サンカとは何者か

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).3.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、サンカについて確認しておく。日本史の裏の流れを知る為に必要と気がついたからである。「ウィキペディア・サンカ (民俗学)」、「サンカ(山窩)とは」、「51.戸籍を持たない「日本国民」~日本のジプシー「サンカ」 (1999.4.7)」、「家康サンカ説・八切史学概説・信長考・真書太閤記考、その他」、「サンカ(山窩)を考える」、「サンカについて語ろう」、「知ってた?日本史から忘れ去られた幻の古部族『サンカ』」等を参照しつつ、れんだいこ史観で纏める。今後、更に書き込みして行くことにする。

 2011.01.30日 れんだいこ拝


【サンカ族の定義】
 サンカのルーツを廻って1・古代難民説、2・中世難民説、3・近世難民説諸説がある。 れんだいこ史観によれば、1・古代難民説が良い見当ではないかと思う。即ち、サンカとは、古代史上の最大政変即ち出雲-三輪王朝から大和王朝への国譲り政変の過程で地下に潜った出雲-三輪王朝派の一派で、大和王朝以降の時の権力の支配にまつろわぬ特殊な系統ではないかと考えられる。サンカ伝承で出雲の国津神を祖としているとあるのが、これを裏づける。と云うことは各地の鬼伝説、天狗伝説と重なることになるのではなかろうか。

 「農耕せず、定住せず、政治権力に服従しない民」と評されているが、この経緯に淵源があるのではなかろうか。いわば原日本人(あるいは縄文人)出雲-三輪王朝系譜の流民と云うことになる。この流民は国譲り政変以来、人里離れた山間地に住み、独自の生活圏をつくって居たのではなかろうか。その生態は、江戸時代の身分制に於けるエタ(特殊部落民)、非人とも似て非なる系統で、そもそも身分制に出てこない「無籍型隠れ民」であるところに特徴が認められる。

 サンカの生息域は広く北は青森の下北半島から、南は鹿児島の大隅半島に至る日本列島の脊梁山脈や高地をテリトリーとする主として「山の民」と考えられる。古代史上の国譲り政変から考えると、明治維新後の解体までの期間の1500年余を生き延びてきたことになる。サンカは徹底的に公民化を拒否し、表に出ない形でネットワークを形成していた。常に体制(国家)に所属せず、人別帳や戸籍に登録されない、届け出しないいわゆる不祥の民と云うことになる。いわば、国家の中にあって国家権力の枠の外にある自立した漂白共同自活集団とでもいうべき存在であり、「日本人でありながら戸籍を持たない日本人」、「日本の漂泊ジプシー」と云われるアウトローの存在であった。

 サンカが謎であるのは、サンカ自身が自らの存在を公にせず隠然と世を忍んできたことによる。一般の家系図や由来書にあたるものを持たなかった。仮にあったとしても門外不出であり、あるいは口伝によったものと思われる。これによりサンカ研究が意図的故意に為されにくい状況が生み出された。これが第一の理由と考えられる。

 「皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集」の「山窩(サンカ・サンガ」は次のように記している。
 「元々の列島の先住民・蝦夷(えみし/縄文人)は調和の民で、自然と調和し互いに調和して暮らしていた。そこへ破壊混乱の氏族が武力を持って征服に来た。この時から、まったく違う価値観を持った氏族と良民(民人)・非人(賎人)、つまり破壊混乱の氏族と調和の民が同居する二重国家体制の日本列島が徐々に形ち作られて行く事に成る。日本人は、原日本人系縄文人と比較的後期の渡来系との同化二重構造の中で、混血が今でもまだ続いている。日本列島の原日本人系縄文人(原ポリネシア系)が「自然共生主義」である所から、その信仰基盤に自然神が多数存在し、後期の渡来系が同化に際ししてそれを採用(治世に利用)して八百万(やおよろず)の神が成立した。その混血同化の証明が、ミトコンドリアDNA分析である。アイヌの人々と沖縄の人々が、人類学的にも分析でも、「縄文人に近くて近縁関係にある」と証明されてはいるが、少なくとも一万二千年以上前には、「別の集団として存在していた」と見られる。「原日本人系縄文人に近い」とされているアイヌ系と沖縄系に多いタイプの割合が原ポリネシア系であり、日本本土では約二十四%、韓国では約十九%、中国では約十二%である。

 わが国には、古来から人別にも記載されない山窩(サンカ・サンガ)と呼ばれる山の民(非定住民・狩猟遊民)が居る。明治維新以後に戸籍(壬申戸籍 /じんしんこせき)をつくるまで、山窩(サンカ・サンガ)は、治世の外に存在した自由民であった。この山窩(サンカ・サンガ)は、九州から東北地方まで分布している所から、比較的後期の渡来系勢力に押されて、同化を拒み、山中に逃げ延びた「内地の原日本人系縄文人(原ポリネシア系)の一部ではないか」と考えられる。つまり、先住民族(鵺、土蜘蛛、鬼、の類)の同化から取り残された残存の一部が、山窩(サンカ・サンガ)でないと、存在の理由が見当たらないのである。

 勿論、山窩(サンカ・サンガ)にも渡来系勢力との接触はあるから、完全に文明から取り残された訳ではない。山に篭った群れ、平地に降りて来て一郭に集団で居留したもの、その中間の存在もあった筈である。戦国期~安土桃山期に伸し上がった土木工事や築城術、土木戦術、輜重(しちょう/後方支援)運輸術など異能の勢力が、豊臣秀吉を始めとする蜂須賀正勝(小六)、加藤清正、藤堂高虎などの別の素性を出自とする土豪集団が一大勢力を築いた事も、彼らが平地に降りて来た山窩(サンカ・サンガ)集団からの出自を疑わせが、その話は追々語る事にしよう。そして彼ら山に篭った群れの純粋な山窩(サンカ・サンガ)の生活にも、文明や道具の一部は取り入れられたが、生活様式だけは頑なに守って独自の生活圏を山岳地帯につくり、言わば祭らわぬ人々(統治されざる人々)として存在し、それが明治維新の少し後まで無人別集団として存在して居たのである」。【第四巻】に飛ぶ。

 「サンカ(山窩)を考える」の「サンカの源流と起源」は次のように述べている。
 「僕としては縄文から弥生時代、さらに大和中央集権国家へと推移する中、監理、統制され、支配されることを拒んだ原住民、先住民が源流ではないかと思っています。そこに大陸からの渡来人(ユダヤ人の可能性もあると思う)で中央集権国家を形成したグループとは違うグループ(価値観、信仰が違ったのか、それとも政治的、軍事的敗者なのかはわかりません)と混じり合ったのが大体の起源ではないかと思っています。本来、敗者や異民族に対して包容力がある縄文の流れを汲む集団は、それらの人々を内包し、闇に潜むことで神代の魂を近代まで守り続けたのではないかと、日本特有の文化の担い手になることで、そして時折時代の節目に出てきては、日本の方向性を変えていた形跡を感じさせることもあります。民俗学の大家である柳田国男氏は、若い頃の主要な関心はサンカをはじめ被差別 部落などに向けられていて、彼等、被差別民の民俗は、日本列島の文化の古層に属する重要な残留物を表示していると指摘しています」。

 「サンカ(山窩)を考える」の「南朝とサンカの追記」は次のように述べている。
 「僕の知人である、言霊に通じた人との共通の認識として、日本には太古、知られざる文明があり、その文明を断片的に受け継いだのが縄文?出雲族?の人達で、そして、その文明を目指して幾つかの民族が渡来し、縄文人と平和的 に融合したのがサンカを始めとした山の民のルーツではないかとの話を、信頼している方に話したところ【日本に「古事記」や「日本書紀」以前の文明があったのは、間違いないですね。 「知られざる文明」というより、 意図的に「隠された文明」と見ていますが、「竹内文書」や「宮下文書」を調べれば、 面白いことがわかるかもしれません。 「秦氏」や失われた「十(十二~十三?)支族」に言及すると、 熊野ライフの品格を下げることになるかもしれませんね……。 少なくとも今の日本と、ユダヤ教徒国家イスラエルでは、 直接的には何の関係もないので、ページでは説明に時間がかかります。 古代ユダヤ人というより、シュメールからの流れは、 日本の成り立ちと深い関係がありますね……。 ただ、シュメール神話は、聖書や他の影響力ある書物と同じく、 為政者によって改竄されているので、 「ニビル」や「アヌンナキ」の話など、鵜呑みにしない方がよいと思います。】 との答えがかえってきました。その意図的に隠された文明を継承していたのがサンカの人達をはじめとした山の民であったと僕は感じています」。

 喜田貞吉氏の「サンカ者名義考」は次のように記している。
 「坂の者と云ひ、川原者といふは、共に其の住居の有様から得た名で、蓋し市街地又は田園等に利用すべき平地に住むを得ず、僅に京都附近の空閑の荒地を求めて住みついた落伍者の謂であつた。 而して掃除・警固・遊芸其の他の雑職に従事し、或は日雇取を業として居つたものであつた。 是等の徒は地方によつて、或は山の者・谷の者・野の者・島の者・堤下(どてした)などとも呼ばれて居るが、いづれも皆同一理由から得た名と解せられる。其の坂の者といふ名も、必ずしも京の五条坂の部族のみに限つた訳ではない。蔭涼軒日録文正元年二月八日条には、有馬温泉場の坂の者の名も見え、 大乗院寺社雑事記には応仁・文明頃の奈良符坂寄人(ふさかよりうど)の事を坂衆・坂座衆、或は坂者などとも書いてある。 斯く地方によつて種々の名称があるにしても、結局は同情すべき社会の落伍者等が、都邑附近の空閑の地に住みついて、種々の賎職に其の生活を求めたものであつて、特に京都では坂の者・河原者の名で知られ、それが通じてはヱタとも、非人とも呼ばれて居たものであつたのである。 而して其の称呼は時に彼此相通用し、其の実河原者をも屡坂の者と呼び、坂の者をも或は河原者と呼ぶ事にもなつたらしい。然るに後世では次第に其の分業の色彩が濃厚となつて、河原者の名が其の実河原住居ならぬ俳優のみの称呼となつたが様に、 坂の者の名がサンカモノと訛つて、特に漂泊的賎者の名として用ひられることになつたのであらう。 賎者の名称が同じ程度の他のものに移り行く事は、もと主鷹司の雑戸なる餌取(えとり)の名が、ヱタと訛つて浄人(きよめ)・河原者等にも及び、はては死牛馬取扱業者にのみ限られる様になつた例もある。 真の京都の坂の者の後裔は《つるめそ》の名を以てのみ呼ばれて、本来の坂の者の称を失ひ、却つて其転訛たるサンカモノの名が、別の意味に於て用ひられる様になつたのも、必ずしも敢て不思議とする程ではない。 かくて近時に至つては、オゲ・ポンスケなど呼ばれた他の地方の漂泊民にまで、其の名が広く普及しつゝあるのである」。

 2010年10月31日「山窩(サンカ)とは何か(1)」、「」。
 山窩(サンカ)とは何か

 山窩とは、日本の山間部を生活の基盤とし、夏場の川魚漁、冬場の竹細工を主たる生業としながら山野を渡り歩く漂泊民である。その生活実体は十分につかめてはいないが、生産技術や社会関係、信仰といった生活様式が平地民とやや異なり、平地の住民からは異端的に見られていた。サンカは戦争のたびに定住を強制され、ついに太平洋戦争を境にして不明となったといわれる。民俗学の祖柳田国男がサンカについて記述したが、柳田は警察官からサンカについて聞いたという。作家でサンカ研究家である三角寛も、サンカを知るきっかけは警察だった。三角寛は、彼らを独特な文字や掟(おきて)、伝承、厳格な組織を有する社会集団として描き、肉体的にも異能の持ち主としている。
 名称の由来

 サンカは散家、山稼、山家などとも書かれ、民間では箕作り・箕直し・テンバモン・カワラコジキ・ポン・ノアイ・オゲ・ヤマモンなどと呼んでいた。山窩という名前は、明治維新後に警察によって作られた言葉であるといわれる。「山の窩(あな)にひそむ盗賊」くらいの意味であろう。漂泊民をあたかも犯罪者集団と見た名残がある。三角寛は、ながく山窩と表記してきたが、サンカには大きく三つの仕事の系列があることから、三家と書くのが適当ではないかと言っている。ルポライターの朝倉喬司も別の角度から、やはり三つの家で三家ではないかという説を立てている。四国高松地方で三界に家なき者のことをサンカまたはサンガイというのと同じだとか、ジプシーの故郷といわれる西インドのサンガタの住民サンガニに語源を発するとかという説もある。異端の歴史家矢切止夫は、大和朝廷は海からやって来て平地に棲(す)みつき、原日本人は、山でサンカとなり、海で海人(アマ)となったとことから。原日本人は山海族であり、サンカは山海なのだと言っている。サンカは自分自身を関東ではナデシ、関西ではケンシ、ショケンシ(世間師)、ケンタと呼ぶが、これは、Gypsyという言葉が外部からの呼称で彼ら自身はRom(人間という意味)と呼んでおり、Eskimo(生肉を食う人)がInuit(人)の蔑称であることと似ている。
 起源

 サンカの種族的系統については、縄文人の末裔説、渡来人説や落人(おちゅうど)説、中世の傀儡(くぐつ)の後裔説などがあり一定していない。縄文人の末裔説によれば、彼らは大和朝廷に征服された先住民族であり、原日本人である。この日本列島に、朝鮮半島や中国から水田稲作と高い土木技術をもった、騎馬と鉄の武器で武装した俗にいう弥生人がやってきた。これらの人々やその後身である大和朝廷は列島の平地部分を占拠していった。原日本人は平地を追われて山に立てこもった。侵略者たちは日本列島の主人面をはじめ、征服され、滅ぼされた原日本人の末裔であるサンカは、大和朝廷成立以前からの生活を守り暮らした。平地定着民となる事を拒絶し、山と平野の間を風のように流動し先住民としての矜持と自立を守ってきた。これはアメリカ大陸に上陸したイベリア人がインディオを駆逐し、アメリカ人たちが「インディアンは劣等な存在、自然奴隷である」として、インディアンから土地を剥奪したのと同じ事である。

 柳田国男は<妖怪談義>のなかで次のように述べている。
『これらの深山には神武東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥されられ・・・その大部分は死に絶え、乃至は平地に下ってわれわれの文明に同化したでもあろうか、もともと敵である。少なくもその一部分は我慢をして深山のそこに踏みとどまり野獣に近い生活を続けて、今日までも生存してきたであろうと想像するのは、強(あなが)ち不自然なる空想でも無かろう』。

 沖浦和光は、有史以前からの「山人」に連なるものではないかとする柳田国男のサンカ論を否定し、サンカは比較的新しく江戸期に度重なる飢饉(ききん)で山野に逃れた人々を祖とするという「近世末期発生説」を提起している。サンカに関する初出史料は安芸国(広島県)の庄屋文書(1855年)とみられる。三角寛はサンカ発生の地として「雲伯石の三国」(島根・鳥取両県)を示唆している。
 生活

 山窩は、日本列島の脊梁(せきりょう)(せきりょう)山脈や高地を移動し『山』を生活の拠点としていた。北は青森の下北半島から南は鹿児島の大隈半島まで全国的に分布するとも、東北地方以北にはいないともいわれる。住居は山では洞窟に住み、移動のときにはユサバリとよばれるテントを張って家族単位に生活した。また、ユサバリで暮らすことをセブリと『瀬振り』(セブリ)といった。これこそがサンカの特徴である。セブリこそがサンカなのである。昼間は箕(み)作りをしたり、笛を作ったりする。時には蝮(まむし)も捕る。サンカは働き者で、身奇麗だという。煮炊きは、テンジン=天人という自在鉤(かぎ)で吊(つる)したナベで行う。風呂(ふろ)は焼き湯と言って、穴を掘った内側にまず天幕を張って水がもれないようにし、水を入れた後に、たき火で焼いた石を入れる。こうして湯を沸かし、入浴する。冬は南の暖かいところ、夏は北の涼しいところに居を構えたという。男は天幕や道具を、女は赤ん坊やナベカマを背負い、山のサンカ道を抜けて次のセブリに行く。彼らは米を主食とせず、さらに、非農耕・非定住・非服属の等の特徴を持つことから「日本のジプシー」とも呼ばれる。サンカは、このような生活をサンカ言葉でハタムラという掟(おきて)で守ってきた。サンカ言葉では、平地に降りて暮らすことをトケコミ、イツキという。戦後は、トケコミしたイツキのサンカが、サンカの主流となったという。
 言葉

 言葉の幾つかは集団固有のものを用い、それを兵庫県地方ではサンショコトバといっていた。サンショとは中世の散所(さんじよ)に当たると推定されている。サンカ同士は、伝令やサンカ文字による手紙で常に連絡を取り合っていた。

 生業

 サンカには大きく3つの職種がある。ミツクリは箕(み)作りで、竹細工系の仕事。フキタカは笛作り、琴作り、茶筅(ちゃせん)作りなど、楽器や芸事の道具製作で他にも籠(かご)、簑(みの)、笠(かさ)、下駄(げた)などの細工物を作る。里におりて食料その他と交換した。

 エラギは猿舞い、獅子舞、猿楽、白拍子、くぐつ、などの遊芸である。彼らは、漂泊の旅をする遊芸の民だった。歌舞伎(かぶき)は出雲の阿国という女がはじめたと言われている。サンカの伝承=コトツによれば、この阿国がサンカだったというのである。このようにサンカは、芸能や宗教などにたずさわった者と根をひとつにするようだ。

 この他にイツモリ=五守という分類もあり、山番などの労務関係の仕事がある。ヤシナド(ヤシナ)という分類には、竿(さお)屋、ふいご屋(いかけ屋)、研ぎ屋(するど・刃物砥ぎ)、トベナイ(呪・占い師)が入る。蝮捕はサンカの誰がやってもいいとされる仕事で、取った蝮は生きたまま蛇屋に売る他、調味材料、副食などの食用にした他、保健剤、外傷剤としても使われたという。川漁にたずさわる集団も多かった。山中の川のそばでユサバリをしてセブリ、川魚や山菜を取りながら、転々と移動した。非農業系の仕事のかなりの部分がサンカなのだ。
 道具

 ウメガイとテンジンが代表的なサンカの道具で、サンカの証明ともなる重要なものだ。ウメガイは、両刃の小刀で、サンカの象徴的な仕事である箕(み)作りで竹を細工するのに使われる、サンカにとっては最も大切な道具である。また、時には護身用に使用される。テンジン=天人はウメガイとともにサンカを証明するもので、ウメガイよりも大切にされる。マガクモ=ニセサンカがウメガイを持っている事は許されても、天人を持つ事は絶対にゆるされない。
 山窩と戸籍

 670年の「庚午(こうご)年籍」に始まる戸籍は、国家統治の基礎であった。しかし、明治に入っても戸籍への編入を拒絶し、国民の三大義務である徴兵、納税、義務教育を無視してきたのがサンカであった。日清戦争後にも20数万人、第2次世界大戦後の昭和24年にも、約1万4000人の無国籍サンカがいた。その当時サンカ以外の流浪人を合わせると80数万人の戸籍を持たない人達がいたという。昭和27年朝鮮戦争を契機に国家再編成を実現する目的で施行された「住民登録令」によって、この列島に住む人々は全て、居住地を決め、その住所を申請すると同時に、米穀通帳、国民年金、健康保険、選挙人名簿などを一括登録する事を義務化した。後に「住民基本台帳法」として完成するこの政令によってサンカの歴史は幕を下ろすことになる。
 山窩と裏日本史

 日本の信仰はどれも、深く山岳信仰と関わりあっている。山岳信仰と密教は密接な関係にある。真言宗の開祖空海も、中国に渡る前に山で修業している。後に修験道は真言宗、天台宗の両密教に所属するが、表向きは修験が両密に所属しているものの裏では関係は逆だという。

 サンカと修験の深いつながりは容易に想定できる。サンカと修験は同じものでないが、サンカとの関係が悪ければ、修験は修業どころか、山にいる事すらできなかったであろう。そして、日本仏教は、修験を通してサンカとつながっていた。明治以降、仏教と神道は分離されてしまったが、江戸時代まで仏教と神道はそれほど別のものではなかった。いや、山を介して深く関連しあっていた。

 竹はサンカにとって重要なものだ。お伽噺(とぎばなし)の竹取物語はサンカの物語かもしれない。竹取物語のかぐや姫が男に冷たいのは、サンカの女が朝廷の男に敵意を持っていたためだろうか。

 サンカは忍者の源流だったとも言われる。身が軽く、山の自然の過酷な環境の中で生まれ、育ち、そこで生きる知識と技能がある。また、独自の文字や連絡方法を持ち、その情報網は日本全国をおおっていた。サンカ独自の山の道も、他にはない交通網だった。そういう特殊技能と、結束、集団性は、そのまま強力な忍者集団になれる。戦国時代、サンカは忍者として諸国の大名に雇われ、情報戦を担っていたという。情報を握ることで、逆に諸大名を操作していたとも言う。織田信長は、サンカを裏切ったため、本能寺で明智光秀に殺されるよう、忍者=サンカが手配したというのだ。また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などは、サンカ出身だという説もある。確かめようはないが、それが間違っていたとしても、サンカと日本史の関係を考える場合、ある種のリアリティーは伝えている。サンカは明治初期から次第に被差別部落や都市部のスラム街に溶け込んでいったという。
 山窩と古史古伝

 サンカには、独特の文字と神話伝承がある。『日本書紀』『古事記』に書かれた以外の歴史を伝える幾つかの古文書を一般に古史古伝というが、その中の、江戸時代に大分で発見された『上記』(ウテツフミ)はサンカ文字と同じ文字で書かれている。『上記』は、本当の古代史なのだろうか。また、日本神話である『日本書紀』も『古事記』も、サンカ言葉で読むとまったく違ったものになるという。サンカの道具であり武器であるウメガイという両刃のサンカ刀があるが、このウメガイこそがスサノオノミコオがヤマタノオロチを退治した刀だというのだ。
 山窩と犯罪

 大正15年7月30日、池袋の黒川健三方に職人風の覆面男が忍び込み、20円を強奪した。4年にわたって東京を震撼させた説教強盗の登場である。忍び込んだ家で、縛り上げた家人に戸締まりをしろとか、防犯上の説教をしたことから、当時朝日新聞の記者だった三角寛が「説教強盗」と名づけた。説教強盗は犯行を重ね、その数は昭和4年には盗みと強姦をあわせて65件に登った。その鮮やかな手口にキリキリ舞いさせられた捜査陣から「犯人はサンカ」ではないのかと声があがった。これを聞きつけた三角寛はサンカに興味を持ち、サンカの研究を始める。昭和4年2月24日、説教強盗妻木松吉は西巣鴨向原の自宅で逮捕された。捕まる時「おさわがせしてすみません」と言った妻木はサンカではなかった。昔は、事件があると警察はすぐにサンカではないかと疑った。下谷万年町にサンカが多くいて、潜入している刑事までいたのである。
 サンカは、明治以降、近代に入ってからも戸籍を持たずに山で漂泊の生活を続けていた。そのため、明治以降、近代に入ってからは警察が、まつろわぬ人々であるサンカを怪しみ、サンカと犯罪を結びつけ、何かあるとすぐに「犯人はサンカ」ではないかと憶測した。現在もそれは続いている。グリコ森永事件の当時、一部で「かい人21面相」=サンカ説がささやかれたのである。その噂(うわさ)の真偽は確かめようもない。また、何から何までサンカでは困ってしまう。しかし、噂(うわさ)が出る事自体が、サンカの魅力が今も輝いている証拠なのは確実だ。
 山窩料理

 東京都下にサンカ料理を出す割烹旅館があった。今はサンカ料理をやっていないが、それに近い川魚料理をだす。米を食わないサンカらしく、米飯がなく、よもぎソバがメインの料理である。この店、戦時中、陸軍御用達(ごようたし)の店で一般人は入れない店だった。東条英樹が入りびたり、夜の大本営とまで言われた。サンカ料理と東条英樹、陸軍とサンカが実はつながっていたのであろうか。
 山窩の町

 甲州街道はかつてサンカ街道とも呼ばれたという。街道沿いの都下に、サンカの町がある。この町にサンカが定住したのは戦時中の事で、漂泊の生活で戸籍を持たないサンカを強制定住させて戸籍に入れ、徴兵した。定住の場所は、ただ無作為に選んだのではなく、サンカに縁のある場所が選ばれた。
 現代の山窩

 かつて、山で生活し自分たちの独自の文化と社会を形成していたサンカが存在したのは確かな事だが、現在はとなると、「いる」「いない」で意見が別れている。『サンカと説教強盗』を書いた礫川全次は、トケコミしきって、消滅したという説だ。現代日本では山に行ってもセブリをしているサンカはいない。小説や物語の中でのみ、彼らに会う事が出来るというところであろう。

 しかし、その一方で、サンカの独自の結束を生かして金を集め、そのサンカ資金でエリートを育て上げ、サンカ資金の運用で裏側から中枢を動かしているという説もある。三角寛の『サンカ社会の研究』の第4章15は秘密結社という見出しでシノガラを紹介している。セブリから離れてトケコミをすると三代限りでサンカから絶縁する。しかし、形の上ではトケコミだが、絶縁しないで秘密のつながりを持ち続けるのがシノガラなのだと言う。セブリがなくなった後、サンカはシノガラとして存続しているのかもしれない。元々、明治以降、戸籍を取らせるため、また犯罪捜査のためとして警察から過酷な手入れをされるなど差別にさらされたサンカが自衛のため、法律家、政治家を育て対抗しようとした事からはじまるサンカ基金がシノガラと結びつき、秘密裏に育てた人材を、サンカの代表として権力の中枢に送り込んでいるのだろうか。民俗学者の赤松啓介は「サンカも殆んど姿を消してしまい、常民のなかへトケコミしたようだが、地下の組織は生きているだろう」「こうした人たちの正体を調べようなどと、バカな野心は起こさないのがよい。ウラの世界にはウラのオキテがある」と述べた上に「絶対に死体が上がらない海もあるし、あまり人の行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景もある」とまで言っている。(民俗境界論序説)

 マージナル1号では西垣内堅佑弁護士がサンカと土建・建築業界はつながりが深いと言われることをふまえながら、田中角栄元首相と政商小佐野賢治の協力関係がサンカの秘密組織シノガラと重なると指摘している。矢切止夫も「原日本人の系譜をひくサンカにはシノガラという相互扶助組織があり、その組織の元締たるオーモト(アーモト)様はスイスに存在していた」、「アメリカ政府はオーモト様と連携し戦後の日本の政体について、天皇制を廃止し、日系アメリカ人を母体としたオーモト様指揮下のサンカ政権を作ることを計画していた。しかし、占領後、天皇の力が強いことを知ったフリーメーソン(33階位)のマッカーサーは、サンカ政権の約束を反古にし、天皇制を利用してフリーメーソンの影響下にある政権を作り出してしまった」という説を紹介している。また、田中角栄が拘置所から出た時に「ユダヤにやられた」と口にしたという話もあったという。現代日本の裏側でサンカが活躍しているというのだ。これは、五木寛之の作品『風の王国』ともつながる説だ。サンカは銀行も持っていて、これがサンカ基金を運用しているという噂もある。
 山窩物語

 「もののけ姫」という映画で、宮崎駿はサンカをはじめとする人々を描いたようである。サンカとタタラ族との深い繋がり、もののけ姫の名前がサンという事とアシタカという名から連想される先住民、彼らがハンセン病患者達を助けたという事実がそれを考えさせるのである。作家の椋鳩十は、自然に生きる漂泊民として詩情豊かに描き、自由に生きる人間の原風景を呼び起こした。「戒厳令の夜」「風の王国」など五木寛之の作品では、国家の規制を超えて独自の文化をもち、管理社会の下で閉塞した状況に風穴を開ける集団として登場している。中島貞夫監督の映画「瀬降り物語」(85年)では、山々を流浪する孤独な生活を萩原健一が好演した。

 サンカと呼ばれる人々はハンセン病や色んな事情があって山に逃げてきた人たちをとても良く面倒みたりもした。今の破壊された地球において、自然を愛し共生する自発的貧困とも言える質素、簡素、素朴な生活を送り、真の豊かさを知り、自由で矜持高く、弱きものを愛する事のできるサンカこそが、今の日本に一筋の光を差す、真の生をおくっているのかもしれない。

 「★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ3」の「投稿者 ○○○▽ 日時 1999 年 9 月 11 日」投稿「【資料】 サンカ(山窩)とは」。
 サンカ(山窩)とは

 明治以降明らかにされた時点では、川筋伝いに村から村へと渡り歩き、主に蓑つくり、笊(ザル)つくりなど竹を主原料とする製品を作り、農家で穀物と交換する、といったことで生計を支える、関東以南から九州までをテリトリーとする漂白集団だった。定住しないため、テントをもって移住し、一夫婦と子供で一家族六~七人、五家族くらいの単位で共同歩調をとった。

 サンカの語源はいろいろあるが、サンケチ(三つの職掌区分)からきたとする説もある。サンカ自身は自分たちをセブリ、(テントの意味、一セブリ=同居する家族)セブリモノなどと呼ぶといわれる。
 ミツクリの一(カミ)(蓑つくりの総領)
 フキタカの一(笛つくりの総領)
 エラギの一(遊芸の総領)

 サンカは徹底的な秘密集団組織として生きてきた。外部の者にはけっして自分たちのことを話さず、特殊な隠語を用いて話し、他の仲間への連絡には、特別の符合で書かれたアブリ出しを地面に埋めるなどして行う。その結束は固く、独自の行政・裁判法をもち、一般の倭人とは異なる習慣、信仰、伝承を維持し、しっかりとした相互扶助システムをもって全体の生活を安定させている。そして古くから戸籍を持たず、昭和期に至ってもなお届出を行わない者たちが多かった。いわば、国家の中にあって国家権力の枠の外にある、完璧に自立した漂白共同自活集団とでもいうべき存在なのだ。かつてそのように生きる人たちがたくさんいた。その多くは遊芸者であり、神の女として春の恵みを売る巫女たちであり、木工製造・鍛冶・狩猟・沿岸漁業・川漁などにたずさわる人たちであり、呪術的宗教者であり、渡り商人たちであった。巨大組織サンカの強固な組織連帯性の中核にあるのが純潔の保持である。サンカは決してサンカ以外の者たちと混血する事はなかった。

 サンカには有名な伝承の蝮部伝承がある。蝮(タジヒ)とはマムシの事であり、このマムシを捕って生活の害を除き、精力剤を作る職業が蝮部という古代の職業であり、かつてのサンカの主要な職掌の一つだった。古伝承によるとサンカの祖は火明で、隼人(ハヤト)の一派がサンカの系統につながっている、となる。

 五木寛之の小説「戒厳令の夜」「風の王国」は、明治維新以後現在に至るおよそ一二○年間に、公的権力に組み入れられることによって、まるで風のように姿を消してしまった漂白の人々が、どこへ行ったわけでもなく、実は私たちの身近な日常性の中にとけこんで実在しているという想像から展開されている、といってよいだろう。

 延々と独自のコンミューンを保ち生き続けてきたサンカが、現在どのような形でこの高度資本主義社会にトケこんでいるのか。一説によると現在一般の”非占領社会”にまぎれこんでいる彼らの数は、人口の一五パーセント以上、およそ二○○○万人以上に達するとみられている(1986年)昭和三年、官憲のサンカ対策が目立ってきたため、東京のクズシリ(頭)隅田川一を長として東京一円を中心にシノガラ(忍びのヤカラ)と名付けられるサンカ秘密結社が結成されたという。シノガラは外面的には社会での職業生活を送りながらも、サンカ一族の堅固な結束を維持する重要な役割を負って生み出されたものだ。このシノガラが中心となり、表の顔として財団法人全国蓑製作者組合が昭和二四年に組織され、まるで欧米のフリーメーソンのような形態をサンカ一族はとるようになっていった。時代のすう勢からこれまでサンカ一族が出しあってつくられた相互扶助のための基金を、全額アングラ・マネーとして積んでおくわけにはいかなくなったからでもあったからか。そのため一部を組合基金として浮上させたのである。

 この共同基金の金額は、昭和三六年の時点で実に二億四九万一○一一円となっている。当時の大学初任給は二万円にも満たなかったから現在でいえば一五億円くらいに相当するが実際の額の一○分の一という見方もある。この基金はシノガラの手によって年一割二分の利回りで運用されているという。現在では基金の年々の増加と運用上の増加を考えれば、莫大な金額になっていることが予想される。また昭和五七年の時点で各自が最低一○○○円以上を収入に応じてシノガラに収めており、総額は五兆円を越すものとされている。サンカ一族はこの資金をフルに活用し、シノガラが日本の根幹として根を張りめぐらし日本の中枢を握ることを目的としている。(すでに達成されたものと考えられる)少なくとも昭和三六年の時点でシノガラの三分の一は官公史、次いで学会人、財界人が多数を成した。ある銀行の幹部がシノガラに独占され、組合から「逆差別」だといわれたエピソードなど体制化・権力化への道をたどっていると指摘されている。
(資料とさせて頂いた1986年出版の本は現在、絶版となり入手不可能。)

*テキスト化するにあたって、一部表記を変更した個所があります。
 コメント:
 私がもらった事のある、あらゆるカルト宗教や政治団体のビラ等とも様相が異なっていたので掲載しました。このビラの配布者およびその意図はまったく不明です。その方面のネタには私は詳しくはないのですが、わが国の国家主権を好き勝手に蹂躙する悪魔ロッジ系メーソンの汚い魔の手に対し、彼らが真っ向から主張しつつある歴史的転換点に、今到達しているのだろうか。山窩は毒蛇の天敵のようですね。
 「日本のジプシー『漂白の民山窩の謎』--忍者カムイと出雲の阿国」(新國民社、1982年初版、1986年再版)
 田中勝也著「サンカ研究」(新泉社、1987年 第1刷発行 1993年 第12刷発行) 

【サンカ族の秘密組織性】
 サンカは徹底的な秘密集団組織として生きてきた。外部の者にはけっして自分たちのことを話さず、特殊な隠語を用いて話し、他の仲間への連絡には特別の符合で書かれたアブリ出しを地面に埋めるなどして行う。その結束は固く、独自の行政・裁判法をもち、一般の倭人とは異なる習慣、信仰、伝承を維持し、しっかりとした相互扶助システムをもって全体の生活を安定させている。緩やかながら強固な組織連帯性を保持していた。全国のサンカを支配する組織の存在も伝えられていて、最高権力者であるアヤタチを頂点としてミスカシ、ツキサキ(シ)などの中央支配者がおり、各地域にはクズシリ、クズコなどの支配者が置かれ、そのもとに各地域セブリをムレコが統率したという。彼らは仲間相互の信義と義理とを道徳の第一とするとともに、外部に対しては厳しい秘密主義をとっていた。日本的な秘密結社の原型とも云える。座右の銘は、「統治されずせず。赤心同胞に捧ぐ」。

 「サンカ(山窩)を考える」の「サンカの組織性」は次のように述べている。
 「研究家によって厳格な組織が存在すると云う見解と、そのような組織は無いとする見解があります。僕は組織はあると思っています。それは起源となった大昔から綿々と続いているものかも知れませんし、社会にトケコミを強いられた中で、自らのアイデンティティと神代の魂を守る為に必然的にできたものなのかも知れません。文献によれば、乱裁道宗(アヤタチミチムネ)を頂点に透 破(ミスカシ)、突破(ツキサシ)を最高権威者とし、知事格にあたるクズシリ、郡長格のクズコ、村長格のムレコがサンカ集団を統制していたとの記述があります。(乱裁、透 破、突破の呼び方は忍者集団との共通点が指摘されていますが、忍者との関係については別 の項目にて考えたいと思います)またトケコミ三代といって、瀬降り生活を離れても三代までは同族として交流があり、三代以降は絶縁状態となるとあります。そして社会の急激な変化の中で、瀬降り生活者が絶滅の危機に瀕したことで、同族間の相互の連絡や助け合いの為に隠密族(シノガラ)と云う組織を作り、その理念として日本の根幹となることを目的としたとありますが、そのような組織の話しはどこからも聞いたことがないのが現状だと思います。しかし賤民視された人達の組織は厳にあり、裏社会、表社会に絶大なる力を誇示しているのは周知の事実としてあると言えます。それらの組織と重層するのか、まったく別 のものとして存在するのかは判りません。メンメシノギと云う サンカの言葉があります。それは各自が独裁独立自由の生活をすることで、誰にも支配されず、誰の干渉も受けず、自己の思うままに生活し、しかもサンカの仲間として自主的に掟を破ることなく自由に生きることを意味した言葉だとされています。僕はそれが一番サンカ本来の姿を表しているように思います。必然的に一部のサンカの人達が組織を継承し、叉は形成したことは充分あり得ることだと思います。しかし、大多数のサンカの人達は程度の差こそあれ、深くは組織と関係ないと思った方が自然のように思います。僕としては、進化しなければならない人類の智恵として、これからは組織は必要の無いものだと考えています。いくら崇高な理念を持って発足した組織であっても、組織が大きく力を持つようにつれて、組織の力でエゴを通 したり、利権を貪ったりするのではないかと思います。それでは本来の崇高な魂を汚し、自ら腐ってしまうのではないかと思ったりもします。しかし弱者にたいして余りにも理不尽な行いをする者に対しては、それなりに団結して退治することは是非と思います」。

【明治新政府の取り締まり】
 明治新政府の御代になって、国勢調査により戸籍が作られることになった。壬申戸籍(じんしんこせき)以来急速に整備され、これに合わせてサンカが犯罪者予備軍として位置づけられ、監視および指導の対象となり徹底的に取り締まられることになった。その理由として、「徴税や徴兵などのため、国家の近代化に伴う戸籍整備の必然性があった」と解説されているが怪しい。実際は、山伏修験道の取り締まりと軌を一にしており、国際金融資本帝国主義ネオシオニズム(「国際ユダ邪」)の日本政治容喙と共に隠然とした勢力を持つ純日本的秘密組織性を帯びていたサンカが取り締まられることになったと解すべきだろう。

 明治新政府の住民戸籍化政策によって、サンカは徐々に元の生活圏に近い集落や都市部などに吸収されたと考えられている。サンカは、徴兵、納税、義務教育の三大義務を拒否し、「まつろわぬ民」、「化外(けがい)の民」として生き延びていたが戸籍が整備され、全国民が登録される体制が整ったため、江戸時代に人別から洩れた層も明治以降の戸籍には編入されるようになったと考えるられる。これによりサンカが一般市民と混在することになった。これは同時に表向きのサンカの消滅をも意味する。

 サンカは明治期に全国で約20万人いたと云われている。昭和の戦後直後で約1万人ほど居たと推定されている。戦後は住民登録をも拒否していたが、次第に「溶け込み」を余儀なくされ、1950年代末に消えた。

【サンカの延命と消滅(溶け込み)】
 昭和3年、東京のクズシリ(頭)隅田川一を長として東京一円を中心にシノガラ(忍びのヤカラ)と名付けられるサンカ秘密結社が結成されたという。シノガラは外面的には社会での職業生活を送りながらも、サンカ一族の堅固な結束を維持する重要な役割を負って生み出されたものであった。

 昭和24年、このシノガラが中心となり、表の顔として財団法人全国蓑製作者組合が組織された。サンカ一族が出しあってつくられたアングラ・マネーとしての相互扶助のための基金の一部が組合基金として浮上することになった。この共同基金の金額は、昭和36年の時点で実に2億49万1011円となっている(当時の大学初任給は2万円)。実際の額の10分の1という見方もある。この基金はシノガラの手によって年1割2分の利回りで運用されているという。現在では基金の年々の増加と運用上の増加を考えれば、莫大な金額になっていることが予想される。また昭和57年の時点で各自が最低1000円以上を収入に応じてシノガラに収めており、総額は5兆円を越すものとされている。サンカ一族はこの資金をフルに活用し、シノガラが日本の根幹として根を張りめぐらし日本の中枢を握ることを目的としている。

 昭和36年の時点でシノガラ会員の3分の1は官公史、次いで学会人、財界人であった。優秀な頭脳が見て取れる。

【サンカと部落民の協調と確執】
 「サンカ(山窩)を考える」の「サンカの被差別性」は次のように述べている。
 「山窩の被差別性について考える時、どうしても避けて通れないのが被差別 部落との関係だと思います。ある研究家によれば、お互い緊張関係にあって敵対していたように書かれてあり、また逆に重層していた可能性があると指摘する研究家もいます。両者はあきらかに形態が違うものですが、その他の賤民視されていた人達とも源流に於いて同じ(極めて近い)ような気がします。事実としては山窩を差別 した被差別部落もあり、また山窩にしても同じ扱いをされるのを嫌い差別したことがあったようです。しかし弱者が弱者を差別 したと云うのでは、あまりにもあさはかで為政者の思うつぼであり、部分的には、お互いそのようなことはあったと思いますが、個人的には、お互いに助け合っていたと信じたい気持ちがあります。沖浦和光著[竹の民族誌]には阿多隼人の血を引く人達が南北朝動乱時代に南朝側について戦い、敗れて賤民に貶められ山深く隠れ住んでいた時に、困窮ぶりを見たサンカの人達が親切に箕作りを教えてくれたのが竹細工の始まりだとの伝承が残る被差別 部落の話しがあります。また部落ではあまり分け隔ててなくサンカの人達と接していたので近くに定着することがあったと書かれています。多数の日本人は自分達と違った生き方や理解できない者、異質な者を差別する傾向にありますが、差別には、弱者と見て差別する者(無知蒙昧、狭量、落ちこぼれ意識があり、自分より弱い者をいじめることでしか精神的均衡を保てない)と畏怖とも言える、潜在的能力を恐れる者(支配者階層)があると思っています。もし広義において賤民視された人達がお互い敵対関係にあったのなら、それは為政者によって作られたものであり、本来縄文の流れを汲む人達の資質からは遠いものだと思います。サンカを始め賤民視された人達の資質は決して低いものではなく、今も昔もこの国を代表する人物を多く輩出していた事実があります。しかし最後まで瀬降り生活を続けていたサンカこそ、人間にとって一番素晴らしい生き方であり、純粋な魂の持ち主であったと思っています」。

 明治~昭和初期頃、熊本鎮台の歴史書によると、熊本でエタとサンカが長期間抗争している。貧民窟の縄張り争い や親分同士の抗争が原因とされている。警察隊では手におえず鎮台(当時の帝国陸軍)がたびたびその騒擾の暴徒鎮圧 に出動した記録があると云う。

 次のように記されている。
 「今やサンカは日本の政治経済から裏社会までを動かすことができる巨大なシンジケートだぞ。穢多の解同なんてサンカシンジケートから見れば鼻糞みたいなもんだ。 だねど彼らはハタムラに従って決して口外しないから、その存在は謎のままだ。サンカをルンペンと思ってる馬鹿は一生それに気づくことがない。彼らはいたるところにトケコミ、日本を裏から操作しているだ。解同は自分達の利権しか眼中にないが、サンカは国の利益すべての国民の利益を考えでいる。あなたの近所にもトケコミがかならずいるよ」。

【サンカと共産主義者との協調と確執】
 的ヶ浜事件
 http://www.geocities.jp/furusatohp/panerurten/photo/matogahama1.jpg

 1922年3月25日、大分県速見郡別府町の的ヶ浜海岸の貧民窟を警察が 焼却処分した。 当時、皇族の閑院宮別府訪問を控え、公安による同地に共産主義セクトが集 結し武器の集積や在郷軍人やセクトによる謀議が行われているとの内定によ り、警備・風紀上問題のあるサンカ小屋を取り払うという名目で地元警察隊 により実施されたが、大きな抵抗と暴動を惹起し、帝国議会にまで影響を与 えた。 議会で問題とされたのはこの貧民窟にハンセン病患者がいたという事を共産主義者により喧伝され人道問題に摺り返られたのであった為であり、それこそが共産主義セクトの作戦であったものであるといわれている。

【戦前のサンカ論】

【戦後のサンカ論】
 戦後には、三角の協力を仰いだ映画『瀬降り物語』(中島貞夫監督)や、五木寛之の小説「風の王国」、さらに現代書館から刊行された『三角寛サンカ選集』全7巻によって、ふたたび一般に認知されるようになった。

 五木寛之 『風の王国』新潮社(1985/01) 新潮文庫版の裏表紙の要約文は次のように記している。
 「闇にねむる仁徳陵へ密やかに寄りつどう異形の遍路たち。そして、霧にけむる二上山をはやてのように駆けぬける謎の女・・・・・。脈々と世を忍びつづけた風の一族は、何ゆえに姿を現したのか? メルセデス300GDを駆って、出生にまつわる謎を追う速水卓の前に、暴かれていく現代国家の暗部。彼が行く手に視るものは異族の幻影か、禁断の神話か・・・・。現代の語り部が放つ戦慄のロマン」

 この小説の最終部分は、初代講主・葛城遍浪の言葉として次のように記している。
 「―― 山に生き山に死ぬる人びとあり。これ山民なり。里に生き里に死ぬる人びとあり。これ常民なり。山をおりて、里にすまず、里に生きて、山を忘れず、山と里のあわいに流れ、旅に生まれ旅に死ぬるものあり。これ一所不在、一畝不耕の浪民なり。

 山民は骨なり。常民は肉なり。山と里の間を流れる浪民は、血なり、血液なり。血液なき社会は、生ける社会にあらず。浪民は社会の血流なり。生存の証なり。浪民をみずからの内に認めざる社会は、停滞し枯死す。われらは永遠の浪民として社会を放浪し、世に活力と生命をあたえるものなり。乞行(ごうぎょう)の意義、またここに存す。乞行の遍路、世にいれられざるときには、自然の加工採取物をもって常民の志をうく。これ《セケンシ》の始めなり。

 山は彼岸なり。里は此岸なり。この二つの世の皮膜を流れ生きるもの、これ《セケンシ》の道なり。われらは統治せず。統治されず。一片の赤心、これを同朋に捧ぐ。されど人の世、歴史の流れのなかに―――」

【国際金融資本帝国主義派のサンカ研究】
 「サンカ(山窩)を考える」の「古史古伝」は次のように述べている。
 「ある方から聞いた話しです。サンカに関する情報は日本よりアメリカが握っているだろう。また日本では偽書扱いされている古史古伝のいくつかは、アメリカにおいて、日本を知るうえでの正規の研究対象となっている話を聞いたことがある。大平洋戦争が始まる以前から、日本を知る為に、国の成立から天皇制、被差別 民の成り立ちまで、綿密に歴史を研究したようである。それは日本を占領した際に、統治しやすくするための研究だったのだろう。しかし、戦後においても全国の貴重な古代に関する古文書などを接収して、本国に持ち帰っていることから、何か日本の歴史に特別 関心があるのかもしれない、とのことでした」。

【「義経サンカ説」考】
 「サンカ(山窩)を考える」の「義経サンカ説」は次のように述べている。
 「テレビを観ていたら歴史番組で義経のことをやっていました。しかし、なぜ義経が異種異形といわれた人たちを味方につけ、腹違いの兄である頼朝に追われる身になったかを納得できる内容ではありませんでした。そこで義経サンカ(系)説を書くことにしました。 義経にサンカの血が流れ、又、義経を支えた人たちが極めてサンカに近い人たちであったことは、サンカマニア(贔屓)でなくても、「義経記」を少しでも知っている方には充分理解して頂ける話しだと思います。義経の生母は常盤御前で、傀儡(サンカ系)でもとは遊女であったといわれ、頼朝の父である義朝の妾となり義経を生んでいます。そして間もなく平治の乱により源義朝が平清盛に破れて逃れた時に、常盤御前とその幼子たちは置き去りにされています。それは常盤御前が卑しい身分であったからではとの話しもあります。置き去りにされた常盤御前は幼子三人を連れて逃げおおせますが、結局は清盛に捕らえられ、子供たちを出家させるという条件で清盛の妾となり殺害を免れることになりました。(常盤御前は大変な美女であったといわれています)その後、牛若丸(義経)は四歳まで母のもとに育ち、七歳頃から鞍馬寺で修行し、鞍馬寺の後継者となるところでありましたが、武芸の師ともいえる鞍馬天狗(これぞサンカであり修験道者)があらわれて、サンカ(忍者)の軽身の術等を教えられることになります。それからは御存じの通 り、弁慶や金売吉次等のサンカ(山の民)と思しき者等を味方につけて活躍をすることになります。又、恋人の静御前は白拍子であり、静御前の母はサンカの本拠地である丹波の生まれであり、歌と舞いにすぐれた人であったとされていることから、静御前もサンカではなかったかと思われます。その他にも歴史上の人物でサンカ系の人は大勢いたと思われますが、例えば同じように母親がサンカといわれる徳川吉宗や父の代まで瀬降りをしていたと伝承される豊臣秀吉や祖父位 がサンカだと思しき徳川家康、そのものずばりサンカの親分のような楠正成などが思いつきますが、そんなことは決して表の歴史には出てこないのが、この国のタブーといいますか、不思議なところであります。近代になってからも、この国を代表する人たちの中にサンカ系の人が大勢いるのだと思いますが、(なんとなく知っていたりしますが)決してそんなことは表に出ないし出せないところにサンカというもが、この国の最後の隠し玉 のような気をさせたりします。なんだか書いている自分でも、何を書きたいのよく分かりませんです。 参考文献『義経と山の民の陰謀』佐治芳彦著」。

【サンカと朝鮮系ペクチョンとの相関考】
 「サンカ(山窩)を考える」の「サンカと楊水尺・白丁」は次のように述べている。
 「朝鮮半島にはサンカと同じように竹細工を作り漂泊の生活を営んでいた楊水尺・白丁(ペクチョン)と呼ばれる人たちがいる(いた?)そうで、そのルーツを辿ると中国や場合によってはインドまで遡れるのだそうです。そのことから傀儡子やサンカのルーツを朝鮮半島・中国、さらにインドにまで求める研究家がいるようです。例えば喜田貞吉博士は今西龍博士の『朝鮮白丁考』を読み、「傀儡子記に見えるクグツ、クグツの婦女より出る遊女および大正時代にはまだ所在の山地に漂泊生活を営んでいたサンカ(山窩)が、古く有史時代以前に日本に渡来してきた白丁族ではなかろうかという意見を『朝鮮の白丁と我が傀儡子』にて発表しています。また隼人族のルーツを白丁(ペクチョン)とする意見もあり、サンカのルーツを隼人族に求める研究家もいます。そこでかねてから疑問に思っていたことに、自分自身ではサンカを始めとした被差別 民のルーツを縄文に求めたい思いがあり、その反面大陸からの影響も感じるという矛盾したものがありました。もっとも、この国は中国、朝鮮半島にあった国家の植民地としてか、または 亡命してきた人たちによって成立し支配されてきたということを考えると、やはり大陸からやってきた人たちに追いやられ賎視された原住民・先住民の人たちがサンカを始めとした被差別 民のルーツと考えても良いと思います。柳田国男氏も被差別民の民俗は、日本列島の文化の古層に属する重要な残留物を表示していると重要な指摘していることからもルーツを縄文に求めても良い気がします。では中国・朝鮮半島の楊水尺・白丁と呼ばれた人たちとサンカとの間に何の関係もなかったかというと、やはり彼等もルーツの一つではなかったのかとも思うのです。そして彼等、楊水尺・白丁のルーツもまた縄文(もしくは古い層の人間)に繋がるように思うのです。

 以前掲示板にて、【隼人族の理解を困難にしているのは、薩摩の隼人族とは別 系統の隼人族の存在ではないでしょうか。例えば白丁隼人は白丁をさしていると考えられます。白丁とは韓国の被差別 民で、日本でいう山窩のような存在なのだそうです。高麗時代に「我々も倭人である」として契丹軍と共に、高麗と戦ったと言われていますので、ますます混乱します。】との書き込みがありましたが、彼等に縄文の末裔としての意識があれば、縄文の国であるこの国の人間だとの思いも納得できる話しだと思います。そもそも縄文時代には国境などなく、中国大陸や朝鮮半島にも縄文人がいたと考えるのが自然なことであり、縄文をルーツに持つ楊水尺・白丁が大陸から渡来し、この国の縄文の末裔と融合したとしてもごく自然なことだと思います。倭寇には、済州島などを含む現地勢力の参加もあり、 半島の住民、「禾尺」「白丁」と呼ばれる賤民階層が 参加していたという研究も増えてきているとのことです。古い層の人たちは、例えばヨーロッパにおけるケルト(アイリッシュ)もそうですが、自然と共に生きることを尊んだり芸能に長けていたり(ビートルズもアイリッシュ系です)排他的でないなど共通 したものがあります。ここでは詳しくは書きませんが、両親が在日である某歌手がサンカに惹かれ、またサンカの末裔を強く意識したTさんを始めとした人達が、その歌手の歌に惹かれサンカの世界をイメージしても不思議ではないのかも知れません。それは大陸から渡ってきた一部(古代は一部だけど近代は多数の気がしますが)の人たちと日本の縄文系の人たちは同じルーツを持つ遺伝子学的にも民族(民俗)学的にも近い人たちのような気がするからです。また日本において頑に諸々の差別 をする人たちと韓国や中国において頑に日本を嫌う人たちも遺伝子学的にも民族(民俗)学的にも近い人たちのような気がするのです。入院中のストレスにより少し暴走してしまいました。参考資料 【遺伝子・DNAから日本人のルーツを考える】」。





(私論.私見)