出雲国造家、出雲国造神賀詞考

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).1.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2008.4.7日 れんだいこ拝


【出雲国造詞 】
 国譲りの際の大国主の命の要望により出雲大社が建立され、出雲神道が存続することになった。しかし、高天原王朝よりお目付け役が派遣される。やって来たのはアマノホヒの命(天穂日の命)であった。アマノホヒの命は、出雲東部の意宇に拠点を設け大領を拝し、意宇川上流の熊野大社を祀りながら、出雲東部の杵築(きずき)に設けられた出雲大社を監視し始める。監視官たるアマノホヒの命の子孫が出雲国造家の地位を得て出雲大社の斎主になる。千家氏、北島氏の家系がそれである。

 「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)によれば、崇仁天皇の御世、天穂日の命の11世の孫が出雲国造家に任命されている。出雲国造家は次第に土着化し、高天原王朝と出雲王朝の架け橋的役割を果たしていくことになる。715-717年(平安時代の霊亀年間)頃、元正天皇の御世、出雲国造家はそれまで本拠地にしていた意宇を離れ杵築に移り住んだ。意宇にの地には新たに神魂(かもす)神社が建立され、熊野大社で執り行われていた火継式などを引き受けさせている。出雲国造家の意宇の大領と杵築の兼務は798(延暦17)年まで続き、杵築に一本化する。今日まで「千家」家が出雲大社の祭祀に専修している。

 2010.01.11日 れんだいこ拝

【出雲国造神賀詞】
 奈良時代の中ごろから平安時代の中ごろまで、出雲国造は、その代替わりの度ごとに朝廷に参上して、「延喜式」巻8に残る「出雲国造神賀詞(かんよごと)」を奏上して天皇に忠誠を誓う慣わしを続けた。その文意は、朝廷の「大祓詞(おおはらへの言葉)」の対になっており、掛け合いの様が窺えよう。

 【出雲国造神賀詞 】(いずもこくそうかむよごと)(いずもこくそうかむほぎのことば)が「出雲大社松山分祠」にサイトアップされているので、これを転載しておく。
 八十日は在れども 今日の生く日の足る日に 
 八十日(やそかび)はあれども 今日(けふ)のいく日の足る日に
 出雲國の國造姓名、恐み恐みも申し賜はく 
 出雲(いずも)の国の国造(くにのみやつこ)姓名(かばねな) 恐(かしこ)み恐みもまをしたまはく 
 掛けまくも恐き明御神と大八嶋の國知ろしめす
 かけまくも恐き明御(あきつ)神と大八嶋(おほやしま)の国しろしめす
 天皇命の大御世を
 天皇命(すめらみこと)の大御代(おほみよ)を
 手長の大御世と斎ふと為て(若し後の斎の時には後斎の字を加ふ)
 手長(たなが)の大御代と斎(いは)ふとして(もし後のいはひのときは後のいはひのもじをくはふ)
 出雲國の青垣山の内に 下つ石根に宮柱太知き立て
 出雲の国の青垣、山の内に 下(した)つ石根(いはね)に宮柱太(ふと)しきたて
 高天原に千木高知り坐す 伊射那伎の日真名子
 高天原(たかまのはら)にちぎたかしりいます いざなぎのひまなご 
 加夫呂伎 熊野大神 櫛御気野命 國作り坐し大穴持命  
 かぶろき くまぬのおほかみ くしみけぬの命(みこと) 国つくりまししおほなもちの命
 二柱の神を始めて 百八十六社に坐す皇神達を 
 ふたはしらの神を始めて、ももやそまりむつの社(やしろ)にます皇神(すめかみ)たちを
 某甲が弱肩に太襷取り挂けて
 それがしが弱肩(よわかた)に太襷(ふとたすき)取りかけて
 伊都幣の緒結び 天の美賀秘冠りて
 いつぬさの緒(を)結び 天(あめ)のみかげかがふりて
 伊豆の真屋に麁草を 伊豆の席と苅り敷きて 伊都閉黒まし
 いつのまやにあらくさを いつの席(むしろ)とかりしきて いつへくろまし
 天の厳和に斎みこもりて 志都宮に忌ひ静め仕へ奉りて、
 あめのみかわにいみこもりて しづ宮にいはひ静め仕え奉(まつ)りて
 朝日の豊栄登に 伊波比の返事の神賀吉詞を 奏し賜はくと奏す
 朝日のとよさかのぼりに いはひの返事(かへりごと)のかむほぎのよごとを まをしたまはくとまをす
 高天の神王 高御魂命の皇御孫命に
 高まのかぶろき(かむみおや) 高みむすびの命(みこと)のすめみまの命に
 天下大八嶋國を 事避り奉りし時
 あめのしたおほやしまの国を ことさり奉りしとき
 出雲臣等が遠祖 天穂比命を 國體見に遣はしし時に
 出雲のおみらが遠祖(とほつおや) あめのほひの命を くにかたみにつかはしし時に
 天の八重雲を押し別けて 天翔り國翔りて、
 天のやへぐもを押しわけて あまかけり国かけりて
 天下を見廻りて 返事申し給はく  
 あめのしたを見めぐりて 返事(かへりごと)まをしたまはく
 豊葦原の水穂國は 昼は五月蝿如す水沸き 夜は火瓮の如く光く神在り
 とよあしはらのみずほの国は 昼はさばへなすみなわき 夜はほへの如くかがやく神あり
 石根木立青水沫も 事問ひて荒ぶる國なり
 いはねこのたちあほみなわも こととひて荒ぶる国なり
 然れども鎮め平けて 皇御孫命に 安國と平けく 
 しかれどもしづめたいらけて すめみまの命に やすくにとたひらけく 
 知ろしめし坐さしめむと申して
 しろしめしまさしめむとまをして
 己命の児 天夷鳥命に 布都怒志命を副へて 天降し遣して
 おのれ命のみこ あめのひなとりの命に ふつぬしの命をそえて あまくだしつかはして
 荒ぶる神達を撥ひ平け 國作しし大神をも 媚ひ鎮めて
 荒ぶる神どもをはらひ平(む)け 国つくらししおほかみをも まはひ鎮(しず)めて
 大八嶋國の現事顕事事避らしめき
 おほやしまの国の現事(うつしごと)顕事(あらはにごと)ことさらしめき
 乃ち大穴持命の申し給はく
 すなはちおほなもちの命のまをしたまはく
 皇御孫命の静まり坐さむ大倭國と申して
 すめみまの命の静まりまさむおほやまとの国とまをして
 己命の和魂を  八咫鏡に取り託けて
 おのれ命の和魂(にぎみたま)を 八咫鏡(やたかがみ)にとりつけて
 倭大物主 櫛厳玉命と御名を称へて 大御和の神奈備に坐せ
 やまとのおほものぬし くしみかたまの命とみなをたたへて 大御和(おほみわ)の神奈備(かむなび)にませ
 己命の御子 阿遅須伎高孫根の命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ
 おのれ命のみこ あぢすきたかひこねの命の御魂(みたま)を葛木(かつらかき)の鴨(かも)の神奈備にませ
 事代主命の御魂を宇奈提に坐せ
 ことしろぬしの命の御魂を宇奈提(うなで)にませ
 賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて
 かやなるみの命の御魂を飛鳥(あすか)の神奈備にませて
 皇御孫命の近き守神と貢り置きて、
 すめみまの命のちかき守りの神とたてまつりおきて
 八百丹杵築宮に静まり坐しき
 やほに杵築宮(きづきの宮)に静まりましき
 是に親神魯伎神魯備の命の宣はく
 ここにむつかむろぎかむろみの命ののりたまはく
 汝天穂比命は 天皇命の手長の大御世を 
 いましあめのほひの命は すめら命の手長の大御世を 
 堅石に常石に伊波ひ奉り
 堅石(かきは)に常石(ときは)に祝い奉り
 伊賀志の御世に幸はへ奉れと仰せ賜ひし
 いかしの御世にさきはひ奉れと仰せ給ひし
  次の随まに供斎仕へ奉りて(若し後の斎の時には後斎の字を加ふ)
 つぎてのまにまにいはひごと仕え奉りて(もし後のいはひの時には後のいはひの文字を加ふ)
 朝日の豊栄登に 神の禮白臣の禮白と 御祷の神宝献らくと奏す
 朝日の豊さか登りに 神のゐやしろ臣のゐやしろと みほぎの神宝(かむだから)たてまつらくとまをす
 白玉の大御白髪在し 赤玉の御阿加良び坐し 青玉の水江玉の行相に
 白玉(しらたま)のおほみしらがまし 赤玉のおほみあからびまし 青玉の水江の玉のあひゆきに
 明御神と大八嶋國知ろしめす天皇の手長の大御世を
 あきつ御神と大矢島の国しろしめす天皇(すめらみこと)のたながの大御世を
 御横刀広らに誅ち堅め
 みはかしのひろらにうち堅め
 白き御馬の前足の爪 後足の爪の踏み立つる事は
 白き御馬の前の足の爪 しりへの爪の踏み立つることは
 大宮の内外の御門の柱を 上つ石根に踏み堅め 下つ石根に踏凝し立て
 大宮のうちとのみかどの柱を うはついはねに踏み固め したついはねに踏みこらしたて
 振り立つる耳の 弥高に天の下を知ろしめさむ事の志のため
 ふりたつるみみの いやたかに天の下をしろしめさむことの志(しるし)のため
 白鵠の生御調の玩物と 倭文の大御心も多親(足)に
 しらとりのいきみつきのもてあそびものと しづの大御心もたしに
 彼方の古川岸 此の古川岸に 生ち立てる 
 をちのふるかわきし こちのふるかわきしに なりたてる 
 若水沼間の弥若叡に御若叡坐し
 若みぬまのいや若えにみ若えまし
 須すぎ振る遠止の美の水の 弥乎知に御袁知坐し
 すすぎ振るおどのうるはしの水の いやをちにみをちまし
 麻蘇比の大御鏡の面を おしはるかして見行す事のごとく
 まそびの大御鏡のおもを おしはるかしてみそなはすことのごとく
 明御神の大八嶋國を 天地日月と共に 
 あきつ御神の大八島の国を あめつちひつきと共に
 安けく平けく知しめさむ事の志の太米と、
 安らけく平らけくしろしめさむことのしるしのためと
 御祷の神宝を擎げ持ちて
 みほぎの神宝をささげもちて
 神の禮白 臣の禮白と 恐み恐みも 天つ次の神賀吉詞
 神のゐやしろ 臣のゐやしろと 恐み恐みも あまつつぎてのかむほぎのよごと
 白し賜はくと奏す
 まをしたまはくとまをす

【出雲国造神賀詞現代口語訳】
 【出雲国造神賀詞 】(いずもこくそうかむよごと)(いずもこくそうかむほぎのことば)が「出雲大社松山分祠」にサイトアップされているので、これを転載しておく。
 八十日と日柄は数多くありますが、今日のこの吉日にあたりまして、出雲国造姓名が恐れ畏まって申し上げまするに、言葉にかけて申し上げるのも畏れ多い御現神としてこの日本の国を治められます天皇様の大御世を長久の大御世でありますようにと寿ほぎますために、出雲国の木々の青々と生い茂る山々があたかも垣根のようになすころに、地の下にある盤石な石まで深く宮の柱が立ち、又大空高く千木が立つ御神殿に御鎮座遊ばされます、伊射那伎の鐘愛され給う御子で、最も尊い神なる熊野大神櫛御気野命と、この国土を開拓し治められた大穴持命と、二柱の神を始めと致しまして国中に鎮まり坐す百八十六社の皇神等を、私の弱肩に太い襷を取り掛けて、斎み清めた木綿の緒を組紐として結び、木綿の鬘を頭に戴き冠つて、斎み清めた真屋に人の手の触れられていない清浄な草を刈り清浄な席として敷き設け、 神饌を調理する竃の底を火を焚いて黒く煤づかせて、神厳な斎屋に篭って、安静なる神殿に忌み鎮めて御祭を営み、この朝日の差し昇る良き日にここに参朝して復命の神賀の吉詞を奏上致します事ここに奏します。

 高天原の尊貴なる神、高御魂命が皇御孫命に天の下の大八嶋国の国譲りを仰せになられました時に、出雲臣達の遠祖、天穂日命を国土の形成を覗う為にお遣わしになられました時に、幾重にも重なった雲を押し分けて天を飛翔し国土を見廻られて復命して申し上げられました事は、「豊葦原の水穂国は昼は猛烈な南風が吹き荒れるように荒ぶる神々が騒ぎ夜は炎が燃えさかるように光り輝く恐ろしい神々がはびこっております。岩も樹木も青い水の泡までもが物言い騒ぐ荒れ狂う国でございます。然れどもこれらを鎮定服従させて皇御孫命には安穏平和な国として御統治になられますようにして差し上げます」と申されて、御自身の御子、天夷鳥命に布都怒志命を副へて天降しお遣わしになられまして荒れ狂う神々を悉く平定され、国土を開拓経営なされました大穴持大神をも心穏やかに鎮められまして大八嶋国の統治の大権を譲られる事を誓わせになられました。

 その時、大穴持命の申し上げられますには、皇御孫命のお鎮まり遊ばされますこの国は大倭国でありますと申されて御自分の和魂を八咫鏡に御霊代とより憑かせて倭の大物主なる櫛厳玉命と御名を唱えて大御和の社に鎮め坐させ、御自分の御子、阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の社に鎮座せしめ、事代主命の御魂を宇奈提に坐させ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社に鎮座せしめて皇御孫命の御親近の守護神と貢りおいて御自分は八百丹杵築宮に御鎮座せられました。ここに天皇様の親愛せられます皇祖の神の仰せられますには、汝天穂日命は天皇様の長久の大御世をいつまでも変わる事無く御守護申し上げ、盛大なる御世として繁栄せしめ奉れと仰せ賜りましたお言葉を国造代々伝えて参りました通りに斎事をお仕え申し上げてこの朝日の差し昇る良き日に当たりまして神の礼白臣の礼白として御世の寿祝を祝福する神宝を奉献致します事を奏します。

 ここに献上致します白玉の如く天皇様の御髪が真っ白になるまでも御寿命は長くあらせられまして、赤玉の赤々と輝くように竜顔も勝れて麗しく御強壮にましまし、緒に貫いた青玉が水の江の行相のように整い乱れぬように明御神として大八嶋国を統治遊ばされます天皇様の長久なる大御世を捧げ奉ります御横刀にて広く世を打ち従えて揺るぎ無く礎を固めて、白い御馬の前足の爪、後足の爪を踏みたててここへつれ来る事は、大宮の御門の内外の柱を地の底までも踏み固め揺るぎ無いものとして、この馬の耳を振り立てます事は聞き耳を高々と立てる程天下を隆盛に治められます事への祝福でありまして、白鵠の生きた献物を御愛玩され倭文布の文様がしっかりと通っているように大御心も乱れる事無く、彼方や此方の古川岸に生え出る若々しい「みるめ」のようにますます若々しく若返りになられまして、奉献の物を濯ぎ清める淀の水が溯って流れるように若返りになられまして、真澄の大御鏡の面を払い清めて御覧になられます事のように、天皇様が大八嶋国を天地日月と共にいつまでも平安に統治遊ばされます事を祝福致します為にこれらの神宝を捧げ持って神の礼白、臣の礼白としてつつしみ畏まって祖先の神より代々伝わりますこのめでたき良き詞を奏上致します事を奏します。

 口語訳は主に神社新報社「延喜式祝詞教本」を参照した、とある。
 【出雲国造神賀詞 】(いずもこくそうかむよごと)(いずもこくそうかむほぎのことば)のれんだいこ式現代口語訳を提供しておく。
 今日という日をより良く生きる為の御言葉を、出雲国造姓名が恐れ畏まって申し上げさせていただきます。言葉にするのも畏れ多い明賢の御神にして、大八嶋の日本の国を治められます天皇様の大御世が長久の大御世でありますようにと寿(こと)ほぎさせていただきます。

 次に、出雲国の青垣の生い茂る神体山の麓に、盤石の基礎を持つ太い宮柱を立て、空高く千木を立たしめた神殿に鎮座しております、伊射那伎の愛され給う御子にして古来よりの尊い神なる熊野大神の櫛御気野命(くしみけぬの命)と、この国を創められた大穴持命(おほなもちの命)の二柱の神、これを始めとして国中に鎮まり坐す百八十六社の皇神等に寿(こと)ほぎさせていただきます。

 私の弱肩に太い襷を掛け、伊都幣(いつぬさ)の緒を結び、天の美賀秘を冠りて、伊豆の斎屋に清浄な草を敷き、 神饌を調理する竃の底の火を焚いて黒く煤づかせ、神厳な斎屋に篭って、安静なる志都宮(、しづみや)神殿を清浄に鎮めて祭祀を司り、朝日の差し昇る良き日にここに参朝して復命の神賀の吉詞(よごと)を奏上させていただきます。

 その昔、高天原の尊貴なる神、高御魂命(たかみむすびの命)が皇孫命に天の下の大八嶋国の国譲りを仰せになられました時に、出雲臣達の遠祖に当たる天穂日命(あめのほひの命)を国土の様子を覗う為にお遣わしになられました時に、幾重にも重なった雲を押し分けて天を飛翔し国土を見廻られて復命して申し上げられましたことは、「豊葦原の水穂国は、昼は五月ハエが飛び回るほど煩(うるさ)く騒ぎ、夜は炎が燃えさかるように光り輝く恐ろしい神々がはびこっております。岩も樹木も青い水の泡までもが物言い騒ぐ荒れ狂う国でございます。しからば、これらを鎮定服従させて皇孫命が安穏平和な国として御統治になられますように」とのことでありました。

 これにより、御自身の御子、天夷鳥命(あめのひなとりの命)に布都怒志命(ふつぬしの命)を副へて天降しお遣わしになられ、荒れ狂う神々を悉く平定され、それまで国土を開拓経営していた大穴持命を政治の表舞台から退け、国譲りと相成りました。

 この時、大穴持命は次のように要望されました。出雲の精神である和魂(にぎみたま)を八咫鏡(やたかがみ)に御霊代とより憑かせて、倭大物主櫛厳玉命(やまとのおほものぬしくしみかたまの命)と御名を称へて大御和(おほみわ)の神奈備(かむなび)に鎮座せしめ祀らせますよう。次に、御自分の御子、阿遅須伎高孫根命(あぢすきたかひこねの命)の御魂を葛木(かつらぎ)の鴨(かも)の社に鎮座せしめ祀らせますよう。次に、事代主命の御魂を宇奈提(うなで)に坐させ祀らせますよう。賀夜奈流美命(かやなるみの命)の御魂を飛鳥の社に鎮座せしめ祀らせますよう。さすれば皇孫命の守護神となるでせう。そう云い残して、八百丹杵築宮(やほにきづきの宮)へ鎮座為されました。

 天皇様直々の皇祖神であります神魯伎神魯備の命(かむろぎかむろみの命)の仰せられますには、汝天穂日命(あめのほひの命)は行きて天皇様の長久の大御世をいつまでも変わる事ないよう御守護し、盛大なる御世として繁栄せしめるよう奉れ。かく仰せ賜り、このお言葉通りに斎事にお仕え申し上げ、朝日の差し昇るいやさかの道を、神の礼、白臣の礼、白として御世の寿祝を祝福する神宝奉献を致しております。

 ここに献上致します白玉の如く天皇様の御髪が真っ白になるまでも御寿命は長くあらせられまして、赤玉の赤々と輝くように竜顔も勝れて麗しく御強壮にましまし、緒に貫いた青玉が水の江の行相のように整い乱れぬように明賢神として大八嶋国を統治遊ばされます、天皇様の長久なる大御世を守護しております。

 刃向かう者あらば、御横刀にて広く世を打ち従えて揺るぎなく礎を固めて、白い御馬の前足の爪、後足の爪を踏みたてて、大宮の御門の内外の柱を地の底までも踏み固め、揺るぎないものと為し、耳を振り立て高々と立てるのも、天下を隆盛に治められます為でございます。

 白鵠の生きた献物を御愛玩され、倭文の大御心も充分に踏まえ、あちこちの古川岸に生え出る若々しい「みるめ」のようにますます若々しく若返りになられまして、奉献の物を濯ぎ清める淀の水が溯って流れるように若返りになられまして、真澄の大御鏡の面を払い清めて御覧になられますよう。

 天皇様が明賢にして大八嶋国を天地日月と共にいつまでも平安に統治遊ばされます事を祈念致しまして、祈祷の神宝を捧げ持ち、神の礼白、臣の礼白を尽しますよう、つつしみ畏まって祖先の神より代々伝わりますこのめでたき良き詞を奏上致しますことを許されますよう奏します。

【出雲国造神賀詞考】
 出雲国造神賀詞によれば、出雲王朝系の皇孫は次のように祀られていることになる。
大国主の命 大神神社 奈良県磯城郡の三輪山
阿遅すき高日子根の命 大国主の命の子 高嶋神社 奈良県南葛城郡の葛城山
事代主の命 大国主の命の子 雲で(うなで)神社 奈良県高市郡
賀夜奈流美(かやなるみ)の命 飛鳥神社

 「Contents of the Historical essays」の二千年来、世紀の御成婚!?── 皇室と出雲国造家の深遠なる縁結び(2014.6.11)」より部分転載しておく。(れんだいこ責任で。読みながら読み易くするための表記替えした)
 平成26(2014)年5月27日、宮内庁のホームページに僅か一行の文章ながらも、とてつもないインパクトのある発表が掲載されました。曰く、「典子女王殿下には、本日、千家(せんげ)国麿(くにまろ)氏とご婚約がご内定になりました」。これは、高円宮家の第二王女、典子女王殿下(25歳)と、出雲大社の禰宜(ねぎ)・祭務部長を務める千家国麿氏(40歳)の御婚約内定の発表でしたが、既にネットを中心に盛り上がりを見せているので、ご存じの方も多々居(お)られることと思います。(ちなみに挙式は今秋、出雲大社で執り行われると言う) 典子女王殿下は皇族の一員であり、正真正銘、平成日本の「プリンセス」である訳ですが、御婚約相手である千家国麿氏の家系(出雲国造家系譜)も、それに勝る共劣らないとんでもない家柄なのです。千家国麿氏の御父上、千家尊祐(たかまさ)氏は出雲大社(いずものおおやしろ)祭主にして、第84代出雲国造(こくそう)。高祖伯父(ひいひいじさんの兄)である第80代出雲国造、千家尊福(たかとみ)氏は埼玉県知事・東京府知事を歴任すると同時に、皆さんもご存じの唱歌『一月一日』の作詞者としても知られています。
   『一月一日』
千家尊福(せんげ-たかとみ)作詞  上眞行(うえ-さねみち)作曲

年の始めの 例(ためし)とて
終(おわり)なき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
祝(いお)ふ今日こそ 楽しけれ

初日(はつひ)のひかり さしいでて
四方(よも)に輝く 今朝のそら
君がみかげに比(たぐ)へつつ
仰ぎ見るこそ 尊(とお)とけれ

 まあ、これだけでも世紀のビックカップルと言える訳ですが、千家国麿氏の家系の凄い所は、その古さです。典子女王殿下の属する皇室(通称「天皇家」)は、初代の神日本磐余彦天皇(かむやまといわれこみのすめらみこと) ─ いわゆる「神武(じんむ)天皇」(古事記(ふることふみ)・日本書紀(やまとのふみ)合わせて『記紀』の伝承では紀元前660年1月1日(現行暦の2月11日)に即位)より数えて現在の天皇陛下 ─ 第125代の今上(きんじょう)天皇(代数は史書により多少前後するが、便宜的に現在公式に認められている代数に合わせる)迄、二千年近い歳月を男系男子の継承で紡(つむ)いできた文字通り「万世(ばんせい)一系」、現存の王家としては、世界で最古、最長の単一王朝として認知されている由緒ある家柄です。(ちなみに、1974=昭和49年、陸軍クーデターによりハイレ=セラトエ1世が退位暗殺される迄は、古代イスラエルのソロモン王とシバの女王との間に産まれたメネリク1世を始祖とするエチオピア帝国の皇室「ソロモン王朝」が日本の皇室を抜いて世界最古の王家とされていた) それに対しては、千家国麿氏の家系はと言うと、これ又、皇室に勝る共劣らない古さを誇ります。

 千家国麿氏の属する千家家は国麿氏の御父上で現当主の尊祐氏で第84代。南北朝時代の1343(南朝の興国4、北朝の康永2)年、第54代の三郎清孝(きよのり)が亡くなる迄「国造出雲臣(こくそう-いずものおみ)」として出雲氏を名乗り、出雲大社の祭主を一統相伝してきましたが、彼の歿後、二人の弟、五郎孝宗(のりむね)と六郎貞孝(さだのり)の間に後継争いが生じ、遂に当時の出雲国守護代にして富田城主の吉田厳覚の裁定により、出雲国造家を両者で分かち祭事も分掌することとなりました。そして、この時、五郎孝宗は「千家」姓を、六郎貞孝は「北嶋(北島)」姓をそれぞれ名乗るようになり、両家共に代々「出雲国造」を継承することとなったのです。その後、両家共に家系は現在に至るまで続いている訳ですが、明治6(1873)年、時の政府が北島家の国造、北島脩孝(ながのり)に岡山県の吉備津(きびつ)神社宮司への転勤を命じたことで(但し、北島脩孝はこの政府命令を断固拒否した)、出雲大社の祭事は唯一の国造である千家家の専権となり、現在に至っています。

 さて、千家家の由来について簡単に述べましたが、話はこれでお仕舞いではありません。南北朝時代に、千家・北島両家に分立する以前の出雲国造家について論じなければ全く意味がないからです。出雲国造家は「こくそう」と読みますが、他の「国造(くにのみやつこ)」と同様、古代日本に於ける各地方の政治・軍事・裁判各権を管掌(かんしょう)する世襲制統治者のことで、大化改新を境に主に祭祀(さいし)を管掌する世襲制名誉職となりました。出雲国造家もその一つで、現存としては唯一の国造家です。又、出雲国造家の当主は「出雲国造」として代々、出雲大社の祭事を司ってきた存在(出雲大社では最高位の神官を「神主」・「宮司」とは呼ばず、「出雲国造」と称す)で、その格式は社(やしろ)の鎮座する島根県の知事よりも高い共言われています。出雲国造家の系譜を遡(さかのぼ)っていくと、天穂日命(あめのほひのみこと)に辿(たど)り着きます。天穂日命は系譜上、天照大神の子で、天之忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)の弟神とされています。天照大神は、ご存じ皇室の祖先神 ─ 「皇祖」と称される女神で、子の天之忍穗耳尊、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;通称「天孫」)、曾孫(ひまご)の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと;通称「山幸彦」)、玄孫(やしゃご)の盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を経て、来孫(きしゃご)の神武天皇に至り、その子孫は現在の皇室 ─ つまり、高円宮家の典子女王殿下も含まれる ─ に至っています。そして前述の通り、皇室の祖先、神武天皇の高祖父(ひいひいじいさん)に当たる天之忍穗耳尊の弟神が、出雲国造家の始祖に当たる天穂日命なのです。つまり平たく言えば、高円宮家の典子女王殿下は天之忍穗耳尊を通じて、婚約者である千家国麿氏も天穂日命を通じて、共に皇祖・天照大神で家系が一つに繋がる訳で、日本で一二を争う古くて由緒ある両家の御令嬢と御曹司の御婚約は、日本史上とてつもないインパクトのある出来事である訳です。何せ、二千年の時を超えて分かれた血が再び一つになるのですから。

 又、昨年(平成25=2013年)は、伊勢神宮(正式には単に「神宮」)が20年に一度の式年遷宮、一方の出雲大社も60年に一度の大遷宮が執(と)り行われましたが、奇(く)しくも、伊勢神宮は天照大神を祀(まつ)る皇室の宗廟(そうびょう)、もう一方の出雲大社は皇室を戴(いただ)く天津神(あまつかみ:天孫族)に「国譲り」した国津神(くにつかみ:出雲族)の主神、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)・事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)父子を祀る出雲族の宗廟であり、日本史上初の伊勢神宮と出雲大社の同時遷宮は、今回の世紀の御婚約の露払いだったのでしょうか? それとも、高円宮憲仁親王殿下御存命中から高円宮・千家両家の親交があった事から、度々、出雲の地を訪れていた典子女王殿下と、次期出雲国造の千家国麿氏の仲を、「縁結びの神」として名高い出雲大社の神が取り持ったのか・・・真相は凡人である私には量(はか)りかねますが、とにかく、何かしらの「神慮(しんりょ)」が働いているのだと私は思っています。

 現在の出雲大社本殿の高さは8丈(約24m)あり、他に比しても大きなものですが、時代を遡ると、中古には16丈(約48m)、上古には32丈(約96m) ─ 地上30階建てのビルに相当 ─もある正に古代の「摩天楼」と呼んでも差し支えない程の威容を誇っていたと言います。現在の我々の感覚から見れば、古代に地上30階建てのビルに相当する程の巨大な「ビルディング」を鉄筋金クリートも用いず、木材だけで建設する事等到底不可能、ただの絵空事と断じてしまいますが、それを覆すかも知れないとんでもない物が平成12(2000)年、境内の遺跡発掘現場から発見されました。それは最大径1.2mの丸太を三本纏(まと)めて金輪(かなわ)で締め上げ、一つの柱とした最大径3.2m、三本で一本の「心御柱(しんのみはしら)」だったのです。因みに、「三つで一つ」と言えば、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・神産巣日神(かみむすびのかみ)からなる日本神話に於ける「造化三神」や、「父(なる神)と子(なるイエス=キリスト)と聖霊(聖神)の御名に於いて」の文句で有名なキリスト教に於ける「三位一体(さんみいったい)」、果てはユダヤ密教「カッバーラ」に於ける峻厳の柱(左)・慈悲の柱(右)・均衡の柱(中央)からなる「セフィロトの樹」も連想されますが、とにかく、角の数が最少の三角形よろしく「三つで一つ」は安定や均衡を体現している共言えます。話が横道に逸れてしまいましたが、世紀の御婚約により、二千年の時を超えて皇室(大和朝廷)と出雲国造家(出雲神族)が和合しようとしています。これに、更に中世に南北朝として二つに分かれ、その後も、応仁の乱、戦国時代、幕末維新期、先の大戦後と、歴史の大転換期に顔を出しては、再び歴史の奥底に潜(ひそ)んで行った分かたれた皇室 ── 真の意味での南北朝(南朝の血を引く現皇室と、昭和22年の皇籍離脱で「民間人」となった北朝系旧宮家)の和合 ── 出雲と二つに分かたれた皇室の三つが和合する時、日本の歴史に新たな一ページが加わるのではないか? そう勝手に解釈しつつ、本小論を締めたいと思います。(了)

 岡本雅享「千家尊福国造伝 第1部《生き神様》②(2018年2月16日掲載) 古代出雲王の末裔」。
 出雲国造は古代においてヤマト政権に服属した出雲王の末裔とみられている。国造は一般に「くにのみやつこ」と読むが、第82代出雲国造・千家尊統(1885~1968年)によれば、出雲では昔から音読み、清音で「こくそう」と呼んでいる。尊統は著書『出雲大社』で、国造は大化前代において、その国の土地を領し人民を治め、祭政の一切を司り、その機能を世襲する地方君主であったとも述べている。
近年の歴史教科書が描く4~5世紀の日本。いくつかの地域王国が並存していた様を表す(岡本雅享著『民族の創出』より)
近年の歴史教科書が描く4~5世紀の日本。いくつかの地域王国が並存していた様を表す(岡本雅享著『民族の創出』より)

歴史学者の故門脇禎二氏は、古代の列島にはツクシ、キビ、イヅモ、ヤマト、ケヌなど独自の王権、支配領域、統治組織、外交等の条件を備えた地域王国が複数並存していたが、互いの交渉や競合の中でヤマト王国が台頭し、他の王国を統合していったとする。国造は一般に、倭(やまと)勢力に服属した各地の豪族を地方官に任命したものとされるが、瀧音能之著『古代の出雲事典』などが倭政権から「半独立状態ともいえる権力をもつ者もいた」とするのは、豪族レベルを超えた地域王国の王が国造に転じたとみられる例があるからだ。その最たるものが、一国一国造を維持し続けた出雲国造だといわれる。

統一を目指す倭政権は律令制の導入に伴い国造を廃止し、畿内から諸国へ国司を派遣するようになり、国造は一般に統治権を失ったとされる。しかし出雲国造は律令制下でもその称号を維持し、出雲国意宇郡の大領となり、一族の出雲臣が楯縫郡の大領、仁多郡・飯石郡の少領になるなどして統治権を維持し、その影響力は根強く残った。

『続日本紀』の文武天皇2(698)年3月9日条には、出雲国意宇と筑前国宗像だけは、郡司に他では禁じた三親等以上の連任を認める特例を詔で出したとある。現存する風土記中、ほぼ唯一完本で残る出雲国風土記(733年)も、国司ではなく第25代出雲国造、出雲臣広嶋が編纂し、オミヅヌ神の国引き神話や「天の下造らしし大神」(大穴持(おおなもち)命)の巡行など、独自の出雲神話を綴る。そこでこの出雲大神が、自らが造り治めてきた国を皇孫に譲る一方、出雲の国だけは自らが鎮座する国として、青垣山を巡らし、治め続けると表明している(意宇郡母理郷)のも、当時の政治状況の反映だろう。

出雲国造神賀詞(かんよごと)も、他に例を見ない儀礼だ。出雲国造は8世紀を中心に、就任にあたり朝廷に出向いて任命を受け、いったん出雲へ帰って1年間潔斎した後、再び入朝して神賀詞を奏上。また出雲に戻り、さらに1年の潔斎をした後入朝し、2度目の神賀詞を奏上していた。神護景雲2(768)年の出雲臣益方の奏上では、位と禄を賜わった随行の祝部が男女159人と記録されるなど、出雲から毎回大規模な訪問団を派遣していた。延長5(927)年成立の『延喜式』祝詞に収まるこの神賀詞の中で、出雲国造は天皇(すめらみこと)の御世を賀しつつ、祖神天穂日(あめのほひ)命が国譲りに貢献し、また大和王権揺籃の地に座す三輪山に大穴持命が自らの和魂を鎮めたと語る。

 出雲国造が政治権力を失い、出雲国内諸社の祭祀のみに携わることになるのは、朝廷が延暦17(798)年3月29日付けの太政官符で、出雲国造の意宇郡大領(郡司の長官)兼務を禁止してからだ。その後、出雲国造は居所を意宇郡から出雲郡へ移し、「杵築大社(きずきのおおやしろ)」(1871年以降「出雲大社」と改称)の宮司としてその職を世襲し続け、14世紀半ばに千家家と北島家に分かれ、以来、両家で祭祀を分担し、幕末に至ったのである。





(私論.私見)