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2006年09月25日「◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(一)」。
島根県八束郡・佐太神社、御座替神事
九月二十四日と二十五日に、島根県八束郡鹿島町の佐太大社で、かがり火と灯明がともる中、御座替神事が厳かに営まれる(九月二十四日に御座替神事を行い、翌二十五日に佐陀神能を行う)。
この御座替神事は、同社の古伝祭の一つで、神在月(陰暦の十月に日本全国の神様が出雲に大集合して会議をするという)に先だって、神殿内陣の神座のござ(御座)を新しく敷き替える行事である(摂社末社から正中殿に至るまで順々に御座を敷き替えて、二十五日に幣帛を祀ってお祝いをする)。このことにより、神々の力が常に新しく続くと考えられた。
九月二十四日午後八時から行われた神事では、神職らが二十一ある末社から南殿・北殿・本殿の順に、宍道湖北岸で栽培されたイ草で作った新しいござに敷き替えていく。
舞殿では、神事に合わせ、出雲神楽の源流といわれる佐陀神能(神楽に能の所作を取り入れたもの、国の重要無形民俗文化財に指定)の「七座の舞」(鼕-どう-や笛などの音に合わせ古式ゆかしく行われる優雅な舞)を奉納した。
この神事は、神在月には全国から神様が集まって来るので、神座のござ(御座)を新しく敷きかえて、きれいにしておこうというものである。もう千二百年年以上続いている、古式ゆかしい神事だ。
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2006年10月10日「◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(二)」。
古代出雲は神話の源郷、八雲立つ出雲の国
八雲立つ出雲の国は、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土である(※注1)。この風土を背景に、多彩な出雲の神々が誕生し縦横無尽に活動させたのだ。出雲には神話や伝承の舞台とされる場所が数多く残されている。これらの神話・伝承を、拙速に歴史的事実と混同することは厳に慎むべきことだが、しかし出雲の風土(文化的風土)はそうした神話や伝承の世界(神話は生活共同体の中で共同認識に基づいて生じたものであり、共同体の信仰がなければ消滅してしまう集団表象。古代の人々が何に感応し、何を価値として生きていたかが見える)が、そこここに(※注2)生き続けているような不思議なリアリティをもって迫ってくる(※注3)。
(※注1)出雲の国の自然は、北から半島・湖沼・平野・山地と見事に配置されている。出雲の国はこれらが互いに照応しながら出雲の国の独自な風土を作り出している。出雲の国はむくむくと雲の湧き立つのが極めて印象的な国だ。
寄り来る波に洗われる島根半島には、対馬海流が遥か彼方から南方の文化をもたらす。入海・内海や潟港は、古代には外来の文化が留まる良港であった。東の意宇平野と西の杵築平野には五穀を稔らせる狭いが肥沃な平野がある。その背後に横たわる深い山地には良質な砂鉄を産す。
(※注2)黄泉国訪問神話の伊賦夜坂・猪目洞窟、八俣大蛇退治神話の斐伊川・船通山、国譲り神話の稲佐の浜、美保神社の諸手船神事・青柴垣神事などや、国引き神話の島根半島・三瓶山・大山、佐太大神誕生神話の加賀の潜戸、カンナビ信仰の茶臼山・朝日山・大船山・仏経山、神在月の神迎祭・神在祭・神等去出祭などに生き続けている。
特に『出雲国風土記』が伝える出雲の神々は、出雲の風土と照応して個性豊かな姿を見せてくれる(出雲の風土がそのまま人格神となったような面影を見せます。『記・紀』神話に出てこない独立神が十四柱もいます)。また、出雲のあちこちには古い伝統をもつ神社があり、古くから信仰があったことを窺わせる(熊野大神、野城大神、佐太大神といった大神伝承、出雲宗教王国の源流)。
(※注3)日本に魅せられ、神話の地・出雲に住み着いて日本研究に生涯を捧げたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、『日本印象記』の中で、「神道の真髄は書籍にも儀式にも法律にも存しない。ただ、国民的心情の中に活きて永存して居るばかりである。そこに国民のあらゆる全部の魂、偉大なる霊力が潜在して震えつつある。この魂が遺伝し、内在し、無意識的、本能的に働いているのが、神道である。神道を解するには、この神秘な魂を知らなくてはならぬ」と述べている。
また、ハーンは『杵築』というエッセーの中で、出雲大社の最高祀官・出雲国造と対面した感想を、「古代ギリシャのエレウシスの秘儀を司る最高官(人の生死の秘密を知り、その再生の秘儀に携わる神官)」を思わせると、そのときの印象を感動的に述べています。さらに「杵築を見るということは、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・悠久な古代信仰の脈拍にふれることになる」と述べている。 |
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2006年09月26日「◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(三)」。
島根県八束郡・佐太神社、佐太大神と加賀の潜戸(1)
島根半島の北の加賀の神埼には、通り抜けることのできる洞穴があって、「加賀の潜戸(かがのくけど)」(島根県八束郡島根町潜戸鼻岬の海岸洞窟。新潜戸と旧潜戸があり、旧潜戸は岬の胴体部で巨大な洞窟が広がる。玄武岩、集塊岩などが海食によりできたもの)(※注1)といわれている。
また、加賀の潜戸の近くには賽の河原もあり、幼い子を亡くした親たちが哀しみを持ってくるといわれている。この加賀の潜戸は、佐太神社の祭神「佐太大神」が生まれたとする説話が、『出雲国風土記』(嶋根郡の条などに)に残されている(いくつかの記述がみえる)。
一つは佐太大神の生まれた加賀郷の名の起こりを説いたもので、「佐太大神が生まれた所である。御祖のカミムスビ命(神魂命、神産巣日神か?、伊邪那美命か?)の御子のキサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)(※注2)が『闇き岩屋なるかも』といって金の弓箭(黄金の弓矢)で射たとき、光り輝いたから、加加という。神亀三年、加賀と改める。」とある。
もう一つの記載は、「加賀の神埼には窟があり、高さ約十丈、周は約五百二歩で、東西北に通じている。所謂、佐太大神の生まれたところである。生まれる時に臨み、御祖のカミムスビ命(神魂命)の弓箭(弓矢)がなくなってしまった。御祖のカミムスビ命(神魂命)の御子のキサカヒメ命(支佐加比売命)は、『吾が御子、麻須良神(ますらがみ、本来は麻須羅神が佐太大神であったのかもしれません)の御子(佐太御子神?)に坐さば、亡せたる弓箭出で来』と祈願した。そのとき、角製の弓箭が水の随(まにま)に流れ出た。『此は非(あら)ぬ弓箭なり』といって投げ捨てた。また金の弓箭が流れ出てきた。この金の弓箭を取って『闇鬱(くら)き窟なるかも』といって射通す。即ち、御祖のキサカヒメ命(支佐加比売命)の社が、この所に鎮座する。」とある。
また、佐太神社と祭神については、『出雲国風土記』には「佐太御子社」ともある(『延喜式』神名帳では「佐神社」とあり、祭神は一柱です。本来「佐太御子社(佐太御子神)」と「佐神社(佐神大神)」は別で、二社あったのであろうか? 謎である)。すると、その親神「佐太大神の社」が別に存在することになる。
もし、佐太神社の祭神が「佐太御子神」(従来、佐太神社が「秘説」としてきた主祭神を、明治になって、「佐太御子大神」と明示するようになった)ならば、『出雲国風土記』にあるように、朝日山(佐太神社の西二キロメートル)の麓に「佐太大神の社」があったことになるのだが、はたしてどうなのであろうか? (この点は複雑で難しく、その後の解釈などが加わり、多くの神々も加えられて、変化している。もう少し調べてみようと思う)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)加賀の潜戸の近くには、加賀(かか)神社が鎮座する。祭神は、キサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)・猿田彦命(佐太大神)・イザナギ命・イザナミ命・天照大神である。近世には、潜戸大明神とされていた。
(※注2)キサカヒメ命(支佐加比売命・枳佐加比売命)は赤貝の神格化とされ、『古事記』には、八十神に火傷を負わされて死んだオホナムジ命(大穴牟遅命・大穴持命)を蘇生させるために、カミムスビ命(神産巣日之命)がキサカイヒメ命とウムカイヒメ命を遣わしたとある。 |
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2006年09月27日「◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(四)」。
島根県八束郡・佐太神社、佐太大神と加賀の潜戸(2)
加賀の潜戸を貫いた金の弓箭(黄金の矢)とは、的島の東から射しこむ太陽の光線(黄金の矢を持つ太陽神)を比喩したものとされている(※注1)。そこから、黄金の矢を持つ太陽神が、暗い洞穴(※注2)に矢を放つとは、太陽神とそれを祀る巫女の交合の儀式と考えられている(※注3)。このような加賀の潜戸という自然の造形が、壮大な説話を生み出したのだ(本来は闇見の国の神話か?)。
さらに古代には、佐太川を境に、西を狭田の国、東を闇見(くらみ)の国と別個の小国家が成立していたようだ(国引き神話にも登場する)。ところが、この二つの国は程なく佐太大神の信仰によって繋がることになる。それは、もともと闇見の国を代表する祖神の社(久良弥社=くらやみのやしろ)があったのだが、狭田の国(佐太大神)の勢力に飲み込まれた(闇見の国の神話が狭田の国の神話に飲み込まれた)結果なのかもしれない。
すると、加賀の潜戸の説話で、「佐太大神」としているのは、実は、「佐太御子神」の誤伝で、もともと麻須羅神こそ「佐太大神」(※注4)であったのかもしれない。即ちこの説話は、古くは狭田の国の「佐太大神」が矢になって、闇見の国のキサカヒメ命(枳佐加比売命・支佐加比売命、神魂命の御子)のもとに通い、その結果として「佐太御子神」の誕生を見たとする説話であったと思われる。結果、二つの国は程なく佐太大神の信仰によって繋がることになるのだ(狭田の国が闇見の国へ勢力を伸張したことの反映)。
(※注1)新潜戸から見た的島の方向は夏至の日の出の方向にあたり、反対に的島から見た新潜戸は冬至の日没の方向にあたる。夏至の朝日が生、冬至の夕日が死を象徴するものと考えられていたようだ。この説話には、神婚説話や日光感精説話が見て取れる。
(※注2)洞窟(大穴)で生まれたということで、この佐太大神とは実はオホナムヂ命(大穴牟遅命・大穴持命)のことではないかとする説もある。しかし、オホナムヂ命(所造天下大神大穴持命)を奉ずる勢力による出雲統一の以前に、この地には佐太大神の勢力圏であったようだ。神々の通い婚の説話は、オホナムヂ命に代表されるが、加賀の潜戸の説話のように佐太大神の通い婚の説話があっただ。
(※注3)元来、出雲国の佐太大神の原質は太陽神(天照神)であったのであろうか。太古より、わが国の太陽信仰は広く行われており、各地に所在する天照神(プレ・天照大神)もそうであり、大和の三輪山の山頂にも太陽神を祀る社があり、『日本書紀』(応神記)のアメノヒボコ(天之日矛・天日槍、新羅の王子)も太陽神とされている。
(※注4)佐太大神は狭田の国の祖神である。『出雲国風土記』には、この狭田の国の東部にあった秋鹿郡の神名火山の条に「所謂佐太大神の社は即ち彼の山の下也」とある。現在の佐太神社の位置からすると、きわめて不自然だ。神名火山(現在の朝日山)の下にあったのが「佐太大神の社」(神名火山の山容を仰ぎ見る地から、銅剣と銅鐸が同時に出土)で、現在の佐太神社は本来「佐太御子神の社」(神名火山の山容を仰ぐことさえできない所に鎮座)と考えたほうが辻褄が合いそうである(すんなりと解釈できる)。 |
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2006年09月29日「◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(五) 」。
島根県八束郡・佐太神社、佐太大神と加賀の潜戸(3)
祭祀の面からみると、佐太神社では古来より、竜蛇信仰(海蛇を神の使いとして信仰、竜蛇様)があった。竜蛇はセグロウミヘビとよばれる海蛇で背が黒色をしており、脇腹の色が金色をしている。体長は六十~七十センチの小さな海蛇だが、眼も歯も鋭く、威厳と神秘性が感じられる。
南方産のセグロウミヘビが毎年決まった頃(晩秋、日本海に北西の風が強くなる頃、出雲の海は急に暗くなり海面は荒れて泡立つ。こうした天候の急変を「お忌み荒れ」という)に季節をたがえずやって来るので古代の出雲の人々は、竜蛇様(あるいは竜神の使い)として篤く信仰していたようだ。
夜、この海蛇が海上を渡ってくるときは金色の火の玉に見えるという。そして、佐太神社の境内にある舟庫に掲げられた額には「神光照海」と書かれ、この「海を光らして依来る神」はセグロウミヘビであったと考えられる。
こうした竜蛇信仰は、海の彼方から依り来る神という古代信仰(マレビト信仰、海の果ての常世国から豊饒をもたらす神、対馬海流がもたらす南方文化への憧れと信仰)とされている。すると、佐太大神も、そうした古代出雲の海人族が信仰していた、竜蛇信仰の依来る神(竜蛇様)なのかもしれない。
また、海人族との深い関わりから、猿田彦命(猿田彦大神)とも同一視される(サタ・サダとは岬のことなのか? 猿田彦命には、縄文時代より航海の民・海人族の信仰していた、航海神・太陽神の要素が見て取れる)。
もう一つ、気になるのは「金の弓箭」のことである。矢というと類似の説話として、『山城国風土記』逸文の「賀茂の丹塗矢」伝承(賀茂建角身命の御子・玉依日売と川上から流れてきた丹塗りの矢と感けて、賀茂別雷命が生まれたとする御子神伝承)などを思い出す。
金の弓矢は雷火か太陽光を象徴しているようで、こうした説話は太陽神・雷神とそれを祀る巫女の交合の儀式(神婚説話・日光感精説話)を表しているようだ。
どうも、賀茂説話や三輪山・大物主説話との関係(類似の説話の存在は、出雲一族の大和・山城への移住と関連があるのか?)が気になるところである(柳田国男の「玉依姫考」などによると、古代信仰に共通するモチーフのようだが)。
『出雲国風土記』(嶋根郡)によると、生まれた佐太大神(または佐太御子神)は、佐太国(狭田国)の総鎮守神であり、それがカミムスビ命(神魂命)の御子(キサカヒメ命=枳佐加比売命)から生まれたとすることから、佐太大神を奉斎する氏族が神魂命を信仰する祭祀集団と何らかの関係があったことを示しているようだ。
この神魂命については謎が多いようである。カミムスビ(神産巣日神・神皇産霊神)といえば、『記・紀』では天地初発のときに生まれた独神であり、タカミムスビとカミムスビは併称されている。しかし、『出雲国風土記』では神魂命と記されており、性格は『記・紀』と異なっている。
すると、神魂命は島根半島の太古よりの、海辺の素朴な女神であったのが、本来の姿であったのであろうか? 魂を司るとする出雲土着の神の総称であったのであろうか? 神魂命の信仰については、神魂神社で一度考察してみようと思う。 |
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2006年09月30日「◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(六) 」。
島根県八束郡・佐太神社、お忌み祭(神在祭)(1)
旧暦十月は亥月の和名で、一般に神無月(かんなづき)と呼ばれる。それは全国の神々が出雲(※注1)に集まるからだそうだ(※注2)(※注3)(※注4)。逆に出雲ではこの月は神在月(かみありづき)と呼ばれ、出雲大社や佐太神社・神魂神社などで(※注5)、訪れた神を迎え祀る神在祭が行われる。
佐太神社の神在祭(お忌み祭・お忌みさん)では、現在月遅れの十一月二十日に神迎えが、二十五日に神送りが、三十日には止神送りが行われる(※注6)。この間がいわゆる「お忌み」の期間で、歌舞音曲は慎まれる(昔は散髪・針仕事まで遠慮して物忌みしたそうだ)。かつては出雲地方に四つある神名火山(かんなびやま)に関係する神社すべてに神在祭があったようである。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)陰陽五行説によれば、出雲は大和からは、西北の「戌亥隅」に当たる。一方、「易」の十月の卦は「全陰」だ。陽の気の象を「天」、あるいは「神」とする。すると、全陰の卦は神の不在を意味するとされている。十月はまた太陽の光りが衰微の極に近く、あらゆる点から考えて神不在とされたのだ(十一月は一陽来復が迎えられるとされた)。
出雲の佐太神社『祭典記』には、「古老が伝えていうには、此処出雲は日域(日本)の戌亥隅(西北)という陰極の地であり、女神先神伊邪那美は陰霊で、亥月という極陰の時を掌る神である。」と記している。
このことからも、出雲の旧暦十月の祭りは、祖神・伊邪那美命の追慕を名目にして参集するとも考えられた。そこからか、「神在祭」は、一名「お忌み祭り」と呼ばれる。
(※注2)神在月が成立については、平安時代末(一一七七年)の『奥義抄』に、すでに神無月の解釈として「天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと(異)国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり」とある。それ以前の成立であることは間違いないと思われる。
(※注3)神在月に出雲に集まらない神様もいる。それが留守神だ。結構この留守神伝承は各地に広がっていて、特に恵比寿、竈神、金毘羅、亥の子を留守神とする地域が多いようである。恵比寿は関東、東海地方、竈神は関東地方、金毘羅は中国四国地方を中心に分布している。
このような留守神はいわゆる神社という形で祭られる祭神ではないという特徴を持っている。ただし地域によってはこれらの神々も出雲に参集するとしているところもある。
(※注4)神無月を中心に参集する神々は氏神・鎮守系が多く、早立ちする神々は天神が多いようだ。そして最後に越年するまで滞在してしまう神々は、山の神、田の神、亥の子神、竈神等の農耕神が多いとのことである。
(※注5)神々は出雲のどこに集うのであろうか。多くの方が出雲大社に集まると思われているが、実は一ヶ所の神社に集まるのではなく出雲大社、佐太神社を中心に何ヶ所かの神社を参集して回る。
朝山神社(出雲市朝山町)、出雲大社(簸川郡大社町)、万九千社(簸川郡斐川町)、神原神社(大原郡加茂町)、神魂神社(松江市大庭町)、佐太神社(八束郡鹿島町)、朝酌下神社(松江市朝酌下町) など。
(※注6)神在月に留まる神々の滞在期間が異なる。出雲滞在期間は大きく分けて、(1)神無月を中心に参集する、(2)神無月の前に他の神より先に参集(早立ち)し先に戻る、(3)中帰りといって神無月の途中に神が一度戻る、(4)神無月から大きく離れた時期まで滞在する、の四つタイプあるようだ。 |
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2006年10月02日「◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(七) 」。
島根県八束郡・佐太神社、お忌み祭(神在祭)(2)
現在では佐太神社の神在祭(お忌み祭・お忌みさん)は、新穀を神々に捧げるという新嘗祭(にいなめさい)と同義のものとして行われている(これはこの神名火山に新穀を捧げる神名火山祭に発祥しているからと考えられている)。しかし近世においては、当時の祭神・イザナミ命(伊邪那美命・伊弉冉尊)(※注1)(※注2)が旧暦十月に出雲で崩御し、神名火山の山塊にある足日山(当時はこの山が神名火山と考えられていたようだ)に埋葬されたと考えられていた。
イザナミ命は神々の母として考えられていたので、当時の神在祭は、神々が母神に対する孝行のために、その崩御した旧暦十月、埋葬された近くの佐太神社に集まるのだとされていたのである。その故か、神無月の語源について、母神の無い月と考える向きもあったようだ(※注2)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)『古事記』のイザナギ命(伊邪那岐命)・イザナミ命(伊邪那美命)の神話の中に、イザナミ命が死んで黄泉の国である出雲へ行くという条がある(「黄泉比良坂は、今出雲国の伊賦夜坂と謂ふ」としている。『日本書紀』では紀伊国熊野の有馬村としている)。
イザナギ命が諦めきれず、出雲まで追ってイザナミ命に御殿の戸を挟んで会う。イザナミ命の覗くなという言い付け(禁忌)を聞かず、イザナギ命が妻の姿を覗くと腐乱した死体があったという。この条は出雲の葬儀方法で追葬の一種である風葬の風習(日本では沖縄、奄美大島などのごく一部で行われている。出雲では、藤と竹で編んだ籠に死体を収め、高い山の常緑樹に吊るし、死体が腐って骨だけになってからその骨を丁寧に洗って埋葬する方法である)を思い起こさせる。
『記・紀』神話には、出雲の信仰や習俗・風習を見て取ることが出来る。これは何を意味するのであろうか? 宮廷の「旧辞」に収められていた出雲の神話をベースに、淡路島を拠点とする海人族のイザナギ・イザナミの国生み伝承などを取り入れ、新たに宮廷神話(国家神話・王権神話・天皇家神話)が作られたのかもしれない。
(※注2)十月の異名を「神無月」という。一般には、全国の神々が出雲に集い神が不在になるからとされている。これが定説となったのは十二世紀の半ばだというが、異説も多くある。一つには、世界を陰・陽の二つの原理から説く陰陽説(陰陽五行説)による説で、神は陽であり、十月は陽の気がない極陰の月とされた。
つまり「陽=神の無い月」が神無月に転化したというのである。この考え方を、具体的な神に結びつけ、神々の母であり、陰神とられるイザナミ命が(出雲で)崩御したのは十月とされ、「(母)神の無い月」というわけだ。また、神無月は「神嘗(かんなめ)月」が転化したという説である。神嘗は新穀を神に捧げる祭儀(祭礼)であるが、十月はこの神嘗のための月だったと見る説である。
神無月の由来については、この他にもたくさんありハッキリしていない。しかし、祭礼行事を見る上では由来だけではく、祭礼に対する考え(その意識の変化)を確認することも重要なようだ。実際、出雲諸社の神在祭でも、どの説を重視するかによって、祭礼の意味や起源を窺うことが出来そうである。 |
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2006年10月03日「◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(八)」。
◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(八)
◆◇◆島根県八束郡・佐太神社、お忌み祭(神在祭)(3)
佐太神社(※注1)では、十一月二十日(神迎え)、南北の出入り口のみを残して、本殿付近は注連縄が張り巡らされる。夜、宮司以下はこの南口より注連縄内に入り、各本殿の前で拝礼を行う(佐太独特の礼拝方法である「四方拝」を行う)。その後、直会殿の秘儀で神々を迎え、神籬(ひもろぎ)は中殿前に安置される。その後、二つの入口は青木で閉ざされ、これ以後、神職といえども注連縄内には入ることができない。
十一月二十五日(からさで=神等去出)(※注2)、白装束姿の神職は神籬(ひもろぎ)を奉持して、オーという警謐(けいひつ)の声が暗い山々にこだまする中を、神名火山に続く尾根の途中にある神目山に登り、秘祭を行う(※注3)。ここには日本海に通じるとされる池と呼ばれる小さな窪みがあり、ここに神籬(ひもろぎ)を載せた船を置くことで、神々は佐太神社を去っていくとされている。
十一月三十日(止神送り=しわがみおくり)は、二十五日の神送りと同様な行事が行われる。これは帰り残った神を送る祭礼だ(佐太神社の神在祭は他社と異なり春と秋の二回行われる)。
(※注1)佐太神社のお忌み祭では、神々を二十日に神迎えして、境内に忌串を廻らして人々を近づけないようにする。二十五日の神送りの夜には、亥の刻(午後十時)に斎主は神籬を捧げ、大勢の人々がこれに従い、神目山(もと神名火山)の上まで神送りする。
神在月になると、佐陀の浦(鹿島町古浦海岸)には竜蛇が出現し、これが佐太神社に奉納されるようになった。竜蛇とは南方産のセグロウミヘビで、お忌み祭(神在祭)の頃の季節風(お忌み荒れ=晩秋、日本海に北西の風が強くなる頃、出雲の海は急に暗くなり海面は荒れて泡立つ)によって浜に打ち上げられたものだ。
この竜蛇信仰は、海の彼方から寄り来るという古代信仰(マレビト信仰、海の果ての常世国から豊饒をもたらす神、対馬海流がもたらす南方文化への憧れと信仰)を伝えるものである。
(※注2)神在祭(お忌み祭)の最後の神事で神々を送る「神等去出(からさで)さん」の日は、特に厳重に身を慎む。迎えた神々は鹿島町の佐太神社、松江市の神魂(かもす)神社などこの地方の七社にも廻ったあと、お立ちになるが、佐太神社では「水夫(かこ)」と唱えつつ神目山(かんのめやま)頂上から送る。
斐川町の万九千(まんくせん)神社では、十一月二十六日の夕方、梅の小枝で神社の戸を叩きつつ見送るが、かつては出雲の神名火山(現在の仏経山)で焚く火の中をお立ちになったという。このように海(あま)から迎え、山=天(あま)から送り返すところに、ものごとを循環してとらえる日本人の深層意識が読み取れる(お盆にも同じような習俗が残されている)。こうして人々は身を慎み、清らかな心で神々に接した後、もの忌みから解放され、晴れ晴れとした活力を感じるようになるのだ。
出雲の信仰は、縄文時代の精霊信仰を継承しつつ、弥生時代の祖霊信仰を受け入れ(このときの信仰が日本人の神信仰の基本型を形作っているようだ)、今日まで生き続けて来たことになる(北九州の勢力が縄文文化との縁を断ち切ったうえで、大陸・朝鮮半島の新しい文化を取り入れたのに対して、出雲の人々は縄文文化を継承しつつ、新しい高度な文化を取り入れた人々のようだ)。
このように、出雲から日本人の信仰の基層を見て取ることが出来そうである。小泉八雲は言う。出雲は日本の「民族の揺籃(ゆりかご)」であると。「出雲はわけても神々の国である」と。
(※注3)秘祭は二段あり、前段は頂上からはるかに見える日本海に神々を送る神事で、後段は五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する祭りの原型らしいのだが、弥生の祭りの名残とする説もある。それと、銅鐸と銅剣が出土した志谷奥遺跡はこの山の麓である。あの青銅器はこの祭りと関係があるのかもしれない。 |
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2006年10月05日「◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(九)」
島根県八束郡・佐太神社、佐陀神能:スサノヲ命とヤマタノオロチ(1)
日本の代表的な神事芸能「神楽(かぐら)」として「佐陀神能(さだしんのう)」(島根県鹿島町の佐太神社に江戸初期から伝わるという国の重要無形民俗文化財)(※注1)と、そこから派生し、よりエンターテイメント性豊かになった広島県高田郡周辺に伝わる「芸北神楽(げいほくかぐら)」(※注2)がある。
囃子や謡などに能の形式を取り入れた「佐陀神能」は、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)のヤマタノオロチ(八俣大蛇=八岐大蛇=八俣遠呂智)退治に題材をとった「八重垣(やえがき)」のほか、「大社(おおやしろ)」「大和武(やまとたけ)」などを演ずる。
また「芸北神楽)」は、巨大な面、赤や緑の極彩色の衣装など、スペクタクルな演出が特徴だ。佐陀神能の「八重垣」と同じくヤマタノオロチ退治を描いた「八岐大蛇(やまたのおろち)」では、スサノヲ命とヤマタノオロチの迫力たっぷりの対決が圧巻である(口から火を噴き、暴れ回る長さ十メートルもの巨大な大蛇に、真っ向からスサノヲ命が剣で立ち向かう)。
神楽は、神を招き、その魂を鎮めるのを目的とした神事芸能である。「佐陀神能」と「芸北神楽」は、神話の世界を題材に演劇的な「神能」を演じるところに特徴のある出雲流神楽の流れを汲むものだ。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)「佐陀神能」は、島根県鹿島町・佐太神社の氏子を中心に伝承されてきた。江戸初期には成立していたという。鈴・剣・茣蓙(ござ)などを手にもって舞う採物舞「七座」「式三番」「神能」の三部構成で、囃子・謡・所作などに能の形式を取り入れている。
(※注2)「芸北神楽」は、そこから派生し、変化していった神楽で、広島県高田郡周辺に伝わっている。巨体な面、鮮やかな色彩の装束、口から火を噴く仕掛け、そして長さ十メートルにもなる大蛇など、スペクタクルに溢れており、庶民に親しまれる演出がなされている。 |
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2006年10月05日「◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(十)」。
島根県八束郡・佐太神社、佐陀神能:スサノヲ命とヤマタノオロチ(2)
スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)は高天原を追放され、出雲国の肥の河上の鳥髪(船通山、一一四三メートル、大砂鉄地帯)という地に降ったと『古事記』は記している。ただ、『日本書紀』一書には、安芸の可愛(え)の河上に降ったとしたり、新羅のソシモリ(曾尸茂利)に降り、そこから船で日本の紀伊に渡るとし、また別の一書では、クマナリ(熊成)峯から根の国に渡ったとする異説を収録している。
また、『日本書紀』一書は、スサノヲ命は、長雨の降る中を蓑笠姿で彷徨い歩いたが、どこの家も留めてくれるところがなく、スサノヲ命の辛苦難渋の流浪の様子を描いている(『備後国風土記』逸文では、蘇民将来の説話として登場する。沖縄にも類似の説話がある)。
出雲の肥の河上の鳥髪に降ったスサノヲ命は、斐伊川を流れる箸をみて、上流に人がいると知り尋ねてみると、そこには国つ神・大山津見神の子でアシナズチ(足名椎・脚摩乳)、テナズチ(手名椎・手摩乳)の老いた夫婦とその娘のクシナダヒメ命(櫛名田比売・奇稲田姫命)が嘆き悲しんでいた。
そこで、スサノヲ命はヤマタノオロチ(八俣大蛇=八岐大蛇=八俣遠呂智)の生贄にされようとしていたクシナダヒメ命を助けようとする。スサノヲ命はヤマタノオロチを酒に酔わせ、眠らせておいて十拳剣で斬り殺し、肥の川は血に変わったという。
大蛇の尾を切り裂いたところ、霊剣・草薙剣(草那芸の大刀・都牟刈の大刀)が出てきたので、姉神であるアマテラス(天照大御神)に献上し、これが後の三種の神器の一つになったという。
スサノオ命は、クシナダヒメ命と結婚をして、出雲の須我(須賀)に宮殿を造って住む。このとき、「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」という有名な歌を作ったという。また、この二人の間にもうけた子孫が大国主命であるとしている。
このように、『古事記』に描かれたヤマタノオロチ(八俣大蛇=八岐大蛇=八俣遠呂智)は、凄まじい形容で描かれる(『古事記』は「是の高志の八俣のをろち年毎に来て喫へり。今、其の来べき時なるが故泣く。」・・・「彼の目は赤かがちの如くして、身一つに八頭・八尾有り。亦其の身に蘿及檜・椙生ひ、其の長谿八谷・峡八尾に度りて、其の腹を見れば悉に常に血爛れたり」と記す)。これは一体何を象徴しているのであろうか。
この解釈については、斐伊川が鉄穴(かんな)流しによって水が赤く濁ったとする説、斐伊川の姿(蛇体の水の精霊)を表しているとする説(竜神に人柱として生贄を捧げていたが、治水開拓にすぐれた英雄神が河川を治めた)、出雲での蛇祭を表しているとする説、大和政権からみた出雲のイメージとする説、高志(北陸地方)人の首長であるとする説、中国山脈の鉄山と鍛冶部(かぬちべ=タタラと呼ばれる漂泊的採鉱冶金鍛冶集団)であるとする説、あるいは、シベリアのオロチ族であるとする説など、じつに様々な説がある。
他にも、もともとは「怪物と人身御供」の説話ではなく、蛇体の水神と稲田の女神との神婚説話に、新たに人間的英雄神説話「ペルセウス・アンドロメダ型説話」が包摂したとする説もある。 |
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2006年10月06日「◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(十一)」。
島根県八束郡・佐太神社、佐陀神能:スサノヲ命とヤマタノオロチ(3)
『記・紀』神話のなかで、これほど大きく取り上げているヤマタノオロチ(八俣大蛇)退治の説話であるはずなのに、『出雲国風土記』には、一行も記されていない。ヤマタノオロチ(八俣大蛇)退治の説話が出雲地方を舞台(『古事記』は「故、避追はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りましき。」と記す)とする説話であるとするならば、『出雲国風土記』に記載が見られないことは、不思議である(『記・紀』の神話作者の造作とする説もあるが、『記・紀』にあって『出雲国風土記』にないという説話は、オホナムヂ命の根の国訪問など結構たくさんある。これについては、『記・紀』に記されているものを意識的に省いたとする説もあるが)。
しかし、『出雲国風土記』には、「所造天下大神」と讃えられたオホナムヂ命(大穴牟遅命・大穴持命)による越の八口平定の説話がある。但し、この説話の主人公はスサノヲ命でなく、また八口は地名と考えられており、『記・紀』神話と同レベルで扱うことは出来ないようだ。
神話学者(比較神話学)の松前健氏は、「私は、この大蛇退治譚は、やはり出雲固有の風土伝承であったと思っている。『出雲国風土記』にはこの説話自体は出てこないが、この話と切り離せない、クシイナダヒメの名と類似のクシイナダミトヨマヌラヒメという女神の名が、八岐大蛇譚にゆかりの斐伊川沿いの飯石群熊谷郷の条に出てくる。同じ郡に、スサノヲゆかりの例の須佐の地がある。この女神の名の意味はわからないが、クシイナダヒメの別名であることは間違いあるまい。クシイナダヒメが“神秘な稲田の女神”を意味することは、いろいろな筆者の論じるところである。この大蛇退治譚の話は、出雲地方で盛んな龍蛇崇拝と農耕の結びついた信仰行事から出ている。山陰地方の田の神サンバイは、往々蛇体と伝えられているし、田植歌には、稲の女神イナヅルヒメとの婚姻が歌われている。(中略)飯石群熊谷郷には、古く稲田の女神と水の神の大蛇の神婚伝承が語られ、祭りが祝われていたのを、スサノヲの崇拝が入り込んで、これを包摂し、その意味を変え、民間に流布する人身御供譚をその由来譚として採用したのであろう」と話している。 |
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2006年10月07日「◆島根県八束郡・佐太神社の御座替神事(十二)」。
島根県八束郡・佐太神社、佐陀神能:スサノオ命とヤマタノオロチ(4)
さらに、『記・紀』の中のスサノヲ命(高天原で乱暴狼藉を働いた荒ぶる神)と、『出雲国風土記』の中のスサノヲ命(飯石郡須佐郷を拠点とする呪術的性格を持つ牧歌的な神・おおらか農耕神)の性格は、まったく異なっている。
すると、元々のスサノヲ命は、『出雲国風土記』にみられる性格の神であり、『記・紀』神話に取り込まれる際に、スサノヲ命の武神的な御子神(出雲地方の鍛剣の業に従事した人たちが奉斎していた神・ツルギ命は、スサノヲ命の御子神・ツルギヒコ命=都留支日子命とされる)たちの性格を加味して、新たなスサノヲ命が形成されたとも考えられるのだが・・・。
また渡来の神(新羅の蕃神、『日本書紀』一書には新羅のソシモリ=曾尸茂利に降りたとする記述がある)とする説もあり、韓鍛冶部(からかぬちべ)が奉じていた新羅の巫覡神が土着して須佐の神となったのであろうか・・・。まったくの蕃神(渡来の神)ではなく、出雲土着の神と新羅の巫覡神が結び付いたためであろうか(韓土と往来していた紀伊の海人によるものであろうか)・・・。
また、「スサノヲ」という名前についても古来幾多の解釈がなされてきた。スサついては、『出雲国風土記』の飯石郡須佐郷には、「この国は小さい国だがよい国だ。自分の名を石や木に留めるのではなく、土地の名に留めよ」とあり、スサノヲは須佐の土地の男としている。
また、スサノヲのスサは荒れすさぶる男という意味を込めているとする国学の本居宣長の説もある(スサという言葉の響きが「すさぶる」を連想させ、高天原で乱暴狼藉を働く出雲系の神とする物語が作られたのかもしれない。そうすることにより、朝廷はオオクニヌシ命をスサノヲ命の子孫として位置付けることができるのである)。
他には、スサノヲのスサは朝鮮語で巫の意味で、シャーマン(古来より、シャーマンと鍛冶部は関連がありそうだ)を表すススングに由来するとし、ススングがスサヲとなったとしている(渡来した鉄の神)。
つまり、スサノヲ命は朝鮮半島から渡来した新羅系の蕃神(外来神)であり、飯石郡須佐がスサノヲ命の出雲における本貫地であるとするものである。そこから、スサノヲ命を祖神とする集団の勢力が大原郡・神門郡へ伸び、一部意宇郡や島根郡へと及んだとしている。 |
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