出雲王朝史4、国譲り前段事情考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).4.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2011.8.22日現在の政局は、民主党の代表選が次期首相選びに直結すると云うのにまことにお粗末な限りの、党内の半数でしかない菅派内の同系内限定出馬にして且つ乱立且つ「27日告示、29日投開票」と云う僅か三日間で決すると云う前代未聞のケッタイな代表選に向かいつつある。れんだいこは、その根源に現代政治家の揃いも揃っての日本の国体に関する無知蒙昧を感じる。こういう時の政治は面白くない。よって古代史に遊ぶことにする。 いわゆる菅派、自公系政治家とは、何の恨みがあってか分からないが、日本を裏から操る国際金融資本帝国主義の、その手下であるジャパンハンドラ―ズの手先として、日本熔解、解体に嬉々として勤しむ宦官勢力である。この論証は別の機会に譲るが驚くほどの反日意識を屯(たむろ)させている。よしんば靖国神社を詣でるなどして愛国者ぶるにせよ、中曽根-小泉同様の偽装でしかない。この連中の売国奴的動きは病的で治癒し難しであろうが、日本人民大衆までその気にさせる訳にはいかない。日本人民大衆を踏み留まらせる為に、日本の国體論の一つを構成する日本神話上の粋たる国譲り譚を確認し、日本人のアイデンティティーを呼び戻す一助にしてみたい。国譲り譚は、北一輝さえ捉え損なった日本の真の国體論を垣間見る貴重な神話なので心耳を澄まして傾けよ。 紀元1、2、3世紀頃のことと推定しているが、当時の倭国は出雲王朝が治めていた。出雲王朝こそ大和王朝に先立つ先行王朝であり、日本王朝史はこれより始まると位置づけ直すべきである。出雲王朝の最後は大国主の命の御代になる。大国主の命は、それまでの旧出雲王朝の東部王権とスサノウによって創始された新出雲王朝の西部王権を手に入れ統一出雲王朝を経営していた。かっての出雲王朝の圏域を更に拡大し、まさに大国主の命と云われるに値する大国を創出しつつあった。東西出雲を統一し、更に次第に倭国の統合に成功しつつあった絶頂期の大国主の命政治の先に待ち受けていたのが高天原天孫王朝を僭称する外航族による出雲攻略であった。両者は、長い談判の末に国譲りで決着する。この経緯と決末のさせ方が日本政治史上の一大政変となっている。或る意味で、この時に日本政治の手打ちの型が創られ、はるけき今日まで続いていると読みたい。これを記す国譲り譚は日本神話の粋である。 「高天原天孫王朝を僭称する外航族是、出雲王朝の国津族邪」とする皇国思想で塗り固められた戦前の皇国史観は、この国譲り譚を天孫側の聖戦として描いている。故に、皇国史観では出雲王朝は常に陰の国、黄泉の国として否定的に描かれることになる。れんだいこは、これに異議を唱え、出雲王朝側を是とする史観で国譲り譚を綴ってみたい。先に「検証学生運動上下巻」で日本左派運動を平衡的に分析して見たが、同じ手法で高天原王朝と出雲王朝のそれぞれの正義を描いてみたい。何度も書き換え、語り継ぐに値する神話をものしてみたい。どこまで能く為し得るか堪能あれ。 戦後は、特殊なイデオロギーでしかない皇国史観の見直し、日本古代史の読み変えが必要であったところ、日本神話譚そのものを荒唐無稽として皇国史観と共に放擲してしまった。これにより、戦後の日本人民には日本古代史に対する軽侮による無知が生まれ、その結果、己の民族と国家の由来を知らない根なし草的コスモポリタンを粗製乱造してしまった。その果てにあるのが、2011.8.22日現在の政局であると見定めたい。日本古代史と現代史はかく繫がっている。今その非を認め、日本古代史上の最重要事変である国譲り史を具現させ、日本人必須の歴史知識としたい。これを挨拶とする。以下、検証する。「国譲り神楽」、千家尊祀著「出雲大社」その他を参照する。 2006.12.3日、2011.8.22日再編集 れんだいこ拝 |
【国譲り前段事情考その1、アマテラスの「天壌無窮の神勅」発令譚】 | ||
日本神話は、「天地創造譚(元始まり譚)」、「国土、諸神創生譚」、「高天原王朝、天照大神(アマテラスオオミカミ)譚」に続いて「国譲り譚」を記す。ここでその前段事情を確認する。これは凡そ10編より成る。その1を仮に「国譲り前段事情考その1、アマテラスの「天壌無窮の神勅」発令譚」と命名する。 大国主の命の下に出雲王朝が連合国家を形成しつつあった時、所在がはっきりしないが高天原に住むと云う「高天原王朝」(以下、来航族と云う)が立ち現われ、その最高神であるアマテラスが、葦原の中つ国を支配する出雲王朝平定を指令する。アマテラスの漢字名は「天照大御神」又は「大御神天照大神」。これを仮に「国譲り前段事情考その1、アマテラスの「天壌無窮の神勅」発令譚」と命名する。
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「高天原王朝アマテラスの天壌無窮の神勅発令譚」より「国譲り譚」が始まる。出雲王朝の支配地域が「葦原の中つ国」とされていることが注意を要する。「高天原、天照大神、天孫族」の元々は出雲王朝御代の神道に於ける聖地、聖神、聖族である。その意味で、記紀神話構図の高天原、天照大神、天孫族は歴史詐術ではなかろうかと窺う。正しくは天孫族は来航族であり、高天原、天照大神は来航族による権威付けの為の出雲王朝御代の信仰神の剽窃僭称に過ぎない。れんだいこ史観はかく窺う。以下、これを踏まえた上で「高天原、天照大神、天孫族」を解するものとする。 2014.4.11日 れんだいこ拝 |
【国譲り前段事情考その2、アメノオシホミミの尊派遣譚】 | |||
来航族は、アマテラスの息子のアメノオシホミミの尊を使者として派遣する。尊の漢字名は「正勝吾勝勝速日/天の忍穂耳尊」(まさかつあかつかちはやひ/あめのおしほみみのみこと)。これを仮に「国譲り前段事情考その2、アメノオシホミミの尊」とする。次のように記されている。
これが第一次失敗である。出雲軍の強靭さが分かる。これが「国譲り失敗譚その1」となる。 |
【国譲り前段事情考その3、アメノオシホヒの尊派遣譚】 | ||
アメノオシホミミの尊の失敗により、アメノオシホミミの尊の弟のアメノオシホヒの尊を第二陣の使者として派遣する。尊の漢字名は「天穂日命」、「天菩比神」。これを仮に「国譲り前段事情考その3、アメノオシホヒの尊派遣譚」とする。次のように記されている。
アメノオシホヒの尊も又、出雲王朝を成敗するのではなく寝返った。これが第二次失敗である。アメノオシホヒの尊が寝返った理由として、出雲王朝の統治の質が高度且つ神人和楽的な理想社会であった為に感服したと思われる。これが「国譲り失敗譚その2」となる。 |
【国譲り前段事情考その4、オオソビノミクマノウシ派遣譚】 |
そこで、アメノオシホヒの尊の子、オオソビノミクマノウシ又の名をタケミクマノウシを遣わした。オオソビノミクマノウシの漢字名は「熊大背飯三熊之大人」、又の名のタケミクマノウシの漢字名は「武三熊之大人」。これを仮に「国譲り前段事情考その4、オオソビノミクマノウシ派遣譚」とする。これもまた、その父と同じく報告に戻らなかった。これが「国譲り失敗譚その3」となる。 |
【国譲り前段事情考その5、タケヒナドリの尊派遣譚】 |
次に、三代目になって、タケヒナドリの尊が派遣された。タケヒナドリの尊の漢字名は「武夷鳥の命」。これを仮に「国譲り前段事情考その5、タケヒナドリの尊派遣譚」とする。ところが、タケヒナドリの尊も大国主の命の国土経営に共感し、誼を通じることになった。これが「国譲り失敗譚その4」となる。 |
【国譲り前段事情考その6、アメノワカ彦派遣譚】 | |||||
アメノオシホヒの命の失敗により、アマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦を第五陣の使者として派遣する。アメノワカ彦の漢字名は「天稚彦」又は「天若日子」。これを仮に「国譲り前段事情考その6、アメノワカ彦派遣譚」とする。次のように記されている。
これによると、今度はアマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦が派遣され、今度は武器を持たせたと云う。ところが、大国主の計略によりウツクシ二玉神の娘シタテル姫を介添えさせたところ、先のアメノオシホヒの命同様にアメノワカ彦も取り込まれたことになる。アメノオシホヒの命は「3年たっても復命しなかった」がアメノワカ彦は「8年たっても復命しなかった」。その為、高天原王朝の使者が秘かに派遣されアメノワカ彦に問い質したが、アメノワカ彦の親出雲王朝姿勢が変わらかった。アメノワカ彦もアメノオシホヒの命同様に出雲王朝の統治の質の高さ且つ神人和楽的な理想社会ぶりに敬服し親出雲王朝派に転じたと思われる。これが「国譲り失敗譚その5」となる。 |
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先遣隊の第一使者としてのアメノオシホミミの命、第二陣としてのアメノオシホヒの命、第三陣としてのアメノワカ彦が派遣されたが、第一陣のアメノオシホミミの命は抵抗が強く出雲王朝まで辿り着けず、第二陣のアメノオシホヒの命、第三陣のアメノワカ彦は出雲に辿り着いたものの共に篭絡され、出雲王朝側に帰順する始末となった。 「数次の国譲り失敗譚」は、来航族の出雲王朝征伐が並大抵では進捗しなかったことを物語っている。 |
【国譲り前段事情考その7、キジの鳴女派遣譚】 | |||||||||||||
アメノワカ彦の尊の失敗により、キジの鳴女を送った。これを仮に「国譲り前段事情考その7、キジの鳴女派遣譚」とする。次のように記されている。
キジの鳴女がアメノワカ彦に射殺され、今度はアメノワカ彦が高木神に射殺された。これが「国譲り失敗譚その6」となる。 |
【国譲り前段事情考その8、アメノワカ彦葬儀譚】 | ||||
アメノワカ彦の死を嘆く下照比賣の泣き声を、天にいるアメノワカ彦の父・天津國玉神や母が聞き、下界に降りて悲しみ喪屋(もや)をつくった。アジシキタカヒコネ(「阿遅志貴高日子根」、「味耜高彦根」)の神が弔いに訪れた時、アメノワカ彦によく似ていたため、アメノワカ彦の父と母が「我が子は死なないで、生きていた」と言ってアジシキタカヒコネ神の手足にすがりついて泣いた。アジシキタカヒコネ神は、「仲の良い友だちだったからこそ弔いに来ただけのこと。穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、大量で喪屋を切り倒し蹴り飛ばしてしまった。この喪屋が美濃国の喪山である。アジシキタカヒコネ神が怒って飛び去ってしまうと、妹の高比賣命は「アジシキタカヒコネは私の兄です」と歌を詠んだ。これを「国譲り前段事情考その8、アメノワカ彦葬儀譚」とする。
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【国譲り前段事情考その9、タケミカヅチの男、フツヌシの神派遣譚】 | |||||||
高天原王朝は、第七陣としてタケミカヅチ軍を送る。これを仮に「国譲り前段事情考その9、タケミカヅチの男、フツヌシの神派遣譚」とする。これが来航族の最後の切り札となった。
イツノヲハバリ神の漢字名は「伊都乃尾羽張神」。タケミカヅチの男の漢字名は、古事記が「建御雷之男神」又は「建御雷神」、日本書紀が「武甕槌」。フツヌシ神の漢字名は、古事記が「布都努志命」、日本書紀が「経津主神」。アメノトリ船神の漢字名は「天鳥船神」。アメノトリ船神をフツヌシの尊と同一人と解する向きもあるが別神とも考えられる。即ち、フツヌシ神に副(そ)えてタケミカヅチ、タケミカヅチに副(そ)えてアメノトリ船神と解することができるからである。
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【国譲り前段事情考その10、大国主のヤマトの三輪山宮設営譚】 | |||
日本書紀には、国譲り直前に次のような逸話を記している。これを仮に「国譲り前段事情考その10、大国主のヤマトの三輪山宮設営譚」と命名する。
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この後は「別章【出雲王朝神話考】の国譲り譚の稿に記す」
(私論.私見)