八重垣神社考

 (最新見直し2010.04.17日)

  整理中

 (れんだいこのショートメッセージ)
 佐太神社につき、「出雲神楽考」で若干の考察をしているが、「日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》」が詳しい。これをミックスさせてみる。

 2010.04.17日 れんだいこ拝


【八重垣神社考】
  八重垣神社 島根県松江市佐草町。旧県社。神紋は、出雲大社と同じ二十亀甲に剣花菱。神官は代々佐草氏が勤めている。佐草家は古い家系を持つ。

 高天原第一の英雄・素盞鳴尊と・国の乙女の花とうたわれた稲田姫夫婦を主祭神とし、大己貴神、青幡佐久佐日古命を合祀する。その御祭神をはじめ、6神像が描かれた壁画が元々御本殿にあり、古色蒼然雄渾な筆力は神社建築史上類例のない壁画と賞賛され、国家より重要文化財の指定を受け、現在は安全な宝物所蔵庫で公開し専門家巡観者の絶賛の的となっている。また境内には椿の木が多く、その中でも3本ほど夫婦椿と呼んでいる木は、地面から2本の木が出て地上で1本になっているので、一身同体、愛の象徴として神聖視されている。年により2葉の葉が現れることもあり、ご神徳の表れと大切にされている。

 境内奥地に佐久佐女の森があり、その奥に「鏡の池」という池がある。この池は稲田姫が御避難中の飲料水とし、姿をお写しなされた池であり、姿見の池ともいう。稲田姫命の御霊魂が根づいている池であり、縁結びの池として著名。すなわち紙片に硬貨を乗せて早く沈めば(15分以内)良縁はやく、遅く沈むと(30分以上)、縁がおそく、近くで沈むと身近な人、遠くで沈むと遠方の人と結ばれるといわれている。

 元は素盞鳴尊の八俣大蛇退治後の新居建築の地であり、元々は大原郡大東町須賀に鎮座していたのを後に佐久佐神社の境内に遷したという。境内由来記は次のように記している。
 「素盞鳴尊が八岐大蛇を御退治になる際、斐の川上から七里を離れた佐草女の森(奥の院)が安全な場所であるとしてえらび大杉を中心に八重垣を造って姫をお隠しなさいました そして大蛇を退治して、『八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を』という喜びの歌をうたい両親の許しを得て「いざさらばいざさらば連れて帰らむ佐草の郷に」という出雲神楽歌にもある通りこの佐草の地に宮造りして御夫婦の宮居とされ縁結びの道をひらき掠奪結婚から正式結婚の範を示し出雲の縁結びの大神として、又家庭和合の、子孫繁栄、安産、災難除、和歌の祖神として古来朝廷国司藩主の崇敬が厚く御神徳高い神国出雲の古社であり名社であります」。

 青幡佐久佐日古命は、出雲国風土記に大草郷の地名起源譚としてのみ見え、社名は同書に佐久佐社とある。延喜式神名帳に佐久佐神社と載せているが、当社が六所神社のいづれかはっきりしない。

創建時期は不詳ながら記紀にまつわる古社である。出雲地域では杵築大社(出雲大社)、熊野大社に次ぐ神格・崇敬を誇り朝廷からも篤く遇されていた。878(元慶2)年、正五位上を授かる。1872(明治5)年、佐久佐神社を八重垣神社に遷し、佐久佐神社として郷社、同9年に県社となる。同11年、八重垣神社と改称する。社殿背後の森に鏡の池、二本の大杉(夫婦杉)があり、奥の院が鎮座する。893(寛平5)年、巨勢金岡作の神像壁画(重要文化財)は観覧に供され、文書類は出雲意宇六社文書として発刊されている。








(私論.私見)