と発音しており、さらに古来の人々は神のことを(みわ)と発音したという。

【北詣り二番/ 摂社/磐座(いわくら)神社 】
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 活日神社に続いて山の辺の道の参道を歩くと左手に現れる「くすり道」(山側の道)を過ぎ、少し歩くと右手に原始神道の流れを残す磐座(いわくら)神社が狭井神社に向かう途中に頑固な岩(磐座)がご神座として鎮まっている。この社は社殿がなく、磐座を神座とする形態が原始の神道の姿を伝えている。祭神は少彦名(すくなひこな)の神。三輪山の麓には辺津磐座(神が鎮まる岩)が点在しているが、その一つでもあり代表格である。

 少彦名神は別名「神農さん」ともよばれる薬の神でもある。「大三輪社勘文」に「大神崇秘書」を引用して、「辺っ宮は・・・神殿なく磐座あり。辺っ磐座と称す。少彦名命なり。清寧天皇の御世・神託に依り賀茂君之を斎祀す」と記されている。この辺津磐座については「鎮座次第」では、「清寧天皇が大伴室屋大連に勅して当神社に幣帛をたてまつり、皇子なきの儀を以て祈祷せしめられ給いし時、大神が宮能売に憑られ、大神の和魂と共に少彦名命を敬祭あそばされんことを請い、もろともに天津日嗣(ひつぎ)の絶ゆることなく皇孫を守り、人民を済わん」と宣託され、大御心を安んじ給うたと伝えており、同天皇の元年冬十月乙卯の日に、磐境を立て起して崇祭されたのを起源としている。

 この神は大物主と協力し、国土を開拓・開発につとめ医薬治療の方法を定め、人間生活の万般・福徳の守護神です。大己貴神は、この常世の穀霊と合体して国造りに成功する。 また磐座神社は別名「三穂神社、石神皇后神社、岩上皇后社、岩倉社、岩倉祠、岩上宮、石上社」とよばれていたことが明らかにされている。三穂神社、皇后神社の名から、かつては大物主の后神である三穂津姫命(みほつひめ)を祭神とする神社とも伝わる。岩上、石上からは岩神、石神に通ずる信仰も少なかれ存在したということになる。

 少彦名神は、常世国(とこよのくに)から石(いわ)に示現する神と歌われ、粟茎(あわがら)に弾かれて淡島(あわしま)より常世国に至ったとも語られる。またガガイモの舟に乗り、蛾(が)あるいは鷦鷯(さざき)(ミソサザイ)の皮を着て海上を出雲の美保崎に寄り着いたと説かれるので、この神は常世国より去来する小さな神であったことがわかる。さらにこの神は、多くの場合、国造りの神として大己貴神(おおなむちのかみ、大国主命)と並称されるが、その本質は粟作以来の穀霊であったと考えるべきであろう。生成神・神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、田の神の案山子(かがし)(久延毘古(くえびこ)に名を明らかにされる話もその本質と関係がある。大己貴神は、この常世の穀霊と合体して国造りに成功する。
 三輪山辺津磐座「オオカミ谷の磐座3ヶ所巡り」。三輪明神は三輪山を神体山として成立した神社とされ、拝殿のみで本殿を有しない原始信仰としての神社の形態を維持している。また三輪山の山中には、三輪山山頂の奥津磐座(おきついわくら)、中腹の中津磐座(なかついわくら)、山麓の辺津磐座(へっついわくら)の三つの磐座が存在する。

【北詣り三番/ 末社/市杵島姫(いちきしまひめ)神社】
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 市杵島姫(いちきしまひめ)神社は狭井神社境内にある鎮女池の畔に鎮座する。桜井市大字茅原に鎮座する大神神社末社・厳島神社から勧請した神社である。祭神は市杵島姫(いちきしまひめ)の命。又の名を「狭依(サヨリ)ヒメ」という。 素戔嗚命の御子神であり、古事記では天照大神と素戔嗚命の誓約(うけい)でアマテラスがスサノウの剣を噛み砕いたことから産まれた海の神、水の守護神とされ、安芸の宮島の御祭神として広く知られる。弁財天とも呼ばれ七福神の中で福徳財宝、美容と芸能を司る神としても親しまれている。また市杵島姫命は朝鮮半島と日本を結ぶ海路を守護する海の神として朝廷から信仰されて来た。
 大神神社の市杵島姫神社の笹百合。大神神社でもこの神社付近の笹百合は最も麗しく、古事記の神武天皇記で「山百合の古い名を『さい』という」と記されるように奈良県の大神神社摂社で神武天皇の御后の姫蹈鞴五十鈴姫命に捧げされる神饌に相応しい神気を感じさせる。

【北詣り四番/摂社/狭井(さい)神社】
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 狭井神社(奈良県桜井市三輪1442)は狭井川の畔にある大神神社の摂社で、正式な名前は狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社と云う。本社の荒魂をお祭りしており、延喜式神名帳に記されている古社である。古より「華鎮社」と称された拝殿の左後ろに、この神社の由来になっている神水の井戸・狭井がある。

 社伝によれば、創祀は垂仁天皇の時代に、主神として大物主の荒魂(あらみたま)神を祀り、大物主神、神武天皇の皇后となった媛蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)の命、五十鈴姫の母の勢夜多々良(せやたたら)姫、事代主神を配神している。狭井神社の社名の由来は山百合の古名の「サヰ、サイ」からといい、神社近くに流れる「サヰ川」(狭井川)の川辺には山百合が多く咲き誇っていたと伝わる。

 第10代崇神天皇が営んだ宮で、即位5年に疫病が流行して人口の半ばが失われた。翌年、祭祀で疫病を治めるべく天皇は天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出された。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現檜原神社)に、倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせた。  狭井神社に祀る荒魂(あらみたま)は荒ぶる勇猛さの反面、粗野で時には人に祟りを及ぼすような霊力であり、神の「怒り」を示しているともいわれる。戦時や災時などにあたって現れ力強いご神威を発揮する。祭祀(さいし)を受けることによって和魂(にぎみたま)の性質に変わり病気平癒の神として威力を発揮するとして信仰が篤い。ここも三輪山を御神体とする神社で拝殿があるのみである。

 4.18日の鎮花祭は上古からの由緒をもち「薬まつり」の名前でも知られる。当日は大阪の道修町を初め近畿の製薬会社の方々が参拝に訪れ薬を奉納される。祈祷参拝時には「狭井大神(さゐのおほかみ) 荒魂(あらみたま) 守給(まもりたま)へ 導給(みちびきたま)へ」と唱える。また拝殿の左手奥には「薬井戸」があり、の井戸より湧き出る神水は、万病に効く「くすり水」とされ、多くの皆々が水を求めて健康祈願されている。造り酒屋や素麺を作られる方々は年初の商品の造り始めには、この狭井の神水を用いるという。
神社拝殿右側からは三輪山の登拝口がって入山することができる。登拝所要時間は2-3時間で往復することがでる。標高467.1mの山頂には摂社・高宮神社(こうのみや)、奥津磐座に大物主、中腹には中津磐座に大己貴命、山麓では辺津磐座に少彦名命が鎮座している。
 一年の始まり立春の前日「節分」には豆撒きを行い一年間の厄を払う。立春の日には厄が来ないように願いをこめて「立春大吉」を貼り付ける。立春の早朝、禅寺では厄除けのために門に立春大吉と書いたお札を貼る習慣がある。この文字は縦書きにすると左右対称になり、一年間災難にあわないというおまじないで有名である。狭井神社で戴いた石清水を使った墨で、半紙か和紙に書き、立春の日に柱に一年間貼っておく。出来れば立春の日の0時~午後7時22分の間に書くのが正式とされている。

立春大吉の書き方は、「今も賜る 天津水を 天の真名井の 真清水と受けしめ給え」(いまもたまわるあまつみずをあめのまないのまさやけるみずとうけしめたまえ)と唱えながら水をコップに注ぐ。井戸水や神社の水、岩清水であれば言うことなし。この水で手を清め口をすすぐ。この水で墨をすり、墨汁の場合は数滴たらす。心を落ち着けて硯(すずり)、半紙に向かい「神火清明 神水清明 神風清明」(しんかせいめい しんすいせいめい しんぷうせいめい)と唱える。続けて、ぬぼこ印に息をふっふっふっと吐き、そのまま真横に勢い良く動かしてから、できるだけ左右対称になるように書き上げる。

【北詣り四番/摂社/)磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)】
 磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)(日本書紀の記述で磯城瑞籬宮、古事記では師木水垣宮、志貴御県坐神社と記されている)は桜井市金屋。第10代崇神天皇の宮があったところで、金屋あたりが伝承地とされている。(実際の宮跡はこの神社の境内ではなく、境内の西側にある天理教会の建物とその北隣りの三輪小学校のあたりにあったと推定されている)

 ここから北へ三輪・巻向といわゆる山の辺の道が続く。この宮跡は山の辺の道の起点でもある。大正年間に「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が建てられている。本宮の北側には三輪山(大神神社)が鎮座する。周辺には纏向遺跡をはじめとする古墳時代前後の遺跡が存在し、箸墓古墳やホケノ山古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、垂仁天皇陵などの巨大前方後円墳群が点在する。
 第10代崇神天皇即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。翌年、崇神天皇は、祭祀で疫病を治めるべく天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現檜原神社)に、倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせた。

【北詣り五番/末社/貴船神社】
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 貴船(きふね)神社は山の辺(へ)の道を北へ、狭井川を過ぎた右手に鎮座している。鳥居が木立に隠れ、その奥に社殿がある。小さな社なので気付かずに通り過ぎられやすい社であるが、古くから由緒があり、大和名所図会には別名「鴨峯社」(かもみねのやしろ)として描かれている。祭神は淤加美神(おかみのかみ)、オカミとは古く「雨水を司る龍」を意味し「生命の根源である水の神」でもある。また縁結びの神としても信仰され、夫婦円満、恋愛成就の御利益があるとされる。記紀では伊邪那岐命がが火の神である加具土命(かぐつち)を斬ったときに、剣の柄についた血から闇淤加美神(くらおかみ)・高淤加美神(たかおかみ)が生成したと記されている。勧請由緒・時期などは不詳。祠の右手(南向き)には三輪山「辺津磐座」の一つとされる磐座が鎮座している。
 大神神社は 「 卯 」 と 関係の深い。「 卯 」 は 扉が開くという意味の象形文字で、物事が動き出す・始まる と言う 意味を持つ。大神神社でも、古くからお祭りが 「 卯 」 の日を選んで 斎行された。それに因み 神社では古く崇神天皇の御代から卯の日がことのほか尊ばれてきた。大田田根子命(おおたたねこのみこと)を大神の神主とし、また高橋邑(たかはしむら)の活日(いくひ)を大神の掌酒(さかひと)にしたのが卯の日であり、現在も行われる大神祭を始められたのも「卯」の日。昔の「卯の日神事」(大神祭)には、貴船神社に必ず神饌を捧げて祝詞を奏上したと伝わる。この卯の日祭は崇神天皇が卯の日に大神祭(おおみわのまつり)を始められて以来、大神祭が「卯の日神事」とよばれるほどに卯の日がご神縁の日であり、その干支の日を大切にして毎月行われている。
 ■神様の里で、生まれたそうめん 三輪そうめん
 https://youtu.be/VWRSKmmZW8U

【玄賓庵(げんぴあん)】 
 桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲して、818(弘仁9)年になくなったという玄賓(げんぴん)僧都の庵と伝えられている。ここは世阿弥の作と伝える謡曲で、玄賓と三輪明神の物語を題材にした「三輪」の舞台として知られている。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移されたという。本尊の三光不動尊は藤原時代の作で、奈良県下で最古の不動尊として、重要文化財に指定されている。

【北詣り六番/摂社/桧原(ひばら)神社(倭笠縫邑、元伊勢)】
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 檜原(ひばら)神社(倭笠縫邑)は大神神社の摂社で三輪山の西北麓に位置し桧原の里に鎮座する(奈良県桜井市大字三輪1422)。大神神社付近の摂社群の中では最も北に位置している上に社格も最も高く創建も古い。笠縫邑の伝承地とされている。主祭神は天照大神。

 日本書紀の崇神記によれば、第十代崇神天皇の御代まで、皇祖神である天照大御神は宮中の皇居内に天皇と「同床共殿」(どうしょうきょうでん)でお祀りされていたところ、第10代崇神天皇の御代6年、崇神天皇がこの状態を畏怖し、崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)にその神霊を託して、皇祖天照大神(八咫鏡)を宮中から「倭笠縫邑」(やまとかさぬいむら)に遷し、その場所に堅固な石の「磯城神籬」(しきのひもろぎ)を造り祀ったという。これが為、皇女豊鍬入姫命が奉持せられた倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)の神蹟とされる。三種の神器の内の剣・鏡を安置したのが、この場所と伝えられる。

 これが始まりとなり、更に天照大御神の理想的な鎮座地を求めて各地を転々とする。二代目御杖代の垂仁天皇の第四皇女「倭姫命」 (やまとひめのみこと)が引き継ぎ、約90年の時を越えて現在地の伊勢に遷座したと伝わる。檜原神社では、伊勢遷幸後も御蹟を尊崇し、檜原神社としてお祀りされ「元伊勢」(もといせ)と伝えられている。外宮の祭神である豊受大御神は「止由気宮儀式帳・倭姫命世記」によると雄略天皇の時代に天照大御神の神託によって丹波国(丹後国)から遷座したと伝えられている。 

 三輪そうめんの産地、車谷の里を眼下に眺め、御神体は三輪山磐座とされます。祭神は天照大御神、同神域左に豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮が鎮座する。正面、三つ鳥居(三輪鳥居)のその奥にある神籬(ひもろぎ)が祭祀施設として整えられており、鳥居の奥の神籬が磐座(岩石)で構築されているのが目視できる。

 1986(昭和61)年11.5日、境内に豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎された。万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ山の辺(へ)の道の歌枕となり、西に続く檜原台地は大和国中を一望出来る絶好の場所となっている。過去には本社である大神神社拝殿のような大きさの拝殿があったが、寛政年間の台風、落雷により出火焼失し以後再建されることもなく現在の姿になっている。

 檜原神社は、本社と同じく本殿(神殿、拝殿)も拝殿もなく、左右に脇鳥居がある三ッ鳥居があるだけである。三輪鳥居は珍しい形式で、ここでしか見られないものだという。室町時代のものといわれる古図(文献12)をひらくと、三輪山の中でも、檜原峯という峯を背景にし、本殿を設けずに本社と同様、三ツ鳥居、拝殿を構え、石壇が設けられており、その前方左右にわかれて末社が祀られ、御供所(ごくしょ)などがある。二ノ鳥居もあり、さらには一ノ鳥居までが、本社一ノ鳥居と同線上、上津街道近くに建っていたことが示されている。このことから、古来より大神神社の摂社の中でもとりわけ重要な神社であることがわかる。また、檜原神社は日原社とも書かれ、三輪山の朝日と二上山の夕日を遥拝する太陽祭祀であり、これが天照大神の信仰につながったものと思われる。 その三ツ鳥居を通して御神体である三輪山の「神籬(ひもろぎ)・磐座」を拝む古代祭祀がそのまま残っている。祭神は天照大御神。配祀は伊弉諾尊 、伊弉册尊。境内摂社は豊鍬入姫命神社(宮)。


 江戸末期より荒れていた社頭を、昭和40年神宮の協力を得て三ツ鳥居を建造し、瑞垣を設け古儀に復したのが現状の姿である。檜原神社から三輪山山頂の間に8群の磐座が連なっており、檜原磐座線と呼ばれる。これは大神神社にもあり拝殿奥磐座線と呼ばれ、拝殿奥から山頂の間に6群の磐座がある。山ノ神祭祀遺跡の遺物の変化と沖ノ島の磐座祭祀の変遷から、6世紀中頃に檜原磐座線から拝殿奥磐座線へと祭祀の中心が移動したと推定できる。それは、伊勢遷宮を契機とした大神神社創生の時期に一致する。

 奈良県桜井市大字三輪は「桧原の里」(ひばらのさと)と云われる。「桧原の里」は萬葉集に「三輪の桧原」と数多く詠まれ山の辺の道の歌枕となつている。万葉歌人の柿本人麿の「古(いにしえ)に ありけむ人も 吾がことか 三輪(みわ)の檜原(ひばら)に  挿頭(かざし)折りけむ」の歌が遺されている。葉歌碑「神山(みわやま)の 山邊真蘇木綿(やまべまそゆふ) みじか木綿(ゆふ) かくのみ故に 長くと思ひき」(作者/高市皇子)。

 西に続く桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、県景観資産「井寺池」(いでらいけ)から東にご神体の三輪山、西には二上山や大和三山(畝傍山、耳成山、天の香久山)、前景に卑弥呼の墓とされる箸墓古墳(はしはかこふん)など素晴らしい景観の「大和は国のまほろば」を味わい楽しめる。麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っている。また「茅原」(ちはら)は、日本書紀崇神天皇七年条の「神浅茅原」(かむあさぢはら)の地とされている。更に西方の箸中には、豊鍬入姫命の御陵と伝える「ホケノ山古墳」(内行花文鏡出土・社蔵)がある。
 奈良県桜井市大字三輪の「桧原の里」(ひばらのさと)。  
 「伊弉諾と伊弉冊は一の神 これ天照皇の大神宮なりの解釈(お筆先より)」。
 崇神天皇の御代のはじめ、国内に疫病多く国民の大半に及び、また流離(さすらい)背叛する者あり国情真に容易ならぬ状勢となり、天皇は大変憂慮せられ、朝夕に神祇に只管(ひたすら)ご祈念されましたが、国情は益々由々しくなる様相に、 天皇はついに、神の 勢 (御神威)を畏れられ、御即位六年はじめて皇女豊鍬入姫命(初代齋王・御杖代)に神璽を託されて、「倭笠縫邑」に「磯城神籬」を立ててお祀りせられました。 その神蹟が三輪山の北麓にある檜原神社の地であります。

 豊鍬入姫命は大神の御杖代としてこの地に三十三年間朝夕奉仕せられました。更に大神の御心に叶う相応しい鎮座地を求めて、 丹波の吉佐宮、大和の伊豆加志本宮、紀伊の奈久佐浜宮、吉備の名方浜宮の四箇所を経て、この檜原の地に戻って来られ、 この期間が二十一年間でありました。 そして第十一代垂仁天皇の御代、大神は豊鍬入姫命より御杖代をご継承された倭姫命(垂仁天皇皇女)により伊勢の五十鈴の川上(現在の伊勢神宮内宮)に御遷幸の後も、 この御蹟を尊崇し檜原神社として大神を引続きお祀りいたして参りました。よって此の地を「元伊勢」と今に伝えております。桧原神社は又日原社とも称し、古来社頭の規模など、本社大神神社に同じく、 禁足地とし三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。萬葉集には「三輪の檜原」とうたわれ、山の辺の道の歌枕となり、西につづく桧原台地は、 大和国中を一望にする景勝の地であり麓の大字茅原、芝(旧岩田村)には「笠縫」の古称があり、また崇神紀の「神浅茅原(かんあさちはら)」に因む「茅原」の地名があります。大字箸中は皇女豊鍬入婿命の御墓と伝える「ホケノ山(古鏡出土)」又西方の旧県道には、当社の道しるべ「環緒塚(おだまきづか):伊勢学の大家、神宮禰宜御巫清直(みかんなぎきよなお)の書と伝える」があります。
 向かいに大神神社の御神体の三輪山が聳えている。振り向けば県景観資産「井寺池」(いでらいけ)から大和三山から二上山、前景には卑弥呼の墓とされる「箸墓古墳(はしはかこふん)」や大和平野が見渡せる。

【北詣り七番/境外末社/富士神社、厳島神社】
 末社「富士神社・厳島神社」
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 富士神社・厳島(いつくしま)神社は古木の下、木造鳥居の後ろの石垣(古墳石室)の上に鎮座する珍しいお社の一つです。祭神は玉垣内、向かって右に富士社(木花咲耶姫命・このはなさくやひめ)、左に厳島社(市杵島姫命・いちきじまひめみこと)が鎮座します(奈良県桜井市茅原560)。鎮座地の茅原は占いの場所として知られる神浅茅原(かむあさぢはら)伝承地で、大和政権最強のシャーマン(呪術師)である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を祀る摂社・神御前神社が斜め向かいに鎮座する。

 神々の託宣があった茅原で祀られる富士・厳島神社は大神神社系列社の中でも古くから祀られていた神社とされる。富士神社は富士山の麓に祀られる浅間神社の系列で、燃え盛る火の中で子どもを産んだ木花咲耶姫が祀られている。木花咲耶姫命は大山祇神の御子神で瓊々杵尊の妃。富士の浅間神社にも祀られている。火山の富士山に、火祭りの三輪山、製鉄族の木花咲耶姫命、これらは蹈鞴製鉄と密接に繋がっていると思われる。

 厳島神社の祭神は摂社・狭井神社の鎮女池に祀られている。市杵島姫命は素戔嗚尊と天照大神との誓約により生まれた宗像三女神の一柱であり福岡の宗像神社、宮島の厳島神社の祭神。

 この社は弁天古墳(べんてんこふん)の上に建てられており、古墳石室を見ることができる。覆土もなく石が露出しており、発掘調査も行われてないので詳細は謎とされている。古墳の羨道は南向きに開口し両袖式で石室内部に刳抜式石棺の蓋が見える。三輪山麓の後期古墳で石棺が残るのは珍く、また古木の根が石室を取り込むように生えており、古墳の歴史を物語っている。TVではパワースポットとして紹介されており、この古木が剥がされた覆土の代わりに石室を守るように取り囲み覆い被さるように根を張り巡らしていることから特別な場所(パワースポット)と言われている。
 厳島神社(左)・事代主神社(右)
 厳島神社:御祭神 市杵島姫命 例祭4月1日 9月23日 美容をすすめ弦楽の技を司どる水産の葉を奨め給う。事代主神社:御祭神 事代主神 世にエビス様と称され、福の神です。

【北詣り八番/摂社/神御前(かみのごぜん)神社】
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 神御前(かみのごぜん)神社は大神神社の北西に位置する茅原の郷/占いの場所として知られる神浅茅原(かむあさぢはら)伝承地に末社・富士神社・厳島神社の近くに鎮座している(奈良県桜井市茅原558)。前方に三輪山、後方に箸墓古墳がある。

 祭神は「倭迹迹日百襲姫命」(やまとととびももそひめのみこと、第7代孝霊天皇の皇女)。御例祭は十月五日に執り行われる。

 境内の御由緒書き(原文)は次の通り。
 「御祭神は、第7代孝霊天皇の皇女で大物主大神の神託を受けられる巫女として、崇神天皇のまつりごとを助けられました。後に大物主大神の妃となられ三輪山神婚説話によるとこの神社の西方に位置する箸墓に鎮まるとされています。また鎮座地の茅原は崇神天皇が百官を率いて八百万神を祀った「神浅茅原」の地とも言われ三輪山を拝む好適地です。毎年元旦に執り行われる本社の繞道祭(御神火祭)が八社めぐりとして行われた。江戸時代にはこの社に御幣を奉り祭儀が納められました。明治十年には大神神社の摂社に指定され家庭円満諸願成就の信仰が篤い社であります」。

 日本書紀によれば、第十代崇神天皇の御代、度々起こる国難を憂いた天皇が「神浅茅原」(かむあさぢはら)に八十万神(やそよろずのかみ)を集めて占い、神意を問うたところ、大物主が倭迹迹日百襲姫命に乗り移り「我をよく敬い祀れば天下は平穏になるであろう」と答えたので、神託に従い丁重に祀りを続けたところ国内は平穏になった。その後、倭迹迹日百襲姫命は、大物主の神妃として鬼道を用いて神意を伺い朝廷に貢献した。時が経つにつれて倭迹迹日百襲姫命は、大物主が昼には現れず夜にだけ通ってくるので、ある時「どうかもうしばらく留まってください。明朝謹んであなたの端正なお姿を拝見しとうございます」と願ったところ、大物主は「では明朝お前の櫛笥の中にいるから驚かないでくれ」と答えた。姫は不思議に思いながらも夜明けを待って、櫛笥を開けると中に美しい紐のような小蛇が入っており、それを見た姫は思わず驚き叫んでしまった。怒った大物主はたちまち人の姿に化身し、天空に舞い上って三輪山へ帰った。姫は空を仰ぎながら深く後悔し、尻もちをついてしまった。その時、箸が陰部に刺さり亡くなった。姫の亡骸は「大市墓」に埋葬、人々はこの陵墓を「箸墓」とよぶようになった。この箸墓は大阪山(現在の香芝市穴虫付近)」の石を手渡しで昼は人が運び、夜は神が運び造られたと伝わる。本殿後方には三輪山を望む事ができ、大物主が見守っておられる。

【北詣り九番/末社/久延彦(くえひこ)神社&展望台
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 久延彦(くえひこ)神社は三輪山の麓、大美和の杜展望台西方に鎮座(奈良県桜井市大字三輪字若宮山)し、本殿は春日造の桧皮葺。祭神は久延毘古命(くえびこのみこと)。古事記にこんな逸話が残っている。神代の時代、大国主命の国作りを大勢の神々が手伝っているが、少彦名命の名前だけは誰も知らなかったところ、久延毘古命だけがその神が少彦名命であることを知っており、大国主命や他の神々に教えたと伝えられている。この神の知恵は世に類なく優れていて「足はあるかねど天下の事を尽(ことごと)に知れる神」(「久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也、此神者、足雖不行、盡知天下之事神也」)と記している。久延毘古命はただ立っていることしか出来ない案山子(かかし)となって常に世の中を千里眼の如し見渡している事から、なんでも知っている神として信仰され、特に受験合格・入学・進学・就職等の成就安全をまもる知恵の神として多くの人々に信仰されている。この神社にはそれぞれの願い事を書いた「願かけ絵馬」が数多く掛けられている。また祭神の久延毘古命は案山子の化身から、田の神・水の神でもある。地元ではは「くえひこさん」とよばれ親しまれている。「実は案山子というのはタタラの暗喩であり、製鉄で権力を掌握した、オオクニヌシ以前の葦原の中つ国の王こそがクエビコ」という説もある。

 社殿前の久延彦神社展望台は、大美和の杜展望台より視界が良く、眼下には三輪の町並みや近隣地区の街並み、大鳥居、大和三山や日本神話の故郷「金剛葛城山、二上山」などが一望できることからビューポイントの一つになっている。

 奥垣内(おくがいと)祭祀遺蹟(大美和の杜) 
 1965年に民間業者による温泉地開発によって、狭井川畔の当遺跡が削平をうけ、多くの祭祀遺物が発見された。樋口清之氏の紹介によると、斑礪岩の巨石が集結していた地点に重機を入れたところ、巨石の東側に接して、胴部下半を土中に据えた状態で須恵器の大甕が出土した。この中に、須恵器の杯、高杯、長頸壷など十数点が多量の滑石製臼玉とともに収められていたという。また付近には滑石製有孔円板や土師器の破片が一面に散乱していたとのことであり、現在(大美和の杜)に復元されているような磐座をともなう祭祀遺跡であったと考えられる。この遺跡で出土したとされる須恵器をみると、その主体は5世紀後半~6世紀初頭にあるが、他に4世紀末~5世紀前半の土師器や新羅系陶質土器が含まれている。また狭井川畔でも碧玉製管玉や硬玉製勾玉が採集されていることを考えると、この狭井川畔のやや広い河原では、4世紀後半~6世紀前半の間、繰り返し磐座を祀る神マツリが行なわれ、祭器をまとめて埋納した様子がうかがわれる。

 奥垣内祭祀遺蹟の磐座は「大美和の杜」と称する山の辺の道沿いの公園にある。発掘当時のものとはまったく別物の記念碑的なものである。

【北詣り十番/摂社/大神神社大直禰子(おおたたねこ)神社(若宮社)】
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 狭井神社前の十字路を西に5分程下ると大神神社(三輪明神)摂社「若宮さん」として知られている若宮社が鎮座している(奈良県桜井市大字三輪字若宮)。別名大直禰子(おおたたねこ)神社とも呼ばれる。若宮社は明治の神仏分離までは神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ)であった。奈良時代に神仏習合の姿をとり、大神神社の神宮寺として「三輪寺・大神寺」(おおみわでら)と呼ばれ、鎌倉時代には「大御輪寺」(だいごりんじ)として栄えた。本殿には奈良時代の大神寺創建当初の部材が残っており、貴重な神宮寺の遺構として国の重要文化財に指定されている。中世には三輪流神道が、この地より広まり各地方に多大の影響を与えたと伝わる。明治の神仏分離までは大御輪寺の本堂として若宮の大神と共に国宝である本地仏「十一面観音」として奉安併祀されていた。現在は日本最初の国宝となり、多武峰参道沿いの聖林寺に安置されている。この神社は昭和62年より3年に亘り解体修理が実施され、1412(応永19)年の姿に重要文化財として復元された。巻向山の中腹にひっそり建つ巻向山不動寺は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となった神宮寺「大御輪寺の奥ノ院」だったと伝わる。

 ここに御誕生所社の磐座があり、それにまつわる次のような物語が残されている。三輪大明神縁起によれば、大御輪寺は垂仁天皇99年の草創にかかり、武一原大納言の娘に三輪の明神が通われ、神子を生んだ。この大納言が自分の住む家を、お寺風につくりかえたのが、この大御輪寺の始めだというのである。ところが、その神子は生れて七日目に母を亡くし、その後は、来る日も来る日も母恋しさの日を重ねるうち、ある日、悲しさのあまり邸内の石の上に泣き臥していると、突然、三輪明神が現われて、母の形見を与え給うたのでようやく悲しみも薄れ、それからは父なる神のいます御本社へお参りするのを唯一の慰めとして暮らしていた。十歳の折、大御輪寺の寺内の一室に閉じ籠もったままでふたたび姿を見せなくなった。のちに聖徳太子が御参詣になり、御戸を開かれると、尊くも十一面観音菩薩像に生身入定されていたという話である。

 祭神/大直禰子(おおたたねこ)は大田田根子とも書かれ、大物主神の子孫とされる。記紀神話における伝説的な人物で、三輪君の祖神とされる。第10代祟神天皇の御代に、国内に疫病が大流行して多くの民が死んだ。天皇が大いに愁い給うていたとき、天皇の夢枕に大物主神が現れ、「我が児・大田田根子を以て吾を祀らしめたまわば立ちどころに天下は平らぎなん」と告げた。そこで天皇は大直禰子命を探索し、これを茅渟県陶邑で探し出し、神主(かんぬし)として丁重に待遇し、三輪の大神(大物主神)を斎き祀ったところ疫病は鎮まり、天下は泰平になり富栄えたと古事記、日本書紀に記されている。また神社境内池の畔、東側には大物主を祀る末社・琴平社が鎮座する。配祀は少彦名命、活玉依姫命。
 境内には、正月の御神火祭の時に若宮社の上にある久延彦神社に神饌を供える黒っぽい俎板のような「神饌石」(みけいし)「安産岩」が鎮座しているが、磐座ではない。神饌石(しんせんせき)は、正月元旦の神火祭時に、若宮社のすぐ東方にある久延彦神社に対する神への供え物、神饌(しんせん)を置く石として使われる。長い石段がある久延彦神社の逢拝所として、ここから遥拝することもできる。安産岩については、名称から安産に霊験のある岩石とされ親しまれている。

【陶荒田神社摂社】
 由緒によると、第10代祟神天皇の御代の7年、スサノウの命10世の孫、太田田根子がこの陶村に社を建てたと伝えられている。主祭神の高魂命5世の孫の剣根の命の子孫に当る荒田直がここで祭祀を行っていた為、地名の陶と人名の荒田を取って陶荒田と名づけられた。この辺りは陶土と薪(まき)に恵まれ、須恵器の生産が盛んに行われていた。平安時代の延喜式に記載された延喜式内社であり、この地方の産土神として崇拝されている。主祭神は高魂命、八重事代主命、菅原道真公。境内陶社には山田社、弁財天社、戎社、老松社を合わせ祀っている。





(私論.私見)