「「村山事件」の本質3.」朝日の誤報11.(06.11.24)
(参考文献)
1.「朝日新聞外史」細川隆元/1965/秋田書店
2.「私の朝日新聞社史」森恭三/1981/田畑書店
3.「朝日新聞血風録」稲垣武/1991/文芸春秋
4.「朝日と読売の火ダルマ時代」藤原肇/1997/国際評論社
5.「国会議事録 第043回国会 内閣委員会 第18号」(昭和三十八年五月十六日/国会図書館所蔵;次のHP「第043回国会 内閣委員会 第18号」でも読める
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/043/0388/04305160388018c.html)
O O O
・1963年の「村山事件」とは、株式会社朝日新聞社の支配権が社主家の2家・村山家(株式40%保有)と上野家(同20%)から、現経営陣を支持する社員・OB(同40%)と上野家(同20%)の手に移ったクーデター事件である(そのまま現在に至る)。この事件を「朝日の民主化」と捕らえる向きが未だに根深い。しかし、この事件の本質は、「民主化」を装った河野一郎・三浦甲子二による朝日の乗っ取りにあったのである。「この事件を背後で操る黒子がいたのであり、その後フィクサー役として政財界に出没し、テレビ朝日を舞台に奇妙な行動を展開した、政治部出身の三浦甲子二がそれだった」(4.p120)。「労働組合の活動を通じて次第に頭角を現し、後に(村山事件後に)社長となる広岡知男が委員長だった時に、三浦は・・・書記長になり、広岡の片腕として汚れ役を引き受けることになった」(4.p120-121)。つまり、戦後のどさくさの時、反共労働組合を指導した森恭三氏(委員長)のもとで副委員長をやったのが広岡知男氏。広岡知男氏が委員長の時、書記長をやったのが三浦甲子二氏。「労務対策の陰の仕事に習熟していた三浦は、広岡の手足であると共に河野一郎の目と耳」(4.p121)。「広岡は汚いことを自分でやる男ではないし、エリートとしてそんなことは出来ないから、汚れ役を三浦が買って出て恩を売った。・・・広岡は三浦に借りが出来て、要望を聞いてやる関係になった」(4.p150-151)。「三浦は相手の弱みに食い込む特技があり、彼の交際費は編集からは広岡に出させ、営業からは永井大三の機密費を使った」「永井にも取り入ることをしていた」(4.p152)。「三浦が汚れ役を引き受けたので、・・・広岡は社長になり社主事件を片付けたのです」(4.p152-153)。「田中清玄や石油利権屋の今里広記の筋で、シベリア開発の絡みでKGBの引きでソ連に接近し、モスクワ五輪では独占放映の契約を締結した」(4.p121)。
・つまり、「村山事件」クーデターとは、当時の村山長挙朝日新聞社長が、三浦甲子二氏と親しい営業担当重役の永井大三氏(新聞拡張の名人と言われた)を花道を作った上で引退させようとしたのに対し、全国の朝日新聞販売店を味方に引き入れて、読者から集めた紙代を上納しない等の非合法的手段で、徹底的に抵抗し、遂に社長を引退させ、上野家をも味方に引き入れ、村山藤子氏に対する徹底した誹謗・中傷をてこに村山家から実権を奪い、三浦の傀儡である広岡知男氏を社長にした事件だった。
こうして、労組時代の3人男=三浦甲子二・広岡知男・森恭三は、それぞれフィクサー・社長・週刊「朝日ジャーナル」の巻頭言「風速計」執筆者になり、1970年に向けて、「新左翼」暴力学生集団を暴発させる謀略の準備は整った。
「一般に朝日新聞の歴史を論じる人の多くは、社主派と社長派の抗争について注目するが、目に見えない裏人脈が存在しているのでして、これは三浦のような形で裏の世界とつながり、・・・」(4.p154)。
・1970年11月。三島由紀夫氏が自衛隊本部に乱入し、割腹自殺した。この事件の真相が、その後、自衛隊を退職したある上級幹部(元自衛隊陸将補。「影の軍隊」とも呼ばれた「自衛隊調査学校」の元副校長)が出版した本(「自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白」山本 舜勝 /2001/講談社)で、明らかと成った。即ち、「新左翼」暴力学生集団の暴発を利用して、「法と秩序を守る」を大義名分に、自衛隊一部幹部は、三島由紀夫氏とも連動し、クーデターを起こす予定だったのである。だが、「新左翼」暴力学生集団の暴発が弱く、簡単に機動隊に片付けられた為、自衛隊一部幹部は三島由紀夫氏の期待も空しく、遂にクーデターに出ることが出来なかった。自衛隊の裏切りを見て・又憲法改正のチャンスも去ったと絶望し、三島氏はあの挙に出たのだと。
そして1993年、三島由紀夫氏の事件と極めて似た事件が朝日新聞東京本社で起きた。右翼・野村秋介氏の拳銃自殺である。野村氏は1963年、河野一郎邸焼き打ち事件で懲役12年になっている。 「拳銃を突きつけられた(朝日)社長は助命を嘆願したらしく」(?)、「野村は「土下座したような者には俺は撃てない」と言って、懐にしまっていた書き物を取り出したという噂が、金融界を中心にものすごい早さで広まった。(中略)当日は出版局関係のゴルフ大会があったので、作家や評論家とゴルフに行ったため、野村との交渉に出版や広報担当の役員も出席しなかったこと。担当重役の下の出版局長・・・が、社長と一緒に野村との交渉に臨んだがすぐに席を外し、全日空ホテルの集会に向かっている状況もあった。また野村は拳弾を3発も胸に撃ったと言われているが、お互いに自決し合うためでないとしたら、なぜ拳銃を2丁も持参したかが疑問だと、事件記者はこの点に非常にこだわっていた。築地署の責任者を取材した記者の証言では、「連絡してくれれば私服の者を派遣できたし、万一の時には飛びかかって押さえられたのに、朝日からは事前に何の連絡もなかった」とのこと。しかも、朝日新聞の警備にも連絡しなかったのは、「警察や警備にも聞かれたくないので担当役員をはずした」と勘ぐる朝日の幹部がいたのは興味深いことだ。
『週刊朝日』への抗議なのに、出版局の役員は「ゴルフ会」で不在だった。出版局長・・・も途中から席をはずした。築地署にも、社内警備にも連絡が行われなかった。拳銃は2丁用意されていた」(「夜明け前の朝日」藤原肇/鹿砦社/2001;p200~201)。
「さらにネット上から情報を追加すると、
・15階の役員応接室に押しかけたのは、野村秋介とその息子を含む5人
・対応した当時の社長は、珊瑚事件で辞任した一柳東一郎(ひとつやなぎ・とういちろう)の後を継いだ、中江利忠(なかえ・としただ)
ということになっている。右翼5人に1人(?)で対応する中江社長。そして拳銃2丁。「気の狂った右翼が嫌がらせの自殺をした」という構図ではなさそうだ。中江利忠が、何かを握られていたことはまちがいない(注)」(HP「ヒロさん日記」”朝日新聞・中江社長と新右翼・野村秋介の「裏取引」”http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1217311)。
(続く)
(注)断定は出来ない。然し真の右翼とは、三島事件で明らかなように、相手の秘密を握り・それを誰にも言わずに相手の場所で死んでいく。野村秋介氏の最後の言葉「朝日は倒れてもらっては困る。朝日憎しで言うんじゃないんだ、朝日が社会の木鐸としてね、しっかりと日本を指導してもらいたいんだ」(「週刊文春」19940113)この目的を貫徹する為に「朝日と刺しちがえる」(同)と言う決意を見せたのではないか?
061124/070105加筆訂正
« 「「村山事件」の本質2.」朝日の誤報10.(06.11.23) | トップページ | 「事実とは何か」本多勝一批判・朝日の誤報12.(06.11.25) »