三島を落し込める虚説「三島ホモ伝説」流布考その2

 (最新見直し2014.06.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「三島を落し込める虚説、虚像流布考」をものしておく。その最大のものが「三島自決説」であり、それは「ドキュメント」の項で述べた。次に「三島ホモ説」である。この第2を検証する。

 2013.08.31日 れんだいこ拝


三島の死後には、彼と同性愛関係にあったようなことを言う詐欺師たちが何人か出没し、三島自身が書いたという同性愛関係の日記を有名作家に売りつけようとした詐欺師もいたらしい。彼ら詐欺師たちも大多数の読者と同様に主として『仮面の告白』の記述を真に受けて(つまり三島がそこで己の過去の事実を正直に語っているものと単純に信じ込んで)、三島を同性愛者と信じていればこそ主として金目当てにでっち上げの手記や日記を売り込もうとするわけである。彼らのうちの一人の手記はどうもかなり信用されているらしい。なんとも無邪気なことである。彼らは『仮面の告白』の同性愛者「私」(実はこんな奇妙奇天烈な同性愛者は決して現実にありえないのだが。特に後半の「私」の心理は実在の心理では決してありえない自己矛盾した荒唐無稽な架空の部分が多々ある)を作者三島由紀夫と同一人物とみなして、三島を同性愛者と信じ込み、同性愛の三島が同じく同性愛の男を愛するものと当然のように信じ込んでいるわけだが(それゆえに詐欺師たちも皆どうも同性愛者であるらしい)、それはまったくの幼稚で滑稽な誤解である。三島は勿論のこと、作中の同性愛者「私」にしても、なにも同性愛の男を愛しているわけでは全然ないのである。詐欺師たちは(また彼らに誑かされる人々も)こうしたことをまったく認識せず、『仮面の告白』や『禁色』や三島の思わせぶりの同性愛者めいた言動などから三島を同性愛者とひたすら信じ込んで、同性愛者の三島は当然のように同性愛の男を愛するものと頭から思い込んでいるのである(こうした勘違いが蔓延していればこそ、詐欺師たちの虚言が真に受けられるのであろう)。『仮面の告白』や『禁色』に登場する同性愛者たちはいずれも若干「女性的」な柔弱な感じに描かれているため、これらの作品を読んだであろう詐欺師たちの思い描く同性愛者としての三島像も「女性的」な柔弱な感じになるのではないかと思われる。


三島は同性愛についてこうも言っている。「いわゆる少女歌劇のファンとか、女学校におけるお姉様と妹との関係とか、エスとか、男の間での稚児さんのこととか、そういう話は、日本では割に公然と平気で言われていることであります。少女歌劇の男役に対する熱中などはちょっと理解しがたいほどの強烈なものですが、ヨーロッパやアメリカでは、そういうことはグロテスクなこととして、頭から排撃されるが、日本ではそういう思春期の同性愛には、非常に寛大であります。そしてむしろそういう方が、異性との恋愛よりも安心だという考えが、親たちにも強い。(中略)男の間では、九州の方に古くからある美少年をかわいがる風習のように、異性愛は軟弱である、かえって同性愛の方が武士道的な男らしい愛情だと考えられてきたのです」(『新恋愛講座』)


現実の三島は同性愛の露見を恥じ恐れて隠すどころか、むしろ嬉々とした様子で他者に同性愛を吹聴しているのである。彼のこうした振る舞いは『仮面の告白』の執筆公表と完全に符節を合わせているのであり、彼は『仮面の告白』を公表せずして現実に同性愛者の振りをすることは決してできないのである。


ジョン・ネイサンが伝えているところでは(『三島由紀夫――ある評伝』)、三島は昭和二十六年末から翌年にかけて数か月間海外旅行をしたさい、リオ・デ・ジャネイロでわざわざ案内役の朝日新聞特派員の目につくように「おおっぴらな同性愛」を見せつけたという。ネイサンは三島がこの「最初の海外旅行の前から、積極的な同性愛者になっていたという証拠はない」とし、そしてこの特派員の言葉を真に受けて、というよりこの特派員に三島がわざと見せつけた同性愛者めいた振る舞い――昼間にホテルの自室に現地の少年を連れ込んだというだけの行為――を真に受けて、この「最初の海外旅行」をきっかけとして三島が「積極的な同性愛者」になったかのように考えている。三島が同性愛者の仮面をかぶったのは『仮面の告白』以後である以上、それ以前に彼が「積極的な同性愛者になっていたという証拠はない」のは当たり前のことである。


さらに、『仮面の告白』執筆最中の昭和二十四年一月には、三島は編集者木村徳三宅を訪れ、近所の心理学者を訪ねた帰りだと言って、自分の倒錯性向を打ち明け、「満足そうに」帰って行ったという(木村徳三『文芸編集者その蛩音』)。そして同年十二月には木村に手紙で、ゲイ・バーのボオイの姿が忘れられない、などとわざわざ知らせているのだ。書簡だからといって真実を書いているなどと盲信してはならないのである。


また、『禁色』など同性愛物を書いているころ、三島は何人かの編集者たちに、「これは絶対口外してくれるな」と言って、自分はホモだと耳打ちしたという(野平健一『矢来町半世紀』)。ほとんど新聞の連載コラムで「ここだけの話だが」と書くようなものである。もしも自分がホモだということが「絶対口外して」欲しくないと思うほど他人に知られるのを深甚に恥じ恐れるような「恥部」だとしたら、編集者にせよ誰にせよ三島がそんな己の「恥部」を何人にも「絶対口外」するはずがあるまい。日本社会で同性愛が本当にタブーになっていたとしたら、三島がそんなことを決してするわけがないのであり、『仮面の告白』を嬉々として執筆公表することなど絶対にできるわけがないのである。


三島は特に『禁色』執筆のころまでは編集者たちにしきりに自分を同性愛者と思わせようとした形跡が窺える。三島がそうしたことをするのは、「過去の喚起はすべて醜かった」と慙愧し嫌悪する己の「醜かった」過去を同性愛を利用して改竄捏造することにより「自分、及び、自分の人生を、まるごと肯定」せんと試みた『仮面の告白』を真に受けさせたいからにほかならない。より具体的には、自分が必死に仮病を使って兵役逃れした行為について、なぜあんなことをしたのか「私にはわかりかねた」と何とかして無答責にしたいからこそ、己のその現実の「醜かった」振る舞いの取り繕いに利用した特異な同性愛の論理と心理を現実に真に受けさせるために、現実の場でも嘘をついたのである。現実の深甚な「恥部」があったからこそ、それを取り繕うために利用した偽の曖昧軽微な「恥部」を現実の場でも真に受けさせようとしたのである。


このように三島は世間に同性愛者とみなされるのを大して気にせず、むしろ面白がっているのである。三島にとって世間に同性愛者と思わせることは『仮面の告白』以後は一部には「商売」のためでもあったことは確実である。


だからこそ、「誤解という麻薬は、一度味わったら忘れられないふしぎな秘密の甘味がある」(『私の文学』)と彼は感じるのだ。「誤解された自分を押し立ててその裏で告白をする」ということこそ、まさに『仮面の告白』の詐術的方法論なのである。


同曲のなかで三島は、海軍予備学生を志願した息子経広の危険な任地を安全な場所に変えてもらうよう海軍大臣に頼みに行こうとする者に対して、父親にこう言わせている。「私からお願いする。どうか大臣のところへは行かないでくれ。そんなことをしたら、すべてはおしまいになる。私ばかりか、経広の矜りも、朱雀家そのものの矜りもおしまいになる。お前は秘密は保たれるというだろう。なるほど世間に秘密は保たれるかもしれない。しかし私が知っている。お前が知っている。海軍大臣が知っている。その知っているという小さな傷口が日ましにひろがって、やがて大きな腐った傷口が歌い出すのだ。そういうことに比べれば、経広の命も物の数ではない」。


三島は昭和四十三年に己の作家としての出発時を振り返ってこう書いている。「告白と自己防衛とはいつも微妙に噛み合っているから、告白型の小説家を、傷つきにくい人間だなどと思いあやまってはならない。彼はなるほど印度の行者のように、自ら唇や頬に針を突きとおしてみせるかもしれないが、それは他人に委せておいたら、致命傷を与えられかねないことを知っているから、他人の加害を巧く先取しているにすぎないのだ。とりもなおさず身の安全のために!。


昭和四十一年には、「たしかに二・二六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった。当時十一歳の少年であった私には、それはおぼろげに感じられただけだったが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、どこかで密接につながっているらしいのを感じた」(『二・二六事件と私』)と書いているが、これも「神」を奉じる「思想や信仰」と己が前々から結びついていたかのように、少年時代からそんな「思想や信仰」を抱いていたかのように、見せかけようとする必死の仮面的試みによるこじつけ以外の何ものでもないのである。


 「園子のモデルとなった女性に、『仮面の告白』を読んでどう思ったのか、訊いてみた。彼女は『三島さんはとっても素直なまじめな方で、゛性的倒錯゜を装ってみただけじゃないのかしら』といまも信じている」(猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』)。


三島は二十歳までの作品について、「本当に私は、これだけの作品を残して戦死していれば、どんなに楽だったかしれない。・・・・・・もしそのとき死んでいれば、多くの読者は得られなくても、二十歳で死んだ小浪曼派の夢のような作品集として、人々に愛されて、細々と生き長らえたかもしれない」(『三島由紀夫短編全集1』あとがき)と書いている。


「人間の生の本能は、生きるか死ぬかという場合に、生に執着することは当然である。ただ人間が美しく生き、美しく死のうとするときには、生に執着することが、いつもその美を裏切るということを覚悟しなければならない」。晩年の三島がこう言う。


 「昭和二十七年の話になるが、三島は春先に大阪方面に出かけたとき、茨木市にある作家富士正晴宅を訪問した。(中略)三島が富士と談笑しているところへたまたまある文学青年が訪ねてきた。富士が『三島君、君と同郷の男が来たよ』と青年を紹介すると、三島は嫌なものを見たかのように眉をひそめてさっと立ち上がり、一言も発することなく帰ってしまった。かつての文学青年、いま志方町で家業のメリヤス工場を継いでいる松本光明は、『まるで私の存在が厭わしいかのようでした』と憮然と振り返るのである」(猪瀬、前掲書)。


 「死ぬことが文化だ、という考えの、或る時代の青年の心を襲った稲妻のような美しさから、今日なお私がのがれることができないのは、多分、自分がそのようにして『文化』を創る人間になり得なかったという千年の憾みによる」。


 「告白と自己防衛とはいつも微妙に噛み合っているから、告白型の小説家を、傷つきにくい人間だなどと思いあやまってはならない。彼はなるほど印度の行者のように、自ら唇や頬に針を突きとおしてみせるかもしれないが、それは他人に委せておいたら、致命傷を与えられかねないことを知っているから、他人の加害を巧く先取しているにすぎないのだ。とりもなおさず身の安全のために! /小説家になろうとし、又なった人間は、人生に対する一種の先取特権を確保したのであり、それは同時に、そのような特権の確保が、彼自身の人生にとって必要不可欠のものだったということを、裏から暗示している。すなわち、彼は、人生をこの種の『客観性』の武装なしには渡ることができないと、はじめに予感した人間なのだ。/客観性の保証とは何か?それは言葉である」(『小説とは何か』)


すでに『憂国』を書き、自死に傾斜しつつあった昭和三十八年末には、「もし一人の俳優が、ある英雄なり、あるみごとな典型なりを、完全に演じ切って、本当に彼がその役そのものに『見える』というところまで行ったら、(もちろんそれには、完全な肉体的条件が伴わねばならぬが)、人生にそれ以上のことが何があるだろう、とよく俺は考えることがあった」と書いている。


昭和四十一年にこう述べている。「西郷隆盛は十年がかりで書く小説のプランなんか持っていなかった。彼は未来を先取しようとする芸術家の狡猾な企画などは知らなかった。(中略)芸術家が未来を先取するとは・・・・・・完全な計算と企画に基づいて、冷静に、一分の隙もなく、未来を先取し、これを瀆し、これを占有すること。・・・・・・但し文字の上だけで! /しかし遠い計画の段階では、言葉だって現実と平等なのだし、歴史においても、言葉と現実はほとんど等価になる」(『「われら」からの遁走――私の文学』)


三島には一風変わった奇癖があったことが知られている。彼の父親はこう述べている。「僕は、カニは好物です。伜のカニ嫌いは、だから遺伝ではありますまい。何が原因かきっかけは判りません、伜にとってカニは不倶戴天の敵でありました。カニを見ると、たちまち真青になってブルブル震えて逃げ出すという、実に念の入ったものでした。これは、友人連は誰ひとり知らない者はいないという天下周知のことでした。しかし、面白いことに、カニの肉は、家内などが台所でひそかにむしって皿に盛ってやるとドシドシ食べました。あの異様な原形のままのカニが、御意に召さないだけなのです」(平岡梓、前掲書)


三島は「自分が贋物の詩人である、或いは詩人として贋物であるという意識に目ざめるまで、私ほど幸福だった少年はあるまい」。


一九二四年一月十四日生まれの三島の世代については、「少年時代になると戦争がはじまり世間は国粋主義に傾いていた。感受性のまだ固まらない時期に左翼思想の洗礼を受ける機会が全くなかったことが、われわれのジェネレーションの特色とされている」(『堂々めぐりの放浪』)と彼自身が書いているような特色がある。三島より数年前の世代(たとえばマチネ・ポエティクの世代)なら「左翼思想の洗礼を受け」た者も多かったであろうし、彼より数年後の世代は軍国主義的「右翼思想」を早くから吹き込まれた世代(たとえば加賀乙彦『帰らざる夏』の主人公の世代)ということになろう。昭和四十二年に福田恒存との対談で三島は「ぼくらが〈天ちゃん〉なんて言っていたのは戦争中だよ。軍部の抑圧が激しくなればなるほど友だちとこっそり〈天ちゃん〉などと言ってた。〈セミ天〉というのは戦後の言葉だが、〈天ちゃん〉というのは、われわれの時代の言葉だよ」と言っている(『文武両道と死の哲学』)。


当時の彼は日本の王朝文学や保田与重郎を愛読するとともに、キーツやバイロンやワイルドなど泰西浪漫派詩人や耽美派を賛美憧憬していたのであり、ただ己の感受性の赴くところに従って、洋の東西を問わず夭折する美しい若者に美的共感と憧憬を抱いていた。













(私論.私見)