ニギハヤヒの命の日の本王朝譚考

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.18日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 記紀は、皇統譜上、神武東征譚を正統化する立場から記述している。そういう訳で、神武東征の際に河内から大和一体にかけて存在していた先行的王朝を否定的に取り扱っている。しかし、この記述方法では歴史の真相が見えてこない。

 先行的王朝とは、記紀に記すところの高天原王朝天孫族の来航よりも早く、どこから来たのか不明とされている外来系のニギハヤヒの命一行が生み出した河内王権のことである。れんだいこは、ニギハヤヒ族を出雲系と見立てている。それはともかく、そのニギハヤヒ族が、国津族の地元のナガスネヒコ王権と同盟して国づくりしていた。これを仮に「プレ邪馬台国大和の河内王朝」と命名する。「プレ邪馬台国大和の河内王朝」は連合政権であり、出雲王朝的和平的な国づくりをしており、この政権に何の咎も認められない。この国津系の「プレ邪馬台国大和&河内王朝」に対する殴りこみとして来航系の神武派が来襲する。国津族系「プレ邪馬台国大和&河内王朝」と来航系「高天原天孫族騙り王朝」との戦いの様子は神武東征譚で見るとして、ここでは「プレ邪馬台国大和&河内王朝」について考証しておく。

 「大和の国建国の始祖王饒速日(大歳)」その他を参照する。但し、情報が錯綜しているので、れんだいこ史観により整理し直し再編成を試みることにする。2014.1.14日、「日本建国史の復元」の「大己貴(大国主)の国造り」に出くわし、これを参照しつつ書き加えることにした。

 2008.4.14日、2013.1.13日再編集 れんだいこ拝


【ニギハヤヒの命の天下り譚】  
 ニギハヤヒの末裔・物部氏の氏族伝承を伝えるといわれる先代旧事本紀によると、ニギハヤヒは物部一族を連れて天の磐船で難波津(大阪湾)から古代の大和川をさかのぼり、磐船越(いわふねごえ)で大和に入った。大阪府と堺をなす生駒連峰の中心の生駒山を越えるには大和と河内を結ぶ磐船越が古代から通じていたという。ニギハヤヒは神武東征以降の皇統とは別系統の恐らく出雲王統系であり、神武東征以前に摂津、大和に先住していたことは間違いないように思う。
 
 こうして、河内国のイカルガノ峰(哮峰、現在の大阪府交野市私市の哮ケ峰、東大阪市の生駒山付近)に天降った。秀真伝(ほつまつたえ)は、飛鳥に降臨したのはニギハヤヒではなく養父のホアカリだと記している。記紀神話が触れない下りであるが、貴重記述と拝したい。

 日本書紀の神武天皇即位前記に次のような記述がある。
 「(日向国に狭野の命が住んでいた頃、しお土の老翁(おじ)に聞きとして)東に美き地有り。青山四周(よもめぐ)れり。その中に叉天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降りる者有り。(中略)その飛び降りるという者はこれ二ギ速日と謂うか」。
(私論.私見)
 ニギハヤヒの末裔・物部氏の氏族伝承によれば、ニギハヤヒは物部一族を連れて河内国のイカルガノ峰(哮峰、現在の大阪府交野市私市の哮ケ峰、東大阪市の生駒山付近)に天降りの後に大倭国(やまとのくに)の鳥見(とみ)の白庭山に遷り「太虚見つ日本(ひのもと)の国」を創始し、これより日本(ひのもと)国と命名されるようになったとのこと。即ち、日本国の由来がこれより始まると云うことになり味わい深い。

 2013.5.7日 再編集 れんだいこ拝

【日本の命名考】
 「先代旧事本紀」の「巻第三 天神本紀」は更に次のように記している。
 「饒速日尊禀天神御祖詔。乘天磐船而天降坐於河内國河上哮峯。則遷坐大倭國鳥見白庭山。所謂乘天磐船而翔行於大虚空。巡睨是郷而。天降坐矣。即謂虚空見日本國是歟」。
 「ニギハヤヒの尊は、天つ神の御祖(みおや)の詔(みことのり)を受けて、天磐船(あまのいわふね)に乗りて、河内国の河上の哮峯(いかるか、又はたけるが)の峯(みね)に天降ります。則(すなわ)ち、大倭国(やまとのくに)の鳥見(とみ)の白庭山に遷ります。いわゆる、天磐船に乗り、大虚空(そら)を翔行きて、この郷を巡りみて、天降り坐す。すなはち、『虚空見日本国』(そらみつやまとのくに)というは、是(これ)か」。
 トミ=鳥見、登美。奈良市富雄町と比定されている。
 先代旧事本紀は次のように記している。
 「この命、天磐船に乗り、天より下り降りる。虚空に浮かびて遥かに日の下を見るに国有り。よりて日本(ひのもと)と名づく」。

 日本書紀の神武天皇の条の末尾に各種の国号が列挙され、その中に次のような記述がある。
 「ニギハヤヒの尊、天磐船(いわふね)に乗りて太虚(おおぞら)をめぐりて、この郷(河内の国)を睨(おせ)りて降りたもうに至るに及ぶ。これより名付けて、太虚(そら)見つ日本(ひのもと)の国と云う」。

 これによれば、ニギハヤヒが生駒山を越えて大和に入ったとき、空から見た日本の国を見て「日本」と命名していたことになる。即ち、大和を日本(ひのもと)国と命名したのはニギハヤヒの命であったと云うことになる。

 488年成立の中国の史書「宋書」は、日本から朝献に出かよけた者が云ったこととして、「倭國は本の倭奴國也。自らその國、日出ずる所に近きを以って、故に日本を以ちて名と爲す。或いは云う、その舊名を惡み之を改むる也」と記している。これより日本王朝大和国が誕生する。天磐船に乗って大空を駆け行き郷を巡り見て天下られた。ニギハヤヒが大和入りの際に名付けた日本はその後、幾多の政乱で王朝変遷や他国との戦いを経ながらも日本の国名として今に愛用されていることになる。

【ニギハヤヒの命の日の本王朝こそ真の日本始め考】
 れんだいこのカンテラ時評№1141 投稿者:れんだいこ  
 投稿日:2013年5月9日
 ニギハヤヒの命の日の本王朝こそ真の日本始め考

  2013.5.6日れんだいこブログ「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考」をものした。特段の反応がないので、今度こそは思い知らせて見ようと更なる「歴史の紐のもつれを解く通説批判説」をしておく。「ニギハヤヒの命の日の本王朝こそ真の日本始め考」と題することにする。内容は、日本の国名、国旗、国歌、国紋、元号の由来を問うものである。

 れんだいこの新説は、日本の国名も、日章旗としての日の丸も、国歌としての君が代も、皇室御紋としての菊花弁も、恐らく元号も、記紀神話のみに拠らず、いわゆる古史古伝をも併せて理解すれば、大和王朝に先立つ、少なくともニギハヤヒの命王朝以来のものであり、大和王朝は、これらのどれをも継承したものである。なぜならどれもが、そのできばえが優れものであったが故であるように思われる。

 通説では、国名も国旗も国歌も皇室紋としての菊花弁も大和王朝の御代になって初めて自生したものと説く。果たしてそうであろうか、大和王朝以前の出雲王朝―ニギハヤヒの命の日の本王朝―邪馬台国王朝の頃より始まるのではなかろうかとの疑問を投げておく。これを確認するのに次のような論になる。

 国名の由来は、(略)。国旗の由来は、(略)。国歌の由来は、(略)。皇室紋としての菊花弁の由来は、(略)。(この下りにつき別章【日の丸、君が代、元号、菊の御紋考】に記す)
 marxismco/minzokumondaico/hinomarukimigayoco/hinomaruk
imigayoco.htm


 こうなると、日本左派運動式の国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判は「ちょっと待て」と云うことになる。れんだいこ史観によれば、ニギハヤヒの命の日の本王朝は国津出雲系であり、大和王朝の始祖たる外航系神武軍によって滅ぼされている。とはいえ、事情は定かではないが、神武王朝は、ニギハヤヒの命の日の本王朝時代の遺制としての国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋を継承した。

 こうなると、国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判を為すに当っては、ニギハヤヒの命の日の本王朝即ち三輪王朝の政体検証抜きには批判し切れないのではなかろうか。この辺りの検証抜きの国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋批判は安逸過ぎるのではなかろうか。これも歴史ジレンマの一つであろう。

 この問題な対するれんだいこの「解」は、「悠久の国体論」を媒介させることで解き明かすことにしている。即ち、国名、国旗、国歌、元号制、菊の御紋は大和王朝の専属にあらず、それより以前の「悠久の国体」に帰属しているとして、よほどのことがない限り継承すれば良いとしている。なぜなら、そのどれもがデキが良いからである。世界に誇る日本文明の財産足り得ているからである。但し、そうであればあるほど、それらは振り廻したり排除したりするものではなく、いわば味わうべしとしたい。即ち、時、所、局面構わず礼賛されるべきものではなく節度こそが肝要と云うことになる。

 従来の「悠久の国体論」は皇国史観に基づく大和王朝論より派生せしめられてきているものである。これにより神武東征譚を賛美し、好戦化するよう仕向けている。これを仮に「狭量の誤れる国体論」と命名する。それに対し、れんだいこの国体論は、国体論そのものに批判のメスを入れるのではなく、国体論を真に相応しく大和王朝以前の日本の国家の起源来のものとして位置づけ継承しようとしている。それは好戦化するようなものではなく神人和楽的な共和思想を生みだすものである。この差が御理解賜れるだろうか。

 思えば、北一輝の国体論も、その思想に共鳴した2.26皇道派将校のそれも、「狭量の誤れる国体論」によって導かれたことで躓いたのではなかろうか。昭和天皇の聖断を仰ぎ、期待とは全く異なる聖断を浴びることで殉死を余儀なくされたが、国体思想の受け取り方の間違いによる悲劇としても見るべきではなかろうか。特記しておくべきは、「国体思想の受け取り方の間違い」は今も続いていることである。そういう意味で賢明なる国体論の構築が待たれていると云えよう。
 ところで、通説は次のようなものである。これを確認しておく。
 「なぜ「日本」は「ヤマト」と呼ばれたのか…意外と知らない「国の名前」をめぐる意外な歴史」を転載する。
 日本文化はハイコンテキストである。  一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する! 
 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
 国号「日本」の成立

 ニホンかニッポンか、どう発音するかはべつとして、「日本」という国号はどこで決まったのかというと、7世紀後半から8世紀あたりです。それまでは「倭」です。自称していたわけではなく、中国の歴史書の『後漢書』倭伝、『魏志』倭人伝、『隋書』倭国伝などが、日本のことを「倭」と、日本人を「倭人」と示したので、それに従っていたのです。「倭の五王」のように中国の皇帝から将軍名をもらっていた時期もありました。当時の倭国は、朝鮮半島の百済や半島南端の加羅(加耶)諸国と軍事的にも交易的にもアライアンスを結んでいて、独立国家というほどではなかったのだろうと思います。それが百済に軍事的支援を頼まれ、倭国は663年の白村江の海戦に臨むのですが、そこで新羅と唐の連合軍に完敗してしまった。これでいよいよ自立の道を選ぶことになったのです。ここから日本が一国として組み立っていくことになります。斉明天皇から天智天皇にバトンタッチがされた時期でした。このときに「日本」という国名がほぼ決まっていったと思われます。『三国史記』新羅本紀には「六七〇年に倭国が国号を日本に改めた」と記されていた。ということは、天智天皇の治世が新たな世のスタートであることを示すために、(とくに唐に対して)「天皇」表記と「日本」表記とをほぼ同時に決めたのだろうと思います。律令としてこうした表記が制度化されたのは701年の大宝律令でのことでした。だから制度史的には「日本」という国号は701年に成立したのです。

 なぜ日本がヤマトなのか?

 こうして日本が「日本」国を名のるのは八世紀前後だったということなのですが、その後の天武天皇以降の時代に『古事記』や『日本書紀』を編纂していくなかで、そこに「日本」という表記が貫かれていたかというと、そうでもありません。記紀神話には日本のことを「葦原中国」とか「豊葦原」とかと記しています。これは国号というより、「水辺に葦が生い繁っている豊かなわれらが国」という意味です。「秋津島」とか「大日本豊秋津島」というふうに表記されることもある。これは本州のことです。本州・四国・九州・隠岐・壱岐・対馬・淡路島・佐渡をまとめて「大八島」「大八州」(おおやしま)と言っていました。八つの島から成っているという意味です。記紀の「国生み」の場面で生み出された島々です。そのほか「瑞穂国」という言い方もしている。こちらは稲穂が稔っている様子から付けたもので「お米の国」とみなしたからです。五円玉がその様子をデザインしています。平成14年、第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行が合併したとき、この瑞穂を行名に選んで「みずほ銀行」が誕生した。 倭にはじまって瑞穂国にいたるまで、そうしたいくつかの呼称を示しつつ、だんだん「日本」という表現が確定していくわけです。けれども、その日本はニホンやニッポンとは読まなかった。どう言っていたのか。「やまと」と称んでいたのです。日本と綴ってヤマトと訓読みしていたのです。

 私たちはいまでもいろいろな意味で「大和」という言葉をつかいます。大和朝廷、大和政権、大和ごころ、大和魂と言いますし、奈良はずっと「大和の国うるはし」です。そのほか倭媛、大和絵、大和三山、大和人形、大和撫子、大和川、大和郡山、大和煮、戦艦大和、大和文華館、クロネコヤマト、宇宙戦艦ヤマト……などとつかってきた。大和はいろいろなところに顔を出しています。大和をダイワと読むと大和ハウスや大和書房や大和自動車交通や、大和證券やかつての大和銀行など、もっとたくさんの大和が目白押しになる。

 ある時期から、この大和に「日本」という漢字をあてました。日本と綴ってヤマトと読ませた。なぜ日本が大和なのか。もともと日本をヤマトと訓んでいたのでしょうか。すでに述べたように、ヤマトには古くは「倭」という漢字があてられていたはずです。「倭」という文字は「委ね従う」とか「柔順なさま」という意味をもつ漢字で、中国人が古代日本人の様子や姿恰好や行動からあてがった暫定的な当て字ですが、渋々というより、まだ漢字の意味を十全に理解していなかったわが祖先たちは、自国を「倭」と称します。のちに学識豊かな公家の一条兼良がこの説を採っています。一説には、日本人が自分たちのことを「わ」(吾・我)と言っていたからだともいいます。この説は平安時代の『弘仁私記』に書いてある。また江戸の儒学者の木下順庵は「小柄な人々」(矮人)だったので、倭人になったという説を書いています。

 ところが、この「倭」を日本側(朝廷)は「ヤマト」と読むことにした。八世紀の天平年間のころには「和」の文字が定着し、そのうち日本国のことを「大和」「日本」「大倭」などと綴るようになったのです。どうしてヤマトという呼称が広まったかといえば、初期の王権の本拠が奈良盆地の大和の地にあったからで、やがてそれが畿内一帯に広がり、さらには日本国の呼称を代行するようになったからだと思われます。ヤマトを地理的に一番狭くとれば、大和は三輪山周辺のことをさします。語源的にいえば、もともとヤマトは「山の門」です。奈良盆地から大阪側を見ると連綿と続く笠置山・二上山・葛城山・金剛山と続く山々を眺めていた大和人たちが、自分たちの土地を「山の門」と言いあらわしたのでしょう。ここに大和政権が誕生し、飛鳥・藤原・奈良時代がくりひろげられた。それで国の名をヤマトにした。そういう経緯だったのだと思います。
 奈良時代の次は平安時代ですが、そこは今度は山城国と称ばれました。ヤマシロとは「山の背」(やまのせ・やまのしろ)のことです。平安京からすると、あの奈良の山々が背になったのです。山城国は山背国であったわけです。  こうして奈良の朝廷が大和朝廷になり、その大和朝廷が律する国が「日本」になったわけでした。

 *さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。

【ニギハヤヒ命が日本王朝大和国建国】
 スサノオの生前からの念願だった河内・大和以東の統一を決意したニギハヤヒ一行は、船で難波津(大阪湾)から古代の大和川をさかのぼり、磐船越で大和に入った。大阪府と堺をなす生駒連峰の中心、生駒山を越えるには、大和と河内を結ぶ磐船越が古代から通じていた。ニギハヤヒの末裔物部氏が残した先代旧事本紀(以下、旧事紀と略記)や書紀に、「この命(ニギハヤヒ)、天磐船に乗り天より河内国の河上の哮の峯に下り降りる。そして大倭の国の鳥見の白庭山に移られた。天磐船に乗って大空を駆け行き郷を巡り見て天下られた。虚空に浮かびて遥かに日の下を見るに国あり。よりて日本国と名づく」とある。これにより、ニギハヤヒが生駒山を越えて大和に入ったとき「日本」を命名したことが判明する。ニギハヤヒが大和に入ったとき名付けた日本はその後、幾多の政乱で王朝変遷や他国との戦いを経ながらも、日本の国名として今に愛用されている。谷川健一氏は、「隠された物部王国日本」を著し、日本はいつ、誰によって併合されたのかを考証したが明確な指摘はできていない。

 中国史書「宋書( 488年成立)」の記述をみても、日本から朝献に出かけた者が云ったこととして、「倭國は本の倭奴國也。自ら其の國、日出ずる所に近きを以って、故に日本を以ちて名と爲す。或いは云う、其の舊名を惡み之を改むる也と」と書いている。ニギハヤヒがスサノオが建国した和国を引き継ぎ、版図を拡大し、連合和国を形成した。これにより日本王朝大和国が誕生した。

 ところで、東北の秋田県大仙市境字下台に唐松神社がある。境内にある唐松山天日宮の伝承について物部文書によると、「物部氏祖神である饒速日命は鳥見山(鳥海山)の潮の処に天降った。そのの後、逆合川の地・日殿山(唐松岳)に日の宮を造営し、大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀った。延宝八(1680 )年に藩主佐竹義処により、山頂から現在地に遷座。今でも唐松岳に元宮がある。

 饒速日命の居住した場所は御倉棚と呼ばれ、十種神宝を納めていた三倉神社のある場所である。饒速日命は住民に神祭、呪ない、医術を伝え、後に大和へ移ったという伝承を記している。こうして秋田(古くは飽田)あたりまでニギハヤヒの伝承が残っている他、秋田市南東部、御所野台地の南端の地蔵田遺跡から、弥生時代の遠賀川系土器が多数出土しているという。ニギハヤヒは、オオトシ時代に筑紫を統治していた。福岡県の遠賀川の河口辺りから東遷を開始したとみられる。

 古代和語の一つ一つの音は、すべて意味を持っており、その音から意味が読みとれるという。「ヤマト」を解釈すると「ヤ=多くのもの」、「マ=まとまりとか、丸い」、「ト=安定とか、とどめる」とかの意味で「多くのものをまとめて安定化させる」という意味になり、「連合国家の中心」と解釈できるという。

 中国の史書「三国志・魏書・東夷伝・倭人条」に、「邪馬臺国の女王卑弥呼云々」とある。年代はニギハヤヒの十世後裔時代のことである。その所在地について北九州にあったとする説もあるが、「ヤマト」と読めるし、後漢書には「倭面土国」という表記も見られ、これこそ「ヤマト」の発音を、中国風の当て字で表記したものといわれている。中国の知人によると「邪馬臺国」の「馬臺」は、放飼している馬を指揮、指示する臺(台)の意味だという。連合国の朝廷という意を込めての表字のようにもとれる。大和が日本という国家発祥の地となった。


【ニギハヤヒ命一族考】
 旧事紀はその時の氏族や部隊の面々の名前を克明に記している。その正確さは疑問であるが参考にはなる。これを確認する。
 天香語山命(尾張連等祖、饒速日尊の長男)、天鈿売命(猿女君等祖)、天太王命(忌部首等祖)、天児屋命(中臣連等祖)、天櫛玉命(鴨県主等祖)、天道根命(川瀬造等祖=紀氏の祖)、天神玉命(三嶋県主等祖)、天椹野命(中跡直等祖)、天糠戸命(鏡作連等祖)、天明王命(玉作連等祖)、天牟良雲命(度会神主等祖)、天背男命(山背久我直等祖)、天御陰命(凡河内直等祖)、天造日女命(阿曇連等祖)、天世平命(久我直等祖)、天斗麻彌命(額田部湯坐連等祖)、天背男命(尾張中嶋海部直等祖)、天玉櫛彦命(間人連等祖)、天湯津彦命(安芸国造等祖)、天神魂命(葛野鴨県主等祖・亦、三統彦命と云ふ)、天三降命(豊田宇佐国造等祖)、天日神命(対馬県主等祖)、乳速日命(広湍神麻続連等祖)、八坂彦命(伊勢神麻続連等祖)、伊佐布魂命(倭文連等祖)、伊岐志邇保命(山代国造等祖)、活玉命(新田部直等祖)、少彦根命(鳥取連等祖)、事湯彦命(取尾連等祖)、●意思兼神の児表春命(信乃阿智祝部等祖)、天下春命(武蔵秩父国造等祖)、月神命(壱岐県主等祖)等々。 

【ニギハヤヒに関係する神社その1、磐船神社】
 ニギハヤヒに関係ある神社を確認しておく。
 「Wikipedia磐船神社」、「磐船神社」。 
 磐船神社
 http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/index-j.html

 磐船(いわふね)神社は大阪府の東北部、交野市を南北に流れる天野川の渓谷沿い上流にある神社。大阪府交野市私市9-19-1。

 日本書紀や古事記によれば、物部氏の祖とされる饒速日(にぎはやひ)命が大和に降臨した際、大きな磐船に乗ってきたとされ、天野川を跨ぐように横たわる高さ12m、幅12mの船形の巨石(岩)が「天の磐船」(あめのいわふね)と考えられ御神体として祀られている。本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、南側(上流)に社務所がある。神社の起源は不明であるが、天照国照彦天火明奇玉神饒速日(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひ)の命(みこと) が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承がある。交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族の氏神であり、一族が深く関わっていたといわれている。 中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には神仏習合の影響が色濃く残されている。かつて修験の場でもあり、生まれ変われるという岩窟巡りが有名である。

 神社のすぐ横を磐船街道が通っている。 かつては国道168号線の一部であり、神社付近では道路幅が狭く、すれ違い渋滞の名所だった。川幅も巨岩が跨ぐほど狭く、過去にはたび重なる天野川の氾濫により、社殿・宝物などの流失が続き、防災上のネックとなっていた。1997(平成9)年に道路改良工事と河川防災工事が竣工し、磐船神社に入る手前で道路と河川がバイパスされ、道路は新磐船トンネルを、河川は天野川トンネルをくぐることとなった。神社付近は昔日の静けさを取り戻している。
 磐船神社は、天磐船に見立てられた巨石を御神体とする神社で、饒速日尊を祀る。延喜式内に列する神社ではないが、物部氏の祖神とされ、神武東征以前から祀られていた古社である。中世には生駒修験の北端の行場として栄え、現在でも岩窟巡りで有名な聖地である。拝殿の背後に御神体の巨石が聳えている。拝殿の左手には朱の鳥居と格子の扉があり、鍵がかかっている。岩窟巡りはここから入る。扉に「岩窟の掟」なるラミネートされた紙が結わえつけられている。なかなかに物々しい文面で赤字だらけである。天の岩戸に擬えられた巨石磐座があり、なかなか見応えがある。岩戸大神、白龍大神、登美毘古大神などさまざまな神々が祀られている。登美毘古大神はこのあたりの豪族の長で長髄彦のこと。日本書紀には、言うことを聞かない性格の歪んだ者とされ、当社の祭神である天孫、饒速日命に愛想をつかされ殺されたとある。磐座の脇にはオキ大神の石碑も独立して立っている。天岩戸宮の先にも巨石は続く。

 貝原益軒(当時60歳)は1689(元禄2)年、京都からの紀行文「南遊紀行」に次のように記している。

 「岩船とは大岩方十軒も有べし。船の形に似たり。谷に横たはり、其の外家の如く、橋の如く、或は横たはり、或は側立てる石多し。(中略)六月晦日には爰に参詣の人多しといふ。岩船の下を天の川流れ通る。奇境なり。凡大石は、何れの地にも多けれど、かくの如く大石の多く一所に集まれる所をいまだ見ず」。
 「岩窟修行終了 磐船神社御守護」神符。磐船神社については、大和岩雄氏が「日本の神々」に寄せた論考が秀逸。

 参考

 磐船神社略記

 「日本の神々-神社と聖地-第3巻 摂津・河内・和泉・淡路」谷川健一編 白水社 2000年


【磐船神社で死亡事故考】
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ61 」の不動明氏の014 年 9 月 26 日付投稿「物部の祖 天照國照彦天火明奇玉神饒速日尊の天之磐船天孫降臨の地 磐船神社で死亡事故 加美東(かみひがし)の方との事」を転載する。
 「岩窟めぐり」で転落死か 大阪の神社で女性死亡:朝日新聞デジタル
 http://www.asahi.com/articles/ASG9N76DVG9NP
TIL01N.html

  
 20日午前11時55分ごろ、大阪府交野市私市(きさいち)9丁目の磐船(いわふね)神社で、大阪市平野区加美東5丁目、介護士井崎真由美さん(42)が敷地の岩場で倒れているのが見つかった。頭を打っており、搬送された病院で死亡が確認された。同神社は岩場を歩く「岩窟めぐり」が「秘境スポット」などとして知られる。府警は井崎さんが岩の間に落ちたとみて調べている。交野署によると、井崎さんは、高さ約2メートルの岩の間にかけられた丸太橋(幅約20センチ、長さ約1・7メートル)の下で見つかった。井崎さんはこの日午前10時20分ごろに1人で入り、出てこないため宮司が捜していたという。磐船神社によると、岩窟は修験者の行場で、1933年に一般にも公開された。歩いて約20分のコースで年間約5千人が訪れるという。約10年前に参拝客がコースを外れて転落死する事故があったという。西角明彦宮司(50)は「安全対策を施すまで閉鎖する」と取材に述べた。

【ニギハヤヒに関係する神社その2、石切剣箭神社】
 ニギハヤヒに関係ある神社を確認しておく。生駒山麓の石切剣箭神社(東大阪市東石切町一番地一号)を確認しておく。通常、「おしきりさん・いしきりさん」と呼ばれ、祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命・宇摩志麻冶命を祀っている。櫛甕玉・彦天火明とは、ニギハヤヒの諡号「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」の略称である。主祭神は饒速日尊可美真手命である。社伝によると、「神武天皇紀元二年、宮山に饒速日尊を御祭神として上之社が建てられ、崇神天皇の御代に下之社(御本社)に可美真手命が祀られた」、「当社の祭祀は代々、木積家が司っているが、木積なる姓は本来、穂積といい饒速日尊の六代目にあたる伊香色雄命がこの穂積姓を初めて名のられて爾来、物部氏の一派として一氏族をつくり大和を中心として八方にその部族が蔓延している。その祖先である饒速日尊とその御子可美真手命を御祭神と仰ぎ、この土地に御霊代を奉祀し、本社鎮座となった」とある。ちなみに、生駒山の西側の中河内は、物部氏本宗のあった現在の八尾市(旧若江郡、渋川郡)を中心として、物部系氏族の一大居住地があり、物部系と考えられる式内社に、八尾市南本町の矢作神社(矢作氏、主祭神は経津主命)、八尾市の東弓削と弓削の弓削神社(弓削氏はニギハヤヒの後裔)、八尾市跡部本町の跡部神社(阿刀氏、祭神不詳)があり、その他物部系とみられる神社が多数ある。

【大和国のトミ入り】 
 中河内の石切剣箭神社の伝承では、「哮峯より直ちに大倭国鳥見自庭山(奈良県桜井市三輪山の南広範囲の地域)に遷ったとしている。ニギハヤヒは、天磐船に乗って河内国の生駒山の河上の哮の峯に天下られた後、大倭の国の鳥見の白庭山に移った。奈良盆地の北部の矢田丘陵から富雄川の東部の地であり、船で難波津(大阪湾)から古代の大和川をさかのぼり、磐船越で大和に入ったと思われる。

 この地一帯は、奈良時代には「登美郷」、和名抄に「鳥見郷」、中世には「登見庄」となっている。「トミ」(登美・登弥・鳥見)とは、尊い御霊という意味で、この地を治めていたナガスネヒコ(登美彦、長洲彦)に関係して名づけられている地名であろう。このナガスネヒコの実像が歴史の闇に葬られているので謎が多い。記紀神話の「神武東征」の段に、ニギハヤヒを奉じて奈良を支配していたナガスネヒコ(登美彦、長洲彦)が、諸々の出雲族や土着していた従来からの国津神と共に抗戦して敗北した様子が記述されている。「神武天皇は登美の那賀須泥毘古と戦った」、「爾藝速日命が登美毘古の妹登美夜毘売を娶って宇摩志麻治命を生んだ」といった記録がみえる。この記述から察するに、出雲系連合政権の重臣であり、登弥(トミ)神社(奈良市)や矢田坐久志玉比古(ヤタ二マス・クシ玉彦)神社(大和郡山市)、三輪神社一帯を治めていた豪族だったと思われる。ニギハヤヒの生まれ故郷である出雲にも「トミ」の地名や苗字を名乗る住人が多い。
 「鳥見山」(とりみやま/とみやま)は奈良県宇陀市と桜井市の境にある。日本書紀神武天皇4年、神武天皇が皇祖神・天神を祀った場所、霊畤(まつりのにわ)という伝承に登場し榛原の地名の由来にもなっている。

 「」。

【ニギハヤヒに関係する神社その3、往馬坐伊古麻都比古神社】
 生駒山東麓に往馬坐伊古麻都比古神社があり、これを確認しておく。 往馬坐伊古麻都比古神社(往馬大社、鎮座地 奈良県生駒市一分町)の祭神は伊古麻都比古神、伊古麻都比売神、外五柱神である。由緒に「生駒谷一七郷の氏神で往馬彦、往馬姫を祭る。その神宮寺と称するものが凡そ十一坊あったと」とあり、古代は相当大規模な神社であったことがわかる。往馬彦は生駒山の精霊であり、生駒山が別名「二ギハヤヒヤマ」といわれていることからすると、往馬彦とはニギハヤヒの別名と考えられる。往馬姫は、ニギハヤヒの妃三炊屋姫、あるいはニギハヤヒの娘で、神武天皇の皇后となった伊須気余理比売をさして付けられた神名ではなかろうかという。当社は、生駒山東麓、生駒川(竜田川)の西畔に鎮座されている社であり、古代この地の有力氏族・平群氏によって創建された神社と考えられる。なお、延書式では大社として月次・新嘗祭の官幣に預り、二座の神のうち一座は祈雨神祭の官幣にも預っている。また、大嘗祭の悠紀・主基の国を占定する際に使う火燧杵は、当社から奉るのが例とされる重要な神社といわれている。火燧杵は出雲王朝の重要な宗教儀式であり、出雲の熊野大社では鑽火殿の神事がいまも続けられている。また、奈良市と大和郡山市が接する富雄川東岸の丘陵の先端、旧登美郷に鎮座する登弥神社も、ニギハヤヒに関係ある神社と云う。

(私論.私見)
 「ニギハヤヒの命の降臨」の特徴は、後の高天原天孫族の神武東征譚とは違って、来航に当たって土地の豪族と戦争した訳ではない。否むしろ、土地の豪族の盟主であったと思われるナガスネ彦(那賀須泥毘古、長髄彦、トミビコとも云う)と早速に和議を結ぶことに成功していることにある。このナガスネ彦につき、記紀は人物像や祖先について何も触れていない。それは記すには不都合があった為と推量する以外にないが、私論は、記紀が悪役として記す出雲系だった故と推理している。

【矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社】
 矢田坐久志玉比古神社(奈良県大和郡山市矢田町東良)別名「矢落(やおち)神社」を確認しておく。主祭神は、久志玉比古神(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)と女神(御炊屋姫命) 。大和国添下郡の式内大社で旧県社。由緒「郡山の西に勢力をもった矢田部氏の部族神といわれる饒速日尊と御炊屋姫命を祀った神社であるという。御炊屋姫命は、ニギハヤヒの妃の一人である。先代旧事本紀及び伝承によると、ニギハヤヒが天磐船に乗り降臨された際、三本の矢を射て落ちた所を住居と定めたが、その一の矢が落ちた所が当社で、二の矢の落ちた所は境内の二之矢塚と称する小塚であるという。この失落伝承よりして「矢落大明神」とも称される。天磐船による降臨の故事から航空祖神とされ、楼門には中島飛行機製の陸軍九一戦闘機のプロペラが奉納されている。

 御本殿は南北朝時代、末社の八幡神社社殿は室町時代のものと言われ、共に国重文に指定されている。盛時には四十一ケ村二八四二尸の氏子があったという。現在は大和郡山市の丸尾・新町・東村・榁ノ木・北村・東明寺・中村・横山・垣内・岡・山田原・深谷が祭祀に預り、宮座には北座と南座があるといわれ、古代には奈良盆地で最も崇敬されていた神社であったと推定される。

【登彌(弥)神社(とみじんじゃ)】 
 登弥神社(旧県社、奈良市石木町六四八)を確認しておく。奈良市と大和郡山市の境、富雄川沿いに鎮座する。式内社として天神地祇二十二柱を奉祀し、主祭神は饒速日尊外五柱である。由緒 「当社は添下郡登見郷の式内小社で、古くは木島明神と呼ばれてきた。現在、石木・大和田・大向・城・西城の総鎮守で、このうち城と西城は大和郡山市に編入されている。石上神宮旧記に、『櫛玉饒速日尊大和国鳥見明神、河内国岩船明神是也』とあり、饒速日尊は大和(奈良県)では登見明神、河内では岩船明神として祭られていたという」。参道の石灯籠には多くが木嶋大明神と刻されている。なお登弥神社の祭神が「木島明神」とも呼ばれるのは、京都の賀茂神社と関係ある京都市右京区太秦森ケ東町の木島坐天照御魂神社(祭神・火明命)と関係があるのではなかろうか。さらに鳥見郷(登美郷)の南に続く矢田郷(箭田郷)の富雄川沿いにある矢田坐久志玉比古神社は、ニギハヤヒの住居地伝承のある神社と云う。

 毎年2月1日に行われる筒粥祭(粥占い)は、豊作を祈願する農耕儀礼のひとつとして古風な形態を残す大変貴重な神事となつている。早朝から氏子が毎年交代でお米と小豆、青竹の筒37本を束ねたものを湯釜で炊く。1時間余りで引き上げた竹筒を、農作物の品目ごとに小刀で割り、粥の入り具合いでその年の作柄の良否を占う。朱い粥祭の幟が掲げられ灯る提灯が出迎え、準備された「粥占いの釜」が湯気を噴き上げる。定刻7時に神事が始まり、参拝者一同五穀豊穣を祈る。続いて「筒粥祭」となり、緊張のなか次々と粥占いの作柄結果が読み上げられる。冷え込む境内で歴史ある有難い神事が続く。最後に小豆粥のふるまいがあり、冷えきった体を温めてくれる。

【倭(和)と日本】 
 倭(和)と日本の関係を確認する。この問題も解けていない。主として「双方の国名を使い分けていた」とする説、別々の国であったとする説の二つある。

 日本と云う国号は、ニギハヤヒが大和に入ったとき、「この命(饒速日尊)、天磐船に乗り天より下り降りる。虚空に浮かびて遥かに日の下を見るに国有り。よりて日本国と名づく」とあり、ニギハヤヒが生駒山を越えて大和に入ったときの「日本」命名に由来する。続日本紀は、720(養老4 )年5月21日、「これより先、一品舎人親王、勅を奉けたまわりて日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上ぐ。紀三十巻・系図一巻なり」と記している。この頃より、日本を「ヤマト」と読ませなくなったとみるべきであろう。これが国号を「日本」と読ませた国内での公式記録の最初である。記録にはないが、「日本」や「天皇」の称号を使い始めたのは、672年の壬申の乱を制して百済王朝天智政権から王権を奪還した大海人皇子(天武天皇)の時代だったとみられている。書紀に出自を隠され、中大兄皇子、後の天智天皇(実は百済族の翹岐)の同母弟にされている大海人皇子は、日本国の開祖・ニギハヤヒの後裔である蘇我氏や大海宿禰、海部直、海部氏らの一族だったことが判明した。書紀は、このことを徹底的に隠している。天武天皇の墓誌は、「大海人天皇墓丙戌年九月九日薨六十五歳」とあり、書紀の記した没年月日と整合している。書紀では大海人皇子は天智天皇よりも年は8歳年下ではあるが、中大兄皇子の弟とした記述は真っ赤な嘘である。スサノウの和国やニギハヤヒの大和での建国史実を抹殺する手段として史実を歪曲して捏造している。

 中国の隋書は次のように記している。「開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎、多利思比孤、阿輩ヶ弥(天足彦大王)と号し使いを遣わし云々」、「大業三( 607)年、その王多利思比孤使いを遣わし(中略)。日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す云々」。中国の史書の一つ、945年完成の「旧唐書の列伝・倭国・日本国条」は、日本の使者が伝えたとして次のように記している。「貞観五(631 )年、使いを遣わし方物を献ず(中略)。日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるを以て日本と名をなすと。あるいは言う。倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となすと。あるいは言う、日本は旧小国、倭の地を併わせたり」。「新唐書・列傳・日本条」は次のように記している。「咸亨元( 670)年、使を遣し高麗を平らげしを賀す。後に稍夏音を習い、倭の名を惡み、更に日本と號す。使者自ら言う、國、日出ずる所に近きを以っややかおんにくて名と爲すと。或は云う、日本は乃ち小國、倭の并す所と爲す。故に其の號を冒す」。この記事から判断して、日本をヤマトと読むかヒノモトと読むかは別として、中国に「日本」という国名が知られたのは唐の時代と考えられる。対外的には長らく「倭」を使っていたのではないかとみられている。

 古事記では国号を「倭」、書紀では「日本」と記述している。例えば、ヤマトタケルを、古事記は倭建命と書き、書紀は日本武尊と表記している。書紀は、神代の国生みのところでも「大日本豊秋津島」と表記し、「日本、これを耶麻騰という」と、わざわざ読み方を注記している。これは、「ヒノモト」とか「ニホン」と読むなと云っているに等しい。いつから国号が「倭」から「日本」に代わり、我が国の正式な国号として「日本」が採用されたのか、記紀も続日本紀も語らない。記紀は「大和」、「日本」、「倭」を「ヤマト」と読ませているが当て読みである。713(和銅6)年、奈良朝廷が公布した「諸国名を漢字二字で表せ」という勅命から「倭」を「大倭」と書くようになり、「倭」は字の意味から嫌われ「大和」と表されるようになったとも云う説もある。新唐書は、「日本はもと小国、倭の地を合わす」としていることから合併が正しい解釈と云える。「和」は当時から国是だった。太子厩戸皇子の十七条憲法の第一条「一つ、和を以て貴しと為す」とあるのは、この伝統を確認したものであろう。


【舒明天皇の万葉集2番の「国見」の歌考】 
 2016.11.24日、「舒明天皇の「国見の歌」の謎/天皇の歴史(11)」。

 舒明天皇の万葉集2番の「国見」の歌は有名であるが、謎の歌でもある。
⇒2016年9月29日 (木):象徴の行為としての「国見」/天皇の歴史(8)

 大和には 群山あれど 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

 率直に言って、大和に「海原は 鴎立ち立つ」とは理解しがたい。一般には次のように解説されている。

 江戸初期の学者契沖も、「和州には海なきを、かくよませ給ふは、彼山より難波の方などの見ゆるにや」と訝しがっています。標高150メートル前後の香具山から、大阪湾が見えるなんてことがあるのでしょうか。契沖の疑問に対し、少し後の時代の国学者たちは、香具山の麓にある埴安(はにやす)の池を海といったのだ、と解答しました。この説は広く受け入れられ、以来、この「海」は埴安の池ということにほぼ落ち着いているようです。最も新しい個人万葉全注釈である伊藤博氏の『萬葉集釋注』でも、この句について次のように注記しています。 香具山の周辺には、埴安、磐余など、多くの池があった。「海原」はそれを海とみなしたものであろう。「かまめ」は「かもめ」の古形で、その池のあたりを飛ぶ白い水鳥をかもめと見なしたのか。

 そして、舒明天皇の国見歌は、「海と陸によって成る"日本国"全体の映像を」大和にになわせたもの、と見ています。奈良盆地の小風景に日本国全体を幻視している、というわけです。苦しい解釈である。別解としては、吉本隆明が『ハイ・イメージ論』で紹介した樋口清之の説がある。樋口氏は、地下の地質調査から判明した事実として「ほぼ長方形をしている現在の大和平野は、今から約一万年余り前、即ち洪積期の最終末の頃、山城平野に口を開いている海湾であった」ことを指摘しています。同書に載っていたランドサット映像からの想像図をたよりに、約1万年前の畿内地方の概念図を作ってみました。
Photo_4

 上の図の水色の部分が、当時海湾であったと推定される領域です。樋口氏の説をさらに聞きましょう。

 海の塩水は大阪湾を満し、山城平野を満し、現在の奈良市の北にある奈良山の丘陵はなくて、それを越えて大和湾に北から南へ湾入していた。後に紀伊半島の地盤隆起に従って、大和平野の地盤は次第に海面から離れて行くことになった。(中略)つまり、大和盆地はもと湖であったが、地盤の隆起につれて排水が進行すると湖面が次第に低下し、最後には干上がって浅い摺鉢状の盆地になったと理解されます。(樋口清之「日本古典の信憑性」『国学院大学日本文化研究所紀要』第十七輯)

 簡単にまとめると、洪積世末期から沖積世にかけて、大和(奈良)盆地は、海湾→海水湖→淡水湖→盆地と移り変わったことになります。奈良盆地の標高45メートル線以下には、奈良時代以前の住居跡や遺物は発見されておらず、それ以下の低地は大和盆地湖の名残りで、湖水や湿潤地であった、と樋口氏はいいます。そして舒明天皇の国見歌に言及し、何十回も香具山に登ってみたが、埴安の池は見えなかった、とのべ、「むしろここから見える海原は、国原に対して海原と表現したもので、かつての盆地湖の名残りとして、丁度今の郡山の東の方が奈良朝まで湿潤の地であり、香具山からはこれが見え、また鴎の立つ姿も見えたと思う」と論じます。

 舒明天皇は、Wikipedia によれば推古天皇元年(593年) - 舒明天皇13年(641年)とされる。この頃には大和には鴎が群れ飛んでいたのだろうか?
 2017.1.7日、「舒明天皇の「国見の歌」の謎(2)/天皇の歴史(14)」。

 舒明天皇の『万葉集』2番の「国見」の歌は謎の歌でもある。
⇒2016年9月29日 (木):象徴の行為としての「国見」/天皇の歴史(8)
⇒2016年11月24日 (木):舒明天皇の「国見の歌」の謎/天皇の歴史(11)

原文
高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇]
天皇登香具山望國之時御製歌
山常庭 村山有等  取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍  海原波 加萬目立多都  怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者
(A 扁左[忙]旁[可] は外字)

 かな書きすれば、以下のようである。

やまとには むらやまあれど とりよろふ あまのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには

 古田武彦氏は、次のように問題を提起する。

 「講演会では何回も「なぜ大和盆地で海が見えるのですか」と質問を良く受けてまいりました。今までは「良く考えておきます」とその度保留してきた。今回はこれを正面から取り組んでみて、確かにおかしい。万葉学者が「おかしくない」と言ってみても、常識ある人間からはおかしい。池のことを海原と言い換えても、他にそのような例があるかと確認すれば全然無い。典型的なのは「山常庭 村山有等 取與呂布 やまとには むらやまあれど とりよろふ」の中の「とりよろふ」の解釈に疑問を持った。なぜかというと万葉学者の解釈にはいろいろ有るけれでも、どんな解釈をしても、大和盆地にいろいろある岳(やま)の中で天の香具山が一番目立っているという意味には違いない。しかしこれは知らぬが仏で、奈良県の飛鳥に行ったことのない人は騙されますが、実際に行ってみたら一番目立たない山である。澤潟久孝氏の『万葉集注釈』という本の写真を使わせていただきますが、畝傍山、耳成山は立派ですね。香久山は目立たない平凡な山ですね。これは写真に撮れば良く分かる。上の二つは良く撮れる。香久山は写真に撮れば逆にどこかと探すぐらい分からない。よほど現地の人に確認しないと分からない。この写真には立派に写っているが、素人が撮ればそんなにうまく写らない。しかも高さは百六十三メートルしかなく、奈良盆地自身が海抜百メートルぐらいありますので、山の麓(ふもと)に立っている高さは、五十メートル位であるので、私が歩いても頂上までさっと十分ぐらいで上がって行けた。非常に低い丘である。それが山の中でも目立つ山とは言えない。これは明らかにおかしいと、おそまきながら気が付いてきた」。

 そして、冒頭と末尾の2つの「やまと」に着目する。「山常庭 村山有等 蜻嶋 八間跡能國者」。最後の「八間跡」と表記する大和は他に全くない。その前の「蜻嶋」については次のように言う。

 「これについて私の『盗まれた神話』で分析したことがありまして、これは古事記などに豊秋津島と言う形で出てまいります。この豊秋津に対して私は、これは「豊」は豊国のことであろう。豊前・豊後の豊国。「秋」と言うのは、例の国東半島の所に安岐町、安岐川がある。大分空港のあるところである。そこの港が安岐港である。しかしこの「秋津」は安岐川の小さな川口の港ではなくて、関門海峡からやってくると、安岐町のところが別府湾の入口になる。そうすると「秋津」は別府湾のことではないか。別府湾を原点にして、九州島全体を指すのが「豊秋津島」ではないか。そう考えた研究の歴史がある。そうするとこの歌の「秋津島」とは九州島のことではなかろうか。そう思い始めた。これを考えたときはおっかなびっくりだったのですが、さらに進んで別府湾なら「海原」があって「鴎(かもめ)立ちたつ」も問題なし。のみならず「国原に煙立つ立つ」も問題がなくなった。私の青年時代、学校の教師をやったのが松本深志高校。そこに通うとき浅間温泉の下宿させていただいた。坂を下り学校に通うとき、冬など温泉のお湯がずっと溝に流し出され、それが冷たい外気に触れて湯気が立ち上がっていて、本当に「煙立ちたつ」の感じだった。そこをぬうようにして降り、なかなかいい光景だった。浅間温泉のような小さな温泉でそうだから、別府となりますと日本きっての温泉の一大団地。そうすると、まさに「煙立ちたつ」ではないか。学校の授業の時は「民のかまどの煙が立ちこめ」と注釈にもそう書いてあったので「家の煙」だと解説していた。しかし良く読んでみると、「海原は鴎立ちたつ」は自然現象。鴎が自然発生しているのと同じように、それと同じく「国原煙立ちたつ」も自然現象。煙が自然発生しているのと同じ書き方である。同じ自然現象です」。

 確かに温泉地では湯煙が見える。私も霧島の鹿児島大学病院に入院していた時に、周辺が湯煙だらけだったのを思い出す。そして、別府に「天香具山」はあるのか、と問う。
 まず「天 あま」はあった。別府湾に「天 あま」はあるのかと調べると、まずここは『倭名抄』では、ここら一帯は「安万 あま」と呼ばる地帯だった。この間行ってきた別府市の中にも天間(あまま)区(旧天間村)など、「あま」という地名は残っている。天間(あまま)の最後の「ま」は志摩や耶麻の「ま」であり、語幹は「あま」である。奈良県飛鳥は「天 あま」と呼ばれる地帯ではない。現在でも大分県は北海士郡・南海士郡というのが有り、南海士郡は大分県の宮崎県よりの海岸から奥地までの広い領域を占め、北海士郡は佐賀関という大分の海岸寄りの一番端だけになっている。点に近い所だけだが大分市や別府市が独立して喰いちぎられていったことは間違いない。これはもう本来は北海士郡は別府湾を包んでいたに違いない。それで海部族が支配していて「天 安万 あま」と呼ばれる地帯だったことは間違いがない。それでは香具山はどうか。別府の鶴見岳の存在です。……ですからもう一言言いますと、「土蜘蛛 津神奇藻(つちぐも)」というばあいも、「くも」というのは「ぐ、く」は不思議な、神聖なという意味、「も」は(海の)藻のように集まっているという意味で、「くも」は不思議な集落という意味で、「津神奇藻(つちぐも) 土雲」は「港に神様をお祭りしている不可思議な集落」という誉め言葉なのです。それをへんな動物の字を当てて卑しめていて野蛮族扱いにイメージをさせようとしているのが『古事記』・『日本書紀』です。それを見て我々は騙されている。本来はこれは良い意味です。岡山県には津雲遺跡などがあります。そういう知識がありましたので、「ほ」は火山のことになる。それで平安時代に、この鶴見岳の火山爆発があり『三代実録』にめづらしく詳しい状況が書いてあります。頂上から爆発し、三日三晩かけて吹っ飛び、大きい磐がふっ飛んできて、小さい岩でも水を入れる瓶ぐらいの大きさの岩が飛んできた。又硫黄が飛び散って川に流れて何万という魚が全部死んだという非常にリアルな描写があります。現在はそれで一三五〇メートルで、今は隣の由布岳より少し低い。その鶴見岳は吹っ飛ぶ前は高さが二千メートル近くあったのではないかという話があり、もしそうであれば鶴見岳の方が高かった。それで元に戻り、鶴見岳には火軻具土(ほのかぐつち)命を祭っている。「か」はやはり神様の「か」で神聖なという意味で、「ぐ く」は先ほどの不可思議なという意味であり、「神聖な不可思議な山」が「香具山(かぐやま)」である。火山爆発で神聖視されていた山である。もう一つ後ろに神楽女(かぐらめ)湖という湖がある。非常に神秘的な湖ですが、その神楽女湖も、「め」は女神、「ら」は村、空などの日本語で最も多い接尾語で、これもやはり語幹は「かぐ」である。だから並んで山も「かぐ」、湖も「かぐ」である。ですからやはり本来のこの山の名前は「かぐやま」であろう。「香具山(かぐやま)」とは本来ここで有ろう。それで安万(あま)の中にありますから「天香具山(あまのかぐやま)」である。

 ちなみに「国見町」をWikipediaで検索すると、以下の3例が出てくる。

  • ・国見町(くにみまち) - 福島県伊達郡にある町。
  • ・国見町 (長崎県)(くにみちょう) - かつて長崎県南高来郡にあった町。現在の雲仙市の一部。
  • ・国見町 (大分県)(くにみちょう) - かつて大分県東国東郡にあった町。現在の国東市の一部。






(私論.私見)