出雲王朝史9、出雲神道、出雲大社の信仰、思想考その2 |
更新日/2024(平成31→5.1栄和改元/栄和6).1.26日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「出雲王朝史9、出雲神道、出雲大社の信仰、思想考その2」をものしておく。 2019(平成31→5.1栄和改元).7.16日 れんだいこ拝 |
【出雲神道】 | |||
出雲王朝は、高天原王朝との談判で国譲りして以来、政治の表舞台から身を隠した。しかし、宗教的祭祀を認めさせたことにより出雲大社が建立され、その後出雲神道として生き延びていくことになった。但し、出雲神道の祭祀は、高天原王朝―大和朝廷の派遣する出雲国造がお目付け役として管掌することになった。その祖として天照大神第二子のアマノホヒの命(天穂日の命、天菩比神)が任に就いた。その後は今日まで「千家」家が出雲大社の祭祀に専修している。 アマノホヒの命は天孫降臨に先立って天つ神の使者として葦原の中つ国を言向けするために出雲に派遣されてきた最初の神「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の次に派遣された神である。記紀神話によれば、「大国主神にへつらい従って、三年たっても復命しようとしなかった」と云う。出雲国造が代替りにあたり、天皇の大前で御代を寿ぐために奏上してきた「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやっこのかむよごと)」では、「大国主の神を和み静めた」としている。 アマノホヒの命は、出雲東部の意宇に拠点を設け大領を拝し、意宇川上流の熊野大社を祀りながら、出雲東部の杵築(きずき)に設けられた出雲大社神道を御すことになった。「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)によれば、崇仁天皇の御世、天穂日の命の11世の孫が出雲国造家に任命されている。出雲国造家は次第に土着化し、高天原王朝と出雲王朝の架け橋的役割を果たしていくことになる。平安時代の霊亀年間715-717年頃、元正天皇の御世、出雲国造家はそれまで本拠地にしていた意宇を離れ杵築に移り住んだ。意宇にの地には新たに神魂(かもす)神社が建立され、熊野大社で執り行われていた火継式などを引き受けさせている。出雲国造家の意宇の大領と杵築の兼務は798(延暦17)年まで続き、杵築に一本化する。「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやっこのかむよごと)」は「出雲国造家考」に記す。 日本神道は以来、アマテラス系伊勢神道と、オホクニヌシ系出雲神道が鼎立することになった。平田篤胤が、それまでの国学を復古神道として宗教化し、オホクニヌシを中心とする独自の神学を作り出した。この篤胤神学が与えた思想的影響はきわめて大きい。原武史『〈出雲〉という思想』講談社学術文庫P7は次のように記している(原武史「〈出雲〉という思想 近代日本の抹殺された神々」参照 )。
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【6月の「夏越しの大祓」と12月の「年越しの大祓」神事】 | ||||||||||||
6月末の「夏越(なご)しの大祓」と12月末の「年越しの大祓」の年に二度、それぞれ半年間に「生活の中で知らず知らずに身についた、罪や穢れ、災厄をお祓い」し、心身を清め、この後の半年の健康と厄除けの無病息災を祈願する神事である。神社の境内につくられた茅の輪をくぐるので、厄払いの「茅の輪(ちのわ)くぐり」と云われるお祓いの一種である。 「茅の輪(ちのわ)くぐり」行事は神社によって細やかな違いはあるが、概ね次のような流れの神事を執り行う。
茅(かや)の由来は、茅(かや)には日々の暮らしで身に着いた罪穢れを祓い、物事を清め給う霊力があるとされ、その茅を輪にすることでよりたくましい強い力を持つと信じられている。その生命力豊かな茅の輪のくぐり抜け行事をすることで、無病息災や厄災消除、疫病退散を祈願する。先頭の神職が祓いの和歌「水無月(みなづき)の 夏越し(なごし)の祓(はらえ)する人は 千年(ちとせ)の命 延(のぶ)と云うなり」の拾遺和歌集古歌を唱えながら八の字を描くように三度くぐり抜け、ご神前へを進みお詣りする。参拝者はこれに従う。 |
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芽の輪の起源については、その昔、武塔神という素戔鳴命(すさのおのみこと)と同一視される神様御一行が旅をしている際、とある町で一泊することになり、町の長者の巨旦将来(こたんしょうらい)に宿にさせてくれとお願いをしたところ断られた。別の宿を探している時、巨旦将来の兄弟である蘇民将来(そみんしょうらい)が貧乏ながらも宿として家に一行を泊め、できる限りの接待をした。スサノオノミコトは、旅の宿を提供して難儀を救う善行をしたお礼として、「もし疫病が流行したら 茅の輪を腰につけると免れられる」と教え、蘇民将来がその通りにしたところ、その子孫に至るまで疫病、厄災から免れることができたという故事に由来している。 この話は鎌倉時代に編纂された、「釈日本各紀」の中の備後国風土記という広島に伝わる話である。但し、スサノオノミコト(神仏分離令以前は牛頭天王)を祀っている八坂神社にある似たような話では、牛頭天王が巨旦将来達を蹴り殺すという何ともすさまじい終わり方だったりと違うパターンもある。 |
【出雲大社神幸祭(じんこうさい)の見逃げ神事考】 (「江角修一/神社と歴史の広場」参照) |
謎の多い出雲大社の数ある神事の中でも秘儀中の秘儀とされるものが神幸祭(じんこうさい)。 神幸祭というのはどこの神社にもある。普段お社に鎮座する神様を、お神輿に移し、おみこし行列で氏子が暮らす街を一周する。しかし、出雲大社のそれは独特なもので、別名を見逃げ神事と呼ぶ。身逃げ神事は8月10日日から始まる。14日が本番で、そのために入念な準備が行われる。年に一度、大国主命が大社の外にお出かけになる。別火氏の神社や稲佐の浜を巡り、どんなことをなさっているのか? この疑問が解き明かされることは、見てはいけない神事になっているので永遠にない。不思議づくめの神事である。 |
【8.10日の潔斎】 |
身逃げ神事にあたるのは宮司ではなく禰宜(ねぎ)。出雲大社の神職ではNo.3にあたる。10日の朝から斎館に籠り、外界との接触を避け、穢れを祓うことに専念する。これは他でもない、大国主命をその身に降ろすため。忌火と呼ばれる火によって調理された食事のみを食べる。 |
【8.11日の禊】 |
11日の夕方、稲佐の浜で海水に浸かり、穢れを祓う。次に斎館に戻り、前日と同じ潔斎を続ける。 |
【8.12日の潔斎】 |
潔斎が続く。禰宜の潔斎が完了し、いつでも神を降ろせるようになっていく。 |
【8.13日の道見】 |
本番を翌日に控え、明日歩くルートの下見である道見(みちみ)が行われる。本番では絶対に失敗が許されない。大国主命を降ろした状態で失礼があってはならないからである。巡行ルートは出雲大社〜湊社〜赤人社〜稲佐の浜の塩搔島。湊社は出雲大社の境外摂社である。赤人社とは山辺神社の事で、奈良時代の歌人、山辺赤人をお祀りしている神社である。稲佐の浜は国譲りの舞台となった浜で旧暦10月に八百万の神様をお迎えする。 |
【8.14日の身逃げ神事】 |
深夜1時、いよいよ本番。狩衣姿に着替えた禰宜が青竹の杖と、真菰(まこも)で作った火縄と苞(つと)を持って出発する。前日下見したルートの通り巡行し、塩搔島で翌日の神事のための塩を焼く。もしここで誰かに出会ってしまったら神事は最初からやり直しになる! 最後は国造家の祭壇に拝礼、出雲大社の本殿にて拝礼となる。このように誰かに出会わないようにするという事が、穢れを避ける「見逃げ」という呼び名に転じたとされている。 |
【8.15日の爪剥祭】 |
つめはぎではなく、つまむぎさいと読む。塩掻島にて焼いた塩、稲穂、瓜、茄子、根芋、豆、水の7つの神饌を大国主命にお供えし、神事は終了となる。 |
【見逃げ神事に関わる別火氏とは⁉】
湊社も赤人社も実は別火氏という氏族が管理している神社であり、古来見逃げ神事とは別火氏が行う神事だったと云う。別火氏は出雲大社の神主家系であり、その先祖は山辺赤人、神代では櫛八玉神までつながっている。現代では見逃げ神事を禰宜が行うようになっているが、神事の流れ自体は古式に則り別火氏が行っていた通りになっていると思われる。ちなみに別火という言葉の意味を調べると、別火 (べっか)とは日常と忌み、物忌みの状態の間で穢れが伝播することを防ぐため、用いる火を別にすることである。穢れは火を介して伝染すると考えられており、日常よりも穢れた状態(忌み)から穢れが日常に入ることをさけるため、また日常から穢れが斎戒(物忌み)を行っているものに伝染することを防ぐために用いる火を別にすることが行われた。見逃げ神事を行う人は厳しい潔斎を行わなければならないため、日常使う火とは違う、忌火を使わなくてはいけない。別火氏とはこの大事な忌火を扱う神職だったと思われる。神秘的な見逃げ神事の裏に、別火氏が行ってきた特別なお祀りがある。 |
【出雲大社の神在祭考】 | |
2006.10.9日付けブログ「神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(一) 」その他参照。
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2006.10.9日付けブログ「神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(二) 」。その他参照。
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2006.10.9日付けブログ「神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(三) 」。
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2006.10.13日付けブログ「神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(四) 」。
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2006.10.15日、「神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(五)」その他参照。
旧暦(陰暦)十月、和暦で「神無月(かんなづき)」(「神去月、かみさりづき)」)という。日本全国のここかしこに居られる八百万の神々が、年に一度、出雲に大集合して会議をするという慣わしがあり、これに因(ちな)んでいる。この月、日本全国が神無月、出雲では神在月となる。神無月、神在月の由来につき古来より諸説、俗説が多く定まらない。一説として、陰陽説からくるものであるとする。陰陽説で神は陽であり、十月は陽の気がない極陰の月とされる。つまり「陽(かみ)無月」が「神無月(かんなづき)」に転化したという説である。一説として、陰神とされるイザナミ尊が出雲で崩御したのが十月なので、「(母)神の無い月」という考え方もある。 神在月の一説として、神在はジンザイと読み、鎮齋(ちんさい)すなわち「忌(いみ)」の意味で新嘗祭(にいなめさい)に関係を持っていると云う。神無月は「神嘗(かんなめ)月」が転化したという説である。新嘗には斎戒を厳重に行う風俗があり、新穀を神に献ずる祭を相新嘗(あいにいなめ)と云い、10月に行っていた。大宝律令制定により、伊勢神宮だけ尊崇のため祭を繰り上げて9月に行い、その他は繰り下げて11月に行った為、10月は祭りが少ない月、すなわち「神無月」となった。しかし、出雲国では依然として10月に新穀を献ずる新嘗の祭が行われ、また、風土記に載る意宇(おう)、秋鹿(あいか)、楯縫(たてぬい)、出雲の神名火・神名樋山(かんなびやま)に神々が去来するというカンナビ信仰が結びつき出雲国特有の祭として残ったと云う。一説として、新酒を醸す月、つまり「醸成(かみなん)月」の意から来ている月名で、「神無月」は当字だとしている説もある。 一説として、諸国の神々は出雲国に集まるという伝承があり、これに基づき出雲國では昔より「神在月」と云うとしている。 神在月の成立については、平安時代末の1177年の奥義抄に、神無月の解釈として「天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと(異)国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり」とある。平安末期の藤原清輔の歌学書「奥儀抄」には「十月、天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと国に神なき故に、かみなし月といふをあやまれり」とあり、また鎌倉時代末期の「徒然草」に、「十月を神無月と云て、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。本文も見えず。但、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。この月、万の神達太神宮へ集り給ふなど云説あれども、その本説なし」とある。かなり昔からの言い伝えで在ることになるが、どこまで遡れる伝承かは明らかではない。 それ以前の成立であることは間違いないと思われる。 神在月に出雲に集まらない神様もいる。これを留守神と云う。この留守神伝承は各地に広がっており、特に恵比寿、竈神、金毘羅、亥の子を留守神とする地域が多い。恵比寿は関東、東海地方、竈神は関東地方、金毘羅は中国四国地方を中心に分布している。このような留守神はいわゆる神社という形で祭られる祭神ではないという特徴を持っている。ただし地域によってはこれらの神々も出雲に参集するとしているところもある。 神無月を中心に参集する神々は氏神、鎮守系が多く、早立ちする神々は天神が多い。越年するまで滞在してしまう神々には山の神、田の神、亥の子神、竈神等の農耕神が多い。神在月に留まる神々の滞在期間が異なる。大きく分けて、(1)神無月を中心に参集する神、(2)神無月の前に他の神より先に参集(早立ち)し先に戻る神、(3)中帰りといって神無月の途中に神が一度戻る神、(4)神無月から大きく離れた時期まで滞在する神の四タイプあるようだ。 神在月になると八百万の神々は、龍蛇神様(背黒海蛇)の先導で、ゑづみ津の濱(同町の古浦地区辺り)にお着きになリ、稲佐の浜ノ弁天島ニオリタアト、「恵曇神社」デ休息され、「出雲國総社・六所神社」にお集まりになリ、ソコから佐太神社に向かわれると伝えられていル。出雲大社、佐太神社を中心に何ヶ所かの神社を参集して回る。朝山神社(出雲市朝山町)、出雲大社(簸川郡大社町)、万九千社(簸川郡斐川町)、神原神社(大原郡加茂町)、神魂神社(松江市大庭町)、佐太神社(八束郡鹿島町)、朝酌下神社(松江市朝酌下町) など。 神在月に留まる神々の滞在期間が異なる。出雲滞在期間は大きく分けて、(1)神無月を中心に参集する、(2)神無月の前に他の神より先に参集(早立ち)し先に戻る、(3)中帰りといって神無月の途中に神が一度戻る、(4)神無月から大きく離れた時期まで滞在する、の四つタイプある。 神在月の期間には毎年決まって激しい北西の季節風が吹き、海では波が荒れ、島根半島の海岸部に錦紋小蛇=南方産のセグロウミヘビの一種が現れる。この海蛇は「竜蛇様」(石見地方では神陀=ジンダと呼ぶ。常世国から依り来るマレビト神と崇められ、三方に載せて恭しく出雲大社に奉納される。上がった浜ごとに佐太神社、日御御碕神社、美保神社に奉納される。 出雲に集まった神々は、この時、諸般の「神事(幽業、かみごと)」を決める。これを「神議り、かむはかり」と云う。翌年の酒造りや男女の縁結びも、このとき決まるといわれる。神々は出雲に参集して会議を行うほか、舟遊びをしたり、漁労や収穫の検分をしたりと、さまざまな伝承が残されている。 神々は出雲大社一社に集まるのではなく出雲大社、佐太神社を中心に何ヶ所(朝山神社(出雲市朝山町)、出雲大社(簸川郡大社町)、万九千社(簸川郡斐川町)、神原神社(大原郡加茂町)、神魂神社(松江市大庭町)、佐太神社(八束郡鹿島町)、朝酌下神社(松江市朝酌下町) など)かの神社を参集して回る。 神在月の期間に出雲地方の多くの神社で行われるさまざまな神事を神在祭(俗に「お忌みさん」)と呼ぶ。神在祭の中でも旧暦の10月10日から始まる出雲大社の神迎祭、11月20日から始まる佐太神社の神迎祭、11月26日の万九千神社の神等去出祭(からさでさい)がよく知られている。このほかにも、旧暦の10月1日に朝山神社で神迎祭が行われるほか、神魂神社、日御御碕神社、多賀神社などでも神在祭に関わる神事が行われている。 神在祭では、出雲大社が神事を代表する。旧暦10月10日の夜、全国から八百万の神々が集まるのをお迎えするため稲佐の浜で神迎えの儀式が行われる。これを、「神迎神事」(竜蛇神迎えの神事)と云い厳かに営まれる。この神事を営まないと、神在祭は始まらない。この時、海上を照らして寄り来る海蛇(琉球列島海域に生息するセグロウミヘビの一種)を「竜蛇さま(海上を来臨する海蛇)」として迎え、三方に載せて恭しく出雲大社に奉納される(海上来臨)。「竜蛇神迎えの神事」は、海の彼方から依り来る諸神たちを寓意しているとも考えられる。これらの神々を神籬に迎えて本社に帰参し、本殿両側の十九社に鎮める「神迎祭」から始まる。佐太神社の神等去出祭では、その神霊を神目山上から船出の神事でいずこかへ送る(山上奉祀)。 次に、出雲大社の十九社で神々が「神議」(かみはかり)を執り行う。会議は境外の海岸に近い上ノ宮(かみのみや、出雲大社の西方800m)で七日間行なわれる。この時、五穀豊穣、産業の繁栄、世の平和、縁結びの話し合いをする。この会議では静謐を第一とし、さまざまな社中法度があった。この神事の七日間、「神々の会議や宿泊に阻喪があってはならない」というので、地元の人々は歌舞を設けず、楽器を張らず、第宅(ていたく)を営まず(家を建築しない)、ひたすら静粛を保つことを旨とするので「御忌祭」(おいみさい)ともいわれている。但し、御旅社舎である境内の十九社では連日祭りが行われる。厳粛な政治と囃子や太鼓・笛の鳴る賑やかな祭りが使い分けられていた。 |
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「谷田茂・氏の古代出雲王国-スサノオの光と影-1」(2009.1.11日)は、次のように記している。
最後の旧暦17日夜、「神等去出(からさらで)」を行う。社中のみならず周辺の住民も忌み慎み、夜に外便所へいけばカラサラデさんに尻を撫でられるなどといわれている。 この「お忌みさん」の信仰は出雲大社の周辺のみならず出雲のほぼ一円にあり、関係する神社も佐太神社、神魂神社、朝山神社、万九千社など数社に及び、神々はこのひと月をかけてこれらの神社を巡回される。 この神在祭で行われる神事の構成は、記紀神話の「出雲系神話」において出雲のオホナムチ命(大己貴神・大国主神)の国土平定事業に際して、海上来臨して霊威を発揮した幸魂・奇魂もしくは和魂を大和の三輪山(御諸山・三諸山)の「神奈備」に送り奉斎したという神話の構成と類似している。 共通して海岸漁村の寄神信仰が存在する。大和王朝系神事にはない出雲系神事に独特の蛇神祭祀の習俗を保持している。これが大和の三輪山に奉祀された蛇神の神話伝承と繫がっている。 この他にも、出雲・佐太大神誕生説話、大和・三輪山の丹塗矢説話、山城・賀茂別雷神誕生説話との類似性がある(出雲・麻須羅神=黄金の矢=竜蛇、大和・大物主=蛇神=八尋熊鰐=丹塗矢、山城・火雷神=丹塗矢)。このような類似の説話には、蛇神祭祀の習俗が色濃く残されている。 まず出雲大社で旧暦10月の11日から17日まで開かれ、次に佐太神社に移動して旧暦10月26日まで会議の続きを行う。次に、簸川郡斐川町の斐伊川のほとりにある万九千神社に向い、旧暦10月26日、神等去出祭が執り行われ、この送りの神事を最後に神在月に集った八百万の神々は帰国する。かっては出雲地方に四つある神名火山(かんなびやま)に関係する神社すべてに神在祭があったと云う。出雲の神在祭は、こういう流れで各神社が関わる一大セレモニーとなっており、出雲地方全体で神々を迎え・見送りするのが慣わである。神在祭が終わって11月23日の夜から、出雲大社では最大の古伝新嘗祭が行われる。 出雲の神在祭はその構成から見る限り、古代出雲王国の国作り神話における神霊の海上来臨と山上奉祀の物語を儀礼的に再演し続けている祭りであると考えられる。「お忌みさん」の信仰は出雲大社の周辺のみならず出雲のほぼ一円にあり、関係する神社も佐太神社、神魂神社、朝山神社、万九千社など数社に及び、神々はこのひと月をかけてこれらの神社を巡回されるという伝承も成立した(神々来臨の目的は各社各様)。神在祭が終わって11月23日の夜から、出雲大社では最大の古伝新嘗祭が行われる。 |
【出雲の特別な宗教性考】 |
出雲国は他の諸国と比べて宗教性が濃い。他の風土記に神社の記事が極めて少ないのに対し、出雲国風土記(天平五年・七三三年)では、各郡各郷ごとに特別に詳記され、またその数も、中央の神祇官に登録されたものが184社、それ以外のものが215社、合計399社(神庭荒神谷遺跡で出土した銅剣数、三百五十八本と関係がありそうだ)もある。平安時代の延喜式(延喜五年~延長五年)になると、この官登録の184社に3社を加えた187社(座)が式内社となっている。その数は隣の因幡国の50座、伯耆国の6座、石見国の34座に比べてケタ外れに多い。畿内の山城国122座、大和国286座、伊勢国252座などと肩を並べている。 |
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出雲に官社の数がこれほど多いことを、どう理解すべきだろうか。大和朝廷と特別な親近関係があったとみなすよりも、先行して存在した出雲王朝時代の遺物、国譲りに於ける幽事保証の賜物として理解すべきではなかろうか。 |
【出雲神道の多神教的共同体主義世界観】 | |
「日本神道の歴史について」でも考察する。 出雲神道が大地を地球として認識していたかどうかは定かではないが、連動生命体としてみなし、大いなる調和でもって宇宙を形成していると把握していたことは確かなように思われる。大地に精霊を認め(地霊)、その他自然の万物にアニマ(精霊)が宿っているとしていた。食物連鎖を生命の大いなる循環と捉え、それに即応した狩猟と採集経済を生み出していた。四季の変化を取り込み、二項対立の様々な組み合わせ、あるいは三項の組み合わせで森羅万象を分類し理解した。日月、水火、天地、男女等の差異も、対立関係のみならず相補関係に於いても捉えた。自然や物事全体に対して情けに満ちながら且つ論理的に捉えており世界的に説得力があるところに特徴がある。桜の散る際の美しさを詠ずる感性は、美を永遠のものとする西欧的なものとは真逆である。山や動物に対して畏敬の念を感じさせるのも然り。現在は動物の命がむやみに失われており、日本古来の自然観から学ぶべき。 こうして、汎神論的アニミズムに基づく八百万の神々観を生み出した。これを仮に出雲神道式原始共産主義、出雲神道式多神教的共同体主義と命名する。特徴的なことは、神人和楽の且つ世界に珍しい神人協働の開かれた構造に基づく思想であったことであろう。 本居宣長は、「古事記伝」で神について次のように記している。
原出雲、元出雲、スサノウ出雲、大国主出雲へと形成されていった出雲王朝下で発酵された出雲神道は、狩猟ー採集経済から農耕経済への移行期にも、それに相応しい神道へと対応していった。農耕経済に伴う血縁共同体から地縁共同体への転換にも即応し得た。これは出雲神道の開かれた構造によるものと思われる。こうして生み出されたのが出雲神道である。これを仮に古神道と云うことにする。古神道は偏に「思想の開かれた構造式」に特質がある。その水準は、世界一等的なもので、他のどのような思想宗教が襲来しようとも受容練成し、そのたびにより高次なものへと出藍することができることになった。(以下、略) |
【出雲大社氏子考】 |
出雲大社では、氏子の家を「出雲屋敷」として登録する風習が伝わっている。自宅を出雲屋敷に登録したら、毎年出雲大社に「会費」を納める。すると、夏越の大祓の前に出雲から土が送られてきて、これを庭の中心に撒いて「祓いたまえ清め給え」、「幸魂奇魂守りたまえさきはい給え」と家族で祈る。「幽界を統治する大国主命に、陰からも家族をお守りいただく行事」として続いている。 |
【「出雲の御魂の理譚」】 |
「出雲神道の御魂(みたま)の理」は修験道信仰の中に取り入れられ行く伸びていくことになったと思われる。修験道に見られるのは、1・「神奈備信仰」(御室山信仰)であり、山を神として祀り、宇宙の霊の集まり鎮まるところとしるところに特徴がある。神奈備山としてならの三輪山(御室山)、吉野熊野の大峰山が知られている。 |
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【出雲の七福神譚】 | |||||||||||||||||||||||||
出雲王朝下で七福神(しちふくじん)譚が説かれていたと思われる。七福神とは、共に宝船に乗る恵比寿、大黒天、毘沙門天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋の七神である。吉祥七福神譚が定式化するのは後のことであるが、出雲王朝下で原型が出来ていたと思われるのでここで採りあげておく。 伊毘志都幣(事代主)命は七福神の一つ恵比須神に習合し、大穴牟遲命は大国主にされて大黒天に習合して、「恵比須・大黒、福の神」と呼ばれている。
宝船に書かれている回文(上から読んでも下から読んでも同じ音になる文章)として次の言葉が書かれている。
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「出雲の七福神譚」は、出雲王朝の政治思想を間接的に説き聞かせている。 | |||||||||||||||||||||||||
2020.2.11日、「荒川 豊 ― 神社と歴史の広場」の「出雲の昔ばなし【恵比須様(事代主命)と鶏】」。
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「一粒のお米には七人の神様がいる」の言い伝えがある。「七人の神様」には諸説あり、1「七福神」であるとか、2「大国主命の御子神七人」であるとか、3「水、土、風、虫、太陽、雲、作り手」である、という説などがある。3説の七人の神様たちは次の通リ。①水:稲が良く育つ豊富な水、②土:栄養分の豊かな土、③風:受粉を行う風、④虫:虫はお米を食べる害虫の事ではなく、その害虫を食べてくれるトンボや蜘蛛の虫、⑤太陽:成長に欠かせない太陽の光、⑥雲:太陽の光を当てすぎない雲、⑦作り手:苦労しながら八十八の手間(工程)をかけて米作りをする作り手。米を作るまでには、どれか一つでも欠けてはいけない。七人神様!本当にありがとうございます。 |
【出雲の龍蛇&酒造信仰圏】 |
出雲大社(島根県出雲市)、大神神社(奈良県桜井市)、諏訪大社(長野県諏訪)は出雲の龍蛇化身信仰圏で通底している。大神(おおみわ)神社の拝殿の横に「巳の神杉」と呼ばれる杉の木がある。「この杉の根本に、巳(み)さん(=蛇)が棲んでいるところから、「巳の神杉」と称せられるようになり、巳さんの好物とされる卵が、酒とともにお供えされています」(大神神社HPより)とある。大神神社は、全国の酒造業者の崇敬も厚い。 |
【鶴亀信仰】 |
「鶴は千年、亀は万年思想」も出雲文化圏に通底している。 |
【正月祝い信仰】 | |||
「門松~悠久の歴史と飾り方3つのルール~」他を参照する。
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「おやさま探訪」の2005-05-09 ブログ「正月祝いの理」、「天の理法より」。
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【出雲大社の縁結び、福の神信仰】 |
出雲大社が縁結びの神といわれるようになったのは、少なくとも近世中葉にはそういわれていたようである。井原西鶴の「世間胸算用」に「出雲は仲人の神」という言葉が見える。しかし古くはむしろ福の神であって、狂言の節分や福の神にはその思想が窺える。 |
【出雲の原古語考】 | |||||||||||
出雲王朝の原古語を確認しておく。
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【出雲暦考】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出雲暦は次の通り。
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【出雲干支(えと)考】 |
干支(えと)についてはRe別章【暦法考】参照のこと。 |
(私論.私見)