伊勢神宮考 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).5.4日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「伊勢神宮考」をものしておく。 2006.12.3日 れんだいこ拝 |
【現在の伊勢神宮考】 |
伊勢神宮は仮称であって公式名称ではない。正式には単に神宮と云う。神宮は、日本の総氏神の地位にある天照大御神を祀る皇大神宮(これを内宮と云う)と衣食住や産業の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮(これを外宮と云う)の二両宮を正宮(しょうぐう)と呼び、それぞれが別宮の宮と摂社、末社、所管社の社(やしろ)を持つ。これらを総称して神宮と云う。その数125社に及ぶ。このうちで神階を有するのは伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の摂社16社のうち第7位の志等美(しとみ)神社、第8位の大河内(おおこうち)神社、外宮末社8社のうち第4位の打懸(うちかけ)神社の3社のみである。志等美神社の祭神は久久能智神(くくのちのかみ)、大河内神社の祭神は大山祗神(おおやまづみのかみ)、打懸神社の祭神は打懸明神(うちかけみょうじん)で、共に付近を流れる宮川の洪水から地域を守る堤防の守護神として祀られている。もともと社地不明だった3社を明治に入り、旧村社で地元の産土神であった上社(かみのやしろ)の境内に包摂され現在に至っている。 |
【伊勢内宮創設譚】 | ||||||||||||
垂仁天皇の御世、天照大神が皇女倭姫(やまとひめ)に信託を下して、五十鈴川のほとり山田原に鎮まった。これが内宮となった。天照大神が、元々出雲系の「古伊勢」があったところに鎮まるまでには紆余曲折があった。各地に「元伊勢伝説」があり、天照皇大神が諸国を移動し、最後にたどり着いたのが現在の「二見ケ浦」のある伊勢の地であったというものである。しかし、外宮も移動しており「元伊勢伝説」を持つ。為に、両者がこんがらがって伝えられており詳細が分からない。 天照大神は元々、第十代崇神天皇陵の北に位置し、天理から桜井に向かう途中にある三輪山の山麓にある笠縫邑の「檜原神社」に鎮座していたと思われる。これが「元伊勢のルーツ」と推定されている。即ち、「伊勢のルーツは三輪笠縫邑の檜原神社」とされている。その後、天照大神は大和の笠縫邑を発し丹後に仮鎮座した。その後全国20数カ所を転々として現在の伊勢の地に落ち着いたとされている。これを仮に「伊勢内宮の元伊勢伝説」と命名する。 「伊勢内宮の元伊勢伝説」によれば、伊勢神宮が元伊勢から古伊勢へ遷座するいきさつが次のように伝えられている。
天武天皇の御世、伊勢神宮は20年周期の式年遷宮制を採り入れた。第1回の遷宮は、持統天皇の4(690)年であり、最近では平成5(2003)年に第62回目の式年遷宮している。 |
【伊勢神宮内宮考】 |
内宮の神域は98ヘクタール。五十鈴川にかかる宇治橋が内宮の入り口となる。 |
内宮(皇大神宮)別宮の月讀宮(つきよみのみや)は、三重県伊勢市中村町742-1に鎮座されている。宮域には、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟神の月讀尊の魂を祭神とする月讀荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)をご祭神とする伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)をご祭神とする伊佐奈弥宮の三社。向かって右(東)から月讀荒御魂宮、月讀宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮の唯一神明造りの四社が並んで鎮座している。参拝は月讀宮→月讀荒御魂宮→伊佐奈岐宮→伊佐奈弥宮の順にするよう表示されている。内宮別宮としては天照大神の魂をご祭神とする荒祭宮(あらまつりのみや)に次ぐ順位で、内宮宮域外の別宮としては最高位の別宮である。 |
内宮別宮の倭姫宮(やまとひめのみや)は三重県伊勢市楠部町に鎮座されている。斎宮の直接の起源であり2代目斎王となった。ご祭神は、日本神話で第11代垂仁天皇の第四皇女と伝えられる倭姫命(やまとひめのみこと)。天照大御神の杖の代わりになって、天照大御神の鎮座する場所を探す役目を御杖代(みつえしろ)と呼び、大和、伊賀、近江、美濃、尾張などを巡行した後、この地に落ち着くことができた。その後も神嘗祭、神御衣祭などの年中行事や摂末社の祝定、神田や御園といった神領を定め、伊勢神宮の基礎を造った大きな功績があった。にも拘らず明治になるまで宮が存在しなかった。 |
三重県伊勢市宇治今在家町、皇大神宮宇治橋の西側に鎮座する饗土橋姫神社、内宮摂社の式内社・津長神社、御同座末社の新川神社、石井神社、内宮摂社の式内社・大水神社、御同座末社の川相神社、熊淵神社。 饗土橋姫神社は内宮所管社のひとつ。宇治橋守護の神が祀られており、元々は宇治橋のすぐ傍に社地があったが、明治の御幸道路建設に当たり現在地に遷された歴史がある。 津長神社、新川神社、石井神社には、それぞれ栖長比売命、新川比売命、高水上命が御祭神として祀られている。鎮座地の古名は津長原と呼ばれ、五十鈴川遡上時の船の船着き場があったようで、倭姫命も当地で上陸されたと伝わっている。 大水神社、川相神社、熊淵神社には、それぞれ大山祇御祖命、細川水神、多支大刀自神が御祭神として祀られている。径2mに及ぶ大楠が目をひく。元々は五十鈴川の上流にあった。 |
三重県度会郡玉城町蚊野里中鎮座の蚊野神社、御同座の蚊野御前神社。 蚊野神社は皇大神宮の摂社で、度会郡の式内社。それぞれ大神御蔭川神、御前神が御祭神として祀られている。蚊野神社の御神体は鏡で、他の多くの神宮摂末社同様中世には所伝が失われていたようで、寛文年間の再建に当たっての調査で社の古跡と思われる跡が見つかり、旧社地の比定に異説がない珍しい事例であった。神宮の摂末社は中世ほとんど廃絶し寛文年間再建された。家康の50回忌に相当し神社仏閣の復興が図られた時期であった。皇大神宮の造営を担った荒木田氏の本拠地であった。当時は後水尾上皇の修学院離宮の造営など朝廷に対する幕府の厳しい監視下であっても融和策が図られたものと思われる。もっとも朝廷の権威を幕府が大幅に認めるようになったのは光格天皇の朝儀の復活から孝明天皇の御代の文久期の大規模な御陵修繕が幕府の費用負担により実現した時代までかかった。現地は当時紀州藩の支配にあったことが「禁殺生」の石碑の由来であり、田の中に鎮守の杜がある光景も伊勢らしい光景で、かっては広大な森が広がっていた。 |
三重県伊勢市楠部町尾崎、五十鈴川下流に架かる五十鈴橋傍に鎮座する国津御祖神社、御同座の葦立弖神社、同津境内に鎮座する大土御祖神社、御同座の宇治乃奴鬼神社、神宮御神田、及び国津御祖神社に隣接する櫲樟尾神社。
国津御祖神社は皇大神宮の摂社で、宇治比売命、田村比売命を御祭神として祀る度会郡の式内社。御祭神は国生神の御子神で当地の産土とされている。 櫲樟尾(くすお)神社は、元は四郷小学校の南西側に位置する高台に鎮座していたが、当社も神宮同様二十年に一度遷座されるようで、家田々上宮が仮宮として設けられる以前より当地に産土として鎮座していた歴史がある。 |
神服織機殿神社・末社八所@三重県松阪市大垣内町
御祭神:神服織機殿鎮守神
皇大神宮の所管社。機殿神社は二社あり、当社で和妙(絹)を奉織、2km程南にある神麻績機殿神社で荒妙(麻)を奉織する。大きい方の社殿が八尋殿とよばれる機殿(作業所)、小さい方が御本殿。広い田園地帯の真ん中の島のような社叢の中にあり、いかにも聖域という感じ。八末社の詳細は不明。「古くから紡織業と関係が深く、神様に奉る絹や麻を奉じる服部神部という人々が住んでいた土地。皇大神宮の神御衣のうち、和妙を奉織する機殿(八尋殿)の守護神を、また伝承では服部神部の祖神、天御桙命と奉織工の祖先、天八千々姫命をお祭りするといわれ、域内には八つの小さな末社がある」、「伝えるところによると、早くから神服部氏(かんはっとりうじ)神麻績氏(かんおみうじ)が居て、和妙、荒妙の神御衣(かんみそ)を奉織していた。さらに雄略天皇の御代に呉の国から漢織(あやはとり)呉織(くれはとり)また衣織(きぬぬい)の兄媛弟媛(えひめ おとひめ)を奉り、これより機殿の技に改善が加えられ、この両機殿を中心にこの地方一帯の機業は盛んとなり、やがて後の松阪木綿へと繋がっていった。当地に残る黒部という地名は呉部(くれべ)のなまったものと考えられている」。 |
【伊勢外宮創設譚】 | |
伊勢神宮外宮も伊勢内宮同様に「古伊勢」に鎮座する前に各地に変遷している。これを仮に「伊勢外宮の元伊勢伝説」と命名する。伊勢神宮外宮は、現在の伊勢神宮の地である「古伊勢」に鎮座する前に、丹波国比治の真名井原(まないはら)の籠(この)神社に鎮座していたと伝えられている。丹後(京都府宮津市)の宮津湾に日本三景の一つして知られる天の橋立の北側に籠(この)神社が鎮座している。これを仮に「元伊勢=籠神社説」と命名する。籠神社には、宮司である「海部氏」の系図が残されている。 籠神社は、真名井神社を奥宮としており、古称を与謝宮(よさのみや)、別称を豊受大神宮としている。この地が丹波国比治の真名井原だとする説があり、古伊勢と区分する意味で元伊勢とも云われている。 丹後という名前は、もともとは丹波国(現在の京都府中部と兵庫県中部)であったが、都(京都)から見て丹波の後ろにあるという事で「丹後」と呼ばれるようになったと云う。古くは但波(たにわ)と呼ばれ、日本海側において一つの文化圏を 確立し倭政権とも対等に交流をもった国であったとも考えられる。 豊受大神(とようけのおおみかみ、止由気大神)は、籠神社に鎮座以来移動がなく、真名井ヶ原に鎮まり給いて万民を恵み守護していたところ、伊勢神宮内宮創建から500年後、皇祖天照大御神の御神勅「吾れ既に五十鈴川上に鎮まり居ると雖も一人にては楽しからず。神饌をも安く聞食すこと能わず」、「丹波の比沼の真名井に坐豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」と宣せられ、同様の御告が皇大神宮々司大佐々命にもあり、天皇に奏上されたところ非常に驚き恐れ、天照大神の御饌(食事係)として「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」を丹後国から迎え入れ、現在の地である伊勢国度会の山田ヶ原に外宮を建立し、大佐々命をして豊受大神を御遷座した。これを祀って外宮とした(天皇陵巡り:伊勢神宮の項参照)。直ちに豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の信者は引き継ぎ大神の御分霊を奉斎して元伊勢豊受大神宮と尊称し、現在に及んでいる。 これにより、伊勢神宮は、奥の内宮と手前の外宮(豊受大神宮)の両宮で代表されることになった。(「元伊勢神社内宮 」、「皇大神社」、「元伊勢外宮豊受大神社」参照) 外宮の境内社の豊川茜稲荷神社は次のように由来を伝えている。
|
【伊勢神宮外宮考】 |
外宮の神域89ヘクタール。神宮の祭祀は、「外宮先祭の原則」が立てられている。 |
外宮別宮。三重県伊勢市宮後鎮座の月夜見宮、及び高河原神社。
月夜見宮は豊受大神宮の別宮、度会郡の式内社で、月夜見尊とその荒御魂が祀られている。外宮の別宮の中では唯一の宮域外にあり、境内は伊勢市駅からすぐ近くの市街とは思えないほどの静謐が保たれている。 高河原神社は月夜見宮と同じ境内に鎮座する外宮の摂社で、同じく月夜見尊御魂を祀る度会郡の式内社である。元々は土地の守護神が祀られていたという説がある。鎮座地一帯は宮川の河岸段丘である高河原で、三方を宮川の支流痕とされる堀で囲まれている。一之木町の須原大社を高河原神社の旧社地とする研究もある。 |
外宮摂社。三重県伊勢市御薗町高向鎮座の宇須乃野神社、御同座の県神社、同じ高向の集落にある高向(たかぶく)大社。
宇須乃野神社は、五穀豊穣の神とされる宇須乃女命を御祭神として祀る豊受大神宮の摂社で度会郡の式内社。県神社は同じく外宮の末社で、高向の上田を守護するとされる県神が祀られている。 高向大社は、大山祇神が御祭神として祀られている。度会郡の式内社である雷電神社の論社とされている。社伝によれば天平年間の創祀で、素戔嗚命、奥津嶋姫命、湍津嶋姫命が主神として祀られていたとされている。 |
三重県伊勢市御薗町新開下倉鎮座の河原神社、御同座毛理神社、同辻久留鎮座の志等美神社、御同座大河内神社、打縣神社、及びこの三社が境内にある上社。河原神社、志等美神社、大河内神社が豊受大神宮の摂社で式内社。毛理神社、打縣神社が同末社になる。
河原神社には宮川下流の川の神が、毛理神社には木の神が祀られている。それぞれの旧社地にあった檜尻社と志賀井社は、現在は船江の船江上社に遷されている。 志等美神社には久久能智神が、大河内神社には大山祗神が、打縣神社には打懸明神が祀られている。何れも宮川の治水を司る堤防の神と考えられていた。
上社は元々、久久能智神、大山祗神と、埴安神、宇迦之御魂神の四柱を御祭神としていたが、明治になるまでは牛頭社と呼ばれていたす。明治末に近隣の十三社を合祀している。
|
三重県伊勢市常盤鎮座の大間国生(おおまくなり)神社、同一境内に鎮座する草奈伎神社(再拝)、及び同宮町鎮座の今社(いまのやしろ)。
大間国生神社は草奈伎神社同様式内社で、豊受大神宮の摂社の中で最も高い社格を持っている。大間社と国生社の2つの御社殿にそれぞれ大若子命と乙若子命が御祭神として祀られている。 今社は近鉄の宮町駅から南の商店街の入口に鎮座している。鹿屋根姫命を御祭神として祀り、式内社で豊受大神宮の摂社である清野井庭神社の旧社地と推定されている。御祭神は野椎神と同神とされているが、山田の産土の一神であったようで明治に近隣の十数社を合祀している。
|
【式年遷宮考】 |
神宮の主な建物は20年に一度、「式年遷宮」により建て替えられる。持統天皇の御代に始まり、1300年以上続いている。2010年現在、次の式年遷宮は2013年になる。「唯一神明造」という建築様式を今に伝え、五重の垣根に囲まれている。 |
【伊勢神宮の内宮、外宮共祭考】 |
8.4日、「風日祈祭(かざひのみさい)」が行われる。このお祭りは5月14日と8月4日に行われ、5月が稲の成長に適度な雨と風を願うのに対し、8月は稔りを控えた時期に台風などの災害が起きないよう祈るもの。神宮神田でも青々と育った稲がそよ風に揺れ美しい風景が広がっている。 |
9月3日、実りの秋、伊勢市楠部町の神宮神田では、見事に実った稲を収穫する「抜穂祭(ぬいぼさい)」が古式ゆかしく行われる。このお祭りは、白装束の作丁が稲を刈り、その稲穂を一本一本丁寧に抜き取り、古儀のままに束ねていく。その後、収穫された稲束は、内宮は御稲御倉に、外宮は忌火屋殿内に奉納し、10月の神嘗祭を始めとする諸祭典で神々に捧げられる。4月の神田下種祭と共に神嘗祭に付属するお祭りです。 |
9.21-23日の3日間、「秋の神楽祭」が開催される。神楽祭は、神恩に感謝を捧げ、国民の平和を祈って行われる行事で、午前11時と午後2時、内宮神苑の特設舞台で舞楽が公開され、参集殿の奉納舞台では、舞囃子・能楽・野点席など、全国各地の名流名家の奉納行事もある。神楽祭は神宮のご神徳を宣揚し、合わせて 年間1500回に及ぶ神宮の恒例のお祭りの中でも最も重要なお祭りが神嘗祭である。神嘗祭は、その年に収穫された新穀を最初に天照大御神に捧げて、御恵みに感謝するお祭りで、由貴大御饌と奉幣を中心として、 |
外宮(豊受大神宮)で、10月15日、「 春に |
【内宮外宮正閏(せいじゅん)論争考】 |
鎌倉時代に、内宮と外宮間に、何れが尊きか、どちらが正統で傍系かを廻る正閏(せいじゅん)論争が生まれ、兵火に訴えた歴史を持つと云う。 |
【日ユ同祖論の伊勢神宮論考】 | |||
「古代日本ユダヤ人渡来説」(坂東誠著、PHP出版)は次のように記している。
|
「![]()
|
【皇室の伊勢神宮参拝考】 |
「皇室の伊勢神宮参拝」につき、意外な事に天皇陛下は明治天皇がするまで伊勢神宮参拝をしていない。伊勢神宮は八百万の神々に君臨する神、日本の総氏神を祀る神々の頂点、日本頂点の神社であるのに、初代神武天皇から孝明天皇まですべての天皇が伊勢神宮に参拝していない。西暦692年、持統天皇は伊勢を通って志摩まで行っているが、伊勢神宮には寄っていない。また西暦740年、聖武天皇が、三重県津市白山町に10日間滞在したが、なぜか伊勢神宮には行っていない。その理由は不明であるが、伊勢神宮の祭神アマテラスが元々出雲系の最高神であるのに、アマテラスを出雲系から切り離している、即ち出雲系信仰を粗略にしていることに関係しているのかもしれない。 ならば、第55回の神宮式年遷宮に参拝した明治天皇は、天皇家史上なぜその慣例を破って参拝したのか。それは明治天皇の北朝、南朝問題に関係しているのかも知れない。明治天皇が南朝系の物部純血統末裔ならば、それ故に臆することなく伊勢神宮に参拝し、日本国の命運、存亡をかけた国際情勢の暗雲払拭、日本国内の平安などの祈願、つまりスサノウに祈り得たと解釈し得る。日本は特殊な国体を保ち世界の雛形となっている。明治維新後、邪悪な国際ユダ邪族が日本を支配するようになった。しかし日本は現在の世界をままにする国際ユダ邪族と真に対決し得る神々の住まう国である。国際ユダ邪族の日本支配、世界支配を払拭する能力と使命を持つのが日本である。国際ユダ邪の邪悪な陰謀を消し去る力、それを封印する力を持つ唯一の国が日本である。 日本は静岡県と新潟県を境にして、東日本側は50ヘルツ、西日本側は60ヘルツの周波数に分かれておる。それは明治時代、発電機輸「東日本はドイツから、西日本はアメリカから周波帯の違う発電機が輸入されたことが原因である。関東はヨーロッパ系、関西はアメリカ系国際ユダ邪の圧力でそうなった。ヨーロッパ系とアメリカ系両方が絡んで徳川幕府が滅亡された。トーマス・ブレーク・グラバーという貿易商人は、英国スコットランド出身。明治維新は英国、ドイツなどのヨーロッパ系国際ユダ邪が関与していた。明治政府が購入した戦艦「三笠」や巡洋艦は、英国ヴィッカース社製の軍艦。降臨丸がオランダ製。アメリカ、イギリス、オランダ、ドイツ、フランスなどの国際ユダ邪が暗躍したのが明治維新である。 不思議な事に、将軍が変わるたびに京都の天皇も変わっている。 徳川家康→後陽成天皇
德川秀忠→後水尾天皇
德川家光→明正天皇
德川家綱→後光明天皇
德川綱吉→後西天皇
德川家宣→元天皇
德川家繼→東山天皇
德川吉宗→中御門天皇
德川家重→极町天皇
德川家治→後楼町天皇
德川家齐→桃園天皇
徳川家慶→後桃園天皇
徳川家定→光格天皇一
徳川家茂→仁孝天皇
徳川慶喜」→孝明天皇
|
(私論.私見)