三島を落し込める虚説「三島ホモ伝説」流布考

 (最新見直し2014.06.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「三島を落し込める虚説、虚像流布考」をものしておく。その最大のものが「三島自決説」であり、それは「ドキュメント」の項で述べた。次に「三島ホモ説」である。これを検証する。

 2013.08.31日 れんだいこ拝


【三島ホモ伝説考】
 「★阿修羅♪ > 文化2」のkanegon 氏の2012.11.11日付け投稿「絶密 三島由紀夫 封印された「割腹自殺」の後日談 恋人に残した「手切れ金」と「愛」出典雑誌「怖い噂」vol.14ミリオン」を転載する。
 まず、版ちがいだったら申し訳ありません。どこまで信用していいものか、コンビニに売っていた雑誌からなのですが、ついつい三島の名前があって購入して読んでしまいました。三島が自分のことを「あたい」と呼んでいたところが何とも言えないですが、彼なりの露悪主義で悪女風に自分を表現していたのでしょうか。登場人物のS太郎は言わずもがなのあの人最近知事から新党を結成した人ですな。もう高齢。作家Mは誰か私は分かりません。だれかご存知ならご教示頂きたい。では本文始まり始まり。以下転載

 命より守らなければならない絶対の秘密を中国語で「絶密」という――三島由紀夫が割腹自殺を遂げた後、大森の三島邸で起こった「事件」は本誌前号でお伝えした。(残念ながら前号を持っていない) 
そして今度は筆者が三島由紀夫を深く知る人物から聞いた話である。この話もまた現在まで封印され続けてきた「絶密」であった。

 この話は作家Mの自宅で聴いた。Mは綿矢りさが十九歳で芥川賞を取るまで史上最年少で芥川賞を受賞した作家だった。またMと同じく二十三歳での重症は石原S太郎・大江健三郎。村上龍と並ぶが、なかでも石原S太郎は「文学新人賞」から「芥川賞」という、Mと同じ小説家の登竜門としては王道中の王道で歩んで来た先輩作家だった。そこで『文学界』編集部が、この二人を対談させた。一九六七年(昭和四十二年)春、三島由紀夫が割腹する三年半前のことだ。

 対談終了後、S太郎がMを飲みに誘った。まだ若くて文壇のイロハも知らないMは喜ぶも断るもなくS太郎の背中に従った。しかし、Mはアルコールを一滴も口にしない。酒場まで付き合っても、西部劇に出てくるお尋ね者よろしく「ミルク!」と叫ぶ。しかし、ミルクを飲む男が相手では、さすがのS太郎もつまらなかったのだろう。早々とバーを退散して、二人で東京の街をふらふらし始めた。「ところで、M君。ここにおもしろい男が住んでいるんだ」。S太郎が目の前の高層マンションを顎でしゃくって両目をぱちくりする。「えっ、誰です」。Mもメガネの細い目いっそう補足して怪訝そうに訊いた。「うん、三島さんの男だ」。「えっ、男ですか」。Mはびっくりした。右翼的な発言や行動を繰り返す三島と「男を囲っている」という行為がそぐわなかったからだ。S太郎の話によると、三島由紀夫は七人の男を囲っていて、それぞれにマンションの一室を与え、生活費を手渡している。もちろん、合計すれば、生半可な出費ではない。「小説家って、そんなに儲かるのですか」。「いや、三島さんとかぼくとか、選ばれた数人だけはな」。Mはその数人の中に自分の名が入ることは、、未来永劫にわたってないだろうと直感した。「会っていくか、三島のこれと会っておくのもいい経験だぞ」。S太郎が右手の親指を突き出した。しかし、Mは即座に断った。「男には興味がありませんよ。またもし女でも、他人の女に興味はありません」。「そうか」。S太郎は唇だけ笑の格好にすると、右手を挙げてタクシーを停めた。「新宿へ出ないか」。「いや、もうホテルに帰ります。明日の汽車が早いので」。「そうか」。S太郎は一人でタクシーの後部座席に乗り込むと、窓越しに片手を挙げて走り去っていった。Mはタクシーが見えなくなるまで、頭を下げてS太郎を見送った。

 三島由紀夫が切腹して、半年ほど経ったときだった。Mが上京して、たまたまS太郎と再会した。「三島さんも無責任だな」。Mは七人の男の話を思い出して、S太郎に呟いてみた。すると、S太郎は多少口ごもりながら、こう反発した。「でもな、三島さんはあの割腹自殺の直前に、七人の男のうち六人とは別れている。理由も告げずに手切れ金だけ手渡してさ。ところが、あのマンションの男にだけは、手切れ金を一円だってあげなかったし、別れ話も持ち出さなかった」。「ふむ、すると、三島の彼への愛は枯れていたのですかね。それとも過剰だったのですか」。

 
Mの質問にS太郎は答えなかった。若くて何事にも興味津々だった筆者は。Mからその高層マンションの場所を訊き出して、三島由紀夫が最後に愛した男を捜した。結果、彼はもうその場所に住んでいなかったが、住民票などをこまめにおって、居所を突き止めた。彼の口は重かったが、ある目的のために無職だったので、生活は楽ではなく、謝礼目当てなのかインタビューを受けてくれた。以下はその話をまとめた文章である。

 「あんたとは別れない」。三島先生はそう言ってくれました。「他の六人の男とは、もう縁を切ったの。しかし、あんたとは永遠よ。死んでも別れない。だから、手切れ金なんて渡さないわ」。ぼくは涙が滲んで来ました。三島先生にそんなに思われているなんて、幸せを通り越して、怖い感じすらしました。「あんたに手切れ金を渡さない理由は、もう一つあるのよ。それはね、あたい(三島先生は彼の前では、ご自分をこう呼んだ)が百パーセントの絶対的な確率で切腹するとは限らないからなの。あたいの呼びかけで。すわっとクーデターが勃発すれば、あたいが自分の命を絶つ必要はなくなるのよ」。

 ――― ちょっと待ってください。すると三島先生は、あなたにはあの憂国行動の計画を事前に話していたのですか?「そう。ぼくにはなんでも話してくれた」。彼は少し胸を張ってそれから再び三島になりきって話を続けた。「あたいの計画では。まず東部方面総監を人質に取ってバルコニーに出る。テレビクルーが到着するのを待って。そこでテレビカメラに向かって檄を飛ばす。なに、眼下の自衛隊員にクーデターを呼び掛けるつもりは端からない。全国に散らばっている『青桐の会』の仲間たちの、電波を使って呼びかけるのよ。“命令系統を破ってちょうだい!”“起ち上がってよ!”“クーデターを起こすのよ!”この呼びかけに呼応する動きが出るならば、あたいは切腹しなくてもいい」。クーデターの実行部隊に加わるだけですもの。こうなれば、生き残る確率だってゼロではないでしょ。でも『青桐の会』は優秀な組織。あたいの激では、きっと命令系統は打ち崩せないわね。そしたら、あたいはあたいの命を差し出すまでよ。“命よりも大事なものがある!”って叫んでさ。『青桐の会』の仲間も、さすがに胸を揺さぶられるでしょう。この言葉は戦後の民主主義教育へのアンチテーゼですものね。でもね、あたいはとっくに文学者じゃないの。言葉での勝負はしない。行動よ。行動で示したいの。切腹。本当に命を投げ出してみせるは。あたいの切腹を知って、『青桐の会』の誰か一人でも起ちあがってくれたら、それで成功よ。誰か一人でも起ち上がれば、会の存在が公になるでしょ。もう『青桐の会』の後には退けない。上から下まで全員がクーデターに加わるわ。どっちに出るかしら。あたいの予想では、九十九パーセントが切腹ね。でもね、一パーセントは、あたいの檄で、あたいの言葉で山が動く。この一パーセントに賭けて、あたいはあんたに別れを言わないのよ」。

 三島先生はぼくには「愛」を遺して、お金は残さなかったのです。仕方がありません、ぼくは自分で働いて生きて行くしかありません。当たり前のことです。幸いにも先生の親友の某小説家が大手の出版社の校正係を世話してくれました。「三島先生の愛を独り占めしてぼくは生き抜くのだ!」。しかし、年が改まって、四十九日も過ぎた頃に、ぼくは自分の間違いに気がつきました。三島先生がぼくにお金を遺してくれなかったのは、先生が生還する可能性がゼロではないから、ではないのです。ぼくへの単純な未練の表現ではないのです。お金がなければ、この世では生きられない。心優しい先生は、ぼく以外の六人の男たちには。この世で生きていかれるように手切れ金を手渡しました。しかし、この世で生き抜いていく必要がないぼくには、お金なんて遺さなくてもいいのです。「死んでもいっしょに暮らそう。永遠にいっしょに暮らそうってば」。これが、先生からぼくへの、真のメッセージなのです。手切れ金をくれなかった、真の理由なのです。先生はとてつもなく優しい人だったのです。先生のぼくへの愛は、こんなに深かったのです。「ねえ、早く彼岸に渡ってきてよ」。 先生が毎晩僕の耳元まで降りてきて甘い声で囁くようになりました。後を追うしかありません。あの世で永久に先生を抱き締めていたいのです。

 その日から毎日スポーツジムに通い始めました。体中の筋肉を鍛え直したい。男らしく無駄のない、きれいな体を取り戻したい。それから三島先生に逢いにいくのです。死ぬ者が肉体を鍛えるのはへんでしょうか。変だと言うのなら、なぜ三島先生は割腹するのに、筋肉をつけたのでしょうか。これはぼくたちの“美”の問題なのです。ジムで体脂肪を測ると十七%も、にまで上がっていました。これを十%以下にまで落としたい。これが叶ったら、旨を張って、三島先生を抱き締めにいこう。先生は笑顔で迎えて下さるでしょう。

 自害の方法も選らばなくてはいけません。肉体がぐちゃぐちゃになるのは避けたいのです。だから、先生のような切腹はまずい。同様の理由から、鉄道自殺は最も回避したい。首吊りは体内の糞尿が、みんな流れ出てしまうと聞いています。ガスを吸い込むと、肌がピンクできれいだとは聞いていますが、周りの部屋も吹っ飛んだりしますから、アパートやマンション向きではありません。他人に必要以上の迷惑をかけるのは避けたいのです。水死は水ぶくれして、なんのためのジム通いかわからなくなります。残りは睡眠薬ですか。睡眠薬なら嘔吐は避けられない。嘔吐は糞尿よりかはマシですかね。 ぼくの体脂肪率は、先生の新盆の頃から、八パーセントを保っています。そこで、「血行の日」の選定に入ったのです。すると。この日しか思い浮かびません。そうです、三島先生の一周忌です。

  筆者は彼の話を聴いていて、不思議なことに、自害を止めようと思わなかった。そして、彼は本当に三島由紀夫の一周忌の、三島が割腹したのとほぼ同時刻に「後追い自殺」を遂行したのだった。(文中敬称略) 転載終了

 本当に真実なのだろうか?昭和45年のジムで体脂肪率を測定できるのだろうか?唯男性同性愛者の純愛的の方向性としてはあまり違和感が無いのでついつい信じてしまうのだが。赤江爆(これで正しかったかな?)の小説みたいだ。まあ、三島がおぼっちゃんだった上に元官僚でベストセラー作家だったから七人の愛人を囲うこともできたかもしれないけど。美輪さんにでも実際のところお伺いしたいところである。美輪さんがこの話を読むと憤慨しそうだが。

(私論.私見)

 赤太字部分のこの話がどこからどこまでが本当で、どこからがウソか分からない。あるいは全文が作り事文であるのかも知れない。れんだいこが興味を覚えるのは、三島ホモ説を石原慎太郎が明かす形で登場しているところである。しかし伝聞形であり、石原が本当にこういう発言したのかどうか分からない。せめてこの件、即ち石原がかような三島ホモ説を流していたのかどうかを知りたい。くだんの引用文に他には興味はない。

 2013.9.21日 れんだいこ拝

【「三島由紀夫を廻る剣と寒紅裁判」考】

 1998(平成10).3月20日、福島次郎が小説「三島由紀夫−剣と寒紅」(文藝春秋社、1998.3月初版 )を発売した。内容は三島と福島の同性愛の関係を描いたセンセーショナルなものであった。三島から福島に送られた15通の書簡の全文が掲載されるなど話題を呼んだ。但し、著者自身が巻末に、「この“小説”を書くに当って」と書いているようにノンフィクションであるとは断っておらず、出版社も「文学」、「自伝小説」を強調する宣伝をしていた。帯び書きで次のように喧伝されている。

 「四半世紀を経て綴られる作家の実像。身に潜む「同性愛」の芽を感じてきた著者が、不世出の作家との「秘かな交際」を明かす衝撃の文学」
 「三島の自決以来28年。身に潜む「同性愛」の芽を感じてきた著者が胸中に秘し隠してきた三島由紀夫とのひそかな交際のすべてを、今明かす。三島文学とその人間像に迫る衝撃の書」

 
内容を見るに(読んでいないので世評から抜書きする)、三島との赤裸々な情交の描写をしているところに特徴がある。これに対して「一回や二回の行きずりの関係ではない、深い親密な関係で、そういう人間しか見ることのできない素顔の三島由紀夫が生々しく語られている」との評が為されている。例えば次の下りである。概要「何回かのデートの後、三島と福島はホテルで身体の関係を持つ。はじめてセックスしたとき、私の方から三島さんの体を強く抱きしめ、その首筋に、激しいキスをしゃぶりつくようにしたのだった。三島さんは、身悶えし、小さな声で、わたしの耳元にささやいた。『ぼく、、、幸せ、、』。歓びに濡れそぼった、甘え切った優しい声だった」、「私は、頭に灰かぐらをかぶったまま、キスを続けた。私の体よりもずっと小さく細い、三島さんの体は腰が抜けそうに、私の両腕の中で、柔らかくぐにゃぐにゃになっていた」、「しかし、三島とのセックスは苦痛以外の何ものでもなかった。

 三島と福島次郎の最初の出会いから15年後、久しぶりに 熊本にやって来た三島とホテルに宿泊した際、久しぶりにセックスする。「私が抱きついてゆくと三島さんは急に体の向きを変えて抱き返してきて小さな声でささやいた。「しばらくぶりだったね、会いたかったよ。」、、、、懸命に三島さんの首から、胸、腹に、強いキスを浴びせかけていった。、、、三島さんはこちらが驚くほどの、甘えた子供のような声をほとばしらせた」、「が、福島の身体は反応しない」。「あんたは今ではボディービルで身体を鍛えて『もののふ』なんて自称して男っぽく振舞ってるけど、昔、俺と寝たときには女みたいに甘えてたじゃないか。あんたは所詮、女なんだよ。女の癖に男っぽく振舞うなんて滑稽だと思わないかね・・・」の言を添えている。

 これについて板坂剛が冷静に分析している。即ち、内容が事実であると言い切る自信が出版社にないから「文学」、「自伝小説」としている。意識を失っていたはずの福島が同性愛行為を克明に描写するのはおかしい。「明らかなことは福島次郎も結局は三島に対するストーカーでしかなかった」、「文藝春秋の人間でさえ、福島には妄想癖と虚言癖がある、と認めている」と矛盾点を指摘している。「スーパースターとの過去をひけらかすことで売名に成功した松田聖子の元愛人を自称する外国人たちと、福島次郎は結局同類である」と述べ、三島研究者にとって参考になるのは小説中に掲載された三島の書簡だけという見解を示している。

 同年3.24日、小説中に掲載された三島の書簡について、「作家の手紙にも著作権があり、その手紙を相続・所有権者側の承諾なしに無断で掲載・公表、複製するのは著作権侵害」である」として、三島由紀夫の相続人である三島の長女・冨田紀子と、長男・平岡威一郎の2人は、著者・福島次郎と出版元である文藝春秋社に出版差し止めを求める仮処分を東京地方裁判所に申請し、民事裁判を起こした。これが「三島由紀夫を廻る剣と寒紅裁判」である。

 同3.30日の東京地裁一審、1999(平成11).10.18日の二審ともに、東京地裁は、文藝春秋社側の主張である「手紙の内容は実用的な通信文であり著作物にあたらない」との言い分を退け、「書簡は事務的な内容の他、三島の自己の作品に対する感慨、抱負や折々の人生観などが、文芸作品とは異なる飾らない言葉で述べられている」とし、書簡を著作物であるという判決を下し、原告が勝訴した。被告側は500万円の損害賠償などを命じられ、控訴した。

 2000(平成12).5.23日、東京高等裁判所は、被告側の主張は、事実誤認や単なる法令違反で上告理由にあたらないとし、福島次郎と文藝春秋側の控訴を棄却した。判決文の「著作権侵害による損害賠償は、文学的価値ではなく財産的価値の侵害による賠償であって、三島由紀夫と控訴人福島の知名度や文学者としての名声を比較すれば、本件各手紙が本件書籍において、財産的に重要なものであること、すなわち、本件書籍購入の意欲をそそり、本件書籍の商業的成功をもたらすという点で重要なものであることは明らかである」により、書簡も著作物にあたる場合があるとの高裁判決が確定した。なお、裁判は著作権上の判断であり、争点は福島の著書の内容に関しての真偽についてではなかった。というのは、あらかじめこの著書にはアリバイ的に巻末の中で「小説」と銘うっていたからである。当初より異例の初版10万部の発行を行なっており、判決にもかかわらず大半は流通し9万部が販売された。板坂剛はこれについて、「遺族に無断で書簡を公表してはならないことぐらいプロの出版人なら知らないはずはない。(中略)最初から裁判沙汰は予定の宣伝戦略であり、その効果を考えれば平岡家に対して支払う謝罪金など安いものだと内心では計算ずくだったのだろう」と述べている。

(私論.私見)

 れんだいこは、福島次郎が小説「三島由紀夫−剣と寒紅」(文藝春秋社)の中で発表した「三島から福島に送られた15通の書簡」が真正に三島の手紙であるかどうか知りたい。これが偽物であれば論外である。名誉棄損になるだろう。本物であったとして、その記述内容を確認したい。全てが本物であるのか、一部書き換えられたり付け加えられているのではないかと疑い精査せねばならない。れんだいこの評は、死人に口なしを良いことに、意図的故意のヤラセ的な三島に対する誹謗中傷が目立つ。そういう意味で、全ては「三島から福島に送られた15通の書簡」の精査をせねばならぬだろうに、裁判では原告、被告の両者ともこの面の検証を避け、肝腎なここをスルーして著作権問題で争っている。よしんば原告が耐えられなかったにせよ、裁判を覚悟した以上、その苦痛を引き受けて争うべきだろう。「三島から福島に送られた15通の書簡」の偽書性を確認し勝訴することで苦痛も報われよう。そういう意味で、著作権論争に終始した裁判が、れんだいこには理解不能である。

 2013.9.27日 れんだいこ拝

【「福島次郎」考】
 「ウィキペディア福島次郎」で福島次郎を確認する。

 1930年(昭和5年)、私生児として熊本県熊本市に生まれる。継父は暴力団の組長。中学卒業後、貯金局に勤務。1947年(昭和22年)、上京して東洋大学専門部国漢科に入学。1950年(昭和25年)、東洋大学専門部国漢科修了。1950年(昭和25年)夏、熊本に帰郷中、三島由紀夫の『仮面の告白』を読み衝撃を受ける。同年秋、再度上京し、東洋大学国文学科に入学。福島によると1951年(昭和26年)5月(実際には1951年(昭和26年)7月1日)、『禁色』に出てくるゲイバア・ルドンのモデルとなった店について問い合わせる手紙を持参し、ファンであった三島由紀夫の自宅を訪問したことから三島と知り合う。そして福島の話しによると、三島の愛人(表向きは書生)となったが(しかし三島は生涯、秘書や弟子、書生などは付けない方針であった)、同年の夏、伊豆にて福島の側から縁を切る形で三島との愛人関係に一旦終止符を打ったという。そして、この時のことを三島は深く恨んだために、『禁色』の第二部である『秘薬』(文学界 1952年8月号 - 1953年8月号に連載)のなかに「福次郎」という名の同性愛者を登場させたという。作中で「福次郎」は金銭に汚い卑劣の役どころとなっている。1953年(昭和27年)、東洋大学国文学科を卒業。卒論のテーマは井原西鶴。熊本県立八代工業高等学校に国語教師として勤務する傍ら、「詩と眞實」同人となり小説を書き続けた。1961年(昭和36年)、『現車(うつつぐるま)』で第3回熊日文学賞を受賞。その単行本を三島由紀夫に送る。1962年(昭和37年)春、上京して三島邸を訪問し三島と再会する。そのとき三島から、「君も結婚したらどう?」、「今のぼくに何が世の中で大事かと聞かれたら、女房と子供だと答えるよ」と言われたという。そしてその後4年間、文学のアドバイスや近況報告などの手紙のやりとりがある。1966年(昭和41年)8月27日、神風連の取材で熊本県を訪れた三島を出迎え、県内を案内する。1967年(昭和42年)11月18日、瑤子夫人に同性愛関連のこと(具体的にはそうは書かれていないため推測による)が目に入ることを恐れた三島からの来信がきっかけで、以後、福島は返信を出さなくなり文通が途絶え、三島と疎遠となる。1975年(昭和50年)、『阿武隈の霜』で第8回九州文学賞を受賞。1987年(昭和62年)に教職から退いた後は文筆活動に専念。

 1996年(平成8年)、高校教師と生徒との同性愛関係を描いた『バスタオル』が第115回芥川賞候補となる。この小説は石原慎太郎が強く推し、「ここに描かれている高校教師とその生徒との関わりは間違いなく愛であり、しかも哀切である。誰かがこれが男と女の関係ならばただの純愛小説だといっていたが、もしそうとしてもそれがなぜ小説としての瑕瑾となるのか」、「この作品だけが私には官能的なものとして読めた。小説が与える官能こそが小説の原点的な意味に違いない」と賞賛している。一方、古井由吉は、「少年愛の微妙をめぐるものながら、男の異性愛と平行をなすと私は見る者だが、対象を異性にした場合、この時代ではおそらく、表現は成り立ち難いのだろう」、「しかし現代の彼等たちを、いささか恥じさせるところのある作品ではある。ただし末尾のバスタオルの悪臭は、『バスタオル』全篇を侵したと思われるが」としている。

 1999年(平成11年)には、同性愛者の兄弟の絆を描いた『蝶のかたみ』が第120回芥川賞候補となった。

 1998年(平成10年)3月20日、三島由紀夫との愛憎関係を綴った『三島由紀夫−剣と寒紅』を出版。「三島の思想や文学を理解する上で貴重な資料だ」などと賞賛される一方、「単なる暴露本に過ぎない」との批判も浴びた。板坂剛は、同性愛行為を描いている文章部分も、意識を失っていたはずの福島が克明に描写するのはおかしいと矛盾点を指摘している。また、「明らかなことは福島次郎も結局は三島に対するストーカーでしかなかった」という見解を示し、「文藝春秋の人間でさえ、福島には妄想癖と虚言癖がある、と認めている」と述べている。板坂剛は、「スーパースターとの過去をひけらかすことで売名に成功した松田聖子の元愛人を自称する外国人たちと、福島次郎は結局同類である」と述べ、三島研究者にとって参考になるのは、小説中に掲載された三島の書簡だけという見解を示している。

 1998年(平成10年)3月24日、『三島由紀夫−剣と寒紅』で三島の書簡を無断で掲載したことが著作権侵害に当たるとされ、三島の遺族である長女・冨田紀子と、長男・平岡威一郎から、同書の出版差し止めを求める訴訟を起こされた。福島次郎は版元の文藝春秋と共に最高裁まで争ったが、2000年(平成12年)5月23日に敗訴が確定した。

 晩年は健康を害して入退院を繰り返したが、その間も2005年(平成17年)に、『花ものがたり』、『淫月』などを発表。また、県民文芸賞の選考委員も務めるなど精力的な活動を続けた。2003年(平成15年)から2005年(平成17年)まで、自伝的小説『いつまで草』を、同年4月からは随筆『花のかおり』を、熊本日日新聞紙上に連載していた。2006年(平成18年)2月22日午前4時40分、膵癌のため熊本市の病院で死去。享年76。2月24日に葬儀が営まれた。

【三島由紀夫の手紙無断使用事件判例考】
 「三島由紀夫の手紙無断使用事件 判例全文 」を転載する。
 【事件名】三島由紀夫の手紙無断使用事件(2)
 【年月日】平成12年5月23日
 東京高裁 平成11年(ネ)第5631号 著作物発行差止等請求控訴事件
 (原審・東京地裁平成10年(ワ)第8761号)
 (平成12年3月14日 口頭弁論終結)

 判決
控訴人 株式会社文藝春秋
右代表者代表取締役 白石勝
控訴人 和田宏
控訴人 福島次郎
三名訴訟代理人弁護士 古賀正義
被控訴人 冨田紀子
被控訴人 平岡威一郎
両名訴訟代理人弁護士 今野勝彦
同 前田惠三
同 加藤裕也
同 岩田廣一
 主文

 本件控訴をいずれも棄却する。控訴費用は控訴人らの負担とする。

 事実及び理由

 第一 当事者の求めた裁判

 一 控訴人 
1 原判決中控訴人ら敗訴部分を取り消す。
2 右部分に係る被控訴人らの請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

 二 被控訴人
 主文と同旨

 第二 事案の概要

 事案の概要は、次のとおり付加するほか、原判決の事実及び理由「第二 事案の概要」のとおりであるから、これを引用する。なお、当裁判所も、「三島由紀夫」、「本件書籍」、「控訴人会社」、「控訴人福島」、「本件手紙N」、「本件各手紙」の用語を、原判決の用法に従って用いる。

 (当審における控訴人の主張の要点)

 一 不法行為の成否について

 手紙の著作物性については、法律に明文がなく、それを否定した裁判例(高松高等裁判所平成八年四月二六日判例タイムズ九二六号二〇八頁)はあるものの、肯定した裁判例はない。学説も、手紙の著作物性について触れるものはほとんどなく、例外的にこれに触れた学説も、手紙をカタログ類、広告、劇場プロ、アルバム等と並記して著作物性を生じるボーダーライン・ケースとし、「もちろん、実際には、個々の場合について、著作物性を備えているかを判定することが必要で、一般論としてここにあげたカタログその他がすべて著作物だといえるわけではない」(中川善之助・阿部浩二著「著作権」)とし、半田正夫「概説著作権法」がやや詳細にこれを論じている程度である。本件書籍に本件各手紙が公表された当時、素人はもとより専門家でも、手紙の著作物性について確かな見解(司法判断の予測)を持することは不可能であった。このような状況の下においては、手紙の著作物性は誰にも知られていないに等しく、国民の依拠すべき法は、事実上存在しなかったのである。このように、手紙の著作物性については、法律の明文も判例も全くなく、学説も寥々たるうえ区々たる有様で、それだけを論じた単行の論文などなく、せいぜい教科書の中で結論だけが一、二行述べられているにすぎず、有力な多数説のごときものは形成されていなかった。このような状況の下において、日本で初めて公権的判断を下した裁判所が、自らの見解を理由として、それに反した当事者の行動に過失責任を問うのは酷である。控訴人らには、故意はもちろん過失もない。

 二 差止めについて

 1 著作権法六〇条ただし書きの適用
 本件においては次の事情があるから、本件各手紙の公表は、三島由紀夫の意を害しない。したがって、謝罪広告の請求は許されない。また、同人の意を害することを根拠とする限り、差止め請求もできない。
@本件各手紙は、三島由紀夫が生きているとして、恥じ入るようなところは全くない。
A本件各手紙は、控訴人福島に私信として送ったものであり、控訴人福島は自分のもらった手紙を自己の作品に引用したのである(罪の意識の不存在)。
B文芸出版において伝統と実績のある控訴人会社から出版された真面目な文学作品の中に引用されている。
C手紙利用の仕方も、小説の展開に応じた自然なもので、いささかも礼を失していない。
D今も毎夕仏壇の前で三島由紀夫の成仏を祈っているという控訴人福島が、三島由紀夫にもらった手紙を自己の小説に利用したのであって、手紙の利用にはいわば祈りが籠められており、三島由紀夫の人格を傷つけるような意図は毛頭ない。
E三島由紀夫の死亡から二八年、最初の手紙が書かれた年から約三七年、最後の手紙が書かれた年から三一年が経過している。
F本件各手紙が著作物といえるかどうか疑問である。

 2 頒布についての知情の主張・立証の不存在

 本訴状の請求原因には、頒布の差止めを求めるとの記述がなく、その他にも、被控訴人らからは、頒布との関連で、知情についての主張、立証はなされていない。被控訴人らは、頒布差止請求についての「情を知って」という要件を主張しないものとして扱われるべきである。しかし、頒布が禁止されるのが「情を知って」の場合に限られることは、著作権法一一三条一項二号が明文をもって定めるところである。

 3 信義誠実義務違反、権利濫用

 本件差止請求は、控訴人福島が公開したことにより、降って湧いたように具体的財産として現実化した故人の手紙、それもわずか一五通で、書いた本人も、創作性、芸術性など全く意識せず、作品として書いていないことが歴然としている手紙を盾として、芥川賞候補にもなった有望な新人作家である控訴人福島の苦心の作の出版を差し止めようとするものである。そして、仮に右出版が被控訴人らの有する複製権の侵害に当たるとしても、損害の填補は容易であり、差止めにより控訴人ら側に生じる損害、文化、芸術等の育成という著作権法本来の目的の不達成、三島由紀夫という文学者の正確なイメージが伝わらないという文化的損失等々を比較衡量すれば、本訴の差止請求は、信義誠実義務に違反し、権利濫用に該当するものというべきである。

 4 憲法二一条違反

 本訴は、本件書籍の同性愛というテーマが被控訴人らの感情を刺激したために提起されたにすぎない。本訴差止請求は、同性愛者に対する差別感情に基づき、本来ならば公表を差し止める意思も必要もない手紙の著作権に名を借りて、文学的水準の高い本件書籍の発行を差し止め、これにより控訴人らの表現・言論・出版の自由を侵すものである。本訴の差止請求を認めることは、憲法二一条に違反する。

 三 名誉回復措置について

 1 最高裁判所昭和六一年五月三〇日第二小法廷判決は、現行著作権法の前身というべき旧著作権法三六条の二について、右規定にいう著作者の「著作者の声望名誉とは、著作者がその品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的な評価、すなわち社会的声望名誉を指すものであつて、人が自己自身の人格的価値について有する主観的な評価、すなわち名誉感情は含まれない」と判示している。本件各手紙は、三島由紀夫の名誉や声望を低下させるようなものを一切含んでいないから、名誉回復措置の請求はできない。

 2 原判決別紙広告目録(二)の広告文中の、「私どもがご遺族に無断で公表、出版したものであります。」という部分は、遺族らには公表につき承諾を与える権原がないから、法の論理に反する。また、同広告文の「これにより、大変ご迷惑をおかけしました。」という部分は、誰に迷惑をかけたのかが曖昧で、それゆえに取消しを免れない。法一一五条による「適当な措置」を要求し得ない遺族に対して迷惑をかけたと詫びさせるのは道理に合わないし、故人に対して詫びさせるのもおかしいのである。右の広告文は、憲法違反の疑いも完全には免れない。

 3 原判決が、広告文の掲載を命じることの必要性の根拠とした事情@ないしD(二三頁ないし二五頁)は、名誉声望とは何の関係もない事項である。

 四 損害賠償について

 損害賠償についての原判決の判断は、裁判所が、控訴人福島の文学について乙号各証に表れている多数の著名な文学評論家が与えた評価に一顧も与えず、反面において、評論家が本件各手紙の本件書籍における重要性に一片の言及もしていない事実を黙殺して、自らは何ら専門的知見を有しない文学の領域において、三島由紀夫の書き流しの手紙である本件各手紙と福島の作品とについての金銭的評価を公権的に与える、という意味を有するものである。しかし、これは、控えめに言っても行き過ぎではないだろうか。素人考えでも、本にして一〇頁そこそこの手紙(それも苦心して書いた作品としての手紙ではなく、多少の教育のある日本人なら誰でも書けるような書き捨ての手紙)について、五〇〇万円の印税が生じるなどというのは文学史上の奇観というをはばからない。本件の場合、本訴提起の実際上の動機は、三島由紀夫と控訴人福島の同性愛的交遊の隠蔽にあったことは、多くの評論家が曇りのない目で洞察し、指摘しているところである。すなわち、本件各手紙が著作権者によって公表される可能性はゼロ、したがって逸失利益もゼロというのが通常の感覚である。

 第三 当裁判所の判断

 当裁判所も、被控訴人らの本訴請求は、原判決が認容した限度で理由があり、その余は理由がないと判断する。その理由は、次のとおり付加するほか、原判決の事実及び理由「第三 争点に対する判断」と同じであるから、これを引用する。

 (当審における控訴人らの主張に対する判断)

 一 不法行為の成否について

 控訴人らは、本件書籍に本件各手紙が公表された当時、素人はもとより専門家でも、手紙の著作物性について確かな見解(司法判断の予測)を持することは不可能であり、手紙の著作物性は誰にも知られていないに等しく、国民の依拠すべき法は、事実上存在しなかったから、控訴人らには、故意がないのはもちろん過失もないと主張する。

 1 著作権法は、著作物を「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」と定義し、特に「手紙」を除外していないから、右の定義に該当する限り、手紙であっても、著作物であることは明らかである。この点について、手紙の著作物性は誰にも知られていなかったとか、国民の依拠すべき法が事実上存在しなかったとか、ということはできない。

 2 甲第一七号証によれば、一九七五(昭和五〇)年七月一〇日付け週刊文春(一四一頁)には、交際相手にあてた三島由紀夫の私信が受取人により「週刊朝日」に公開されたことに関し、「作家の著作権は私信にも及ぶというのが法解釈上の通説だそうで、確かに『手紙』を公開するには夫人の了解が必要だろう。」、「3月10日に朝日側が著作権侵害を認めた念書を渡すまで、両者の交渉は延々と続く。」、「著作権者の了解をとらなかっただけに、どうも朝日側の分が悪かったとみえる。」との記載があることが認められる。週刊文春が、一流の出版社であることを被控訴人らも認める(当審答弁書四頁五行)控訴人会社によって発行される一般向け週刊誌であることは当裁判所に顕著であるから、右記載は、適切な裏付けのもとに書かれたものと推認される。

 右認定の事実によれば、昭和五〇年ころには既に、交際相手にあてた私信という程度の手紙も著作物(すなわち、思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの)であること、及び、右のような手紙にも著作者の著作権が及ぶということが、週刊文春のような一般向け週刊誌にも、「法解釈上の通説」として説明される程度の事柄であったことが認められる(ちなみに、当庁第六民事部の書棚の入門書、実務書等にも、「問17・・・日記や手紙を発表するのは、著作者人格権侵害になりますか。・・・日記や手紙は、やはり著作物である場合が多いわけですから、著作物である以上は、人格権の問題が起こる。原則的には普通の著作物と同じように、公表については著作者の同意がいるということになります。死後であれば遺族の諒解を得なければいけないということになる。・・・もちろん、著作権は手紙を出したほうにある。・・・もらった手紙であるからといって、それを勝手に本にするとかいうことはいけない。複製権の侵害と、人格権の侵害と、両方ひっかかってくるおそれがあるということですね。」(佐野文一郎・鈴木敏夫著「新著作権法問答」八〇頁・株式会社新時代社一九七二年一二月一〇日第二刷発行)、「書簡の内容が、発信人の思想、感情を創作的に表現している場合は、文書の著作物として著作権が発生する。・・・著作権のある書簡の著作権者は発信人であり・・・これが発信人以外の者(受信人も含めて)により公表される場合、発信人の許諾が必要なことはいうまでもない。」(社団法人著作権資料協会編「著作権事典 改訂版」一六二頁・株式会社出版ニュース社昭和六〇年一〇月二五日発行)、「Qー58 日記・手記は著作者に無断で公表できますか。書簡の場合はどうですか。 いずれも著作者に無断で公表できない。創作したものを公表するかしないかは著作者の自由である・・・書簡の場合には、受取人は書簡の所有者にすぎず、著作者は発信人であるから、受取人の了解を得ただけでは発表できないのである。」(播磨良承編「新版Q&A著作権入門」一四六頁(芹田幸子執筆)・世界思想社一九九一年一〇月一日発行)、「手紙も日記も著作物。その著作権者の許諾なしに転載できない。・・・なお、手紙や日記の所有者は、著作者でもなければ著作権者でもない場合が多い。」(清水幸雄編著「著作権実務百科」一ー九四頁ないし九五頁・学陽書房一九九二年一一月五日発行)、「書簡 時候の挨拶、転居通知、出欠の問合わせなどの日常の通信文とか、品物の発注、代金の督促など商用文は著作物とはなりえないが、その他の書簡であって文芸、学術の範囲に属すると認められるものについては著作物として保護される。この場合・・・特約なきかぎり著作権は差出人に留保される。したがって名宛人は差出人の同意を得ることなしに書簡を公表することはできない。」(半田正夫著「著作権法概説」八七ないし八八頁・株式会社一粒社平成九年五月二〇日第八版第一刷発行)等、手紙の著作物性を説明し、その著作権は著作者(発信人)にあるとする記述がみられるところである。)。

 
3 本件各手紙(本件書籍(甲第一二号証)中の掲載頁は、原判決七、八頁に記載されたとおりである。)を読めば、これが、単なる時候のあいさつ等の日常の通信文の範囲にとどまるものではなく、三島由紀夫の思想又は感情を創作的に表現した文章であることを認識することは、通常人にとって容易であることが明らかである。また、控訴人らが本件各手紙を読むことができたことも明らかである。そうである以上、控訴人らは、本件各手紙の著作物性を認識することが容易にできたものというべきである。控訴人らに過失がないとの主張は、採用することができない。

 二 差止めについて

 1 著作権法六〇条ただし書きの適用の主張について

 控訴人らは、種々の事情をあげて、本件各手紙の公表は三島由紀夫の意を害しないと主張する。しかし、控訴人ら主張に係るFの事情を認めることができないのは、前記一及び原判決の事実及び理由「第三 当裁判所の判断」一2のとおりである。そして、本件各手紙が、もともと私信であって公表を予期しないで書かれたものであることに照らせば(例えば、本件手紙Nには、「貴兄が小生から、かういふ警告を受けたといふことは極秘にして下さい。」との記載がある。右のような記載は、少なくとも書かれた当時は公表を予期しない私信であるからこそ書かれたことが明らかである。)、控訴人ら主張に係るその余の事情を考慮しても、本件各手紙の公表が三島由紀夫の意を害しないものと認めることはできない。

 2 頒布の差止めについて知情の主張・立証がないとの主張について

 控訴人らは、頒布が禁止されるのが「情を知って」の場合に限られることは、著作権法一一三条一項二号が明文をもって定めるところであるのに、被控訴人らは、頒布差止め請求についての「情を知って」という要件を主張していない旨主張する。しかし、著作権法一一三条一項二号は、著作権侵害行為、著作者人格権侵害の行為や著作権法六〇条の規定に違反する行為によって作成された物がいったん流通過程に置かれた後に、それを更に転売・貸与する者を全部権利侵害とすることには問題があるために、その場合に限って「情を知って」との要件を付加しているものと解すべきであり、控訴人らは、本件各手紙を本件書籍に掲載して出版した当の本人であって、物がいったん流通過程に置かれた後に、それを更に転売・貸与する者ではないから、控訴人らの行為は、同法一一三条一項二号にいう「頒布」の問題として扱われるべき事柄ではないというべきである。控訴人らは、本件各手紙を本件書籍に掲載して出版行為をすること自体が許されなかったのであるから、右違法な行為によって自らが作成した物を自ら頒布することもまた許されないことは、むしろ自明である。すなわち、本件各手紙を本件書籍に掲載して出版したうえで頒布するという控訴人らの一連の行為全体が、全部であれ一部であれ、複製権を侵害する行為及び著作権法六〇条の規定に違反する行為に該当するというべきである。

 3 信義誠実義務違反、権利濫用の主張について。

 (一) 甲一二ないし一四、一六、一七、一九、二〇号証及び弁論の全趣旨によれば、三島由紀夫の遺族は、その了解なしに三島由紀夫の手紙が公表、複製された場合には、そのテーマが同性愛であるか否かとは関係なく必ず抗議し、その手紙が掲載された書籍の出版継続を阻止していること、現在は右遺族の了解の下に出版されている書籍の中にも、出版当初了解を得ていなかったために抗議を受け、著者及び出版者の謝罪、書籍の残部の断裁等が行われ、了解が得られるまで一〇年以上の間出版が中止された、という経緯のあるものがあることが認められる。

 
(二) 本訴が著作権及び著作者人格権に関するものであることに右(一)の事実を総合して考慮すれば、被控訴人らが本件各手紙の存在を知らなかったこと、本件各手紙は文学作品として書かれたものではないこと、差止めによる控訴人ら側の損害、控訴人福島が芥川賞候補にもなった有望な新人作家であること、本件書籍の文学的水準、三島由紀夫という文学者の正確なイメージを伝えるという目的、その他本件証拠によって認められる一切の事情を斟酌しても、それゆえに、被控訴人らが、著作権侵害を受忍しなければならないとか、被控訴人らが同法一一六条一項所定の権利を行使することが許されず、結果的に著作権法六〇条の規定にもかかわらず控訴人らが三島由紀夫の著作者人格権の侵害となるべき行為をすることが放置されるとか、と解することはできない。したがって、本訴差止請求を信義誠実義務違反、権利濫用と認めることはできない。
 
4 憲法二一条違反の主張について

 控訴人らは、本訴差止請求は、同性愛者に対する差別感情に基づき、本来ならば公表を差し止める意思も必要もない手紙の著作権に名を借りたものであると主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。前記3(一)、(二)の事情、特に、右差止めは、本来、控訴人らが控訴人ら自身の思想、感情を創作的に表現することを差し止めようとするものではなく、控訴人らが、控訴人ら自身の思想、感情を創作的に表現するのに役立てるためとはいえ、他人の思想、感情の創作的表現を複製、公表することを差し止めようとするものにすぎないものであることに照らせば、本訴差止請求を認めることを憲法二一条に違反するものということはできない。

 三 名誉回復措置について

 1 控訴人らは、本件各手紙は、三島由紀夫の名誉や声望を低下させるようなものを一切含んでいないから、名誉回復措置の請求はできないと主張する。しかし、著作物の公表権は著作者にあるから、本件各手紙を公表することは、三島由紀夫が生前、本件各手紙を公表することを了解していたか(私信であっても、事前又は事後に著作者が公表を了解することは、十分あり得ることである。)、又は、その遺族が公表を了解した(すなわち、公表に対して、三島由紀夫が存していたとしたならその著作者人格権となるべきものの保護のための措置を採らないことを約束した)という世人の誤解を招くものということができる。そして、世人が右のように誤解すれば、これにより三島由紀夫の社会的名誉声望が低下することは明らかである。すなわち、本件各手紙は、三島由紀夫の思想又は感情を個性的に表現したものではあるものの、公表を予定しない私信であることがあずかって、少なくとも控訴人らからは、「氏の文名を貶めこそすれ、高めるに資するようなものではない」(原判決四九頁)、「中学生風の言いまわし・・・どこの言葉か判らぬ単語・・・悪趣味な表現・・・本当に三島氏が書いたのかと、首を傾げざるを得ないことになるのである」(同五二頁)と評価されているものであるから、その文学的・内容的水準を右と同様に評価したうえ、このような低い水準のものについて三島由紀夫自身が公表を了解した、あるいは三島由紀夫は肉親である遺族からこのような低い水準のものでも公表を了解するであろう人物と思われているからこそ遺族が公表を了解したのであろうなどと誤解して、三島由紀夫の文学性や品性に対する評価を下げる者が出ることは、避けられないところであるからである。

 
2 控訴人らは、原判決別紙広告目録(二)の広告文について、@「私どもがご遺族に無断で公表、出版したものであります」という部分は、遺族らには公表につき承諾を与える権原がないから、法の論理に反する、A「これにより、大変ご迷惑をおかけしました」という部分は、誰に迷惑をかけたのかが曖昧であり、著作権法一一五条による「適当な措置」を要求し得ない遺族に対して迷惑をかけたと詫びさせるのは道理に合わないし、故人に対して詫びさせるのもおかしいと主張する。しかし、著作権法は、著作権者の遺族は、故意又は過失により、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をした者に対し、同法一一五条の適当な措置を請求できることとしており(同法一一六条一項、六〇条)、その意味で、遺族が、著作権者の死後において著作者の人格的利益を保護する権利を有することを認めているのであるから、その権利者である遺族に「無断で公表、出版した」ものであることをも明らかにすることが、三島由紀夫の名誉声望を回復するために適当な措置の一つとなることは、明らかというべきである。このことは、前記1において説示したとおり、本件各手紙の公表について、遺族が了解したと誤解されるおそれがあることからも明らかである。控訴人らが、遺族が同法一一五条の適当な措置を請求できないことを前提として右主張をするものとすれば、それは失当である。

 また、「これにより、大変ご迷惑をおかけしました。」との部分は、控訴人らが、本件書籍の出版により、三島由紀夫又はその遺族が本件各手紙の公表に了解を与えたものと、広告文の読者に誤解を与えたことを、読者にとっての迷惑ととらえ、これについて謝罪したものと優に理解することができ、新聞掲載の広告文の一部であることを前提にすれば、これが最も自然な理解というべきである。この点についての控訴人らの主張も採用できない。以上のように解して原判決主文第四項のとおり広告の掲載を命じたとしても、憲法に違反するものではない。

 3 控訴人らは、原判決が、広告文の掲載を命じることを必要とするものとした事情@ないしD(二三頁ないし二五頁)について、名誉声望とは何の関係もない事項であると主張する。 しかし、右@ないしDが、三島由紀夫の名誉回復のための適当な措置として、広告文の掲載を命じるか否かの判断に当たって重要な要素であることは明らかである。例えば、@及びBは、本件各手紙が多数の者に公表されたために名誉声望の低下が大きいことを裏付ける事実、Aは、本件各手紙の公表権侵害について、「被控訴人らが三島由紀夫の人格的利益を低く見て事実上保護していなかったためであり、被控訴人ら(ひいては三島由紀夫)の自業自得である」というような事情がないことを示す事実、Cは、将来の公表の可能性を念頭に置いていた場合(例えば、著名作家への手紙については、将来往復書簡集として刊行される可能性を考える場合もある。)には、表現にも注意することは当然であるから、それでもなお本件各手紙の程度のものを書いたとすれば、多少の文名の低下はやむを得ないというべき場合もあり得るが、本件はそのような場合ではないことを示す事実、Dは、控訴人らが既に三島由紀夫の社会的な名誉声望を回復するための適切な措置を採っていれば、その内容によっては、広告文が必要なくなったり、あるいは、掲載場所や大きさが小さくてすんだりする場合もあるが、本件はそのような場合ではないことを示す事実であり、これらの事情を考慮することは当然である。控訴人らの主張は、採用することができない。

 四 損害賠償について

 控訴人らは、何人かの文学評論家が控訴人福島の文学を評価し、本件各手紙の本件書籍における重要性に言及していないことを根拠として、損害賠償についての原判決の判断を非難する。しかし、著作権侵害による損害賠償は、文学的価値ではなく財産的価値の侵害による賠償であって、三島由紀夫と控訴人福島の知名度や文学者としての名声を比較すれば、本件各手紙が本件書籍において、財産的に重要なものであること、すなわち、本件書籍購入の意欲をそそり、本件書籍の商業的成功をもたらすという点で重要なものであることは明らかである。評論家が、文学的観点から、控訴人福島の文学を評価し、本件各手紙の重要性に言及していないとしても、そのことによって、本件書籍における本件各手紙の商業的重要性が否定されるものではない。

 また、控訴人らは、本件各手紙が著作権者によって公表される可能性はゼロ、したがって逸失利益もゼロというのが通常の感覚であると主張する。しかし、本件各手紙は、著名な文学者である三島由紀夫の著作物であるから、その文学的価値が高いか否かはともかくとして、これについての著作権に相当な財産的価値があることは明らかである。そして、このように財産的価値のある著作権を侵害された場合には、著作権者に損害が発生すると推認すべきであることは当然である。控訴人らは、本件各手紙が著作権者によって公表される可能性がゼロであると主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。本件各手紙を公表すれば三島由紀夫の名誉声望が低下することはあるとしても、そのことを受忍した場合には、著作権者において本件各手紙を複製して販売する等して経済的利益を得ることが容易であることは明白である。そうである以上、そのようにして経済的利益を得るか否かは、著作権者の意思次第であって、著作権者である被控訴人らがそのような選択をする可能性がゼロなどということは到底できないのである。控訴人らの主張は、採用できない。

 
第四 結論

 以上のとおり、原判決は相当であって、本件控訴は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条、六五条、六七条を適用して、主文のとおり判決する。

 東京高等裁判所第六民事部
 裁判長裁判官 山下和明
 裁判官 山田知司
 裁判官 宍戸充

(私論.私見)

 ここで、「三島由紀夫の手紙無断使用事件 判例全文」を取り上げたのは判決文の内容に対する興味からではない。この程度の裁判で全文が開示されているのに、三島事件の判決文がサイト公開されていない不正を衝きたい為である。あまりにもオカシイ。

 2013.9.27日 れんだいこ拝

【猪瀬直樹の「ペルソナ(三島由紀夫伝)」考】
 猪瀬直樹の「ペルソナ(三島由紀夫伝)」(文藝春秋、1999/11 初版)を評しておく。実際には読んでいない。そのうち読む機会があれば読もうかと思っている。そういう按配の読んでもいない猪瀬直樹のくだんの本を何故に論評できるのか。それはいとも簡単である。どうせヤラセ記述なのが分かっている。当局奥の院から筋書きが指示され、それを請け負いしたものに過ぎない。よって、三島由紀夫伝の正史の反対に位置する愚書に過ぎない。それがなぜ言えるのか。その一つの根拠は「死者達のロッキード事件」(文藝春秋、1987.5月初版)である。猪瀬は同書で、田中角栄邸の運転手兼私設秘書だった笠原正則氏の変死事件に対し、田中側からの謀殺疑惑を微に入り細に入り実証せんとしている。れんだいこは逆に角栄を窮地に落とし入れようとする側が仕組んだ謀殺事件と推理している。丁度反対の見解に立っている。一事に於いてこういう「逆見解」を披歴する者は他でも同様のことをする。「ペルソナ(三島由紀夫伝)」で云えば、三島の作家能力を貶(おとし)め、三島の市ヶ谷基地突入事件を揶揄的に戯画化し、三島のホモ伝説を煽るしろものになっているはずである。一見、詳細な情報を拾っているのは、そういう見方を広めるための小道具に過ぎない。れんだいこのこの推理は読む前から当たっているだろう。それにしても、石原、猪瀬の東京都知事コンビが揃いも揃って三島を愚弄する徒党仲間であることに気づかされる。これを偶然と見るより、当局奥の院のご褒美褒賞であると受け止めるべきであろう。この褒美により更に忠勤太郎することであろう。これも読めることである。

 2013.9.29日 れんだいこ拝

【「三島ホモ伝説の誘導」考】
 「解決済みのQ&A」の「三島由紀夫はホモと考えていい?」を転載する。

 三島由紀夫はホモと考えていい? 三島由紀夫はホモ・ゲイと考えていいですか?

 ベストアンサーに選ばれた回答 chiebukurono1さん

 そのとおりです。結婚したのは、その趣味があることを両親が隠蔽することを望んだからです。福島次郎は、三島由紀夫の愛人だった人です。

(私論.私見)

 こういうのを典型的な誘導論法と云うのだろう。

 2013.9.29日 れんだいこ拝

【「三島ヘテロ伝説」考】
 「★阿修羅♪ > 音楽10 」の ♪ペリマリ♪氏の2012.11.25日付け投稿「追悼 三島由紀夫」を転載する。

 今日は三島由紀夫の祥月命日である。市ヶ谷の東部方面益田総監を縛り上げ、関の孫六を振り回し、20分バルコニーで隊員に向けて演説し、天皇陛下万歳三唱、総監室に戻って割腹し、介錯され果てたことになっている。しかしながら真実は闇の中である。

 ところで三島由紀夫といえば、ホモというのが一般に信じられている通説だが、しかし彼と親しかった女友だちや四年間付き合った恋人は、三島由紀夫はヘテロであると証言している。

 大蔵省をやめた当時、三島には筆一本で家族の生計を支える重圧がかかっていた。『仮面の告白』でホモを匂わしたのは、センセーショナルに売り出す戦略であると。祖母と母親に押しつぶされ去勢されかけてはいたが、三島はヘテロなのだ。恋人とも肉体関係があり、結婚してポルトガルへ逃避行したいほど惚れていた。ほかにも複数の女性にちょっかいを出しているようだ。確かに彼の恋愛小説(『潮騒』ではなく『肉体の学校』のような類)を読めば、ヘテロであることは素直に了解できる。

 平凡パンチの担当編集者、椎根和(しいねやまと)によると、当時三島はキムタク並みのアイドルだったという。『光彩陸離』としたオーラを放ち、メデイアから『スーパースター』と呼ばれた、最初の人物だと。若者の人気投票はNo.1。「若者は好きではない」と言いながら、彼ほど若者に優しく真面目に接したメジャーはいないだろう。

 三島事件ののちにアンケートが取られた。『あなたは三島由紀夫が好きですかきらいですか?その理由は?』「好きです。理由は死ぬ前日お寿司屋さんに連れて行ってくれて、さあ何でも好きなものをお食べ、と言ってごちそうしてくれたから」とある劇団の貧乏な若者の役者が答えている。そして三島ほど、若者の可能性を信じているオジサンもいなかった。死の直前には、「十代のころに受けた精神に回帰している」と述べている。そんな三島の鎮魂にふさわしい歌を探してみた。http://www.youtube.com/watch?v=LuXDcn4Rm7g

 三島が謀殺された可能性について。

 事件直後、朝日新聞は三島の切断された首を掲載した。そもそも切腹とは、敵に首を取られないための自決である。罪人の首を晒しものにする『鳩首』のような辱めは行われない。しかし朝日のやっていることは、まさしく『鳩首』である。これは処刑のアナロジーなのだろうか。

 鬼塚英明氏の一連の著書によると、すべての戦争はヤラセだという。ヤラセのエージェントの一人だったルーズベルト大統領に言わせれば、「すべての政治的出来事に偶然はない。一見偶然のように見えても、それは慎重に練られた結果である」ということらしい。だから我々の歴史認識は、逆に考えるべきかも知れない。

 例えば三島事件は、『占領憲法改正』論が一つの焦点だった。三島にそれを吹き込んだのは、『生長の家』の谷口雅春である。谷口雅春は、出口王仁三郎に絶対服従していた人物だ。終末思想と相俟って、リサイクル活用の機運が高まってきた日月神示も同様だ。「神憑りになって自動書記した」という岡本天明は、出口王仁三郎の寵児である。三島由紀夫は学生時代、友人に連れられてその岡本天明を訪問し、神憑りになって日月神示を自動書記する現場を見ている。これが後の『英霊の聲』の帰神法につながっていく。生長の家の谷口雅春は、三島を感化しただけでなく、『楯の会』の世話役として、信者を送り込んでいる。三島の首を切り落としたのは、もう一人の信者である。(後に娘婿に収まっている)

 他にも佐藤栄作首相、中曽根官房長長官、益田総監、石原慎太郎、自衛隊幹部・・・有象無象が三島事件に絡んでいる。益田総監は責任を取って退職したが、3年後に死去。『楯の会』の学生たちに諜報をレクチャーした山本舜勝は、「クーデターの計画があった」といい、三島はクーデターの許可を米軍に求めていたとも言われている。そして今、持丸博が三島復活劇を演じている。かつて『論争ジャーナル』に所属していた持丸博こそは、三島由紀夫を説いて『楯の会』結成へと導いた人物である。自ら学生長に就任するが、事件直前に森田必勝と入れ替わっている。『論争ジャーナル』に資本投資していたのは、天皇の顧問田中清玄だ。その持丸博は今、『占領憲法改正』の田母神俊夫とタッグを組み、『三島神話』の語り部になっている。

 三島事件も占領憲法改正も、国内の動向のように見せかけているが、果たして本当に国内の出来事なのだろうか?日本に主権があるように見せかけているけど、「法案を決定するのは日本人ではない」と中矢伸一がリークしている。CIA研究のエキスパートである桜井晴彦氏は、首相選任も同様だという。ケムトレイルが騒がれているが、日米のトップシークレットが戦後日本を急右旋回させ、朝鮮戦争では731の細菌兵器を使っていることはあまり知られていない。

 改正の機運が高まっている『占領憲法』は、天皇制保持のための日米共同のやっつけ仕事で、極東委員会発足の前日に泥縄で間に合わせたもので、『共謀憲法』というべき代物だということも不問に付されている。サンタナヤは言っている、『真実を記憶しない者は同じことをくり返す』。そして我々はほとんど真実を記憶しないまま、占領憲法改正』のプロパに飛びつこうとしている。

 特攻の出撃の前に、「もしお前が生き残ったら、なぜ我々が爆弾を抱えてこんなことをしなければならなかったのか、その訳をきっと伝えてくれ」と遺言した学徒兵がいる。二年で終わるはずの世界大戦が四年に延長され、天皇制保持のために原爆投下まで降伏が許されず、学徒兵は沖縄の空へ毎日飛び立たねばならなかった。 だからこっちは全然違う『桜』だ。http://www.youtube.com/watch?v=dSJxcPsY4B8

 学徒兵は特攻で使い捨てにされただけでなく、戦後は戦犯の罪も被せられた。東京裁判もBC級戦犯裁判も、憲法同様、天皇制保持のための日米共謀である。国民も同調して戦犯の家族を虐待していたという。私は福島原発事故は戊辰戦争のアナロジーで、明治維新の裏を返した暗喩だと思う。明治維新で日本は傀儡国家になり、平成維新で奴隷国家になったこの国は福島の被災地の子どもたけではなく、国全体の子どもに対してもオカシイ。不吉な脅し文句とともに、ワクチンや予防接種を強要している。もうすでに受けた予防接種も、『二回目』を受けさせようと必死になっているらしい。こんな『思いやり』は、311の前には見られなかった現象だ。  

 コメント

 広瀬隆『持丸長者 幕末・維新編』ダイヤモンド社より

 『後の三井の大番頭・三野村利左衛門と組んだ男として知られる小栗忠順は、次のような出自であった。遠祖は平将門のいとこにあたる平定盛の弟・繁盛から出て、徳川家康の父・松平広忠時代から徳川家に仕えた。小栗家四代目・小栗又一が家康の家臣となり、姉川・三方ヶ原・長篠の合戦に活躍して槍の達人として聞こえた。この旗本屈指の名家、新潟奉行・小栗忠高の息子として江戸駿河台に生まれた小栗順太郎が、のちの忠順その人である。数え年八歳から漢学を学び、剣術、柔術、砲術、馬術、弓術を修得して、文武両道に秀でた才人として台頭した。

 目から鼻へ抜けるような小栗の天分が世に広く知られるようになったのは、咸臨丸を随伴船として、日米修好通商条約の批准書を交換するためポーハタン号で渡米した時からである。この渡米中、小栗はサンフランシスコとフィラデルフィアで造幣局を二度も訪れた。ここで、日本人が損害を受けている通貨問題を明らかにし、アメリカ人を論破した時の出来事は、幕末の伝説となっている。

 小栗は、横浜にフランス語学校を設立し、日本最初の株式会社・兵庫商社を設立して郵便制度と鉄道の建設計画を推進し、慶応三年には、関西ではこの兵庫商社(鴻池)が、また関西では三井の手を通じて「金札」という紙幣発行に踏み切った。関ヶ原の戦い以来、江戸幕府として初めての紙幣発行である。だが、パリ万国博覧会に日本代表を送り込んだところで、幕府瓦解という事態を迎えることになった。横須賀製鉄所はドッグが完成しないうちに明治政府の手に委ねられ、横須賀造船所から海軍工廠へと変貌を遂げることになった。レンガ製造技術は、わが国化学の開祖と言われる宇都宮三郎によって明治時代に品川白煉瓦会社と浅野セメントの誕生をもたらした。郵便制度は前島密によって築かれ、鉄道建設は小野友五郎らの測量技術をもって新橋〜横浜間の鉄道敷設へと受け継がれる運命にあった。その時、日本の繊維産業を巨大な金の卵に育て、造船王国・日本を生み出した、持丸長者育ての親・小栗はこの世になかった。

 小栗上野介は、将軍徳川慶喜が調停に恭順することに反対して徹底抗戦を主張し、鳥羽・伏見の戦い直後の慶応四年一月十五日に慶喜から勘定奉行を罷免され、二月には断腸の思いを胸に秘めて、知行地である上野国(群馬県)榛名山西南のふもと、群馬郡権田村に引きこもった。最後は閏四月五日に薩長軍に捕われ、新政府に恭順の意志を示すが聞き入れられず、翌六日、榛名湖の南十キロほどのところ、鼻曲山から流れ下る烏川の河畔、水沼川原で斬刑に処せられた。小栗の抗弁を聞き入れず処刑したのは、新政府郡で岩倉具定配下の東山道先鋒総督府軍艦・原保太郎と豊永寛一郎とされ、処刑を命じたのは官軍の戊辰戦争東征大総督・有栖川宮熾仁(たるひと)と伝えられる。

 明治になって大隈重信が、「小栗上野介は謀殺される運命にあった。明治政府の近代化政策は、そっくり小栗が行おうとしたことを模倣したことだから」と語ったと言われる。日本経済を救おうと粉骨砕身、精魂を傾けた男は、数々の真実と共に、新政府によって抹殺されねばならなかった。』

 ♪やがて三井家はウオーバーグ家と懇意になり、財閥のノウハウを教わる。「白洲次郎はウオーバーグの庶子である」という鬼塚氏の卓見に私は同意する。吉田茂もまた、アヘン王ジャーデイン・マセソン商会が営々と育てた掌中の玉である。白洲次郎は戦時中、昭和天皇と吉田茂を中心とする売国奴集団、ヨハンセン・グループの連絡掛絡係を務めている。御前会議の内容を逐一OSSにいる一族のジミー・ウオーバーグに流し、原爆投下までのシナリオのやり取りもしている。原爆投下総指揮を執ったステイムソンの日記に、ヨハン戦グループのくだりが出てくる。戦後はいよいよ待ちに待った白洲次郎と吉田茂の本番である。彼らは『私的外務省』といわれたほどの恣意的な外交を行い、外資系企業を優遇する。白洲次郎が「占領憲法に悔し涙を流した」などと自己申告しているが、デタラメもいいとこだ。彼が忠誠を誓っているのは日本ではない。我々はこいつに『プリンシプルのない日本』などと言われる覚えはない。NHKの特番にカブレてカッコイイなどと憧れていてはお終いである。

 第二次世界大戦も真珠湾攻撃も、1919年パリ平和会議という名の戦争準備会議で画策され、ここに八百長戦争の役者が集結したのである。今日の日本の頽廃だって明治維新の時から既定のシナリオなのだ。『維新』と名のつくものは国外勢力による秘密破壊工作だと思って間違いない。ちなみに『昭和維新』を謳った2・26は8・15クーデター同様、昭和天皇によるヤラセである。橋下徹などは言わずもがなである。なお落合莞爾の堀川政略史観では、小栗忠順は国外逃亡したことになっている。

(私論.私見)

 この一文が重要なのは、三島ホモ伝説を否定し、代わりに「三島ヘテロ伝説」を対置していることにある。ヘテロとは、同性愛者の反義語としてゲイやその周辺の人々を云う。

 「【石原都知事のホモ疑惑?】ホモが嫌いな石原都知事、お友達の三島由紀夫の評価は?」。
 「東京都の石原慎太郎知事閣下の発言です。さて、では都知事閣下は故三島由紀夫氏をどのように思ってらっしゃったのしょうか。確かお友達だったように記憶しております。また閣下は三島氏をホモと認識されていたようです。

 故三島氏は異常に強い自意識とナルシズムがありました。自前の制服つくるってまで軍隊ゴッコが大好き(ある意味軍オタ)。つまりコスプレして日本刀振り回して、最後は市ヶ谷の自衛隊で腹切りパフォーマンスして自殺した軍オタのホモって、普通に考えたら変態なんじゃありませんかね?

 で、都知事閣下が生前三島氏に対して、「オレはホモが嫌いだ。あなたのようなホモがメディアやテレビにでるな、小説を書くな汚らわしい」などといって非難したという話は寡聞に聞いたことがありません。故三島由紀夫氏はいいホモで、いまTVにでている連中は悪いホモなんでしょうかね。こういうのは世間では二重基準といいます」。





(私論.私見)