ニギハヤヒの命の日の本王朝考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和元).7.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2008.4.14日、2013.1.13日再編集 れんだいこ拝


【ニギハヤヒの命が日本王朝(ひのもと・おうちょう)開闢
 ニギハヤヒは、ニギハヤヒの命王朝を創始し、大倭国(やまとのくに)の生駒山付近の鳥見(とみ)の白辻山(白庭山)に居を構え遷宮した。大和に入ったニギハヤヒはその後、鳥見の豪族長髄彦(ナガスネヒコ)の妹の御炊屋姫(三炊屋姫、ミカシギヤヒメ)を娶った。戦わずして長髄彦を配下におさめている。集団戦闘の痕跡や伝承が全くないのがそれを裏付けている。こうして、奈良盆地の東端の三輪山(当時は三諸山)麓に本拠を移して本格的な大和の国造りが始まった。これを日本王朝(ひのもと・おうちょう)と云う。これが日本国の始まりとなる。BC101~102年頃、ニギハヤヒ45歳頃のこととみられる。

 畿内大和地方を平定したニギハヤヒは、さらに東日本平定に乗り出し成功している。東海、関東を概ね統合した後、東北の秋田あたりまで遠征した様子が、秋田の唐松神社(秋田県大仙市)の伝承に残っている。人々の生活や健康を考え、米作りや薬草の活用技術を教えながら、大和国への連合を誘ったとみられる。BC90年頃、大和に帰還している。57~58歳頃のこととみられる。このことは、神社伝承・考古史料の項で傍証する。  

 ニギハヤヒは、大和の地で多くの開発や都造りに向けた事績を遺している。奈良と大阪を結ぶ大動脈として大和川の開鑿(かいさく)をすすめ、支流の初瀬川合流近くに日本最古の市場・海柘榴市(つばいち)の建設などの他、稲作指導はもとより、人々の病気の平癒、健康問題にも取り組んだ。その名残が、ニギハヤヒの御陵でもある大神神社の鎮花祭(はなしずめのまつり)であり、約1100年も前に編纂された「大同類聚方」に、大歳神社に伝わる薬が記載されているのが何よりの証である。大同類聚方は平安時代初期の大同三(808)年に編纂された全100巻に及ぶ日本における唯一の古医方の医学書で、最古の国定薬局方となっている。

(私論.私見)
 ここで、ニギハヤヒの命王朝の様子が垣間見られる。それによると、ニギハヤヒの命が土地の豪族の盟主であったと思われるナガスネ彦(那賀須泥毘古、長髄彦、トミビコとも云う)との和議に成功し、妹のミカシギヤ姫を娶っている。この史実の重要性は、後の神武派の来航時の抵抗と対照的であるからである。ニギハヤヒの命派が受け入れられ、神武派が拒否された背景の歴史事情を詮索せねばならない。思うに、ニギハヤヒの命派、神武派が同系の勢力であったとすると理解し難い。ニギハヤヒの命派が「話せばわかる」関係の出雲系、神武派が「話が通じない」関係の外来系故にの差ではなかろうか。

 次に、大倭国(やまとのくに)の生駒山付近の鳥見(とみ)の白辻山(白庭山)に居を構え遷宮した。その後更に奈良盆地の東端の三輪山(当時は三諸山)の麓に日本王朝(ひのもと・おうちょう)の本拠を移して本格的な大和の国造りを始めた。「これが大和国の始まりとなる。BC101~102年頃のこととみられる」も興味深い。これによると、日本王朝(ひのもと・おうちょう)の始まり、大和国の始まりが裏付けられる。これが歴史の真相とすると、日本古代史上の重要事であり、日本史は少なくともこれより記述されねばならないことになるのではなかろうか。 

 2013.5.7日 再編集 れんだいこ拝

【ニギハヤヒの命のミカシギヤ姫嫁取り譚】
 大和に入ったニギハヤヒは、鳥見の豪族・ナガスネ彦の妹のミカシギヤ姫(御炊屋媛、三炊屋媛)を娶り、妻とし妃とした。このことを、旧事紀が「天照霊貴の太子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は高皇産霊尊の娘の萬幡豊秋津師姫栲幡千千姫命を妃とし、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が生まれた」と記している。

 「先代旧事本紀」は更に次のように記している。
 「饒速日尊便娶長髄彦妹御炊屋媛爲妃。令任胎矣。未及産時。饒速日尊既神損去坐矣。而不復上天之時矣。高皇産霊尊詔速飄神曰。吾神御子饒速日尊所使於葦原中國」。
 「」。

 ニギハヤヒは、政略結婚で同盟化し、戦わずして長髄彦を配下におさめた。ミカシギヤ姫は嫁してトミヤスビメ(登美夜須毘売)と名乗った。

 ニギハヤヒは筑紫から摂津・河内に東遷するまでに天道日女を、摂津あたりで活玉依毘売(陶津耳命の娘)、また勢夜陀多良比売(三島の湟咋の娘)、大和に入ったとき三炊屋姫(鳥見の豪族長髄彦の妹)と、合わせて4人の妃を娶っていることになる。各地の豪族らを懐柔して大和国に参画させるための政略結婚だったとみられる。
 古神社の縁起や伝承・旧事紀・記紀等の記述を継ぎ合わせて大歳(饒速日)尊の親族・姻族関係を整理しておく(略す)。古事記は、ニギハヤヒは三嶋の湟咋の娘勢夜陀多良比売を娶って生んだ子が伊須氣余理比賣命(御歳姫)としている。

【ニギハヤヒの命が三輪山麓に政庁を置く】
 BC101~102年頃、ニギハヤヒは三輪山麓に政庁を置いた。45歳の頃と推定される。ニギハヤヒが住まわれた場所は三輪山西麓の狭井川の畔で「出雲屋敷」と呼ばれているところと考えられている。ニギハヤヒの大和東遷は出雲、筑紫を出てから実に19年間をかけた長旅であった。

【ニギハヤヒの命の御子譚】
 先代旧事本紀に、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃とし、天上に天香語山命(あめかごやまのみこと)を生む」とある。先代旧事本記は次のように記している。
 「即ち遷りて大倭国鳥見白庭山に坐す。饒速日尊、長髄彦妹御炊屋姫を娶り妻と為す。宇摩志麻治誕生」。

 ニギハヤヒとミカシギヤ姫の間には、ウマシマジ(古事記/宇摩志痲治、書紀/可美真手(うましまで))が生まれている。天香語山尊(高倉下/尾張連、熊野連の祖)は、大和に東遷したときに連れているから、それまでに生まれていたことになる。イスケヨリ姫が生まれたとする説もある。イスケヨリ姫は事代主の命の子ともあり、この辺りは定かでない。
 天香語山尊(高倉下=尾張連・熊野連の祖)
 御子とされている天香語山尊(高倉下=尾張連・熊野連の祖)は、大和に東遷したときに連れているから、それまでに生まれていたことになる。旧事紀には、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は天道日女命を妃とし、天上に天香語山命を生む」とあり、大和に降臨する前に天香語山命が生まれている。旧事紀にはニギハヤヒが大和に東遷した時に同伴した人物に天櫛玉命と云う人物が居り鴨県主等祖としていることから、櫛御方命と天櫛玉命は同一人物とみられる。後々、鴨(加茂)一族から出た大神氏(大三輪氏)の後裔は朝臣として朝廷に仕え、代々、桜井市三輪の大神神社の斎主を継いでいる。
 宇摩志麻冶尊(可美真手命)、物部氏譚
 ニギハヤヒと長髄彦の妹・三炊屋姫の間に宇摩志麻冶尊(可美真手命)、後に神武天皇の皇后となる伊須気余理比売(媛蹈輔五十鈴媛命)が誕生する。桜井市三輪の大神神社の縁起や古事記による大物主大神の系譜をみると、大物主大神が摂津国陶邑の陶津耳の娘活玉依毘売を娶って生んだ子が櫛御方命で、その五世孫が大神神社の初代神主意富多々泥古(大直禰子)としている。宇摩志麻冶の命で物部氏の祖となる。

 旧事紀によれば、物部氏はニギハヤヒの次男宇摩志麻冶尊の後裔である。神武天皇の后となった御歳姫(伊須氣余理比賣命)は、宇摩志麻冶尊の異母兄妹である。ニギハヤヒや末娘御歳姫命を祀る天理市新泉町の大和神社も、10代崇神天皇時代に創建された古社で、日本大国魂大神を筆頭に八千戈大神、御年大神を祭神としている。日本大国魂大神はニギハヤヒ、八千戈大神はスサノオで、御年大神(御歳大神=伊須氣余理比賣命)はニギハヤヒの末娘で神武天皇の后である。

 御所市東持田字御歳山に在る葛木御歳神社では、御歳神を主神として祀り、大年(歳)神、高照姫命が配祀されている。この神社についての古い記録では「新抄格勅符抄」の天平神護元(765)年条に、「御年神十三戸、大和三戸、讃岐十戸」とある。御年神とは葛木御歳神社のことで、大和(大和神社)、讃岐(金刀比羅宮)よりも上位に列せられている。葛木御歳神社は、仁寿二(852)年には当時大和国で最高位の正二位の神階を贈られ、延喜式神名帳では名神大社に列していることから初代神武天皇の后を主祭神として祀る神社として相応しい。古事記は伊須氣余理比賣命、書紀は媛蹈鞴五十鈴媛と書いているが御歳姫が本名とみられる。

 八尾市太子堂大聖勝軍寺境内には、物部守屋の首を洗ったと伝える守屋池と守屋の墓などがあり、隣接の藤井寺市惣社には志貴県主神社がある。この附近はニギハヤヒ系譜につながる志貴県主(後の物部氏)一族が古墳時代より物部氏一族の本貫地と推定される。雄略記に、「雄略天皇が生駒山を越えて河内の日下に来られたとき、山の上からはるか南方の地に志貴の大県主の大邸宅を発見し、地方豪族の身分で実にけしからぬと立腹、部下を遣わして詰問させた」旨の伝承がある。

ニギハヤヒ政治と事績
 「第4章大和始祖王/饒速日尊-3」その他を参照する。

 ニギハヤヒ政治は、出雲王朝来の「祭政一致」であった。いわば首長らに擁立され支えられた祭司王であり優れた調整役だったとみられる。即ちニギハヤヒ王権は諸国連合国家を作り上げており独裁国家ではなかった。ヤマト史には集団戦闘の跡と思われる遺跡や伝承がほとんどないのが裏付けている。古代和語の一つ一つの音はすべて意味を持っており、その音から意味が読みとれる。これにより「ヤマト」を解釈すると「ヤ=多くのもの」、「マ=まとまりとか、丸い」、「ト=安定とか、とどめる」とかの意味で「多くのものをまとめて安定化させる」という意味になり、「連合国家の中心」と解釈できるという。中国は史書に「邪馬臺国」とか「邪馬土国」と書いたが、これは「ヤマト」の当て字と考えられる。
 ニギハヤヒが大和の地で進めた多くの開発や都造りに向けた事績は次の通りである。
 1、大和と河内を結ぶ大動脈、大和川の開鑿。これにより、奈良盆地と大阪方面との物資輸送の一大幹線路が切り開かれた。出雲から九州、そして中四国、瀬戸内までの地理経験をもつニギハヤヒは、山に囲まれた大和の閉鎖性に対して河川整備を優先させた。奈良と大阪を結ぶ大動脈は何と云っても大和川だった。関西線開通によって使命を終えるまでは、奈良盆地と大阪方面との物資輸送の一大幹線路の役割を担っていた。大和川の開鑿は、やはりニギハヤヒ時代に着工されたとみられる。
 2、山の辺の道を南に辿ると、金屋に日本最古の市場海柘榴市がある。これも三輪山の麓を流れる大和川、初瀬川の水路終点に開かれている。初瀬川の水路も海柘榴市も、大神神社の地にニギハヤヒの館があったことに関連して開鑿されたのに間違いない。 この海柘榴市は、その後もずっと栄えた歴史がある。607(推古天皇15 )年、遣隋使小野妹子を送って来朝した隋の使者裴世清らは難波から大和川をのぼって海柘榴市に上陸したことが記されている。日本最古の道、最古の市場、初瀬川の水路が、みな大神神社を起点としている。ニギハヤヒの宮殿を中心に手足の如く発展していった古代の様子が彷彿と甦ってくる。今に伝わるこれらの偉業は武勇のみならず、政治手腕、その指導力も抜群だったニギハヤヒの並々ならぬ才能の一端を我々にありありと見せてくれていると云う。
 3、稲作の指導。食糧の確保。都造りに情熱を注いだニギハヤヒは、そればかりか住民の日々の暮らしにも細かく心を配っていた。稲の生育、その稔りを表す歳という名で呼ばれたほどの彼は、米作りに尽力した証は島根県三刀屋町に1800年も経ったいま尚、彼の名前のついた「大歳新田」が残っている。
 4、養蚕、機織り。
 5、食糧の確保とともに古今東西を問わず人々の関心事は病気の平癒、健康問題である。和漢方とも云うべき医薬による予防医学、病気の平癒にも取り組んだ。今から1200年も前に編纂された「大同類聚方」に、大歳神社に伝わる薬が記載され、その製法や効能が述べられているという。それら薬草や薬の製法は、出雲王朝以来のものであろう。

 大神神社では毎年4月18日に鎮花祭が行われている。神前に薬草を供え、春の花散る頃、人々の一番気のゆるむこの時期、疫病の発生を鎮める有名なお祭りである。この起原は遠く崇神天皇の時代に遡るという。疫病が流行したそのとき、天皇は早速、大王の神前に「忍冬=ニンドウ」、百合根」などの薬草を供えて祈られた。それが今日まで絶えることなく続けられているのが鎮花祭である。崇神天皇が薬草を供え大神神社に祈られた背景にニギハヤヒの事績があったからに違いない。ちなみに今から1200年も前に編纂された「大同類聚方」に、大歳神社に伝わる薬が記載され、その製法や効能が述べられている。それら薬草や薬の製法は、おそらくニギハヤヒ時代に開発されたに違いないとみられている。
 「崇神天皇の治世のとき、恐ろしい伝染病が流行った。天皇は深く神を祀って尋ねたところ、大物主神(ニギハヤヒ)が現れ、「病が流行るのは私の憂き心の現れだ。大田田根子を召して私を祀れ。さすれば祟りは消え国に安寧がもたらされるだろう」と。「天皇は早速、大田田根子を探し、神主として御諸山(三輪山)で祀ると、たちまち伝染病は消え去り、世間は平穏を取り戻した」という逸話が古事記にも記されている。大物主神の祟りを恐れ、神を崇拝した御真木入日子印恵命が、後に第10代崇神天皇と称されるようになった訳が頷ける。

 6、桜井市三輪にある大神神社(祭神大物主=饒速日尊)の社紋は、いまの皇室と同じ「菊の御紋」である。ところで警察の紋章も菊をかたどった紋章である。ニギハヤヒの末裔、物部氏は代々天皇家の祭司、警備・警察の役割を担ってきた歴史がある。皇室の「菊の御紋」や警察の紋章の起原はここにあったことを知らされる。


【「秀真伝(ほつまつたえ)」の名文】
 古史古文の一つの「秀真伝(ほつまつたえ)」は、古代大和ことばで綴られた一万行に及ぶ叙事詩で、縄文後期中葉から弥生、古墳前期まで約一千年の神々の歴史・文化を今に伝えている。作者は、前半「天の巻・地の巻」を櫛甕玉命が、後半の「人の巻」を大田田根子(饒速日尊の後裔)が編纂し、景行天皇(213-298年)に献上したものとされている。櫛甕玉命(櫛御方命)は饒速日尊の御子で、大田田根子(大直禰子)は饒速日尊の七世とみられ、崇神天皇時代以来の大神神社の齋主(神主)である。「秀真伝(ほつまつたえ)」に登場する天照神は男神であり、記紀と異なっている。その天の巻に、「天照神の詔のり」という一節がある。現在文に読み下すと以下の文になっているとのことである。
 「よくよく思えよ。命と云うものは身の宝である。これを諺にするとよい。萬世の君も命はたった一つで取り替えることはできない。寿命をまっとうしないで神上がるときを待たずして死ねば、魂の緒は乱れ苦しみ、天界の宮居に復帰することはあたわない。寿命を保ち天に還るときは、楽しみながら身罷ることができるであろう」の前文の次にココナシ(菊)の諭しの言葉が続く。「菊のように美しく清らかな心身となって罷るのが一番よい。清らかな御食を食し、万歳の長寿を得れば、身罷るときの匂いも菊の匂いになるというものである。遺骸はすぐに神々しい神の形となる。穢れた肉を食べていれば死んだとき匂いも臭く、魂の緒も乱れて苦しんでしまう。それを解くには祓いと日の霊気がよい。菊は日月の霊気を両方兼ね備えた植物であるので、食べれば目が明らかとなり、天御祖神の瞳と感応して、天界に帰幽することができる。天の道に従い、清らかな食物を食む人は神が相求める。それゆえ古来から菊を愛でる風習があるのです」。

 桜井市三輪の大神神社(祭神:大物主=饒速日尊)や天理市布留町の石上神宮は皇室と同じ「菊の御紋」を掲げている。

(私論.私見)
 「秀真伝(ほつまつたえ)」が、ニギハヤヒの命王朝をそれなりに伝えている点で貴重な史書であることが分かる。なお、「 桜井市三輪の大神神社(祭神:大物主=饒速日尊)や天理市布留町の石上神宮は皇室と同じ『菊の御紋』を掲げている」ことからすれば、「菊の御紋」も又ニギハヤヒの命王朝以来のものである可能性が強い。日本の国名由来然りで、まことに興味深い。

 2013.5.7日 再編集 れんだいこ拝

【オオトシ(ニギハヤヒ)の暦の始まり】
 ニギハヤヒが大和に入ってからの功績の一つに「暦の始まり」がある(伴昌広氏説)。唐古・鍵遺跡の中心と考えられる祭祀遺構に鶏と見られる土製品が出土している。この地から冬至の日に三輪山の山頂から昇る朝日を見ることができるから、当時の人々が冬至の日に出てくる太陽を崇めていたことを意味する。唐古・鍵遺跡が巨大化し始めたのがニギハヤヒが入った弥生中期末頃と判断されているから、ニギハヤヒは農耕のための暦も広めたのではないかと推定する。国家を平和的に維持するには農業、特に稲作は重要な要素である。大和盆地で稲作りの作業時期を日の出の方向から判断できるようにしたのではないかと云う。当時、一年で一番重要な日は冬至の日だった。太陽が最も南から昇りこの日を境に太陽が復活して気候が温暖化する。ニギハヤヒは三輪山の山頂から太陽が昇ってくる姿を好んだ。冬至の日に三輪山々頂から太陽が昇ってくる位置に唐古・鍵遺跡の小さな集落があった。ニギハヤヒはこの位置に祭礼施設を造って祭礼行事を行い、それを元に農業を指導した。また三輪山の形を日本国のシンボルとしていろいろな祭器に刻み込ませた。これがノコギリ歯のように連続する三角形の文様で、弥生時代から古墳時代に盛んに行なわれ土器、銅鐸、鏡、古墳の壁画などにみられる鋸歯紋の始まりとみている。

 つい最近のこと、オオトシ(ニギハヤヒ)の生まれ故郷でもある島根県の宍道湖近辺に住む方が、長老が語った話として「出雲の住人は古来、朝日が昇ってくると、お日さまに向かい拍手を打って拝む習わしがあった。また人に逢うと、『お日さまが上がらっしゃいました』。また夕方には『お日さまが沈まりまっしゃいました』、というのが挨拶言葉だった」という話を聞いたことがある。太陽をこよなく愛し崇めたオオトシ時代からの名残知れない。


【ニギハヤヒの東海、関東地方遠征】
 ニギハヤヒの東遷は、「河内・大和以東を統一せよ」とのスサノオの遺命の遂行だった。日本国の基盤固めに15年ほどを費やした。ニギハヤヒが河内・大和に新技術を普及した結果、住民の生活が見違えるように変わった。ニギハヤヒは、三炊屋姫との間にできた宇摩志麻冶命、天道日女に生ませた天香語山(亦の名高倉下)が成長した頃、東海・関東地方に遠征した。それぞれの国を回り、住人に新技術を伝授し「日本国ヤマト」の連合政権入りを誘った。多くの国々は次々と日本国に加盟した。東海・南関東をも連合に漕ぎ着けた後、東北の秋田あたりまで遠征した様子が秋田の唐松神社(秋田県大仙市境字下台)の伝承に残っている。松山天日宮の伝承について物部文書によると、「物部氏祖神である饒速日命は鳥見山(鳥海山)の潮の処に天降った。その後、逆合川の地・日殿山(唐松岳)に日の宮を造営し、大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀った。延宝八(1680 )年に藩主佐竹義処により、山頂から現在地に遷座。今でも唐松岳に元宮がある。饒速日命の居住した場所は御倉棚と呼ばれ、十種神宝を納めていた三倉神社のある場所。饒速日命は当地で住民に神祭・呪ない・医術を伝え、後に大和へ移った」とある。秋田市南東部、御所野台地の南端の地蔵田遺跡から、弥生時代の遠賀川系土器が多数出土しているという。
 
 これに応じて出雲式の方形周溝墓が急速に広まっている。方形周溝墓は、出雲・吉備辺りから起こったとみられる古墳の型式で、考古学では弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達し、その後、中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がったとしている。墓制の普及が、ニギハヤヒの版図拡大を裏付けている。

【「倉橋日出夫氏のニギハヤヒ考」考】
 倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の「ニギハヤヒの正体 謎の人物の背後には、邪馬台国が隠されている」を参照する。
 日本の古代史で、大和朝廷の成立以前に日本を支配していた王とされる饒速日(ニギハヤヒ)という人物は謎の存在。天の磐船で天から降り、河内や大和のあたりを支配した。九州から東征してきた神武が大和平定の最後に戦ったのがこのニギハヤヒ。実際はニギハヤヒの家来のナガスネヒコが直接の相手になる。戦いは長引いてなかなか決着がつかなかった。しかし、終盤になり、戦いの最中に急に空が暗くなって雹(ひょう)が降り始め、金色のトビがあらわれる。このトビが神武の弓の先に止まると、その光のためにナガスネヒコの軍は幻惑される。ナガスネヒコはここで神武に使者を送る。「私は天から降られたニギハヤヒの命に仕えていますが、いったい天神の子はふたりおられるのですか。どうして天神の子と名のって、人の土地を奪おうとするのですか」。それにたいして神武は答える。「天神の子は多くいる。もし、お前が仕えている人が天神の子なら必ず天のしるしのものがあるから、それを示しなさい」。そこで、ナガスネヒコがニギハヤヒの天の羽羽矢(ははや)などを見せると、神武はそれが偽りでないのを認め、自分も同じものを示す。ナガスネヒコはここで急に腰砕けのようになる。今度はいきなりニギハヤヒその人があらわれ、「性質のねじれたところのある」ナガスネヒコをみずから斬り殺し、あっさりと神武に帰順し、支配権を譲る。まるで「出来レース」のよう。ニギハヤヒの存在は、すでにある正当な勢力が大和に存在していたことを物語っている。神武はその勢力を認めざるを得ず、打ち負かすことはできない。そこで、出雲の国譲りと同じように、神武はニギハヤヒから大和の支配権を譲られる。記紀では、ニギハヤヒは大和の最初の支配者のように描かれているが、どうも朝廷側の意向に沿って作為的に創られた人物のように見える。記紀の編者たちは、邪馬台国や卑弥呼の名前を徹底的に隠そうとしている。現在の考古学の知識をもとに、日本の古代の年表を可能なかぎり作成してみると、3世紀の終わりごろから始まる三輪王朝の直前には、女王卑弥呼や台与の邪馬台国が大和盆地に存在していたと考えられる。東征物語では、神武はニギハヤヒから王権を譲り受けている。神武の前に大和を支配し、王権を築いていたのはニギハヤヒだった。古代の年表からいえば、三輪王朝の前は邪馬台国が存在していたはず。卑弥呼や台与の女王国があったはず。しかし、邪馬台国や卑弥呼の名前は東征物語には出てこない。これが記紀の編者たちの一貫した姿勢である。ニギハヤヒが大和を支配していたことは記している。

 記紀によれば、ニギハヤヒは物部氏の祖先とされているが、物部氏の氏族伝承を伝えるといわれる先代旧記本紀(平安初期成立)によると、ニギハヤヒは物部一族を連れて天の磐船で空を駆け巡り、河内国のイカルガノ峰に天降ったという。河内国のイカルガノ峰というのは、東大阪市の生駒山付近。神武の軍勢がいったん大和川沿いに大和に侵入しようとしたとき、ニギハヤヒの家来のナガスネヒコに撃退されたのが東大阪市日下(くさか)町付近。この日下町には石切剣箭(いしきりつるぎや)神社という古社があり、現在も、ニギハヤヒを祖神として、直系の神主が百代以上に渡って仕えているといわれている。ニギハヤヒの本拠地は本来このあたり。一方、ニギハヤヒについてはもう一つの伝承が残されている。「卑弥呼の名のある系図」のところで紹介した天橋立の籠神社に伝わる「海部氏系図」という国宝の系図によると、ニギハヤヒは河内の国に天降ったあと、大和国の鳥見(とみ)の白辻山(生駒山付近)に移ったという。そこでナガスネヒコの妹と結婚した。
これにより、ニギハヤヒは生駒山の河内側から大和側の鳥見(登美)に移った。これは大和川を見下ろす地点を大阪側から奈良側に移ったことになる。つまり、大和と河内を結ぶ大和川沿いを押さえていたことを意味している。神武の軍勢が大和に侵入し、大和内を平定していく過程での三輪山付近の戦いが、はっきりそれとわかるような形では記されていない。磯城や葛城、天理市付近を押さえたことは述べられているが、ほかはよくわからない。ナガスネヒコとの戦いも、古事記には「トミのナガスネビコ」とか「トミビコ」とあるように、鳥見(登美)の勢力との戦い。つまり大和盆地西部がその舞台だった。ニギハヤヒは大和の支配者のように扱われているが、実は大和の中心的な地域を押さえていない。神武天皇はじつは東征に出発する前からニギハヤヒの存在を知っている。「東の方によい土地があり、青い山が取り巻いている。その土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。その場所に天の磐船に乗って降りてきたのは、ニギハヤヒだろう」と語っている。

  ニギハヤヒの子孫である物部氏は、もともと河内国の渋川郡あたりを本拠地としている。大和川沿いの河川・陸上交通の要衝を押さえたことで大和にも勢力基盤を拡大した(日本古代史事典)。つまり、河内に天降り、大和に移ったニギハヤヒと同じ。物部氏はやがて石上神宮の管理を受け持つようになり、武力的な性格のほかに祭祀的な性格が備わり始める。その後、6世紀末には勢力が一挙に衰えるが7世紀後半ごろから復活し、7世紀末(天武13年)には朝臣姓を与えられる。このころに氏族名を物部から石上と改めたよう。それからは石上朝臣として律令制下で大きな勢力となっていく。7世紀末から8世紀初めという大和朝廷によって中央集権化が進む段階、ちょうど古事記や日本書紀が出来あがってくるときに、物部氏は朝廷内で大きな発言力をもっていた。その氏族の祖先の名が「ニギハヤヒ」として記紀に残されている。島根県大田市に石見国一ノ宮の物部神社がある。ニギハヤヒの息子の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)を主祭神とする神社で、6世紀の継体天皇の勅命によって創建されたと伝えられている。

【「大和国建国の始祖王史祖ニギハヤヒ(大歳)」考】
 「大和国 建国の始祖王・大歳(改名・饒速日)尊」は「記・紀に史実を消された須佐之男尊・饒速日(大歳)尊」の項で次のように記している。れんだいこが同意できる下りを引用転載する。
 7-8世紀、百済系王族に乗っ取られた飛鳥朝廷のもと、黒幕・藤原不比等の監修で編纂された記紀は、スサノオの創った和国、ニギハヤヒの日本王朝・大和国の古代史を抹殺してしまった。記紀編纂の途中、持統天皇(百済・武王=舒明天皇の孫娘21))は都合よく整合するため、691年、日本で最も古いとされる大神神社(おおみわじんじゃ)と石上神宮(いそのかみじんぐう)の古文書をはじめ、豪族16家の系図を没収、抹殺してしまった。スサノオ・ニギハヤヒを祀っていた全国の多くの神社の縁起や祭神名も書き換えさせられた。また江戸時代以降の日本政府は、太平洋戦争の終結まで皇国史観に拘り、中国、朝鮮半島王朝支配の史実を隠した。しかし、記紀の成立以前に創建された多くの神社や地名が生きた化石として残っている。その縁起や伝承、古史・古文が史実を今に伝えてくれる。新たに発掘される考古資料、C14(放射線炭素)を駆使した遺跡・遺物の年代特定、そしてコンピュータ画像解析による墓碑銘の解読が、謎の弥生時代を甦らせてくれつつある。

 つい最近まで、記紀を基にして作られた日本の歴史を、私たちは正しいものと思い込んで学んできた。痛いほどそれを知った今の我々にして、なお巧みに創作された記紀はじめ、それに基づいて書かれた書物に囚われ続けていることが、弥生の覇王・スサノオ・オオトシ(ニギハヤヒ)一族はもとより国民にとっても悲劇である。百済からの仏教伝来で、天平勝宝元(749)年、国内の銅を尽くして聖武天皇が建造されたた奈良東大寺の大仏。国をあげての開眼供養から千二百年余。その大仏は今なお日本のシンボルでもある。その栄光の陰に、我々は日本の生みの親、偉大な覇王・スサノオ・ニギハヤヒの名声没落の経緯が秘められていることに気づかされる。






(私論.私見)