三島事件の核心真相有益諸説考その3

 (最新見直し2015.02.1日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「三島事件の核心真相有益諸説考その3」をものしておく。

 2015.02.01日 れんだいこ拝


【三島由紀夫は暗殺されたのではないのか?】
 1970年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地総監室で益田兼利陸将を人質に籠城した三島由紀夫は、楯の会選抜メンバーである森田必勝とともに割腹自殺を図ったとされている。三島由紀夫は本当に割腹自殺を図ったのだろうか。誤解を恐れずに言えば、二人は暗殺されたのではなかったかと疑っているのである。

 三島由紀夫割腹余話
 http://www.geocities.jp/kyoketu/6105.html
 「楯の会の制服を揃って着込んだ三島と若い部下たちは、車で市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に向った。三島は東部方面総監益田兼利陸将に午前十一時に面会を申し込んでいたので、一行は到着すると直ちに総監室に通された。二、三分雑談したあと、前もって打合わせておいた合図に従って、三島の若い部下たちは、なんの疑念も持っていなかった益田総監に飛び掛って縛りあげ、机や椅子などで部屋の入口を塞いだ。そして、外で唖然としている幕僚らに対して、四つの要求を書いた紙を、ドアの隙間から滑り出させた。三島は、これらの要求が入れられなければ総監を殺し、自分も切腹すると脅迫していた。混乱した幕僚たちは武器も持たずに二回、室内の様子を見に押し入ろうとしたが、三島はまず彼らを威しつけ、刀を振り回して数人に怪我を負わせて、追い出した。暴漢となった作家の一行が本気であることを知った責任者は、捕われた総監の生命を気遣って、要求を受け入れた。彼は三島の演説を聞くために市ヶ谷駐屯地の全隊員を正午前に集合させること、午後一時十分までは何が起こっても妨害しないことに合意した」。
 「『三島は、これらの要求が入れられなければ総監を殺し、自分も切腹すると脅迫していた。』という部分は、言い換えれば、三島由紀夫の切腹は益田兼利陸将の死と引換であるということである。三島は大儀に従って自衛隊幕僚幹部を殺害し、その責任として切腹を持ち出している。つまり、三島由紀夫には切腹する条件があったわけだ。実際には、益田兼利陸将は怪我ひとつ負うことはなかった。三島由紀夫と森田必勝は何をもって割腹自殺したのだろうか。三島由紀夫は眼下の自衛隊員にクーデターを呼びかける檄文を巻き、正午きっかりに演説を始めた。注目するべきは、三島が要求したのは13時10分までは何が起こっても妨害しないこと、だということだ70分間の時間的余裕がある。演説の予定は30分。40分余っている。三島由紀夫は自衛隊員にクーデターを呼びかけること以外に、何かをしようとしていたはずだ。

 さて、三十分を予定していた演説であるが、報道ヘリの音や自衛隊員の野次に妨害され、三島由紀夫は7分で切り上げることになる。この直後に、三島由紀夫は総監室で割腹自殺を図り、古賀浩靖(荒地浩靖・生長の家の幹部)に介錯され首を刎ねられることになる。要求にあった13時10分まで、大分時間を残していた。三島由紀夫は、残された時間で”何かを成し遂げようとしたところで暗殺された”のではなかったか。例えば、それは、益田兼利陸将の殺害行為である。演説を早々に切り上げ、三島由紀夫は人質である益田兼利陸将を殺害する為に総監室に引き上げてきた。その時すでに見張り役の楯の会選抜メンバーと益田兼利陸将との間に取引があったのではないか。三島由紀夫の割腹自殺を目撃したのは、楯の会選抜メンバー四人(森田必勝を抜けば三人)と益田兼利陸将だけである。口裏を合わせれば、割腹自殺として処理されるだろう」。
 「三島の短刀による傷はへソの下四㌢ぐらいで、左から右へ十三㌢も真一文字に切っていた。深さは約五㌢。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所あった。森田は腹に十㌢の浅い傷があったが、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。略~ 検視に立会った東京大学医学部講師・内藤道興氏は、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話した。略~ 死因は頚部割創による離断。左右の頚動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、死後二十四時間。頚部は三回は切りかけており、七㌢、六㌢、四㌢、三㌢の切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五㌢の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はへソを中心に右へ五・五㌢、左へ八・五㌢の切創、深さ四㌢、左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長百六十三㌢、四十五歳だが三十歳代の発達した若々しい筋肉。森田必勝(船生助教授執刀)については、死因は頚部割創による切断離断、第三頚椎と第四頚椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの左七㌢に深さ四㌢のキズ、そこから右へ五・四㌢の浅い切創、ヘソの右五㌢に切創。右肩に〇・五㌢の小さなキズ。身長百六十七㌢。若いきれいな体をしていた」。

 三島由紀夫の検視によれば、切腹の傷はへその下4センチの位置で真一文字に13センチ、深さ5センチだったという。切腹の傷は腸がはみ出るほど深く割かれていたという。検死医は「意気込みの凄まじさ」という精神論で説明しているが、はたして自らを腸がはみ出るほどの深さに腹を切り裂くことが可能なのだろうか。さらに言えば、切腹は介錯を前提に考えれば、腹を切る行為はあくまでポーズであって、傷を付ける程度で良いのである。さらに、『右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五㌢の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ』という部分は、どうも後ろから襲撃された事を想定させるものである。森田必勝の検視結果も興味深い。頸部は一刀両断されているものの、腹部には複数の傷があった。介錯人がいるのに自分で何度も腹に刃を突き立てたのだろうか。

 酒鬼薔薇聖斗事件では、被害者の頭部が友が丘中学校の校門に置かれている。両目は繰り抜かれ、口は耳元まで割かれ、まぶたにバツ印。ハロウィンのかぼちゃのごとく、異常な細工が施された頭部は三島由紀夫と同じように公衆にさらされた。
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三島由紀夫は組織に見せしめとして暗殺されたのではないか。後に語り継がれることになる壮絶な割腹は、偽装工作されたものではなかったか。三島由紀夫の暗殺を割腹自殺に偽装するのは簡単である。そう考えると、酒鬼薔薇聖斗が頭部を校門に晒した理由も見えてくる。日本国民に見せしめられた三島由紀夫の生首を想起させ、脅威な存在や思想の芽を摘むためである。

 三島由紀夫の檄文コピー: 多摩湖畔日誌(写真略す)
 http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-e950.html
 (中略)以下の動画は一水会と楯の会の罵り合いが記録されている。「一水会と楯の会の罵り合いビデオ」。つまり、そういうことなのである。
(私論.私見)
 この推理はかなり重要である。三島事件に生長の家が関係していること、神戸連続児童殺傷事件の際に登場した「酒鬼薔薇聖斗」が三島事件に対する当てこすりをしていること、「一水会と楯の会の罵り合い」は、どう読み解くかは別にして踏まえねばならない観点だと思う。

 2013.9.27日 れんだいこ拝

【無視できない影の自衛隊部隊考】
 元自衛隊陸将補・山本舜勝氏の著「自衛隊影の部隊—三島由紀夫を殺した真実の告白」(講談社、2001.6月初版)を確認する。 「戦後史最大の謎」とされているが「最大の謎」ではないだろう。但し、「重大な謎の一つ」であることは間違いない。 著者の山本氏は、三島事件当時、共産党が「影の軍隊」と糾弾する「自衛隊調査学校」の副校長を務めていた。三島由紀夫とは「楯の会」の指導を通じて知り合い、その思想と行動倫理を最もよく理解していた人といわれている。しかし、自衛隊を「国軍」として認めない現行憲法体制の打破と、日本の伝統と文化を守る祖国防衛体制の確立を唱えていた三島が、やがて割腹自殺に至る紆余曲折を、つぶさに見ながら沈黙していた。その山本が、81歳になって、「胸の奥深くに封印されまま、永久に葬り去られるはずの真実」を明かすとして書き上げたのが本書である。 「人生の意味を否定されたとき人が見るという漆黒の奈落を、八十一歳にして初めて見た」からだという。「漆黒の奈落」とは、1954年に情報機関員の養成と対諜報活動の調査研究を目的に設立された「自衛隊調査学校」が2001.3月に解体されたことを指している。山本は、「あのことを語らねばならない時が来た…」と述べている。  山本は「三島の心の叫び」にこたえることができなかったわが身を深く悲しみながら、三島とのかかわりをすべて告白している。出版社の内容紹介は「自衛隊クーデター計画衝撃の内幕!三島が傾倒した元将官が書く慟哭の手記、これで三島の魂は初めて自由になった」とある。
 「私は退官をしても、元情報将校としての責任を放棄することはできない。私は、すべての国家機密に類する情報を、墓の向こうまでもっていかなければならない。そう考えてきた。それでも私は、決して明かしてはならない最後の部分に触れずとも、そのぎりぎりのところに踏みとどまることによって、三島に対する誤解を解き、その真意を伝え、名誉回復を図ることは可能であり、また日本の国家防衛のあり方についての論議に一石を投じることもできるだろうと考えていた。だが、本稿を書き進めるうち、三島の真実を明らかにするためには、その最後の部分に触れずにすますわけにはいかないという思いが募ってきた。そのことを語らなくては三島にすまない、その霊を鎮めることはできないと思い始めたのである。さらに『この恐るべき事実を闇に葬ってはならない、国民に知らせなければならない。情報将校としての禁を犯しても、すべてを語らなければならない』やがて私はそう確信するに至った。クーデターは行われるはずだった」(前者の著書)

 但し、内容のほとんどが三島との思い出話しで、「すべてを語らなければならない」と構えながら、題名の「三島由紀夫を殺した真実の告白」は何もなされていない。著者が控えたのか、原稿が書き換えられたのかのどちらかであるが真相は分からない。
 山本舜勝( きよかつ)氏につき、「ウィキペディア山本舜勝」その他を参照して確認する。
 1919年2月28日、教員・山本泰勝の三男として生まれる。愛知県出身。青島日本中学校を経て、1939年(昭和14年)9月、陸軍士官学校(第52期)を卒業。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。千葉陸軍戦車学校で丁種学生、乙種学生として学んだ。1941年(昭和16年)11月、戦車第12連隊中隊長に就任。戦車第1師団参謀部付、千葉戦車学校教官などを経て、1944年(昭和19年)12月、陸軍少佐に昇進し陸軍大学校(59期)を卒業。参謀本部付勤務(支那課)を経て、1945年(昭和20年)3月、情報機関である陸軍中野学校研究部員兼教官に就任し終戦を迎えた。同年8月、予備役編入となる。
 戦後、1952年(昭和27年)7月、警察予備隊に入隊し、アメリカ陸軍やアメリカ特殊戦学校に留学。帰国後、のちに日本共産党が「影の軍隊」と糾弾する、1954年(昭和29年)に設立された陸上自衛隊調査学校(東京都小平市、現・小平学校)の「対心理情報課程」創設に携わり、1967年(昭和42年)3月、同校教育課長、1969年(昭和44年)7月、同校副校長に就任。1972年(昭和47年)2月に陸上自衛隊を退職。元陸将補。

 1967年(昭和42年)に「楯の会」の指導を通じて三島由紀夫と知り合い、交友を結ぶ。山本は「楯の会」の事実上の指導官であった。「新宿騒乱事件」につながった1968年(昭和43年)10月21日の国際反戦デーの集会では、調査学校の学生と「楯の会」のメンバー計数十人が、山本の指揮で学生らのデモ隊の中に潜入し、組織リーダーが誰かなどを調査する訓練を行っていた。「楯の会」が皇居に突入する「クーデター計画」を三島に示されるが、山本は反対する。この計画は1970年(昭和45年)11月25日の三島事件のひな形と推測されている。

 退官後、三島に関する著書を執筆、発表する。主な著書として「三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦 市ケ谷決起への道程と真相 」(日本文芸社、1980年)、「君には聞こえるか三島由紀夫の絶叫」(パナジアン、1982年)、「サムライの挫折」(三幸社、1985年)、「三島思想 天皇信仰 歴史で検証する」(元就出版社、1994年)、「自衛隊影の部隊 三島由紀夫を殺した真実の告白」(講談社、2001年)。 2001年7月9日)、没。

 山本 舜勝氏(やまもと・きよかつ=元陸上自衛隊調査学校副校長、元陸将補)9日午前5時19分、心筋こうそくのため東京都目黒区の病院で死去、82歳。愛知県出身。自宅は目黒区八雲3-31-7。葬儀・告別式は近親者のみで行った。喪主は妻誠子(まさこ)さん。

 作家の故三島由紀夫氏と交流があり、今年6月に出版した手記「自衛隊『影の部隊』-三島由紀夫を殺した真実の告白」で、三島氏から自決事件前に計画を知らされていたことや「楯の会」メンバーらに訓練を受けさせたことを明らかにした。

 「★阿修羅♪ Ψ空耳の丘Ψ13」のasahi氏の2001.5.25日付け投稿「三島由紀夫と楯の会に、自衛隊が情報員訓練 元幹部証言」。
 文豪・三島由紀夫は25日で没後35年(2005年)を迎えますが、三島を祭った神社が作られていたことが明らかになりました。年に1度開かれる慰霊祭に初めてカメラが入りました。これまで「三島由紀夫神社」の存在は、たびたび研究者たちの間で噂に上っていました。しかし、その実態はベールに包まれていました。その神社はなんと、民家の中にあると言うのです。中略 神社設立の裏には、ある自衛隊幹部の存在がありました。三島と生前、親交のあった山本舜勝陸将補です。三島由紀夫は自決に至る3年前から富士山麓で自衛隊とともに軍事訓練に熱中しました。その際の指導者が山本陸将補でした。山本陸将補は三島からクーデター計画を明かされ、ともに立つことを求められたがこれを拒否。結局、三島は「楯の会」のみによる単独決起の道を選んだのです。中略

 山本陸将補は「楯の会」幹部とともに慰霊の場所を探しました。そして、軍事訓練の場であった富士山麓に屋内神社をつくり、三島由紀夫のみたまを祭ることとなりました。こうして23年前(1982年)、山本陸将補の念願であった「三島由紀夫神社」が誕生しました。室内の神社は、地元の神道系民俗宗教である「富士講」の様式でつくられています。富士山を御神体とし、それに並んで三島由紀夫が「三島由紀夫大人之命」という神道上の神となっています。かつては、自衛隊員が30人も参列したといいますが、山本陸将補も4年前(2001年)に亡くなり、現在では、三島由紀夫と訓練をともにした自衛隊員の姿はありません。三島由紀夫研究の権威である佐伯彰一東大名誉教授は、「噂には聞いていたが、実際にあるとは驚いている」とコメントしています。
 TBS News i
 http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3166795.html
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 私が「三島由紀夫神社」の存在を知ったのは、小室直樹のトンデモ本『三島由紀夫が復活する』の中でのことであった。同書は今現在も出版社名を変え、版を重ねて、amazon等で売られているが、初版(1985年)と違うのは件の「三島由紀夫神社」に関する小室とそこを預かる古老(神主?)との対談が削除されている点にある。今から12年前(1999年)、私はそこに記述されてあった「三島由紀夫神社」の場所である「静岡県富士宮市上井出見返し」へ知人が車を出してくれるというので、ただ「見返し」という地名だけを頼りに神社を探しに行ったことがある。「見返し」という地を神社の場に選んだのは古老によれば三島があの世からこの世を見返すという意味に由来するという……。結果は見つからなかった。その場で一水会に携帯から電話してみたところ、山中、幸いにもつながり、「分りません」との返答だった。ならば、鈴木邦男ならと思い、再度、試みたが、電波状況が悪く、「はい、鈴木です」と野太い声が聞こえたところで、切れてしまった。その後、数時間、「見返し」の周辺をそれらしきものはと車を走らせたが、延々と迷路のような樹海が続くばかりであった。当たり前のことだが、「三島由紀夫」神社(という謎)にたどり着く道は何か他を寄せ付けぬ霊的なものがあるとその時、改めて実感した。

【陸上自衛隊・調査学校】
 「319.帝国陸軍と陸上自衛隊(19)三島氏ほどの人物が、間接侵略の脅威をしっかりと見据え」。

 【陸上自衛隊・調査学校】
(ウツボ)  旧陸軍中野学校に相当するのが陸上自衛隊調査学校だ。同学校は、昭和二十九年に業務学校から独立して設立された。現在は統合されて小平学校となっている。
(カモメ)  敗戦後、陸軍中野学校の出身者は、特殊な諜報機関の技術を持っており、米軍や自衛隊、公安調査庁などに採用されました。
(ウツボ)  ここでは、陸上自衛隊調査学校に勤務した情報幹部の一人、山本舜勝氏(陸士五二・陸大五九・平成十三年死去)を取り上げてみる。
(カモメ)  陸上自衛隊調査学校の二代目の校長となった藤原岩市陸将(陸士四三・陸大五〇)は戦前、ビルマ、インドなど南方の謀略工作を担当した「F機関」の機関長でしたね。
(ウツボ)  そうだね。彼は国家的な諜報組織をつくることが夢だった。「情報組織と情報網が貧弱で、統合された国家的戦略情報機構と機能を欠いていること、特に戦略、戦術的識見に富んだ情報要員が配置されていないことが弱点だ」と考えていた。
(カモメ)  藤原は国家的戦略情報機構の基盤を自衛隊調査学校に見出したのです。彼は方面総監にならなくても、調査学校の校長はやりたいという執念を持っていました。
(ウツボ)  そして彼が校長になったとき、陸軍中野学校の元教官を手当たり次第に引き抜いては、陸軍中野学校の教育を再現した。
(カモメ)  昭和三十年、陸大教育の不足を補う課程が始まり、終戦時陸軍中野学校の教官をしていた山本舜勝三佐は第一期生として幹部学校に入校、一年後に卒業して富士学校企画室に勤務しました。
(ウツボ)  その後、米国陸軍機甲学校に留学、フォート・ブラッグの特殊戦学校でも二ヶ月学んだ。このとき、調査学校長・藤原岩市一佐の要請に応え、帰国後は陸上自衛隊の情報幹部の道を歩んだ。
(カモメ)  昭和三十四年春、帰国後、山本二佐は陸上自衛隊調査学校教官班長に就任しました。
(ウツボ)  「三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦」(山本舜勝・日本文芸社)によると、昭和四十三年から著者の山本舜勝一佐(調査学校情報教育課長)は三島由紀夫がつくった、民間防衛隊「楯の会」に対して秘密戦の指導を行った。
(カモメ)   訓練指導を通じて山本舜勝一佐と三島由紀夫との付き合いはお互いの自宅を行き来して食事をするほどに、個人的にも交流が深まっていきました。
(ウツボ)  だが、昭和四十五年になると、山本舜勝一佐は、民間防衛隊構想について、考え方に三島氏と溝ができて、三島氏と距離を置くようになっていた。
(カモメ)  ところが、昭和四十五年十一月二十五日、突如、三島由紀夫が、自衛隊乱入事件を引き起こしたのです。
(ウツボ)  三島由紀夫は楯の会会員四名と陸上自衛隊東部方面総監部を訪ね、益田兼利総監を監禁し、バルコニーから、集まった自衛隊員に自衛隊の蹶起を呼びかけたのだ。
(カモメ)  当時、調査学校副校長だった山本一佐は、部下に運転させてジープで東部方面総監部に向かいました。だが、その途中で、三島由紀夫は、午後零時十五分割腹自決しました。
(ウツボ)  衝撃を受けた山本一佐は、陸将補で自衛隊退職後も、三島問題に取り組み、著書を次々に世に出した。
(カモメ)  その著書は、「君には聞こえるか三島由紀夫の絶叫」(バナジアン)、「サムライの挫折」(三幸社)、「三島思想『天皇信仰』-歴史で検証する」(元就出版社)、「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」(講談社)などがありますね。
(ウツボ)  山本氏が最初に出版した「三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦」(日本文芸社)で、著者は次の様に記している。
(カモメ)  読んでみます。「本書を書き進めている間中、私は何度も、悲哀の情に、筆をおかねばならなかった。それは、決起の挫折の悲しみ、などでは勿論なかった」
(ウツボ)  「三島氏ほどの人物が、間接侵略の脅威をしっかりと見据え、日本人として持つべき祖国防衛の責務を、基本的権利として受け止め、堂々と民間防衛構想を創り上げ、それをひっさげて檜舞台に登場しようとして果たさず、雄図空しく潰えたこと、それが悲しいのである」。
(カモメ)  山本氏は三島由紀夫との出会いから、民間防衛に取り組み、それを真剣に実現しようと考えていましたね。
(ウツボ)  それはね、三島由紀夫との出会い以前から、山本氏は構想をもっていた。山本氏は調査学校において、いや、陸上自衛隊の中で、自らを捨てて民間防衛問題に尽力した傑出した人物だったといえる。
(カモメ)  その陸上自衛隊調査学校も平成十三年三月、業務学校とともに統合されて、小平学校になった。
 【帝国陸軍・駐在武官】
(ウツボ)  次に旧軍の駐在武官について、さわりだけでも述べてみよう。駐米大使館付武官や駐英大使館付武官は、幼年学校出身者は少ない。中学から陸軍予科士官学校に合格した軍人が多い。
(カモメ)  幼年学校出身者でない、駐米大使館付武官(または補佐官)は、田中静壱(陸士一九・陸大二八恩賜)、栗林忠道大将(陸士二六・陸大三五次席)など。
(ウツボ)  同じく幼年学校出身者でない、駐英大使館付武官(または補佐官)は、前田利為大将(陸士一七・陸大二三恩賜)、本間雅晴中将(陸士一九・陸大二七恩賜)、今村均大将(陸士一九・陸大二七首席)などがいる。
(カモメ)  幼年学校出身の駐ドイツ大使館付武官は、香椎浩平中将(陸士一二・陸大二一)、畑俊六元帥(陸士一二次席・陸大二二首席)、大島浩中将(陸士一八恩賜・陸大二八恩賜)など。
(ウツボ)  幼年学校出身の駐スイス大使館付武官は、梅津美治郎大将(陸士一五首席・陸大二三首席)陸士永田鉄山中将(陸士一六首席・陸大二三恩賜)東條英機大将(陸士一七・陸大二七)など。

 http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/34207275.html

 ⑤『「日米秘密情報機関」副題:「影の軍隊」ムサシ機関長の告白 元自衛隊陸将補 平城弘通/著(講談社)』を読むその5 三島事件のその後と誤れる文民統制   
 
 その4で本書の記事は止めようと思ったがやはり、三島事件とシビリアンコントロールに関して、紹介したい部分がある。 (『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝、講談社)
 
 二将軍は果たして裏切ったのか

 山本舜勝氏は前述書の「誰が三島を殺したのか」の章で次のように述べている(p265)。
 かつて私は戦後唯一のクーデター未遂事件といわれる「三無事件」の内部調査を命じられた。その際、神楽坂でH陸将(著者註:広瀬栄一氏と推定される)らが、この首謀者たちと密会し、酒を酌み交わしていた。そして調査を命じたS(著者註一:当時の陸幕長杉田一次氏と推定される)も一味とは旧知の仲であった。私はジェネラル達が、自衛隊によるクーデターの機会をもとめ、事件のかげで暗躍したことをを知った。さらに自衛隊と連繋した行動を三島がとるようになった道を開いたのは藤原岩市である。三島はまた、アメリカ陸軍やCIAなどとの間にパイプを持つH陸将らとも何らかの関係があつたようである。 クーデターは行われるはずであった。クーデターによる憲法改正については、アメリカの了解が不可欠であった。

 昭和四四年10月21日、新宿でデモ隊が騒乱状態を起こし、治安出動が必至となったとき、まず三島と「楯の会」全員が身を挺してデモ隊を排除し、私の同志がひきいる東部方面隊の特別班も呼応する。ここで、ついに自衛隊主力が出動し、戒厳令状態下で首都の治安を回復する。このとき、三島ら十名は、デモ隊殺傷の責を負って自害切腹する。 「反革命宣言」にあるように「あとに続く者あるを信じ」自らの死を布石とするのである。三島楯の会の決起によって幕が開く革命劇は、後から来る自衛隊によって完成される。クーデターを完成させた自衛隊は憲法改正によって、国軍としての認知を獲得して幕を閉じる。 そこでは当然、私も切腹しなければならないし、出動の責任者としてのHと藤原も同様であろう。三島はこれを求めていたはずである。(中略)

 しかし私はこのクーデター計画に反対はしていたものの、これらの疑問について三島に質すことができなかった。また計画に反対といっても、自害切腹という結末を、私自身否定して考えられるようになったのは、比較的最近のことである。(中略) 三島は絶えず私にともに決起するように促した。しかし私は拒否し続け、そうしたクーデター計画に進まないよう、その話題を避け、もっと長期的な展望に立った民問防衛構想に立ち帰るよう、新たなプランを提案した。 だが私は、三島がそれにあきたらず、自ら立案したクーデター計画の実行にのめり込んでいく様子に気づいていた。(中略)武士道、自己犠牲、潔い死という、彼の美学に結びついた理念、概念に正面切って立ち向かうことが私にはできなかった。(中略)三島のクーデター計画が結局闇に葬られることになったのは、初夏に入ったころだった。私はその経緯を詳しくは知らない。(中略) いずれにせよ二人のジェネラルは、自らの立場を危うくされることを恐れ、一度は認めた構想を握りつぶしてしまったのであろう。

 三島に大局観を教えなかったがために

 以上のような山本舜勝氏の回想記を読んだ私の所感は次のようなものだった。

 まず、山本一佐の教育は兵隊ごっこといわれても文句はいえないもの。情報活動の実務、技術は教えているが、情勢判断、大局観を教えていない。とくに、三島の檄文を除いて、この著書のどこにも警察力のことが書かれていない。三島のクーデター計画でも、警察力には触れず、いきなり自衛隊の治安出動を考えているが、自衛隊の出動事態に対する研究がまったく不足している。また、「三無事件」に「H陸将」、すなわち広瀬陸将が関係したようなことが書かれているが、同じ陸幕2部にいた私は、このようなことを聞いたことがない。「三無事件」に関係したジェネラルは源田実元空幕長であったことは公判で明らかであり、広瀬陸将、杉田陸将に問題はなかった。広瀬総監や国武さんが、「七〇年安保」に際して平城は絶対に必要な男だと、私を辞めさせなかった。その後、広瀬さんも国武さんも、このようなクーデター的なことは一つもいわなかった。とにかくたいへんだろうが頑張ってくれ、それだけである。

 この昭和四四年の時点で、藤原さんも広瀬さんも退官している。広瀬さんは昭和四三年、私が二部長になる前に退官し、東芝に勤めていた。そして、藤原氏は参院選に出る準備をしていたのだ。「H陸将」すなわち広瀬栄一氏と藤原岩市氏が三島をそそのかし、わが身に振りかかる危険を感じて三島を裏切ったという山本一佐の主張は妄想であろうと思う。あのような情勢下で自衛隊が治安出動することはあり得ない。国民の信を得るのは、警察力が壊減的打撃を受け、国民一般が自衛隊の治安出動は当然と考える情勢でなければならない。広瀬陸将や藤原氏が三島のクーデターを危険と感じ協力を避けたのは、情報の達人であったのだから、当然の判断である。桜田武氏についても、前述の通り、先見の明があったといえる。三島の危険性を感じ、警告を与えたのは、当代の財界首脳として当然のことである。むしろ、山本一佐が三島に同調するのは見識がないといわざるを得ない。しかし、三島が共産主義過激派の暴挙を憂慮し、祖国の危機を痛感し、種々の言動を通じて世に訴え、最後に切腹自害した行為は、長く日本人の魂をゆるがし、影響を与えたことは否めない。いずれにしても、三島は死地をもとめていたのであろうか・・・
 p295~298 誤れるシビリアン・コントロール

 
戦後日本では、警察予備隊の発足当初から、制服組の暴走を警戒して独自の文官統制をシビリアン.コントロールと呼んで採用した。作戦運用等の軍令事項と、人事装備等行政に関するいわゆる軍政事項の一切を、文官が掌握したのだ。とくに、日本の自衛隊のように、将官人事を内局が一手に握り、陸海空三幕僚監部の推挙にかかわらず、内局に好ましくないと思われる人物を排除するような制度は、政軍関係に悪い影響を与える。有事や非常時に役立つ人物の登用を妨げるものだ。気骨があり、能力がある者は、みな排除されてしまう。これは、シビリアン.コントロールの本来的意義を曲解したものである。政治家が統制しているわけでもなく、防衛庁内局に勤務する文官だけが制服組の高級幹部人事までほしいままにしている組織、それが自衛隊だ。実態はとんでもない組織といえよう。

 私の事件以前にも、内局の文官と衝突して、前途有為の人材が失脚、その後、不幸な運命を辿った事件が二つばかりある。そのいずれもが海兵出身の人物だった。海上自衛隊には伝統的に、文官統制に反発する空気があったのだろう。以前にも出世主義者はいたが、私の事件以来、内局にゴマをする人問が増えた。そして、内局の文官に個人的に覚えのよい人物が昇進する、という弊風ができたと聞いている。独裁国や共産国を除いた民主主義国家では、たとえば統合参謀本部のようなものが何らかのかたちで、国防大臣と同格で軍令事項を補佐し、政軍関係を調整している。自衛隊の制服組の暴走を防ぐための仕組みとして、シビリアン・コントロールすなわち文民統制があるということになっている。しかし、文官のみで形成する参事官制のもと、制服組を統制する内局の実態は、文民統制ではなく、まさに「文官統制」である。最低限、統合幕僚長、各幕僚長は、防衛参事官とすべきであろう。 防衛官僚たちは、ある者は警察出身、ある者は財務省などの官庁出身でありながら、文民統制と称し、実は姑息な「文官統制」を行っているに過ぎない。防衛大臣に対する補佐機構のうち、軍事・技術的な専門事項は、制服組が一元的に補佐できる体制があってしかるべきである。

 そんなこともあり、制服組が、「三矢事件」や栗栖統幕議長発一言問題、あるいはイージス艦派遣問題などをとらえ、「文民統制」の是正を正面切って唱えるようになった。すなわち、平成16年(2004年)6月16日、石破茂防衛庁長官と内局主要メンバー、および統幕議長、陸海空三幕僚長らとの会合の席上で、古荘幸一海幕長が、制服組を統制する日本型文民統制の見直しを迫ったというではないか。(「朝日新聞」同年7月4日付朝刊) このように、わが国のシビリアン・コントロールは特異なもので、私の事件が周知されていたとしたら、田母神俊雄空幕長にまつわる事件のように、世論を沸かせたかもしれない。

 私は階級にこだわらず勤務に邁進してきたが、広瀬栄一情報班長の言が想起された。
 「自衛隊が真の国軍の姿を取り戻すためには、諸君ら情報に練達した者が上級職をとり、できれば陸幕長となり、正論を堂々と発表し、それがもとでクビになれば、その後任者も同様に正論を主張してクビになる。 このような覚悟でないと、自衛隊はいつまでも内局文官の下風に立たされることになるだろう。シビリアン・コントロールを、内局優位でない本来の姿に変えるためにも必要なことだ」。
 ――このまま辞めることは残念千万という気持ちだった。

 しかし現実に、内局が一佐以上の将官人事を掌握している以上、私の陸将補昇任はあり得ない。私は、サムライであり、軍人である。自分の不当な人事について不平不満をいうこともなく、天命として受け入れた。 平成二二年二月、ある東北の連隊長が、日米共同演習に際して訓辞し、「信頼という言葉だけで本当の信頼関係ができるものではない」と述べたということで処罰された。すると、それに関連して某部隊の中隊長が、「あの連隊長が処罰されたのは不当である、当たり前のことをいっただけではないか」といって、これまた処罰された。 防衛省内には連隊長の処罰を非難する声が非常に大きいと報道された。そのようなことが声として報道されるということは、相当、自衛隊のなかに、不満のマグマが溜まりつつあるのだと感じられる。民主党政府の米軍普天問基地問題の迷走ぶりといい、のらりくらりとした防衛問題への対応を目の当たりにして、自衛隊員の怒りが極限にまで高まっているということを肝に銘じなければなるまい。

【朝日新聞社村山事件」の本質】
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 「「村山事件」の本質3.」朝日の誤報11.(06.11.24)

 (参考文献)
 1.「朝日新聞外史」細川隆元/1965/秋田書店
 2.「私の朝日新聞社史」森恭三/1981/田畑書店
 3.「朝日新聞血風録」稲垣武/1991/文芸春秋
 4.「朝日と読売の火ダルマ時代」藤原肇/1997/国際評論社
 5.「国会議事録 第043回国会 内閣委員会 第18号」(昭和三十八年五月十六日/国会図書館所蔵;次のHP「第043回国会 内閣委員会 第18号」でも読める 
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/043/0388/04305160388018c.html

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 ・1963年の「村山事件」とは、株式会社朝日新聞社の支配権が社主家の2家・村山家(株式40%保有)と上野家(同20%)から、現経営陣を支持する社員・OB(同40%)と上野家(同20%)の手に移ったクーデター事件である(そのまま現在に至る)。この事件を「朝日の民主化」と捕らえる向きが未だに根深い。しかし、この事件の本質は、「民主化」を装った河野一郎・三浦甲子二による朝日の乗っ取りにあったのである。「この事件を背後で操る黒子がいたのであり、その後フィクサー役として政財界に出没し、テレビ朝日を舞台に奇妙な行動を展開した、政治部出身の三浦甲子二がそれだった」(4.p120)。「労働組合の活動を通じて次第に頭角を現し、後に(村山事件後に)社長となる広岡知男が委員長だった時に、三浦は・・・書記長になり、広岡の片腕として汚れ役を引き受けることになった」(4.p120-121)。つまり、戦後のどさくさの時、反共労働組合を指導した森恭三氏(委員長)のもとで副委員長をやったのが広岡知男氏。広岡知男氏が委員長の時、書記長をやったのが三浦甲子二氏。「労務対策の陰の仕事に習熟していた三浦は、広岡の手足であると共に河野一郎の目と耳」(4.p121)。「広岡は汚いことを自分でやる男ではないし、エリートとしてそんなことは出来ないから、汚れ役を三浦が買って出て恩を売った。・・・広岡は三浦に借りが出来て、要望を聞いてやる関係になった」(4.p150-151)。「三浦は相手の弱みに食い込む特技があり、彼の交際費は編集からは広岡に出させ、営業からは永井大三の機密費を使った」「永井にも取り入ることをしていた」(4.p152)。「三浦が汚れ役を引き受けたので、・・・広岡は社長になり社主事件を片付けたのです」(4.p152-153)。「田中清玄や石油利権屋の今里広記の筋で、シベリア開発の絡みでKGBの引きでソ連に接近し、モスクワ五輪では独占放映の契約を締結した」(4.p121)。
 
 ・つまり、「村山事件」クーデターとは、当時の村山長挙朝日新聞社長が、三浦甲子二氏と親しい営業担当重役の永井大三氏(新聞拡張の名人と言われた)を花道を作った上で引退させようとしたのに対し、全国の朝日新聞販売店を味方に引き入れて、読者から集めた紙代を上納しない等の非合法的手段で、徹底的に抵抗し、遂に社長を引退させ、上野家をも味方に引き入れ、村山藤子氏に対する徹底した誹謗・中傷をてこに村山家から実権を奪い、三浦の傀儡である広岡知男氏を社長にした事件だった。
 
 こうして、労組時代の3人男=三浦甲子二・広岡知男・森恭三は、それぞれフィクサー・社長・週刊「朝日ジャーナル」の巻頭言「風速計」執筆者になり、1970年に向けて、「新左翼」暴力学生集団を暴発させる謀略の準備は整った。

 「一般に朝日新聞の歴史を論じる人の多くは、社主派と社長派の抗争について注目するが、目に見えない裏人脈が存在しているのでして、これは三浦のような形で裏の世界とつながり、・・・」(4.p154)。

 ・1970年11月。三島由紀夫氏が自衛隊本部に乱入し、割腹自殺した。この事件の真相が、その後、自衛隊を退職したある上級幹部(元自衛隊陸将補。「影の軍隊」とも呼ばれた「自衛隊調査学校」の元副校長)が出版した本(「自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白」山本 舜勝 /2001/講談社)で、明らかと成った。即ち、「新左翼」暴力学生集団の暴発を利用して、「法と秩序を守る」を大義名分に、自衛隊一部幹部は、三島由紀夫氏とも連動し、クーデターを起こす予定だったのである。だが、「新左翼」暴力学生集団の暴発が弱く、簡単に機動隊に片付けられた為、自衛隊一部幹部は三島由紀夫氏の期待も空しく、遂にクーデターに出ることが出来なかった。自衛隊の裏切りを見て・又憲法改正のチャンスも去ったと絶望し、三島氏はあの挙に出たのだと。

 そして1993年、三島由紀夫氏の事件と極めて似た事件が朝日新聞東京本社で起きた。右翼・野村秋介氏の拳銃自殺である。野村氏は1963年、河野一郎邸焼き打ち事件で懲役12年になっている。 「拳銃を突きつけられた(朝日)社長は助命を嘆願したらしく」()、「野村は「土下座したような者には俺は撃てない」と言って、懐にしまっていた書き物を取り出したという噂が、金融界を中心にものすごい早さで広まった。(中略)当日は出版局関係のゴルフ大会があったので、作家や評論家とゴルフに行ったため、野村との交渉に出版や広報担当の役員も出席しなかったこと。担当重役の下の出版局長・・・が、社長と一緒に野村との交渉に臨んだがすぐに席を外し、全日空ホテルの集会に向かっている状況もあった。また野村は拳弾を3発も胸に撃ったと言われているが、お互いに自決し合うためでないとしたら、なぜ拳銃を2丁も持参したかが疑問だと、事件記者はこの点に非常にこだわっていた。築地署の責任者を取材した記者の証言では、「連絡してくれれば私服の者を派遣できたし、万一の時には飛びかかって押さえられたのに、朝日からは事前に何の連絡もなかった」とのこと。しかも、朝日新聞の警備にも連絡しなかったのは、「警察や警備にも聞かれたくないので担当役員をはずした」と勘ぐる朝日の幹部がいたのは興味深いことだ。

 『週刊朝日』への抗議なのに、出版局の役員は「ゴルフ会」で不在だった。出版局長・・・も途中から席をはずした。築地署にも、社内警備にも連絡が行われなかった。拳銃は2丁用意されていた」(「夜明け前の朝日」藤原肇/鹿砦社/2001;p200~201)。

 「さらにネット上から情報を追加すると、
 ・15階の役員応接室に押しかけたのは、野村秋介とその息子を含む5人
 ・対応した当時の社長は、珊瑚事件で辞任した一柳東一郎(ひとつやなぎ・とういちろう)の後を継いだ、中江利忠(なかえ・としただ)
ということになっている。右翼5人に1人(?)で対応する中江社長。そして拳銃2丁。「気の狂った右翼が嫌がらせの自殺をした」という構図ではなさそうだ。中江利忠が、何かを握られていたことはまちがいない(注)」(HP「ヒロさん日記」”朝日新聞・中江社長と新右翼・野村秋介の「裏取引」”http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1217311)。

 (続く)

 (注)断定は出来ない。然し真の右翼とは、三島事件で明らかなように、相手の秘密を握り・それを誰にも言わずに相手の場所で死んでいく。野村秋介氏の最後の言葉「朝日は倒れてもらっては困る。朝日憎しで言うんじゃないんだ、朝日が社会の木鐸としてね、しっかりと日本を指導してもらいたいんだ」(「週刊文春」19940113)この目的を貫徹する為に「朝日と刺しちがえる」(同)と言う決意を見せたのではないか?

 061124/070105加筆訂正
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(私論.私見)