出雲王朝史9、出雲神道、出雲大社の信仰、思想考その2

 更新日/2024(平成31→5.1栄和改元/栄和6).1.26日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「出雲王朝史9、出雲神道、出雲大社の信仰、思想考その2」をものしておく。

 2019(平成31→5.1栄和改元).7.16日 れんだいこ拝


【出雲神道】
 出雲王朝は、高天原王朝との談判で国譲りして以来、政治の表舞台から身を隠した。しかし、宗教的祭祀を認めさせたことにより出雲大社が建立され、その後出雲神道として生き延びていくことになった。但し、出雲神道の祭祀は、高天原王朝―大和朝廷の派遣する出雲国造がお目付け役として管掌することになった。その祖として天照大神第二子のアマノホヒの命(天穂日の命、天菩比神)が任に就いた。その後は今日まで「千家」家が出雲大社の祭祀に専修している。

 アマノホヒの命は天孫降臨に先立って天つ神の使者として葦原の中つ国を言向けするために出雲に派遣されてきた最初の神「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の次に派遣された神である。記紀神話によれば、「大国主神にへつらい従って、三年たっても復命しようとしなかった」と云う。出雲国造が代替りにあたり、天皇の大前で御代を寿ぐために奏上してきた「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやっこのかむよごと)」では、「大国主の神を和み静めた」としている。

 アマノホヒの命は、出雲東部の意宇に拠点を設け大領を拝し、意宇川上流の熊野大社を祀りながら、出雲東部の杵築(きずき)に設けられた出雲大社神道を御すことになった。「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)によれば、崇仁天皇の御世、天穂日の命の11世の孫が出雲国造家に任命されている。出雲国造家は次第に土着化し、高天原王朝と出雲王朝の架け橋的役割を果たしていくことになる。平安時代の霊亀年間715-717年頃、元正天皇の御世、出雲国造家はそれまで本拠地にしていた意宇を離れ杵築に移り住んだ。意宇にの地には新たに神魂(かもす)神社が建立され、熊野大社で執り行われていた火継式などを引き受けさせている。出雲国造家の意宇の大領と杵築の兼務は798(延暦17)年まで続き、杵築に一本化する。「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやっこのかむよごと)」は「出雲国造家考」に記す。

 日本神道は以来、アマテラス系伊勢神道と、オホクニヌシ系出雲神道が鼎立することになった。平田篤胤が、それまでの国学を復古神道として宗教化し、オホクニヌシを中心とする独自の神学を作り出した。この篤胤神学が与えた思想的影響はきわめて大きい。原武史『〈出雲〉という思想』講談社学術文庫P7は次のように記している(原武史「〈出雲〉という思想 近代日本の抹殺された神々」参照 )。
 「つまり出雲国造とは、天皇と並ぶもう一人の「生き神」であったのであり、 天皇にも匹敵する宗教的な権威をもっていたのである。しかも天皇の権威が、明治になって作られた要素が多かったのに対して、出雲国造の権威は   それ以前からあり、特に中国、四国地方を中心とする西日本では、その存在は明治以前からよく知られていた。このような権威をもつ出雲国造であった千家尊福(せんげたかとみ)という人物が、明治になって篤胤以来のオホクニヌシを中心とする神学を受け入れたことで、出雲が伊勢に対立する思想的中心となっていったことは、注目に値する」。  
 「明治維新とともに歴史の表舞台に現れ、天皇制国家にも思想的影響を与えた復古神道の流れに属しながら、明治政府、さらには〈伊勢〉に神学的に対立し、抹殺されていった〈出雲〉。〈出雲〉という思想的場所に徹底し   てこだわることで、幕末から維新、さらには近代日本全体にわたる、もう一つの思想史が見えてくるのである。(中略)第一部「復古神道における〈出雲〉」は、本居宣長から大本教団の出口王仁三郎、さらには戦後の折口信夫に至るまでの、近世、近代の日本における〈出雲〉思想の屋台骨を支えた人々の軌跡を描いた、いわば総論にあたる。第二部「埼玉の謎ー ある歴史ストーリー」は、この問題を明治初期の埼玉県の成立に即して論じた、いわば各論に当たる。両者はセットになっている」 (原武史『〈出雲〉という思想』講談社学術文庫P8より引用))。
 「(千家尊福が政府の要職を歴任し始めた)この時期は、占領地に新たに建てられた台湾神社や樺太神社にオホクニヌシがスクナビコナとともに祀られ、この神が「幽冥主宰神」から、1879年に招魂社を改称して別格官   幣社となる靖国神社の祭神と同様の、「護国の神」へと変質を遂げる時期に一致している。しかしこのことは、1880年代以降の出雲大社と靖国神社が、同様の役割を担ったことを意味するのわけではない。それどころか靖国神社は、出雲大社に入れ替わるようにして、神道が有していた宗教性を一手に引き受けるようになる。確かにここでいう宗教とは、主として国家のために戦死した軍人だけを対象とする点や、彼らを無条件に「神」 とする点で、復古神道とは決定的に異なっていたが、「国家神道」が確立されてからも、靖国神社だけは例外的に宗教性を保ち続けるのである」 (原武史『〈出雲〉という思想』講談社学術文庫P187より引用)。

【6月の「夏越しの大祓」と12月の「年越しの大祓」神事】
 6月末の「夏越(なご)しの大祓」と12月末の「年越しの大祓」の年に二度、それぞれ半年間に「生活の中で知らず知らずに身についた、罪や穢れ、災厄をお祓い」し、心身を清め、この後の半年の健康と厄除けの無病息災を祈願する神事である。神社の境内につくられた茅の輪をくぐるので、厄払いの「茅の輪(ちのわ)くぐり」と云われるお祓いの一種である。

 「茅の輪(ちのわ)くぐり」行事は神社によって細やかな違いはあるが、概ね次のような流れの神事を執り行う。
夏越の大祓詞(大祓祝詞)奏上。
切麻でお祓い。
形代(かたしろ)よる祓を行うところもある。人形(ひとかた)(紙で作られた人形で形代(かたしろ)ともいう)で体の良くないところをしっかり撫でて、最後に「はっはっはっ」息を吹きかけ自分の罪や穢れ、災いなどを移す。神社の由縁深き川の清流に流す(形代流し神事)。お焚きあげをするところもある。紙製の人形が多いが藁などの人形を用いるところもある。
茅の輪くぐりをする。一般的な茅の輪のくぐり方は、左まわり → 右まわり → 左まわりと8の字を描くように3回茅の輪をくぐって回る(各神社の作法による)。まずはくぐる前に一礼をして、「水無月の 夏越しの祓する人は 千歳の命 のぶというなり」と唱えながら左まわりにくぐり、茅の輪の前に戻る。2回目も一礼をし、同様に唱えながら右まわりにくぐって茅の輪の前に戻る。3回目も一礼をし、同様に唱えながら左まわりにくぐって茅の輪の前に戻る。最後にあらためて一礼をして茅の輪をくぐり、神前に進んでお参りする。
直会(なおらい)。
夜店が出て賑わうところもあり、夏祭りのひとつとして楽しまれている。

 茅(かや)の由来は、茅(かや)には日々の暮らしで身に着いた罪穢れを祓い、物事を清め給う霊力があるとされ、その茅を輪にすることでよりたくましい強い力を持つと信じられている。その生命力豊かな茅の輪のくぐり抜け行事をすることで、無病息災や厄災消除、疫病退散を祈願する。先頭の神職が祓いの和歌「水無月(みなづき)の 夏越し(なごし)の祓(はらえ)する人は 千年(ちとせ)の命 延(のぶ)と云うなり」の拾遺和歌集古歌を唱えながら八の字を描くように三度くぐり抜け、ご神前へを進みお詣りする。参拝者はこれに従う。

 芽の輪の起源については、その昔、武塔神という素戔鳴命(すさのおのみこと)と同一視される神様御一行が旅をしている際、とある町で一泊することになり、町の長者の巨旦将来(こたんしょうらい)に宿にさせてくれとお願いをしたところ断られた。別の宿を探している時、巨旦将来の兄弟である蘇民将来(そみんしょうらい)が貧乏ながらも宿として家に一行を泊め、できる限りの接待をした。スサノオノミコトは、旅の宿を提供して難儀を救う善行をしたお礼として、「もし疫病が流行したら 茅の輪を腰につけると免れられる」と教え、蘇民将来がその通りにしたところ、その子孫に至るまで疫病、厄災から免れることができたという故事に由来している。 この話は鎌倉時代に編纂された、「釈日本各紀」の中の備後国風土記という広島に伝わる話である。但し、スサノオノミコト(神仏分離令以前は牛頭天王)を祀っている八坂神社にある似たような話では、牛頭天王が巨旦将来達を蹴り殺すという何ともすさまじい終わり方だったりと違うパターンもある。

【出雲大社神幸祭(じんこうさい)の見逃げ神事考】
(「江角修一神社と歴史の広場」参照)
  謎の多い出雲大社の数ある神事の中でも秘儀中の秘儀とされるものが神幸祭(じんこうさい)。 神幸祭というのはどこの神社にもある。普段お社に鎮座する神様を、お神輿に移し、おみこし行列で氏子が暮らす街を一周する。しかし、出雲大社のそれは独特なもので、別名を見逃げ神事と呼ぶ。身逃げ神事は8月10日日から始まる。14日が本番で、そのために入念な準備が行われる。年に一度、大国主命が大社の外にお出かけになる。別火氏の神社や稲佐の浜を巡り、どんなことをなさっているのか? この疑問が解き明かされることは、見てはいけない神事になっているので永遠にない。不思議づくめの神事である。
 【8.10日の潔斎】
 身逃げ神事にあたるのは宮司ではなく禰宜(ねぎ)。出雲大社の神職ではNo.3にあたる。10日の朝から斎館に籠り、外界との接触を避け、穢れを祓うことに専念する。これは他でもない、大国主命をその身に降ろすため。忌火と呼ばれる火によって調理された食事のみを食べる。
 【8.11日の禊】
 11日の夕方、稲佐の浜で海水に浸かり、穢れを祓う。次に斎館に戻り、前日と同じ潔斎を続ける。
 【8.12日の潔斎】
 潔斎が続く。禰宜の潔斎が完了し、いつでも神を降ろせるようになっていく。
 【8.13日の道見】
 本番を翌日に控え、明日歩くルートの下見である道見(みちみ)が行われる。本番では絶対に失敗が許されない。大国主命を降ろした状態で失礼があってはならないからである。巡行ルートは出雲大社〜湊社〜赤人社〜稲佐の浜の塩搔島。湊社は出雲大社の境外摂社である。赤人社とは山辺神社の事で、奈良時代の歌人、山辺赤人をお祀りしている神社である。稲佐の浜は国譲りの舞台となった浜で旧暦10月に八百万の神様をお迎えする。
 【8.14日の身逃げ神事】
 深夜1時、いよいよ本番。狩衣姿に着替えた禰宜が青竹の杖と、真菰(まこも)で作った火縄と苞(つと)を持って出発する。前日下見したルートの通り巡行し、塩搔島で翌日の神事のための塩を焼く。もしここで誰かに出会ってしまったら神事は最初からやり直しになる! 最後は国造家の祭壇に拝礼、出雲大社の本殿にて拝礼となる。このように誰かに出会わないようにするという事が、穢れを避ける「見逃げ」という呼び名に転じたとされている。
 【8.15日の爪剥祭】
 つめはぎではなく、つまむぎさいと読む。塩掻島にて焼いた塩、稲穂、瓜、茄子、根芋、豆、水の7つの神饌を大国主命にお供えし、神事は終了となる。
 【見逃げ神事に関わる別火氏とは⁉】

 湊社も赤人社も実は別火氏という氏族が管理している神社であり、古来見逃げ神事とは別火氏が行う神事だったと云う。別火氏は出雲大社の神主家系であり、その先祖は山辺赤人、神代では櫛八玉神までつながっている。現代では見逃げ神事を禰宜が行うようになっているが、神事の流れ自体は古式に則り別火氏が行っていた通りになっていると思われる。ちなみに別火という言葉の意味を調べると、別火 (べっか)とは日常と忌み、物忌みの状態の間で穢れが伝播することを防ぐため、用いる火を別にすることである。穢れは火を介して伝染すると考えられており、日常よりも穢れた状態(忌み)から穢れが日常に入ることをさけるため、また日常から穢れが斎戒(物忌み)を行っているものに伝染することを防ぐために用いる火を別にすることが行われた。見逃げ神事を行う人は厳しい潔斎を行わなければならないため、日常使う火とは違う、忌火を使わなくてはいけない。別火氏とはこの大事な忌火を扱う神職だったと思われる。神秘的な見逃げ神事の裏に、別火氏が行ってきた特別なお祀りがある。


【出雲大社の神在祭考】
 2006.10.9日付けブログ「神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(一) 」その他参照。
 初冬の旧暦十月、島根県・島根半島の西端の稲佐の浜で、神秘的で厳粛な神事が行われる。全国の八百万の神々がこぞって出雲に参集して神議りをするという(神迎祭・神在祭・神等去出祭)。そこから、旧暦十月を出雲では「神在月」と呼び、他では「神無月」と呼ぶ。八雲立つ出雲の国は、神話の風景と懐かしい心の故郷を感じさせる、神々が集う国(古代が息づく神々の国・神話の国)なのだ。

 (※注)神迎祭の旧暦十月、稲佐の浜にセグロウミヘビの一種が打ち寄せられる。この海蛇は「竜蛇様」(石見地方では神陀=ジンダと呼ぶ。常世国から依り来るマレビト神)と崇められ、三方に載せて恭しく出雲大社に奉納される(上がった浜ごとに佐太神社、日御御碕神社、美保神社に奉納される)。神々が、海の彼方から続々と上陸してくるという、壮大な海辺の神秘的祭りだ。



 明治二十三年(一八九〇年)に来日し、日本に魅せられ、神話の地・出雲に住み着いて日本研究に生涯を捧げたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「出雲は、わけても神々の国」、「民族揺籃の地」であると述べている。「日本印象記」の中で、「神道の真髄は書籍にも儀式にも法律にも存しない。ただ、国民的心情の中に活きて永存して居るばかりである。そこに国民のあらゆる全部の魂、偉大なる霊力が潜在して震えつつある。この魂が遺伝し、内在し、無意識的、本能的に働いているのが、神道である。神道を解するには、この神秘な魂を知らなくてはならぬ」と述べている。ハーンはまた「杵築」というエッセーの中で、出雲大社の最高祀官・出雲国造と対面した感想を、「古代ギリシャのエレウシスの秘儀を司る最高官(人の生死の秘密を知り、その再生の秘儀に携わる神官)」を思わせると、そのときの印象を感動的に述べている。さらに「杵築を見るということは、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・悠久な古代信仰の脈拍にふれることになる」と述べている。

 出雲は古代日本の歴史と文化の重要な地(大和朝廷と出雲の緊張関係、国譲り神話に秘められた歴史的背景、倭建命の出雲建征討・出雲振根と飯入根の説話)であり、独自な歴史と文化を持ち続けた地(神庭荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡、巨木文化を伝える出雲大社・四隅突出型墳丘墓、管玉・勾玉などの玉作り文化)でもあった。

 (※注)出雲に関する神話は非常に多く一般に「出雲神話」と総称されている。しかし、「出雲神話」という呼び方には多少問題がある。というのも、一口に「出雲神話」神話といっても古事記、日本書紀、出雲国風土記、出雲国造神賀詞など様々な文献があり、その記載内容が、「出雲」を否定的に言及するものと、郷愁的に言及するものと二方向に分かれているからである。これらすべてをひとまとめにして扱っていいものか、慎重な検討が必要である。大和朝廷によってまとめられた古事記、日本書紀の「出雲神話」を仮に「出雲系神話」と呼ぶ。「出雲系神話」は記紀神話の三分の一以上にあたるとされ、とても大きなウェイトを占めている。内容的に魅力的な物語を盛り込みつつ最後には「国譲り神話」へと収斂していく。それに対して、出雲国風土記、出雲国造神賀詞の在地でまとめられた出雲の神話を仮に「出雲神話」とも呼ぶ。地名由来伝承に関わるものが多く、記紀にはない「国引き」神話などがあり、またスサノヲ命やオホナムチ命の姿も違い、神話の質的相違を感じる。出雲国風土記の「出雲神話」の国引き神話などや文化(出雲系信仰と習俗など)を出雲という一地方のローカルな歴史と文化としてみるだけでなく、環日本海文化圏というグローバルな視点から見ると、出雲が日本海沿岸の国や地方と強く深く交流をもっていた先進の文化を持つ国(古代出雲王国)であったことを窺い知ることができる。


 
神庭荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡などの考古学的発見は、ヤマト政権に対抗しうるような高い技術力と独自の文化を持ち、古代日本のなかで、重要な役割を果たしてきた古代王国があったことを裏付けている(青銅器の国)。また、出雲では良質の砂鉄が採れ、古代より鉄生産は行われていた(製鉄の国)。
 2006.10.9日付けブログ「神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(二) 」。その他参照。
 古代出雲は神話の源郷、八雲立つ出雲の国

 八雲立つ出雲の国は、空と陸と海とが互いに映えあう見事な風土である。出雲の国の自然は、北から半島・湖沼・平野・山地と見事に配置されている。出雲の国はこれらが互いに照応しながら出雲の国の独自な風土を作り出している。出雲の国はむくむくと雲の湧き立つのが極めて印象的な国だ。寄り来る波に洗われる島根半島には、対馬海流が遥か彼方から南方の文化をもたらす。入海・内海や潟港は、古代には外来の文化が留まる良港であった。東の意宇平野と西の杵築平野には五穀を稔らせる狭いが肥沃な平野がある。その背後に横たわる深い山地には良質な砂鉄を産す。

 この風土を背景に、多彩な出雲の神々が誕生し縦横無尽に活動した。出雲には神話や伝承の舞台とされる場所が数多く残されている。これらの神話・伝承を、拙速に歴史的事実と混同することは厳に慎むべきことだが、しかし出雲の風土(文化的風土)はそうした神話や伝承の世界(神話は生活共同体の中で共同認識に基づいて生じたものであり、共同体の信仰がなければ消滅してしまう集団表象。古代の人々が何に感応し、何を価値として生きていたかが見える)が、そこここに生き続けているような不思議なリアリティをもって迫ってくる。


 黄泉国訪問神話の伊賦夜坂・猪目洞窟、八俣大蛇退治神話の斐伊川・船通山、国譲り神話の稲佐の浜、美保神社の諸手船神事・青柴垣神事などや、国引き神話の島根半島・三瓶山・大山、佐太大神誕生神話の加賀の潜戸、カンナビ信仰の茶臼山・朝日山・大船山・仏経山、神在月の神迎祭・神在祭・神等去出祭などに生き続けている。


 特に出雲国風土記が伝える出雲の神々は、出雲の風土と照応して個性豊かな姿で、出雲の風土がそのまま人格神となったような面影を見せている。記紀神話に出てこない独立神が十四柱もいる。また、出雲のあちこちには古い伝統をもつ神社があり、古くから信仰があったことを窺わせる(熊野大神、野城大神、佐太大神といった大神伝承、出雲宗教王国の源流)。
 2006.10.9日付けブログ「神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(三) 」。
 神在月と神在祭、旧暦十月出雲に神々が集う

 旧暦十月の和名は「神無月(かんなづき)」(「神去月(かみさりづき)」)という。日本のここかしこに居られる八百万の神々が、年に一度、出雲に集まるため、「神さまがいなくなる月=神無月」と名付けられと伝わる。日本全国が神無月でも、出雲では「神在月」となる(神在月の期間には毎年決まって激しい北西の季節風が吹き、海では波が荒れ、島根半島の海岸部に錦紋小蛇=南方産のセグロウミヘビの一種が現れる)。

 出雲に集まった神々は、人には計り知ることのできない諸般の事ごとをお決めになる。これを「神議り」(かむはかり)と云う。翌年の酒造りや男女の縁結びも、このとき決まるといわれる(神々は出雲に参集して会議を行うほか、舟遊びをしたり、漁労や収穫の検分をしたりと、さまざまな伝承が残されている。

 出雲大社では旧暦十月十日の夜、全国から八百万の神々が集まるのをお迎えするため「神迎神事」(竜蛇神迎えの神事)が厳かに営まれる(出雲大社では二〇〇六年十一月三十日の午後七時から大社町杵築北の稲佐の浜で営まれる。この神事を営まないと、神在祭は始まらない)。

 (※注)旧暦十月は、神無月(かんなづき)と呼ばれる。全国の神々が出雲の国に集まって、地域の神々が留守になるので「神無し月」と呼ばれるのが一般的である。神無月の由来については、その他さまざまな説がある。まず、一つ目は、陰陽説からくるものである。陰陽説で神は陽であり、十月は陽の気がない極陰の月とされる。つまり「陽(かみ)無月」が「神無月(かんなづき)」に転化したという説だ。また、陰神とられるイザナミ尊が、出雲で崩御したのは十月なので、「(母)神の無い月」という考え方もある。二つ目は、神無月は「神嘗(かんなめ)月」が転化したという説である。神嘗は新穀を神に捧げることである。十月はこの神嘗のための月という解釈だ。また、十月は翌月の新嘗の設けに、新酒を醸す月、つまり「醸成(かみなん)月」の意から来ている月名で、「神無月」は当字だとしている説もある。また、神無月(かんなづき)の旧暦十月は全般に行事や神事が少ないため、旧暦十一月に行われる稲の収穫祭「霜月祭」のための、物忌みの期間なのではないかという説がある。また稲作の神さま(田の神さま)が、秋になると山に帰って山の神さまになるという信仰から行われる「神送り」があるが(地域によって神送りの日程が異なるのは、収穫時期の相違が反映していると考えられる)、この「神送り」で、本来は山に帰るはずの神さまが、出雲信仰と結びつき出雲に行くことになったとする説もある。

 (※注)一体、神々は出雲の地に集って一体何を話されるのであろうか? 「神事(幽業、かみごと)、すなわち人には予めそれとは知ることのできぬ人生諸般の事ごもを神議り(かむはかり)にかけて決められる」と信じられている。要するに、むこう一年間の人々の全ての縁について決める、というのだ。ですから、一般的に言われている「縁結びの神様」は、別に男女の縁だけを言ったものではないのである。しかし、神々来臨の目的は各社各様だ。
 2006.10.13日付けブログ「神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(四) 」。
 神在月と神在祭、出雲大社の神在祭、出雲に神々が集う

 神在月の期間に出雲地方の多くの神社で行われるさまざまな神事を神在祭(俗に「お忌みさん」)と呼ぶ。神在祭の中でも旧暦の十月十日から始まる出雲大社の神迎祭、十一月二十日から始まる佐太神社の神迎祭、十一月二十六日の万九千神社の神等去出祭(からさでさい)がよく知られている。このほかにも、旧暦の十月一日に朝山神社で神迎祭が行われるほか、神魂神社、日御御碕神社、多賀神社などでも神在祭に関わる神事が行われている。

 (※)旧暦十月、出雲では日本各地から集まる神さまをお迎えする「神在祭」が行われる。出雲大社では、旧暦十月十日の夜、海の彼方から依り来る諸神たちを神籬に迎えて本社に帰参し、本殿両側の十九社に鎮める「神迎祭」から始まる。神々はこの期間そこに滞在され、会議は境外の海岸に近い上ノ宮で行う。今ではこの期間でも奏楽をするが、本来は静謐を第一とし、さまざまな社中法度があった。ことに最後の旧暦十七日夜は「神等去出」(からさらで)といい、社中のみならず周辺の住民も忌み慎み、夜に外便所へいけばカラサラデさんに尻を撫でられるなどといわれている。

 この「お忌みさん」の信仰は出雲大社の周辺のみならず出雲のほぼ一円にあり、関係する神社も佐太神社・神魂神社・朝山神社・万九千社など数社に及び、神々はこのひと月をかけてこれらの神社を巡回されるという伝承も成立した(神々来臨の目的は各社各様です)。神在祭が終わって十一月二十三日の夜からは、出雲大社では最大の古伝新嘗祭が行われる。

 (※注)出雲大社が縁結びの神といわれるようになったのは、少なくとも近世中葉にはそういわれていたようである(井原西鶴の『世間胸算用』に「出雲は仲人の神」という言葉が見える)。しかし古くはむしろ福の神であって、狂言の『節分』や『福の神』にはその思想が窺える。

 出雲へ旧暦十月に諸国の諸神が参集するということは、すでに平安末期の藤原清輔の歌学書『奥儀抄』に「十月天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと国に神なき故にかみなし月といふをあやまれり」とあり、また鎌倉時代末期の『徒然草』に「十月を神無月と云て、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。本文も見えず。但、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。この月、万の神達太神宮へ集り給ふなど云説あれども、その本説なし」とある。それが何処まで遡れる伝承かは明らかではない。

 (※注)出雲国は他の諸国と比べて特別な宗教性があったようだ。他の風土記に神社の記事が極めて少ないのに対し、出雲国風土記(天平五年・七三三年)では、各郡各郷ごとに特別に詳記され、またその数も、中央の神祇官に登録されたものが百八十四社、それ以外のものが二百十五社、合計三百九十九社(神庭荒神谷遺跡で出土した銅剣数、三百五十八本と関係がありそうだ)もある。

 平安時代の延喜式(延喜五年~延長五年)になると、この官登録の百八十四社に三社を加えた百八十七社(座)が式内社となっている。その数は隣の因幡国の五十座、伯耆国の六座、石見国の三十四座に比べて、ケタ外れに多い。畿内の山城国百二十二座、大和国二百八十六座、伊勢国二百五十二座など、一級クラスと肩を並べるものである。

 山城国や大和国に官社が多いのは、政治の中心がそこにあったからで、その地の宗教性とは無関係であるし、伊勢国は神宮との関係が深いからだと考えられる。しかし、出雲に官社の数がこれほど多いのは、朝廷と特別な親近関係があったというよりは、出雲独自の宗教的性格の故であると考えられる。
 2006.10.15日、「神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(五)」その他参照。

 旧暦(陰暦)十月、和暦で「神無月(かんなづき)」(「神去月、かみさりづき)」)という。日本全国のここかしこに居られる八百万の神々が、年に一度、出雲に大集合して会議をするという慣わしがあり、これに因(ちな)んでいる。この月、日本全国が神無月、出雲では神在月となる。神無月、神在月の由来につき古来より諸説、俗説が多く定まらない。一説として、陰陽説からくるものであるとする。陰陽説で神は陽であり、十月は陽の気がない極陰の月とされる。つまり「陽(かみ)無月」が「神無月(かんなづき)」に転化したという説である。一説として、陰神とされるイザナミ尊が出雲で崩御したのが十月なので、「(母)神の無い月」という考え方もある。

 神在月の一説として、神在はジンザイと読み、鎮齋(ちんさい)すなわち「忌(いみ)」の意味で新嘗祭(にいなめさい)に関係を持っていると云う。神無月は「神嘗(かんなめ)月」が転化したという説である。新嘗には斎戒を厳重に行う風俗があり、新穀を神に献ずる祭を相新嘗(あいにいなめ)と云い、10月に行っていた。大宝律令制定により、伊勢神宮だけ尊崇のため祭を繰り上げて9月に行い、その他は繰り下げて11月に行った為、10月は祭りが少ない月、すなわち「神無月」となった。しかし、出雲国では依然として10月に新穀を献ずる新嘗の祭が行われ、また、風土記に載る意宇(おう)、秋鹿(あいか)、楯縫(たてぬい)、出雲の神名火・神名樋山(かんなびやま)に神々が去来するというカンナビ信仰が結びつき出雲国特有の祭として残ったと云う。一説として、新酒を醸す月、つまり「醸成(かみなん)月」の意から来ている月名で、「神無月」は当字だとしている説もある。 一説として、諸国の神々は出雲国に集まるという伝承があり、これに基づき出雲國では昔より「神在月」と云うとしている。

 神在月の成立については、平安時代末の1177年の奥義抄に、神無月の解釈として「天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと(異)国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり」とある。平安末期の藤原清輔の歌学書「奥儀抄」には「十月、天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと国に神なき故に、かみなし月といふをあやまれり」とあり、また鎌倉時代末期の「徒然草」に、「十月を神無月と云て、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。本文も見えず。但、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。この月、万の神達太神宮へ集り給ふなど云説あれども、その本説なし」とある。かなり昔からの言い伝えで在ることになるが、どこまで遡れる伝承かは明らかではない。 それ以前の成立であることは間違いないと思われる。

 神在月に出雲に集まらない神様もいる。これを留守神と云う。この留守神伝承は各地に広がっており、特に恵比寿、竈神、金毘羅、亥の子を留守神とする地域が多い。恵比寿は関東、東海地方、竈神は関東地方、金毘羅は中国四国地方を中心に分布している。このような留守神はいわゆる神社という形で祭られる祭神ではないという特徴を持っている。ただし地域によってはこれらの神々も出雲に参集するとしているところもある。

 神無月を中心に参集する神々は氏神、鎮守系が多く、早立ちする神々は天神が多い。越年するまで滞在してしまう神々には山の神、田の神、亥の子神、竈神等の農耕神が多い。神在月に留まる神々の滞在期間が異なる。大きく分けて、(1)神無月を中心に参集する神、(2)神無月の前に他の神より先に参集(早立ち)し先に戻る神、(3)中帰りといって神無月の途中に神が一度戻る神、(4)神無月から大きく離れた時期まで滞在する神の四タイプあるようだ。

 神在月になると八百万の神々は、龍蛇神様(背黒海蛇)の先導で、ゑづみ津の濱(同町の古浦地区辺り)にお着きになリ、稲佐の浜ノ弁天島ニオリタアト、「恵曇神社」デ休息され、「出雲國総社・六所神社」にお集まりになリ、ソコから佐太神社に向かわれると伝えられていル。出雲大社、佐太神社を中心に何ヶ所かの神社を参集して回る。朝山神社(出雲市朝山町)、出雲大社(簸川郡大社町)、万九千社(簸川郡斐川町)、神原神社(大原郡加茂町)、神魂神社(松江市大庭町)、佐太神社(八束郡鹿島町)、朝酌下神社(松江市朝酌下町) など。

 神在月に留まる神々の滞在期間が異なる。出雲滞在期間は大きく分けて、(1)神無月を中心に参集する、(2)神無月の前に他の神より先に参集(早立ち)し先に戻る、(3)中帰りといって神無月の途中に神が一度戻る、(4)神無月から大きく離れた時期まで滞在する、の四つタイプある。

 神在月の期間には毎年決まって激しい北西の季節風が吹き、海では波が荒れ、島根半島の海岸部に錦紋小蛇=南方産のセグロウミヘビの一種が現れる。この海蛇は「竜蛇様」(石見地方では神陀=ジンダと呼ぶ。常世国から依り来るマレビト神と崇められ、三方に載せて恭しく出雲大社に奉納される。上がった浜ごとに佐太神社、日御御碕神社、美保神社に奉納される。

 出雲に集まった神々は、この時、諸般の「神事(幽業、かみごと)」を決める。これを「神議り、かむはかり」と云う。翌年の酒造りや男女の縁結びも、このとき決まるといわれる。神々は出雲に参集して会議を行うほか、舟遊びをしたり、漁労や収穫の検分をしたりと、さまざまな伝承が残されている。 神々は出雲大社一社に集まるのではなく出雲大社、佐太神社を中心に何ヶ所(朝山神社(出雲市朝山町)、出雲大社(簸川郡大社町)、万九千社(簸川郡斐川町)、神原神社(大原郡加茂町)、神魂神社(松江市大庭町)、佐太神社(八束郡鹿島町)、朝酌下神社(松江市朝酌下町) など)かの神社を参集して回る。

 神在月の期間に出雲地方の多くの神社で行われるさまざまな神事を神在祭(俗に「お忌みさん」)と呼ぶ。神在祭の中でも旧暦の10月10日から始まる出雲大社の神迎祭、11月20日から始まる佐太神社の神迎祭、11月26日の万九千神社の神等去出祭(からさでさい)がよく知られている。このほかにも、旧暦の10月1日に朝山神社で神迎祭が行われるほか、神魂神社、日御御碕神社、多賀神社などでも神在祭に関わる神事が行われている。

 神在祭では、出雲大社が神事を代表する。旧暦10月10日の夜、全国から八百万の神々が集まるのをお迎えするため稲佐の浜で神迎えの儀式が行われる。これを、「神迎神事」(竜蛇神迎えの神事)と云い厳かに営まれる。この神事を営まないと、神在祭は始まらない。この時、海上を照らして寄り来る海蛇(琉球列島海域に生息するセグロウミヘビの一種)を「竜蛇さま(海上を来臨する海蛇)」として迎え、三方に載せて恭しく出雲大社に奉納される(海上来臨)。「竜蛇神迎えの神事」は、海の彼方から依り来る諸神たちを寓意しているとも考えられる。これらの神々を神籬に迎えて本社に帰参し、本殿両側の十九社に鎮める「神迎祭」から始まる。佐太神社の神等去出祭では、その神霊を神目山上から船出の神事でいずこかへ送る(山上奉祀)。

 次に、出雲大社の十九社で神々が「神議」(かみはかり)を執り行う。会議は境外の海岸に近い上ノ宮(かみのみや、出雲大社の西方800m)で七日間行なわれる。この時、五穀豊穣、産業の繁栄、世の平和、縁結びの話し合いをする。この会議では静謐を第一とし、さまざまな社中法度があった。この神事の七日間、「神々の会議や宿泊に阻喪があってはならない」というので、地元の人々は歌舞を設けず、楽器を張らず、第宅(ていたく)を営まず(家を建築しない)、ひたすら静粛を保つことを旨とするので「御忌祭」(おいみさい)ともいわれている。但し、御旅社舎である境内の十九社では連日祭りが行われる。厳粛な政治と囃子や太鼓・笛の鳴る賑やかな祭りが使い分けられていた。
 「谷田茂・氏の古代出雲王国-スサノオの光と影-1」(2009.1.11日)は、次のように記している。
 「10月は神無月である。全国の神様が出雲に集結する。そのため、10月、全国の神社は神不在となる。一方、出雲では神在月である。旧暦の10月10日、現在の11月7日、国譲りの舞台、伊佐浜で神迎祭が厳かに執り行われる。神々はここから出雲大社に運ばれ、社に納められる。その社の中で、神々は男女の縁結びを相談する。それが現在の出雲大社が、縁結びの神様として人気を集めている理由である。しかし、事実は全国に散らばる、古代出雲王国の首長たちが、出雲と大陸との交易で得られた物品を分配するための会議が年に一度行われ、その割り符として、小型の銅鐸を持ってくることが要求されたことが史実のようである。首長は時間を経て、神となる。構成員以外の神が入り込まないために、銅鐸は使われたらしい。これが、神無月、神在月の起源であるようだ。縁結びの話しは江戸時代に作られたようである」。

 最後の旧暦17日夜、「神等去出(からさらで)」を行う。社中のみならず周辺の住民も忌み慎み、夜に外便所へいけばカラサラデさんに尻を撫でられるなどといわれている。 この「お忌みさん」の信仰は出雲大社の周辺のみならず出雲のほぼ一円にあり、関係する神社も佐太神社、神魂神社、朝山神社、万九千社など数社に及び、神々はこのひと月をかけてこれらの神社を巡回される。

 この神在祭で行われる神事の構成は、記紀神話の「出雲系神話」において出雲のオホナムチ命(大己貴神・大国主神)の国土平定事業に際して、海上来臨して霊威を発揮した幸魂・奇魂もしくは和魂を大和の三輪山(御諸山・三諸山)の「神奈備」に送り奉斎したという神話の構成と類似している。 共通して海岸漁村の寄神信仰が存在する。大和王朝系神事にはない出雲系神事に独特の蛇神祭祀の習俗を保持している。これが大和の三輪山に奉祀された蛇神の神話伝承と繫がっている。 この他にも、出雲・佐太大神誕生説話、大和・三輪山の丹塗矢説話、山城・賀茂別雷神誕生説話との類似性がある(出雲・麻須羅神=黄金の矢=竜蛇、大和・大物主=蛇神=八尋熊鰐=丹塗矢、山城・火雷神=丹塗矢)。このような類似の説話には、蛇神祭祀の習俗が色濃く残されている。

 まず出雲大社で旧暦10月の11日から17日まで開かれ、次に佐太神社に移動して旧暦10月26日まで会議の続きを行う。次に、簸川郡斐川町の斐伊川のほとりにある万九千神社に向い、旧暦10月26日、神等去出祭が執り行われ、この送りの神事を最後に神在月に集った八百万の神々は帰国する。かっては出雲地方に四つある神名火山(かんなびやま)に関係する神社すべてに神在祭があったと云う。出雲の神在祭は、こういう流れで各神社が関わる一大セレモニーとなっており、出雲地方全体で神々を迎え・見送りするのが慣わである。神在祭が終わって11月23日の夜から、出雲大社では最大の古伝新嘗祭が行われる。

 出雲の神在祭はその構成から見る限り、古代出雲王国の国作り神話における神霊の海上来臨と山上奉祀の物語を儀礼的に再演し続けている祭りであると考えられる。「お忌みさん」の信仰は出雲大社の周辺のみならず出雲のほぼ一円にあり、関係する神社も佐太神社、神魂神社、朝山神社、万九千社など数社に及び、神々はこのひと月をかけてこれらの神社を巡回されるという伝承も成立した(神々来臨の目的は各社各様)。神在祭が終わって11月23日の夜から、出雲大社では最大の古伝新嘗祭が行われる。

【出雲の特別な宗教性考】
 出雲国は他の諸国と比べて宗教性が濃い。他の風土記に神社の記事が極めて少ないのに対し、出雲国風土記(天平五年・七三三年)では、各郡各郷ごとに特別に詳記され、またその数も、中央の神祇官に登録されたものが184社、それ以外のものが215社、合計399社(神庭荒神谷遺跡で出土した銅剣数、三百五十八本と関係がありそうだ)もある。平安時代の延喜式(延喜五年~延長五年)になると、この官登録の184社に3社を加えた187社(座)が式内社となっている。その数は隣の因幡国の50座、伯耆国の6座、石見国の34座に比べてケタ外れに多い。畿内の山城国122座、大和国286座、伊勢国252座などと肩を並べている。
(私論.私見)
 出雲に官社の数がこれほど多いことを、どう理解すべきだろうか。大和朝廷と特別な親近関係があったとみなすよりも、先行して存在した出雲王朝時代の遺物、国譲りに於ける幽事保証の賜物として理解すべきではなかろうか。

【出雲神道の多神教的共同体主義世界観】
 「日本神道の歴史について」でも考察する。

 出雲神道が大地を地球として認識していたかどうかは定かではないが、連動生命体としてみなし、大いなる調和でもって宇宙を形成していると把握していたことは確かなように思われる。大地に精霊を認め(地霊)、その他自然の万物にアニマ(精霊)が宿っているとしていた。食物連鎖を生命の大いなる循環と捉え、それに即応した狩猟と採集経済を生み出していた。四季の変化を取り込み、二項対立の様々な組み合わせ、あるいは三項の組み合わせで森羅万象を分類し理解した。日月、水火、天地、男女等の差異も、対立関係のみならず相補関係に於いても捉えた。自然や物事全体に対して情けに満ちながら且つ論理的に捉えており世界的に説得力があるところに特徴がある。桜の散る際の美しさを詠ずる感性は、美を永遠のものとする西欧的なものとは真逆である。山や動物に対して畏敬の念を感じさせるのも然り。現在は動物の命がむやみに失われており、日本古来の自然観から学ぶべき。

 こうして、汎神論的アニミズムに基づく八百万の神々観を生み出した。これを仮に出雲神道式原始共産主義、出雲神道式多神教的共同体主義と命名する。特徴的なことは、神人和楽の且つ世界に珍しい神人協働の開かれた構造に基づく思想であったことであろう。

 本居宣長は、「古事記伝」で神について次のように記している。
 「さて凡てカミとは、古(いにしえ)の御典(みふみ)に見えたる天地(あめつち)の諸々の神たちを始めて、その祀れる社(やしろ)に坐(いま)す御霊(みたま)をも申し、又人はさらに云わず、鳥獣木草の類、海山など、その他何にまれ、世の常ならずすぐれたる徳のありて、かしこき物をカミとは云うなり。すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云うに非ず、悪しきもの怪しきものなども、よにすぐれてかしこきをば、神と云うなり」。

 原出雲、元出雲、スサノウ出雲、大国主出雲へと形成されていった出雲王朝下で発酵された出雲神道は、狩猟ー採集経済から農耕経済への移行期にも、それに相応しい神道へと対応していった。農耕経済に伴う血縁共同体から地縁共同体への転換にも即応し得た。これは出雲神道の開かれた構造によるものと思われる。こうして生み出されたのが出雲神道である。これを仮に古神道と云うことにする。古神道は偏に「思想の開かれた構造式」に特質がある。その水準は、世界一等的なもので、他のどのような思想宗教が襲来しようとも受容練成し、そのたびにより高次なものへと出藍することができることになった。(以下、略)

 2006.12.10日 れんだいこ拝


【出雲大社氏子考】
 出雲大社では、氏子の家を「出雲屋敷」として登録する風習が伝わっている。自宅を出雲屋敷に登録したら、毎年出雲大社に「会費」を納める。すると、夏越の大祓の前に出雲から土が送られてきて、これを庭の中心に撒いて「祓いたまえ清め給え」、「幸魂奇魂守りたまえさきはい給え」と家族で祈る。「幽界を統治する大国主命に、陰からも家族をお守りいただく行事」として続いている。

【「出雲の御魂の理譚」】
 大国主の命は、出雲思想の伝統的御魂の理に従い祭祀を司った。これを仮に「出雲神道の御魂(みたま)の理」と命名する。「和御魂、幸御魂、奇御魂、荒御魂」を「一霊四魂」として次のような意味を持たせている。
 和訓読み 表象1 表象2  解説
和魂  にぎ(み)たま (親)  調和、親和、柔和、情熱などの徳を備えた神霊または霊魂。恵み、神の加護。
幸魂  さき(み)たま (愛)  人に平和と幸福を与える神の霊魂。運による幸。収穫をもたらす。豊と表す。 
奇魂  くしみたま (智)  不思議な霊妙力を持つ神霊。奇跡による幸。櫛と表す。
荒魂  あら(み)たま (勇)  荒く猛き勇猛、勇気の神霊。神の祟。

 「幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま)、守り給え、幸(さきわ)い給え」と祝詞する。日本書記に、出雲の大己貴命(おおなむちのみこと)が自らの和魂(幸魂奇魂)を三輪山に鎮めたと記され、出雲国造神寿詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)祝詞には大己貴命の和魂を大物主神の名前で三輪山に鎮めたと記されている。
(私論.私見)
 「出雲の御魂の理譚」は、出雲王朝の政治理念を表象している。それによると、和魂で徳治主義政治を、幸魂で産業振興政治を、奇魂で霊力政治を、荒魂で武断政治を伝えており、出雲王朝がこれに則った政治を執り行ったことが判明する。これが日本政治の原型とも云えよう。

【「出雲の御魂の理譚」】
 「出雲神道の御魂(みたま)の理」は修験道信仰の中に取り入れられ行く伸びていくことになったと思われる。修験道に見られるのは、1・「神奈備信仰」(御室山信仰)であり、山を神として祀り、宇宙の霊の集まり鎮まるところとしるところに特徴がある。神奈備山としてならの三輪山(御室山)、吉野熊野の大峰山が知られている。
(私論.私見)

【出雲の七福神譚】
 出雲王朝下で七福神(しちふくじん)譚が説かれていたと思われる。七福神とは、共に宝船に乗る恵比寿、大黒天、毘沙門天、寿老人、福禄寿、弁財天、布袋の七神である。吉祥七福神譚が定式化するのは後のことであるが、出雲王朝下で原型が出来ていたと思われるのでここで採りあげておく。

 伊毘志都幣(事代主)命は七福神の一つ恵比須神に習合し、大穴牟遲命は大国主にされて大黒天に習合して、「恵比須・大黒、福の神」と呼ばれている。
神名 神徳効能
恵比寿神
(えびすさま)
律儀
清廉
家業繁栄
商売繁盛
漁業
交易
無病息災
子孫長久
恵比寿(えびす)は、夷、戌、恵美須とも書かれる。釣竿を持ち鯛を抱えてエビス顔と言われるような笑顔に特徴がある。笑いは祓いゆえ事を知ることができる。イザナギの命の第3子蛭子尊とも大国主命の御子とされている事代主(ことしろぬし)の命とも伝えられている。「言知る事知る言即事を知る」。遠方から福を運んできてくれる寄神(よりかみ)、客神(まろうどかみ)を信仰する。「笑う門には福来る」の表象神。
大黒天
(だいこくさま)
豊作
裕福
有徳
財宝
闘戦
丸い頭巾を被り、右手に「満願成就の打ち出の小槌」を持ち、左手で大きな袋を背中にかけ、二俵の米俵の上に乗っているところに特徴がある。糧食を司る神様。家や国を支える重要な人のこと大黒柱と云うように重要な神様である。大国主の命と伝えられている。大黒天が「一に俵を踏んまえて、二ににっこり笑うて、三に盃いただいて、四に世の中良いように~」と歌いながら各地の家を回る伝承がある。
毘沙門天
(びしゃもんさま)
勇気
威光
財運
勝負事
甲冑を着て、右手に槍(宝棒)、左手に宝珠をささげる厳しい顔をしたところに特徴がある。多聞天とも言われ仏教四天王の一人。悪業煩悩の鬼を押さえつけている。勇気を持って悪をくじき、清く正しく力強く生きぬくようにとの無言のおさとし。
弁財天
(べんてんさま)
愛敬
弁舌
才智
智恵
学問
音楽
芸術
琵琶を弾く白肉色裸形という姿に特徴がある。七福神の中で唯一の女神で、天照大神の娘の一人で市の神として信仰された市杵島姫命(いちきしまのひめのみこと)の姿と習合している。
福禄寿
(ふくろくじゅ)
大望
人望
健康
福徳
幸福
俸禄
とてつもなく長く大きい頭、背が低くてあごにひげをたくわえ、長寿のしるしの鶴と亀を従え、左手には如意宝珠、右手には杖を持っている姿に特徴がある。杖にくくられた経巻には福・録・寿のご誓願がかかれている。福は精神的な豊かさ、録は経済的な豊かさ、寿は健康的肉体的な豊かさを表象している。年齢千万年を数えるという中国の神仙思想に基づく仙人で、幸福と財運と不老長寿の三徳を併せ持ち、子供には知恵を授ける。
寿老神
(じゅろうじん)
長寿(長命)
幸福
安全
健康の神。
富財
与宝
諸病平癒
白ひげをたらし杖を持ち、左手に鹿、右手に宝杖を持っている姿に特徴がある。淡路の寿老人は鹿のかわりに桃の実を持っている。
布袋和尚
(ほていさま)
堪忍
和合
開運
良縁
子宝
半裸で杖をつき布の大きな袋を背負い、福々しく大きな耳、広い腹の姿に特徴がある。中国五代聖人の一人である弥靭菩薩の化身ともいわれる。

 宝船に書かれている回文(上から読んでも下から読んでも同じ音になる文章)として次の言葉が書かれている。
 「なかきよの とをのねぬりの みなおさめ なみのりふねの おとのよきかな」。
 (永き世の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良き哉)
(私論.私見)
 「出雲の七福神譚」は、出雲王朝の政治思想を間接的に説き聞かせている。
 2020.2.11日、「荒川 豊‎ ― 神社と歴史の広場」の「出雲の昔ばなし【恵比須様(事代主命)と鶏】」。
 大国主命の長男・恵比須様は、魚釣りが大好きで、毎日舟で沖へと出かけておられました。ある日、釣りを終え帰宅しようとしていたところ女性の呼び声が聞こえてきました。声が聞こえた方向に向かって声を掛けると、それに応じる声が返ってきました。声の主を確かめようと舟を力いっぱい漕ぎ、辿り着いた先は揖屋(イヤ=松江市東出雲町揖屋)の灘でした。そこには美しい揖屋の姫神様が立っておられました。森の中の暮らしが寂しくなり、話し相手を探しに浜へ出ていたところ、沖の小舟に人影が見え、思わず声を掛けたそうです。...二人は直ぐに打ち解け夢中で語り合っておりましたが、夜明けを知らせる一番鶏の鳴き声が聞こえると、「美保関(松江市美保関町美保関)を守る為、夜明けまでに帰らねばならぬ」と舟へ戻りました。姫神は浜を出る船を見送りながら、「とても楽しかったので明日の夜もまた来てほしい」と伝えました。それから恵比須様は毎晩通うようになりました。姫神に好意を寄せていた地元の男神の知るところとなり、ある十五夜の晩、男神は酒に酔った勢いで、恋敵の恵比須様を驚かしてやろうと鶏が寝ていた止まり木の竹にお湯を注ぎ込みました。お湯は竹の中を伝わり、鶏の足元を温めたので、鶏は朝が来たと勘違いして、朝を告げる鳴き声を出しました。恵比須様は「もう夜明けか」と慌てて舟に乗り込み櫓を漕ぎ出しましたが、酒の酔いが回ってしまい櫓を海に流してしまいました。仕方なく片足を櫓の代りにして舟を漕ぎ始めました。大根島(ダイコンシマ=松江市八束町。美保関と揖屋の中間の島)辺りに来た時、その当時中海一帯を縄張りとしていた鰐(=ワニ。鮫)が喰らい付き足を食い千切って去っていきました。ようやく美保関に辿り着いた恵比須様ですが、まだ暗く、一番鶏が誤って鳴いたことを知り、お怒りになると同時に片足を失ったことを御嘆きになったそうです。 以来、美保関や大根島、揖屋周辺では鶏を飼ったり、鶏卵を食べなくなったとのことです。昭和の初期まで、それら地域の一部には、その風習が残っていました。恵比須様の人形や絵は座って足を組み、片足が見えない姿で描かれていたそうです。 因みに三穂津姫命は、大国主命の妻神。恵比寿様は父神の妻と恋仲になったんですね。或いは大国主命が子神の彼女神?を妻にしたのか。
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 「一粒のお米には七人の神様がいる」の言い伝えがある。「七人の神様」には諸説あり、1「七福神」であるとか、2「大国主命の御子神七人」であるとか、3「水、土、風、虫、太陽、雲、作り手」である、という説などがある。3説の七人の神様たちは次の通リ。①水:稲が良く育つ豊富な水、②土:栄養分の豊かな土、③風:受粉を行う風、④虫:虫はお米を食べる害虫の事ではなく、その害虫を食べてくれるトンボや蜘蛛の虫、⑤太陽:成長に欠かせない太陽の光、⑥雲:太陽の光を当てすぎない雲、⑦作り手:苦労しながら八十八の手間(工程)をかけて米作りをする作り手。米を作るまでには、どれか一つでも欠けてはいけない。七人神様!本当にありがとうございます。

【出雲の龍蛇&酒造信仰圏】
 出雲大社(島根県出雲市)、大神神社(奈良県桜井市)、諏訪大社(長野県諏訪)は出雲の龍蛇化身信仰圏で通底している。大神(おおみわ)神社の拝殿の横に「巳の神杉」と呼ばれる杉の木がある。「この杉の根本に、巳(み)さん(=蛇)が棲んでいるところから、「巳の神杉」と称せられるようになり、巳さんの好物とされる卵が、酒とともにお供えされています」(大神神社HPより)とある。大神神社は、全国の酒造業者の崇敬も厚い。

【鶴亀信仰】
 「鶴は千年、亀は万年思想」も出雲文化圏に通底している。

【正月祝い信仰】
 「門松~悠久の歴史と飾り方3つのルール~」他を参照する。
 出雲思想では新年正月を様々な方法で祝う。正月飾りもその一つである。その正月飾りには門松(かどまつ)、しめ飾り、鏡餅がある。

 門松は家の門前、入口、玄関などに立てるもので松飾り、飾り松、立て松とも呼ばれる。門松の作り方には地方差がある。3本組の竹を中心に、関東では周囲に短めの若松を配置し下部をわらで巻く。関西では前面に葉牡丹(紅白)、後方に長めの若松を添え下部を竹で巻く。豪華になると梅老木や南天、熊笹やユズリハなどを添える。要するに「竹を三本束ねて、まわりに松をあしらい、むしろで包んで、荒縄で三ヶ所を七五三(下から七、五、三巻と、筋目を見せる)に結び、雄松、雌松と対に立てる。門松の構成は松・竹・梅が基本である」。

 飾り物それぞれに意味がある。主役の松は一年中葉を落とさない常緑樹であることが生命力、不老長寿、繁栄を象徴するおめでたい木とされて飾られている。神を「待つ」、神を「祀る」に繋がる語呂合わせによっても重用されている。能舞台の背景に松が描かれるのはこれによる。

 竹も、生命力、不老長寿、繁栄を象徴するおめでたい木とされて飾られている。門松では一般的に真竹(マダケ)、孟宗竹(モウソウチク)が使われている。竹は成長する過程で節目を作りながら成長する。節目を作って伸びるため強風で折れることなく、真っ直ぐ天に向かって生長していく。その姿が人生の節目に例えられ、節目を乗り越え、竹のように真っ直ぐ上に伸び、すくすくしなやかに成長するようにとの意味が込められている。竹の切り口として、竹の先端を斜めに切る場合(「そぎ」)と真横に切る場合(「寸胴」)とがある。「そぎ」は切る箇所によって切り口の形が変わり、 節のところで切ると,笑っているような切り口になる。

 梅は、寒さに強く、年の中で最も早く花が咲く。新春・一年の始まりを意味するとして古代より日本人に親しまれ、実を付けることで大変縁起の良いものとされてきた。正月では、めでたい紅白色の紅梅や白梅が用いられることが多い。

 南天(ナンテン)は、その赤い実が子供を象徴していると云われている。「難を転ずる」のナンテン(難転)に通じる縁起物としても用いられる。南天の他に「千両」が使われることもある。こちらも子孫繁栄の象徴とされている。

 葉牡丹は、花の少ない晩秋から冬にかけて鮮やかな葉の色で楽しませてくれる冬花壇の代表的な草花で、美しく幾重にも重なり合う葉が「吉事を重なる」とされている。本来は赤と白のものを用い紅白でめでたい物として、正月の門松の飾り物として用いられてきた。

 門松は松の内の1月15日まで飾るのが伝統である。但し、松の内を1月7日までに短縮し、6日の夕方や7日に片づけることもある。門松を片付けることを松下ろし、松あがり、松払い、松引き、松送り、松納め、などという。門松を片付けた後の正月は松過ぎとよぶ。

 「門松を いとなみたつる その程に 春明けがたに 夜やなりぬらん」(堀河百首)
 「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一休和尚、1394-1481年)
 「春立つや にほんめでたき 門の松」(斎藤徳元、安土桃山時代・江戸時代初期の美濃国出身の武将・俳人)。
 「おやさま探訪」の2005-05-09 ブログ「正月祝いの理」、「天の理法より」。
 年の始まり、月の始まり、日の始まりを正月というのは、これは正しい。月様は泥海中の処より、正しい人間、正しい世界を造られたのをいうなり。正しい事を正という。暗がりの世界を照らす月様は先に立ってこの世界を造られた理をもって、この世界をこの日とは言わず、この夜(世)というなり。

 三日の祝いは、これは人間元々、お産(さん)で産み広められて、日々身の内は、温み、水気、息の三つでもっている。又世界も同じ事。水と火と風とは台なり。身の内、温み、水気、息の三つが十分の守護あれば不足なし。この三つ変われば、身の内に不足出来る。よって、身の内の悩みを看るに、脈を看る。脈とは、この三つのやくをいうなり。

 この世界は皆三つの理、三つずつの理あり。天地人とか、上中下とか、又、月も三日月が始まりなり。三日芽でなくば見えかけぬとは、人間でも子が宿っても一ヶ月、二ヶ月のうちは、人から見てはわからん。三ヶ月目からちょっと見えかけるのも同じ事なり。三日の祝いの理は、これは、水、火、風の三つの理をもって祝うなり。

 一重の餅は、天地の理。天地は丸きりものなり。丸きは正しきなり。
 門松の女松、男松は、これは女神、男神の夫婦の二神よりできたる理を示せるものなり。

 ゆずり葉をつるは、代々親は子を産み、子は親となりて、子孫に世をゆずり行く理をもつなり。

 注連縄の七五三は、七は天神七代、五は地神五代、三はさんで産み広められたる理なり。世界でいう天神七代は、これを神々七人のように思えど大いに違う。これは、な、む、あ、み、だ、ぶ、つの「くにとこたちの命様」より「たいしょく天の命様」迄の神々をいう。この七柱の神は、道具となってした理をいう。地神五代というは、これも世界では神々の思えども、ぢしん五体というて、皆銘々の身の内の事、五体の人間のできた事を言うなり。
 数の子を用いるは、元々いざなぎ、いざなみの二神は、今のおぢばの甘露台を神々の身体の真ん中として、なむ/\と三日三夜に子数九億九万九千九百九十九人を宿仕込み、腹にや凭れた理をもって用いるなり。
 まめを用いるは、無事にてこの世を送らそうとの、神の思し召しの理をするなり。
 注連縄というは、しめとは、しめる事なり。なは、「くにとこたちの命様」月様の事なり。わは丸く取り巻く事をいうなり。これは月様は、この世界を輪の如くに取り巻きて、しめていられる理なり。よって注連縄は、左なわに縫う物なり。その形は、月さまの本体、頭一つ、尾一筋の大竜の形なり。
 七日七草は、元々人間は九億九万年泥海中に住まいたる時は、海草等を食べて通りた理をするものなり。十四日のとしこしという理は、十四日で月は満月とはいえぬ。十五日は満月なり。
 人間も男は十四才では一人前とはいえぬ。十五才よりは、男一人前なり。これで十四日をとしこしというなり。
 十五日の小豆の粥は、これは元々人間は、泥海中で住まいしたる理でするものなり。
 各全国の神社が一番活気ずくのはもちろん正月だ。神社によっては、経費の大部分がこの正月でお供えが上がる神社も少なくない。では、なぜ日本人が神社にいくのか。それに対して明確に答える人は皆無だ。しかし、それには深く深く理由があるのだ。つまり、人間の元始まりの理を忘れぬように、元の神、実の神、月日二柱を忘れぬようにとこの行事をおこなうのだ。それほど、大切な行事であるのだ。しかし、昨今この行事でさえすたれつつある傾向にあるが、それは、この深き正月祝いの理の話しを知らぬが故だろう。

【出雲大社の縁結び、福の神信仰】
 出雲大社が縁結びの神といわれるようになったのは、少なくとも近世中葉にはそういわれていたようである。井原西鶴の「世間胸算用」に「出雲は仲人の神」という言葉が見える。しかし古くはむしろ福の神であって、狂言の節分や福の神にはその思想が窺える。

【出雲の原古語考】
 出雲王朝の原古語を確認しておく。
タマ
モノ

【出雲暦考】
 出雲暦は次の通り。
1月 睦月(むつき)
2月 如月(きさらぎ)
3月 弥生(やよい)
4月 卯月(うづき)
5月 皐月(さつき)
6月 水無月(みなづき)
7月 文月(ふづき)
8月 葉月(はづき)
9月 長月(ながつき)
10月 神無月(かんなづき) 神在月(かみありづき)
11月 霜月(しもつき)
12月 師走(しわす)

【出雲干支(えと)考】
 干支(えと)についてはRe別章【暦法考】参照のこと。




(私論.私見)

◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(五) (10/15)

◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(四) (10/13)

◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(三) (10/12)

◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(二) (10/10)

◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(一) (10/9)