欠史八代考

 (最新見直し2014.12.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、欠史八代考をしておくことにする。「欠史八代」は実在しなかったとの説があるが実在したと思われる。たとえば、7代の孝霊天皇は中国地方の「楽々福(ササフク)」に事跡を残している。「欠史八代」の事績が時の政権の正統性を記すのに不都合な故に記されなかった、記していたところも削除されたと考えられる。「知られざる欠史八代・葛城王朝 」を参照する。

 2014.12.22日 れんだいこ拝


【欠史八代考】
 欠史八代とは、初代からの天皇のうち、二代から九代までの八人の天皇のことを云う。これを確認する。以下、アウトラインを素描する。詳細は後々点検し正確をきすことにする。

【初代/神武天皇()】
【号】 古事記 神日本磐余彦尊(カムヤマトイハレヒコのみこと)。
日本書紀 神倭伊波礼毘古(カムヤマトイハレヒコのみこと)。
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
【宮】 古事記 橿原宮/畝火・白檮原宮/奈良県橿原市畝傍町。
日本書紀
【父母】 古事記 父:神武天皇・神倭伊波礼毘古(カムヤマトイハレヒコ)
母:比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)。大物主と三島湟咋の女。
日本書紀 父:神武天皇・神日本磐余彦(カムヤマトイハレヒコ)
母:
【幼名】 古事記 彦火火出見(ヒコホホデミ)。
日本書紀
【后】 古事記 比売多多良伊須気余理比売。大物主と三島湟咋の女の勢夜陀多良比売の娘。またの名を富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)。
日本書紀 媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)・事代主神の娘。
【子】 古事記
日本書紀

二代/綏靖天皇()
【号】 古事記 神沼河耳命(カムヌナカハミミすめらみこと)
日本書紀 神渟名川耳天皇(カムヌナカハミミすめらみこと)
【宮】 古事記
日本書紀 高丘宮(葛城)/奈良県御所市森脇。
【父母】 古事記 父:天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズ)。
母:玉依毘売(タマヨリビメ)。
日本書紀 父:彦波瀲武鸕鶿草葺不合(ヒコナギサウガヤフキアヘズ)。
母:玉依姫(タマヨリヒメ)・海神の二番目の娘。
【幼名】 古事記 彦火火出見(ヒコホホデミ)。
日本書紀
【后】 古事記 河俣毘売(カハマタヒメ)・師木県主波延(ハエ)の妹。
日本書紀 五十鈴依媛命・事代主神の次女。一書、絲織媛・春日県主大日諸女日本書紀。一書、川派媛・磯城県主女。
【子】 古事記
日本書紀

三代/安寧天皇()
【号】 古事記 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミのすめらみこと)
日本書紀 師木津日子玉手見(シキツヒコタマテミのすめらみこと)
【宮】 古事記
日本書紀 浮穴宮(片塩)/奈良県大和高田市片塩町。
【父母】 古事記 父:綏靖天皇・神沼河耳命(カムヌナカハミミ)
母:河俣毘売(カハマタヒメ)・師木県主波延(ハエ)の妹。
日本書紀 父:綏靖天皇・神渟名川耳(カムヌナカハミミ)
母:五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)・事代主神の次女。一書では、川派媛・磯城県主女。一書では、絲織媛・春日県主大日諸女。
【幼名】 古事記
日本書紀
【后】 古事記 阿久斗比売(アクトヒメ)・師木県主波延(ハエ)の娘。
日本書紀 渟名底仲媛(ヌナソコナカツヒメ)・事代主の孫の鴨王の娘。一書、糸井媛・大間宿禰女日本書紀。一書、川津媛・磯城県主葉江女。
【子】 古事記 安寧天皇(シキツヒコタマテミ)と阿久斗比売・師木県主波延の娘には3人の子がいた。常根津日子伊呂泥、大倭日子鋤友(懿徳天皇)、師木津日子(シキツヒコ)である。師木津日子の子には二人の王がいた。一人は伊賀須知之稲置、那婆理之稲置、三野之稲置の祖であり、もう一人は淡道之御井宮の和知都美命である。和知都美は淡道之御井宮にいて蝿伊呂泥・蝿伊呂杼という二人の娘がいた。姉の名は蝿伊呂泥のまたの名は意富夜麻登久邇阿礼比売。日本書紀では孝霊天皇妃・倭國香媛のこと。孝霊天皇の妃となり夜麻登登母母曾毘売を産む。妹の名は蝿伊呂杼。日本書紀では、孝霊天皇妃・絙某弟。絙某弟の子の稚武彦命は、吉備臣祖。
日本書紀 大日本彦耜友(懿徳天皇)→息石耳(娘は懿徳天皇后)。常根津日子伊呂泥→大倭日子鋤友(懿徳天皇)→師木津日子(シキツヒコ)

四代/懿徳天皇()
【号】 古事記
日本書紀 大日本彦耜友天皇/大倭日子鉏友(オオヤマトヒコスキトモのすめらみこと)
【宮】 古事記
日本書紀 曲峡宮(軽)/奈良県橿原市見瀬町・大軽町。
【父母】 古事記 父:安寧天皇・師木津日子玉手見(シキツヒコタマテミ)
母:阿久斗比売(アクトヒメ)・師木県主波延(ハエ)の娘。
日本書紀 父:安寧天皇・磯城津彦玉手看(シキツヒコタマテミ)
母:渟名底仲媛(ヌナソコナカツヒメ)・息石耳(事代主の孫の鴨王の孫)の娘。一書では、川津媛・磯城県主葉江女、一書では、糸井媛・大間宿禰女。
【幼名】 古事記
日本書紀
【后】 古事記 賦登麻和訶比売またの名を飯日比売・師木県主祖。
日本書紀 天豊津媛(アマトヨツヒメ)・息石耳(事代主の孫の鴨王の孫)の娘。一書、泉媛・磯城県主葉江の弟の猪手の娘。飯日媛・磯城県主太真稚彦の娘。
【子】 古事記
日本書紀 賦登麻和訶比売またの名は飯日比売・師木県主祖→御真津日子訶恵志泥・大日本彦耜友(孝昭天皇)→多芸志比古。

五代/孝昭天皇()
【号】 古事記
日本書紀 観松彦香殖稲天皇/御真津日子訶恵志泥(ミマツヒコカエシネのすめらみこと)
この天皇から「孝」の字が付くのは何か理由が?
【宮】 古事記
日本書紀 池心宮(腋上)/奈良県御所市池之内。
【父母】 古事記 父:懿徳天皇・大倭日子鉏友(オオヤマトヒコスキトモ)
母:賦登麻和訶比売またの名は飯日比売・師木県主祖。
日本書紀 父:懿徳天皇・大日本彦耜友(オオヤマトヒコスキトモ)
母:天豊津媛(アマトヨツヒメ)・息石耳(事代主の孫の鴨王の孫)の娘。一書では、泉媛・磯城県主葉江(ハエ)の弟の猪手の娘、一書では、飯日媛・磯城県主太真稚彦(フトマワカヒコ)の娘。
【幼名】 古事記
日本書紀
【后】 古事記 余曾多本毘女(ヨソタホヒメ)・尾張連祖、奥津余曾妹日本書紀。一書、渟名城津媛・磯城県主葉江の女。
日本書紀 世襲足媛・尾張連祖、瀛津世襲妹。一書、大井媛・倭国、豊秋狭太媛の女。
ここで、尾張系の皇后が登場している。
【子】 古事記 余曾多本毘女(ヨソタホヒメ)・尾張連祖、奥津余曾妹→天押帯日子→大倭帯日子国押人(孝安天皇)。
日本書紀 世襲足媛(ヨソタラシヒメ)・尾張連祖、瀛津世襲妹→天足彦国押人(和珥氏・春日氏祖)→日本足彦国押人(孝安天皇)。

六代/孝安天皇()
【号】 古事記
日本書紀 日本足彦国押人天皇/大倭帯日子国押人(ヤマトタラシヒコクニオシヒトのすめらみこと)
孝安天皇の兄の天足彦国押人は天皇家で始めて「天」の字を使った。
【宮】 古事記
日本書紀 秋津嶋宮(室)/奈良県御所市(葛城)室。
【父母】 古事記 父:孝昭天皇・御真津日子訶恵志泥(ミマツヒコカエシネ)
母:余曾多本毘女(ヨソタホヒメ)・尾張連祖、奥津余曾妹。
日本書紀 父:孝昭天皇・観松彦香殖稲(ミマツヒコカエシネ)
母:世襲足媛(ヨソタラシヒメ)・尾張連祖、瀛津世襲妹。
一書では、渟名城津媛・磯城県主、葉江の女、一書では、大井媛・倭国、豊秋狭太媛の女。
母は尾張系である。孝安天皇の兄の天足彦国押人の娘を、孝安天皇は皇
后としている。尾張系の血が濃くなっている。
【幼名】 古事記
日本書紀
【后】 古事記 忍鹿比賣(オシカヒメ)・姪・天押帯日子の女(祖母は尾張連祖、奥津余曾妹)。
日本書紀 押媛・姪・天足彦国押人の女。
一書、長媛・磯城県主葉江の女日本書紀。一書、五十坂媛・十市県主五十坂彦の女。
【子】 古事記 忍鹿比賣(オシカヒメ)・姪・天押帯日子の女→大吉備諸進→大倭根子日子賦斗邇(孝霊天皇)。
日本書紀 押媛(オシヒメ)・姪・天足彦国押人の女→大日本根子彦太瓊(孝霊天皇)。

七代/孝霊天皇()
【号】 古事記
日本書紀 大日本根子彦太瓊天皇/大倭根子日子賦斗邇(オオヤマトネコ
ヒコフトニのすめらみこと)
【宮】 古事記
日本書紀 廬戸宮(黒田)/奈良県磯城郡田原本町黒田。唐古・鍵遺跡があ
る。
【父母】 古事記 父:孝安天皇・大倭帯日子国押人(オホヤマトタラシヒコクニオシ
ヒト)。
母:忍鹿比賣(オシカヒメ)・姪・天足彦国押人の女。  
日本書紀 父:孝安天皇・日本足彦国押人(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)
母:押媛(オシヒメ)・姪・天足彦国押人の女。一書では、長媛・磯城
県主、葉江女。一書では、五十
坂媛・十市県主、五十坂彦女。
【幼名】 日本書紀
日本書紀
【后】 日本書紀 蝿伊呂泥(倭国香媛)(意富夜麻登玖邇阿礼比売)。
蝿伊呂杼(意富夜麻登玖邇阿礼比売の妹)。細比売・十市県主祖
大目の娘。
千千速真若比売・春日。
日本書紀 倭國香媛。絙某弟。細媛(クワシヒメ)・磯城県主大目の女。一書、
千乳早山香媛・春日。一書、
眞舌媛・十市県主等祖の女。
意富夜麻登玖邇阿礼比売(倭國香媛)は、古事記では師木県主波
延の系譜だと伝えている。古事記では、孝霊天皇の妃に、春日の
千千速真若比売を迎えているが、添御縣坐神社の武乳速之命
とは、何か関係があるのだろうか?
【子】 日本書紀 細比売→大倭根子日子国玖琉(孝元天皇)。
千千速真若比売・春日→千千速比売。意富夜麻登玖邇阿礼比売→夜麻登登母母曾毘売→
日子刺肩別→比古伊佐勢理毘古(大吉備津日子)→倭飛羽矢若屋比売。
蝿伊呂杼(意富夜麻登玖邇阿礼比売の妹)→日子寤間→若日子建吉備津日子。
 夜麻登登母母曾毘売(ヤマトトトヒモモソヒメ)が生まれる。
日本書紀 細媛(クワシヒメ)→大日本根子彦国牽(孝元天皇)。倭國香媛→倭跡跡日百襲姫→彦五十狹芹彦(吉備津彦)→倭跡跡稚屋姫。絙某弟→彦狹島→稚五彦(吉備臣祖)。

【八代/孝元天皇()】
【号】 古事記
日本書紀 大日本根子彦国牽天皇/大倭根子日子国玖琉
(オオヤマトネコヒコクニクルのすめらみこと)
【宮】 古事記
日本書紀 境原宮(軽)/奈良県橿原市見瀬町・大軽町。
【父母】 古事記 父:孝霊天皇・大倭根子日子賦斗邇(オオヤマトネコヒコフトニ)。
母:細比賣・十市県主祖大目の女。
日本書紀 父:孝霊天皇・大日本根子彦太瓊(オオヤマトネコヒコフトニ)。
母:細媛(クワシヒメ)・磯城県主大目の女。一書では、千乳早山香
媛・春日。
一書では、眞舌媛・十市県主等祖の女。
【幼名】 古事記
日本書紀
【后】 古事記 内色許売(内色許男の妹。穂積臣祖)。伊迦賀色許売(内色許男
の娘)。
山下影日売・木国造祖・宇豆比古の妹。波邇夜須毘売・河内青玉
の娘。
日本書紀 欝色謎・欝色雄の妹。伊香色謎・物部氏の祖・大綜麻杵の女。埴
安媛・河内青玉繋の女。
欝色謎・伊香色謎は、ニギハヤヒとナガスネヒコの妹の子である
ウマシマヂの末裔(物部氏系)である。孝元天皇の子の河内系の
武埴安彦は後に反乱を起す。孝元天皇の子の大彦は四道将軍と
して武埴安彦を討つ。大彦の子の武渟川別も四道将軍。稲荷山
鉄剣に意富比垝の名が刻まれている。建内宿禰は、神功皇后を
補佐して朝鮮出兵する。後の応神天皇は河内を拠点にする。
【子】 古事記 内色許売・内色許男の妹(穂積臣祖)→大毘古・少名日子建猪心→若倭根子日子大毘毘(開化天皇)
。伊迦賀色許売・内色許男の娘→比古布都押之信。
波邇夜須毘売・河内青玉の娘→建波邇夜須毘古。
古布都押之信の妃と子。山下影日売・木国造祖・宇豆比古の妹→建内宿禰。
日本書紀 欝色謎・欝色雄の妹→大彦命→稚日本根子彦大日日(開化天皇)→倭迹迹姫。
伊香色謎・物部氏の祖・大綜麻杵の女→彦太忍信・武内宿禰の祖父。
埴安媛・河内青玉繋の女→武埴安彦命。

九代/開化天皇()
【号】 古事記
日本書紀 稚日本根子彦大日日天皇/若倭根子日子大毘毘
(ワカヤマトネコオオヒヒのすめらみこと)
【宮】 古事記
日本書紀 率川宮(春日)/奈良県奈良市本子守町。
【父母】 古事記 父:孝元天皇・大倭根子日子国玖琉(オオヤマトネコヒコフトニ)。
母:内色許売・内色許男の妹(穂積臣祖)。
日本書紀 父:孝元天皇・大日本根子彦国牽(オオヤマトネコヒコフトニ)。
母:欝色謎・欝色雄の妹。
【幼名】 古事記
日本書紀
【后】 古事記 伊迦賀色許売。
竹野比売・旦波大県主由碁理の娘。
意祁都比売・日子国意祁都の妹・丸邇臣祖。
鷲比売・葛城之垂見宿禰の娘。
日本書紀 伊香色謎・物部氏の祖・大綜麻杵の女。
丹波竹野媛・丹波大県主由碁理の娘。
姥津媛・和珥氏の祖・天足彦国押人の末裔。
最初に婚姻したのは、丹波竹野媛。孝元天皇の妃の伊香色謎を
皇后にしている。彦坐王(日子坐王)の子の丹波道主王は四道将
軍。丹波道主王の娘の日葉洲媛は、垂仁天皇后で、景行天皇の
母。古事記によれば、比古由牟須美の子の、大筒木垂根王の娘
の迦具夜比売命(カグヤヒメ)は垂仁天皇の妃となる。日本書紀で
は、垂仁天皇は、丹波から五人の女を召した。そのうち竹野媛だ
けは不器量だったので里に返され、途中で死んだという。

山代之大筒木真若王の末裔に息長帯比売(神功皇后)がいる。よっ
て、息長氏の末裔・神功皇后と、母が丹波系の景行天皇の子の応
神天皇は、河内~琵琶湖水系・丹波の豪族を基盤に、王権を築い
ていったのだろう。
【子】 古事記 伊迦賀色許売→御真木入日子印恵(崇神天皇)→御真津比売。
竹野比売・旦波大県主由碁理の娘→比古由牟須美。
意祁都比売・日子国意祁都の妹・丸邇臣祖→日子坐王。
鷲比売・葛城之垂見宿禰の娘→建豊波豆羅和気。
日子坐王の妃と子・息長水依比売・近淡海之御上祝が祭祀してい
る天之御影神の娘→丹波比古多多須美
知能宇斯 袁祁都比売・息長水依比売の母の妹 →山代之大筒
木真若王。
日本書紀 伊香色謎・物部氏の祖・大綜麻杵の女→御間城入彦五十瓊殖(崇神天皇)。
丹波竹野媛・丹波大県主由碁理の娘→彦湯産隅。
姥津媛・和珥氏の祖・天足彦国押人の末裔→彦坐王。

十代/崇神天皇()
【号】 古事記
日本書紀 御間城入彦五十瓊殖天皇/御真木入日子印恵(ミマキイリヒコイニエのすめらのみこと)/御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
【宮】 古事記
日本書紀 磯城・瑞籬宮/師木・水垣宮(奈良県桜井市金屋)
【父母】 古事記 父:開化天皇・若倭根子日子大毘毘(ワカヤマトネコオオヒヒ)。
母:伊迦賀色許売。  
日本書紀 父:開化天皇・稚日本根子彦大日日(ワカヤマトネコオオヒヒ)。
母:伊香色謎・物部氏の祖・大綜麻杵の女。
母の伊香色謎は、孝元天皇の妃。孝霊天皇の娘の倭跡跡日百襲姫命が大
物主を祭るが死んでしまった。崇神天皇の娘の淳名城入姫が倭大国魂神を
祭るが、病気になった。崇神天皇の娘の豊鋤入姫命が天照大神を祭った。
【幼名】 古事記
日本書紀
【后】 古事記 御真津比売(大毘古の娘)。遠津年魚目目微比売・木国造・荒河刀弁の娘。意富阿麻比売・尾張連祖。
日本書紀 御間城姫・大彦の娘。遠津年魚眼眼妙媛・ 紀伊国荒河戸畔の女。尾張大海媛。
 夜麻登登母母曾毘売(ヤマトトトヒモモソヒメ)が大物主を祀り死亡。
【子】 古事記 御真津比売・大毘古の娘→伊玖米入日子伊沙知(垂仁天皇)。
遠津年魚目目微比売・木国造・荒河刀弁の娘→豊木入日子(上毛野/下毛野君祖)→豊鋤入日売(天照大神を祭る)。
意富阿麻比売・尾張連祖→八坂之入日子 →沼名木之入日売(倭大国魂神を祭る)→十市之入日売。
日本書紀 御間城姫・大彦の娘→活目入彦五十狭茅(垂仁天皇)→彦五十狭茅→国方姫→千千衝倭姫→倭彦→五十日鶴彦。
遠津年魚眼眼妙媛・ 紀伊国荒河戸畔の女→豊城入彦命(上毛野君/下毛野君祖)→豊鍬入姫命(天照大神を祭る初代斎宮)。
尾張大海媛→八坂入彦命→渟名城入媛命(倭大国魂神を祭る)→十市瓊入媛。

 これら八代の天皇は、記紀では系譜だけが伝わり事績がほとんど伝えられていない。古語拾遺では記事さえも省略されている。よって後世の創作ではないかと考えられている。歴史上、ヤマト王権の王として実在が確からしいのは、十代・崇神天皇からだとされる。考古学的には、纏向遺跡の頃。崇神天皇の没年は、戊寅年(古事記)から、258年または318年とする説がある。魏志倭人伝で、卑弥呼が邪馬台国を統治したとされる年は、おおよそ、175年頃~248年頃と考えられている。邪馬台国畿内説では、崇神天皇と同時代の巫女・ヤマトトトヒモモソヒメの墓である箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかと考えられている。この場合、邪馬台国時代の終りと欠史八代時代の終りが重なることになる。欠史八代時代に、魏志倭人伝にある倭国大乱を経験したことになる。考古学上では、瀬戸内海に高地性集落が作られている。記紀の欠史八代の項に、広域の戦乱を裏付けるような事績は書かれていない。邪馬台国九州説(東遷説)では欠史八代の存在は否定される。欠史八代天皇が、おもに奈良県葛城地方に宮を置いていたことから、崇神天皇から始まるヤマト王権以前に、奈良県葛城地方を拠点とした王朝があったのではないかする説が登場する。鳥越憲三郎氏の葛城王朝説が有名である。葛城には、由緒ある高鴨神社や高天原伝承のある高天彦神社がある。欠史八代の葛城王朝に対し崇神天皇からを三輪王朝と呼んだりする。ただし、文献史学からは欠史八代天皇の実在が疑問視され、考古学上からも墳墓や遺跡などがないので存在を否定されている。しかしながら、邪馬台国所在地問題と欠史八代、葛城王朝の関係如何を廻る研究課題は残されているとすべきだろう。

 葛城は、現在、奈良県葛城市という地名で残っているが、古くは「葛城県」として存在した。古来、ヤマトには六つの「御縣神社」があり、高市、葛木(葛城)、十市、志貴
(磯城)、山辺、曽布(添)の御県に生い出づる甘菜・辛菜を天皇の御膳に捧げていたらしい。それぞれに、県(あがた)を支配する首長がいて、連合国としてのヤマト王権を構成していたと思われる。謎を解く鍵は、「大和の六御縣神社」 である。
高市御縣神社 奈良県橿原市四条町宮坪 天津彦根
高皇産霊神
葛木御縣神社 奈良県葛城市新庄町葛木 剣根命
天津日高日子番能瓊瓊杵命
十市御縣坐神社 奈良県橿原市十市町 豊受大神
豊受大神・豊受大神は、アマテラスの
御饌の神。
市杵嶋姫命
市杵嶋姫命・市杵嶋姫命は、スサノヲ
とアマテラスの誓約でスサノヲから生
まれた。
志貴御縣坐神社 奈良県桜井市金屋 天津饒速日命
天津饒速日命・ニギハヤヒは、神武に
ヤマトを明け渡した、古代のヤマトの
王。
山辺御縣坐神社 奈良県天理市西井戸堂町 建麻利尼命
建麻利尼命・ニギハヤヒの末裔。
添御縣坐神社 奈良県奈良市三碓 建速須佐之男命
建速須佐之男命は高天原を追われて
根の国に行った神様。
武乳速之命
櫛稻田姫之命

 葛城国以外の御縣神社は「坐」の字を持っている。「坐」にはどういう意味が込められているのだろうか。「在地の神」という意味だろうか? だとすれば「坐」のない神社の神は逆に「外来の神」と云うことになる。古代、夜麻登(やまと)/奈良盆地では西側/葛城国、東側/倭国と東西を二分する勢力が存在した形跡が認められる。西側の葛城(かつらき)は秋津嶋(あきつしま)と呼称されている。 神武天皇は、葛城の腋上の丘に登り、ヤマトを秋津洲(あきつしま)と呼んだと言う。それに対応するように、磯城は、磯城嶋(しきしま)と呼ばれ、欽明天皇元年に磯城嶋金刺宮が置かれた。「あきつしま」と、「しきしま」は、どちらも「やまと」の国の代名詞となっている。夜麻登(ヤマト)は、山辺(やまのべ)の郡(こほり)の倭郷(やまとのさと)から始まるらしい。但し、葛城の高尾張には元々は土蜘蛛がいたとされる。「土蜘蛛」と「出雲」は関係があるようにも見える。御室山、御諸山(御諸→御所)、葛城山、二上山、金剛山、高天山。御諸山、三輪山・鳥見山、香具山・畝傍山・耳成山。

 御巫八神(宮中八神)には、葛城の神とされる「事代主神」の名がある。日本神話は葛城地方の昔話がベースとなっている形跡が認められる。
長髄彦(ナガスネヒコ) 長髄邑・鳥見(富雄)
饒速日命(ニギハヤヒ) 志貴御縣坐神社 (磯城の神?)
新城戸畔(ニイキトベ)
居勢祝(コセノハフリ) 和珥(天理)
猪祝(イノハフリ) 長柄
土蜘蛛(ツチクモ) 高尾張邑(葛城)
赤銅八十梟帥(アカガネノヤソタケル) 葛城邑
磯城八十梟帥(シキノヤソタケル) 磯城邑
弟磯城(オトシキ) 磯城
兄磯城(エシキ) 磐余

 初期の天皇の宮と神格が「大和の六御縣神社」 に関係しており、どれも葛城に拠点を置いている気がする。崇神天皇以前の大王は葛城地方に本拠を置いていたという伝承は御縣神社の位置関係と整合性がある。「葛城県」は、「葛城国」とも呼ばれていたらしい。剣根命が葛城国造とされ椎根津彦命が倭国造とされたと日本書紀・神武天皇2年にあるので確認しておく。倭国造・椎根津彦は、神武東征のとき、海上で神武を手助けした「海人(あま)」である。神武天皇二年に倭国造に任じられた。奈良県天理市あたりを本拠にするという。葛城国造・剣根命は、その祖は高魂命(高皇産霊尊?)。鴨県主とは親戚同士である。葛木御縣神社で祭られている。宇陀にある劔主神社でも祭られてる。神武が宇陀から、大和に攻め入ったことと関連しているのかもしれない。 

 ちなみに、ニギハヤヒが降臨したのは斑鳩の峰白庭山で、ナガスネヒコの本拠地は富雄だったという。これを関係的に見ると、葦原中国平定を命じた高皇産霊神と、天皇家に繋がる天孫族・ニニギを祭っているのは葛城地方であり、ヤマト王権が生まれたとされる纏向のある三輪地方は征服された側のニギハヤヒを祭っている。山辺御縣坐神社の建麻利尼はニギハヤヒの末裔とされる。スサノヲが祭られている地の斑鳩ではニギハヤヒが降臨したという伝承があり、ニギハヤヒが祭られている地の三輪山ではスサノヲ系の大物主が祭られている。 葛城国にある葛木御縣神社の祭神は、ニニギであり、倭国(磯城・三輪)にある志貴御縣坐神社の祭神は、ニギハヤヒである。

 三輪山麓を勢力範囲とする「磯城県主波延」は、その後も欠史八代のヤマト王権に妃を送り続ける。磯城県主波延の波延(haye)は、饒速日、黒速の速(haya)と通じる。日本書紀によれば、橿原で即位した神武天皇は、事代主神の娘の、媛蹈鞴五十鈴媛命を妃にする。そして高皇産霊神を鳥見山の中に天神として祀る。上小野の榛原・下小野の榛原という。神武天皇は「秋津州」と呼んだ。伊邪那岐は「ヤマトは心安らぐ国」と呼んだ。大己貴大神は「玉垣の内つ国」と呼んだ。饒速日命は「空見つヤマトの国」と呼んだ。

 ここで、一つの疑問が沸く。日本書紀では、神武天皇は、橿原で即位したとき、高皇産霊神を祀っているのに天照大神を祭っていない? これは何故か。つまり、「天照大神」は神武天皇が持ち込んだ神ではなかったことになる。あるいは、「高皇産霊神」が、古代の太陽神だったのかも知れない。神話上でも、高天原に先に現れた神は高皇産霊神である。天照大神の登場は、イザナギ・イザナミが国産みをしたずっと後のこととなる。「高皇産霊神」が神武天皇系の祖神だったことになる。高皇産霊神は、葦原中国平定を命令した神であり、東征してきた神武天皇の祭った神でもあるので、したがって、高皇産霊神は、天照大神登場以前に、ヤマトの外から流入してきた神と考えられる。

 日本書紀は、1~4代の天皇は葛城の神・事代主系の皇后を迎えたと書いている。古事記では、磯城系の娘を皇后にしたと書いている。事代主系と磯城系が同一と見なされていることになる。尾張系の皇后を迎えた孝昭天皇。尾張系の世襲足媛を皇后にした孝昭天皇の子は以下の二人。天足彦国押人(和珥氏・春日氏祖)日本足彦国押人(孝安天皇)。日本足彦国押人(孝安天皇)は、天足彦国押人の娘・押媛を皇后とし、孝霊天皇を産む。尾張系の血を濃くした孝霊天皇は、奈良県磯城郡田原本町黒田に、廬戸宮を作る。孝霊天皇の代から、複数の妃を迎え、系譜が非常に豊富になってくる。廬戸宮のあたりには、弥生時代前期に始まり、古墳時代前期まで600年間以上継続した、環濠集落が存在していた。東海系搬入土器が多い。(唐古・鍵遺跡) 尾張系の進出を契機に、葛城が衰退したように見えなくもない。ちなみに、畿内で銅鐸祭祀が廃れた後も、尾張では、銅鐸祭祀はしばらく続いていたようだ。

 物部系の皇后を迎えた、孝元天皇。次の孝元天皇は、欝色謎・伊香色謎と婚姻している。物部系氏族が、天皇家の外戚となった。物部氏の祖のニギハヤヒは、尾張氏の祖でもある。物部姓は、後の11代・垂仁紀に登場してくる。垂仁紀の五大夫。阿倍臣・武渟川別(大彦の子・大彦の母は、物部氏系)和珥臣・彦国葺(天足彦国押人の後裔)中臣連・大鹿島。物部連・十千根(物部十市根)。大伴連・武日。

 七代・孝霊天皇以後は、宮は奈良盆地の西側に置かれるようになった。彦五十狹芹彦(吉備津彦)は、七代・孝霊天皇/廬戸宮で生まれているはずである。母は倭國香媛で、その父は淡道之御井宮にいた和知都美。吉備津彦は、四道将軍で、桃太郎のモデルとされる。ヤマトトトヒモモソヒメも、ここで生まれている。「モモ」の名が共通しているのが興味深い。モモソヒメとモモタロウは、姉・弟の関係である。八代・孝元天皇/境原宮は、神武の宮のあった橿原にある。孝元天皇は、ニギハヤヒ・物部氏系の欝色謎・伊香色謎と婚姻している。ここで、「大彦」が生まれているはずである。大彦は、四道将軍である。稲荷山古墳出土の金象嵌鉄剣銘に、古代の王(?)として、「意富比垝」の名が刻まれている。

 大彦の子の、武渟川別も四道将軍。九代・開化天皇の率川宮(春日)は北の玄関にあたる。丹波から丹波竹野媛を妃に迎えており、関係を深めたのだろう。開化天皇の子に、彦坐王がいて、その子の、丹波道主王は、四道将軍である。彦坐王の子孫は息長氏と関係を持ち、息長氏と、葛城氏の間に、神功皇后が登場する。三輪山の大物主を祭り、箸墓古墳に埋葬された、倭跡跡日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)も、この時代を生きた巫女である。唐古・鍵遺跡のあたりに廬戸宮を置いた孝霊天皇の娘が、三輪山の大物主の巫女・ヤマトトトヒモモソヒメ。箸墓古墳のころに、纏向遺跡が登場する。吉備津彦の母方の「倭國香媛」が、吉備系ということは、考えられませんか?古事記では、「意富夜麻登玖邇阿礼比売(倭國香媛)」は、磯城系じゃと匂わせておる。


【古代の部族国家地名】
大和 大神神社。祭神・大物主大神、別名・大国主神・大己貴命。
葛城 -古代ヤマトの西の豪族?
磯城 古代ヤマトの東の豪族?
伊賀国 敢国神社。祭神・大彦命四道将軍。
淡海国 建部大社。祭神・日本武尊(ヤマトタケル)。九州から関東まで遠征した軍人。
伊勢国 椿大神社。祭神・猿田彦大神。天孫降臨の道案内をした。
皇大神宮豊受神宮。祭神・天照大御神。祭神・豊受大神。伊勢神宮のこと。渡会氏が神職を務める。昔は磯部と言ったらしい。
阿波 祭祀氏族「忌部」の出自は、四国・徳島。
淡路 和知都美の御井宮。
美濃国 南宮大社。祭神・金山彦命。天照大神より兄神の金属器の神。
尾張 孝安天皇后に、世襲足媛・尾張連祖
尾張国 真清田神社。祭神・天火明命。太陽神。
熱田神宮。祭神・熱田大神(草薙神剣)。スサノヲがヤマタノヲロチの尾から取り出し天照大神に献上したという。その後、日本武尊(ヤマトタケル)の手に渡る。
吉備 吉備津彦。(四道将軍)
吉備津彦神社。祭神・吉備津彦、四道将軍。
大彦。(四道将軍)
東海 武渟川別。(四道将軍)
丹波 丹波道主王。(四道将軍)。
出雲大神宮。祭神・大国主命。元出雲と呼ばれている。出雲の大国主命は丹波から勧請された神か?
籠神社。祭神・彦火明命。元伊勢と呼ばれている。彦火明命は太陽神?
紀国 崇神天皇に「紀伊国荒河戸畔の女」が妃なる。紀伊は、「木国」という山林の国だが、日本神話には「ククノチ」という神がいる。漢字では、「久久能智・句句廼馳」と書く。魏志倭人伝では、邪馬台国の南にあったという、狗奴国の「狗古智卑狗」と不仲であったと伝えられている。ククノチの助詞を取ってククチ(句句智)とし、ヒコ(卑狗)をつければ、「句句智卑狗」となるが、さて?魏略では「拘右智卑狗」と書き、河内彦という説も?久久能智を祀る神社。公智神社・兵庫県西宮市山口町
伊太祁曽神社。祭神・五十猛命。スサノオの子・林業の神。
日前神宮、國懸神宮。祭神・日前大神/相殿・思兼命・石凝姥命。祭神・國懸大神/相殿・玉祖命・明立天御影命・鈿女命。相殿の神は、天の岩戸神話の神が並ぶ。(玉祖は、阿波忌部系祖)木国造は、建内宿禰の母の系譜。

 孝霊天皇后、細比売の父は、日本書紀では、「磯城県主祖・大目」とあり、古事記では「十市県主祖・大目」と、区別している。古事記では、物部氏の祖は、十市県主と、さりげなく言及しているのかもしれない。

 実は、物部氏・物部十市根とは十市県主・大目の末裔だった。十市県と、師木県は近いので、血縁はあっただろう。師木県主「波延」・「ニギハヤヒ」と、十市県主「大目」・「物部十市根」とは、ニギハヤヒを同じ祖としていても、おかしくない。地理的に、葛城とも接触していただろう。

 日本書紀の一書では、磯城県主が皇后を出した記録が残っている。しかし、磯城県主のことは、ほとんど語られることがない。これこそが歴史の改竄と言えよう。(市販の現代語訳日本書紀でも一書の件を記載してないものがある)物部氏はニギハヤヒを祖と主張している。しかし、ニギハヤヒと血縁だったとしても、実質はナガスネヒコの系譜だったのではないだろうか?武闘派のイメージは、ナガスネヒコゆずりだろう。物部氏と関係が深いとされる、矢田坐久志比古神社(奈良県大和郡山市矢田町)[祭神・櫛玉饒速日神 御炊屋姫神]は、ナガスネヒコの本拠とされた地にある。物部氏が祖神とするのは、ウマシマヂで、櫛玉饒速日と、御炊屋姫神の子。物部氏の系譜には、ナガスネヒコの地も入っている。ナガスネヒコの本拠の近くには、添御縣坐神社があり、スサノヲが祭られている。「物部十市根」という名前から、その頃の物部氏の祖は、十市を拠点にしていたのは、間違いないだろう。もし、物部氏が国津神と関係していたなら、祖神は、十市御縣坐神社の「市杵嶋姫命」だったろう。隣の磯城とは、ライバルだったはずである。

 十市県主・大目の「目(め)」は「物(も)」に通じる。物部十市根の後の系譜上には、「目」という大連がいる。垂仁紀には、古墳をつくるときに、近親者を全員生き埋めにしたという記述がある。モモソヒメが死んだときに、磯城氏はすべて生き埋めにされたのかも知れない。そして、磯城氏亡き後、物部氏が祭祀を引き継いだ?原因は、ヤマトトトヒモモソヒメの死?神武以前のヤマトの王で、神武に恭順したはずのニギハヤヒの後裔が、垂仁紀の物部十市根の登場まで姿を現さぬのは、おかしいではないか?真のニギハヤヒの後裔は、磯城県主波延と考えれば、すべて辻褄が合う。磯城県主波延は、欠史八代時代に、皇后(女王)を出していた、神武以前からの正統派の王族だったが、ヤマトトトヒモモソヒメの死(祭祀の失敗?)によって、祭祀権を失った。磯城県の隣にあった十市県に、祭祀権が移行し、権力が増し、後の物部氏を出した。磯城県主と十市県主が同族であれば、物部氏は、ニギハヤヒと血筋だったかも知れない。堂々とニギハヤヒの後裔を名乗りたいがために、日本書紀編纂時に、ニギハヤヒ直系の磯城県主の系譜を消し去り、代わりに鴨王の系譜を挿入した。抗議しようにも、その頃の磯城県主は、モモソヒメが死んだ一件で、勢力を弱めていたに違いない。

 磯城県主の「haye」が、ニギハヤヒの後裔と考えても、古代の磯城県主もまた、外来の種族(天孫族?)だとすれば、何の不合理性もないはず。それは、九州だったかも知れないし、出雲だったかもしれない。丹波かもしれないし、伊勢街道を越えてきた、東海だったかもしれない。

 日本書紀では、ニギハヤヒは尾張氏の祖とされ、磯城からは東海系の搬入土器が多く発掘される。ちなみに、「ハヤ(速)」を持つ名前は、出雲系にもある。「建速須佐之男命」「当麻蹶速」。ニギハヤヒは、尾張氏・海部氏が祖神であると主張している。全国の一宮神社で、天火明命(ニギハヤヒ)を祭神にしているのは、丹波(丹後)と尾張だけ。尾張では、神武天皇以後に、天火明命が尾張に現れたことになっている。崇神天皇の代に、四道将軍が派遣され、モモソヒメは大物主を祭り、物部氏が台頭し、磯城は栄え、そして、葛城は衰退した? 七代・孝霊天皇/廬戸宮で生まれたであろう、倭跡跡日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)は、十代・崇神天皇の頃に巫女として三輪山の大物主を祭る。そして、纒向遺跡の箸墓古墳に埋葬されたという。七代・孝霊天皇~九代・開化天皇の時代に、ヤマトトトヒモモソヒメは生まれ、ヤマト王権を拡大させたという四道将軍が生まれている。つまり、この時代の葛城は、ヤマトの歴史の本流とは、無関係になったということになる。

 葛城王朝が仮に存在したとすれば、時代的には魏志倭人伝の伝える卑弥呼の邪馬台国時代と関係しているように思われる。日本書紀では、崇神天皇は大物主大神・倭大国魂神・天照大神を祭ったとある。大物主大神、倭大国魂神、天照大神を祭った3人の巫女がいた。大物主大神巫女・ヤマトトトヒモモソヒメ。父:孝霊天皇、母:倭國香媛(磯城・淡路・吉備系?)。倭大国魂神巫女・渟名城入媛命。父:崇神天皇、母:尾張大海媛(尾張系)。天照大神巫女・豊鍬入姫命。父:崇神天皇、母:遠津年魚眼眼妙媛・ 紀伊国荒河戸畔の女。次の巫女・倭姫命。父:垂仁天皇、母:丹波国日葉酢媛。

 ヤマトトトヒモモソヒメは大物主大神を祭った。そして大物主大神の正体を知って死んだという。崇神天皇の娘・渟名城入媛命は倭大国魂神を祭った。そして体が痩せお祭りできなくなったという。崇神天皇の娘・豊鍬入姫命は天照大神を祭った。 天照大神の祭りは現在まで続いている。3人の巫女のうち、生き延びたのは、天照大神を祭った豊鍬入姫命である。モモソヒメ(倭跡跡日百襲姫)の死後、ヤマトの祭祀の後を継いだのは、トヨ(豊鍬入姫命)。ヤマト王権のカミの祭祀は、ヤマトの巫女から、紀伊国・丹波国の巫女に移行した?

 そうして、巫女を失った磯城、淡路、吉備、尾張系は、ヤマト王権の中心から脱落し、残った丹波、紀伊がヤマト王権を支えていくことになる。そしていわゆる河内王朝へと続いていく。応神天皇の母・神功皇后は、丹波を出自とする息長宿禰王と、葛城高額姫の娘神功皇后を補佐した建内宿禰の母は、古事記では、山下影日売・木国造祖・宇豆比古の妹とされる。

 兵庫県出石町の袴狭遺跡から、木片に刻まれた船団の線刻が見つかっている。古墳時代前期(四世紀)頃で、15隻の「準構造船」と見られる。日本海側から出兵した神功皇后の船団だろうか?古代では、出石のあたりに、外洋へ出る港があったのかもしれない。物部氏の祖に、「出石心大臣」という名前が見える。ほかにも、「出雲醜大臣」「大矢口宿禰」「大水口宿禰」という名が見える。港に関係ある名前だろうか?神功皇后の祖の息長氏もまた、系譜が途絶える。

 天照大神の祭祀の動き。ヤマトで天照大神を祭った記録は崇神紀にある。天照大神・倭大国魂の二神を御殿で祀っていたが、勢いに畏れて共に住めなくなり、天照大神を豊鍬入姫命に託して、ヤマトの笠縫邑に祀った。豊鍬入姫命の母は、「遠津年魚眼眼妙媛・ 紀伊国荒河戸畔の女」。次の垂仁天皇の代では、天照大神は、倭姫命が祀ることになる。倭姫命の母は、「丹波国日葉酢媛」。後に、天照大神は、約60年間近畿を巡り、最後に、伊勢に落ち着くことになる。日本書紀には、伊勢国について、「天照大神が始めて天より降られたところ」と書いてある。天照大神の巡幸した地の神社は、「元伊勢」と呼ばれている。天照大神の巡幸した国は、大和国・丹波乃国・木乃国・吉備国・伊賀国・淡海国・美濃国・尾張国・伊勢国。天照大神の動きは、ヤマト王権を構成した国を巡幸してるように見える。応神以降のヤマト王権から、追い出されたようにも見える。後に、再び天照大神を祀ったのは、東海勢力を背景にした天武天皇(大海人皇子)。

天照大神と距離を置く格上の神社
杵築大社 島根。祭神・大国主命(大己貴神)。出雲大社のことだが、もとは「杵築大社」と言った。丹波国風土記によれば、「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記されているという。「出雲」の名と「大国主」の神は、丹波の出雲大神宮からの勧請か?もとは、スサノヲと関係の深い土地だったはず。

スサノヲを祀る出雲の熊野大社は、火の発祥の神社として、「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれている。イザナミが葬られたとされる伝承地がある。(島根県と広島県の境の比婆山)
熊野本宮 熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社熊野。祭神・家都御子神、祭神・熊野速玉神
祭神・熊野夫須美神。熊野大社は、出雲にもあるが、全国の熊野系神社は、紀州の熊野三山を根本社としている。出雲の熊野大社からの勧請という説もある。イザナミが葬られたとされる伝承地がある。(三重県熊野市・花の窟神社)

 日本神話・高天原系の神を祀る地域と前方後円墳発祥の地は重なるように見える。神武東征以後、天照大神が記録に登場するのは崇神天皇からである。崇神天皇の代に、天照大神(もとは地方の太陽神だった?)は、紀伊・東海の傍系の豪族によってヤマト王権の祖神として祀られていったように見える。天照大神が活躍する高天原神話も、この時代に生まれたのかも知れない。その中心地は、近畿地方となるだろう。紀伊・東海が、ヤマトの奈良盆地で影響を与えたであろう地域は葛城・磯城になるだろう。

 後のヤマトタケルは、熊曾・出雲・東国を討伐した。ヤマトタケルは、伊勢・尾張は討伐していない。 ヤマトタケルと結婚したミヤズヒメは尾張国造祖。美夜受比売は、尾張国造・乎止与の子、健稲種公の妹。東征の帰路、伊勢の能褒野(能煩野)で崩御する。このとき、草那藝剣(クサナギ)を残した歌は「和賀淤岐斯都流岐能多知曾能多知波夜」(我が置きし 剣の太刀 その太刀はや)。「多知(太刀)」を「波夜(ハヤ)」と詠嘆している。倭建命(ヤマトタケル)の魂は八尋白智鳥になって飛び去ったという。古事記では、白鳥は伊勢を出て、河内国の志幾(シキ)に留まり陵を造り、天に飛び去る。日本書紀では、能褒野→ヤマトの琴弾原(奈良県御所市)/葛城(カツラギ))→河内の古市邑に陵を造る。

 ここでも、日本書紀=カツラギを重視、古事記=シキを重視という関係が見える。河内のシキと、ヤマトのシキは、同族の分派だろうか?古事記では、磯城の泊瀬朝倉宮の雄略天皇は、河内の志幾之大縣主の居が立派すぎるというので、焼こうとしたという。日本書紀では、雄略天皇は、葛城を占領したことが書かれている。雄略天皇は、磯城・葛城双方の敵だったのだろうか?日本書紀・古事記は、カツラギ・シキという地名について、かなり意識している。この事実に留意しないで、欠史八代を架空と断じ、磯城県主を無視するのは、研究者としていかがなものだろうか?




(私論.私見)