平田篤胤の履歴考

 (最新見直し2013.12.08日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、平田篤胤の履歴を確認する。今後どんどん書き換えて、れんだいこ史観で綴り直すことにする。「ウィキペディア平田篤胤」、「苦労人国学者・平田篤胤」の「1.2」、「3.4」、「5.6」、「7.8」、「9.10」その他を参照する。篤胤の伝記の根本資料としては息子銕胤による「大壑君一代略記」がある。が、,誤りも少なくないと評されている。

 2013.12.08日 れんだいこ拝


平田篤胤の履歴総評
 江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。安永5年8月24日(1776年10月6日)-天保14年閏9月11日(1843年11月2日)。復古神道(古道学)の大成者であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。 本居宣長らの後を引き継ぐ形で儒教・仏教と習合した神道を批判したが、やがてその思想は宣長学派の実証主義から逸脱した神秘学的なものに変貌していった。篤胤の学説は水戸学同様幕末の尊皇攘夷の支柱となった。

 篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。また、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し八家の学とも称していた。西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していた。彼の学問体系は知識の広さのために不自然な融合を示し、複雑で錯綜したものとなっている。篤胤の復古神道は平田神道と呼称され、後の神道系新宗教の勃興につながった。

 篤胤の学説は学者や有識者にのみ向けられたのではなく、庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に島崎藤村は小説『夜明け前』で平田学派について詳細に述べている。倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ったが、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い平田派は明治政府の中枢から排除され影響力を失っていった。


平田篤胤の履歴その1、平田篤胤の出自と家系
 1776(安永5)年、8.24日、出羽の国久保田藩(現在の秋田市)の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤の四男として久保田城下の下谷地町(現在の秋田市)に生まれる。幼名を正吉、通称を半兵衛、のち又五郎、また大角、さらに大壑とも称する。元服してからは胤行と称する。,

 生家は千葉氏の一族で戦国期に佐竹氏に仕えた大和田家胤を祖とする大和田家である。代々が佐竹家に仕える家臣で、大和田家の一族は藩校の教授を育てるほどの相当な有識の家系で学者、医者を輩出する家柄だった。父の清兵衛も山崎闇斎が創始した垂加神道(神道と朱子学を習合させた尊皇・国体思想の学派)の浅見炯斎(崎門三大人の一人)の学派の者で漢学を専攻していた。

 しかし、当時の佐竹藩の財政逼迫は相当なもので、家格は悪くないものの禄高百石の藩士生活は苦しかった。大和田清兵衛は篤胤を含めて六男二女をもうけており養育に窮 したことは想像にかたくない。幼少期に里子に出され戻されたり、養子に入ったところ実子ができたので実家に返されたりしているようである。篤胤47歳の時に書いた「仙境異聞」(仙童寅吉に取材した神仙界の消息を伝える記録)に篤胤自身がこう記しているとのことである。
 「私は、どういう因縁で生まれついたものであろうか。わら(産床)の上に生まれて より、実の親の手だけで育てられたわけではなく、乳母の子となり、養子となるなど して、多くの人手に渡って、二十歳を過ぎる年頃まで、苦しい目に浮き沈みしてきた ことは、いまさらいうまでもない」。

 また晩年六七歳の時、養嗣子・鉄胤(かねたね)に宛てた私信の中でも、こう吐露 している。

 「そもそも、身の上を幼時からふりかえると、生れ落ちたときから、父母の手に育て られなかった」。
 8歳の時、漢学を浅見絅斎の流れを汲む中山青莪(我)に学ぶ。
 11歳の時、医学を叔父の大和田柳元に預けられた。漢法医であつた叔父の許で、專ら医者になる修業を積んだ。生来、一を聞いて十を知るといふ賢明さであつたから、三人の兄は、恐ろしい程の天稟をもつ篤胤に何時もひけ目を感じた。論語を習つても一度で覚えて終ふ篤胤とくらべられて、よく父から叱言を喰ふ兄達は、「あれが居るために、ひどい目に遭ふ」と、そねみ憎んだが、一人の妹とは、反對に仲睦まじく励まし合つた。この妹は、「男であれば、篤胤も遠く及ばず」といはれた程の、敏い才を持つてゐた。この頃、玄琢と称した。後、国学を修めて古道研究の端を開いた。
 1795(寛政7)年、20歳の時、1.8日、一兩二分の金子を持つて出奔し遺書して国許を去った。正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らない、という諺にちなんだという。当時の秋田藩は財政危機にあって、藩士の給料から強制借上げが恒常的に行なわれていた上、継嗣争いで御家騒動なども起きており、非常に不安定な情勢にあった。篤胤はこの郷土出奔の経緯については晩年になっても詳らかに語ってはいない。のちに自著の中で当時を回想しているが「己は何ちふ因縁の生れなるらむと苦言を述べている。 篤胤の養子・鉄胤の書いた篤胤の代表的な伝記「御一代略記」は出奔の理由を簡潔にこう記している。
 「いつも、心に大きく憤激するところがあって、にわかに志を起こし、一月八日、書き置きして国を去り云々」。

 次のような逸話が遺されている。江戸へ向かう途次、峠の本道からはずれてしまい、山道は細くけわしく、寒気迫る豪雪の中で立ち往生となった。篤胤の死後、彼の甥たちが、記憶をもとに篤胤から聞いたことをまとめた「平田篤胤よりの聞受書」は次のように記している。
 概要「山路は大雪だったので、人っ子ひとり見あたらず、道はなく、腹はすき、手足は冷えて呆然とたちつくすばかりで、どうしようもなく途方に暮れていたところ、はるか頭上の木のこずえのあたりから、『ひだり、ひだり』と、野太く重厚な声で三度教えてくれるものがあった。そのとき、雪の上を見ると、かすかに一筋の道 の跡のようなものが、左の方に見えたので、意を決して左にゆくことにし、(教えてくれた声の主に)一礼を述べてから、行ったところ、本道にたどりついた」。

 次のような逸話も遺されている。
 概要「ようやく江戸に近づいた頃、渡し場に出くわした。篤胤は、船頭に腰を低くして船賃をまけてくれと頼んだが、船頭は応じないばかりか、あざけり笑いの言葉さえ発した。篤胤は、『よっし頼まぬ』と大喝して、その場で服をぬぎ、大小の刀とともに頭にくく りつけ川を渡り始めた。この姿を見て気の毒になった船頭が、『乗せてやるから上って来い』と叫んだが、篤胤は相手にせず、 『今になって何を云うか。たとえおぼれ死のうとお前の世話にはならぬ。かく決心したら、とことんやり抜くのが男と云う者。お前のような仁心のない者は人間の数に入らぬ』と言い返し、川を泳ぎわたった。その光景を見た人々は誰もが驚きあきれた」。

 この時より、正吉あらため「半兵衛」と名乗っている。 無一文同然で頼る処とてなく江戸に出た篤胤は、生活の苦難と戦いながら勉学に励むことになる。苦学し生活を支える為に数多の職業に就き、火消しや飯炊きなどもしている。「御一代略記」が次のように記している。

 「ゆえあって、藩(の江戸屋敷)にも立ち寄らず、(江戸住まいの)朋友をも頼りとせず、ただ、心正しく義をわきまえた博学の良き師を得ようとして、さまざまな場所に学びの場を求めては試み、あるときは学問のために時間をついやし、あるときは生活のために雇われ仕事などし、また一時的に主人に仕えるようなことをして四~五 年をすごしたが、その間の艱難辛苦はたとえようもなかった」。

 半兵衛が生活を開始しようとした当時の江戸は、天明の飢饉や大洪水、大風の被害 、ロシア艦船が近海に出没するなど、内外に問題多く世情不安定、不況も深刻なときであった。 最初の仕事は大八車の車引きであった。但し、疲労のあまり読書もできなかったので「火消し」に転職した。日当が高くて読書勉学の時間が取れたが気性の荒い世界に馴染めず役者の世界に再転職した。五代目・団十郎のもとに身を寄せ、浄瑠璃語りの役者の一座に加わった。その辺の事情につき、「聞受書」は次のように記している。

 「火消しをやめ、団十郎に奉公にいったところ、彼に大変に気に入られ、大縞の羽織など着せられ、もっぱらいい役者に仕立てようとの心づもりで世話をしてくれた。その当時は、私も浄瑠璃本の仮名遣いのあれこれを、団十郎(一家)に手ほどきできるぐらいの仮名遣いの知識はあった」。

 後に、聴衆を前に講演することになるが、この時に鍛えた話術のお陰を受けていることになる。

 22-23歳の頃、ようやく安住の職を得て、役者修行のかたわら相当の書籍を読み耽っている。「老子」、「荘子」を熟読し、諸子百家の書物もあらかた読みつくしている。俳句・川柳の類も研究した形跡がある。但し、学問で身を立てようとしていた篤胤は不満であった。「聞受書」は次のように記している。
 「私は思った。本心では(学者として)大いに名をあげたかったので、役者では、た とえ千両役者になったとしても、大いに名をあげたことにはならないと。そこで、医学書や漢学の書物を研究したのだが、どうもこれだというものに出会えなかった」。

 そんな折、ある町人の商家の「飯炊き募集」の口入れがあった。場所は江戸城の三六個ある見附(江戸城の外門のこと。譜代大名が交替当番で門番警護に当たった)のひとつ「常盤橋」付近のお堀端であった。今日のJR東京駅の北口、日本銀行のあるあたりである。大店で、かまどのそばで夜通し灯明をつけてもかまわないという環境だった。空き時間がたっぷりあり、読書時間の確保を第一においていた半兵衛にとってうってつけの仕事だった。これに飛びついている。

 篤胤は後に「童蒙入学門(初心者むけ勉学入門)」を著わし、「読書の章 」で次のように記している。

 「おおよそ、読書というものは、机をふいてちりを払ってのち、書物を置いて開くべ きである。姿勢をただし、呼吸をととのえ、一字一字、しっかりと見て、音読すること。韻をふむ箇所、声の調子を強めるところ、弱めるところ、章だてや節、段落の切れ目、句読点ごとに、一カ所のあやまりもなく、声たからかに読み上げ、一句一句の意味を読みとるようにすべきである。また、同じ文章を何度も繰り返して読むべきである。読む回数が多ければ多いほど、口が覚えて忘れなくなるものである」。

 この通りの音読法の学習をしていたと思われる。
 1800(寛政12)年、25歳の時、勤め先の旅籠で備中松山藩藩士代々江戸在住の山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり養子となる。養子となったいきさつには様々な伝説がある。

 或るとき、備中松山藩主(岡山県)の板倉侯が、警護途中でかわやに立つと、壕の対岸の町屋の立ち並ぶ辺りから、朗々とした読書の声がきこえてきた。家来に尋ねると、学問好きな飯炊きが本を読んでいるようでございますとのことであった。その時はそれで済んだが、三年後、再び同じ見附当番に立った板倉侯は又も篤胤の朗読の声を聞いた。三年も飯炊きをしながら読書とは見上げた奴だと思い、侯は本格的に声の主について調査をさせた。このとき調査を命じられたのが板倉藩士として召し抱えられ山鹿素行(江戸前期の儒学・兵学者)流の兵学の進講者にして警護隊長ともいうべき「番頭(ばんがしら)」を務めていた平田藤兵衛篤穏(あつやす)だった。平田家は四代前から板倉侯に仕え軍学を進講してきた家柄である。平田藤兵衛が飯炊き男の調査に乗り出すと、半兵衛が出羽国佐竹藩の大番頭たる大和田家の四男と云う出自が分かった。平田家は兵学、大和田家は医学を中心とする共に学問の家系であり 、家柄をたどれば「桓武平氏」の同族であることが判明した。平田は、「あっぱれなやつ」と評し半兵衛を自宅に引き取り、半兵衛の望むがままに読書の時間と生活の保証を与えた。こうして、半兵衛は、江戸入府以来、初めて生活の心配もなく思う存分に読書勉学できることになった。

 この時、平田家では跡継ぎにしようとしていた養子に死なれており、藤兵衛は、半兵衛の志の高さ、学識の深さ広さ、学問への熱意の強さにうたれ養子とすることに決めた。但し、篤胤には養子相続をためらう事情があった。武家や商家を奉公人として転々と渡り歩いていた頃、ある旗本のお屋敷で知り合い懇意となった女性がいた。行儀見習いをかねた奥勤めの奉公にきていたその女性の名を織瀬(おりせ)とい う。江戸府内の石橋家の娘として生まれ、小身ながらきちんとした武家の出であった。半兵衛は、その彼女と、いつになるかわからない結婚を密かに誓いあっていた 。平田家の養子になることで別の女性と結婚させられる可能性があった。織瀬も二十歳という当時としてはぎりぎりの婚期の限界に近づいていた。この二人が運命の添い遂げとなる。

 半兵衛は織瀬と語らい相談した上で平田家の養子になることを承諾した。但し、半兵衛は脱藩者の身であった。作法にしたがって「後見人・身元保証人」としての家元がなければ養子縁組ができなかった。このとき家元役を買って出たのが、同じ平田の門で軍学を学ぶ黒田 藩士の高久喜兵衛文吉だった。彼が半兵衛の叔父分として家元になり、形の上からも正式に平田家の養子にできるようはからってくれた。こうして、1800(寛永12)8月15日、大和田半兵衛は平田の姓を名乗ることになった。名を半兵衛改め篤胤とした。義父平田藤兵衛篤穏の「篤」と 実家大和田家の通り字「胤」をあわせた名であった。かくて平田篤胤が誕生した。

 これにより藩主板倉家に仕える身となる。殿様への願書は「医師としてのお仕え」という書面で板倉藩士の身分となった。養子縁組の翌日、板倉侯へのお目見えがかない、同24日、二人扶持で医師として正式に出仕することとなった。問題は、かねて秘密の婚約を交わした織瀬のことであった。養子となったとき、篤胤25歳、養父・藤兵衛69歳、その妻「そえ」もそれに準ずる高齢だった。養子になって10月後、「そえ」が急逝した。奥向きを切り盛りする主婦が必要となり織瀬との縁談が急速に進んだ。「そえ」の四九日があけるのを待って、同八月十三日、篤胤が養子となってほぼ一年後に 織瀬は平田家に嫁入りする。
 1801(享和元)年、26歳の時、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と結婚する。享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。医者としては玄琢を使う。

 この頃、街頭で「古事記伝」を瞥見したのが国学に志す動機となった。執筆35年、活版刷30余年、記伝刊行に70年を要したこの本を見て深い感銘に打たれたらしい。「聞受書」は次のように記している。
 「或るとき、本居宣長の著書を読み、これだと胸落ちするものがあった」。
 
 篤胤は本居宣長を敬慕私淑しつつ国学まっしぐらに突き進むことになる。「気吹(いぶき)おろし」が次のように記している。
 「二六歳のとき、初めて鈴の屋先生(本居宣長)の著された書を読み、その教えのありがたいことを知って、その門下に入りました。それで、この上もないほど、古道(復古思想 )というものの尊さを知り、それからというもの、ひたすらこの(国学)の道をまなび・・・・」 。
 「先師、本居先生の学風のまさしくすばらしいことは、万国にも古今にも比類ないものでして、なぜならば、万国の総本国というべき、この皇国におうまれになり、神がお伝えくださった真の道を説明されたからでございます。さて、先生がこの道をあまねく世に知らしめようとされ、書き残された著書は全部で五七部。その中には、和歌に関するものや、漢字の音のことなど、論じられたものもございますが、それぞれ言及するならば、そのことごとくが、人々に真の道を示そうというお心で著されたものばかりでして、内容の懇切丁寧なことは、書かれたものを見るたび、涙がこぼれるほどでございます」。

 伝記によると、本居宣長の学業を知り門下に加わろうとするが、この時既に宣長は没しており、没後の門人としてその名を鈴屋塾に置いたということになっている。「「御一代略記」は次のように記している。
 「この春、初めて、鈴の屋大人(うし)の著書を見て、おおいに古学への志を起こし、同七月、(宣長の居住地)松坂に(入門者としての)名簿を捧げさせていただいた」。
 1802(享和2)、27歳の時、篤胤と織瀬の間に長男が生まれ「常太郎」と名づける。篤胤は、「這えば立て、立てば歩めの親心」のままに藩邸への出仕から帰るたびに、すぐに常太郎を抱き上げてほおずりするなど、文字 どおり、眼に入れても痛くないほどのかわいがりようだったと云う。
 1803(享和3)年、28歳の時、愛児・常太郎(一歳三ヶ月)が重いハシカ にかかり、手厚い看護もむなしく、この世を去ってしまった。 常太郎の死の直後、織瀬の実父・石橋常房も六十数歳で亡くなり、平田家は重苦し い空気に包まれる。

 宣長没後2年経った頃、本居春庭に宛てた書簡によると、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだと述べている。 篤胤は、あらためて松坂の本居宣長の実子・春庭に、名簿と入門料として 二朱銀を送り、正式な入門を乞うた。春庭からは、すぐに「今後、わからないこことがあったら、なんでも隔てなく、ご 相談くださいますよう」という意味の丁重な返事をもらい、宣長門下も篤胤の入門を認めた。これにより「没後の門人」として加わることになった。篤胤は、春庭に例の「夢中入門許可」の絵を送り、そこに春庭自筆の文章と歌を書きこんでもらい返送してもらった。その歌のひとつが次のものである。「わたつみの 深き心の かよいてや そこには見えし 人の面影」。

 「医者ほど、尊い職はない。生命あつての財産で、その生命を司る医者こそは、立派な仕事」と教へられ考へてゐたのが、「世に坊主が、かくも蔓つてゐては、国体は危い。国益を測るには、師・宣長大人の素志を繼いで国学をきはめ、神の道を明かにせねばならぬ」と発意して、研学にいそしむことゝなつた。

 処女作「
呵妄書」(かもうしょ/妄説を叱る書)を記している。日本民族は元来野蛮蒙昧であって日本文化のすべては中国に由来するという「日本蔑視、支那礼賛」の考えを著した太宰春台の「弁道書」を宣長国学の立場から厳しく批判した。春台は「弁道書」に、「神武天皇より、三十代欽明天皇のころまで、わが国には『道』と呼ぶに値するものはなかった。すべてが幼稚であったところへ、第三十二代用明天皇の皇子に、厩戸(聖徳太子)という聖にして明晰な方がお生まれになり云々、(初めて)日本に文明と呼ぶに値するものをもたらしたのである」。篤胤は、この部分をはじめ三十カ所に渡って、筆誅・論駁を加えている。

 同時期、篤胤は賀茂真淵門下で、宣長の弟弟子でもある国学者・村田春海(むらたはるみ)と会見した際、春海が宣長の古道観を 口をきわめてののしることに驚倒させられている。春海曰く、「日本に道ありという国学者のたぐいは、自分の国に道がないのを恥じて、強引にあちこちの古史から手あたり次第に例をひいて、人をあざむき自身をもあざむくものである。もともと日本には道といえるものはなかった。文字は漢字だし、役人の衣装や制度や法律なども皆な(律令制など)支那のまねをしてきたに過ぎない。日本の学者とは、支那の儒学に通じるもののことであり、国学者というのは、儒学者の中で日本のことに詳しいもののことであり、儒学者のうちで和歌を読めるものを歌学者と呼ぶにすぎない」。「支那文明あっての日本」論をまくしたて、「宣長は世をまどわすニセ学者だ」と批判していた。春海とは、その場で絶交。二度と友誼をむすぶことはなかった。

 この後、次々と著作をしるしていく。篤胤の執筆する様子は、凡人のものではなく、何日間も寝ずに不眠不休で書きつづけ、疲れが限界に来たら、机にむかったまま寝て、十分に寝ると再び起き、また書きつづけるというものだった。このように書かれた著作は膨大な量になった。

 1804(享和4、文化元)年、29歳の時、私塾「真菅乃屋」(ますがのや)と号して講筵を開き3名の門人から出発した。同じ板倉藩の者ばかりであった。篤胤は「真菅乃屋」の開塾とほぼ同時期に「徳行(五徳)説」という一 種のパンフレットを作成している。これは、尾張藩の藩士で、同じ本居門下の国学者・鈴木朖(すずきあきら)が書いた「徳行五類図」という図譜を、篤胤が増補改訂して書き直し、人 の道に必要な徳目を説く教本としたものである。内容は、人の践(ふ)みおこなうべき五つの徳・「敬」「義」「仁」「智」「勇」 を、それぞれ説明したもので、これをもって門弟たちへの「教育方針」とした。

 この年、篤胤は、友人の堤朝風とともに、宣長の玉勝間の解説書ともいうべき「玉かつま道のしるべ」を出版している。

 1805(文化2)年、30歳の時、早々、長女・千枝子が生まれる。(千枝子は、長じて篤胤の養嗣子・鉄胤の妻となる)。

 この年、「新鬼神論」を完成。のち1820(文政3)年に「鬼神新論」と改題して刊行する。この書名は新井白石の「鬼神論」を意識したもので、新井白石・荻生徂徠・伊藤仁斎など儒者の「鬼神論」を論じたもの。神、鬼神の神霊の実在を内外の古典に照らして主張した。松坂の本居大平と春庭に贈って「すばらしいできである」との返書を受け取っている。

 続いて、 古書(祝詞式、日本書紀神代巻、古事記、古語拾遺、新撰姓氏録、出雲風土記、古事記伝など数十巻)を集め数カ月間をかけて研究し、「
古史徴」を刊行した。第一巻が「古史徴開題記」であり春夏秋冬の四冊がある。春巻で「神代文字」について初めて触れた。夏巻では今まで見られなかった神代史、特に天皇の系譜を正確に証明し、秋巻は「祝詞」(神歌)等を記録した。最後の冬巻では古事記伝の批評等が収録されている。

 1806(文化3)年、31歳の時、私塾・真菅乃屋を開き門人を取っている。のち1816(文化13)年に気吹舎に改称する。

 「
本教外篇本教自鞭策、2巻5部構成)」成稿。これは、イエズス会宣教師が著わしていたキリスト教のいくつかの教典(艾儒略(アレニ)の「三山論学紀」、イエズス会宣教師・利瑪竇(マテオ・リッチ)の「畸人十編」、「天主実義」、龐廸我(バントーハ)「七克」)を翻訳したもの。直訳ではなく、自らの思想に合わせるように多少改変している。第5部については、パントーハの『七克』のほとんど全部に訓点を付けたもので「山上の垂訓」など多くの聖書の句がおさめられている。研究ノート的な位置付けと考えられており、篤胤は公表しなかった。門外不出扱いとし、門弟にも閲覧を許さなかった。その事により後世まで残存したのかとも思料される。

 「
稲生物怪録」(いのうもののけろく、全4巻)刊行。稲生武太夫がもののけを退治する絵巻物。篤胤の著作ではなく、4つの異本から校訂した。序文を記す。購入した宣長の著作「直日霊」や「初山踏」、「玉勝間」、「古事記伝」及び附録として伝の中に紹介されている服部中庸(箕田水月)の「三大考」の宇宙観に魅せられている。篤胤30代前半の著作や先学の伝記及び文献資料などから類推すると、1805(文化2)年から06(文化3)年にかけて当時既に「鬼神新論」、「本教外編」などの論考を著述し幽冥の存在や有神論を肯定している。

 この頃、後に宣長の後継者となった鈴屋の本居大平に会い師弟となり、中庸に会う。中庸は、古道の本義を伝えるよう篤胤に依頼している。
 1807(文化4)年、32歳の時、医業を開業し玄瑞と名乗り医者の看板をあげた。 心の師である宣長と同様に医師として生計を立てようとした。この頃、先に亡くなった常太郎につづく男児が生まれる。「半兵衛(後に又五郎と改名)」と名付けた。生来の病弱であった。

 しかし、死の直前まで開業医として活動していた宣長と異なり、2年後の1809年に医師を廃業している。宣長の「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむとも」(本を読み歌を詠むのも良いが、まず家業を大切にしなさい)の教えに即していると思われる。但し、一家は困窮に悩み、愛妻・愛息を貧困の中で夭折させている。

 1808(文化5)年、33歳の時、7月、吉田神道の吉田家と共に当時の日本全国の神職の任免権を二分していた神祇伯白川家より諸国神職らへの古学教授を委嘱される。この依頼を受けて、篤胤はさっそく白川家配下の神職たちに教授するにあたり、学ぶ者たちの心得ともいうべき、白川家の学則を全面的に改訂し上呈している。後に、吉田家より学師の職を受ける。これより没年に至るまで、該博の学殖と絶倫の精力をもって著述することになる。本居宣長後の国学第一人者の地位にあり、篤胤学は幕末の尊皇攘夷運動の一支柱となり、その影響は地方豪農層にまで広く及んだ。

 この年、医者「元瑞」の名で医学書「
傷寒雑病論解」の草稿を著わしている。
 1809(文化6)年、34歳の時、篤胤は「真菅乃屋」での講義を、塾内部(内会という)だけでなく外部の一般庶民(外会という)に対しても講演するようになった。篤胤は半兵衛時代に浄瑠璃語りを修行しており講演も能弁であった。学問の話を分かり易く説くことと過激なまでの舌剣で評判を呼び、人気があった。

 この年、医者を廃業し、現在の東京・銀座五~六丁目にあたる山下町に引っ越しをした。「真菅之屋」の公開講座が引き続き行われ、「古道大意」をはじめとする「大意もの」シリーズを次々と平易な口語で説ききかせていった。公開講座に大変な精力を注ぎ、一般の人々の間でも名を高めてゆく一方、家計の逼迫は相変わらずであった。

 11.6日、養父・篤穏が77歳で逝去した。死因は老衰。平田家は非常に貧しく、必要な器具や野辺送りの様子も、いたって粗末なものだった。参列者は、身内は篤胤夫婦はじめとして6名、近隣の知人をいれても20人に満たないつつましさだった。
 1811(文化8)年、36歳の時、この頃、織瀬、千枝子(六歳)、半兵衛(三歳)と四人暮らしとなり、「真菅之屋」の門弟数は漸増して20人を数えていた。この時期の篤胤の公開講座が評判を呼び、儒学者、仏学者の論敵が現れたが、膨大な学識をもって臨み次々と破って行った。この年、篤胤はこうした論戦の台本ともなった公開講座の原稿をまとめ、校訂した上で、「大意もの」のシリーズを続々と発表した。著述に没頭している篤胤の書斎の入り口には、無用の来客や用事にさまたげられることがないよう、次のような貼り紙がしてあったという。
 「口上。当節、特別に著述を取り急ぐにつき、学問や道の追求以外の話、世俗の無用な長話等はごめんこうむる。塾生といえども、学問に関すること以外は、こちらから呼ばない限りは来るべからず。(ただし)学問・道についての議論・質疑ならば、終日終夜の長談義であっても、いささかもいとわない」。
 「本教外篇」の5年後、「霊能真柱」の直前に「玉だすき」を著わし、次のように述べている。「外国のことをも知らざれば、大御国の学問とはいうべからず」。
 1811(文化8)年、36歳の時、大いに奮発する事があって師走には駿河国府中の門人柴崎直古の寓居に籠もり、「古史成文」、「古史徴」、「古史伝」など古代研究の本を一気に数多書き上げる。これらの草稿は後に平田学の中核的中心教義となる。すでにこの頃には「古道大意」、「漢学大意」、「医道大意」、「俗神道大意」、「仏道大意」、「歌道大意」、「西籍慨論」、「出定笑語」などの講本を多数執筆している。平田学の思想の根幹は堅固で揺ぎないものとなっていた。

 第一弾が「
古道大意」上下二巻。その内容は、師の本居宣長の代表的著作である「直毘霊」(なおびのみたま)、「古事記伝」並びに「霊能真柱」著作のモチーフともなった服部中庸の「三大考」の影響が色濃く見てとれる。記紀神話による古道を理論的・体系的に解説している。地動説的天体論を唱え皇産霊神を最高位の神として神話の真実性を説く。

 次に、篤胤が著したのは講演原稿「
漢学大意」を校訂した「西籍概論」全三巻である。当時の儒学者の間に蔓延していた「中華第一主義」、「中国文化崇拝」を徹底的に批判・指弾し、日本の皇朝と文化を尊ぶべき旨を強く主張した内容になっている。この著作もまた、宣長60歳のときの「馭戎概言」(ぎょじゅうがいげん)から強い刺激と影響を受けているのが見てとれる。「馭戎概言」は、日本と支那・朝鮮の外交史やそれぞれの国の歴史を比較しながら、日本の尊貴さを証明するという内容になっている。

 続いて「
俗神道大意(巫学談弊)」を著わす。この本は、篤胤が「俗神道」と定義した両部神道(真言密教と習合した神道)や唯一神道(吉田神道。皇室ゆかりの伯家神道をさしおいて唯一宗源神道を名乗った)などを排撃し、論難を加えている。篤胤にとって、仏を主(本地)、神を従(垂迹)とする、いわゆる「神仏習合・本地垂迹」説を採用する神道は似非神道にほかならなかった。仏教、儒教の影響をとり入れた神道は、篤胤にとって「不純な(俗化した)神道」であり、皇室と日本の未来を背負う「純正神道」こそ「伯家神道」であるべきだった。仏教の下風に立たされていた神道の復興を規した。

 稿本「
仏道大意」をもとに「出定笑語」(しゅつじょうしょうご)(全三巻)を著わす。この書は、宣長の仏教批判の説をベースにしているが、仏教批判を展開した儒学者・富永仲基(とみながなかもと、1715-46)の「出定後語」や、儒学者・服部蘇門(天游・てんゆう)の著書などを調べて取り入れ、まとめあげている。その概要は、「釈迦の生地インドの地理風土、風俗、伝説、釈迦の生涯」に触れ、「すべての仏典が釈迦の手によらない後世の偽作であること」を明らかにしている。その上で、「支那・朝鮮・日本への、それぞれの仏教伝来の歴史と経緯、日本の仏教のそれぞれの由来」について記している。

 「
歌道大意」を著している。これは、歌(和歌)をはじめるとき、歌を詠むときの心がけ、万葉家や唐詩(漢詩)家の由来、また歌物語などを読むときの心得など、総じて歌の道を習おうとことに関して説いている。宣長の和歌についての諸説や、先輩弟子たちの議論などをまじえつつ、篤胤独自の和歌観を提起している。

 代表的著書「古史成文」を著わす。但し未完。1811(文化8)年に初稿ができ、刊行は1818(文政元)年。全15巻の予定のうち3巻(神代上中下)が刊行された。古事記、日本書紀をはじめ、古語拾遺や風土記などの古典が伝える神話を取捨選択し、篤胤独自の価値観に基づいて主観的に再構成している。推古天皇の代まで書かれる予定だったが草稿としては7巻分(神功皇后まで)までが残っている。

 代表的著書「
古史徴」(全4巻、別名「古史或問(わくもん)」)の草稿がなる。刊行は1819(文政2)年。自ら正史本文として撰した「古史成文」の出処並びにその撰定事由を論証した著述である。先師と仰ぐ本居宣長国学がもっぱら古事記に依拠していることに対し、記紀のみならずその他の古文献や後世の諸書をも参照しつつ篤胤独自の神典を編纂している。祝詞を重視している等の特徴がある。1巻は「開題記」、「春」、「夏」、「秋」、「冬」と銘打たれた論考を収録。「開題記」は特に『古史徴開題記』としても知られる。「春」には神代文字に関する論考がある。
 この年の10月、江戸の篤胤は、弟子たちに招かれて駿河の国(静岡県)を訪れる。江戸の自宅での篤胤の勉学ぶりが昼夜をわかたぬ激しいものだったので、弟子たちがその 身を案じ、静養がてら招いたものだった。この頃の篤胤は、一年の大半を袴を脱がずにすごし、睡眠は机にもたれ、 伏せて寝ることですましたという布団しらずの研究に余念のない身であった。その勉学への時間と情熱のかけかたは超人的なものであった。見かねた弟子たち(この時点では二○名くらい)が、温泉にでもつかって英気を養っていただこうと考えた上での運びであった。ところが、招いた弟子の一人の家に投宿したところ、日頃、会えな い遠近の弟子たちが入れ替わり立ち替わりやってきて教えを乞い、休めるものではなかった。元々教育熱心な篤胤は、はからずも駿河の弟子宅を研究所分室(塾分室)がわりに江戸と同じく多忙な日々を送ることとなった。

 弟子たちとの問答を通じて、「日本の神代考、日本の皇国観」を明らかにしておく必要を感じた。記紀をはじめとし日本の神代に関する史書はあるが、内容に異同があり、矛盾があり、また儒教・仏教などの影響を受けて変形したような諸説・古伝があり、理解が容易ではなかった。そこで篤胤は、弟子たちの懇請もあって、かねてより懸案だった「儒仏の影響を排し、異説をも包含する正しい神代の歴史・古史を、体系化し復活させる」と云う野心的著述を決意した。12.5日、篤胤は弟子たちから記紀や本居宣長師の「古事記伝」など七種類の古史の代表作を借り集め、奥まった一室で猛然たる執筆活動に入った。その猛然さは寝る間を惜しみ、食事も机に向かって本を読みながらのものであった。心配した弟子たちが「もうおやすみになられては」としつこく頼むので「枕と夜具をもて。ただし途中で起こすなよ」といって横になって高いびき。ところが、今度は丸二日、食事もとらずに寝っぱなし。弟子たち、また心配になって、「先生、だいじょうぶでございますか」と起こせば「途中で起こすなといったはずだが」などといいながら、また何事もなかったかのように、昼夜兼行の執筆生活にもどるというありさまだった。


 こうして25日間にわたる、こもりっぱなしの執筆作業が終わったのがちょうど 大晦日、陰暦で12.30日から元日早朝にかけてだった。篤胤を篤胤たらしめる大部からなる代表作が、36歳のとき、たった25日間でできあがったことになる。できたのは『古史成史』、『古史懲』の二大著作の初稿、ならびに『霊能真柱』の草稿であった。これは分量からいっても内容からいっても25間でできるようなものではない。篤胤の超人的な体力気力、不眠不休の努力があって初めてなった奇跡であった。本人も自著でふりかえって、「あのとき、どうしてあんなに速く書けたのだろう」と述懐している。文庫解説はこう書いている。「篤胤学と称せられる古学の中心的な著作の草稿や骨格は、この文化八年一二月五日 から三○日の深夜にかけての、短期間の、まさに神がかりともいうべき作業の結果と して成立するのである」。ちなみに、師匠の本居宣長の代表作「古事記伝」は、完成まで 三五年間の月日を要している。

 篤胤が神々に強く固く祈りながら書いたという証拠が弟子の記録にある。そこでは、大晦日の翌日、元日の朝にいずまいをただした篤胤が、できた原稿をさしだしな がら、こう言ってほほえんだという。「去年というべきか、今年と言うべきか、丑の刻(午前一時~三時)の鐘を打つころ に書き終えた。きみたちが、心から(古史の完成を)ねがったので、私も承諾して本気でとりかかり、こもりっぱなしだったが、こもったその日から、御意志ならば、なにとぞ年内に書き上げさせたまえと、神々にお祈りし続けてきた。どうやら、そのかいがあったようだ」。

 この超人的体力・気力については、「霊能真柱」を書く動機と刺激になった「三大考」著者の服部中庸も、私信でいっている。「調べもの、著述にとりかかったら、二○日間でも三○日間でも、昼も夜も眠ること なく、疲れたときは三日も四日も飲み食いせずに眠り、目がさめたら元の通りになっている。なかなか、凡人にはできないことです」。こうして、篤胤は人生の岐路ともいうべき著作を駿河でなしとげ、正月があけてから江戸の自宅に戻った。

 1812(文化9)年、37歳の時、草稿「霊能真柱」の本原稿を書き上げる日々となる。その矢先、当時には珍しい恋愛結婚だった愛妻の織瀬が病に倒れた。医者の心得もあった篤胤は半年以上もの間、必死の看護を続けた。それもむなしく八歳の娘と五歳の息子を残し、この年の夏、織瀬は31歳の若さで没した。織瀬夫人は教養と嗜みのあった女性で、現存する夫人の和歌などを見ると日本の古典の教養にも深いものがあり、平田篤胤の細君にふさわしい知性があったことがわかる。篤胤の悲嘆は、筆舌につくしがたいものがあった。しばらく書も筆も手につかず、泣き暮れて、やつれる日々が続いた。そのどん底からはいあがり、最初に書き上げたのが「霊能真柱」である。

 こうして、中庸の思想を基盤とした代表的著書「霊能真柱」(たまのみはしら)を成稿する。1813(文化10)年刊行。人間の死後の魂の行方を論じた書物。「霊」が死後に「幽冥」へ行くことを証明するために古伝説によって宇宙の生成を説いた。これは、死して人の霊魂は黄泉の国にゆくとした師本居宣長の説(世界観)に対して、顕世(うつしよ)・幽世(かくりよ)論を展開し、まっこうから新説(新しい世界観)を構成し発表したところに意義がある。師の格は尊敬はするが、そのことと師の言説は別とする篤胤史学による。「古学とは、よく古の真を尋ね明らめ、そを規則(のり)として、後を糺すをこそいふべけれ」と述べている。、これが宣長門人の間に波紋を呼んだ。

 これをもって篤胤の学問の成立とする。服部中庸の「三大考」の影響を受けて、同書にならって、世界の成立の過程を図をまじえながら解説する。天動説・地動説を考慮している。先妻織瀬の死んだ年に完成。この書が出て以降、復古神道で死後の世界への関心が高まる。現代の神道系諸宗教に与えた影響は計り知れない。この本は後に篤胤の唱える平田八家の学の中核に位置する著作と言われている。『霊能真柱』は篤胤にとって、ある意味での分岐点になる重要な書物で、この本を書き上げた年に愛妻織瀬を亡くしている。妻に対する憐憫の思いはことのほか強く、「天地の 神はなきかも おはすかも この禍を 見つつますらむ」と神への憤りや遣る瀬無さを歌に托し詠歌している。この本の中で述べている篤胤の幽冥観(死後の行方)についての論考が、亡き宣長先生を冒涜していると、本居学派の門人達は憤慨し非難をあびせかけ、弟子達は篤胤を山師とまで罵る始末であった。そのような理由で篤胤は伊勢松坂の鈴屋から疎遠になっていく。しかし、これは出雲神道として取り入れられその後の神道のあり方に強く影響を与えた。

 代表的著書「古史伝」(全37巻)起稿。本居宣長の「古事記伝」の形式にならって、自著「古史成文」を一段ずつ自ら注釈している。1814(文化11)年、8巻まで刊行。生前に28巻が刊行される。全巻の刊行は1911(明治44)年で、平田鐵胤の依頼で矢野玄道が篤胤の残した草稿を仕上げた。
 1815(文化12)年、40歳の時、この年大いに著述を急ぎ草稿数巻成れりとある。
 1816(文化13)年、41歳の時、4月、鹿島神宮・香取神宮及び息栖神社に詣で、序に銚子辺りを廻り諸社巡拝して、天之石笛という霊石を得ている(この岩笛は千代田区の平田神社宗家にある)。これを得たことにちなんで、私塾「真菅乃屋」を「伊吹乃屋」(いぶきのや、気吹乃屋)と改め、大角とも名乗るようになる。次第に門弟数を増して行くことになる。(「真菅乃屋」の最初の門弟数・三人が、約40年後の篤胤の逝去時(1843(天保14)年には553人を数え、さらに没後に入門した没後門人数にいたっては明治9年までの33年間に4200名を越えるばかりとなる)
 1817(文化14)年、42歳の時、前年の旅行の顛末をしるした「天石笛之記」が書かれている。

 天狗小僧寅吉の出現は文政3年秋の末で、篤胤45歳のころである。寅吉は神仙界を訪れ、そこに住むものたちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。この異界からの少年の出現は当時の江戸市中を賑わせた。発端は江戸の豪商で随筆家でもある山崎美成のもとに少年が寄食したことにある。弟子達の噂が篤胤の耳に入り、かねてから異界・幽冥の世界に傾倒していた篤胤は、山崎の家を訪問する。以後この天狗少年を篤胤は養子として迎え入れ文政12年まで足掛け9年間面倒をみて世話をしている。

 篤胤は、天狗小僧を通じて異界・幽冥の世界の有様を聞き出した。1822(文政5)年にはその聞書きをまとめた「仙境異聞」を出版している。これに対して、周囲からは少年を利用して自分の都合のいいように証言させているに違いないと批判された。しかし、本人は至って真剣であり、寅吉が神仙界に戻ると言ったときには、神仙界の者に宛てて教えを乞う書簡を持たせたりもしている。

 「仙境異聞」に続いて「勝五郎再生記聞」、「幽郷眞語」、「古今妖魅考」、「稲生物怪録」など一連の幽なる世界の奇譚について書き考察している。49歳から54歳までの数年間、支那や印度の古記文献の研究をし、さらに異国に於ける仙人や神の存在についての研究をして行く。この時期「葛仙翁伝」、「扶桑国考」、「黄帝伝記」、「赤縣太古伝」、「三神山余考」、「天柱五嶽余論」他数多の道学的な本を物し道蔵などの経典を読んでいる。

 1818(文政元)年、43歳の時、自らの門人にして富裕な商人であった山崎篤利の養女と再婚する。これにより経済状態がやや好転する。妻は織瀬の名前を継いだ。 この間、現在の埼玉県越谷市の久伊豆神社境内に仮の庵をむすぶ。同境内には篤胤お手植えの藤が花を咲かせている。また篤胤を偲ぶ石碑もある。
 1819(文政2)年、春、門人の高橋国彦(越後国、新潟県)、相田饒穗(筑前国、福岡県)、佐藤信淵(出羽国、秋田県)が、「古史徴開題記」を「神字日文伝」と命題して再版した。上巻は神代文字の抄書である肥人書を、下巻は「疑字篇」と名づけ神代文字の抄書である薩人書収録している。
 1821(文政4)年、46歳の時、「古今妖魅考」全7巻刊行。「本朝神社考」の中の天狗に関する考察に共鳴して執筆した。天堂と地獄が幻想に過ぎないことを説いた。

 3.13日、篤胤宅に佐藤信渊、屋代弘賢、伴信友、國友能富等が集まって神童虎吉から、豆つ魔の実見談を聞いている。豆つ魔とは身の丈一寸ばかりの小人で、その小人が人間と同じ鎧兜で云々と語ったとされている(沖野岩三郎「迷信の話」より)。ちなみに、伴信友は平田篤胤と並ぶ当時の古代研究二大巨頭であり、両者の密接な交流は多くの平田家文書が物語っている。さらに「群書類従」をはじめ、和学・国学に関する幕府編纂方の実質的責任者・屋代弘賢が篤胤を信頼し、一貫してブレインとしていた(「明治維新と平田国学展プロジェクト委員会」より)。
 1822(文政5)年、47歳の時、代表的著書「仙境異聞」全2巻刊行。神仙界を訪れ、呪術を身に付けたという寅吉からの聞書きをまとめたものである。寅吉は7歳のときに杉山僧正に伴われて、常陸の岩間山に行き、修行して幽冥界に行き、外国も廻ったと主張し、呪術を操って江戸で評判となった。このことを聞いた篤胤は最初に寅吉を保護していた山崎美成のもとから半ば強引に自分の家に連れてきて数年間住まわせた。篤胤は神仙界に住むものたちの衣食住・祭祀・修行・医療・呪術などについて、隈なく質問をして、その内容をこの本に収めた。  

 代表的著書「勝五郎再生記聞」刊行。死の世界から蘇った少年のことを取材してまとめたもの。多摩郡中野村(現:東京都八王子市東中野)の百姓源蔵の次男の勝五郎(9歳)が、自分は多摩郡程窪村(現:東京都日野市程久保)の百姓久兵衛の息子の勝蔵の生まれ変わりであるといった。1810年(文化7年)に6歳で死んだが、幽冥界で産土神である熊野権現(日野市南平8丁目の熊野神社か)に会って、今の家に再生したと彼は言う。篤胤はその再生を大国主の幽冥事を分掌している産土神の計らいだと解釈した。
 1823(文政6)年、48歳の時、上京し関西を周遊している。目的は、著作を朝廷に献上すること、若山(現和歌山)の本居大平(鈴屋一門の後継者)・松阪の本居春庭(宣長の子)を訪れること、そして宣長の墓参をすることであった。7.22日に江戸をたった。「せせらぎに潜める龍の雲を起し 天に知られむ時は来にけり」と上京に際して詠んだ歌から、上京にかける意気込みが知られる。8.3日に熱田神宮の参詣を済まし、8.6日に京都に到着した。富小路貞直を通して光格上皇に、また門人六人部節香・是香を通して仁孝天皇に、それぞれ献上して第1の目的である著書の献上は果たした。

 一方、篤胤の鈴屋訪問の報は鈴屋の門人たちに騒動を巻き起こした。既に篤胤の斬新的な著作は一門の間に大きな波紋を呼んでおり、異端の門人である篤胤をどう迎えるかで意見が分かれた。親・篤胤派の代表としては服部中庸がいた。中庸は篤胤に大きな影響を与えた『三大考』の著者であった。そのため、思想も篤胤と近く、篤胤を高く評価し、篤胤こそ宣長の後継者に相応しく、大平をはじめ、他のどの門人も篤胤には及ばないとまでいった。反・篤胤派の代表は、京都の城戸千楯や大坂の村田春門が挙げられる。城戸千楯は篤胤が来るに当たって妨害工作などもしていたらしい。反対派は、篤胤はさまざまな書物を恣意的に解釈して、強引に理屈をつけていると批判した。

 篤胤は京都の鈴屋の支店のようなところを訪れ、服部中庸と交流している。京都で篤胤と接触した門人たちは、大平に篤胤に関する批評の手紙を送っている。大平はそれらの篤胤の批評をまとめて整理していたが、やがて人手を介して写本が篤胤に伝わり、のちに平田鐵胤が論評と補遺を加えて「毀誉相半書」という名で出版している。

 「三大考」をめぐる論争の中で、本居大平は篤胤に厳しく批判されていたが、鈴屋門を取り仕切る彼は、門人の一人として篤胤をもてなすことにした。訪問に先立って篤胤が送った「武蔵野に漏れ落ちてあれど今更に より来し子をも哀とは見よ」という歌に対して、大平は「人のつらかむばかりものいひし人 けふあひみればにくゝしもあらず」と返した。 こうして、両者の会談は好意的な雰囲気でおこなうことができ、篤胤は宣長の霊碑の1つを大平より与えられた。宣長の霊碑は、宣長自身によって3つ用意されていて、一つは実子である春庭のもとに、残る二つ後継者である大平のもとにあった。その大平が持っていた一つを篤胤に託した。

 伊勢神宮を参詣し、ついで松阪を訪れ、11.4日に念願の宣長の墓参を果たすが、その際に墓前に献じた歌には、自分こそが正統な後継者であることの確信が表れている。「をしへ子の千五百と多き中ゆけに 吾を使ひます御霊畏し」とあるのがそれである。松阪では鈴屋本家を訪れ、本居春庭と会談している。こうして目的を果たし、11.19日に帰宅した。


 同年,吉田家より神職への古道教授を委嘱された。のち尾張藩に接近して仕えたり,水戸藩への仕官を願い出るなどしている。

 1831(天保2)年、56歳の時、この頃から暦日や支那の哲学とも云われる易学に関心が傾倒して行く。「春秋命暦序考」、「三暦由来記」、「弘仁暦運記考」、「太皞古易伝」他以後古史本辞経(五十音義訣)や神代文字などの言語や文字の起源も研究している。

 「
天朝無窮暦」。これは神武天皇元年からの暦を篤胤の理論をもとに計算しなおしたもの。これが、篤胤の「御政道批判」と捉えられることになる。但し、篤胤は、「天朝無窮暦」の科学的正しさを凛として主張し抜いた。

 博学な篤胤は、殊に天文・暦學を好んで研究したが、或る時、天文臺長と論争し、篤胤の質問に、臺長が返答に窮した末、敕任官の官階を盾に「默れ」と大喝して、遂に讒訴したと云う話しがある。その暦本「天朝無窮暦」三百卷は興味のある本で、今年の月食は何分欠けるか判るものとなっている。この本が刊行されないのは一頁に十干・十二支が何百とあることにより活字が間に合はないからである、とされている。
 1840(天保11)年、65歳の時、「天朝無窮暦」で幕府の司天家と論争している。
 1841(天保12)年、66歳の時、1.1日、「天朝無窮暦」が幕府により発禁処分とされ、故郷である秋田に帰るように(国元帰還)命じられ、事実上の「江戸所払い(追放)」になった。以後の著述を禁止された。幕府の暦制を批判したためであった。また激しい儒教否定と尊王主義が忌避されたともいわれる。
 1843(天保14)年、68歳の時、秋田に帰って2年後、9.11日、病没(享年68歳)。秋田藩士(15人扶持,給金10両の薄給身分)となったが,江戸帰還を果たせないまま失意のうちに没した。この時点での門人は553人であり、1330人が没後の門人となった。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。平田篤胤の墓所は秋田県秋田市手形字大沢21-1にあり、国の史跡に指定されている。

 子供は、先妻織瀬との間に2男1女いたが、男子は二人とも夭折した。1802年(享和2年)に長男常太郎が生まれ、1805年(文化2年)に長女千枝(千枝子とも)が生まれ、1808年(文化5年)に次男半兵衛(のちに又五郎と改名)が生まれた。常太郎は生まれた翌年に、半兵衛は1816年(文化13年)に没した。 

 1824年(文政7年)1月15日、唯一無事に成長した千枝が、伊予国新谷藩の碧川篤真と結婚した。碧川篤真は碧川好尚の実兄で、平田家の養嗣子となり平田鐵胤を名乗る。千枝はのちにおてう(お長)に改名し、また晩年には母の名である織瀬を受け継いでいる(1888年(明治21年)3月没)。

 鐵胤は内蔵介のち大角とも名乗り、1868年(明治元年)には神祇官判事に任じられ、明治天皇の侍講となり、ついで大学大博士に進み、のち大教正となった。篤胤の死後は家学を継承し平田学を普及させ、又先代の負債をすべて清算し君父の恩に報いた。著書に『祝詞正訓』がある。1880年(明治13年)10月15日鐵胤没す。享年82。なお、その後の平田家は、延胤、盛胤(婿養子)、宗胤と続くが、宗胤には、子がおらず、1973年11月7日に死去、絶家となる。ただし、最後の当主宗胤は、死去の前年絶家を覚悟した上で、代々木に平田神社を創立しており、その2代神主、米田勝安が、事実上平田家の名跡を継いでいるといえる。


 篤胤史学は、生田万、佐藤信淵、矢野玄道、大国隆正、鈴木重胤など、数多くの有力人士を輩出させている。門人は、神官から豪農・下級武士層まで553人に達し、篤胤没後も含めると1330人を数えた。これらの人々の活躍により「草莽の国学」として大きな影響を与えた。平田篤胤の高弟の生田萬は、越後国柏崎で起こった乱の首謀者であった。島崎藤村が自分の父親をモデルにして描いた「夜明け前」の話は、平田派国学の熱烈な支持者であった主人公の青山半蔵がその理想「新しき古」を求め、そして近代化の中でそれが否定される過程をつづったものだと云う。篤胤史学は幕末期の尊王攘夷運動に連動し、幕末維新、明治維新へ向けて急転回して行った。

【書簡】
 2006年8月22日放送の「開運!なんでも鑑定団」にて、篤胤のものとされる書簡が登場したが、鑑定の結果、鐵胤の書簡であることが明らかになった。鐵胤は書簡のなかで、幕末の混沌とした政情の中王政復古が間近に迫っていることに言及している。






(私論.私見)