出雲王朝史4、国譲り前段事情考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).4.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2011.8.22日現在の政局は、民主党の代表選が次期首相選びに直結すると云うのにまことにお粗末な限りの、党内の半数でしかない菅派内の同系内限定出馬にして且つ乱立且つ「27日告示、29日投開票」と云う僅か三日間で決すると云う前代未聞のケッタイな代表選に向かいつつある。れんだいこは、その根源に現代政治家の揃いも揃っての日本の国体に関する無知蒙昧を感じる。こういう時の政治は面白くない。よって古代史に遊ぶことにする。

 いわゆる菅派、自公系政治家とは、何の恨みがあってか分からないが、日本を裏から操る国際金融資本帝国主義の、その手下であるジャパンハンドラ―ズの手先として、日本熔解、解体に嬉々として勤しむ宦官勢力である。この論証は別の機会に譲るが驚くほどの反日意識を屯(たむろ)させている。よしんば靖国神社を詣でるなどして愛国者ぶるにせよ、中曽根-小泉同様の偽装でしかない。この連中の売国奴的動きは病的で治癒し難しであろうが、日本人民大衆までその気にさせる訳にはいかない。日本人民大衆を踏み留まらせる為に、日本の国體論の一つを構成する日本神話上の粋たる国譲り譚を確認し、日本人のアイデンティティーを呼び戻す一助にしてみたい。国譲り譚は、北一輝さえ捉え損なった日本の真の国體論を垣間見る貴重な神話なので心耳を澄まして傾けよ。

 紀元1、2、3世紀頃のことと推定しているが、当時の倭国は出雲王朝が治めていた。出雲王朝こそ大和王朝に先立つ先行王朝であり、日本王朝史はこれより始まると位置づけ直すべきである。出雲王朝の最後は大国主の命の御代になる。大国主の命は、それまでの旧出雲王朝の東部王権とスサノウによって創始された新出雲王朝の西部王権を手に入れ統一出雲王朝を経営していた。かっての出雲王朝の圏域を更に拡大し、まさに大国主の命と云われるに値する大国を創出しつつあった。東西出雲を統一し、更に次第に倭国の統合に成功しつつあった絶頂期の大国主の命政治の先に待ち受けていたのが高天原天孫王朝を僭称する外航族による出雲攻略であった。両者は、長い談判の末に国譲りで決着する。この経緯と決末のさせ方が日本政治史上の一大政変となっている。或る意味で、この時に日本政治の手打ちの型が創られ、はるけき今日まで続いていると読みたい。これを記す国譲り譚は日本神話の粋である。

 「高天原天孫王朝を僭称する外航族是、出雲王朝の国津族邪」とする皇国思想で塗り固められた戦前の皇国史観は、この国譲り譚を天孫側の聖戦として描いている。故に、皇国史観では出雲王朝は常に陰の国、黄泉の国として否定的に描かれることになる。れんだいこは、これに異議を唱え、出雲王朝側を是とする史観で国譲り譚を綴ってみたい。先に「検証学生運動上下巻」で日本左派運動を平衡的に分析して見たが、同じ手法で高天原王朝と出雲王朝のそれぞれの正義を描いてみたい。何度も書き換え、語り継ぐに値する神話をものしてみたい。どこまで能く為し得るか堪能あれ。

 戦後は、特殊なイデオロギーでしかない皇国史観の見直し、日本古代史の読み変えが必要であったところ、日本神話譚そのものを荒唐無稽として皇国史観と共に放擲してしまった。これにより、戦後の日本人民には日本古代史に対する軽侮による無知が生まれ、その結果、己の民族と国家の由来を知らない根なし草的コスモポリタンを粗製乱造してしまった。その果てにあるのが、2011.8.22日現在の政局であると見定めたい。日本古代史と現代史はかく繫がっている。今その非を認め、日本古代史上の最重要事変である国譲り史を具現させ、日本人必須の歴史知識としたい。これを挨拶とする。以下、検証する。「国譲り神楽」、千家尊祀著「出雲大社」その他を参照する。

 2006.12.3日、2011.8.22日再編集 れんだいこ拝


国譲り前段事情考その1、アマテラスの「天壌無窮の神勅」発令譚】
 日本神話は、「天地創造譚(元始まり譚)」、「国土、諸神創生譚」、「高天原王朝、天照大神(アマテラスオオミカミ)譚」に続いて「国譲り譚」を記す。ここでその前段事情を確認する。これは凡そ10編より成る。その1を仮に「国譲り前段事情考その1、アマテラスの「天壌無窮の神勅」発令譚」と命名する。

 大国主の命の下に出雲王朝が連合国家を形成しつつあった時、所在がはっきりしないが高天原に住むと云う「高天原王朝」(以下、来航族と云う)が立ち現われ、その最高神であるアマテラスが、葦原の中つ国を支配する出雲王朝平定を指令する。アマテラスの漢字名は「天照大御神」又は「大御神天照大神」。これを仮に「国譲り前段事情考その1、アマテラスの「天壌無窮の神勅」発令譚」と命名する。
 その頃、豊葦原の瑞穂の国とも中津国とも云われる出雲の国を、大国主の命という神様が治めていた。来航族は、開墾され穀物、稲が豊かに育っている様を羨ましく思い、領地にしようとして中津国を治めている出雲王朝へ国譲りの特使を送ることにした。アマテラスは知恵の神オモイカネと謀り、天の安の河原に神々を集め、「葦原の中つ国は、国つ神どもが騒がしく対立している。中でも大国主率いる出雲が強大国である。豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、我が子孫が治めるべき地として相応しい。天壌無窮の地なり。出雲に使者を派遣せよ」と指令した。この時の宣言が、「天壌無窮の神勅」と云われるものである。日本書紀巻第二は次のように記している。
 「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、これ我が子孫の王たるべき地なり。宜(よろ)しく皇孫をして統治に当たらせるべし。行牟(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさんことを。まさに天壌無と窮りなけむ(天壌無窮なるべし)」。
(私論.私見)
 「高天原王朝アマテラスの天壌無窮の神勅発令譚」より「国譲り譚」が始まる。出雲王朝の支配地域が「葦原の中つ国」とされていることが注意を要する。「高天原、天照大神、天孫族」の元々は出雲王朝御代の神道に於ける聖地、聖神、聖族である。その意味で、記紀神話構図の高天原、天照大神、天孫族は歴史詐術ではなかろうかと窺う。正しくは天孫族は来航族であり、高天原、天照大神は来航族による権威付けの為の出雲王朝御代の信仰神の剽窃僭称に過ぎない。れんだいこ史観はかく窺う。以下、これを踏まえた上で「高天原、天照大神、天孫族」を解するものとする。

 2014.4.11日 れんだいこ拝

【国譲り前段事情考その2、アメノオシホミミの尊派遣譚】
 来航族は、アマテラスの息子のアメノオシホミミの尊を使者として派遣する。尊の漢字名は「正勝吾勝勝速日/天の忍穂耳尊」(まさかつあかつかちはやひ/あめのおしほみみのみこと)。これを仮に「国譲り前段事情考その2、アメノオシホミミの尊」とする。次のように記されている。
 先ず、アマテラス大御神は、アマテラス大御神から数えて二代目に当たるアメノオシホミミの尊に対し、「葦原中国は私の子のアメノオシホミミの尊が治めるべき国だ」と述べ、「言向和平」(ことむけやわす)為に天降りを命じた。大国主が治めている葦原の中つ国へ向かおうと天の浮橋を渡ったところ、それから先は抵抗が強く進むことができなかった。平定不能と考えたアメノオシホミミの尊は高天原へ戻り、「葦原の中つ国は大変騒がしく手に負えない」とアマテラスに伝えた。
 日本書紀卷第二神代下・第九段本文が次のように補足している。
 アマテラス大神の御子アメノオシホミミの尊は、タカミムスヒ(高御産巣日神、高皇産靈、高木神)の尊の娘、幡千千姫(たくはたちぢひめ)を娶り、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎ)を生む。皇祖(みおや)高皇産靈尊は特に憐愛を鍾(あつ)め大事に育てた。遂に皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原の中つ國の主(きみ)としようと考えた。しかし、彼の地に螢火の光(かかや)く(勝手に光る)神、及び蠅聲(さばえな)す(騒がしい)邪神が多くいた。又、草木さえもしばしば言語(ものいう)状態であった。

 これが第一次失敗である。出雲軍の強靭さが分かる。これが「国譲り失敗譚その1」となる。

【国譲り前段事情考その3、アメノオシホヒの尊派遣譚】
 アメノオシホミミの尊の失敗により、アメノオシホミミの尊の弟のアメノオシホヒの尊を第二陣の使者として派遣する。尊の漢字名は「天穂日命」、「天菩比神」。これを仮に「国譲り前段事情考その3、アメノオシホヒの尊派遣譚」とする。次のように記されている。
 次に、天照大御神から数えて二代目に当たる天押穂耳の時、アマテラス大御神とタカミムスヒが天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原の中つ国に派遣すべきか問い談じ合った。思金神(おもいかね)と八百万の神が相談して、「アメノオシホヒを大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になった。これによりアメノオシホヒの尊が派遣された。但し、アメノオシホヒの尊は大国主に靡いてしまい、三年たっても高天原に戻らなかった。(神代妃下巻に「この神、大己貴神に倭媚(ねいび)して、年に及ぶまで、尚ほ報聞せず」とある) この時は、大国主の命が旺盛に国づくりしている時で、「この葦原の中津国は未だ国が若い。今しばらくは大国主の命に治めさせよう」ということになった。
 そこで、タカミムスヒの尊は八十諸神(やそもろかみたち)を召し集めて、「我、葦原の中つ國の邪鬼(邪神達)を掃い平らげんと欲す。まさに誰を遣さば宜(よ)けん。惟(これ)いまし諸神(もろかみたち)、知るを隠す所勿(なか)れ」と尋ねた。皆の神は「アメノオシホヒは、これ神の傑(いさお)なり。試ざるべけんや」と進言した。そこで、皆の言葉に従ってアメノオシホヒを向わせ、平定させようとした。しかしこの神は国津神の首魁大己貴神(おおあなむち)に媚びて三年になっても報告に戻らなかった。

 アメノオシホヒの尊も又、出雲王朝を成敗するのではなく寝返った。これが第二次失敗である。アメノオシホヒの尊が寝返った理由として、出雲王朝の統治の質が高度且つ神人和楽的な理想社会であった為に感服したと思われる。これが「国譲り失敗譚その2」となる。

【国譲り前段事情考その4、オオソビノミクマノウシ派遣譚】
 そこで、アメノオシホヒの尊の子、オオソビノミクマノウシ又の名をタケミクマノウシを遣わした。オオソビノミクマノウシの漢字名は「熊大背飯三熊之大人」、又の名のタケミクマノウシの漢字名は「武三熊之大人」。これを仮に「国譲り前段事情考その4、オオソビノミクマノウシ派遣譚」とする。これもまた、その父と同じく報告に戻らなかった。これが「国譲り失敗譚その3」となる。

【国譲り前段事情考その5、タケヒナドリの尊派遣譚】
 次に、三代目になって、タケヒナドリの尊が派遣された。タケヒナドリの尊の漢字名は「武夷鳥の命」。これを仮に「国譲り前段事情考その5、タケヒナドリの尊派遣譚」とする。ところが、タケヒナドリの尊も大国主の命の国土経営に共感し、誼を通じることになった。これが「国譲り失敗譚その4」となる。

【国譲り前段事情考その6、アメノワカ彦派遣譚】
  アメノオシホヒの命の失敗により、アマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦を第五陣の使者として派遣する。アメノワカ彦の漢字名は「天稚彦」又は「天若日子」。これを仮に「国譲り前段事情考その6、アメノワカ彦派遣譚」とする。次のように記されている。
 再び神々が集まって相談した結果、アマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦が派遣された。先に送り込まれたアメノホヒの神が失敗したのは、武器を持たずに出かけたせいかも知れないと考えた神々は、アメノマカコ弓(漢字名は「天之麻迦古弓」又は「天の加護弓」、「天鹿兒弓」)とアメノハハ矢(「天羽羽矢」又は「天眞鹿兒矢」)を援軍として同行させた。ところが、大国主は、ウツクシ二(顯國)玉神の娘シタテル姫(下照比賣)を介添えさせ、アメノワカ彦はシタテル姫の美しさにみとれ、これを妻として住まい始めた。こうして又も篭絡された。
 そこで高皇産靈尊は更に諸神(もろかみたち)を集えて、遣わすべき者を尋ねた。皆は「天國玉(あまつくにたま)の子、アメノワカ彦、これ壮士なり。宜(よろし)く之を試みるべし」と進言した。そこで、高皇産靈尊はアメノワカ彦にアメノマカコ弓及びアメノハハ矢を授けて遣わした。だがこの神も忠実ではなかった。到着するや顕國玉(うつしくにたま)の女子(むすめ)シタテル姫またの名は高姫(たかひめ)、またの名は稚國玉(わかくにたま)を娶って留まり住み、「我は亦葦原中國を馭(し)らさんと欲す」と言い報告に戻らなかった。
 天照大御神と高木神が天の安の河の河原に八百万の神々を集め、今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々と思金神が相談して「アメノワカ彦を遣わすべき」と答えた。そこで、アメノワカ彦にアメノマカコ弓とアメノハハ矢と与えて葦原中国に遣わした。ところが、大国主の命の娘・下照姫と恋仲になり、武夷鳥の命同様に大国主の命に誼を通じることになった。8年たっても高天原に戻らなかった。
 日本書紀第九段一書(一)は次のように記している。
 アマテラス、天稚彦(あめのわかひこ)に「豐葦原中國(とよあしはらのなかつくに)は、これ我が御子の王たるべき地也。然(しか)れども慮(おもいみ)るに殘賊強暴横惡之(ちはやぶるあしき)神あり。故、汝、先ず往きて之を平げよ」と勅(みことのり)す。そして彼に天鹿兒弓(あまのかごゆみ)、天眞鹿兒矢(あまのまかごや)を授け遣した。アメノワカ彦は勅を受け来たり降るものの、多くの國神(くにつかみ)の女子(むすめ)を娶り八年経っても報告に戻らなかった。

 これによると、今度はアマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦が派遣され、今度は武器を持たせたと云う。ところが、大国主の計略によりウツクシ二玉神の娘シタテル姫を介添えさせたところ、先のアメノオシホヒの命同様にアメノワカ彦も取り込まれたことになる。アメノオシホヒの命は「3年たっても復命しなかった」がアメノワカ彦は「8年たっても復命しなかった」。その為、高天原王朝の使者が秘かに派遣されアメノワカ彦に問い質したが、アメノワカ彦の親出雲王朝姿勢が変わらかった。アメノワカ彦もアメノオシホヒの命同様に出雲王朝の統治の質の高さ且つ神人和楽的な理想社会ぶりに敬服し親出雲王朝派に転じたと思われる。これが「国譲り失敗譚その5」となる。
(私論.私見)
 先遣隊の第一使者としてのアメノオシホミミの命、第二陣としてのアメノオシホヒの命、第三陣としてのアメノワカ彦が派遣されたが、第一陣のアメノオシホミミの命は抵抗が強く出雲王朝まで辿り着けず、第二陣のアメノオシホヒの命、第三陣のアメノワカ彦は出雲に辿り着いたものの共に篭絡され、出雲王朝側に帰順する始末となった。 「数次の国譲り失敗譚」は、来航族の出雲王朝征伐が並大抵では進捗しなかったことを物語っている。

【国譲り前段事情考その7、キジの鳴女派遣譚】
 アメノワカ彦の尊の失敗により、キジの鳴女を送った。これを仮に「国譲り前段事情考その7、キジの鳴女派遣譚」とする。次のように記されている。
 8年経過した頃、アマテラスとオモイカネの命は、キジの鳴女を送った。キジは、アメノワカ彦の屋敷の木の枝に止まり、なぜ8年も報告を怠っているのかとなじって鳴いた。アメノワカ彦は、アマノサグメの進言を受けて射かけたところ、鳥の胸を貫いて高天原まで飛んでいった。タカミムスヒの家の壁に刺さった。タカミムスヒが、『アメノワカ彦に邪心がなければ当るな。高天原に背いているなら射殺せ』と念じて矢を放った。その矢がアメノワカ彦に当って死んでしまった」。
 アマテラス大御神と高木神がまた八百万の神々に、アメノワカ彦が戻らないので、いずれの神を使わして理由を訊ねるべきかと問うと、八百万の神々と思金神は「雉(きぎし)の鳴女(なきめ)と呼ばれる七瀬の雉を遣わすべき」と答えた。天つ神は、鳴女に、葦原中国の荒ぶる神どもを平定せよと言ったのに、何故8年経ても帰らないのか天の若彦の命の動静を探らせるべく派遣した。鳴女が天より下って、アメノワカ彦の家の木にとまり理由を問うべく一鳴きした。天佐具賣(あまのさぐめ)が、「この鳥は鳴き声が不吉だから射殺してしまえ」とアメノワカ彦をそそのかした。そこでアメノワカ彦は、高木神から与えられたアメノマカコ弓とアメノハハ矢で鳴女の胸を射抜き、その矢は高天原の高木神の所まで飛んで行き舞い戻った。
 日本書紀の卷第二神代下・第九段本文は次のように記している。
 この時、高皇産靈尊はその長いこと報告に来ないことを怪しみ、無名雉(ななしきぎし)を遣わしこれを伺う。その雉(きぎし)飛び降(くだ)り、天の稚彦が門前に植(たてる)湯津杜木(ゆつかつら)の杪(すえ)に止まりき。すると、天探女がこれを見てアメノワカ彦に「奇(く)しき鳥来て杜(かつら)の杪(すえ)に居(お)り」と告げた。アメノワカ彦は高皇産靈尊の授けしアメノマカコ弓とアメノハハ矢を取りて射て雉を斃(ころ)した。その矢は雉の胸を貫いて、高皇産靈尊の座(いま)す前(御前)に至る。
 日本書紀第九段一書(一)は次のように記している。
 そこでアマテラスは思兼神(おもいかね)を召して、その来ない理由を尋ねた。思兼神は思いて「また雉(きぎし)を遣わして問うべし」と進言した。そこで彼の神の謀(はかりこと)に従い、雉を遣わして見に行かせた。雉は飛び下ると、アメノワカ彦の門の前の湯津杜樹(ゆつかつら)の杪(すえ)に止まり「アメノワカ彦、何の故にぞ八年の間、未だ復命(かえりこと)あらざる」と鳴き問う。その時に國神の天探女(あまのさぐめ)が雉を見て「鳴く聲の惡しき鳥、この樹の上に在り。これを射るべし」と唆した。アメノワカ彦はそれを聞いて天神(あまつかみ)の授るアメノマカコ弓とアメノハハ矢を取り射ると、その矢は雉の胸を貫き遂に天神の所にまで届いた。
 日本書紀第九段一書(六)は次のように記している。
 時に高皇産靈尊は、「昔、アメノワカ彦を葦原中國に遣す。今に至りて久しく來たらざる所以(ゆえ)は、蓋(けだ)し是(これ)國神(くにつかみ)、強禦之者(いむかうもの)ありてか」と勅し、無名雄雉(ななしおのきぎし)を遣し見に行かせた。この雉(きぎし)、天降り来るなり粟田・豆田を見て其処に留りて帰らず。そこで、また無名雌雉(ななしめのきぎし)を遣す。この鳥下り來て、アメノワカ彦が射られ、その矢にあたり、上りて報(かえりこともう)す(報告をした)。
 高木神は血が付いていたその矢を、アメノワカ彦に与えた天羽々矢であると諸神に示して、「アメノワカ彦の勅(みことのり)に別状なくて、悪い神を射た矢が飛んで来たのなら、この矢はアメノワカ彦に当たるな。もしアメノワカ彦に邪心あれば、この矢に当たれ」と言って天羽々矢を下界に投げ返した。矢はアメノワカ彦の胸を射抜き、彼は死んでしまった。
 日本書紀の卷第二神代下・第九段本文は次のように記している。
 高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、その矢を見て「この矢は則ち昔、我が賜いしアメノワカ彦の矢也。その矢血に染まりたり。蓋(けだ)し國神(くにつかみ)と相い戰いて然(しか)るか」と言った。そして、矢を取って投げ下して返した。その矢は落下して天稚彦の胸に命中した。彼は新嘗(にいなえ)して休み臥(ふ)せる時で最中で矢に中りて立ちて死にき。
 日本書紀第九段一書(一)は次のように記している。
 その矢を見た天神は「此は昔我が天稚彦に賜いし矢也。今、何の故にか来る」と矢を取りて「若し惡(きたな)き心以ちて射るならば、則ちアメノワカ彦、必ず害に遭わん。もし平らかなる心以ちて射るならば、則ち恙なくあらん」と呪(しゅ)をかけ投射し返した。その矢落ち下り、アメノワカ彦の高胸(たかむなさか)に中(あた)り瞬時に死に至る。

 キジの鳴女がアメノワカ彦に射殺され、今度はアメノワカ彦が高木神に射殺された。これが「国譲り失敗譚その6」となる。

【国譲り前段事情考その8、アメノワカ彦葬儀譚】
 アメノワカ彦の死を嘆く下照比賣の泣き声を、天にいるアメノワカ彦の父・天津國玉神や母が聞き、下界に降りて悲しみ喪屋(もや)をつくった。アジシキタカヒコネ(「阿遅志貴高日子根」、「味耜高彦根」)の神が弔いに訪れた時、アメノワカ彦によく似ていたため、アメノワカ彦の父と母が「我が子は死なないで、生きていた」と言ってアジシキタカヒコネ神の手足にすがりついて泣いた。アジシキタカヒコネ神は、「仲の良い友だちだったからこそ弔いに来ただけのこと。穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、大量で喪屋を切り倒し蹴り飛ばしてしまった。この喪屋が美濃国の喪山である。アジシキタカヒコネ神が怒って飛び去ってしまうと、妹の高比賣命は「アジシキタカヒコネは私の兄です」と歌を詠んだ。これを「国譲り前段事情考その8、アメノワカ彦葬儀譚」とする。

 日本書紀の卷第二神代下・第九段本文は次のように記している。
 アメノワカ彦の妻のシタテル姫が哭(な)き泣(いさ)ち悲哀(かなし)む声は天に達した。この時、天國玉がその泣き声を聞いて、アメノワカ彦の死を知り、疾風(はやて)を遣わして、屍を天に運ばせ、すぐに喪屋を造って殯(もがり)を行った。(中略) そうして八日八夜、啼(おら)び哭(な)き悲しみ偲んだ。これより前、アメノワカ彦が葦原中國にいた頃、アジシキタカヒコネの神と親友であった。そこで、アジシキタカヒコネの神は天に昇りて喪を弔(とむら)った。ところが、この神はアメノワカ彦の平生の儀(よそおい)によく似ていた。そこでアメノワカ彦の親族や妻子は皆、「吾が君は猶(なお)在り」と言い、衣服にすがりついて喜びにわいた。するとアジシキタカヒコネの神は怒り色を作(な)して、「朋友の道理宜(よろ)しく相い弔うべし。故、汚穢(けがれ)を憚(はばか)らず遠きより赴(おもむ)き哀(かなし)む。何ぞ誤りて我を亡者となす」と言って、大葉刈(おおはがり)またの名は神戸劒(かむどのつるぎ)を抜いて、喪屋を斬り倒した。これが落ちて今の美濃國(みののくに)藍見川(あいみのかわ)の上(かみ)に在る喪山(もやま)になった。
 日本書紀第九段一書(一)は次のように記している。
 そこで、アメノワカ彦の妻子たちが天から降り来て、柩を持ち帰り、天に喪屋(もや)を作って殯(もがり)をし泣いた。アジシキタカヒコネの神はアメノワカ彦の親友だったため、この神も天に昇って喪を弔い、大いに泣いた。ところが、この神の容姿は天稚彦と恰然(ひとし)く相い似てた。そこで、アメノワカ彦の妻子たちはこれを見て喜び「吾が君は猶(なお)在り」と言って、その衣服にとりつき離さなかった。するとアジシキタカヒコネの神は怒り「朋友(ともがき)喪亡(うせ)たるが故に、我、即ち來て弔う。如何(いかに)ぞ死人を我に誤つや」と言って、十握劒で喪屋を斬り倒した。その小屋が落ちて美濃國(みののくに)の喪山(もやま)となった。

【国譲り前段事情考その9、タケミカヅチの男、フツヌシの神派遣譚】
 高天原王朝は、第七陣としてタケミカヅチ軍を送る。これを仮に「国譲り前段事情考その9、タケミカヅチの男、フツヌシの神派遣譚」とする。これが来航族の最後の切り札となった。
 「アマテラスは次に、天の安の河の川上に住む天の岩屋にいる剣の神であるイツノヲハバリ神に白羽の矢を立てた。イツノヲハバリ神は、息子のタケミカヅチの男を推薦し、フツヌシ神も同行させることになった。こうして、アマテラスは、アメノトリ船神をそえて、葦原中つ国へ遣わした。これが三度目の派遣となった。今度の軍使は篭絡されることを厳に戒め、降伏するかさもなくば戦争によって決着させるとの決意で向った」。

 イツノヲハバリ神の漢字名は「伊都乃尾羽張神」。タケミカヅチの男の漢字名は、古事記が「建御雷之男神」又は「建御雷神」、日本書紀が「武甕槌」。フツヌシ神の漢字名は、古事記が「布都努志命」、日本書紀が「経津主神」。アメノトリ船神の漢字名は「天鳥船神」。アメノトリ船神をフツヌシの尊と同一人と解する向きもあるが別神とも考えられる。即ち、フツヌシ神に副(そ)えてタケミカヅチ、タケミカヅチに副(そ)えてアメノトリ船神と解することができるからである。
 天つ神は、度々勅使を降して、出雲の国を献上せよと大国主の命と交渉するが、これらの勅使たちは大国主の命の家来となってその職務を果たさなかった。そこで、アマテラス大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、思金神と八百万の神々は、「稜威雄走神(いつのおはばり)か、その子のタケミカヅチを遣わすべき」と答えた。天之尾羽張(あめのおはばり)は「タケミカヅチを遣わすべき」と答えた。タケミカヅチにアメノトリ船神を副えて葦原中国に遣わした。これが最後となった。
 日本書紀の卷第二神代下・第九段本文は次のように記している。
 この後、高皇産靈尊は更に諸神を集えて、葦原中國に遣わすべき神を選んだ。皆は「磐裂根裂神(いはさくねさく)の子、磐筒男(いはつつのお)・磐筒女(いはつつのめ)が生める子、フツヌシ神、これ將(まさ)に佳(よ)けん」と進言する。この時、天石窟(あまのいわや)に住む神、稜威雄走神(いつのおはしり)の子・甕速日神(みかはやひ)、甕速日神の子・樋速日神(ひはやひ)、樋速日神の子・タケミカヅチがいた。この神が進み出て、「豈(あに)唯(ただ)フツヌシ神獨り大夫(ますらお)にして、我は大夫に非ずや(何故、フツヌシ神だけが立派で、私は立派ではないのか)」と言った。大変熱心に語るので、フツヌシ神に副(そ)えて葦原中國を平定させることにした。
 日本書紀第九段一書(二)が次のように補足している。
 「一書曰。天神遣経津主神。武甕槌神、使平定葦原中国。時二神曰。天有悪神。名曰天津甕星。亦名天香香背男。請、先誅此神。然後下撥葦原中国。是時斎主神号斎之大人。此神今在乎東国楫取之地也」(第九段一書第二)。
 「一書曰く、天神(あまつかみ)のフツヌシ神、タケミカヅチ神が、葦原中国を平定する為に派遣された。この時、二神(ふたはしらのかみ)は次のように述べた。『天に悪神がいる。その名は天津甕星(あまつみかほし)と云う。亦の名を天香香背男(あまのかかせお)と云う。請う、先ずこの神を誅せんことを要求(請)する。然る後、葦原中国に向けて発し下ろううと思う』。この時、斎主神号斎之の大人(いわいのうし)曰く、この神とは今は東国(あづまのくに)楫取(かとり)之地に居る神のことなるかと」。

【国譲り前段事情考その10、大国主のヤマトの三輪山宮設営譚】
 日本書紀には、国譲り直前に次のような逸話を記している。これを仮に「国譲り前段事情考その10、大国主のヤマトの三輪山宮設営譚」と命名する。
 「或る時、大国主の命が浜辺を逍遥している時、海に妖しい光りが照り輝き、忽然と浮かび上がる者が居た。大国主の命が名を問うと、『吾は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である』と云い、更に、『ヤマトの三輪山に住みたい』と云う。大国主の命は、云われるままに宮を建て、移し祀った」。
(私論.私見)
 これが後に、大物主の神登場の伏線となり、出雲王朝と大和の歴史的繋がりを伝えていることになる。三輪山宮は、現在も奈良県桜井市の三輪山を御神体として大神神社として祀られている。この逸話が何故に挿入されているのだろうか。思うに、出雲王朝側の援軍として大和の三輪山派が加担してきたことを暗示しているのではなかろうか。国譲り後の大国主の命の大和入りにも関係してくる興味深い記述となっている。

 この後は「別章【出雲王朝神話考】の国譲り譚の稿に記す」





(私論.私見)