三島事件の核心真相有益諸説考その2

 (最新見直し2015.02.1日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「三島事件の核心真相有益諸説考その2」をものしておく。

 2015.02.01日 れんだいこ拝


 「三島由紀夫研究会メルマガ(短期集中連載」の「三島事件の真相その3) ①」 (2012-11-17 )
 第6章 平岡瑤子夫人の謝罪廻り

 事件から1か月近く経って三島由紀夫夫人が「大変なご迷惑をかけまして申し訳ございません」とお詫びに来た。ある週刊誌に「事件から1か月を迎え、負傷した方々に対しお詫びの挨拶を済ませ云々」と書かれて、慌てて挨拶回りをしたようである。夫人は榮太郎の羊羹を持参し差し出した。私が、「奥様には何の恨みもありません。命を取り留めたのでむしろ奥さまが気の毒に思います。…三島さんも気の毒に思います」と言ったら、夫人はぽろりと涙を流した。瑤子夫人は、日本女子大出身の才媛と知人から聞いていたが、平成7(1995)年、若くしてこの世を去った。

 第7章 益田総監の真相の話

 第1節 退院報告時の対話

 退院後の自宅療養を経て出勤初日に、総監に退院報告に行った。重傷患者が一番早く退院し死亡者が出なかったことを確認して、総監は喜んでくれた。「まあ、ゆっくり掛けたまえ」と総監はソファーで膝をくんで、2時間にわたり2人だけの話が続いた。総監は、三島由紀夫との面会時の話や、監禁されてからの様子、三島との交渉のやりとりを詳しく話してくれた。総監は監禁されたまま、総監室で起こった出来事を目前に一部始終見ていたのである。「貴公は一番勇敢で沈着且つ冷静だった」「礼を言いたい」「もし短刀をもぎ取ったときに貴公が閃いたような行動を取っていたら貴公の命はなかったかもしれない」「それだけでなく私の命もなかっただろう」「あの場で死人が出たら収拾がつかなくて大混乱になっただろうと思う」「よくぞ沈着、冷静であった。これが真の勇気というものだ」とたて続けに話された。

 総監「斬られたときの感触は?」。寺尾「最初の右腕は全然感じませんでした。森田必勝が短刀を放さないので、顔面を一発殴ったとき右手の甲にピンク色の液が流れたのを感じましたが、短刀を右足で踏みつけていて怪我した覚えがなかったので不思議に思いました。背中は2発までは木刀で殴られている感じでした。3発目は平らな戸板のようなものでバシッと殴られた感じでした。このときの衝撃で眼鏡が落ちました」。総監「やっぱりそうか。俺も鉄砲の弾が当たったときの感触は同じようだったよ。神経がぱっと一度に切れるとそんな感じだろうな」、「俺は割腹自決に立ち会ったのはこれで2回目だよ。最初は終戦のとき、友人の晴気少佐に頼まれてなあ、この市ヶ谷台でな、今でも碑が立っているだろ。因果なものよなあ」
、「三島さんも、いくら諫めても聞かなかった」、「貴公が警視庁の事情聴取で聞かれた、短刀をもぎ取った相手は森田必勝だよ。俺が訂正しておいたから。残った3人に取られたのは誰かといくら裁判で攻めても出てこないはずよ」、「死人に口なしだよなあ。貴公がもぎ取った短刀のほかにもう1本バックから出して割腹したんだよ」。
 
 第2節 益田総監から負傷者に「背広」と「書の額」贈呈

 三越のA仕立券付きの背広が負傷者に贈られてきた。有名企業の社長が、制服まで斬られて気の毒だとして総監を通じて負傷者に差し上げて下さいというものだった。この社長は三島由紀夫を尊敬しており、社内に三島由紀夫の銅像を建てているという話も聞いた。また、「額入りの書」は自衛隊という漢詩を毛筆で書いたものである。

  武威厳令自衛隊治安国防担
  時代世界風雲動無休思想
  蕩々漲宇内勤処緩急当挺身
  凛然正気憶先人萬朶之桜
  百練鐡発揮日本大精神

  昭和四十五年十一月廿五日事件於銘肝 益田兼利 印 寺尾克美君

 第3節 益田総監隷下部隊で真相の訓話

 益田総監は、退任の前に第1師団、第12師団等を始め隷下の主要部隊を訪問し、訓話を行った。訓話の内容は、三島由紀夫事件の真相の説明が中心であったと思う。「三島さんは武士道を全うしたが、俺の武士道はどうしてくれるのか」と憤慨しておられたそうだ。訓話を聞いた各部隊の先輩や同僚から私のところに電話や手紙がどんどん来た。「主動部隊の職種の者が大部分だったが、会計科職種の寺尾3佐が一番勇敢で沈着且つ冷静であった、と格別のお褒めでした」とか「会計科職種一同誇りに思います」という趣旨のもので、負傷の見舞いを兼ねたものであった。
 第8章 益田総監の辞任

 第1節 潔しとしない

 益田総監は中曽根防衛庁長官と膝詰め談判の末、潔しとしないと言って全責任を取って辞表を提出した。私は、この膝詰め談判の記録テープを聴いて腸が煮えくりかえる思いがした。それは中曽根長官の「俺には将来がある。総監は位人臣を極めたのだから全責任を取れば一件落着だ」というくだりにである。「東部方面総監の棒給を2号棒上げるから…」(これは退職金計算の基礎額が退職金を増やすという意味)。こんな準備をして迫った。当時、第11師団長(月額16万円)から東部方面総監に栄転してきた後任の中村龍平総監(月額32万円)のご夫人が池田勇人総理が提唱した所得倍増論よりもすごいと吃驚していた。歴代の防衛庁長官で全責任を取らなかったのは中曽根長官だけである。

 私は学生時代に、大隈講堂で政治討論会を聞いたことがある。そのとき各党を代表して演説をした政治家は、石橋湛山大蔵大臣、浅沼稲次郎、川崎秀次、野坂参三、中曽根康弘(弱冠25歳で最年少で衆議院議員に当選)であった。このとき、中曽根は将来総理大臣になるかもしれない、と思い期待していたが、前述のテープを聴いて、中曽根はこういう男かと嘆かわしく思った。風見鶏と言われながら渡り歩いて、とうとう最後には総理大臣にまでなった。総理大臣のとき、憲法改正ができないので「専守防衛」という「政治的捏造語」を唱えて、その場しのぎで今日まで国民や近隣諸国を誤魔化してきている。

 第2節 関連主要人事

 益田総監の後任に、陸士49期生の中村龍平陸将が第11師団長から栄転になり、半年後には陸上幕僚長に栄転、その後統合幕僚会議議長になった。政治家が責任をとって長官を辞めても議員を辞める訳ではない。いずれ返り咲くことができる。中曽根長官が責任をとっていれば、益田総監は陸上幕僚長、統合幕僚会議議長への第一の候補者だったのに、辞職したら直ちに失職するのである。総監を人質にして三島由紀夫の演説を聞くように強要されて隊員を集合させたとして、中曽根長官に「あいつを飛ばせ」と言われ、自衛隊大阪地方連絡部長に左遷された吉松秀信防衛担当幕僚副長は、次は方面総監部幕僚長、師団長と目されるランクにあった方だったが遠回りして、中部方面総監部の幕僚長になったが、通信学校長(陸将)で定年になった。地方連絡部長の命令を受けたとき、「寺尾よ、わしを地連部長ごときに飛ばしやがって」「わしも入院したかったよ」と裁判疲れの本音を語っていた。事件から2、3年後、吉松秀信氏が中部方面総監部幕僚長だったとき、隷下部隊で訓話を聞いた者から、前述の益田総監の訓話を聞いたものと同様の電話や手紙がどんどん届いた。

 第3節 益田兼利元東部方面総監急死

 益田総監は、辞任後暫くして日本航空の子会社日本航空貨物の顧問に就いたが、帰宅途中に腹痛を覚え、とうとう我慢しきれなくなって、途中下車して病院に駆け込んだ。そのときは既に盲腸が破裂しており、すぐ手術を行ったが、腹部の脂肪が厚く盲腸を取り出すのに苦労したそうだ。背中の方にあったらしいが、手術後ガスが出ないので再手術をした。それでもまだガスが出ない。とうとう腸閉塞でこの世を去ったのである。今どき盲腸炎が破裂していても死に至るとは? と理解に苦しむ。自衛隊中央病院の先生達の間からは、「医療ミスに違いない」と言われていたそうでした。盲腸を探し当てるのに苦労して、元に戻すとき腸が捻れたままだったのではないか、再手術のときも直しきれなかったことが考えられる、と言われていた。告訴しても死者は戻らないので、裁判沙汰にはしなかったようだ。私は、北部方面会計隊長で札幌在勤中だったとき、元行政担当幕僚副長山崎皎さんの音頭で、三島由紀夫事件で入院した6人が揃って大宮の春秋園にある益田兼利元総監のお墓参りをした。益田元総監は現職中は健康そのもので、健康診断以外は医者にかかったことがなかった、と艶子夫人から伺った。実に残念至極であった。因果な巡り合わせになってしまった。

 三島由紀夫の死―石原慎太郎・梅原猛・吉本隆明はどう応えたか―三島由紀夫研究会会員 藤野博」(平成25年(2013)1月13日)
 はじめに

 平成二十四年十一月二十五日、雪面の北の大地をあとにした私は、東京の星陵会館に足を運んだ――志を同じくする人々と共に、三島由紀夫の鎮魂を祈念するために。三島由紀夫が割腹自殺を遂げてから四十二年余が過ぎた。しかし、この壮絶な自刃の、激烈な衝撃と深い影響力は、今なお一向に衰える気配がない。この現象は、三島由紀夫が巨大な「問題提起者」であることを露わに示している。同時にそれは、三島由紀夫の「肉体」は滅びても「精神」は永く生き続ける証しなのである。事件直後には、三島の自決に対するおびただしい解釈が洪水のごとく溢れ出した――「文学的な死」、「美学的な死」、「政治的な死」、「思想的な死」、「諫死」、「殉死」、「憤死」、「情死」、「衰弱死」、「狂気の死」、「精神病理学的死」等々。しかし、これらのどの説にも納得できなかった私は、徹底して白紙の状態で三島由紀夫と向き合うことに挑んだ。先ず、自決当日彼が撒いた檄文に注目し、その核心に〈天皇〉があることを突きとめ、三島が精神的にいかに深く〈天皇〉と関わったかを分析した。その上で、三島の切腹行為の深層に潜む根源的動機を探ってみた。三島の多くの作品群の内層を綿密に掘り起こし、彼の「魂の声」をひたすら傾聴することに専心した。その結果、〈天皇陛下万歳〉を叫んで切腹した三島は、贖罪のために特攻隊員として散華し、〈天皇陛下万歳〉と書いた二十歳の「遺言」を蘇えらせた、という仮想を立てた。三島の死の本質は「倫理的な死」であるという帰結に行き着いたのである。研究者ではなく素人に過ぎない私は、八年間の格闘の末に、以上の考想を著作『三島由紀夫と神格天皇』という形にして残すことができた。三島由紀夫ほど毀誉褒貶の激しい作家は恐らく空前絶後であろう。「三島由紀夫の死」に対する応答は、必然的にその人間の精神性を露出するリトマス試験紙となる。したがって、思想的に影響力のあると見なされている文学者・石原慎太郎、哲学者・梅原猛、思想家・吉本隆明の三人の反応を考察することは、決して無意味ではあるまい。これら三人の所見と対峙する以下の論評は、あくまでも〈私の〉三島観に立脚したものである。三人の三島批判に対する私の「反批判」が、三島由紀夫の「擁護」となり「慰霊」となることを、切に祈願してやまない。

 1 石原慎太郎の「落日」

 石原慎太郎は三島の切腹直後に、「現代の狂気としかいいようがない」と語った(「読売新聞」一九七0年十一月二五日夕刊)。石原だけではない。当時の内閣総理大臣・佐藤栄作も、「全く気が狂っているとしか思えない。常軌を逸した行動だ」(「読売新聞」一九七0年十一月二六日)と表明した。江藤淳でさえ、「動機はどうあれ気ちがいじみているとしか思えない」(「サンケイ新聞」一九七0年十一月二六日)と断定した。石原を始めとするいわゆる「狂気説」は、当時の通説と言ってよい。しかし、切腹行為が「狂信的な意志」によって遂行されたことは疑いないとしても、〈気が狂った〉とする「狂気説」がいかに正鵠を射ていない俗説であるかは、既に証明済みである。ただし、事件直後に三島を痛烈に批判した江藤は、その二十五年後の『南州残影』において急旋回し、心情的に三島に大接近した。しかし石原は、彼の著作を見る限り、その後も三島の行為の根底に現存する「精神」を理解することはなかった。

 石原は三島の死後二十年に、三島には二つのコンプレクスがあったと、次のように指摘している(『三島由紀夫の日蝕』)。

……一つは、名声やら、真の肉体やら、願うものをとにかく得たいという獲得への小児的願望、もう一つは、影の和音のように、幼少の頃からの虚弱な肉体のせいで、戦争の折りにも国家が必要としてくれなかったような肉体の故に差別され、肉体の犠牲を賭して戦う栄光から外された経験への恥の意識。

 さらに、三島の死後三十年に当たっても、次のように述べている(「天才五衰」『文學界』二000年十一月特大号)。

 ……兵役への恐怖がありながらその一方国家挙げての戦争に参加したいという肉体的な願望のアンビバレンツと、挙句が兵役への不合格という結果で明かし出された不満は深い内面での挫折感をはぐくんだに違いない。

 石原は、入隊検査不合格のあとの三島の心理を〈恥〉の観念で捉え、さらに〈挫折感〉と見なしている。しかし私的仮想に拠るなら、この時の三島は、肉体の虚弱さによって不合格となった〈恥〉や〈挫折〉を感じたのではない。不合格になるように意図的に画策したことを「邪悪」であり「罪」であると捉えたのである。また石原は、三島の内部にある〈世間全体に対するギルティ・コンシャス〉の解明へのヒントとして、野坂昭如が指摘した「徴兵検査を父親に言われるまま東京ではなしに、ひ弱さが目立ちやすい兵庫県の田舎で受けたことへの後ろめたさ」を取り上げ、的外れの論とは言えない、と述べる。そして、それを卑怯とかずるいとして咎めることはできない、という感想を漏らしている(『三島由紀夫の日蝕』)。

 石原は三島のこの行為を〈卑怯〉と咎めることはできないと考えているが、三島は〈卑怯〉と痛感したがゆえに、深く「罪」と意識したと推定することができる。罪を償うという切腹の本源的意義と、彼の作品中の数多くの暗示を読み解くなら、入隊検査の際の、不正で卑怯な言動を「罪業」と痛切に自覚したがゆえに、贖罪のための自己懲罰を敢行したと洞視できるのである。三島は武田泰淳との対談(「文学は空虚か」)で、戦後のみずからの言動の道徳的背反に伴う〈ギルティ・コンシャス〉を表白していたが、そのさらに内奥にある、戦時中の〈ギルティ・コンシャス〉こそが、切腹の決定的要因であることに想到する。三島は大東亜戦争という「歴史」の中へ敢然と突入して行ったのである。

 また、石原は同書において三島を徹底的に批判している。彼は言う。「三島氏の文学を周りから粉飾しているさまざまなプレゼンスは、全てがあの奇矯な死に方から遡行して配置されて在るともいえる。なにしろこの現代に、誰にもさっぱり訳のわからぬことをやった挙げ句に腹を切って死んでしまったのだから、その異常さの故に過去の全ての奇矯さがそれに向かって�壓がり集約されているとしか考えられぬ仕組みになってしまっている」。しかし、〈奇矯な死に方〉〈誰にもさっぱり訳のわからぬことをやった挙げ句に腹を切って死んでしまった〉などの石原の言辞は、切腹の本義や、三島の精神的軌跡の内相を見ようとしていないことの証左である。三島の死の本質を見極めようとしない、低劣な評言の典型と言わねばならない。そして、『太陽と鉄』で語られている〈ついに獲得した肉体に関する極意〉などは、〈全くの嘘っぱちでしかない〉と一刀両断し、三島における〈肉体の虚構性〉を論じたあと、次のように結論付けている。 いずれにせよ三島氏は結局その肉体における、肉体への意識と肉体の実体との分裂と乖離の故に破綻していった。それが氏のもろもろのプレゼンスの衝動のもっとも深くにある源泉であり、平岡公威ならぬ『三島由紀夫』のエネルギーでもあった。

 しかし、石原は『太陽と鉄』を誤読し、曲解している。三島は〈ついに獲得した肉体に関する極意〉などとは一言も語っておらず、またこの書はそのような内容を全く含んでもいないからである。三島の声に注意深く耳を傾けてみよう。

 ……世のつねの人にとつては、肉体が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであらうに、私にとつては、まづ言葉が訪れて、ずつとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしてゐたところの肉体が訪れたが、その肉体は云ふまでもなく、すでに言葉に蝕まれてゐた。

 このような特異な生体験をした三島が、言葉の呪縛から身を解き放とうとし、「肉体」を「言葉」と同格に置こうとして肉体改造に取り組み、不器用ながらも武道に励んだのである。〈肉体への意識と肉体の実体との分裂と乖離の故に破綻していった〉のではなく、〈肉体への意識と肉体の実体との分裂と乖離を埋めようと刻苦勉励した〉のである。したがってこの書は、「肉体改造」と「武道体験」と「自衛隊体験入隊」によって感得した三島固有の肉体観を語ったものであり、三島だけに適用できる肉体論なのである。『太陽と鉄』は、三島の極めて重要な作品である。ただし、石原とは全く異なった解読をしなければならない。この中で三島は、肉体改造によって克己を実行し、〈戦士〉としての能力を熱望したこと、そして、強化された肉体は〈死〉と結合されていることを悟った、と重大な告白をしているのである。

 また、自決の年に発表した「革命哲学としての陽明学」にも刮目しなければならない。ここでは、〈天の正義〉のためには、肉体を滅ぼしても心は滅びないと信じ、〈聖人〉と同格となることを希求していたからである。「肉体の極意を会得した名人は死ぬ必要もない」「会得された極意の彼方にあるものは死などではなく、ただ虚無でしかない」と主張する石原に対しては、次のように応える。   

 虚弱な肉体では〈戦士〉となることはできない。強い肉体を獲得して初めて、特攻隊員として〈戦死〉することが可能となる。切腹とは、罪を償い、名誉を回復するための神聖な儀礼である。三島は、贖罪のための「聖なる血の儀式」を執行したのであり、決して〈虚無〉ではない。〈天の正義〉に殉じ、〈聖人〉となるべくみずからの肉体を滅ぼしたのであって、三島の死は決して〈破綻〉ではない。改造された肉体は「生」のためではなく、「神聖な死」を究極目的としていたのである。このような三島の肉体を、どうして〈虚構〉と言えようか。「氏がもし願っていた真の肉体を獲得することが出来ていたなら、必ず、死なずにすんだに違いない」と石原は指摘する。そして「天才五衰」の中でも、「天才の自負のまま自分にとってあり得ぬ肉体を望んだりしなければ、たとえ幽鬼のごとく痩せ細り死に魅せられつづけようと氏は願っていた夭折もかわして生き長らえ、真に絢爛とした美の世界を構築できたかもしれないのに」と、同じ趣旨を繰り返している。この終始変わらぬ石原の所見の根底には、「生」を絶対視する思想が潜んでいる。「限りある命ならば永遠に生きたい 三島由紀夫」。自決の翌日三島の部屋の机上で発見された遺書風のこのメモは、何を物語っているのか。肉体は滅びても魂は永遠に生きると信じた三島は、「永遠の生命」を渇望したのである。「肉体の死」よりも「魂の生」を渇求した三島の深遠な精神を、石原は結局見抜けなかったのである。

 引き続いて、石原の「コンプレクス説」を批評する。石原は、願うものを得たいという獲得への小児的願望と、虚弱な肉体のせいで戦う栄光から外された経験への恥の意識という、三島の〈二つのコンプレクス〉を強調していた。だが、この指摘は心理分析に捕縛されている。「心理」を乗り越えようとした三島の意志と行動を見ようしていないのである。心理分析で終息する限り、三島の「精神」の本質を開示することは決してできないであろう。肉体に対するコンプレックスが三島にあったことは事実であるが、彼の最大の特質は、そのコンプレックスを克服しようとした、「自己超克」への強靭な意志である。そして、その「自己超克」の果てが「切腹」と言う「倫理的な死」だったのである。勿論、改造した肉体や、体験した武道に対する顕示欲が三島にあったことは事実であり、そこに稚気を見て取ることはできようが、それは些末ことである。石原が三島を論じるときの最大の欠陥は、〈コンプレクス〉という「心理」を超越した「精神」を洞察する力が欠如しており、三島の精神の核にある「厳格な倫理的精神」への眼差しを持てなかったことにあると言わなくてはならない。

 それにもかかわらず、石原の所論には首肯できるところがある。例えば、三島の内にあった西洋と東洋、観念と情念、古典と未来などの対極の概念を鋭く的確に捉えている。また、三島との対談「守るべきものの価値――われわれは何を選択するか」を振り返って、次のように補足している。「氏にとって日本における文化の絶対の象徴としての天皇もまた私自身の内にしかないという論を氏は極めて西洋的といって非難し、私は天皇制が日本の文化の極めて収斂された象徴であることは認めても、たとえ政治形態が変り共和制となったとしても日本の文化は本質変りはないはずといって対立した。つまりその先に或いはその以前に風土があるということである」。この石原の日本文化観及び天皇観は、宗教的・文学的機能を内包する「文化的天皇」の重要性を認めつつも、〈天皇〉を必ずしも「絶対的存在」とは見なさない私見(『三島由紀夫と神格天皇』)と、通底するところがあるからである。さらに石原は、総監室における切腹寸前の、三島の最後の写真の顔の中に、「全てを忘却し、放擲して本卦帰りした、最後の生の瞬間における人間の顔」を見ており、「なんの混じり気もない静澄な美しさ」に心打たれている。情趣に満ちたこの言葉は、石原の透徹した眼力の顕われと言ってよい。さらに、「あの表情の明かすものは、あの出来事がいろいろな粉飾にまみれていようと実は極めて個人的な、三島氏だけのものだったということに違いない」と推定している。「贖罪のための切腹」と仮想する私は、〈極めて個人的な、三島氏だけのもの〉というこの指摘にも同調することができる。しかしながら、続けて次のように言い切っている。

 ……あの死が誰にもそのまま『魂の叫び』とは受け止められはしないものだけに憂国の行為としてもうさんくさく、二重の意味なり価値をもたせようとしてもそれぞれで破綻している。つまりそういう意味でも出来事そのものは分裂していて、もたらされたものは何もありはしない。

 ここに至って、〈個人的な死〉の内実を熟視しようとしない石原の見解を、私は全否定しないわけにいかない。石原が心打たれた、〈全てを忘却し、放擲して本卦帰りした、最後の生の瞬間における人間の顔〉と、〈なんの混じり気もない静澄な美しさ〉こそ、贖罪のための「道義的な死」を明かすものではないだろうか。同時にそれは、〈魂の叫び〉と〈もたらされたものの重大さ〉を鮮明に写し出している画像と言えないだろうか。「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」。この「檄」の訴えは、自衛隊員にのみ呼びかけられたのではない。正に三島自身に向けられた絶叫であった。三島は、生命至上主義と近代的自我を果敢に超克しようとした。崇高な「倫理的な死」と見なす私観に立つなら、彼の死は〈破綻〉でも〈分裂〉でもなく、まさしく〈魂の叫び〉なのである。

 石原はこの『三島由紀夫の日蝕』の中で、彼だけが知っている、三島に関するエピソードを次々と明らかにし、自己顕示欲、名誉欲、嫉妬心など、三島の人間性を暴露している。「士道について――石原慎太郎氏への公開状」において晩年の三島から批判された石原にしてみれば、これは当然の所業と言えるかもしれない。

しかしながら、完全無欠な人間など存在しないのである。虚心になって三島の作品を熟読するなら、いかに人間的欠点があろうとも、三島の精神の中核には、「国家」と「戦争」と「倫理」に関わる重大なテーマが秘蔵されているのである。二十二年前に石原は三島由紀夫を「日蝕」にたとえた。三島観に関する限り、今、石原慎太郎は「落日」にたとえられるべきであろう。
                                 
 ○引用・参照文献
・石原慎太郎『三島由紀夫の日蝕』(新潮社、一九九一)
・同 「天才五衰」(『文學界 三島由紀夫特集』二000年十一月特大号)
・三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集』第33巻・第36巻・第40巻(新潮社、二00三~二00四)

【寺尾克美、平城弘通証言考】
 「あの日、自衛隊の現場では 西法太郎」(2010.12.4日)を参照する。原文は余計な推理が入り過ぎており却って以下の機密情報の価値を損ねているので削ぎ落とし、代わりにれんだいこの端的な推理を加えておく。
       
 元帝国陸軍軍人で戦後自衛隊に奉職し、三島事件当時に東部方面総監部の市ヶ谷駐屯地に勤務していた平城弘通氏は「日米秘密情報機関『影の軍隊』ムサシ機関の告白」を著わし、三島事件の機微に触れている。れんだいこが注目するのは次のくだりである。
 「三島と森田両名が自裁した後、みずから投降し外に出てきた楯の会隊員に自衛官たちは無謀にも殴り掛かかり、機動隊がそれから隊員を庇ったこと、バルコニー上の三島に加えられた野卑なヤジを勘案すれば当時の自衛隊の士気とモラルは警察のそれを下回っていたのです」。
 「昭和45年11月25日」(幻冬舎新書 中川右介)が、事件当時の政府行政機関・要人の動きを記している。それによると、11時22分、警視庁指令室に、自衛隊東部方面総監部から110番通報があった。「三島由紀夫を自称する酔っ払いが、市ヶ谷の陸上自衛隊・東部方面総監室において日本刀を振り回し、暴れている」と入電された。同25分、警視庁公安第二課は、警備局長室を臨時本部として、関係機関に連絡、同時に120名の機動隊員を待機させた。状況をほぼ把握した土田国保警務部長が佐々淳行警務部参事官を呼び、「君は三島君と親しいのだろう。すぐ行って、説得してやめさせろ」と命じた。総理大臣官邸に第一報が入ったのは、午前11時30分頃。警視庁からだった。その第一報は、市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に暴漢数名が乱入、という内容だった。この時、第64回国会が前日召集され、この日は開会式と内閣総理大臣の所信表明演説が行われることになっていた。防衛庁トップである防衛庁長官中曽根康弘は国会の開会式が終ると、平河町の砂防会館にある個人事務所に戻った。モーニングを脱いだところに陸上幕僚幹部の竹田幕僚副長から電話が入った。「いま東部方面総監部に暴漢が入っています。どうも、三島由紀夫らしい」。これが中曽根への第一報だった。中曽根は、「全員逮捕し、各部隊に動揺が起きないよう厳重態勢をとれ」と命令した。竹田は「逮捕は警察の仕事です」と返答し、中曽根は「総監が人質になっているのだから、自分たちで救助しろ」と云い、竹田は「できません」のやりとりをしている。中曽根は六本木の防衛庁に向かった。この時点での警察官僚のトップの警察庁長官は後藤田正晴であった。後藤田がどう指揮したのかは不明である。結果的に、三島事件は発生が午前11時少し前、12時15分前後には三島が自決し終結している。後に後藤田は、『何とも気持のわるい事件だった。思い出すのも厭だ』という印象を語っている」。

 これより判明することは、三島事件の鎮圧に、防衛庁長官・中曽根康弘、警察庁長官・後藤田正晴、警務部参事官・佐々淳行のコンビプレーが確認できることである。この3者間で機密的な事件処理が為された臭いが濃厚である。そしてこのコンビが中曽根政権時の枢要な役目を果たしている。三島は己の死をもって、三島事件以降に於ける「中曽根、後藤田、佐々の三者同盟の胡散臭い動きを注目せよ」と云う国家機密を歴史に遺したことになる。

 次のくだりも注目される。

 「事件後中曽根長官は総監に辞任を強いていました。長官が強いなくても益田陸将は自ら責めを負って身を処していたでしょう。終戦時サイパン戦を担当した同僚参謀の自裁をしかと見届けた益田陸将です。総監を辞めて間もなく亡くなったのはあの日、自衛隊が自らを貶めたことにやりきれない思いを抱いての憤死だったのです」。
 「平城氏は、三島の振るう太刀で一番傷を負った寺尾氏が昨年郷友連の月刊誌『郷友』に書いた三島擁護の一文を引いて、益田総監と三島が総監室で最後に交わした会話について推測しています。益田陸将は最後の話の中身は秘密にすると三島と約束しているから話せないと、退院して挨拶に行った寺尾氏に語ったというのです」。

 これによると、「事件後、中曽根長官が総監に辞任を強いていた」とある。これを逆読みすると、現場証人の益田総監が煙たい存在になっていたことになる。その益田総監が「総監を辞めて間もなく亡くなったのはあの日自衛隊が自らを貶めたことにやりきれない思いを抱いての憤死だったのです」とある。これによると病死ではなく、憤死ないしは変死だったことになろう。益田総監の急逝も三島事件余波の闇の一つである。

 ここに土田国保警務部長も登場している。土田国保警務部長も事件の顛末を知る一人であるが、1971(昭和46).12.18日、お歳暮に擬装された爆弾が自宅に郵送され、妻が爆発により即死、13歳だった四男が重傷を負う「土田邸小包爆弾事件」に巻き込まれている。この事件で被疑者が逮捕されたが冤罪であり事件の真相は未だ未解明である。知られていないが、1976年のロッキード事件の際、児玉系の捜査を指揮し、田中角栄逮捕に向かう検察と対立し干されている。1975(昭和50).2月、第70代警視総監に就任している。「同年、三木武夫首相殴打事件で国家公安委員会から訓告」とある。もっと内容を知りたいが不明である。1978(昭和53).2月、北沢警察署巡査による世田谷区内での制服警官女子大生殺人事件で国家公安委員会から戒告、引責辞任を余儀なくされている。1999(平成11)年、膵臓癌で死去している(享年77歳)。土田警務部長の妻子を死傷せしめた「土田邸小包爆弾事件」も三島事件余波の闇の一つである。


【土田国保警務部長考】
 ここで、当時の土田国保警務部長の生涯履歴を確認しておく。「ウィキペディア土田國保」その他を参照する。
 土田 國保(つちだ くにやす、1922年(大正11年)4月1日 - 1999年(平成11年)7月4日)は、日本の警察官僚(第70代警視総監)、第4代防衛大学校校長。愛称は「ミスター警視庁」。剣道の達人としても有名で、警視総監時代に警視庁管内の全警察署、警察学校、機動隊の朝稽古に参加。全日本剣道連盟顧問も務め、生涯にわたって指導し続けた。
 1922年(大正11年)4月1日、東京府に生まれる。旧制東京高校を経て、1943年(昭和18年)、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省する。第二次世界大戦中は海軍予備学生となり、戦艦武蔵にも乗り組む。1944年(昭和19年)9月17日、召集され海軍主計中尉としてヒ74船団を護衛していた空母雲鷹に乗船中、雷撃を受け沈没するも、僚船に救助される。主計大尉で終戦を迎えた。戦後、警視庁に勤務。

 1971年(昭和46年)12月18日、警視庁警務部長時代、お歳暮に擬装された爆弾が自宅に郵送され、爆発により妻が即死、13歳だった四男は重傷を負った(土田・日石・ピース缶爆弾事件)。事件当日に記者会見に応じた土田は、「治安維持の一旦を担う者として、かねてからこんなことがあるかもしれないと思っていた。私は犯人に言う。君等は卑怯だ。家内に何の罪もない。家内の死が一線で働いている警察官の身代わりと思えば、二度とこんなことは起こしてほしくない。君等に一片の良心があるならば」と述べた。妻が犠牲となったこの事件以降、新左翼過激派に対して強硬な姿勢で臨むようになった。警視総監時代に連続企業爆破事件で主要メンバー7人を検挙した。

 1975年(昭和50年)2月、第70代警視総監の折、三木武夫首相殴打事件で国家公安委員会から訓告を受ける。(1975年6月、三木首相が日本武道館前で右翼に顔面を殴打された、ともある)

 1975年(昭和50年)12月10日:三億円事件が時効を迎え、会見。

 1978年(昭和53年)2月、北沢警察署巡査による世田谷区内での制服警官女子大生殺人事件で国家公安委員会から戒告を受け引責辞任した。2.24日、土田國保警視総監が、変死した村上健警視庁刑事部刑事部長の千日谷会堂での警視庁公葬の葬儀委員長を務めた後、警視総監を辞任した。

 辞任後は防衛大学校校長(第4代)に就任し、1987年(昭和62年)まで務めた。

 1999年(平成11年)7月4日:膵臓癌のため死去。享年77。

 家族。縁戚に学者が多い。母方の祖父は元会津藩小姓で生物学者、教育学者の高嶺秀夫。父の土田誠一は秋田県由利地方の郷土史家で、東京の旧制成蹊高等学校校長を務めた。弟の土田直鎮は歴史学者・東京大学名誉教授・国立歴史民俗博物館館長、同じく弟の土田正顕は東京証券取引所社長。長男の土田龍太郎はインド文学研究者・東京大学名誉教授。次男の土田健次郎は儒教研究者・早稲田大学教授。三男の土田英三郎は音楽学者・東京藝術大学教授。前述のテロ事件の際に負傷した四男はその後回復し、大手企業に勤めている。

 「指揮官は絶対にうろたえてはいけない」より。
 「私が防衛大学校にいた時の校長先生が土田國保先生という元警視総監の方でした。土田先生は警視庁の警務部長をされていた時、贈り物を装って自宅に送られてきた爆発物によって奥様が亡くなり、息子さんも大怪我をされたことがあるんです。土田先生が朝礼で部下からその報告を受けた時のお話をなさったことがあるのですが、私はそのお話がとても印象に残っているのです。

 土田先生は、「君たちはいずれ、部下や家族の突然の死というものに直面する機会があるかもしれない。また有事の際は自分の組織が全滅することもあるかもしれない。その時に指揮官は絶対にうろたえてはいけない」と前置きをされて、ご自身のご家族が事件に巻き込まれた時のことをこのように話されました。「自分がその報告を受けた時、正直、足がガクガクと震えた。しかしここで自分が震えているところを見せたり、うろたえたり、涙を流したりしていると、部下がどう対応をしていいのか分からなくなってしまう。だから自分はその時、お尻の穴をくっと締め、下腹にぎゅっと力を入れて、大きく深呼吸をした。そしてすっと立ち上がって、これからどう捜査を進めるか指示を出した。いざという時の参考にしてほしい」と。お話を伺いながら私もお尻の穴をくっと締めて、下腹に力を入れ、大きく深呼吸をしたことをいまでもよく覚えています。

 もう1つリーダーという立場の重要性を実感させられた体験があります。自衛隊の時に私は小さな部隊にいたんですけれども、不思議なもので、指揮官が代わると隊員は変わらないのに部隊の雰囲気がガラリと変わるんです。暗い部隊だったのに急に明るくなったり、前向きになったり、なんでも議論ばかりして前に進まない組織になったり、指揮官の性格がそのまま部隊に反映されるのです。私はそれを見て、リーダーのあり方は本当に重要だと実感しました」。

【三島の割腹自殺に纏わる不審考】
 「三島由紀夫割腹余話」を転載し、適宜に論評しておく。
 昭和四十五年(一九七〇)十一月二十五日、作家・三島由紀夫(四五)が東京都新宿区市ケ谷本村町の陸上自衛隊東部方面総監部の総監室において割腹自刃した。その際、三島と行動をともにした楯の会会員四人のうち、森田必勝(二五)も、最後には古賀浩靖の手を借りたとはいえ、三島を介錯したのち割腹し、その森田の首をさらに古賀が刎ねた。いわゆる≪三島事件≫である。当時のある新聞が、三島の首と胴体が転がっている生々しい写真を掲載して非難を受けたことを記憶している。
(私論.私見)
 三島のみならず森田必勝の死に方も注意せねばならない。彼の死に方も腑に落ちないところがある。
 【事件のあらまし】  -省略可-

 死についての三島の計画の立てかたは、その小説の結構と同様、手が込んでいた。彼は細心の注意を払って、身辺をきれいに整理した。十一月に先立つ半年の間に、彼は順を追って執筆その他の約束を果たした。「豊饒の海」第四部である「天人五衰」の最終稿を、彼は期日どおりに出版社に渡せるように完成した。三島が締め切りを守らないことはなかった。 

 彼はまた、彼の私兵である「楯の会」会員から、計画に参加する数名を慎重に選んで準備した。この特別班は、滞りなく事が運ぶようにリハーサルさえ行った。そして、二十四日の夜、三島は最終的な手配に取りかかった。友人のジャーナリスト二人に連絡し、米国人の翻訳者二人に宛てた最後の所感と指示や、後に残る楯の会会員宛ての手紙を含めて、幾通もの別れの手紙を書いた。
(私論.私見)
 この書き方では三島割腹自殺事件には何の疑念も生まれない。
 翌朝、彼は軍刀と、二振りの短刀を収めたアタッシュ・ケースなど、必要な品々を揃えた。長篇の結びを書き終え、出版社宛ての封筒に入れて、自宅の広間に置いた。二人のジャーナリストに再び電話をかけて或る会館の名を挙げ、そこのロビーで待っていてほしいと頼んだ。そして、楯の会の会員四人とともに自宅を出た。
(私論.私見)
 二人のジャーナリストに再び電話をかけ、或る会館のロビーで待っていてほしいと頼んだのであれば、生還する可能性をも信じていたことになるのではなかろうか。
 楯の会の制服を揃って着込んだ三島と若い部下たちは、車で市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に向った。三島は東部方面総監益田兼利陸将に午前十一時に面会を申し込んでいたので、一行は到着すると直ちに総監室に通された。二、三分雑談したあと、前もって打合わせておいた合図に従って、三島の若い部下たちは、なんの疑念も持っていなかった益田総監に飛び掛って縛りあげ、机や椅子などで部屋の入口を塞いだ。 

 そして、外で唖然としている幕僚らに対して、四つの要求を書いた紙を、ドアの隙間から滑り出させた。三島は、これらの要求が入れられなければ総監を殺し、自分も切腹すると脅迫していた。混乱した幕僚たちは武器も持たずに二回、室内の様子を見に押し入ろうとしたが、三島はまず彼らを威しつけ、刀を振り回して数人に怪我を負わせて、追い出した。暴漢となった作家の一行が本気であることを知った責任者は、捕われた総監の生命を気遣って、要求を受け入れた。彼は三島の演説を聞くために市ヶ谷駐屯地の全隊員を正午前に集合させること、午後一時十分までは何が起こっても妨害しないことに合意した。

 正午直前に、三島は総監室の外のバルコニーに姿を現わした。彼は定刻になるのを待って歩き回り、一方、森田は要求を書いた垂れ幕を広げた。十二時きっかりに、三島は足下に集まった隊員たちと、ふくれ上がってきた報道陣に顔を向けた。隊員たちに向ってマイク無しの肉声で、興奮した身ぶりをまじえつつ、真の「国軍」として目覚め、われわれの決起に参加せよ、と訴えた。

 しかし演説の大半は、頭上を旋回する警察のヘリコプターの音にかき消されてしまい、ようやく聞きとれた言葉に対しては、隊員たちは野次をとばして反発し、からかった。戦力放棄を謳った憲法を否定し、自衛隊に対して「共に起ち、義のために死のう」と呼びかけた「檄」がバルコニーから撒かれたが、隊員の誰一人として、三島のもとに駆け寄ろうとはしなかった【檄文】。彼らは、作家の熱烈な訴えに嘲笑で応えただけだった。三十分間予定されていた演説は、七分間の茶番劇で終わった。三島と森田は、型通りに「天皇陛下万歳」を三唱し、総監室に姿を消した。
(私論.私見)
 ここは通説通りを書いているだけである。
 三島は長靴を脱いで上着のボタンを外し、ズボンを押し下げて、床に坐った。鋭い短刀を腹に刺し込み、右へ向けて横一文字に引いた。名誉ある介錯人に選ばれた森田は、主人の背後に立ち、刀を振り上げて、三島の首を打ち落とす瞬間を待った。内臓が床の上に溢れ出、三島の体は前方か後方のどちらかに傾いた。森田は二太刀打ち下ろしたがうまく切れず、目的は果たせなかった。彼より大柄な隊員の一人が軍刀をもぎ取り、力をこめて正確に振り下ろした。三太刀目かに首は離れた。あるいは「押し斬り」にしたのかも知れない。
(私論.私見)
 ここで、三島の介錯人が森田だけでなく、誰か明記していないが「彼より大柄な隊員の一人」が「軍刀をもぎ取り、力をこめて正確に振り下ろした。三太刀目かに首は離れた」としている。この隊員は誰なんだろうか。
 ついで森田は、血まみれの三島の胴体の脇にひざまずき、三島が使った短刀を取って自分の腹を刺したが、切り口は浅く、筋肉と脂肪の層を切り裂くまでには至らなかった。これも切腹の一つの儀式であった。手練の一太刀で、彼の首も落ちた。後に残った三人の会員は、このとき涙を流していたが、総監の縄を解き、胴体と首をきちんと並べて深々と頭を垂れたのち、警官や警務隊におとなしく取り押えられた。血生臭い事件は終わった。
(私論.私見)
 森田の首を一太刀で落した「手練」とは誰のことなのか。
 十一月二十六日付「朝日新聞」の報道によると、牛込署捜査本部は二十五日同夜二人の遺体を同署で検視し、結果を次のように発表した。三島の短刀による傷はへソの下四㌢ぐらいで、左から右へ十三㌢も真一文字に切っていた。深さは約五㌢。腸が傷口から外へ飛び出していた。日本刀での介錯による傷は、首のあたりに三か所、右肩に一か所あった。森田は腹に十㌢の浅い傷があったが、出血はほとんどなかった。首は一刀のもとに切られていた。三島と森田は「楯の会」の制服の下には下着をつけず、二人ともさらしの新しい〝六尺″ふんどしをつけていた。検視に立会った東京大学医学部講師・内藤道興氏は、「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、という状態で、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」と話した。 
(私論.私見)
 三島と森田は「楯の会」の制服の下には下着をつけず、二人ともさらしの新しい〝六尺″ふんどしをつけていたなる詳細情報が貴重である。
 もう一つ、十二月十三日付「毎日新聞」掲載の「解剖所見」を引用すると、(三島由紀夫・十一月二十六日午前十一時二十分から午後一時二十五分、慶応大学病院法医学解剖室・斎藤教授の執刀)。死因は頚部割創による離断。左右の頚動脈、静脈がきれいに切れており、切断の凶器は鋭利な刃器による、死後二十四時間。頚部は三回は切りかけており、七㌢、六㌢、四㌢、三㌢の切り口がある。右肩に、刀がはずれたと見られる十一・五㌢の切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はへソを中心に右へ五・五㌢、左へ八・五㌢の切創、深さ四㌢、左は小腸に達し、左から右へ真一文字。身長百六十三㌢、四十五歳だが三十歳代の発達した若々しい筋肉。

 森田必勝(船生助教授執刀)については、死因は頚部割創による切断離断、第三頚椎と第四頚椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部のキズは左から右に水平、ヘソの左七㌢に深さ四㌢のキズ、そこから右へ五・四㌢の浅い切創、ヘソの右五㌢に切創。右肩に〇・五㌢の小さなキズ。身長百六十七㌢。若いきれいな体をしていた。
(私論.私見)
 ここはそのまま窺うしかない。
 三島の切腹で一つだけ<奇異な感じを抱かせられた>のは、あの腹の切り方は一人で死ぬ場合の切り方であったということである。三島が作品「憂国」や「奔馬」で描き、映画「人斬り」で自ら田中新兵衛に扮してみせた切り方であって、介錯を予定した切り方ではない。

 しかし三島はこの挙に出る前に、森田あるいは古賀が介錯することを打合せているのである。そうとすれば、他人による介錯、すなわち<斬首>ということを予定した腹の切り方をすべきではなかったか。
三島のように、あれほどの深さで真一文字に切った場合(これは常人のなしえざるところである)、肉体はどういう反応を示すのであろうか。刀を腹へ突き立てたとき二つの倒れ方が想定される。それは切腹の際の身体の角度による。瞬時に襲ってくる全身の痙攣と硬直により、膝の関節で折れ曲っていた両脚がぐっと一直線に伸びるためか、角度が深いときはガバとのめるように前へ倒れ、角度の浅いときは後へのけぞるのである。

 これは切腹なしの斬首のばあいも同様で、押え役がいるときは前へ倒れるように押えているからよいが、支えがない場合の多くは後へ立ち上るようにして倒れ、そのために首打役もその介添人も血をあびることがある。(斬首のさい<首の皮一枚を残して斬る>とよくいわれるのは、押え役のいない場合、そうすることで前にぶら下った首が錘となって身体を前へ倒れさせるからで、これは幕末の吟味方与力・佐久間長敬が『江戸町奉行事蹟問答』のなかではっきりと述べている。)


 三島の場合、どちらの倒れ方をしたかわからないが、いずれにしても腹から刀(この場合は鎧通し)を抜く暇もなく失神状態に陥り、首は堅く肩にめりこみ、ひょっとしたら両眼はカッと見開かれ、歯は舌を堅く噛み、腹部の圧力で腸も一部はみ出すといった凄惨な場面が展開されたかもしれない。それはとても正規の介錯のできる状態ではなかったと思われるのである。

 
介錯人としての森田の立たされた悲劇的立場が思いやられる。なぜなら、介錯人というものは<一刀のもとに>首を刎ねるのが義務であり名誉であって、もしそれに失敗したとなれば、かつては<末代までの恥>と考えるくらい不名誉とされたからである。

 昔の首打役の不文律として、斬り損った場合、三太刀以上はくださないとされ、したがって二太刀まで失敗したときには、死罪人を俯伏せに倒して「押し斬り」にすることさえあった。死罪場においてちゃんと死罪人を押えて首をのばさせ、斬首のプロが斬るときでさえ失敗することがあるのである。まして三島のような身体的反応が起った場合には、一太刀で介錯することは不可能といってよかったのではあるまいか。  

 昭和四十六年四月十九日および六月二十日の第二回と第六回の公判記録によると、右肩の傷は初太刀の失敗であった。おそらく最初三島は後へのけぞったものと思われる。森田は三島が前へ倒れるものとばかり思って打ち下ろしたとき、意外にも逆に頚部が眼の前に上がってきたため手許が狂い、右肩を叩きつける恰好になったのであろう。そのため前へ俯伏せに倒れた三島が額を床につけて前屈みに悶え動くので首の位置が定まらず、森田はそのまま三島の首に斬りつけたか、それとも三島の身体を抱き起して急いで斬らねばならなかったかはわからないが、いずれにしても介錯人には最悪の状態でさらに二太刀(斎藤教授の「解剖所見」によると三太刀か?)斬りつけ、結局は森田に代った古賀がもう一太刀ふるわねばならなかったのは、致し方なかったと思われる。

 最後はあるいは「押し斬り」に斬ったかもしれない。現場写真で三島の倒れていた部分の血溜りが、ほぼ九十度のひらきで二方向に見えているのはその結果ではあるまいか。森田は自分の敬慕してやまない先生を一太刀で介錯できなかったことを恥じ、「先生、申し訳ありません」と泣く思いで刀をふるったことであろう。

 しかしここで愕くべきは森田の精神力である。普通の介錯人は初太刀に斬り損じた場合、それだけで気が転倒し、二の太刀はさらに無様になるか、別な人間に代ってもらうものである。そのために介添人がいるのである。それほど斬首ということは極度の精神的緊張とエネルギーの消耗をともなう。

 それなのに三太刀(ないし四太刀)も斬りつけ、しかも介錯を完了しえなかった人間が、三島の握っている鎧通しを取って続いて自分の腹を切るということは、これまた常人の到底なしえないことなのである。しかも腹の皮を薄く切って、一太刀で自分の首を刎ねさせている。
腹の傷が浅いということでこれを「ためらい傷があった」と報じた新聞もあるが、それはあたらない。人間の腹はなかなか刃物の通りにくいもので、むしろこれをはじき返すようにできている。さらしでもきっちり巻いているなら別だが、直接皮膚に刃物を突き立てたのでは、相当の圧力がなければはじき返されるものである。
 

 森田の場合は初めから薄く切って介錯を見事にしてもらおうという考えであったと思われる。切腹する人間は首を斬られて死ぬのではなく、介錯人に首をうまく斬らせるのである。それが昔の武士たちが実際の経験の積み重ねから作り上げた一番<見苦しくない>切腹の美学であった。そういう意味では、森田のほうが昔の切腹の美学にかなっていたといえよう。さすがに三島が最も信頼した人物にふさわしい腹の切り方であったように思われる。
 

 三島は生前、映画「憂国」
小説・憂国(抄)】を製作したさい、二・二六事件で決起に遅れて自宅で割腹自殺をとげた青島中尉(「憂国」のモデルといわれる)の割腹現場に駈けつけた軍医から、そのときの実見談を聴取していたといわれる。

 そして青島中尉が割腹後五、六時間たってもなお死にきれず、腹から腸を飛び出させたまま意識を失い、のたうちまわっていた有様をよく知っていた。したがって介錯がなければ切腹が見苦しい死にざまを曝すおそれのあることを十分に認識しており、そのために介錯を予定したことは正しい計算であった。
 それなのに敢えてあのような深い腹の切り方をしたのは、なぜなのであろうか。三島ほどの綿密な計算をする人にも、切腹後の肉体的変化までは計算しえなかった千慮の一失なのであろうか。<奇異な感じを抱かせられた>と述べたのはそのためである。 


 これはなにも三島の切腹を貶しめようとするものではない。三島はその文学においても、必ず自己を主張しなければやまぬ人間であった。そのエゴの強さ、抜きがたい自己顕示性からあの赫奕たる文学が生れたのである。そして切腹の場にいたるまでそのエゴを押し通したのである。
(私論.私見)
 ここの記述が特に貴重である。三島割腹の不自然さを訴求している。本稿がこのことを指摘しているところに意味と意義がある。
 三島と親交のあったドナルド・キーン(コロンビア大学教授・日本文学研究家)宛に投函された最後の手紙は以下のようだったという。「君なら僕がやろうとしていることを十分理解してくれると思う。だから何も言わない。僕はずっと前から、文人としてではなく武人として死にたいと思っていた」。

 【評論・仮面の戦後派」】
 【三島由紀夫 『憂国』、加藤周一他 『日本人の死生観』、綱淵謙錠 『斬(ざん)』、他】
(私論.私見)
 ここで再び通説の割腹事件に戻している。

【素人による斬首困難論】
 思いがけぬところから、「素人による斬首困難論」を得た。「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK179」の「見て、後藤さんの殺人映像もフェイクでした。グロさ閲覧注意レベル。こんな偽物を口実に中近東の子供たちを空爆しちゃダメだ」を転載しておく。
72. 2015年2月05日 00:55:08 : 5RB5Dmx95U
54. 2015年2月04日 19:20:19 : IMQzjnLJEA
56. 2015年2月04日 20:07:35 : tYEyIuqs7Y さん

 故人ですが 中村 泰三郎 という有名な居合抜刀の先生がおられます。本の中で逸話として紹介されています。三島 由紀夫先生の介錯人は実は2人おられたようです。最初の1人は剣道の型を大事にされるお方であったらしい。2人目は本身(真剣)での居合抜刀の達人のようです。三島由紀夫先生が見事な割腹をして介錯を待っている状態を想像して下さい。1人目の方が最初の介錯では失敗した。直ぐに2回目の介錯をされたようですが気が動転したのかこれも失敗。それで諦めてその場に正座されたようです。しかたがないので2人目の方が三島由紀夫先生を介錯されてこれは1回で成功した。振り返ると1人目の方も見事な割腹をされていて同じく介錯を頼むになっていた。それで2人目の方がこの1人目の方も介錯されたそうです。恐らく1人めの方は責任を感じられたんでしょう。

 抜刀とは畳表を巻いたものに水をかけてこれを瞬時に切断する技です。相当な熟練と技の訓練が必要でものすごく難しいようです。勿論本身(真剣)を使用して訓練します。各地に流派があり技の継承が現在でも盛んに行われています。 つまり介錯はこのように難しくて簡単ではありません。一言で斬首といっても簡単ではないようです。

 従ってこの阿修羅で話題になっているような小型のナイフでの斬首という行為は相当難しいというよりほぼ不可能ではないでしょうか。

 日本刀の重さ これもご参考

 日本刀の重さは、普通の刀で重さ1.5キロといわれています。プロ野球で使用している木製バットが1キロ弱であることが多いので、それより重いということになります。 ちなみに剣道で使用する竹刀の重さが500グラムくらい。その3倍です。結構、重い上に日本刀だから、油断していて技が不足していると振り回した時に自分の足でも斬ります。王貞治さんが現役時代に真剣で素振りをしていた話は有名です。一流選手の王さんですら、初めて真剣を振るった翌朝は腕がパンパンになったといいますから、日本刀を振るうのは相当な力が必要ということになります。


 これによれば、次のような通説はウソと云うことになるのではなかろうか。
 質問「三島由紀夫は、切腹がうまくいかず、もがき苦しみながら死んだ、と言われていますが、本当のところどうなんでしょうか」。アンサー「介錯人の森田必勝(当時:早大生)が一刀で首を落とせず、肩口に切りつけるなど不手際があり、三回も四回も切りつけたそうですから、三島はさぞかし苦し かったことでしょうね。なにより腹を13センチ、真一文字に切り、中から臓物がはみ出している状態のまま、それでも首は離れず、血の海のなかでしばらく生 かされていたわけですから、想像を絶する苦痛だったことでしょう。結局、古賀会員が森田に代わって刀を取り、一太刀で介錯を終えたのはご存知の通りです。この直後、腹を切った森田の首も彼が一太刀で落としました」。

 「三島由紀夫の生首がその日の夕刊に掲載されたらしいのですが、 事件がおこった...」が貴重な質問をしている。それによれば、「三島由紀夫の生首がその日の夕刊に掲載されたらしいのですが、事件がおこったのが11時ごろ、写真を写した人が警察の事情聴取を終えてから新聞社に持ち込んだのでしょうか? よくその場で写真を返してくれたと思うのですが、警察では現像しなかったのでしょうか? その日の内にどうして新聞に掲載することが出来たのでしょうか?」と問うている。この問いに、次のアンサーがされている。
 「翌日の朝刊と、フライデーに掲載されたものはあるが、『その日の夕刊に掲載された』というのは事実かな。 <追記>三島由紀夫の頭部が直立しているモノクロ写真は、朝日新聞の夕刊の都市配布分、早版のみ使用され、すぐ首の映っていない写真に替えられた夕刊が全国に配達された。この首の映っている写真は、朝日新聞のカメラマンが、総監室の外から、内の状況がわからないまま、棒の先にカメラをくくりつけ、ファインダーをのぞかないで、手元でシャッターを押して撮影したと後で報じられた。(「平凡パンチの三島由紀夫」参照)」。

 「質問した人からのコメント」は次の通り。「2008/10/5 08:05:32 朝日新聞のカメラマンが外から撮った!何が写っているかも分からずに!なるほど、だから時間に間に合ったんですね。夕刊も一部の地域のみの、掲載だったんですね。皆さん、回答ありがとうございました」。

 れんだいこは、「この首の映っている写真は、朝日新聞のカメラマンが、総監室の外から、内の状況がわからないまま、棒の先にカメラをくくりつけ、ファインダーをのぞかないで、手元でシャッターを押して撮影したと後で報じられた(「平凡パンチの三島由紀夫」参照)」なる文を許さない。要するに大ウソ、デタラメ記事だと思うからである。カメラマンがしっかり写真化し、然るべきルートで朝日新聞社に渡り掲載されたと考えるべきであり、「総監室の外から、内の状況がわからないまま、棒の先にカメラをくくりつけ、ファインダーをのぞかないで、手元でシャッターを押して撮影した」なんてことがある訳がない。要するに子供騙しの弁であり、この弁が通用するのは子供騙しの弁で騙される大人がいるからに過ぎない。

 どこがオカシイかと云うと、「総監室の外から」としているところである。れんだいこ推理によると、三島らは総監室ではない別のおぞましい部屋へ連行され儀式殺人されている。にも拘らず犯行現場を総監室としているところが既に臭い。この後は目一杯ウソつくぞと知らせているようなものである。今日、三島の首と遺体がネットで見られるが、「内の状況がわからないまま、棒の先にカメラをくくりつけ、ファインダーをのぞかないで、手元でシャッターを押して撮影した」として、あれほど正面から写せるものかどうか子供でも分かろう。

 れんだいこが云いたいことは、三島事件には、他の重要事件も然りだが意図的故意の撹乱的虚報が多過ぎると云うことである。しかも、この撹乱的虚報をしたり顔して解説する者が多過ぎる。

 2015.2.11日 れんだいこ拝

 「動画」後藤さん斬首シーン | さゆふらっとまうんどのHP ブログ
拡大すると、気味の悪い生首写真です、 拡大は、勇気のある方だけにしてください。





(私論.私見)