第8章 益田総監の辞任
第1節 潔しとしない
益田総監は中曽根防衛庁長官と膝詰め談判の末、潔しとしないと言って全責任を取って辞表を提出した。私は、この膝詰め談判の記録テープを聴いて腸が煮えくりかえる思いがした。それは中曽根長官の「俺には将来がある。総監は位人臣を極めたのだから全責任を取れば一件落着だ」というくだりにである。「東部方面総監の棒給を2号棒上げるから…」(これは退職金計算の基礎額が退職金を増やすという意味)。こんな準備をして迫った。当時、第11師団長(月額16万円)から東部方面総監に栄転してきた後任の中村龍平総監(月額32万円)のご夫人が池田勇人総理が提唱した所得倍増論よりもすごいと吃驚していた。歴代の防衛庁長官で全責任を取らなかったのは中曽根長官だけである。
私は学生時代に、大隈講堂で政治討論会を聞いたことがある。そのとき各党を代表して演説をした政治家は、石橋湛山大蔵大臣、浅沼稲次郎、川崎秀次、野坂参三、中曽根康弘(弱冠25歳で最年少で衆議院議員に当選)であった。このとき、中曽根は将来総理大臣になるかもしれない、と思い期待していたが、前述のテープを聴いて、中曽根はこういう男かと嘆かわしく思った。風見鶏と言われながら渡り歩いて、とうとう最後には総理大臣にまでなった。総理大臣のとき、憲法改正ができないので「専守防衛」という「政治的捏造語」を唱えて、その場しのぎで今日まで国民や近隣諸国を誤魔化してきている。
第2節 関連主要人事
益田総監の後任に、陸士49期生の中村龍平陸将が第11師団長から栄転になり、半年後には陸上幕僚長に栄転、その後統合幕僚会議議長になった。政治家が責任をとって長官を辞めても議員を辞める訳ではない。いずれ返り咲くことができる。中曽根長官が責任をとっていれば、益田総監は陸上幕僚長、統合幕僚会議議長への第一の候補者だったのに、辞職したら直ちに失職するのである。総監を人質にして三島由紀夫の演説を聞くように強要されて隊員を集合させたとして、中曽根長官に「あいつを飛ばせ」と言われ、自衛隊大阪地方連絡部長に左遷された吉松秀信防衛担当幕僚副長は、次は方面総監部幕僚長、師団長と目されるランクにあった方だったが遠回りして、中部方面総監部の幕僚長になったが、通信学校長(陸将)で定年になった。地方連絡部長の命令を受けたとき、「寺尾よ、わしを地連部長ごときに飛ばしやがって」「わしも入院したかったよ」と裁判疲れの本音を語っていた。事件から2、3年後、吉松秀信氏が中部方面総監部幕僚長だったとき、隷下部隊で訓話を聞いた者から、前述の益田総監の訓話を聞いたものと同様の電話や手紙がどんどん届いた。
第3節 益田兼利元東部方面総監急死
益田総監は、辞任後暫くして日本航空の子会社日本航空貨物の顧問に就いたが、帰宅途中に腹痛を覚え、とうとう我慢しきれなくなって、途中下車して病院に駆け込んだ。そのときは既に盲腸が破裂しており、すぐ手術を行ったが、腹部の脂肪が厚く盲腸を取り出すのに苦労したそうだ。背中の方にあったらしいが、手術後ガスが出ないので再手術をした。それでもまだガスが出ない。とうとう腸閉塞でこの世を去ったのである。今どき盲腸炎が破裂していても死に至るとは? と理解に苦しむ。自衛隊中央病院の先生達の間からは、「医療ミスに違いない」と言われていたそうでした。盲腸を探し当てるのに苦労して、元に戻すとき腸が捻れたままだったのではないか、再手術のときも直しきれなかったことが考えられる、と言われていた。告訴しても死者は戻らないので、裁判沙汰にはしなかったようだ。私は、北部方面会計隊長で札幌在勤中だったとき、元行政担当幕僚副長山崎皎さんの音頭で、三島由紀夫事件で入院した6人が揃って大宮の春秋園にある益田兼利元総監のお墓参りをした。益田元総監は現職中は健康そのもので、健康診断以外は医者にかかったことがなかった、と艶子夫人から伺った。実に残念至極であった。因果な巡り合わせになってしまった。