保田與重郎の時評その1

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).3.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、保田與重郎の履歴を確認する。「ウィキペディア保田與重郎」、「保田與重郎略歴」 その他を参照する。

 2012.06.21日 れんだいこ拝


【「農村記」】
 保田輿重郎は昭和二十四年に「農村記』の中で書いてゐる。
 「小作農家は闇で売った米の他に、必ず公定価並あるひは以下で与へねばならなかった米を納屋から出し、個々にはさほどに悪質ではなかったやうである。しかし専ら闇利潤をあげる方へ廻った悪質の新興農家たちは、いちはやく地主の開放土地を買ひとり、初めは社会党のひろめ屋らしい顔を示して、新円階級の自衛に当ってゐたが、昨年の秋ごろからは、税金といふ強敵のために、今度は共産党をよんで演説をうたせようなどと、まともに相談してゐた。これは近村の話である」。
 「小農状態の維持が、結局貧困の維持だといふ独自な諦めの論理が、農村の父の道徳としてヒステリー的に保持せられてゐるのである。しかも父が支配者でも絶対者てもないから、一層状態をこじらせる。さういふいびつさは、生活面の近代化論が克服解決しさうに見えるが、個々の事理を、個別的におしつめてゆけば、広範な規模の問題としてしか、手がつけられぬといふことがわかる。目の前にあるやうな農村の危機についての考へだけを云うてゐるのではない。つまりそれは米作地帯の共通問題だったのである。家族的な最も下等なきたならしさ、不快さ、不潔さ、退屈、嫉妬、羨望といったもの、その原因を生活面の近代化で解決することは、不可能と云はねばならない。問題は近代化が可能かといふ課題から一歩も出てゐない。今では全然別の精神の原理がなければ、一つ一つ理論的に解決していっても、最後に残るものは、最初の出発点だったといふ結果となること必定である。一切の近代の革新思想が次々に実現されても、あらゆる宗教書の第一項に書かれた、人間の原罪的な悲劇や悪は滅却しないのと同じ事情である」。
 「既成を信ずる必要はないかもしれぬ。人を説服しうると考へる必要もない。説いても理解されぬことが多いであらう。さういふ一切の自負を捨てよ。人に期待する勿れ。神を信じよ。己の神性を確め、それが人の神性と結ぶ信を信とせよ。観念の神をたてて、道が一つなることを信ずるまへに、神ながらの生活の道に於て、一つなる実体の道を生きるべきである」。

【「絶対平和論/明治維新とアジアの革命」】
 保田與重郎「絶対平和論/明治維新とアジアの革命」(新学社・保田與重郎文庫)は、1950(昭和25)年、41歳の時に綴られ、祖國國社より発行する「」に無署名稿で掲載された。同誌に掲載されたものが無署名稿に前記・後記を付して年末に刊行された。著者名はなく,「著作兼發行者祖國社」とのみ記されているのは,著者が公職追放中という事情による。「左翼的な政治平和論議が横行支配する時代に抗して,近代戦に敗れた意味を反省し,平和の礎は東洋的生産生活と無抵抗精神への回帰にしかないと問答体で訴えた文章である」。

 「近代とはデイアレクテイクだといふことは出來ます。近代史の進展、近代人の生成、近代人の支配形式、權力樣式、陰謀霸道、それらはすべてデイアレクテイクです。デイアレクテイクによつて説明されます。人智の不安定、人力の空しさの證です。(中略) 近代は弁証法的であり、それは永遠と絶対のうちに存在しない。具体的にいえば権力と財貨を所有せんとする『物質に基づく世界』の原理が近代である。たとえば、共同体と共同体のあいだ(マルクス)、単線的な時間における技術革新(シュムペーター)によってそれがつねに発展してきたことを想起すればよい」。
 「一言につゞめて申しますと、その生活からは戦争の実体も心もちも生れない、平和しかないといふ生活、さういうふ生活の計画を先とする平和論といふ意味です。その生活からは戦争する余力も、必要も、さういふ考へも起つてこないやうな、さういふ生活をまづ作らうといふ考へ方です。これをもう少し説明するために、我々は二つの命題を立てることが出来ます。一つは近代とその生活の不正を知り近代生活を羨望せぬこと。次に(第一の命題の確立のために)近代文明以上に高次な精神と道徳の文明の理想を自覚すること。この第二の命題を別の言葉で申しますと、アジアの自覚とアジアの理想の恢復といふことです。このアジアの理想は、アジアの本有生活の道の指すものであります」。
 「無関心といふのは、近代を生きてゆくといふ上で無関心といふ意味でありません。つまり自衛手段は講ずるといふ関係で、本質の精神や理念上では無関係だといふことです」。
 「改正憲法の眼目の一つは第九条の戦争の抛棄で、一切の武力を保持せず、自衛のための戦争をも抛棄するといふものである。これについては、自衛権や自衛戦争は否定してゐないといふ解釈があったけれども、草案審議のときに、共産党の野坂参三議員が、「自衛戦争は正義の戦だ。この案において自衛戦争まで抛棄してゐるのは行きすぎではないか」と質問したとき、吉田首相は「国家の正当防衛権による戦争は正当なりとせられるやうであるが、私はかくのごとき之とを認むることは有害であると思ふ」といふ趣旨の答弁をした。  外交官出身の吉田茂に、戦争抛棄についての何らかの信念があったわけではなく、自衛戦争であらうがなからうが、他国の疑惑をすこしでも招く条文はよくないといふ外交官的配慮が優先したのであらう。ともかく、占領の早期終結と講和の実現が吉田茂の頭を占めてゐた使命観であつた。

 第九条は、その考へ方の根本において、前文の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」といふ部分に立脚する。これも奇妙な日本語である。平和であれ何であれ、およそ「崇高な理想を深く自覚する」者が、自分の「安全と生存」を他人にゆだねようと「決意」するなどといふことは、正常な人間精神の本来からすればありえないことである。理想の「自覚」といふものはさういふ他力本願を拒否するものである。さういふおめでたい他力本願を抱くことは、ことさら「決意」といふ悲痛な心のはたらきを必要としないのである。

 戦争か平和かといふ二者択一の論議は、すぺて情勢論であって、これがやがて東西二大陣営の対立の激化といふ情勢にうながされて、アメリカにつくかソ聯につくかといふ国際政治論議に横すべりした。平和といふものが、戦争の休止状態であるといふ認識の地平では、それは理想たりえないものである。あるいは、平和が人間生活の相対的な幸福をもたらすといふ観念は、理想の名にあたひしないものである」。
 「それも「近代」といふものに対して何らの懐疑も表明しなかった十九世紀的観念です。そして近代の繁栄と幸福の維持拡大といふ考へ方を根本にしてゐると考へられます。この点でその平和論は非常に不安定です。おそらくその点からくづれる可能性があります。それは分離した政治的結論の羅列に終わってゐるのです。原則の思想と分離した、政治的もしくは政策論的結論を羅列してゐるからです。

 そこで一番問題になる第九条ですが、それには「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決すり手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあります。この項目は「正義と秩序を基調とする」とある前提が、実に暖昧な表現であります。不安定であります。

 これは憲法前文中の「日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるのと同じ考へですが、いづれも不明確な表現で「公正」と「信義」に対し、当然アジアの発言を予想すべきです。さらに念願するとか信頼するといふことは具体的な手段でなく、又具体的な生き方の指示とはなりません。要するに世界に文明の理念はただ一つしかないといふ軽率な考へ方に立脚し「近代」の考へ方を唯一のものとして考へた思想の表現です。これは実に困ったことですが、結局は事大主義の現れなのであります。これは実に困ったことですが、結局は事大主義の現れなのであります」。
 「日本の生民に絶対的な世界に於て、天皇はいつも、「知ろしめす」と云ふのです。旧い時代、将軍は「領(うしは)き」天皇は「知ろしめす」と、その二つの世界を別ったのです。それは本居ら国学者の思想上でした仕事です。「領く」形式を一排し「知ろしめす」形一つに変革せねばならぬと唱へて、明治御一新に、不抜の方法論を与へたのです。それが復古の意義です、つまり国家体制を基本の一つにかへす ( 滅んだ昔にかへすのでない意味はわかるでせう ) 、決して主権と支配権の奪取を意味したのでないのです。しかし以前は愛国者と云った連中が、このけぢめを理解せず、本居らは幕府に妥協してゐたと云ひました。彼らは御一新時に、天皇を将軍の位置におきかへる工作をした野望家たちのエピゴーネンだったのです。維新後は、本末軽重を間違った人々によって「知ろしめす」天皇を「領く」将軍の地位へ下さうとしたのです」。 
 「十九世紀ヨオロッパの人文思想の最高良質のものが古代ギリシャへの郷愁に根をもつことを思へば、極東の敗戦国の窮乏の中で一文人が古代日本の伝説と神話を機縁に抱いた絶対平和の生活実体といふ思ひを、はかないユートピアとして無視することはできないであらう。ひるがへって思ふに、その念願に別の方法をあたへるとき、それは日本の『国民的抵抗線』になるであらう。別の方法とは、絶対平和の理想である。生活の瞬間が永遠であり、最悪事態の予想の上に安心を得てゐる精神である。現にもし我々が、侵略国の軍隊を迎へたやうな場合、反抗しない、共(ママ)力しない、誘惑されないといふ形を守るには、戦車のまへに横臥して、なすにまかせるといふ、大勇猛心を振ふ位の夢のやうな決心が必要なのです。これは日本国憲法を作ったすべての人々が、もし彼らが正気だったなら、それをよみ上げた日にした決心だと思ふのです。さういふ理想に殉ずる聖者らは、武器をとる勇士に比べて、比較にならね大きい勇気のある人々です。しかし彼らは夢のやうな人々と云はれるかもしれません。だからさういふ聖者らは、かういふ無惨さをみかねて、武器をとって代りに侵略者をこらしめ、代りに防いでやらうといふ人々を、心からの感謝をもちつゝも、拒絶するだらうと思ふのです」。
 「日本はもともと平和な『くに』であった。東洋における『くに』とは、ある一定地域と人口が、平和の基礎となる生活に入った時に、これを『くに』が生れたという。(中略)三千年の歴史に於て、『文化』の実体は、つねに『くに』の『盛典』が表現した。(中略)文化が人にあらわれる前に、国として現れることを彼らは誤解した。米作は水に従い、天候に従い、そうして個人のつつましい力の限度に従ってきた。そこに神に委任を受けて耕作するという「事依さし」の思想が生れる。神と人々がつねに共同に働いている。大祓詞の罪状の中にも天つ罪として規定されたものは所有権上の罪でなく生産妨害の罪。わが古制においては、この所有権という考え方がなかった。『事よさし』に則ることを主張した。(中略)日本の本質社会は、一から始まって末広がりに国になったのです。維新後は、本末軽重を間違った人々によって、『知ろしめす』天皇を、『領く』将軍の地位へ下そうとした」。
 「我々は偽瞞や脅迫や煽動といった、すべての近代の政治的運動に付随した必要のものを、我々の原理から否定した。(中略)それが日本の本質。(中略)つねに良心を緊縛しています。覚醒せしめます。一度道徳を知った人は、つねに良心を意識して、日常性の中に生きることでしょう。それで十分なのです。(中略)どんな不幸と危険がきても、決して滅びないのです。(中略)近代国際社会の「完全主権」というものの表象する国という観念の寿命は、もう一般的にその先が見えています。この運命を防ぐ方法も防げる人もいないでしょう。(中略)我々の道徳と生活が、そのありのままに行われていた日の「くに」という観念は、生活と道徳を共通にした集団の意味でした。しかもその生活と道徳は即身一体でした。近代が衰亡する日は、我々の『くに』の恢弘する日です」。
 「日本の近代史への反省を、我々は『文明開化』を否定するという形で現したのです。大久保、福沢の系統をひく日本こそ、所謂『軍国主義』として、今日の列強から否定された日本の根本思想だと云うた。(中略)日本は「近代」を最も正しく懸命に学びました。己を零としてヨーロッパを学ぼうとした結果がこの敗戦となったのです。(中略)しかし日本には「東洋の理想を了解した多数の人々が生きていた。(中略)彼らは「近代」を文明の理想と考えていません。(中略)我々の精神上の先人とはそういう人々をさします。彼らはそういう自衛は第二義的である。第一義の理想を忘れるなということを懸命に唱えたが、文明開化派のために受け入れられなかったのです。彼らは攘夷家と呼ばれました。(中略)彼らの考え方は本質上で、道徳の見地から東西文明の優劣をのべたのです。彼らへの誤解の原因は、ものごとを知らない小説家と活動写真の脚本家が作ったのです。活動写真の影響をそのままうけて歴史観と立てている者らが、この国ではインテリゲンチヤと称しています。(中略)この系統の人々の気分に思想の言葉と方法を与えたのが、岡倉天心です。しかしこの系統の思想を持しつつ、世間を隠遁せず、時務を論じて説をなした人々は、戦時中戦後を通じてあくまで理解されず、簡単に反対のものに誤解されています。慨(なげかわ)しいことですが、現状から考えると当然のことでしょう」。
 「日本人は平和を守るべきです。しかし新憲法の基本思想に立脚しては、その第9条を守れません。日本の中立を持することは、平和の本質論に徹し、本質的平和生活を敢行した場合にのみ可能です。これが絶対平和論です。敗戦によって日本は近代の高度工業と、その高度産業組織を一挙に禁止された。(中略)「近代」に逆行させられた。絶対平和生活をなすためには、近代人は大きい犠牲を払わねばならない。困苦欠乏に耐える必要がある。ちょうどよい。(中略) 強いられてなす状態となったということはいささか残念。自覚がないから、くづれ易いが、これを機に、絶対平和生活に入るべき。(中略) 何が入ってきても表から裏へつきぬけさせる、むこうのほうで抵抗を予想するところで、何の障害もなくて、結局つきぬけてしまうような生活。 アジア的農耕の生活の中にある、道義、倫理、勤労観、永遠などの恢弘。この道義の中には、近代観の、所有権、政治、主権はありません。(中略) 戦争に介入する気持が起らぬ生活、介入する必要ない生活」。
 「『やはら』という術は、守ること攻めることを、つとめて外に示さぬ術です。すたすたと歩いている時の、不意の攻撃を、身体も動かさずに反撃し、相手に致命傷を与え、そのままゆきすぎるような状態を理想にしています。(中略)現にもし我々が、侵略国の軍隊を迎えたような場合、反抗しない、共力しない、誘惑されない、という形を守るには、戦車の前に横臥して、なすにまかせるという、大勇猛心を振う位の夢のような決心が必要なのです」。
 「我々は作られた憲法に殉じるのではない。我々の伝えを守るのです。 国全体として絶対平和の道を歩む必要がある。(中略)我々が戦争に介入せぬ生活を国全体の計画として立て、一切の戦争介入の危険を勇気をもって拒絶する以外にない。(中略)一人でも戦争に介入して利益を得ようとすれば、百事瓦解の前兆となる」。
 「吉田首相は講話後も米軍の日本駐屯を希望する、、、。(中略)それは希望でなく自棄です。理論追求上の自棄です。日本人は今こそ、父祖より遠い代々の理念に生きねばならぬのです。(中略)日本人の立場が極めて希薄。日本の同胞についての思いやりがありません。これが第一の致命的欠点。それに彼らは近代生活も今のまま楽しみたい、戦争もさけたいといった、虫の良い考えの間をゆききしている。 今のままの近代生活を維持し、出来れば少し向上させたい。「文化」を愛し、学者の俸給を増し、戦争はさけたい。そういう考え方は、植民地的なものを何かの形で保持せねば不可能なのです。平和の保障とならぬ。彼らは実際生活の上での思想と感情は、必ず戦争の一つの陣営に属さねばならぬものをもちつつ、口さきでは平和を唱えるのです。そうして後になって、新聞やラジオで、瞞された瞞されたとわめくのはみな彼らです。しかし彼らは自分の抽象的平和論が、内容と方法をもたないことをさとり、形勢非となると、多分に共産主義の陣営に近付く傾向があります。日本を謬った者は左や右のものでなく、日本の官僚組織の中枢にいて、官僚に対し最も因縁深い影響力をもった彼ら自由主義者たちこそ最も重いものでした。 彼らは戦争に対しても平和についても、本気で実践的に考えた例がないのです。それが最もよくないところですが、彼らは巧みさと器用さによって、世渡りすることに慣れて、思想というものを極めて甘く考えて了ったのです。彼らはその政治的平和論が論理的にゆきづまると、平和を守るためには国が亡んでもよい、などと平気で云います。確信をもたないもの、現実性をもたない、観念的なものは、口を閉すようにしむけるのがよいのです」。
 「誰でも権力を持ちうる社会か、誰でも金持ちになりうる社会かを作ることが、近代の動きの二つの方向。故にアジアの最もすぐれた者は、みな近代から落伍した。アジアのすぐれた頭脳と精神は、そういう近代の発想を全然しないから、無関心だった。(中略)今の社会のそういう進行に必要な学問が生まれ、学者がでるのです。戦争に関係無かったり、殺戮に重宝でない文化学術は注目されないのです。(中略) 我国の西洋史家というものは、近代の枠を超えられない。(中略)独自な思想家が出ても、岡倉天心のように外国でみとめられぬ限り、日本の学者はこれを黙殺した(彼らは、外国で認められた後も、天心を理解できなかったのではないだろうか) 人間を大量に消耗したり、大量に殺戮する機械と事物の発明に於て、アジア人はヨーロッパ人に敗けたのです。(中略) 「近代」の生活と思想は、戦争の母胎です。それは「植民地」−「市場」がなくては成立しない「時代」です。(中略) 近代において「人間はすべて奴隷です」、「近代とは人間を人間以下にする機構です」。

【「政治的不満の表現に現はれた封建制」】
 1955.8月の「新論」の題名「政治的不満の表現に現はれた封建制」 の中で次のように述べている。
 「新聞紙の投書欄などを見ると、生活上の不都合や苦しみの一切の責任は、政府にあるやうに云つてゐるものが多い。特に都市生活者にそれが多いのである。政府の失敗を批評することはよい。しかしそれらの投書には、よい政府がどこからかふりわいてきて、それが善政をしてくれることを願つてゐるやうな考へが、根本にあると見られるものが多い。このやうな考へ方に・・27 は、極めて危険な面もある。それは政治上の独裁主義や、共産主義の全体主義の宣伝につけこまれ易い気持ちである。[…]  今日の政治に対する不平や不満や注文を云つてゐる素朴な人々の気持をおしつめて、合理的に考へてゆくと、政府といふものは、善政をしく独裁がよいと考へてゐると断定せねばならないやうな場合が多いのである。これは実に注意せねばならぬ人心の状態である。論理が未熟で合理性にかけてゐるからさういふことになるのだ。[…] 一言でいへば、さういふ人々には合理的な思考が欠けてゐるのである。科学的でない。もつと簡単にいふと、自己の啓蒙がされてゐない。啓蒙がされてゐないから、自分で考へる代りに、他人のことばにたより、自分から前途をきり拓いてゆくことを考へる代りに、他人に求める。自分のことを自分でし、自分のことを自分で判断するといふ考へ方がうすいのである」。

【「日本共産党礼賛」】
 アイロニイそのものの題名「日本共産党礼賛」 ( 昭和40年) の中で次のように述べている。
 「日共の態度は一貫してゐる。日本に革命を起すには、中共による核の圧力は望ましい事だといふ、唯それだけです。文化だの平和などといふ甘ちょろい事を考へてはをりません。一方、極く最近、米国が日本、印度などアジアの非核武装国家を米国の核を以て防禦するといふ新安保体制を検討中だといふ記事が新聞に出た処、早くも知識人の間に、それも必ずしも反米ではなく、寧ろ反共と思はれる人々の間に、とんでもないといふ声が囁かれてをります。私には全く解らない。日本も核兵器を持つ様になり、世界中に核の拡散が起る現象に反対し、しかも米国によって守られるのも厭だと言ふのは、他国から核兵器攻撃を受けても黙って堪へ忍ぶといふ絶対平和主義以外の何ものでもありますまい。それなら、それをはっきり言ひ、国民に納得させて掛らねばなりますまい。しかし、彼等の絶対平和主義は彼等自身、それだけの激しい覚悟があっての上での話ではなく、絶対平和主義で何とか行けるだらうといふ情勢判断に立ってゐるだけに、言換れば、この極端な理想論を現実論と心得てゐる処に矛盾と危険とがあります」。

【「自主獨立の眞精神」】
 1965.8.1日付け「教育日本新聞」の題名「自主獨立の眞精神」 の中で次のように述べている。
 「人間の本来の姿は、自主獨立である。自主獨立のゆゑに、共同体をつくることができるのである。しかしさうした人間本来の姿も、いつか、さまざまの條件と理由で、歪められ、自主獨立といふことが、名実ともに失はれる。自主獨立をまもるためには、正しい生活の努力とともに、人間らしい思ひやりが、十分にはたらいてゐなければならぬのである。己自身といふものを知り、自ら反省するためには、何よりもこの自主獨立といふ精神から考へねばならない。

 本来の日本の国がらは、稲作の農業を基本としたから、自主獨立といふ考へと事実が生活そのものの中にあつた。さらに共同体といふ精神もその生活と生産のしくみの中でおのづからに育成された。それは必要だつたのである。所有といふ点においても、おのづからの節度があつた。水田を所有するといふ形は、牧場をひろめるといふ形より、自然につつましい限度のあるものであつた。この自主獨立といふあり方と、その上に立つ共同体といふくらし方は、今日でも人道の公道である。教育の眼目とすべきものである。この立場の考へ方から、今日世界的な風潮である福祉国家といふ思想に対して十分な配慮をなすことは、わが教育の現下最も大切な問題である」。

【「自主獨立の眞精神」】
 1965.9.11日付け「教育日本新聞」の題名「安易な依存心を排す」 の中で次のように述べている。
 「個人の生活のすべてを国家に依存し不満を国家に要求するといふ考へ方は、今日では、「福祉国家」といふ思想などもあつて、疑はずに受けいれられてゐるが、この考へ方は一歩にして乞食根性となる考へ方である。乞食根性は奴隷根性より下等なものである。そして今日「根性」といふことばで云はれる観念とその実態はこの二つの種類の「根性」に近い色合を多分にふくんでゐる。・・教育を理想の上からいへば、根性といふ類の意志を排し、尊い人間性の本質をみいだし、それに生きることにある。さういふものを求める遺志だけが、意志として尊ばれるものだといふ道理をさとらせることは教育の眼目である。[…] 学問の最終目的は、人道を確立し、人間の尊厳を自覚するところにある。これは道徳の樹立といふことである。さういふ第一義の目的を明確にした上で『すべての教育は国家がなすべきだ』といふ議論もくみ立てられねばならない。国家が行ふといふことは、納税者の負担に他ならないのである」。

【「自主獨立の眞精神」】
 1966.9.21日付け「教育日本新聞」の題名「自主獨立の教養」 の中で次のように述べている。
 「さきの内閣が、高度成長政策を唱道してゐた時、この思想に反対し、一般に経済優先の考へ方は、政治を喪失するものなることを憂ひたものが少くなかつた。この考へ方の根源は、政治は仁にして人道、すなはち道義であるといふたてまへの東洋思想だつた」。

 「今日の世相の議論の立て方をみると、悪いことの原因は、みな根本は政治にあるといふ。しかし目下のわが国のたてまへは、ほぼまともな民主主義を大本として、世界で数少い自由の国である。かういふいひ方は無反省であり、また怠慢にすぎる。古い東洋の政治思想では、天災地変の責は政治にあつて、宰相の責任に帰せられた。人力を以て如何ともなし得ない、天地自然の異変災害の責は宰相の負目にて、今日いはれる政治がわるいからなどといふ時のその事態は、すべて自主的にまたしばしば民主的に予防され、そして解決せられた。これが古来の東洋風の共同体とその民本精神の実相であつた。古来の為政者の天に対するの責任を解除したことによつて、すべての民衆は、各自の自主的な努力と、個人生存上の責任を自分らの方でも解除したのが現状である。[…]新憲法の出現した状態、さらにその思想が、ものごとのなり立つ政治や、歴史に於ける人間のしてきた努力に重点をおかず一切を信頼心におき、ただ軽薄な抽象的美徳の羅列主義に終つたことも、遺憾なことである」。


【「日本史新論」】
 1984年、「日本史新論」(新潮社)の中で次のように述べている。
 「由来わが国憲の基本は道徳にして、所謂近代の政治を基とせぬ。しかも今日の学芸、言論、芸能、報道等の一般傾向が、極めて偏向的である原因は、余りに政治的にすぎるからである。しかもその政治的といふ傾向は、人文と教養と品格の低下を原因とする。明治時代に於ては根柢的教養の確立したものが人格としてあつた。当時の教養は人格形成と一体だつた。今日は、人間に逃避し、努力を伴ふ教養は低下し、人格形成の考へ方は一掃せられてゐる。人格上の責任と云ふ考へ方を喪失し、自己の責を逃れ、一切の責任を外に帰する。わが教職員組合員らは、小学生の盗癖の処置に於て、それを政府と政治の問題に帰すといふ如き論法をとるのである。かうした形で問題を政治的にし、政治や政府を問題とする何の理由もない日常問題に於てさへ、必ずそれに問題をもちゆかねば安心しないといふ現象がある。これは一般的な後進国性の現れであるが、適確に云へば、人格と教養の低下である。また人間として自主精神の喪失である」。





(私論.私見)