サンカの生態考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).3.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「サンカの生態考」をものしておく。

 2011.01.30日 れんだいこ拝


【サンカ族の生業】
 サンカの民の生業としてよく挙げられるのは川漁漁、箕(み。ざるのような形をしていて穀物を脱穀し、可食部分と殻を分ける道具)、蓑(みの、雨合羽)、笊(ザル)、竹細工、竿、笛、手袋、ささら、茶筅(ちゃせん)づくり等々である。 複数の素材で造られた高度な知識と技術を要求された製品であるところに特徴がある。他にも木地師(きぢし、ロクロ師)と云われる木工製造、蹈鞴師(タタラ)と云われる鍛冶屋、狩人(マタギ)、樵(キコリ、木挽き)、漆屋、炭焼き、鋳掛屋(ふいご)、研屋(けんど)、山守(やもり)、田畑守(のもり)、川守(かもり)、獅子、たまい、猿舞い、猿女などの遊芸者、呪術的宗教者、巫女、渡り商人等々多岐にわたる。明治新政府の刑事政策では「川魚漁をし、竹細工もする、漂泊民」と規定されている。

 要するに、農耕社会の裏側で補足潤滑する職業で生計を立てていたと推定される。注目すべきは山と里との互いの「テリトリー」(生活圏と職業)を侵すことなく平和的に共存してきたことである。ここに、まことに日本的な和合ぶりが見て取れる。

【サンカ族の衣食住】
 食は米を主食とせず、古来からの食事法である山野海の産物を組み合わせ、蕎麦やうどんを主食とするとともに川魚、小鳥、山菜とくに自然薯(じねんじょ)などを食べた。独特の優れた調理炊事法による食生活を確立していた。例えば「焼石料理」がその例で歴然としたサンカ料理である。

 住居は「せぶり」と呼ばれる移動式天幕(テント)を山裾や河原などの水の便のよい所に南向きに張り、テントの中央には炉を切り、テンジン(天人) とよぶ自在鉤を下げ、テンジンとウメガイとよぶ短刀の使用はサンカの証とされた。テント住まいのほか洞穴を利用したり簡単な小屋掛けをするものもあった。地面を掘った穴の中に天幕を敷き、そこにためた水の中に焼けた石を投げ込んで湯をつくり入浴する方法や、地面を焼いてその余熱で暖をとるなどの古い習俗も伝えている。

【サンカ族の家族紐帯、婚姻制度】
 出産前後の儀礼がほとんどなく血忌みに対する観念の希薄さも特色といえる。家族6~7人、5家族くらいの単位で講をつくっていた。 

 「サンカ(山窩)を考える」の「サンカの掟(ハタムラ)」は次のように述べている。
 「サンカの社会は、彼等独自のもので、アユタチと呼ばれる大親分(おおやぞう)を頂点に、クズシリ、クズコ、ムレコの各親分(やぞう)が、 各地のセブリを取り仕切り、その生活は、彼等が理想とする誇り高き社会を守るために、独自の掟(ハタムラ)によって厳しく規定されていたと言われています。 結婚により彼等は親兄弟と離別し、独立のセブリで独立の生業(なりわい)をすることを決められています。 そして掟(ハタムラ)では、ひとたび関係のできた男女は夫婦(ツルミ)とならねばならぬ し、 ツルミとなった以上は、如何なる不正な関係も断じて許されないということです。映画「瀬降り物語」ではそう語られていますが、本当のところは分かりません。ただサンカの人達の夫婦の結びつきは強く、病身の妻を最後まで夫が甲斐甲斐しく看病した話しや、男尊女卑的な考えはあまり無かったようです。神示などの教えには「神界の乱れ、イロからじゃと申してあろう。男女関係が世の乱れであるぞ。お互いに魂のやりとりであるぞ。」との言葉がありますが、かなり自由に生きていたと思われるサンカの人々ですが、人間として守らねばならぬ 掟に対しては厳格であったのかも知れません」。

【サンカ族の語源、各種呼称、漢字表記】
 サンカの語源はいろいろあるが、サンケチ(三つの職掌区分)からきたとする説もある。様々な呼び名で云い表わされている。漢字では「山窩」、「山家」、「三家」、「散家」、「参河」などと表記される。現存する古文書によれば、最初に「サンカ」と表記したのは、広島藩の郡役所。安芸国山県郡の安政2(1855)年の庄屋文書に「サンカ」という文言が出ている。維新後の 邏卒文書に「山窩」と表記されるようになった。和語では、ポン、カメツリ、ミナオシ、ミツクリ、テンバ(転場)、ホイト、カンジンなど地方によってさまざまに呼ばれている。その言葉が指し示す範囲は、時代や使用者によって大きく変わり語義を明確にすることは難しい。「サンカ」という言葉は、江戸時代末期(幕末)の広島を中心とした中国地方の文書にあらわれるのが最初である(ただし、それよりもさかのぼるとする意見もある)。幕末期の時代においては、サンカの呼称は西日本に限られたとされている。

【サンカ族の言語】
 サンカは独特の隠語を喋り、いわゆる神代文字であるサンカ文字を使用する。サンカ文字の一例が次のように図示されている。サンカ文字
 
 この「サンカ文字」は、「古史古伝」の竹内文書に登場する象形文字や、上記(ウエツフミ)に登場する「豊国(トヨクニ)文字」と酷似しており、同起源・同系統の文字であることが判明する。(上記は豊後(ぶんご)国守・大友能直(よしなお)がサンカから入手した文書を元に編纂したと云われている)。これによれば、記紀(日本書紀と古事記)に代表される「官製史書」とは異なる歴史観を記した竹内文書、上記などの「古史古伝」を伝承し続けていることになる。

 但し、日常的には土地ところの村里の言語を使っていたと考えられる。必要に応じて仲間内だけで通用する「隠語」を持ち、全国に独自のネットワーク(情報伝達網)を構築し緊密なコミュニケーションを図っていたと思われる。

【サンカ文字と古史古伝の関係】
 三角寛(本名三浦守、1903~71)が59歳の時、博士号取得のために東洋大学に提出した学位論文「サンカ社会の研究」に対して、田中勝也氏が「サンカ研究」(新泉社刊)で、上記と三角寛の関係について次のように言及している。ここに「サンカ文字と古史古伝の関係」が出てくる。
 「ちなみに、三角氏と『上記』との関係についてであるが、三角氏は戦後の昭和二十年代に氏と同郷の彫刻の大家である朝倉文夫氏から面白いから読めといわれて、『上記』を提供されたという。 これは、三角氏のお嬢さんの弘子さんが証言してくださった事実である。三角氏は『上記』について一切黙して語ってはいないが、氏がこの書物の存在を知っていたことは間違いない。 しかし、ヤキサゴにしろ、製紙技術にしろ、終戦以前はるか昔から共同体に伝えられていた技術であり、これは三角氏と『上記』との出会いとはほとんど無関係である。さらに、三角氏の報告によれば、『上記』にあらわれる異態文字と同系のいわゆるサンカ文字について、これが解読できたのは、昭和十七年のことであったという。つまり、三角氏は、『上記』に接触する以前にサンカ文字を既に知っていたわけであり、このことから、三角氏が『上記』文字を借用してサンカ文字を偽ったという解釈は成り立たないのである」(208ページ)。

【サンカ族の宗教と処世観】
 サンカは出雲-三輪王朝の謂わば縄文系の民である為、その時代に確立していた思想、宗教を継承していると考えられる。このことが、同じく出雲-三輪王朝系譜である山伏修験道信仰と繫がることになる。いわゆる古神道を保持していると思われる。これによれば、1・地球環境、自然との共生、2・共生的住み分け社会、3・質素で簡素、素朴な生活、4・本当の豊かさを知り、自由で誇り高く、弱者に対して慈しみの精神を持った生き方を目指すことになる。

 「サンカ(山窩)を考える」の「ある山林労務者の手記より」は次のように述べている。
 「この手記は知人を通じて、読むことができたものです。手記を記した方は、戦後から昭和40年代頃まで、山林労務者として、各山を転々としたようです。手記には紀伊半島を襲った大水害のことや、山での生活が記録してありました。書いた本人は、直接サンカの人達とは関係がなかったと思われますが、サンカに関しての記述がありましたので、以下抜粋させて頂きました。 【今になって思われることがある 人間は川岸を通り山に入り 家族単位で野宿同様の生活をし移動し 仲間の集会もあって法があり 山野早を食用や薬草につかいわけ 必要な時は 毒草を狩猟にもしただろう 奥谷川に魚はあふれ道具なしで 手掴かみが出来たと思う 山芋や木の実はさずかりものと大切にした 神聖な場をむやみにいためなかった 里人と交流は お互いが必要な時だけだった その種族から別 れて農耕を知り 土着したものと 元のままの生活する者とになった 子孫が歳月を経て平地の住民と山に住む山窩との区別 がついた 知らないから平地の住民は自分たちは先祖から平地の住民だと思い 山窩の人を てんばもん と言い 山窩の人は不器用な平地の住民を とうしろう と呼ぶようになった 昭和に入って日本はあっちの国にも こっちの国にも戦争をしかけ 登録した住民に召集礼状を発したが、まだ人手不足 戸籍のない山窩の人を平地へ住まわしたが 山また山の秘境の果 もあり 古き良きと舞い戻った者もあった】 サンカの人達に対して、何故に、このような認識を持っていたのかは、手記を読んだ限りでは判りませんでした」。

 サンカ(山窩)を考える」の「サンカと縄文スピリット」は次のように述べている。
 「少し前までのこの国の歴史は、せいぜい弥生時代か、大陸から稲作などの文明が入ってきた頃からが始まりであるかのようなとらえかたをしていたように思います。弥生時代の前には一万年も続いた縄文時代がありながら、まるで故意に縄文を封印しようとしているかのように、野蛮で薄っぺらな文明しかなかったように思い込まされてきました。日本各地に残る謎の巨石遺跡や、最近になって発掘され始めた縄文時代の遺跡などにより、決して縄文時代が野蛮な時代ではなく、高度な精神性を持った豊かな時代であったことが知られるようになってきました。その縄文の精神を頑なに継承してきたのがサンカではなかったのかと考えています。勿論、縄文人がそのままサンカとなったということではなく、精神を受け継いだということです。参照【サンカの源流と起源】

 さて、その精神とは如何なるものだったのでしょうか。まず第一にいえることは、自然と人とを差別 し、人を奴隷として使役し、この国の支配者となった渡来者集団に対して服従しなかったことであり、そのために土蜘蛛、国栖、後に蝦夷などと蔑まれ、また畏れられてもきたということです。「夷をもって夷を征す」とは、自らの手を汚さず、上手く懐柔した縄文系(蝦夷と彼らと融合した渡来系の人たち)の成り上がりを利用して、支配体制を維持しようとした渡来者集団の人たちが考えたものでした。渡来者集団の巧妙な手段により、自分たちを追いやったのに服従して体制に組み込まれたり、また俘囚となった縄文系の人たちが大勢いたことだと思います。そんな中でサンカと呼ばれた人たちが最後まで縄文の魂を守り、独自の生き方を貫いてきた人たちだと思います。服従した縄文系の人たちもサンカを差別 してきたのは、服従してしまったことへのコンプレックスと憧れにもにた嫉妬心によるもののような気がします。(悪く言えば奴隷根性でしょうか)それは差別 されながらも、この国の人気者(歴史上の人物から芸能人まで)と呼ばれる人の多くがサンカを始めとした被差別 民から出ているということに現れているように思います。話しが少し脱線してしましました。その縄文の精神ですが、自然と共に生きることであり、自然の声を聞き、自分の魂の声を聞き、自分が何をしたいのか、何をすれば細胞の一つ一つが喜ぶのかを知り、それを自分で決めて、自分の責任で行動できる精神だと思います。まさにサンカのいうメンメシノギの生き方であり中央集権国家にとって都合の悪い生き方でもあります。参照【サンカの組織性】

 それに対して服従してしまった者の精神とは、自然からの声を遮断し、うちなる魂の声を無視し(それに従うのが怖いから)、上の者が決めてくれたことや大勢の人がやっていることしか安心して行動できないというものです。今地球に求められているのは、人や自然を差別 し、自分の行動に責任を持てない無責任な人たちではなく、自然の声を聞き、自分の責任を自覚し、環境のことや弱者のことを考えて行動できる人たちなのです。そのような人たちの群れない繋がりが地球を救うことになるような気がします」。

 サンカ(山窩)を考える」の「野史呼び名辞典」は次のように述べている。
 「野史研究会理事長をなさっておられる掲示板でのハンドル名『Donglyさん』こと立田氏にリンクの紹介文をお願いしたところ次ぎの文章を頂きました。自動リンクでは掲載できる文字数に限りがあり、また非常に心に響く文章なのでここに紹介しました。

--------------------短い紹介文--------------------
 日本人の自然を愛する心のルーツをさがします。 自然をもっとも愛した人々はサンカです。木の葉、木の枝、草の間で 生まれ、水と空気で育ち、そして 大地と天空にかえっていきました。 それが喜びのすべてした。それゆえ 山の者、谷の者、川の者、野の者とも呼ばれました。女は美しく、男はたくましく。それゆえ 自然からももっとも愛されました。その喜びと悲しみの歴史を文字で表しました。 野史呼び名辞典です。
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【 DonglyさんのHP『野史呼び名辞典ホーム』です 】」。


【サンカ族の秘密組織性】
 サンカは徹底的な秘密集団組織として生きてきた。外部の者にはけっして自分たちのことを話さず、特殊な隠語を用いて話し、他の仲間への連絡には特別の符合で書かれたアブリ出しを地面に埋めるなどして行う。その結束は固く、独自の行政・裁判法をもち、一般の倭人とは異なる習慣、信仰、伝承を維持し、しっかりとした相互扶助システムをもって全体の生活を安定させている。緩やかながら強固な組織連帯性を保持していた。全国のサンカを支配する組織の存在も伝えられていて、最高権力者であるアヤタチを頂点としてミスカシ、ツキサキ(シ)などの中央支配者がおり、各地域にはクズシリ、クズコなどの支配者が置かれ、そのもとに各地域セブリをムレコが統率したという。彼らは仲間相互の信義と義理とを道徳の第一とするとともに、外部に対しては厳しい秘密主義をとっていた。日本的な秘密結社の原型とも云える。座右の銘は、「統治されずせず。赤心同胞に捧ぐ」。

 「サンカ(山窩)を考える」の「サンカの組織性」は次のように述べている。
 「研究家によって厳格な組織が存在すると云う見解と、そのような組織は無いとする見解があります。僕は組織はあると思っています。それは起源となった大昔から綿々と続いているものかも知れませんし、社会にトケコミを強いられた中で、自らのアイデンティティと神代の魂を守る為に必然的にできたものなのかも知れません。文献によれば、乱裁道宗(アヤタチミチムネ)を頂点に透 破(ミスカシ)、突破(ツキサシ)を最高権威者とし、知事格にあたるクズシリ、郡長格のクズコ、村長格のムレコがサンカ集団を統制していたとの記述があります。(乱裁、透 破、突破の呼び方は忍者集団との共通点が指摘されていますが、忍者との関係については別 の項目にて考えたいと思います)またトケコミ三代といって、瀬降り生活を離れても三代までは同族として交流があり、三代以降は絶縁状態となるとあります。そして社会の急激な変化の中で、瀬降り生活者が絶滅の危機に瀕したことで、同族間の相互の連絡や助け合いの為に隠密族(シノガラ)と云う組織を作り、その理念として日本の根幹となることを目的としたとありますが、そのような組織の話しはどこからも聞いたことがないのが現状だと思います。しかし賤民視された人達の組織は厳にあり、裏社会、表社会に絶大なる力を誇示しているのは周知の事実としてあると言えます。それらの組織と重層するのか、まったく別 のものとして存在するのかは判りません。メンメシノギと云う サンカの言葉があります。それは各自が独裁独立自由の生活をすることで、誰にも支配されず、誰の干渉も受けず、自己の思うままに生活し、しかもサンカの仲間として自主的に掟を破ることなく自由に生きることを意味した言葉だとされています。僕はそれが一番サンカ本来の姿を表しているように思います。必然的に一部のサンカの人達が組織を継承し、叉は形成したことは充分あり得ることだと思います。しかし、大多数のサンカの人達は程度の差こそあれ、深くは組織と関係ないと思った方が自然のように思います。僕としては、進化しなければならない人類の智恵として、これからは組織は必要の無いものだと考えています。いくら崇高な理念を持って発足した組織であっても、組織が大きく力を持つようにつれて、組織の力でエゴを通 したり、利権を貪ったりするのではないかと思います。それでは本来の崇高な魂を汚し、自ら腐ってしまうのではないかと思ったりもします。しかし弱者にたいして余りにも理不尽な行いをする者に対しては、それなりに団結して退治することは是非と思います」。

【明治新政府の取り締まり】
 明治新政府の御代になって、国勢調査により戸籍が作られることになった。壬申戸籍(じんしんこせき)以来急速に整備され、これに合わせてサンカが犯罪者予備軍として位置づけられ、監視および指導の対象となり徹底的に取り締まられることになった。その理由として、「徴税や徴兵などのため、国家の近代化に伴う戸籍整備の必然性があった」と解説されているが怪しい。実際は、山伏修験道の取り締まりと軌を一にしており、国際金融資本帝国主義ネオシオニズム(「国際ユダ邪」)の日本政治容喙と共に隠然とした勢力を持つ純日本的秘密組織性を帯びていたサンカが取り締まられることになったと解すべきだろう。

 明治新政府の住民戸籍化政策によって、サンカは徐々に元の生活圏に近い集落や都市部などに吸収されたと考えられている。サンカは、徴兵、納税、義務教育の三大義務を拒否し、「まつろわぬ民」、「化外(けがい)の民」として生き延びていたが戸籍が整備され、全国民が登録される体制が整ったため、江戸時代に人別から洩れた層も明治以降の戸籍には編入されるようになったと考えるられる。これによりサンカが一般市民と混在することになった。これは同時に表向きのサンカの消滅をも意味する。

 サンカは明治期に全国で約20万人いたと云われている。昭和の戦後直後で約1万人ほど居たと推定されている。戦後は住民登録をも拒否していたが、次第に「溶け込み」を余儀なくされ、1950年代末に消えた。

【サンカの延命と消滅(溶け込み)】
 昭和3年、東京のクズシリ(頭)隅田川一を長として東京一円を中心にシノガラ(忍びのヤカラ)と名付けられるサンカ秘密結社が結成されたという。シノガラは外面的には社会での職業生活を送りながらも、サンカ一族の堅固な結束を維持する重要な役割を負って生み出されたものであった。

 昭和24年、このシノガラが中心となり、表の顔として財団法人全国蓑製作者組合が組織された。サンカ一族が出しあってつくられたアングラ・マネーとしての相互扶助のための基金の一部が組合基金として浮上することになった。この共同基金の金額は、昭和36年の時点で実に2億49万1011円となっている(当時の大学初任給は2万円)。実際の額の10分の1という見方もある。この基金はシノガラの手によって年1割2分の利回りで運用されているという。現在では基金の年々の増加と運用上の増加を考えれば、莫大な金額になっていることが予想される。また昭和57年の時点で各自が最低1000円以上を収入に応じてシノガラに収めており、総額は5兆円を越すものとされている。サンカ一族はこの資金をフルに活用し、シノガラが日本の根幹として根を張りめぐらし日本の中枢を握ることを目的としている。

 昭和36年の時点でシノガラ会員の3分の1は官公史、次いで学会人、財界人であった。優秀な頭脳が見て取れる。

【サンカと部落民の協調と確執】
 「サンカ(山窩)を考える」の「サンカの被差別性」は次のように述べている。
 「山窩の被差別性について考える時、どうしても避けて通れないのが被差別 部落との関係だと思います。ある研究家によれば、お互い緊張関係にあって敵対していたように書かれてあり、また逆に重層していた可能性があると指摘する研究家もいます。両者はあきらかに形態が違うものですが、その他の賤民視されていた人達とも源流に於いて同じ(極めて近い)ような気がします。事実としては山窩を差別 した被差別部落もあり、また山窩にしても同じ扱いをされるのを嫌い差別したことがあったようです。しかし弱者が弱者を差別 したと云うのでは、あまりにもあさはかで為政者の思うつぼであり、部分的には、お互いそのようなことはあったと思いますが、個人的には、お互いに助け合っていたと信じたい気持ちがあります。沖浦和光著[竹の民族誌]には阿多隼人の血を引く人達が南北朝動乱時代に南朝側について戦い、敗れて賤民に貶められ山深く隠れ住んでいた時に、困窮ぶりを見たサンカの人達が親切に箕作りを教えてくれたのが竹細工の始まりだとの伝承が残る被差別 部落の話しがあります。また部落ではあまり分け隔ててなくサンカの人達と接していたので近くに定着することがあったと書かれています。多数の日本人は自分達と違った生き方や理解できない者、異質な者を差別する傾向にありますが、差別には、弱者と見て差別する者(無知蒙昧、狭量、落ちこぼれ意識があり、自分より弱い者をいじめることでしか精神的均衡を保てない)と畏怖とも言える、潜在的能力を恐れる者(支配者階層)があると思っています。もし広義において賤民視された人達がお互い敵対関係にあったのなら、それは為政者によって作られたものであり、本来縄文の流れを汲む人達の資質からは遠いものだと思います。サンカを始め賤民視された人達の資質は決して低いものではなく、今も昔もこの国を代表する人物を多く輩出していた事実があります。しかし最後まで瀬降り生活を続けていたサンカこそ、人間にとって一番素晴らしい生き方であり、純粋な魂の持ち主であったと思っています」。

 明治~昭和初期頃、熊本鎮台の歴史書によると、熊本でエタとサンカが長期間抗争している。貧民窟の縄張り争い や親分同士の抗争が原因とされている。警察隊では手におえず鎮台(当時の帝国陸軍)がたびたびその騒擾の暴徒鎮圧 に出動した記録があると云う。

 次のように記されている。
 「今やサンカは日本の政治経済から裏社会までを動かすことができる巨大なシンジケートだぞ。穢多の解同なんてサンカシンジケートから見れば鼻糞みたいなもんだ。 だねど彼らはハタムラに従って決して口外しないから、その存在は謎のままだ。サンカをルンペンと思ってる馬鹿は一生それに気づくことがない。彼らはいたるところにトケコミ、日本を裏から操作しているだ。解同は自分達の利権しか眼中にないが、サンカは国の利益すべての国民の利益を考えでいる。あなたの近所にもトケコミがかならずいるよ」。

【サンカと共産主義者との協調と確執】
 的ヶ浜事件
 http://www.geocities.jp/furusatohp/panerurten/photo/matogahama1.jpg

 1922年3月25日、大分県速見郡別府町の的ヶ浜海岸の貧民窟を警察が 焼却処分した。 当時、皇族の閑院宮別府訪問を控え、公安による同地に共産主義セクトが集 結し武器の集積や在郷軍人やセクトによる謀議が行われているとの内定によ り、警備・風紀上問題のあるサンカ小屋を取り払うという名目で地元警察隊 により実施されたが、大きな抵抗と暴動を惹起し、帝国議会にまで影響を与 えた。 議会で問題とされたのはこの貧民窟にハンセン病患者がいたという事を共産主義者により喧伝され人道問題に摺り返られたのであった為であり、それこそが共産主義セクトの作戦であったものであるといわれている。

【戦前のサンカ論】

【戦後のサンカ論】
 戦後には、三角の協力を仰いだ映画『瀬降り物語』(中島貞夫監督)や、五木寛之の小説「風の王国」、さらに現代書館から刊行された『三角寛サンカ選集』全7巻によって、ふたたび一般に認知されるようになった。

 五木寛之 『風の王国』新潮社(1985/01) 新潮文庫版の裏表紙の要約文は次のように記している。
 「闇にねむる仁徳陵へ密やかに寄りつどう異形の遍路たち。そして、霧にけむる二上山をはやてのように駆けぬける謎の女・・・・・。脈々と世を忍びつづけた風の一族は、何ゆえに姿を現したのか? メルセデス300GDを駆って、出生にまつわる謎を追う速水卓の前に、暴かれていく現代国家の暗部。彼が行く手に視るものは異族の幻影か、禁断の神話か・・・・。現代の語り部が放つ戦慄のロマン」

 この小説の最終部分は、初代講主・葛城遍浪の言葉として次のように記している。
 「―― 山に生き山に死ぬる人びとあり。これ山民なり。里に生き里に死ぬる人びとあり。これ常民なり。山をおりて、里にすまず、里に生きて、山を忘れず、山と里のあわいに流れ、旅に生まれ旅に死ぬるものあり。これ一所不在、一畝不耕の浪民なり。

 山民は骨なり。常民は肉なり。山と里の間を流れる浪民は、血なり、血液なり。血液なき社会は、生ける社会にあらず。浪民は社会の血流なり。生存の証なり。浪民をみずからの内に認めざる社会は、停滞し枯死す。われらは永遠の浪民として社会を放浪し、世に活力と生命をあたえるものなり。乞行(ごうぎょう)の意義、またここに存す。乞行の遍路、世にいれられざるときには、自然の加工採取物をもって常民の志をうく。これ《セケンシ》の始めなり。

 山は彼岸なり。里は此岸なり。この二つの世の皮膜を流れ生きるもの、これ《セケンシ》の道なり。われらは統治せず。統治されず。一片の赤心、これを同朋に捧ぐ。されど人の世、歴史の流れのなかに―――」





(私論.私見)