伊勢神宮考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).5.4日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「伊勢神宮考」をものしておく。

 2006.12.3日 れんだいこ拝


【現在の伊勢神宮考】
 伊勢神宮は仮称であって公式名称ではない。正式には単に神宮と云う。神宮は、日本の総氏神の地位にある天照大御神を祀る皇大神宮(これを内宮と云う)と衣食住や産業の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮(これを外宮と云う)の二両宮を正宮(しょうぐう)と呼び、それぞれが別宮の宮と摂社、末社、所管社の社(やしろ)を持つ。これらを総称して神宮と云う。その数125社に及ぶ。このうちで神階を有するのは伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の摂社16社のうち第7位の志等美(しとみ)神社、第8位の大河内(おおこうち)神社、外宮末社8社のうち第4位の打懸(うちかけ)神社の3社のみである。志等美神社の祭神は久久能智神(くくのちのかみ)、大河内神社の祭神は大山祗神(おおやまづみのかみ)、打懸神社の祭神は打懸明神(うちかけみょうじん)で、共に付近を流れる宮川の洪水から地域を守る堤防の守護神として祀られている。もともと社地不明だった3社を明治に入り、旧村社で地元の産土神であった上社(かみのやしろ)の境内に包摂され現在に至っている。

【伊勢内宮創設譚】
 垂仁天皇の御世、天照大神が皇女倭姫(やまとひめ)に信託を下して、五十鈴川のほとり山田原に鎮まった。これが内宮となった。天照大神が、元々出雲系の「古伊勢」があったところに鎮まるまでには紆余曲折があった。各地に「元伊勢伝説」があり、天照皇大神が諸国を移動し、最後にたどり着いたのが現在の「二見ケ浦」のある伊勢の地であったというものである。しかし、外宮も移動しており「元伊勢伝説」を持つ。為に、両者がこんがらがって伝えられており詳細が分からない。

 天照大神は元々、第十代崇神天皇陵の北に位置し、天理から桜井に向かう途中にある三輪山の山麓にある笠縫邑の「檜原神社」に鎮座していたと思われる。これが「元伊勢のルーツ」と推定されている。即ち、「伊勢のルーツは三輪笠縫邑の檜原神社」とされている。その後、天照大神は大和の笠縫邑を発し丹後に仮鎮座した。その後全国20数カ所を転々として現在の伊勢の地に落ち着いたとされている。これを仮に「伊勢内宮の元伊勢伝説」と命名する。

 「伊勢内宮の元伊勢伝説」によれば、伊勢神宮が元伊勢から古伊勢へ遷座するいきさつが次のように伝えられている。
 10代崇神天皇の即位6年(紀元前59年)、倭国笠縫邑(現奈良県桜井市)に遷座し、皇女・豊鋤入姫命が初代斎主として祭事を掌っていた。この地に33年間鎮座した。
 10代崇神天皇の即位39年、「別に大宮地を求め鎮め奉れ」という天照大神の御神勅があり、それまで奉斎されていた倭の笠縫邑を出御して但波へ遷幸した。天照大神を祀る神社を創建した。この時同時に豊受大神を合わせ祀られた。
 現在の大江町の元伊勢神社が「元伊勢内宮」ではないかと推定されている。元伊勢神社は、但波国のほぼ中央を南北に貫いて日本海へ由良川が流れ込んでおり、その上流から支流に2km程さかのぼった山間(現・京都府福知山市大江町)にある。 この地一帯は神代の昔から聖地とされており、岩戸山(亦名・城山、日室ヶ嶽)と云われる神奈備の神体山が有り(日本一美しいピラミッド?と云われている)、川守郷の中でも特に神戸郷(かんべのさと)と呼ばれていた。大本教の開祖・出口ナオと大本聖師・出口王仁三郎が皇大神社を真の元伊勢と崇敬し、天岩戸神社の清水で禊ぎを行ったことでも知られている。

 元伊勢神社は、内宮皇大神社、外宮豊受大神社、天岩戸神社と呼ばれる3神社から成り立っている。この元伊勢の内宮と外宮が古伊勢に移り現在の伊勢神宮になったと云われている。元伊勢町内には内宮、外宮の地名のほか、五十鈴川、宮川、真名井ノ池、宇治橋、猿田彦神社など伊勢神宮にまつわる名称が数多く存在しており原形をとどめている。
 4年後、突然、皇大神は更に大宮地を求めて倭(やまと)へ帰った。豊鋤入姫命は各地に大宮地を求めて御遷幸中既に老齢に向かわれたので、途中第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が御引き継ぐ。
 垂仁天皇25年、神を祭る地を求め、伊勢の五十鈴川上の聖地(今の伊勢の神宮)を大宮地と定め鎮座した。天照大神は「ここに鎮まりたい」と告げたのでこの地に「伊勢神宮」が出来た云々。皇女・倭姫(やまとひめ)の命が二代目斎主となった。
 7世紀後半、天武天皇の皇女・大来皇女(おおしひめみこ)が斎主となり、制度的に完成する。

 天武天皇の御世、伊勢神宮は20年周期の式年遷宮制を採り入れた。第1回の遷宮は、持統天皇の4(690)年であり、最近では平成5(2003)年に第62回目の式年遷宮している。

【伊勢神宮内宮考】
 内宮の神域は98ヘクタール。五十鈴川にかかる宇治橋が内宮の入り口となる。

 内宮(皇大神宮)別宮の月讀宮(つきよみのみや)は、三重県伊勢市中村町742-1に鎮座されている。宮域には、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟神の月讀尊の魂を祭神とする月讀荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)をご祭神とする伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)をご祭神とする伊佐奈弥宮の三社。向かって右(東)から月讀荒御魂宮、月讀宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮の唯一神明造りの四社が並んで鎮座している。参拝は月讀宮→月讀荒御魂宮→伊佐奈岐宮→伊佐奈弥宮の順にするよう表示されている。内宮別宮としては天照大神の魂をご祭神とする荒祭宮(あらまつりのみや)に次ぐ順位で、内宮宮域外の別宮としては最高位の別宮である。

 内宮別宮の倭姫宮(やまとひめのみや)は三重県伊勢市楠部町に鎮座されている。斎宮の直接の起源であり2代目斎王となった。ご祭神は、日本神話で第11代垂仁天皇の第四皇女と伝えられる倭姫命(やまとひめのみこと)。天照大御神の杖の代わりになって、天照大御神の鎮座する場所を探す役目を御杖代(みつえしろ)と呼び、大和、伊賀、近江、美濃、尾張などを巡行した後、この地に落ち着くことができた。その後も神嘗祭、神御衣祭などの年中行事や摂末社の祝定、神田や御園といった神領を定め、伊勢神宮の基礎を造った大きな功績があった。にも拘らず明治になるまで宮が存在しなかった。
 三重県伊勢市宇治今在家町、皇大神宮宇治橋の西側に鎮座する饗土橋姫神社、内宮摂社の式内社・津長神社、御同座末社の新川神社、石井神社、内宮摂社の式内社・大水神社、御同座末社の川相神社、熊淵神社。

 饗土橋姫神社は内宮所管社のひとつ。宇治橋守護の神が祀られており、元々は宇治橋のすぐ傍に社地があったが、明治の御幸道路建設に当たり現在地に遷された歴史がある。

 津長神社、新川神社、石井神社には、それぞれ栖長比売命、新川比売命、高水上命が御祭神として祀られている。鎮座地の古名は津長原と呼ばれ、五十鈴川遡上時の船の船着き場があったようで、倭姫命も当地で上陸されたと伝わっている。

 大水神社、川相神社、熊淵神社には、それぞれ大山祇御祖命、細川水神、多支大刀自神が御祭神として祀られている。径2mに及ぶ大楠が目をひく。元々は五十鈴川の上流にあった。
 三重県度会郡玉城町蚊野里中鎮座の蚊野神社、御同座の蚊野御前神社。

 蚊野神社は皇大神宮の摂社で、度会郡の式内社。それぞれ大神御蔭川神、御前神が御祭神として祀られている。蚊野神社の御神体は鏡で、他の多くの神宮摂末社同様中世には所伝が失われていたようで、寛文年間の再建に当たっての調査で社の古跡と思われる跡が見つかり、旧社地の比定に異説がない珍しい事例であった。神宮の摂末社は中世ほとんど廃絶し寛文年間再建された。家康の50回忌に相当し神社仏閣の復興が図られた時期であった。皇大神宮の造営を担った荒木田氏の本拠地であった。当時は後水尾上皇の修学院離宮の造営など朝廷に対する幕府の厳しい監視下であっても融和策が図られたものと思われる。もっとも朝廷の権威を幕府が大幅に認めるようになったのは光格天皇の朝儀の復活から孝明天皇の御代の文久期の大規模な御陵修繕が幕府の費用負担により実現した時代までかかった。現地は当時紀州藩の支配にあったことが「禁殺生」の石碑の由来であり、田の中に鎮守の杜がある光景も伊勢らしい光景で、かっては広大な森が広がっていた。
 三重県伊勢市楠部町尾崎、五十鈴川下流に架かる五十鈴橋傍に鎮座する国津御祖神社、御同座の葦立弖神社、同津境内に鎮座する大土御祖神社、御同座の宇治乃奴鬼神社、神宮御神田、及び国津御祖神社に隣接する櫲樟尾神社。

 国津御祖神社は皇大神宮の摂社で、宇治比売命、田村比売命を御祭神として祀る度会郡の式内社。御祭神は国生神の御子神で当地の産土とされている。

 葦立弖神社は内宮の末社で、御祭神の玉移良比女命はやはり当地の産土とされている。

 大土御祖神社は同じく内宮の摂社で、大国玉命、水佐々良比古命、水佐々良比売命を御祭神として祀る同郡の式内社。三柱共国生神の御子神とされ、水佐々良比古命、水佐々良比売命を夫々伊勢国造の祖神である天日別命とその妻神とする説がある。当社を元伊勢の家田々上宮とする説がある。

 宇治乃奴鬼神社は内宮の末社で、大水上命の御子神である高水上命が御祭神として祀られている。 神宮の御神田は、かつては現在の家田神田以外にも荒木田、外宮の南豊宮崎があったが、現在は当地のみ。御神田の南にある忌鍬山山頂を元伊勢の家田々上宮とする説がある。

 櫲樟尾(くすお)神社は、元は四郷小学校の南西側に位置する高台に鎮座していたが、当社も神宮同様二十年に一度遷座されるようで、家田々上宮が仮宮として設けられる以前より当地に産土として鎮座していた歴史がある。

 神服織機殿神社・末社八所@三重県松阪市大垣内町
 御祭神:神服織機殿鎮守神

 皇大神宮の所管社。機殿神社は二社あり、当社で和妙(絹)を奉織、2km程南にある神麻績機殿神社で荒妙(麻)を奉織する。大きい方の社殿が八尋殿とよばれる機殿(作業所)、小さい方が御本殿。広い田園地帯の真ん中の島のような社叢の中にあり、いかにも聖域という感じ。八末社の詳細は不明。「古くから紡織業と関係が深く、神様に奉る絹や麻を奉じる服部神部という人々が住んでいた土地。皇大神宮の神御衣のうち、和妙を奉織する機殿(八尋殿)の守護神を、また伝承では服部神部の祖神、天御桙命と奉織工の祖先、天八千々姫命をお祭りするといわれ、域内には八つの小さな末社がある」、「伝えるところによると、早くから神服部氏(かんはっとりうじ)神麻績氏(かんおみうじ)が居て、和妙、荒妙の神御衣(かんみそ)を奉織していた。さらに雄略天皇の御代に呉の国から漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)また衣織(きぬぬい)の兄媛弟媛(えひめ おとひめ)を奉り、これより機殿の技に改善が加えられ、この両機殿を中心にこの地方一帯の機業は盛んとなり、やがて後の松阪木綿へと繋がっていった。当地に残る黒部という地名は呉部(くれべ)のなまったものと考えられている」。

【伊勢外宮創設譚】
 伊勢神宮外宮も伊勢内宮同様に「古伊勢」に鎮座する前に各地に変遷している。これを仮に「伊勢外宮の元伊勢伝説」と命名する。伊勢神宮外宮は、現在の伊勢神宮の地である「古伊勢」に鎮座する前に、丹波国比治の真名井原(まないはら)の籠(この)神社に鎮座していたと伝えられている。丹後(京都府宮津市)の宮津湾に日本三景の一つして知られる天の橋立の北側に籠(この)神社が鎮座している。これを仮に「元伊勢=籠神社説」と命名する。籠神社には、宮司である「海部氏」の系図が残されている。

 籠神社は、真名井神社を奥宮としており、古称を与謝宮(よさのみや)、別称を豊受大神宮としている。この地が丹波国比治の真名井原だとする説があり、古伊勢と区分する意味で元伊勢とも云われている。

 丹後という名前は、もともとは丹波国(現在の京都府中部と兵庫県中部)であったが、都(京都)から見て丹波の後ろにあるという事で「丹後」と呼ばれるようになったと云う。古くは但波(たにわ)と呼ばれ、日本海側において一つの文化圏を 確立し倭政権とも対等に交流をもった国であったとも考えられる。  

 豊受大神(とようけのおおみかみ、止由気大神)は、籠神社に鎮座以来移動がなく、真名井ヶ原に鎮まり給いて万民を恵み守護していたところ、伊勢神宮内宮創建から500年後、皇祖天照大御神の御神勅「吾れ既に五十鈴川上に鎮まり居ると雖も一人にては楽しからず。神饌をも安く聞食すこと能わず」、「丹波の比沼の真名井に坐豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」と宣せられ、同様の御告が皇大神宮々司大佐々命にもあり、天皇に奏上されたところ非常に驚き恐れ、天照大神の御饌(食事係)として「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」を丹後国から迎え入れ、現在の地である伊勢国度会の山田ヶ原に外宮を建立し、大佐々命をして豊受大神を御遷座した。これを祀って外宮とした(天皇陵巡り:伊勢神宮の項参照)。直ちに豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の信者は引き継ぎ大神の御分霊を奉斎して元伊勢豊受大神宮と尊称し、現在に及んでいる。

 これにより、伊勢神宮は、奥の内宮と手前の外宮(豊受大神宮)の両宮で代表されることになった。(「元伊勢神社内宮 」、「皇大神社」、「元伊勢外宮豊受大神社」参照)

 外宮の境内社の豊川茜稲荷神社は次のように由来を伝えている。
 「当神社の創祀は、九百余年前の古い由緒深い神社です。特に豊川茜神社の御祭神・宇か之御魂神は天照大神の御弟、スサノウの命の御子にして、御母は神大市姫の命にまします。叉の名を豊受姫の命などと申し上げ伊勢神宮の大神と御同体にて、五穀を始め総ての食物及び産業を守り幸へ給い云々」。

【伊勢神宮外宮考】
 外宮の神域89ヘクタール。神宮の祭祀は、「外宮先祭の原則」が立てられている。
 外宮別宮。三重県伊勢市宮後鎮座の月夜見宮、及び高河原神社。

 月夜見宮は豊受大神宮の別宮、度会郡の式内社で、月夜見尊とその荒御魂が祀られている。外宮の別宮の中では唯一の宮域外にあり、境内は伊勢市駅からすぐ近くの市街とは思えないほどの静謐が保たれている。

 高河原神社は月夜見宮と同じ境内に鎮座する外宮の摂社で、同じく月夜見尊御魂を祀る度会郡の式内社である。元々は土地の守護神が祀られていたという説がある。鎮座地一帯は宮川の河岸段丘である高河原で、三方を宮川の支流痕とされる堀で囲まれている。一之木町の須原大社を高河原神社の旧社地とする研究もある。
 外宮摂社。三重県伊勢市御薗町高向鎮座の宇須乃野神社、御同座の県神社、同じ高向の集落にある高向(たかぶく)大社。

 宇須乃野神社は、五穀豊穣の神とされる宇須乃女命を御祭神として祀る豊受大神宮の摂社で度会郡の式内社。県神社は同じく外宮の末社で、高向の上田を守護するとされる県神が祀られている。

 高向大社は、大山祇神が御祭神として祀られている。度会郡の式内社である雷電神社の論社とされている。社伝によれば天平年間の創祀で、素戔嗚命、奥津嶋姫命、湍津嶋姫命が主神として祀られていたとされている。
 三重県伊勢市御薗町新開下倉鎮座の河原神社、御同座毛理神社、同辻久留鎮座の志等美神社、御同座大河内神社、打縣神社、及びこの三社が境内にある上社。河原神社、志等美神社、大河内神社が豊受大神宮の摂社で式内社。毛理神社、打縣神社が同末社になる。

 河原神社には宮川下流の川の神が、毛理神社には木の神が祀られている。それぞれの旧社地にあった檜尻社と志賀井社は、現在は船江の船江上社に遷されている。

 志等美神社には久久能智神が、大河内神社には大山祗神が、打縣神社には打懸明神が祀られている。何れも宮川の治水を司る堤防の神と考えられていた。

 上社は元々、久久能智神、大山祗神と、埴安神、宇迦之御魂神の四柱を御祭神としていたが、明治になるまでは牛頭社と呼ばれていたす。明治末に近隣の十三社を合祀している。
 三重県伊勢市常盤鎮座の大間国生(おおまくなり)神社、同一境内に鎮座する草奈伎神社(再拝)、及び同宮町鎮座の今社(いまのやしろ)。

 大間国生神社は草奈伎神社同様式内社で、豊受大神宮の摂社の中で最も高い社格を持っている。大間社と国生社の2つの御社殿にそれぞれ大若子命と乙若子命が御祭神として祀られている。
 今社は近鉄の宮町駅から南の商店街の入口に鎮座している。鹿屋根姫命を御祭神として祀り、式内社で豊受大神宮の摂社である清野井庭神社の旧社地と推定されている。御祭神は野椎神と同神とされているが、山田の産土の一神であったようで明治に近隣の十数社を合祀している。

【式年遷宮考】
 神宮の主な建物は20年に一度、「式年遷宮」により建て替えられる。持統天皇の御代に始まり、1300年以上続いている。2010年現在、次の式年遷宮は2013年になる。「唯一神明造」という建築様式を今に伝え、五重の垣根に囲まれている。

【伊勢神宮の内宮、外宮共祭考】
 8.4日、「風日祈祭(かざひのみさい)」が行われる。このお祭りは5月14日と8月4日に行われ、5月が稲の成長に適度な雨と風を願うのに対し、8月は稔りを控えた時期に台風などの災害が起きないよう祈るもの。神宮神田でも青々と育った稲がそよ風に揺れ美しい風景が広がっている。
 9月3日、実りの秋、伊勢市楠部町の神宮神田では、見事に実った稲を収穫する「抜穂祭(ぬいぼさい)」が古式ゆかしく行われる。このお祭りは、白装束の作丁が稲を刈り、その稲穂を一本一本丁寧に抜き取り、古儀のままに束ねていく。その後、収穫された稲束は、内宮は御稲御倉に、外宮は忌火屋殿内に奉納し、10月の神嘗祭を始めとする諸祭典で神々に捧げられる。4月の神田下種祭と共に神嘗祭に付属するお祭りです。
 9.21-23日の3日間、「秋の神楽祭」が開催される。神楽祭は、神恩に感謝を捧げ、国民の平和を祈って行われる行事で、午前11時と午後2時、内宮神苑の特設舞台で舞楽が公開され、参集殿の奉納舞台では、舞囃子・能楽・野点席など、全国各地の名流名家の奉納行事もある。神楽祭は神宮のご神徳を宣揚し、合わせて雅楽(ががく)を広く一般に公開する目的を以って昭和20年代の初めより、春と秋に行っている。春の神楽祭は「昭和の日」、秋の神楽祭は「秋分の日」をはさむ三日間、内宮神苑(しんえん)の特設舞台で行う。神楽祭にあわせて参集殿の奉納舞台では各種伝統芸能が奉納され、神宮茶室の庭上公開も行われる。

 年間1500回に及ぶ神宮の恒例のお祭りの中でも最も重要なお祭りが神嘗祭である。神嘗祭は、その年に収穫された新穀を最初に天照大御神に捧げて、御恵みに感謝するお祭りで、由貴大御饌と奉幣を中心として、興玉神祭(おきたまのかみさい)御卜(みうら)御神楽(みかぐら)などの諸祭を行う。御卜は祭主以下の神職が神嘗祭の奉仕に適うかをお伺いする儀式である。神宮のお祭りは外宮先祭といってまず外宮で祭儀が行われる習わしがあり、内宮に先だって外宮で15日から16日にかけて由貴大御饌、奉幣、御神楽が行われる。
 外宮(豊受大神宮)で、10月15日、「由貴夕大御饌」(ゆきのゆうべのおおみけ)、10月16日、「由貴朝大御饌」(ゆきのあしたのおおみけ)。内宮(皇大神宮)で、10月16日、「由貴夕大御饌」(ゆきのゆうべのおおみけ)、10月17日、「由貴朝大御饌」(ゆきのあしたのおおみけ)が行われる。大御饌とは立派な食事という意味で、海川山野のお供え物を取り揃え、神田で収穫された新米を玄米のまま蒸して土器に盛り、御餅をつき、白酒黒酒(しろきくろき)のお酒を醸してお供えする。17日正午、天皇陛下が遣わされた勅使(ちょくし幣帛(へいはくをご奉納になる奉幣が行われ、同日天皇は皇居神新嘉殿にて皇大神宮を御遙拝になられる。最後に夕刻、御祭神を和めるために御神楽が行われる。天皇陛下は皇居の御田でお育てになられた御稲穂を神宮に御献進になり、両正宮の内玉垣(うちたまがき)奉懸(ほうけん)される。内玉垣には全国の農家が奉献した稲穂も懸けられており、それは懸税(かけちから)と呼ばれる。そこには天皇と国民の収穫奉謝の真心が一体となった光景が見られる。神嘗祭は、諸神に先立ち収穫の感謝を天照大神に捧げ、翌11月に天皇陛下は新嘗祭を行われて天神地祇すべての神々に収穫を感謝される。古来より米を主食として生きてきた日本人にとり神嘗祭は重要な祭儀であり、その意義は今日も古代から一貫して変わることがない。

 春に神宮御園(じんぐうみその)で行われる御園祭(みそのさい)神宮神田(じんぐうしんでん)で行われる神田下種祭(しんでんげしゅさい)、秋の抜穂祭(ぬいぼさい御酒殿祭(みさかどのさい御塩殿祭(みしおどのさい大祓(おおはらい)があり、神宮の年間の祭典は神嘗祭を中心に行われているといっても過言ではない。

【内宮外宮正閏(せいじゅん)論争考】
 鎌倉時代に、内宮と外宮間に、何れが尊きか、どちらが正統で傍系かを廻る正閏(せいじゅん)論争が生まれ、兵火に訴えた歴史を持つと云う。

【日ユ同祖論の伊勢神宮論考】
 「古代日本ユダヤ人渡来説」(坂東誠著、PHP出版)は次のように記している。
 「イセ」とは「神の救い」? p100

 大変興味深いのは、伊勢という地名だ。ユダヤ人の研究家であるヨセフ.アイデルバーグ氏によると、この「イセ」という言葉は、「神の救い」を表す「イェシュ」もしくは「イェシュア」から派生したヘブライ語だ、というのだ。イエス・キリスドのイエスももともとはヘブライ語の「イェシュ」から派生した一言葉である。つまりイエスにも「神の救い」という意味がある。現在、イエスという名は世界各地で「イセ」や「イサ」というふうに呼ばれている。つまり伊勢神宮の「イセ」という言葉は「神の救い」というヘブライ語の可能性もあるのだ。そう言えば・伊勢神宮の神域を流れる川を「五十鈴川」というが、古来の呼び方は「イスズ川レでなく「イスス川」と呼んだそうだ。この「イスス」という名前も「イエス」を連想させる響きがある。イスス川では千年にもわたつて禊が行なわれている。
(私論.私見)
 いわゆる「日ユ同祖論」の立場から上述のように説いている。れんだいこは、伊勢のイセがヘブライ語を語源とする云々に耳を傾けても良いが、イエスとの関連を持ち出すのはナンセンスと思う。イエス教とキリスト教とユダや教の混同は何の意味もなかろう。ユダヤ史及びユダヤ教で説明するなら徹するが良かろうと思う。

 2010.3.30日 れんだいこ拝

 「」の「三輪・伊勢と修験道」は次のように記している。出典は、「神道 しんとう」〔参考文献〕村岡典嗣『神道史』1956,創文社()のようである。
 「大和の東に位置する美しい神奈備カンナビの三輪山を御神体とする大神神社は、日本古来の山岳信仰の中心聖域となってきた。出雲神道と結びついており、大己貴命の幸魂サキミタマ,奇魂クシミタマを祀っている。

 崇神天皇七年には、大田田根子が祀ることによって、天皇の国土経営を助ける神となって行く。 爾来この大神神社は大田田根子を祖とする大神氏の氏神となる(日本書紀巻 五)。その後時代が下がって貞観元年(859)には正一位が贈られ、大和一宮とされている。因みに令義解の「神祇令」第一条において、大神神社は地祇の筆頭として、 天神の筆頭である伊勢と並ぶわが国の代表的な神社に挙げられている。  

 一方、伊勢の皇大神宮の起源は、崇神天皇六年にそれまで宮中の大殿に祀られていた 天照大神が皇女の豊鍬入姫命に託して倭の笠縫邑に祀らせたとの日本書紀巻五の記録を嚆矢コウシとしている。この笠縫邑の社は,現在大神神社の摂社である桧原神社とされている。三輪と伊勢は元々深い関係にあったと思われる。

 その後垂仁天皇二十五年三月、天照大神は皇女倭姫命に憑き、新たな鎮座地を求めて、大和の宇陀、近江、美濃を遊幸した後に伊勢国の五十鈴川の川上に鎮座される。これが内宮ナイクウ(皇大神宮)の起こりとなる。なお日本書紀の一書においては、 その年十月に祠が度会に遷されたとしている。これに対して外宮の豊受大神は、平安時代初期に成る止由気宮儀式帳に拠りますと、雄略天皇の御代に、丹波の比治の真奈井に御鎮座の天照大神の御饌神の等由気大神を、度会の山田原に迎えられたものとされている。しかし、正史には何ら記されていない。これに加えて、外宮の神官が外宮の所在地の地名である度会と符合する度会氏であるのに対し、内宮の神官が新たな居住者を指すとも思われる荒木田氏であることから、外宮は、内宮の遷座以前にこの地に居住していた土地の豪族度会氏の守護神であったとする説もある。何れにしろ六、七世紀頃には、大和の大神神社、伊勢の内宮・外宮が成立したと推測される。

 その後、仏教の浸透に伴って神社に神宮寺が設けられるようになる。伊勢における神宮寺の初見は、続日本紀文武天皇二年(698)十二月の条所載の斎宮のある 多気の地に在った神宮寺を仏穢を避けてか、度会郡に移建したとの記事です。その後天平神護二年(766)には,この神宮寺に丈六の仏像が安置されている。方三輪に於ける神宮寺の初見は、延暦僧録における、唐招提寺の別当を勤めた 鑑真から菩薩戒を受けた釈浄三が、天平宝治年間(757~765)頃大神寺において三輪の若宮の法楽のために六門陀羅尼経を講じた、との記載です。

 なお、時代は下がりますが 十二世紀前半頃成立の今昔物語巻二十には、天武、持統に両朝の仕えて功のあった三輪の大田田根子を祖とする豪族大神高市麿が、大和国城上郡三輪の自宅を三輪寺とし たと記されています。それ故この神宮寺も大神神社と同様に、大田田根子を祖とする大 神氏によって祀られた寺であったと考えられるのです。因みにこの三輪寺には、本尊十一面観音、脇士地蔵菩薩が祀られていました。  

 さてこうした奈良時代における当初の神宮寺の成立状況を観ますと、伊勢の神宮寺は 聖域就中ナカンズク斎宮の在所を避けて、その周辺部に移されています。一方三輪の神宮寺の場合は、主神ではなくその皇子である若宮(王子)の法楽のために造られいます。た だ三輪においては、陀羅尼を唱えたり、悪疫退散を祈るなどの祈念がなされています。 その後古代末から中世初期になりますと、新たに修験的な遊行宗教者の手になる寺院が造られました。三輪山においては、修験霊山において修行し、死穢の中において即身成仏の秘印を授かり、護法を使役した遊行修験者慶円(1140~1223)が三輪の別所に開い た平等寺、鋳物師や渡守と関係を持つ遊行宗教者の玄賓(818没)の庵などが成立しています。特に平等寺は、室町時代に近畿地方の主要な寺院に依拠した真言系修験の結社である当山三十六正大先達寺の一つに数えられています。

 一方伊勢においては、外宮の背後の前山の世義寺や朝熊山の金剛証寺の経塚に観られるように、如法経(法華経)修行や菩提のための修験的寺院が建立されている。このうち世義寺は十四世紀初頭に円海によって中興され、後には当山三十六正大先達の重鎮となっている。また金剛証寺も十五世紀初期に中興された。  

 こうした修験的な聖とは別に鎌倉時代には、南都の仏教を代表する貞慶(1155~1213 )、重源(1121~1195)、叡尊(1201~1290)なども伊勢参宮をしたり、三輪とも関わりを持っています。尤も貞慶は笠置、重源は大峰,叡尊は醍醐と云うように、彼等にしても、修験霊山において修行し、密教や神祇にも関心を持っていました。そして伊勢においては内宮の荒木田氏、外宮の度会氏の氏寺において法要を行っていました。中でも叡尊は伊勢に弘正寺を開いて、金剛界・胎蔵界の大日如来を内外宮の本地として祀って いるのです。また通海(1305~6頃没)のように、神宮祭主の大中臣家に生まれながら醍醐寺において修行し、密教思想に則ノットって伊勢の神格を説明し、法楽のために読経や護摩を修する者が出現しました。世義寺を中興した円海にしても、中央の密教僧の智円の影響を受けている。

 伊勢において育まれた両部神道の思想は、三輪に大御輪寺を中興した叡僧等によって三輪に持ち込まれる。彼が著した『大御輪寺縁起』は三輪と伊勢の同体を説き、三輪の神格や状景に関する両部神道的説明がなされ、やがて三輪流神道にと結実して行く。因みにこの三輪流神道の思想や次第の中には、修験道と共通のものが数多く認められる。

 一方伊勢においては、前山の世義寺、朝熊山の金剛証寺の他に大和から伊勢への入口にあたる飯高郡丹生山丹生神社の神宮寺、熊野からの伊勢への入口の仙宮院など、神宮を取り囲むように周辺の霊山に修験の拠点が造られて行った。

 これらはまた、朝熊山、東大峰と通称される仙宮院など他界と結び付いたり、丹生のように水銀の存在を彷彿とさせる処です。しかもこのそれぞれにおいて修験的色彩の強い書物が創られたのです。 空海の開基伝承を記す朝熊山や丹生大神宮の縁起、役行者が開いたとする仙宮院の縁起、大神と大峰の言を記したとの記載のある世義寺に関わる『鼻帰書』などがこれですが、これらは何れも修験者が創ったと推測されるのです。

 そしてわが国の根源として独鈷トッコを重視する『鼻帰書』、内宮・外宮を胎蔵界大日・金剛界大日に充当する『鼻帰書 』や『仙宮院秘文』、空海が虚空蔵求聞持法を修したとする朝熊山の縁起に観られるように、その内容も『大和葛城宝山記』など修験霊山の縁起と類似しています。尤も内宮・外宮を胎蔵界・金剛界など密教的原理で説明する試みは、修験道のみでなく、両部神道においてもなされている。

 伊勢において結実した両部神道の思想が、三輪に持ち込まれて修験的色彩の強い三輪流神道に成って行く。こうした両部神道や修験道にも共通する思想は、伊勢や三輪を拠点とした密教や神道に詳しく、修験にも関心を持つ僧侶等によって創られた。これが三輪流神道や御法流神道にと結実して行った」。

【皇室の伊勢神宮参拝考】
 「皇室の伊勢神宮参拝」につき、意外な事に天皇陛下は明治天皇がするまで伊勢神宮参拝をしていない。伊勢神宮は八百万の神々に君臨する神、日本の総氏神を祀る神々の頂点、日本頂点の神社であるのに、初代神武天皇から孝明天皇まですべての天皇が伊勢神宮に参拝していない。西暦692年、持統天皇は伊勢を通って志摩まで行っているが、伊勢神宮には寄っていない。また西暦740年、聖武天皇が、三重県津市白山町に10日間滞在したが、なぜか伊勢神宮には行っていない。その理由は不明であるが、伊勢神宮の祭神アマテラスが元々出雲系の最高神であるのに、アマテラスを出雲系から切り離している、即ち出雲系信仰を粗略にしていることに関係しているのかもしれない。 

 ならば、第55回の神宮式年遷宮に参拝した明治天皇は、天皇家史上なぜその慣例を破って参拝したのか。それは明治天皇の北朝、南朝問題に関係しているのかも知れない。明治天皇が南朝系の物部純血統末裔ならば、それ故に臆することなく伊勢神宮に参拝し、日本国の命運、存亡をかけた国際情勢の暗雲払拭、日本国内の平安などの祈願、つまりスサノウに祈り得たと解釈し得る。日本は特殊な国体を保ち世界の雛形となっている。明治維新後、邪悪な国際ユダ邪族が日本を支配するようになった。しかし日本は現在の世界をままにする国際ユダ邪族と真に対決し得る神々の住まう国である。国際ユダ邪族の日本支配、世界支配を払拭する能力と使命を持つのが日本である。国際ユダ邪の邪悪な陰謀を消し去る力、それを封印する力を持つ唯一の国が日本である。 

 日本は静岡県と新潟県を境にして、東日本側は50ヘルツ、西日本側は60ヘルツの周波数に分かれておる。それは明治時代、発電機輸「東日本はドイツから、西日本はアメリカから周波帯の違う発電機が輸入されたことが原因である。関東はヨーロッパ系、関西はアメリカ系国際ユダ邪の圧力でそうなった。ヨーロッパ系とアメリカ系両方が絡んで徳川幕府が滅亡された。トーマス・ブレーク・グラバーという貿易商人は、英国スコットランド出身。明治維新は英国、ドイツなどのヨーロッパ系国際ユダ邪が関与していた。明治政府が購入した戦艦「三笠」や巡洋艦は、英国ヴィッカース社製の軍艦。降臨丸がオランダ製。アメリカ、イギリス、オランダ、ドイツ、フランスなどの国際ユダ邪が暗躍したのが明治維新である。

 不思議な事に、将軍が変わるたびに京都の天皇も変わっている。
徳川家康→後陽成天皇
德川秀忠→後水尾天皇
德川家光→明正天皇
德川家綱→後光明天皇
德川綱吉→後西天皇
德川家宣→元天皇
德川家繼→東山天皇
德川吉宗→中御門天皇
德川家重→极町天皇
德川家治→後楼町天皇
德川家齐→桃園天皇
徳川家慶→後桃園天皇
徳川家定→光格天皇一
徳川家茂→仁孝天皇
徳川慶喜」→孝明天皇





(私論.私見)