二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6).7.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考」をものしておく。

 2006.12.14日 れんだいこ拝


 れんだいこのカンテラ時評№1140 
 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 5月 6日
 二人のハツクニシラス天皇(スメラミコト)考

 崇神天皇の諡名(おくりな)は、初代の神武天皇のそれと同じ「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)」である。諡名は格別に精密高度に付されているものであるのに同名の諡名が存在する。こういうことがあり得て良い訳がない。これをどう解すべきか。これを仮に「二人のハツクニシラス天皇問題」と命名する。ここに、「れんだいこの解」を発表しておく。

「二人のハツクニシラス天皇問題」は実は諡名(おくりな)の和読みによって同じである訳で、漢字表記では識別されている。神武天皇は「始馭天下之天皇」、崇神天皇のそれは「御肇國天皇」である。こうなると、窺うべきは、漢字で識別されている筈の神武天皇と崇神天皇が何故に和読みでは「ハツクニシラス天皇」と同じに読まれているのか。これを逆から問うと、同じく「ハツクニシラス天皇」と諡名されているとはいえ、神武天皇のおれは「始馭天下之」、崇神天皇のそれは「御肇國」である、この表記の違いから何を汲むべきか。これをどう了解すべきかであろうか。

 れんだいこの理解では、そう難しくはない。通説の諸説の方が滑稽な気がしている。なんとならば、「れんだいこの新邪馬台国論」で披歴したが、日本古代史は「原日本新日本論」を媒介せずんば解けない。逆に云えば「原日本新日本論」を媒介すれば容易く解ける。即ち、日本古代史は、渡来系「新日本」が、国津系「原日本」から天下の支配権を奪い取ったところから始まる。これによれば、神武天皇が実在であれ架空の人物であれ「新日本」は神武天皇から始まる。歴史的にそのように位置づけられているのが神武天皇の地位である。故に、諡名が「始馭天下之天皇」つまり「天下始(はじ)めの天皇」であり「ハツクニシラス天皇」と読む。

 神武を始祖とする「新日本」王朝の御代は、初代・神武、2代・綏靖(すいぜい)、3代・安寧(あんねい)、4代・懿徳(いとく)、5代・孝昭(こうしょう)、6代・孝安(こうあん)、7代・孝霊(こうれい)、8代・孝元(こうげん)、9代・開化(かいか)と続いている。この9代が実在であれ架空であれ、この期間の政権基盤は弱かった。神武天皇が滅ぼしたとされる出雲王朝―邪馬台国三輪王朝系「原日本」の国津神系旧勢力が隠然とした支配権を持ち続けていたからである。何とならば、神武天皇系渡来勢力は、国津神系旧勢力の根強い抵抗に遭い、結局のところ「手打ち」によって辛うじて政権を奪取したことにより、「新日本」王朝内に国津神系旧勢力を組みこまざるを得なかったからである。この経緯により、国津神系旧勢力は「新日本」王朝に服役しながらも、その政治能力を値踏みしつつ「原日本」王朝の御代を憧憬しつつ諸事対応していた。国津神系旧勢力の方が概ね有能だったことにより、「新日本」王朝の内部抗争が絶えないこととなった。

 この政治状況に於いて、第10代の崇神天皇が登場し大胆な改革を行う。崇神天皇は、政権基盤を安定させる為に従来の討伐政策を転換し、旧王朝「原日本」勢力の大幅な復権的登用へと舵を切る。崇神天皇の御代の前半事歴はほぼこれ一色である。「三輪山の大物主神祭祀譚」がその象徴的事例である。崇神天皇のこの「原日本復権政策」により国津神系旧勢力の帰順化が進み、これにより政権基盤が安定し、新日本王朝は名実ともに大和朝廷となった。但し、崇神天皇は一筋縄の人物で括れるはない。崇神天皇は、三輪を筆頭とする旧王朝勢力を抱き込むことによって、返す刀で大和朝廷に服属しない諸豪族の征討に乗り出している。この征討史は11代の垂仁天皇、12代の景行天皇60年、この御代におけるヤマトタケルの命のそれへと続く。その「元一日」を始めたのが崇神天皇であり、そういう事歴を見せた崇神天皇の諡名が「御肇國天皇」つまり「国の肇(はじ)まり天皇」である。神武天皇と同じく「ハツクニシラス天皇」と読まれている。

 これにより「二人のハツクニシラス天皇問題」が発生することになった。窺うべきは、神武天皇により国が「始」まり、崇神天皇により国が「肇」まったと云うことであろう。恐らく、「始」は例えれば白紙の中の第一歩を印した場合に使われ、「肇」は言葉の真の意味での「国として整った始まり」はここからだよの意味で使われ、そういう風に識別しているのだろう。大和王朝の始祖とする歴史的位置づけに於いて、二人の天皇は甲乙つけ難い同格であったと云うことであろう。諡名は「歴史の鳥瞰図法」に則りかくも精密に漢字表記され読みまで定められているということを知るべきで、そう云う筆法を解すべきでだろう。諡名は決してエエ加減に付けられているのではないと云うことである。

 付言すれば、この王朝の漢字表記における大和王朝、読みとしての「ヤマト王朝」も然りである。その意味するところ、「大きく和す」と云う意味での「大和」なる漢字を宛(あて)がい、「大和」は漢音でも和音の訓読みでも「ヤマト」とは読めないところ敢えて、この王朝の始祖は邪馬台国であったと理解する意味を込めて「ヤマト」と読ませていることになる。その裏意味は、今後は旧王朝「原日本」勢力を滅ぼすのではなく、その系譜を継承し、和合させる体制にすると云うところにある。これが、「大和」を「ヤマト」と読ませることになった経緯である。ここに歴史の智恵を感じるのは、れんだいこだけだろうか。れんだいこは、「二人のハツクニシラス天皇問題」をかく解する。

 こう解かず、何やら小難しくひねくり廻す論が溢れている。それによれば、崇神天皇の別名「ミマキイリヒコ」に注目し、「ミマ」は朝鮮半島の南部、弁韓、あるいは任那(みまな)を、「キ」は城のことを云うとして、朝鮮の王族が「イリ」(日本に入ってきた)した、あるいは「イリ」とは入り婿のことを云う云々との説が為されている。

 れんだいこはこういう「崇神天皇=朝鮮王」説を否定する。崇神天皇の父は開化天皇、母は三輪系の物部氏である。これによると、崇神天皇は「原日本」三輪系の御子であるところに意味があり、その出自故によってか原日本と新日本の和合を政策にした英明な天皇であるところに値打ちがある。その崇神天皇をよりによって渡来系天皇と見なすのは奇説と云うより重大な誤認論であると云わざるをえない。

 この類の諸説の一つに元東京大学名誉教授江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」がある。この説は、「天神(あまつかみ)なる外来民族による国神(くにつかみ)なる原住民族の征服」を指摘すると云う炯眼な面もあるが、崇神を神武、応神と並ぶ三大渡来系天皇に比しているところに問題がある。「神」がつく天皇は三人いるとして、「神武、崇神、応神」に注目するのは良いとしても、崇神を騎馬民族説の論拠に使うのは歴史盲動の所為であろう。

 ちなみに、「騎馬民族征服王朝説」が定向進化し「失われたイスラエル十支族の末裔説」へと結びつき、まことしやかな日ユ同祖説へと誘われて行く。佐野雄二氏の著書「聖書は日本神話の続きだった!」となると、「崇神天皇の生涯に起こった事を『旧約』と比較するとダビデ王を想起させる」として、「崇神天皇=ダビデ王説」まで至っている。他にも「神武=崇神=応神天皇のルーツがイスラエル十支族であることは疑いないと思っている。天皇家や記紀の真実を知るためには、旧約、新約聖書の知識が必要であることは間違いない」などと述べる者もいる。

 今風の言葉で云えばヤラセが過ぎよう。論は勝手だからお互いに云えば良かろうが神武、応神いざ知らず崇神まで巻き込まないようにしてほしいと思う。本稿を2013年5月連休期の意欲作とする。これまで数々「歴史の紐のもつれを解く通説批判説」を発信しているが本稿もその一つ足り得ているだろうか。

 jinsei/

 ネット検索で「古代史の論点」の「ハツクニシラス考」 に出くわした。これを確認しておく。それによると、井上光貞の「神話から歴史へ」(「日本の歴史1」)、直木孝次郎の「日本神話と古代国家」等によって「二人のハツクニシラス論」が展開されたとのことである。神武紀が「始馭天下之天皇(神武)」、崇神紀が「御肇国天皇(崇神)」、「所知初国之御真木天皇」であることを確認した上で、「二人のハツクニシラス、即ち建国第一代がいるはずがない。神武は架空の存在であり、崇神が真の建国第一代である」としているらしい。

 これに対し、古田武彦氏が、「盗まれた神話」等で、古事記には神武の「ハツクニシラススメラミコト」の称号が存在しない。少なくとも古事記においては、「二人のハツクニシラス論」は成立しない。神武の「始馭天下之天皇」を「ハツクニシラススメラミコト」と読むのは傍訓によるものであり原文に属すものではない。従って傍訓に拠って立論することは史料批判上、根拠がない。神武の「始馭天下之天皇」は「ハツクニシラススメラミコト」とは必ずしも読めない云々と批判し、「二人のハツクニシラス論」に否定的な見地を披歴している。

 これに対し、「古代史の論点」管理人は、史料に基づき、神武は「天皇家」という氏族の始祖であり、崇神が建国者である、真の建国者は崇神であり神武は建国者ではないとの見地を披歴している。同時に、「二人のハツクニシラス論」による、そのどちらかがニセモノであるとする立論から神武架空説を導き出す学究に対し神武実在説を説いている。

 れんだいこが「二人のハツクニシラス論」になぜ注目するのか。それは、三者のこのやり取りを見ても議論がおぼこいと思うからである。本来の議論は、「二人のハツクニシラス論」は成立するのかしないのか、成立するとならばその論拠や如何にを考察することに向かわねばならない。それが、「二人のハツクニシラス論」が成立するのかしないのかレベルの議論に止まっており、「二人のハツクニシラス論」の史的意味の詮索にまで向かっていない。このレベルがあらゆる分野においてもそうであることを踏まえ、もっと謙虚に学究に勤しまねばならないのではなかろうかと思う。

 2013.5.6日 れんだいこ拝
 日本書紀は神武天皇と崇神天皇を共に「ハツクニシラス天皇」としている。これをもって最初に国を治めた天皇が二人もいるというのはおかしいとして崇神・神武同一説が生じる。しかし、崇神・神武同一人物説はためにする説でしかない。日本書紀は崇神天皇の称号を「御肇国」、古事記は「知初国」と表記している。これは五世紀後半に倭国統一国家の形成過程を記した物語(「帝紀」「旧辞」の核になるもの)が初めて筆録されたおり、その初代の倭国王に贈られた称号であろう。日本書紀は神武天皇を「始馭天下之天皇」と号している。これは「ハジメテアメノシタシラシメス天皇」と読むべきであろう。





(私論.私見)