大和王朝考

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).7.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「大和王朝考」をものしておく。

 2006.12.3日、2008.4.7日再編集 れんだいこ拝


【長髄彦政権考】
 4世紀後半に築造された日本最大の円墳である富雄丸山古墳から盾形銅鏡と国内最大の蛇行鉄剣が発掘された。被葬者が気になる。年代的には、七支刀が372年に百済から倭王におくられた、仲哀が亡くなった後(神功皇后が摂政⇒)応神の時代になる。日本書紀には応神3年条に【百済記に云う、阿花王立つ】とあり、応神16年条に【是歳、百済の阿花王没す】、三国史紀によると【阿華王の即位は392年、没年は405年】とある。応神元年が390年となる(367年~神功皇后が摂政で応神皇太子)。

 この時代、神功皇后が北九州で応神天皇を産み大和に凱旋する途中、仲哀天皇の皇子の香坂・忍熊王による内乱が勃発している。香坂・忍熊王が築造したといわれる五色塚古墳あたりや木津川で戦闘となり、丹後の建振熊(籠神社に伝わる国宝の海部氏系図にある海部直.一族の祖)が神功・応神側の将軍となって、最終的に忍熊王の乱を鎮圧した。

 富雄の所在地は、神武天皇と最後まで戦ったナガスネヒコの本拠地であり、明治になって、この地域は国賊呼ばわりされて来た。長髄彦だけでなく、反骨精神を引き継ぐ首長が次々、この地域に現れた。忍熊王もその1人である。富雄丸山古墳の被葬者は仲哀天皇の皇子の忍熊王ではないかと考える説もある。

【日本土着民考その1】
 れんだいこのカンテラ時評№12898  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年10月21日
 2016.10.18日午前9時30分頃、沖縄県東村高江の米軍ヘリパッド建設工事が進むN1表ゲート前で、これに抗議する市民が対峙し、大阪府警から派遣された20代の男性機動隊員が、この反対運動に参加していた芥川賞作家の目取真俊氏に対して、フェンス越しにかなり強いヤクザ口調で、「触るなクソ。触るなコラッ。どこつかんどんじゃボケ。黙れ土人(どじん)」と発言。別の機動隊員が「黙れ、シナ人」と発言。これが、「機動隊員による沖縄人に対してのヘイト用語発言事件」になり詮議されている。

 10.19日、沖縄県の翁長知事が、県庁で「言語道断で到底許されない」と強く非難した。安倍政権の菅官房長官も同日の記者会見で、「警察官が不適切な発言を行ったことは大変残念だ」と語った。10.20日、警察庁の坂口正芳長官は定例の記者会見で「機動隊員の発言は不適切で極めて遺憾だ」、「今後このような事案の絶無を期すとともに、適切な警備を行うよう指導を徹底していきたい」と語った。

 ところが、機動隊員派遣お膝元の松井大阪府知事が、10.19日、自身のツイッターで、「ネットでの映像を見ましたが、表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と労(ねぎら)いコメントし、翌日のぶら下がり会見でも「相手もむちゃくちゃ言っている。売り言葉に買い言葉。鬼畜生のように隊員個人を叩くのはどうか」と述べ、改めて隊員を擁護した。翁長知事が大阪府知事のコメントに激怒!、「沖縄県民への配慮が足りないのではないのか」と強く批判して物議を呼ぶオマケまでついた。

 以下、この「土人発言」に対して、れんだいこ式に解析評論しておく。案外と重要な問題が宿されていると窺うからである。この「土人」表現が、極めて癖のある且つ歴史性のある且つ国際ユダ邪問題に密接不可分なものであると思うからである。表現の自由を極力広く取って構えようとするれんだいこは、本件を、ヘイト用語使用による非難ではなく、原理的に粉砕してみたいと思う。御意の士が現れんことを願う。件の機動隊員の目に触れんことを願う。

 一般に、「土人」という言葉は、「未開原住民」的ニュアンスで蔑視的に使われている。典型的な例はアメリカンインディアンであろう。戦後日本生まれの子供は、私がその一人であるが、嫌と云うほど西部劇を見せられ、抵抗するインディアン撃退劇を正義の出来事の如くに脳裏に焼きつけられた。この時、無意識下で洗脳、即ち「先進国の白人が原住民を退治し馴致することは正義であるとする」史観を流し込まれたように思う。これによって正視し得ていたのではなかろうか。これを仮に「ユダ邪ナイズ先進文明国史観」(以下単に「先進文明国史観」と記述する)と命名する。

 この史観によって、紀元16世紀頃より世界植民地分割征服戦争が始まった。この戦争を背後で主導していたのが国際ユダ邪と仮命名されているところのユダ邪系国際金融資本、及びこれに合体するところのネオシオニズム系ユダ邪教、そのタルムード教、ユダ邪教に馴致されたところのキリスト教等々の勢力だった。これが近代世界史の流れである。

 ちなみに、「ユダ邪教に馴致されたところのキリスト教」とはキリスト教には本来の意味での1・イエス教、2・ユダ邪教式に化かされたキリスト教、3・両者の中間的キリスト教の三者があり、その識別の上で2のそれを指している。キリスト教研究に必要な視座であるが、恐らく意図的に混交されている。この指摘以降は、この基準に倣うべきだろう。

 ユダ邪教に馴致されたところのキリスト教の波は日本にも及んでいた。早くは日本史上で戦国時代と云われる16世紀に関わっている。イエズス会系宣教師がトップバッターとして鹿児島に上陸し、「手に聖書、口で反逆、背に鉄砲、軍艦」を従えて来襲してきた。歴史教科書はこう記さないが、元帝国のそれがハード、イエズス会のそれがソフトと云う違いはあるが共に「来襲」とみなすべきだろう。

 歴史的には、この時の日本政治の政権を担った織田、豊臣、徳川の三家の舵取りが極めて有能で、外交的にも軍事的にも日本侵略を許さず撃退することに成功した。徳川政権の御代で鎖国へと結実した。長崎を開港し情報取集を継続させた。鎖国後次第に国際ユダ邪に対する警戒心を緩めることになったが、その後二百年を超える平和な時代を迎えたことを思えば致し方なかった面もあろう。歴史教科書はこう見立てないが、それは現行の歴史教科書が国際ユダ邪ナイズされているからである。

 日本史上、次の来襲が江戸時代幕末の黒船来航である。この時、天下が激論し、尊皇攘夷か国際ユダ邪受容かを廻って激論した。結果的に、織田、豊臣、徳川の三家政治のようには撃退できず、幕末維新から明治維新へと流れ込んで行った。但し、この明治維新は、徳川政権残存派、天皇制国粋主義派、これに対抗する文明開化開国派と云う名の国際ユダ邪派の三派抗争、時に合従連衡で推移して行くことになった。この三派鼎立が溶解し、次第に国際ユダ邪派のワンサイド政権へと化していくのがその後の日本史である。この流れが時に揺り戻しはあるものの2016年の今日まで続いている。かく日本史の流れを確認しておきたい。

 さて、件の土人発言であるが、例の機動隊員が、沖縄人に対し、「この土人めが」と発言した時の真意を問題としたい。彼の土人発言は、上記分析に照らせば、余りにも国際ユダ邪派の「先進文明国史観」をそのまま受容し過ぎていないだろうか。国際ユダ邪派にとっては、国際ユダ邪派以外の世界の諸民族は牛馬犬猫の類のゴイムなる存在であり、煮て食われようが焼いて食われようが、その者たちをそのように扱うのが神から選民された国際ユダ邪派の義務であり権利であるとする。この目線上に土人が居り、殺戮しようが凌辱しようが馴致しようが我々の自由と云うまことに得手勝手好都合な論理構造式を引き下げている。

 れんだいこ史観は、国際ユダ邪派に殲滅され、あるいは馴致された原住民、即ち土人が未開野蛮であったと判定しない。今日の如くの核兵器、原発、その他化学生成物による地球汚染の時代にあっては、概ね自然と共生しつつ原始的に生活していた生態の方が寧ろ本質的に賢かったのではなかろうかとさえ思えてくる。衣食住が自然素材で自然と共生してきた彼らの文明の方が高等だった気がしないでもない。国際ユダ邪派の狡知は、いわゆる「賢こバカ」ではないかと思えてくる。

 こう考える私からすれば、例の機動隊員の「土人発言」が「先進文明国史観」に毒づけられた卑しい史観に基づいての暴言であるのは自明である。国際ユダ邪の目から見れば彼もまた土人の側であるのに、いずれブーメラン的に我が身に突き刺さってくるのに土人批判に興じて悦に入っている。お粗末と云うか思想的に暗愚である。ここまでをその1とする。本稿はここまでとしたい。

【日本土着民考その2】
 2016年10月22日、日本土着民考その2
 先のブログまでが前半である。ここからもう一つの観点から掘り下げてみたい。近代日本史が、徳川政権残存派、天皇制国粋主義派、開国文明開化派と云う名の国際ユダ邪派の寄り合い三派連合で推移し、次第に国際ユダ邪派ワンサイド政権へと化して行ったにせよ、世界の諸植民地のように国際ユダ邪来襲にひとたまりもなく殲滅されなかったところに日本の偉大さがある。むしろ一時的には一度も二度も跳ね除けた歴史を持つ。世界史的に見て、今この栄誉にあるのは日本、ベトナム、キューバの例があるのみではなかろうか。大和民族のこの能力をもっと称えるべきと思う。「大和民族のこの能力」に沖縄人が関係している。このことを共に悦び重視したい。これはどういう意味だろうか。以下、これに答える。

 れんだいこ史観によると、日本の大昔は「元百余国」と云われるような日本列島津々浦々に棲み分けする部族国家だった。この部族国家が次第に束ねられ、緩やかながらも結合する部族連合国家となったのが出雲王朝御代だった。この御代に於いて、他所では神無月、出雲では神有り月となる旧暦10月、各地の部族王が出雲に集まり合議政治する慣わしを確立していた。会議後、各地の民謡、文化、技芸を披露し称えあった。今日に伝わる「お国自慢」の伝統はこの時以来のものである。時代的には起源前後、更に下って邪馬台国の紀元3世紀頃まで続いた。文明的には弥生時代であるが、後の渡来系大和王朝時代と区別する為に、この時代までを敢えて仮に「縄文日本」(又は「原日本」)と命名しておく。

 この「縄文日本」時代、いわゆるアイヌ人が羽振りを効かせていた。このアイヌ人が知る人ぞ知る日本式美男美女の系統である。記紀に登場する三輪の長脛(ながすね)族はその代表で、名の通り脛の長い美丈夫の王家族だったように思われる。ちなみに、アイヌ人と琉球人のルーツが同じもしくは近いことがDNA解析で判明している。人だけでなく犬もそうとのことである。日本列島には、このアイヌ人のほかにも様々の人種が生息していたと思われ、これらを合わせて縄文人と云う。

 「縄文日本」の人たちの特徴は割合と混血を好むところにあったように思われる。その様は「より選れた遺伝子」を求めての交合であり、それが王族間の場合には同時に部族同盟を意味していたように思われる。以降、この混血を通して原日本人が生成されて行くことになる。この頃の「縄文日本」の版図を現在の日本地図に当て嵌めれば、北は北海道から南は沖縄まで繋がる諸国家連合を形成しており、即ち今日の日本の如くの範囲で「縄文日本文明」を創造し共生的に満喫していたように推定できる。

 邪馬台国時代の紀元3世紀頃、外来外航族が渡来し、王権の簒奪を図った為、内乱状態に陥った。結果的に「縄文日本」が滅ぼされ、大和王朝に向かうのがその後の日本史である。記紀の記す出雲の国譲り譚、魏志倭人伝の記す邪馬台国滅亡譚はこの辺りの消息を語っていると思料したい。

 こうして大和王朝になる。この時よりの日本を、それまでの「縄文日本」と識別する為に「弥生日本」(「新日本」)と命名できようが、「縄文日本」の時代が既に弥生時代なので、「縄文日本」の呼称はあり得ても、「弥生日本」と云う表現は適切を欠くように思われるので使用しない。「新日本」も同様に後世は常に「新日本」になるので使いづらい。よって、これよりは初期大和王朝御代、奈良朝御代、平安朝御代云々で良いと思う。

 問題は、この「大和王朝」の呼称の不思議性である。何故に漢字で「大和」と書くのか。何故にこれを「ヤマト」と訓読みするのか。この問題に対する正面からの然るべき考察を知らない。これに、れんだいこが挑む。

 れんだいこ史観によれば、「大和」は正に的確に付与された当て字訳と読む。即ち、出雲王朝を国譲りさせ、邪馬台国を滅亡させる渦中は、記紀神話に記されている如くの苦心惨憺たる茨の道の建国となった。それまでの為政者であった出雲王朝派、邪馬台国派の能力が高く、その権威が強靭で、抵抗が止まなかった。攻める側守る側両者の疲弊の色が濃くなり妥協するしかなくなった。双方徹底抗戦派はあったものの、それぞれの主流派が最終的に和睦の道を択び新王朝を創出した。この過程を総括して、実態に最も的確であろう言葉として大同団結式の「大和」を案出し、新王朝名に充てたのではなかろうか。


 それだけではない。「大和」の読みは、漢音であろうが訓読みであろうが「ヤマト」とは読めない。それを「ヤマト」と訓読みすることを諒とした。これにも叡智が働いている。即ち、大同団結和睦の時の約定で、新王朝が前政権の邪馬台国の国名を継承し、漢字で「大和」と書いて「ヤマト」と読むことを諒とした。即ち、勝者側の新政権は、前任統治者の国名を排除して新しい国名を案出して新国家声明するのが世界史的通例のところ、前任統治者の国名を継承し、そのことで政権の連綿性、正統性を付与する道を選択した。国名だけではない、国家国旗国紋章も言語も然りである。

 それはそれがいづれも秀逸で、総じて前任国家の出雲王朝、続く邪馬台国の治世能力、文化伝統能力が高かった為と考えられる。国名としての「大和」、その読みとしての「ヤマト」にはこういう裏歴史事情がある。天照大御神の継承も同様と思われる。天照大御神は外来外航族の祖神ではなく元々「縄文日本」の祖神にして最高神であり、国名同様に権威を継承し利用したものと思われる。


 これらの一部始終が「大祓い祝詞」(おおはらいのりと)に詠われており代々受け継がれて今日に至っている。これこそが日本国體憲法である。続く憲法が明治維新の際に発布された「五箇条のご誓文」である。「大祓いの祝詞」、「五箇条のご誓文」軽視すべからずの理の所以がここにあり、日本国憲法論を論議する際には必須のもの足りえている。これに照らして見れば、近時の憲法改正論の中身が何と空疎なことか。
 別章【大祓いのりと考】</FONT></B></FONT><BR>
       (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kodaishico/nihonshindoco/noritoco
/noritoco.htm


 もとへ。大和王朝建国時に日本史の特異性、不思議がある。要するに、外来外航種族が「縄文日本」征服の為に来襲したものの、ワンサイド支配にはならず、旧王朝との大同団結和睦によって辛うじて王権を簒奪することができたと云う珍事が記録されている。和睦であるから当然、旧王朝派の取り込みが特徴となる。これにより旧王朝御代の言語、政治宗教としての神道、礼儀作法、生活習慣、風俗等々がそのまま横滑りで受容されることになった。これが皇統譜の連綿性に関わっており、前王朝と新王朝が継続した道を遺したと云う意味で、これに従う限り万世一系は真実と云うことになる。とはいえ、新王朝は、以降、外来派と旧王朝派の協調と確執を繰り返しながら悲喜劇の歴史を綿々とさせて行くことになる。この辺りは記紀その他史書の記す通りのところである。

 件(くだん)の機動隊員は、日本史のこの香気を嗅いで匂うべきである。どうせ上官からご都合主義的なアンチョコ歴史を教えられ、その気にさせられているだけのことだろうから、今からでも遅くない本当の日本史を学び直せ。どこでどう学べばよいのか分からないだろうから言っておくが、れんだいこサイトを何から何まで丹念に読めば良いオホンエヘン。ここまでをその2とする。

【日本土着民考その3】
 2016年10月23日、日本土着民考その3
 我が日本史の特性をこう了解する時、大阪府警機動隊員の「土人発言」が如何に残薄なものであるのか透けて見えてこよう。「土人発言」は、国際ユダ邪派の「先進文明国史観」に導かれることにより侮蔑的に用いられるが、日本史の特性に照らすとき、「土人」は「土着民」と言い換えられ、さらに「縄文原日本人」ともなり、その優秀さ故に真逆な光芒を放つことになる。それが証拠に、現代日本に至る言語としての日本語、統治の仕組み、文化伝統、生活様式等々は、この「縄文日本」時代に創造生成されている。大和王朝以降、今日までの日本史は、外航派と「縄文日本」派が一方で相和し協力提携、他方で反発拮抗しながら高度な文明を築いてきたところに特徴がある。このことに思いを馳せねばなるまい。

 こういう深層の真相の歴史を学ぶことが学びであり、かく学べば学ぶほど賢くなる。逆に「土人発言」に見られるような受け売りは脳死学問である。故に学べば学ぶほど脳が痴呆化する。最近はそういうインテリが多い。著作権網がこれに援交しており痴呆症肥大に一役買っている。今や日本支配体制を構成する政財官学報司警軍の八者機関の上層部はこういう連中の巣窟と化している。長年の秘密結社儀式活動の悪影響で精神と知能が破壊されている。件の機動隊員は、そういう連中によって仕掛けられている学問を鵜呑みにせず、「土人、シナ人」発言につき「侮蔑的な意味があるとは知らなかった」などと下手な言い訳せずに、早くれんだいこ史観から学びユダ邪学の汚染から脱け出してくれんことを願う。

 なお、いわゆる公人論に言及しておく。公務員は公けの為に資する義務と責任を負っているとすべきであるが、その公務員が、日本国民に対して、「土人、シナ人」呼び捨てにするのは聞き捨てならない。そうすると何か、お前は、国際ユダ邪に資する為に雇われていることを承知し、日本国民に対し「土人、シナ人」と呼び捨てにすることを当然と居直るつもりであるか。今や自衛隊と警察はそのように隊員教育し、隊員はそれを鵜呑みにしてしまっているのだろうか。東京の石原慎太郎、大阪の松井一郎ならともかくも、そこまで国際ユダ邪に丸め込まれて義理立てすることはあるまいに。

 それはともかく東京維新の石原、大阪維新の松井がこれほど国際ユダ邪盲従であることを思えば、明治維新なるものの国際ユダ邪盲従性をも吟味すべきではなかろうか。即ち、国際ユダ邪が対日政治に容喙するとき、「維新」なる用語を専らにする癖があるのではなかろうか。こういう用語が使われ始めたとき、我々は背後に国際ユダ邪の暗躍を認めるべきではなかろうか。この呪縛から抜け出す叡智を創造せねばなるまい。

 ところで、この際、沖縄戦争の際の沖縄人の自決死につき言及しておく。大東亜戦争末期の沖縄戦争の際、多くの沖縄人の自決が刻印されているが、これを上官の命令による強制死として告発する正義運動がある。仮にそうであるのなら、その上官告発、その上官をして自決命令せしめた当時の軍部の責任告発をすべきであろう。但し、それだけでは片付かない問題があるように思われる。飛び込みの必然性が分からないが縄文魂的自決の面があったような気がしないでもない。もとより手前は生き延び部下には自決を命令した上官が居ないとは思わないので検証して行くべきだろう。但し逆の自主的な例もあるとしたい。特攻隊の自決も同様のもので縄文魂の為せる敢闘だったのではなかろうか。この辺り、歴史を複眼的総合的に解析、理解せねばならぬのではなかろうか。

 沖縄戦争を語るとき、専ら強制自決か自主自決かを論議することにのみ没頭するのは片手落ちである。本来は、沖縄戦争が如何に有能に「縄文日本」的に戦い、その結果として焼殺、焦土にされてしまったのか。この時の戦いぶりが本土決戦に向かう流れにおいて、連合国側に「ノーモアウォー」気分を醸成させた。そういう沖縄戦争の悲劇と敢闘ぶりを検証することの方が主となるべきであり、その一コマとして自決問題を語るのが筋ではなかろうか。

 戦後日本が靖国神社に参拝するのも良い。戦死者の御霊がそこに祀られている以上は参拝するのが公務であり為政者は参拝すべきと考える。但し祀られる御霊の公平性を促したい。もう一つ、国際ユダ邪の指図に従い再度戦争に向かうのは言語道断と考える。不戦の誓いとして参拝すべきと考える。なお、沖縄戦争被害者の御霊にも手を合わすべきであろう。広島、長崎の被爆者の御霊にも、全国各都市の空爆被害者の御霊にも。そういうことを要求しない戦後民主主義論のあぁ如何に残薄なことか。政府高官の靖国神社参拝の政治的利用が如何に許し難きことか。そういう井戸中歴史観から出藍し本来の歴史論を創出してみたい。





(私論.私見)