そうめん、ラーメン、うどん、スパゲッティ等の小麦麺類はのびたら食味が落ちますが、出汁にしょうがをいれると、小麦麺のうまさがしゃっきり引き立ちます。和の鉄人「いのちの出汁」の秘密は大和の国のショウガで決まり。もちろん小麦麺のもショーガ出汁で目茶旨くなりますよ。
出雲王朝御代の医薬、風俗、風習考 |
更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).2.28日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、別章【日本及び日本人の起源考】に引き続き、「出雲王朝時代の風俗(生活習慣、風習)考」をものしておく。「縄文と古代文明を探求しよう!」その他が意欲的に研究しているようである。これらを参照する。 2013.07.16日 れんだいこ拝 |
【出雲王朝御代の風俗(医薬、生活習慣、風習)考その1】 |
ここで「出雲王朝時代の風俗考」をものしておきたいと思う。今では聞けないかもしれないが、明治、大正生まれの古老から「ここは昔、大国主様が治めておられた」と口伝えされていた。その治世を懐かしむ意が込められていた。その時代の世の在り方、社会の在り方の一端を垣間見ようとするのが本稿の眼目である。これを仮に風俗とする。ここで云う風俗は生活習慣、風習、社会の様子全般を指している。れんだいこは、「新邪馬台国論」の獲得を通じて「原日本論新日本論」を確立するに至った。これに照らせば「出雲王朝時代の風俗」とは「原日本の風俗」を明らかにすることになり、そういう意味があると云うことになる。 この原日本時代の社会を知ろうとしている矢先、上田篤・著「縄文人に学ぶ」(新潮社、2013.6.20日初版)に出くわした。同書のタイトルは「縄文人に学ぶ」となっているが、れんだいこ史観に照らせば正しくは「原日本人に学ぶ」と表記することができる。そういう恰好本を手に入れたことになる。読み進めると期待に違わず原日本時代の生態を活写している。願うらくは、これをベースにもっと広範囲に体系的に肉付けして行くことだろう。「縄文人に学ぶ」は、その元本としての値打ちがある。本書を原本に、これをさらに総合的と個別的の双方向から書き加えて肉付けしていけばよい。難事ではあるが試みることにする。 早速に確認しておくべきことは、「縄文人に学ぶ」の真意は「原日本人に学ぶ」であるからして、その原日本人社会の最高発達段階が出雲王朝-邪馬台国時代であるからして、かの時代の風俗を学ぶと同義語と云うことであろう。正しくはかく認識せねばならないと云うことであろう。この頃の生活の特徴は今となっては推定するしかできないが、現代文明とは異質別系のかなり高度なものであったと窺うべきである。歴史的にはアイヌ人の生態がその一部を継承しているように思える。あるいは新日本の影響から相対的に免れた沖縄、隠岐の島辺りに原日本的風景が残されていると窺うことができる。アイヌ、沖縄、隠岐の島文化研究の意味はこういうところにあるように思われる。 特徴的なことは、あらゆる作法処方が宇宙、自然との共生的観点から生み出されているということである。宇宙、自然の営みや仕組みをそのままに知り、これより汲み出される摂理を人類社会に有用的に活用する学問的生活的体系を構築しているように思える。この作法処方により、この時代の人々が宇宙、自然と対立したり抗争することはない。言わずもがなであるが今日のごとくに宇宙、自然の諸環境を損なうことはない。付言すれば、この時代の人々は、宇宙、自然にあるものを何一つ拒否していない。むしろ、それぞれ特性を知り、的確な使い道、役立て方の総合研究をしていると見立てることができる。そのスタイルは、近現代史を覆うネオシオニズム的作法処方の悪魔科学とは全く対照的である。このことをいの一番に確認しておきたい。 これを例えてみる。「原日本の風俗(生活習慣、風習)」を生活の三大要素「衣食住」から分析してみる。まずは、自然のものを「山のもの」、「野のもの」、「海のもの」に分け、次にそれぞれを「食用できるもの」、「医薬に使えるもの」、「衣住に使えるもの」、「その他に使えるもの」に仕分け、それぞれの的確な効用を探っている。興味深いことは、「衣食住に使えないもの」を捨てることはせず、他の有用な使い道を探り、最終的に何一つとして無価値のものはないとしていた形跡が認められることである。このセンテンスで膨大な知的体系を築いていた、あるいは築こうとしていた。その学問、技術は非常に高等にして精緻であり卑下されるに及ばない。現代人の技術をもってしても届かない諸工作物、工芸品があるのはその一例である。むしろ現代的な知的体系と別のレール上に花開いている別知学問である。かく評することができるように思われる。 現代に於いて「原日本の風俗」がそのままに残っていることはない。但しスタイルを変えつつも「三つ子の魂」として生き続けていると窺うべきであろう。むしろ根幹を変えず、どう生き延びてきているのかを考察するのがおもしろい。そのサマは日本語の生成と発展史と相似しており併走している。この「原日本の風俗」こそ日本の正統な伝統であり今日まで曲がりなりにも継承されているものである。しかしてこの伝統は高等にして洗練されており値打ちものである。こういう見方が欲しい。ではどう息づいているのか、以下その概略を確認してみる。 以下の稿は容易には書けないので、ぼちぼち書き上げることにする。そのサイトは次の通り、次第に分量を増やすことにする。 「出雲王朝時代の風俗(生活習慣、風習、信仰、思想)考」 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/nihonshinwaco/ izumoootyoco/fuzokuco/fuzokuco.html) 2013.7.18日 れんだいこ拝 |
【出雲王朝時代の風俗考その2】 |
ネオシオニズム被れの学問に於いては、世界文明は、チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダス、黄河の四大河川地域から始まり、世界に伝搬したとしている。これを「四大文明伝播史観」と云う。これを迂闊に学ぶと、日本文明の中で紀元の分からないものは皆なこれら四大文明に基づく海外から来たとすることになる。確かに中国ないしは朝鮮半島経由で来たものは多いが、それらのものが来るまでの日本は同様のものが空白であったとみなすのは如何であろうか。上田篤・著「縄文人に学ぶ」によると、日本論研究の達人である山本七平、司馬遼太郎までもが縄文時代を「闇の時代」とし、外来文明との接触で初めて日本が文明の洗礼を受けたなる論をぶっているとのことである。 こういう見方は、同じ論法論理で明治維新以前以降の日本論に繋がる。即ち「日本は明治維新で文明開化し、それ以前には見るべき分明などなかった」となる。やはりここでも、それ以前の日本は「闇の社会」にされる。即ち「欧米文明先進国、その他諸国後進国論」となる。それは何も政治体制にだけ適用されるのではない。産業、文化全般、思想、宗教にも適用される。 2013.7.18日 れんだいこ拝 |
【出雲王朝時代の風俗考、米食以前の主食、副食について】 |
出雲王朝時代の風俗考、米食以前の主食、副食は次のように考えられる。 稲作による米食が主流となる以前の上古代より出雲王朝時代に至る人々の主食は、山の幸の実、野の幸の芋、海の幸の貝の組み合わせだったと思われる。山の幸系の実としては、クルミ、トチ、クリ、ドングリなどの堅果類森林食物が考えられる。野の幸系の芋としては、クズ、ワラビ、ヤマノイモ、ウバユリなどの野生植物群が考えられる。海の幸系の貝は池の物、河川の物、海の物が考えられる。 出雲王朝時代の人々はソバに代表される麺食と芋に象徴される団子食を併食していたと思われる。米とか麦はかなり後の食物である。米食、麦食が一般化する前まではソバ、芋がその地位にあったと思われる。麺食はソバに続いてうどんを生む。思うに現代人もソバを好むが原日本時代の主食だったことに関係しているように思われる。実際には「麺食と団子食の組み合わせもの」が主食だったと思われる。これらのことは、縄文人骨のコラーゲン分析により、「全般にクリ・クルミ・ドングリなど植物質食料への依存志向が予想以上に高い」ことが判明しており裏付けられる。 |
団子の起源と語源は次の通り。 日本で団子が作られるようになったのは縄文時代頃からと思われる。初期の団子はいわゆる「粢」(しとぎ)で、米、粟(あわ)、稗(ひえ)、黍(きび)、豆、椚(くぬぎ)の実、楢(なら)の実などを粉にして水で練った、火を使わない団子でした。これは現在でも民間習俗で死者の枕元に供える枕団子がこの粢(しとぎ)の方式です。 「団子(だんご)」という言葉の語源については定かではないが、中国の「団子」(トゥアンズ、餡入り団子、日本の団子に相当するものは中国では円子、なおちなみに団の旧字は團、円の旧字は圓)から来たという説、「団」が丸いという意味なので形から来たという説、「団」は集めるという意味で粉を集めて作るからだという説等々がある。串団子は室町時代頃に発生したと言われている。最初の頃は五個刺すのが基本で、明和年間に四個のものがはやったとされている。現在では団子の大きさ次第で三個から五個の範囲で刺している。 |
当時の肉食は次の通り。肉食は狩猟食とも云われる。狩猟には、大型獣(恐竜)、中型獣(熊、鹿、猪)、小型獣(狸、狐、兎)、超小型獣(ムササビ、リス、ネズミ)、鳥類(キジ、カモ、アホウドリ)などがある。弓矢を中心とした猟がおこなわれた。縄文遺跡からは鹿と猪の骨が最も多く出土する。この二つが縄文人の主要な狩猟対象とされていたことが分かる。 |
当時の海産物は次の通り。三内丸山遺跡からは、汽水域(河口部など、淡水と海水がまじりあった塩分の少ない水がある区域)にも棲息する魚(ボラ)、沿岸回遊魚(イワシ、ブリ)、外洋性回遊魚(マグロ、メカジキ、ニシン、カツオ)、海棲哺乳類(クジラ、イルカ)などの骨が発掘されている。秋に結ぶ木の実を採集し、貯蔵することを中心としつつ、これを補完したのが、場所によって比重がことなっていたろうが、動物や魚であった。 |
当時の保存食は次の通り。交換で遠隔地から得た塩漬けや薫製・干し貝などの保存食もあった。残留脂肪酸を分析した結果、鹿児島県上野原遺跡で発見された煙道つきの連結土坑は、イノシシの薫製作りのためのものであり16基もあった。石川県真脇遺跡からは、イルカの骨が300体以上も発見されている。塩漬けにして交換にあてたものかもしれない。千葉県加曾利貝塚からは同じ貝が大量に発見されることから干し貝の加工所跡と推定されるところもある。 |
【出雲王朝時代の風俗考、米食について】 |
水田耕作が発達するのは縄文時代晩期まで待たなければならない。陸稲の栽培は思いのほか早く、岡山県の6000年前の朝寝鼻貝塚から縄文前期の稲、小麦、ハトムギのプラントオパールが発見されている。プラントオパールとはイネ科植物の葉にできるガラス質で、植物ごとに形状に違いがある。稲は日本には自生していなかった植物だから、誰かが持ち込み栽培されていたことしになる。但し、当初の陸稲はまだ生産力が低く耕作者に大きな富をもたらすことはなかったと解されている。 |
【出雲王朝時代の風俗考、手食&箸文化について】 |
食事を手食していたかどうかにつき、恐らくかなり早くから箸を使う習慣になっていたと思われる。証明しようがないが、野蛮的古代人手食論は為にするものであり、そういう論をする方が野蛮ではないかと思われる。古代人ではなく論の方が野蛮な見解であると思う。 |
【出雲王朝時代の風俗考、囲炉裏車座文化について】 |
特徴的なことは家族団らんで食べることが習わしであり、囲炉裏を車座に取り囲んでナベ料理に舌鼓を打ちながら会食するのが慣わしであった。今日でも居酒屋が隆盛しナベ料理が愛好されているが、これらは原日本時代来の会食風景である。あるいは結婚式や葬式での和やかな一族郎党の会食もその名残りと思われる。食事は一人でするのは味気なく、みんなと食べればおいしい気分なるのは、この時代より練られ獲得されたDNAではなかろうか。 |
【出雲王朝時代の風俗考、医食同源食事療法について】 |
原日本時代は「医食同源」的発想で食材を吟味していたことも銘記されねばならない。「山のもの」、「野のもの」、「海のもの」のそれぞれが、この「医食同源」的発想で研究され、食材化されていた。「山のもの」の代表例は、クルミ、クリ、トチ、ドングリ等の木の実、種、葉、幹、根、キノコ(木の子)山菜に及ぶ。「野のもの」の代表例は様々な野菜、草花、川魚に及ぶ。「海のもの」の代表例は魚、貝、藻、昆布に及ぶ。採集のみならず栽培もしていたと考えられる。栽培植物として根菜類の「大根」や「人参」、「牛蒡」、コンニャク、レンコン等々。ウリ科のウリ、ヒョウタン等々。他にもゴマ、アサ、ウルシなどが確認できる。畑作物としての麦類、豆類。食生活は豊かであったと知る必要がある。意外と云うか当たり前と云うべきか製塩により塩を摂取している。それぞれの季節に応じて山幸、野幸、海幸の旬のものが食されていた。これが日本料理として体系化される。「医食同源」の根本として「楽しくおいしく食べる」が基本となっていたように思われる。これらは貝塚に痕跡が残されており、これにより推定できる。大森貝塚が特に有名である。 今仮にお節(せち)料理を確認してみる。江戸時代のお節料理は四段重ねの重箱に入れられ、一の重箱には数の子、ごまめ、黒豆、叩きゴボウ、二の重箱にはカマボコ、きんとん、キンカン、三の重箱には甘ダイの西京漬け、ヒラメの昆布締め、フナの雀焼き、四の重箱にはヤツガシラ、レンコン、クワイ、シイタケ、タケノコの煮物などが盛り込まれていた。これらはいずれも縄文時代来の料理である。 当時の人たちにとって、自然にあるものの何一つ無用のものはなかった。当然並行して医の逆の毒味の研究もなされていたことになる。 |
【出雲王朝時代の風俗考、しょうがについて】 |
そうめん、ラーメン、うどん、スパゲッティ等の小麦麺類はのびたら食味が落ちますが、出汁にしょうがをいれると、小麦麺のうまさがしゃっきり引き立ちます。和の鉄人「いのちの出汁」の秘密は大和の国のショウガで決まり。もちろん小麦麺のもショーガ出汁で目茶旨くなりますよ。
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(私論.私見)