岡潔について語るスレ 2
岡潔先生は、日本が世界に誇ることが出来る多変数関数論を構築された方です。
高瀬正仁『評伝岡潔<星の章>』海鳴社 2003年
「私は長い間、春の訪れを待ち続けた」。日本の草花の匂う伝説の詩人数学者、その面目を今日に伝える詩的評伝。「日本人の数学」の誕生――日本の近代数学の源流「岡潔」の「情緒の世界」
の形成と研究生活を幼少時代から綿密にたどる。評伝文学の傑作である。
生地と故郷 魔法の森 與八とんとん(粉河中学) 松原隆一との別れ(三高と京大)
心情の美と数学の変容 伝説の詩人数学者「岡潔」 トノンの秋と由布院の春
由布院の夏の日々 金星の少女との会話(広島事件) 福良の海と数学の誕生
■岡潔の数学研究が生い立っていく様相を理解するには数学の諸論文を精読するだけでは足らず、人生それ自体の変遷を丹念に追っていかなければならない。人生が研究を育み、研究が人生の相を規定する。生活の中で研究するのではなく、
数学の中で日々の生活が通りすぎていく。真に稀有の例外と見なければならず……
高瀬正仁『評伝岡潔<花の章>』海鳴社 2004年
昭和4年晩春初夏のころ、インド洋をわたってフランスに留学した岡潔はパリで中谷宇吉郎、治宇二郎兄弟に出会い、人生の基調をなす深い友情を結んだ。ガストン・ジュリアに示唆を受けた多変数函数論研究に生涯の課題を定め、トノンの貸別荘で病身の治宇二郎と語り合い、学問の道標を発見して帰国したが、昭和13年6月、広島文理科大学の休職を余儀なくされ、帰郷した。郷里の和歌山県紀見村で孤高の数学研究に身を投じた岡潔を物心両面にわたって
支え続けたのは、中谷兄弟のパリの友情と、大正末の青春期に秋月康夫との間に 生れた三高の友情であった。紀見村の岡潔は父との別れに遭遇し、芭蕉や道元や佐藤春夫に親しみ、江口きちの歌集『武尊の麓』に心情を揺さぶられる日々を送り、カルタンやベンケからのときたまの便りに励まされながら独自の数学的思索を深めていった。昭和16年秋、北大理学部に赴任。12月8日、札幌でハワイ海戦のニュースに接して深刻な衝撃を受けた。翌17年9月、帰郷。昭和23年7月、戦中戦後の不定域イデアルの研究が結実して第七論文が成り、昭和25年、フランスの学術誌に掲載されたころから数学者「岡潔」の真価は広く欧米の数学界に認識され始め、奈良に転居した岡潔のもとにヴェイユ、カルタン、ジーゲルなど、世界の数学者たちが相次いで来訪した。晩年は小林秀雄、坂本繁二郎、保田與重郎、胡蘭成らと交友し、市民大学や葦牙会の提唱など、多彩な社会的発言を繰り広げた。「リーマンの定理」という表題をもつ一連の数学ノートを遺すとともに、宗教的色彩を帯びた回想録「春雨の曲」を書き継ぎながら、昭和53年3月1日未明、数えて78歳で逝去した。
こういう考え方には慣れていないかもしれないけど、数学者に限らず、科学者というものは
いま土星の惑星の上を這いずり回っている探査機ホイヘンスのように、世間からは慣れたところで地味な仕事をしています。そして彼らの集めた真理のカケラが集まって、人類の文明が成り立っているのです。真理を愛する人は岡潔の仕事を知ったとき驚嘆の念にうたれます。彼を論文を
通じてしか知らなかったドイツのある数学者は、Kiyosi Okaが数学者のグループの筆名ではないかと思っていたと言って岡先生を讃えました。このことは私たち日本人の誇りでもあります。日本の文化の誇りでもあります。だから岡先生のことは大切にしませんか。たとえ晩年に神経を弱められたことがあったとしても。
>>62
岡潔は弁榮の信者で光明主義。したがって、法華経は重視しない。岡潔がだれかを成仏させるとしたら、使う教典は、法華経では断じてない。本格的には無量寿経がよろしいかと。墓石に入るというのは特殊な方言で大沢はともかく岡潔は使わない。
■本書は、岡のこれまで知られざる一時代の出来事の解明に成功している。それ は最も独創的な考えを産み出した時期にあたる一九三六年以降の数年である。岡
は当時三十代後半であり、広島文理科大学(現在の広島大学)助教授であった。著者がさまざまな史料によって確認したところによれば、岡は当時明確に「狂気」の境域にあった。私もこの事実を初めて知った。独創的な発想と精神の状態との
関連を知る上で、きわめて重要な研究と言わねばならない。
■岡潔は戦後、文化勲章を受章し、その後は『春宵十話』を始めとする日本の 「民族精神」を称揚する著書を世に問うことになる。人はこの言動で岡の名前を
記憶にとどめているかもしれない。
潔は著作の中で「一人の数学者を客観的に評価するためには、少なくともその人の死後50年経たなければできない」というようなことを言っている。それならば、岡潔の評価は今後にあるということだろう。
1969 年
4月 京都産業大学理学部教授に就任。教養科目「日本民族」を担当。
10月 講談社現代新書から「神々の花園」を刊行。
1971 年
6月頃から「春雨の曲」執筆開始。
1978 年
1月13 日「春雨の曲」の第八稿を起筆。
3月1日 死去。
7月 未完の遺稿「春雨の曲 第八稿」が私家版で刊行された。
9月 旧稿「春雨の曲 第七稿」が私家版で刊行された。
http://homepage3.nifty.com/kyomasu/kawaraban/1243.html
この「春雨の曲」ってどんな作品なんだ? 8年間にわたって推敲を重ねた作品がいまだに出版されないのはなぜ? 岡潔のHPでもほとんど無視されているようだし...
460 :132人目の素数さん:2006/01/12(木) 22:10:49
岡潔さんは、自らから数学が自然に出てこないので、仏教や宗教的なものに頼ってしまった。頼らないと自然に出てこない程度の頭脳という事なのかも しれませんね。
日本で天才を持った数学者とは、 関孝和、高木貞治、岡潔、小平邦彦、谷山豊辺りです。
470 :132人目の素数さん:2006/01/15(日) 04:18:32
岡潔のその業績が主に海外でしか受け入れられなかったことは、グロタンディークらと共に、 世界の数学史にその名前を刻んだ一方で、受け取り手のいなかった日本では
過小評価されてしまう原因になっているような気がします。
岡潔が最大の仕事(不定域イデアル)をした戦時中の段階までは 数学的創造のために「仏教や宗教的なもの」に頼ったとは思えない。 数学から宗教に本格的に転向するのはやはり文化勲章以降では?
その結果、オリジナルな仕事が生まれたわけではないところが重要!
岡潔さんは、自らから数学が自然に出てこないので、仏教や宗教的なものに 頼ってしまった。頼らないと自然に出てこない程度の頭脳という事なのかも しれませんね。
そうしないと、オリジナルが出ないということだから。
岡も学部卒業後すぐ講師になっており、7年講師をつとめたあと 広島大助教授になった時ですら論文はゼロだった。欧州の最先端の 数学が理解できれば、それで十分教官がつとまった。
岡さんは京大講師4年、京大助教授3年だった。 フランス洋行中の肩書きは京大助教授だね。
1925年 京都帝国大学理学部数学科卒業、講師就任
1929年 同大学助教授昇任
1932年 広島文理科大学助教授
1938年 休職
1940年 依願退職、理学博士授与
1942年 北海道大学研究補助員
1949年 奈良女子大学理家政学部教授〜64年定年退職
で、京大助教授だった3年間がほぼフランス留学。
岡の原理ですが、 たとえ話でいいのでしたら次のようになります。 折り紙で、ある形(例えば鶴)を折って作ることを考えます。 紙を折るのですからゴムのように伸ばしたり縮めたりせずに作るのですが、
もし仮に伸縮自在な折り紙があればもっといろんな形を作ることが出来ますね。 さて次の問題を考えましょう。 作る過程で伸縮を許して出来上がった折り紙に
元の折り紙を伸縮変形した部分が無ければ その形は普通に紙を折ったり開いたり曲げたりするだけでも作れるだろうか、
答えは YES だと思いますが私には厳密な証明はわかりません。 岡の原理はこれよりもう少しこみいった、二つの数学的な手続きについてのもので、
ある種の自由度の大きい変形で移り合えるものは、 実はもっと制約を加えた変形でも移り合うのだということを保証する定理です。これが多変数関数論において非常に基本的なので、
『 岡の原理 』と呼ばれるのです。
もう少し補足説明をしてみましょうか。 折り紙で、鶴を折って作ることを考えます。 普通の様にして折って出来た鶴を 『 解析的な鶴 』 と呼ぶことにしましょう。
次に、折り紙がゴムのように伸ばしたり縮めたりすることが可能な伸縮自在な 用紙であったと仮定します。 そして、この伸縮自在な折り紙を使って出来た鶴を
『 位相的な鶴 』 と呼ぶ ことにしましょう。 当然の事として出来た 『 解析的な鶴 』 と 『 位相的な鶴 』 は異なる訳であります。 『
岡の原理 』 とは数学的に考察すれば 『 解析的な鶴 』 と 『 位相的な鶴 』 は同じ鶴である と主張するものであります。 つまり、『 解析学の事柄が位相的考察からも導けますよ
』 と岡潔先生は言って居られるのです。GAGA 教授、如何でしょうかね?