神武天皇東征神話考その2 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).11.28日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「神武天皇東征神話考その2」として、カムヤマトイワレ彦命のその後の大和平定、神武天皇としての即位、その後の治績を確認しておく。「第5章磐余彦尊/大和朝廷成-1」、「第5章磐余彦尊/大和朝廷成-2」その他を参照する。 2011.8.22日 れんだいこ拝 |
日本書紀は神武天皇の諱(いみな)を 「彦火火出見」とし、「神日本磐余彦火火出見(かむやまといはれひこほほでみ)天皇」と称している。「神」は皇祖に対する美称、「日本」は古事記に同じく、もともと「倭」と表記されていただろう。「磐余彦」の「磐余」は地名ではあるまい。古代天皇の諡号に「やまと」、「いはれ」のように地名を並べた例が外に見当たらないし、磐余の地は神武東征まで「片居」もしくは「片立」と呼ばれたとあり、しかも畝傍山のふもとで即位した神武天皇を「磐余の首長」とする根拠は薄い。むしろ、聖なる始祖が岩から生まれたとする思想(天孫降臨の際にも「天磐座(あまのいはくら)を離(おしはなち)」とある)から名づけられた「磐生(いはあ)れ彦」と解すべきであろう。「いはれ」は「いはあれ」の転化として十分説明できる。それを音が似通った「磐余」の地名と混同するようになったのは、神功皇后や履中・清寧・継体などの諸天皇が磐余に宮を置くようになって以降のことと思われる。神武天皇の諱は、「筑紫の日向の高千穂峯」に降臨した天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)の子、彦火火出見尊に同じである。その系譜も神武天皇に酷似していることから、津田左右吉はこれを神統譜によって神武を造作したとする。だが、事実は逆であろう。東征以前の「筑紫の日向」における彦火火出見尊(神武)は、後世、皇祖として神格化され、新たな系譜や民間神話も付け加えられるに連れ、いつしか神代のこととして物語られるようになってしまったのであろう。事実、古事記によれば、二人の「ホホデミの尊」は共に「高千穂宮」に住んでいるのである。神武東征伝承の祖型は、「ニニギの尊」が高天原より「筑紫の日向」に降臨し、その子である「ホホデミの尊」が「筑紫の日向」より「大和」へ東征あるいは降臨したというものであっただろう。記・紀が神武東征以降を人代とし、それ以前を神代としたために、「ホホデミの尊」は神と人に分離されてしまった。記・紀神話が体系的な神話としてまとめられるのは、それ以降のことになる。以上のように神武東征伝承を復元し、それを二世紀半ばのこととすると、中国史料や考古学資料とも整合してくる。 前漢・後漢に朝貢し、対馬・壱岐を介した楽浪郡との交易ルートを支配していたのは、奴国と伊都国(福岡県前原市)を核とする筑紫連合王国であろう。この連合王国は楽浪郡との交易ルートを掌握して大陸の高度な文物や金属素材などを独占したばかりでなく、それをテコに、装身具や葬具として珍重されたゴホウラ・イモガイ・スイジガイなどを求めて薩摩半島南部を中継地とし琉球や南西諸島と交易した「貝の道」や、畿内に至る瀬戸内海ルートをも掌握する交易国家であった。その繁栄は、奴国や伊都国に当たる地から弥生時代中期・後期の王墓が多数発見され、剣・玉に加えて大量の漢鏡が出土していることによっても窺い知ることができる。この剣・鏡・玉を副葬する文化が神武東征によって北九州から畿内にもたらされたと、考古学者の原田大六は主張している。 神武天皇が「東に美き地あり」として大和に東征しようとした原因は、二世紀半ばころから後漢が衰微し、楽浪郡との交易ルートを生命線としていた筑紫連合王国もまた衰微していったことにあろう。その王族の一人が彦火火出見(神武天皇)と考えても何ら不都合はあるまい。交易国家としての存立が危うくなった筑紫連合王国にとって、背後の筑後や肥前・肥後には吉野ヶ里遺跡に見られるように強力な在地勢力がおり、瀬戸内海の向こうに広がる畿内や東国は頼むべきフロンティアであっただろう。すでに神武東征以前にも、あめわか天稚彦やにぎはや ひ饒速日などが次々にあしはらのなかつくに葦原中国に降臨していたとする伝承が記・紀に残されている。そうした情報をもとにして、彦火火出見も東をめざしたのであろう。 北九州勢力の東征を考古学的に傍証するものは、森岡秀人の高地性集落の研究(『考古学研究』一六八・一七一)であろう。森岡は丘陵上など高所に築かれた高地性集落を「軍事的防御的要素の強い集落」とし、弥生時代中期から古墳時代初期までを五段階に区分している。高地性集落が展開された地域は北九州、瀬戸内海、畿内であるが、いずれも重要な交易ルート沿いにあり、見張り台やノロシ台なども含まれていよう。森岡の論文を簡略にまとめたのが[表5]で、神武東征は表六甲・紀伊北中部・大和南部に高地性集落が築かれた第三段階に相当するだろう。 配下の軍事集団である久米部を率いて吉野川流域から大和盆地に入った彦火火出見は、盆地南東部の磯城地方と盆地南西部の葛城地方の境界領域に当たる畝傍山ふもとに拠点を置いたと思われる。これがのちに「始馭天下之天皇」と称された神武天皇である。その第七代目に当たる孝霊天皇の時代になって、遼東地方に拠って勢力を拡大した公孫氏が支配する楽浪郡との交易ルートを回復する必要から、北九州・瀬戸内海・畿内地方を糾合し、倭迹迹日百襲姫を女性最高司祭者とする倭国連合国家の成立を図ったのであろう。あるいは倭国統一のために楽浪郡との交易ルートの回復が欠かせなかったのかもしれない。これが魏志倭人伝のいう「倭国大乱」の時代に当たり、[表5]の第四段階に当たるものと思われる。 充分に論を尽くせなかったが、「神武東征伝承」は我が国の統一国家形成過程を考えるにあたって、すこぶる有効な仮説と言えよう。その東征の時期を紀元前六六〇年より八〇〇年ほど遅い二世紀半ばのこととすれば、中国史料や考古学資料とも矛盾をきたさない。 |
【カムヤマトイワレ彦命とイスケヨリヒメの結婚譚】 | ||
後の神武天皇は、日向から宇佐、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。 | ||
神武天皇は正妃を定め、二ギハヤヒ(饒速日大王)の末娘(事代主神(大物主神)の娘)である旧出雲王朝系のヒメタタライスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴媛、伊須氣余理比賣命)を貰い受けている。次のように記されている。
古事記の「七乙女譚」が次のように記している(「神武天皇(5)結婚 后と大后」参照)
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アヒラ姫=阿比良比賣。タギシミミの命=多芸志美美命。キスミミの命=岐須美美命。オオモノヌシの神=大物主神。ヒメタタライスケヨリ姫=姫タタラ五十鈴姫、比賣多多良伊須気余理比賣、ホトタタライススキ姫。ヒコヤヰの命=日子八井命。カムヤヰミミの命=神八井耳命。カムヌナカハミミの命=神沼河耳命。 | ||
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「神武天皇とイスケヨリヒメの結婚譚」は、ワケミケヌの命が、東征について6年目の頃、出雲王朝―邪馬台国系のイスケヨリ姫と結婚し正妃としたことを伝えている。イスケヨリ姫は、事代主の命の娘とも大物主の子であるとも云われている。 これは、天孫族と国津族の同盟を暗喩していると悟らせていただく。逆に云えば、出雲王朝―邪馬台国派が依然として隠然と勢力を蓄えていたこと、その皇統の協力なくしては大和を平定できなかったこと、出雲王朝―邪馬台国系の帰順派が大和王朝に入り込み勢力を温存して行ったこと等を暗喩しているのではなかろうか。相聞歌が教養になっていたことも分かり興味深い。 |
【三輪山の出雲屋敷跡考】(「呑気な 頼FB」の「一寸いい話/言い伝え」参照) |
出雲屋敷跡(いづもやしきあと)は別名「高佐士野」(たかさじの)とよばれ三輪山の麓、狭井川の川縁近くにある七乙女伝説の地にして「日本の始まり磐余の里」である。出雲系の人がこの地を訪れると心が落ち着くとか云われている。七乙女伝説は出雲屋敷跡で暮らしていた七人の乙女たちのことで、その中の一人、伊須気余理比売(いすきよりひめ)を大久米(おおくめ)の命が神倭伊波礼琵古(かむやまといわれひこのみこと)の命に勧めた。伊波礼琵古命は、伊須気余理比売をすぐに気に入り、夜ごとこの姫を訪ねて来て伴寝をするようになる。これを通い婚と云う。 出雲屋敷跡の由来は次の通り。出雲は素戔男尊(須佐能袁命)(すさのおのみこと)の子孫にして大国主(おおくにぬし)の命を神とする出雲神話の地である。三輪の神は大物主(おおものぬし)とよばれ、大国主命の分身とされる。その大物主の娘たちが住んでいたので出雲屋敷とよばれた。神倭伊波礼琵古の命は、九州高千穂出身とされる高天原系、それに対し伊須気余理比売は出雲系である。この高天ヶ原系と出雲系が結婚することにより神倭伊波礼琵古命が初代天皇誕生(神武天皇)へ、 伊須気余理比売は古事記に伝えられる神武天皇の皇后となる。歴史的に対立して来た二つの系譜の半ば融合であった。この「手打ち」式和解が日本国体の型となり日本政治の伝統として影響を与えていくことになる。 その出生にまつわる物語として丹塗矢(にぬりや)の神婚説話がある。三輪の大物主が美女、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)に思いをかけ、その用便中に丹塗矢と化して陰部(ほと)を突いた。丹塗矢は立派な男に変じて姫と結ばれた。その後、生まれたのが富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ)。後に「ほと」の名を嫌い、改めて伊須気余理比売とされました。伊須気(いすけ)は「いすすき(身震いする)」、余理(より)は神霊の依(よ)り憑(つ)くという意味合いがある。 |
【カムヤマトイワレ彦命即位譚】 | ||||
第四皇子なるワケミケヌの命(狭野命)が二ギハヤヒの末娘であるヒメタタライスケヨリ姫を后とすることで王位継承を確定し、次に「橿原に宮を建てカムヤマトイワレ彦命(紀は神日本磐余彦天皇、記は神倭伊波礼毘古命)となり初代天皇として即位した。日本書紀に基づく明治時代の計算によると、即位日は西暦紀元前660年2月11日。 この時、47歳と推定される。これが大和国(大和朝廷)の始まりとなる。 「先代旧事本紀」、「天孫本紀」が、王位継承の儀式の際、二ギハヤヒの次男宇摩志麻治命が、「宇摩志麻治命の親饒速日尊、天より受け来たれる天爾の瑞宝十種にして出雲王朝伝来の大王の証しとなる権能を持つ天瑞宝を奉り、即ち神楯を堅て以て斎る」云云と次のように記している。
この王朝は幾星霜を経て大和王朝、国名を大和国と呼ぶようになった。「和国」の記述もある。なお、日本の国号は饒速日尊の命名した日本に始まっており、日本と書いても日本(やまと)と訓読されている。但し、紀記はもとより続日本紀も、いつ「日本」を国号に定めたかについては黙して語らず、紀記には「大和国」とした表記もない。あるのは倭や大倭で、これを「ヤマト」、「オホヤマト」と読ませている。 国号を日本と呼ぶようになった後の945年に撰録された中国の史書「旧唐書」は、大凡次のように書いている。
新唐書日本伝は次のように記している。
中国史書「宋史」は「宋史卷四九一外國伝・日本國」の条に次のように記している。
その王年代記の第一に天御中主、(中略)第十七代伊奘諾尊、第十八代素戔嗚尊(須佐之男尊)、十九代天照大神尊(中略)、二十四代磐余彦尊、「彦瀲尊まで凡そ二十三世、並びに筑紫日向宮に都す」、「彦瀲の第四子を神武天皇と号す。筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。・・即位元年甲寅、當周の僖王の時なり」と記している。但し、「筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す」とあるだけで、記紀の「神武東征譚」による武力での大和平定は書いていない。「宋史」と記紀の記述が大きく食い違っている。周の僖王の年代はBC681-677 年で、これは遣唐使が持参した書紀をみて後に書いたとみられる。書紀の「辛酉」ではなく「甲寅」としている。これは神武天皇即位前紀に、天皇(狭野命)、「この年、太歳、甲寅の冬十月丁巳の朔辛酉に親ら諸皇子・船師を率いて西の宮より発ちて東を征ちたまふ」とした書紀の記述と関連させているのであろう。彦瀲尊は、諡の彦波瀲武草葺合不尊の一部で、本名熊野楠日尊のことである。 |
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タカクラジ=。葛城地方の土豪と推測されている。オワリ氏の祖。 ヤタガラス=八咫烏。葛城のカモ氏の祖。ウカシ=宇迦斯。カムヤマトイワレ彦命=神倭伊波礼毘古命。 | ||||
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これを仮に「神武天皇即位譚」と命名する。この下りは、天孫族がやむなく迂回して紀州熊野に上陸し、国津族の内部分裂を誘いながら大和に侵入し、ワケミケヌの命が即位してカムヤマトイワレ彦命となり大和王朝を創始した経緯を伝えている。神武天皇の即位日を「辛酉の年の春正月庚辰朔」とし、それが西暦の紀元前660年に当たることへの疑問については「皇紀2600年考」で述べたので繰り返さない。 |
【カムヤマトイワレ彦命即位の年月考】 | |
日本書紀は月日を全て干支で記しており、「神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てた」と記述し、古事記には年月が記されていない。次のように通説されている。
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墓誌「丙子三月十一日年六十三」の推定如何に関わるが、神武天皇の在世が比定できない。正月庚辰の朔は太陽暦に換算すると二月二十一日である。明治政府は、記紀の天皇年紀を引き延ばした記述を信じ、辛酉年をBC660年と計算、二月二十一日を紀元節と定め現在は建国記念の日とした。神武天皇と云う漢風諡号は、八世紀の書紀編纂当時に追贈したものである。 |
【カムヤマトイワレ彦命即位の地考】 |
カムヤマトイワレ彦命(神武天皇)が日本ではじめて天皇に即位したときの就任式である大嘗祭が「鳥見の霊畤」(とみのれいじ)で行われたと伝えられる。霊畤とは「まつりのにわ」の意。現在の桜井市の鳥見山(とみさん、とみやま)と宇陀市の鳥見山(とりみやま)の二つの候補地がある。桜井の鳥見山(とみさん)は標高245メートルの低山で、麓の等彌神社(とみじんじゃ)の御神体山で、大神神社(おおみわじんじゃ)の御神体山・三輪山の南側に位置し、ヤマト王権のあった飛鳥・奈良盆地から見て、神仙世界の吉野に続く道の「門」を、三輪山と形成する。ヤマト王権の飛鳥・奈良盆地から見ると、この鳥見山と三輪山の狭隘を通り宇陀、吉野へ抜けて行く入り口で、両サイドを御神体山で固める格好になっている。古代、飛鳥時代ごろまで、奥明日香・宇陀の向こう、吉野は仙人が住み、仙薬のある聖地と考えられていた。「Wiki(鳥見山)」では、宇陀市のがメインで桜井市の方は軽く書かれている。 |
【八紘一宇詔勅発令譚】 | |
神武天皇は、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築き、橿原宮に遷都した。この時、「掩八紘而爲宇」(「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為す」)の八紘一宇詔勅を発令した。日本書紀巻第三、神武天皇の条(「橿原遷都の詔 皇宗 神武天皇」)は、次のように記している。
八紘の由来は、淮南子(えなんじ)巻七 精神訓の「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」とされている。淮南子(えなんじ)とは、前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年―紀元前122年)が学者(劉安・蘇非・李尚・伍被ら)を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。「淮南鴻烈」(わいなんこうれつ)ともいう。10部21篇。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。 「八紘」は「8つの方位」、「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語となった。「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味する。「八紘を掩(おほ)ひて宇とせん」とは、天下を一家の如く覆い、和気藹々(あいあい)たるものたらしめんとする意味で、家族的な絆によって統合される世界平和建設を指針させている。「敷島の大和の国は言霊の助ける国ぞ真幸くありこそ」(万葉集・柿本人磨呂)とあるような言霊で「八紘一宇」を祈念していることになる。 |
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「八紘一宇詔勅発令譚」は、出雲王朝―邪馬台国勢力の協力を得た大和王朝が「八紘一宇」を掲げ、これまでの戦争手法によってではなく和合による全国平定に乗り出した事を伝えていると悟らせてていただく。日本政治史の要諦として、この戦争政策と和合政策が縄をなうように混ざり合い、古代より時に好戦派が時に和合派が舵取りしつつ暗闘していると読むべきではなかろうか。 日本書紀の「八紘爲宇」につき、明治から大正、昭和初期に活動した日蓮系国柱会の田中智学が「八紘一宇」に作り直して、これを日本民族の世界戦略の大目標とすべきであると提言した。戦前の1940(昭和15).7.26日、第2次近衛内閣が基本国策要綱を策定し、大東亜共栄圏の建設を基本政策とした際に、根本方針として「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」と掲げたことでも知られている。続く大東亜戦争で、八紘一宇は「天皇にまつろわぬものを平らげ(殺し)る」精神として称揚された。当時の皇国史観は、「尽忠報国、挙国一致、神州不滅、鬼畜米英、勇戦力闘、無敵皇軍、一億玉砕、忠君愛国、滅私奉公、堅忍持久、忠勇無双、八紘一宇、天穣無窮」の四字熟語を多造していた。 |
【大和王朝創建裏方の出雲王朝側の重臣考】 | |
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【カムヤマトイワレ彦命の統治譚】 | |
神武天皇2年、功を定め、道臣を築坂邑、大来目を畝傍山の西に居住させ、珍彦(椎根津彦)を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城(名は黒速)を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。 旧事紀は次のように記している。
国造は、今で云えば府県の知事にして地方自治体の長である。県主は国造の配下や王家直轄領の長を云う。紀伊国造となった天道根命は、饒速日命に随伴して大和に東遷した重臣の一人で、古代の紀国造(木国造)の祖である。天道根命は、和歌山市太田の日前国懸神宮(通称日前宮)の境内摂社に天道根命社として祀られている。 |
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饒速日命の長男天香語山命は神武朝の待臣となり、その子孫は尾張氏、海部氏、その他諸連へと分族し、その中の幾人もの女性は天皇の后や妃となって後の天皇や皇族を輩出している。天香語山命の後裔はその後、尾治(尾張=愛知県西部)、丹波(京都府・兵庫県の一部)、但馬(兵庫県の一部)、丹後(京都府北部)、甲斐(山梨県)、筑紫(九州)の豊国(九州北東部)等にまで分散・分族して定住し、それぞれの地で大和朝廷の地方組織としての国造や直・連等、国の組織を構成する氏族として繁栄、活躍している。 | |
原田常治氏は、大王としての磐余彦尊(神武天皇)時代の足跡を、各地の神社伝承をもとに次のように推測する。
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【鳥見山に皇祖神・天神を祀る譚】 |
神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖神・天神を祀った。この地は霊畤(まつりのにわ)という伝承に登場し榛原の地名の由来にもなっている。 等彌神社(とみじんじゃ) 山頂を南側に下った鳥見山公園は、春のツツジや秋の紅葉の名所として知られ、展望台から眼下に大和盆地や宇陀の山々が一望できる絶景の眺めになっている。深秋を迎えると公園の中心部「勾玉池」を囲む樹々が紅葉真っ盛り、赤や黄の色とりどりの葉が美しい景観を見せる。池畔に鳥見社、降神の磐座があり参拝者が多い。 |
【「秋津洲(あきつしま)」由来譚】 | |
神武天皇31年夏4月1日、天皇の御巡幸があった。大和(やまと)一帯を見下ろすことができる腋上(わきがみ)のほほ間の丘に登り、国の形をながめて言った。
これによって秋津洲(あきつしま)の名ができた云々。「あきつしま」の「秋津」はトンボの古名で、トンボが多数飛び回るほど作物が豊かに実る国という意味が込められている。トンボの呼び名の由来の歴史は、あきつ→かげろう、えんば→とんばう→とんぼと変わったと推定されており、トンボと呼ぶようになったのは平安時代以降のことらしい。「あきつしま」は漢字で「秋津島」、「秋津洲」、「蜻蛉洲」と書かれる。「大倭豊秋津島」(おおやまととよあきつしま)、「豊秋津島」(とよあきつしま)は大和を中心とする国。転じて日本国の美称となっている。 |
【「神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)後継譚】 |
神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。神渟名川耳尊が後の綏靖天皇になる。 |
【神武天皇の皇后は出雲系遺言考】 |
神武天皇が決定事項として残したことは、「天皇は神武系から立て、皇后は出雲系から立てる」という決め事をしていたとみられ、決め事は七代まで守られた。これを確認しておく。
伊須氣余理比賣(記)は、初代神武天皇の后となり二代綏靖天皇を生んだ。綏靖天皇は五十鈴依媛(天皇の姨)を后として三代安寧天皇を生み、渟名底仲媛(亦は渟名襲媛。一書に磯城県主の女)は安寧天皇の后となり四代懿徳天皇を生み、次に懿徳天皇の后天豊津媛(息石耳命の女、一書に磯城県主葉江の男弟猪手の女、泉媛と云う。一書に磯城県主太眞稚彦の女・飯日媛とも)となり五代孝昭天皇を生み、次に孝昭天皇の后となった世襲足媛(尾張連の遠祖瀛津世襲の妹)は六代孝安天皇を生み、次に孝安天皇の后(押媛・磯城県主の女)は七代孝霊天皇を生み、次に孝霊天皇の后(細媛・磯城県主大目の女)は八代孝元天皇を生み、また孝霊天皇の妃になった倭国香媛( 倭國阿禮比賣、記では意富夜麻登玖邇阿礼比売とし安寧天皇の王女)は倭迹迹日百襲姫(王女・魏志の卑弥呼)を生んでいる。何れも饒速日大王や神武(磐余彦)天皇、またその后となられた伊須氣余理比賣命の血族である。こうして初代神武天皇以降、十四代の仲哀天皇までの古代天皇は、出雲王朝の子孫を后や妃として天皇家の血族を継ぎ、大和国王朝を構成してきた。 |
【カムヤマトイワレ彦命の崩御考】 | |
カムヤマトイワレ彦命(神武天皇)が崩御する。次のように記されている。
カムヤマトイワレ彦命(神武天皇)の寿命につき、古事記は137歳、日本書紀は127歳と記している。書紀によれば磐余彦天皇の薨年は、「七十有六年の春三月の甲午の朔甲辰に天皇、橿原宮に崩りましぬ。時に年一百二十七歳。明年の秋九月の乙卯の朔丙寅に畝傍山東北陵に葬りまつる」としている。これによれば、天皇としての在位は76年間ということになる。 埋葬地につき、古事記は「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」、日本書紀は「葬畝傍山東北陵」と記している。御陵は、古事記では「畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり」、日本書紀では、「畝傍山の東北陵に葬る」と記している。壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したという記事がある。延喜式によると、神武天皇陵は平安の初め頃には東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。977(貞元2)年には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたとある。但し、中世には神武陵の所在が分からなくなった。江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起り、現在では奈良県橿原市大久保町洞の山本ミサンザイ古墳が畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)だと宮内庁により定められている。畝傍山からほぼ東北に300m離れており、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。 |
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明治維新において「神武の創業に戻れ」と叫ばれている。この史観によれば、外航族の神武派による平天下事業を聖戦視していることになる。滅ぼされた側の出雲-邪馬台国連合派の「今後の歴史に身を委ねる」高度な政治戦略を同時に見て取らねば片手落ちだろう。 |
【諡名「ハツクニシラス」天皇考】 |
「神武天皇」は、762(天平宝字6)年~764(天平宝字8)年に淡海三船(奈良時代後期の文人。弘文天皇の曽孫で内匠頭・池辺王の子。現存最古の漢詩集「懐風藻」の撰者とする説もある)により選定され追贈された漢風諡号である。 和風諡号はカムヤマトイワレヒコ。古事記は神倭伊波礼琵古命、日本書紀は神日本磐余彦尊と記す。日本書紀の神武紀は更に「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を号(なづ)けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰す」とある。また、神代紀第十一段の第一の一書に「次に狭野尊(さののみこと)。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有(しろしめ)す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す」とある。第二の一書に「次磐余彦尊、亦號神日本磐余彦火火出見尊」、第三の一書に「次神日本磐余彦火火出見尊」、第四の一書に「次磐余彦火火出見尊」と似た名を挙げている。古事記には、「若御毛沼命」(わかみけぬのみこと)、「豐御毛沼命」(とよみけぬのみこと)、「神倭伊波禮毘古命」(かむやまといはれびこのみこと)の名が見える。 「神日本」は美称で、聖徳を称えた表現。「磐余」は大和の地名。奈良県磯城郡桜井村、阿部村、香具山村付近(現在の奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井市谷には磐余山がある。5世紀から6世紀にかけ、磐余はたびたび皇居の地に選ばれた。 |
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ちなみに、第10代天皇の崇神天皇の和風諡名も「ハツクニシラススメラミコト」(古事記で所知初国之御真木天皇、日本書紀で御肇国天皇)と付けられており、両者の繋がり、同名の「ハツクニシラススメラミコト」の歴史的意味が詮索されている。 |
(私論.私見)
2019年02月19日公開、吉重丈夫「神武天皇~初代天皇による日本の建国」。
初代天皇・神武天皇は天照大神の勅命(神勅)を受けて高千穂に天降られた皇孫(天照大神の孫)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曾孫である。神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といわれ、父・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと 鵜茅不合葺命:うがやふきあえずのみこと)の第四王で、母は玉依姫尊(たまよりひめのみこと)である。玉依姫尊は皇孫・瓊瓊杵尊の孫で、父の鸕鶿草葺不合尊の母である豊玉姫の妹(海神の娘)で叔母に当たる。神日本磐余彦尊(神武天皇)には、日向におられた時の妃・吾平津媛(あひらつひめ 阿比良比売)との間に誕生された皇子である、手研耳命(たぎしみみのみこと)と岐須美美命(きすみみのみこと)の同母兄弟がおられた。神日本磐余彦尊(神武天皇)は第一皇子・手研耳命だけをお連れになって東征に出掛けられる。浪速国の白肩津(あるいは孔舎衛坂)で長髄彦(ながすねひこ)と交戦され、その時、長兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)が長髄彦の放った矢に当たり矢傷を負われた。彦五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東に向かって)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西に向かって)戦おう」と助言され、一行は南へ向かう。しかし紀国の男之水門(おのみなと 泉南市樽井)に着いたところで、彦五瀬命の矢傷が悪化し東征途中で薨去された。和歌山市の竈山(かまやま)神社に祀られている。次兄の稲飯命(いないのみこと)も、熊野に行く途中で暴風に遭い、「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行かれ、「鋤持(さびもち)の神」になられた。三番目の兄の三毛入野命(みけいりののみこと)も熊野に進む途中、暴風に遭い、「母も叔母も海神であるのに、どうして我らは波によって進軍を阻まれなければならないのか」と言って、波頭を踏み、常世に行かれた。
皇紀元年、神日本磐余彦尊は長男の手研耳命だけお連れになって大和に入られ、皇紀元年辛酉春1月1日、橿原の地で「奠都の詔」を渙発され、即位された。初代天皇・神武天皇の誕生であり、日本の建国でもある。この年を皇紀元年=神武天皇元年(前660年)と定める。
大和に入られて娶られた正妃・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を立てて皇后とされる。媛蹈鞴五十鈴媛は事代主神(ことしろぬしのかみ)の娘で、大神大物主神(おおみわおおものぬしのかみ 三輪明神)、素戔嗚尊(すさのおおのみこと 大国主命の子孫で国津神系である。ここで天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた一つに統合されることになった。皇后・五十鈴媛との間に、神八井耳命(かんやいみみのみこと)、彦八井耳命(ひこやいみみのみこと 日子八井命)、神渟名川耳命(かんぬなかわみみのみこと)の三皇子が誕生される。
皇紀42年=神武42年(前619年)1月3日、天皇は第三皇子の神渟名川耳命を皇太子と定められた。神武東征で日向から行動をともにされた第一皇子である手研耳命を差し置いての立太子で、これが後に悲劇を生むことになる。神武東征で日向から神武天皇とともに大和に入られた第一皇子・手研耳命を立太子させないで、大和の地で誕生された、それも一番歳下の異母弟・神渟名川耳命を皇太子とされたのである。天皇としては、やはり将来のことを思い、一番若い皇子を後嗣に選ばれたものと思われる。そして媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子を選ばれたことについては、地元の事代主命の娘という立場がこれからの国造りに大いに役立つとも考えられたのであろう。一番下の皇子ということはその後もあり、必ずしも第一皇子が後嗣になってはおられないし、皇位は必ずしも長子が承継するわけではないということである。皇位の継承は相続ではないし、家の継承でもないからである。神渟名川耳命が立太子されてから34年後、皇紀76年(前585年)春3月11日、在位76年、127歳で崩御された。皇統譜では137歳とある。