倭名類聚抄編纂考

 更新日/2018(平成30).7.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)を概括しておくことにする。

 2009.1.9日 れんだいこ拝


【和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)】
 「ウィキペディア(Wikipedia)和名類聚抄」。

 和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。本書の構成は大分類である「部」と小分類の「門」より成っており、その構成は十巻本・二十巻本によってそれぞれ異なる。

 名詞をまず漢語で類聚し、意味により分類して項目立て、万葉仮名で日本語に対応する名詞の読み(和名・倭名)をつけた上で、漢籍(字書・韻書・博物書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁を取る。今日の国語辞典の他、漢和辞典や百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。漢の分類辞典「爾雅」の影響を受けている。当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代の国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として日本文学・日本語学・日本史の世界で重要視されている書物である。 和名類聚抄は「倭名類聚鈔」、「倭名類聚抄」とも書かれ、その表記は写本によって一定していない。一般的に「和名抄」、「倭名鈔」、「倭名抄」と略称される。巻数は十巻または二十巻で、その内容に大きく異同があるため「十巻本」、「二十巻本」として区別され、それぞれの系統の写本が存在する。国語学者の亀田次郎は「二十巻本は後人が増補したもの」としている。なお二十巻本は古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称を網羅しており、この点でも基本史料となっている。

 [例] 大和国葛下郡 神戸郷・山直郷・高額郷・加美郷・蓼田郷・品治(保無智)郷・當麻(多以末)郷。但し、郷名に関しては誤記がないわけではなく、後世の研究によって誤記が判明した事例もある[注1]。 
「和名(わみょう)類聚抄」「和名抄」ともいう。平安時代の分類体漢和対照辞書。源順(みなもとのしたごう)撰(せん)。承平(しょうへい)年間(931~938)ごろの成立。約2600の漢語を分類し、その文例・語釈を漢籍から引用して、割注で字音と和訓を示す。従来の『楊氏(ようし)漢語抄』『弁色立成(べんしきりゅうじょう)』(いずれも逸書)などの漢和対訳語彙(ごい)集を集成し、漢籍を引用して学問的権威づけを施したもので、辞書の一つの標準として後の時代に影響を与えた。十巻本(24部128門)と二十巻本(32部249門)の二系統があり、いずれを原撰とみるかで論が分かれている。二十巻本は職官、国郡、郷里、曲調、薬名など、語彙や地名を列挙するのみの部門がある。
[宮澤俊雅]
和名類聚抄
わみょうるいじゅしょう

〈わみょうるいじゅしょう〉とも読み,《和名抄》と略称する。また〈和〉は〈倭〉とも記す。醍醐天皇の皇女勤子内親王の命により,源順(みなもとのしたごう)が撰上した意義分類体の漢和辞書。承平年間(931-938)の編集か。10巻本と20巻本とがあるが,どちらが原撰かについては論議がある。10巻本は24部128門,20巻本は32部249門に分かれる。漢語の出典,字音,和名などを説明した一種の百科事典である。和名は万葉仮名で記されており,古代の語彙を研究するための貴重な資料である。写本の中には声点(しようてん)を付したものもあり,アクセント資料としても使える。引用書には現存しないものも多い。また文学作品にはあまり見られない,日常使われる物品の和名が多く採用されている。なお本書の研究書としては狩谷棭斎(かりやえきさい)の《箋注(せんちゆう)倭名類聚抄》(1827成立)がある。
[前田 富祺]

和名類聚抄
わみょうるいじゅしょう
意義分類体の辞書。源順(みなもとのしたごう)撰。承平年間(九三一―三八)成立。『倭名類聚鈔』とも書き、『和名抄』『和名』『順和名(したごうがわみょう)』『順』などともいう。醍醐天皇皇女の勤子内親王のために撰進した書で、部類を分かち、項目を立て、内外の諸書から記事を引用し、三千余の項目と万葉仮名による和名約三千、ならびに撰者の説を付記する。全文漢文で記され、和訓も万葉仮名を使用する。現存諸本は二十巻本系と十巻本系とに大別され、部立や内容に異同があるが、両系の前後関係については定説がない。二十巻本は、天部・地部以下、草木部までの三十二部を、十巻本は、天地部以下、草木部までの二十四部を存するが、序文によると、原撰本には四十部が存したらしい。二十巻本には歳時部・官職部・国郡部があるが、十巻本にはこれらを欠く。ことに国郡部は巻第五から九までの大量の部分を占めており、この記事の内容は、古文書類と比較すると、九世紀ごろのものとされている。国語史学では、十世紀前半の和訓の集成として、当時の国語語彙の実態や語義の研究に不可欠の文献として重視される。引用書は約二百九十種の多きに上るが、その中には和漢の逸書が多く、また収載された『史記』『後漢書』『遊仙窟』や『日本書紀』などの師説は、それまでに伝承された漢文の訓説として、訓法上重要である。古写本には、高山寺本(天理図書館蔵、重要文化財。平安時代末期写、一帖、巻第六―十存、四帖中の第二帖か。二十巻本系)、真福寺本(大須本ともいい、宝生院蔵、重要文化財。弘安六年(一二八三)写、一冊、巻第一・二存。十巻本系)、伊勢本(神宮文庫蔵。室町時代末期写か。十巻本・二十巻本系)などがあるが、江戸時代には元和三年(一六一七)那波道円刊の古活字版(二十巻本系)、ならびにそれに基づいた附訓整版本が流布した。狩谷〓斎は諸本を対校討究して十巻本を原撰本と認め、詳細な考証を加えて『箋注倭名類聚抄』十巻(文政十年(一八二七)成、明治十六年(一八八三)刊)を著わした。この後、学界では十巻本が主として用いられたが、和田英松は二十巻本原撰説を示唆し、近時は、図書寮本『類聚名義抄』(宮内庁書陵部蔵)や前田家本『色葉字類抄』(尊経閣文庫蔵)などとの比較により、平安時代末期には二十巻本系が流布していたことが知られるに至り、二十巻本原撰説も有力になったが、なお検討の余地が残されている。本書に引用された逸書の内、『楊氏漢語抄』は、序文によれば奈良時代養老年間(七一七―二四)の所撰であり、『弁色立成』とともに所収の和訓は上代語の資料として準用される。現存本は、引用原典または撰述原典の体裁内容を忠実に伝えていない部分が存するようで、特に二十巻本の巻首に近い部分は、その疑いが濃い。『和名類聚抄』は、二十巻本・十巻本の形で後世に及ぶまで、僧俗にわたり、世間に流布し、多くの文献に引用された。しかし、本書を基にして改編増補などのなされた形跡はほとんど見られない。わずかに図書寮本『類聚名義抄』に引用された「倭名或本」(逸書)を認めるにすぎない。『和名類聚抄』の権威が社会的に定着していたために、その本文に手を加えられることが少なかったのかも知れない。諸本の複製・影印は、高山寺本が『古簡集影』、『(天理図書館)善本叢書』二に、真福寺本が古典保存会の複製第二期に、元和古活字本が『日本古典全集』第四期、『勉誠社文庫』二三に収められている。そのほか、『古辞書叢刊』(大東急記念文庫蔵本(二十巻本)・静嘉堂文庫蔵本(十巻本))、『(増補)古辞書叢刊』(内閣文庫蔵狩谷〓斎自筆訂本(十巻本))、『(早稲田大学蔵)資料影印叢書』国書篇一・二(狩谷〓斎書入本(十巻本))、『東京大学国語研究室資料叢書』一二・一三(天文本(十巻本)・京本(同))などにも収められ、また京都大学文学部国語学国文学研究室編『(諸本集成)倭名類聚抄』には、高山寺本・真福寺本(稲葉通邦〓刻本)・元和古活字本・『箋注倭名類聚抄』(明治十六年刊本)・楊守敬校刊本(天文本)が、馬淵和夫『和名類聚抄(古写本声点本)本文および索引』には、高山寺本・真福寺本・京本・伊勢本(十巻本・二十巻本)・尊経閣文庫蔵本(十巻本)・元和古活字本が収載されている。→源順(みなもとのしたごう)
[参考文献]
和田英松『本朝書籍目録考証』、池辺弥『和名類聚抄郡郷里駅名考証』、坂本太郎「高山寺本倭名類聚抄について」(『日本古代史の基礎的研究』上所収)、山本信哉「高山寺本倭名類聚抄に就いて」(『史学雑誌』四二ノ二)、秋本吉郎「倭名類聚抄二十巻本成立考」(『国語と国文学』三一ノ一)、築島裕「図書寮本類聚名義抄と和名類聚抄」(同四〇ノ七)、峰岸明「前田本色葉字類抄と和名類聚抄との関係について」(同四一ノ一〇)、宮沢俊雅「倭名類聚抄二十巻本諸本の類別」(同五三ノ四)
(築島 裕)

【十巻本】
 現在、十巻本の本文として最も流布しているのは、狩谷棭斎校注の『箋注倭名類聚抄』であるが、これは下にも書く通り明治時代刊なので、それまでは写本による流布が主であった。なお、十巻本の写本の中でも「下総本」とそれに連なる系統の本は、他の本と異なる記述を持つなど異質の本である。このため十巻本の写本には、しばしば下総本系の本を参照し、朱でその校異を書き入れているものも少なくない。しかし狩谷はこの下総本の本文を「後世の改竄によるもの」と見なし、「諸本の中で最も劣悪」として認めていない。
 十巻本は24部128門より成り、各部は次の順に配列されている。
  1. 天地部=天文・気象神霊・土石
  2. 人倫部=人間家族
  3. 形體部=体の各部
  4. 疾病部=病気
  5. 術藝部=武芸武具
  6. 居處部=住居道路
  7. 舟車部=・車
  8. 珍寳部=玉石
  9. 布帛部=
  10. 装束部=衣類
  11. 飮食部=食物
  12. 器皿部=器・
  13. 燈火部=燈火
  14. 調度部=日用品
  15. 羽族部=
  16. 毛群部=獣一般
  17. 牛馬部=
  18. 龍魚部=竜族、および魚類[注 2]
  19. 龜貝部=亀類・海棲動物
  20. 蟲豸部=虫類
  21. 稻穀部=穀物
  22. 菜蔬部=野菜
  23. 果蓏部[注 3]果物
  24. 草木部=草木
 写本
書写時期 状態 蔵書
真福寺本 鎌倉時代 巻一~巻二のみ 宝生院大須観音真福寺
伊勢十巻本 室町時代初期 巻三~八のみ 神宮文庫
京本 江戸時代前期 巻四~六のみ 東京大学国語研究室
高松宮 江戸時代前期 完本 国立歴史民俗博物館
松井本 江戸時代前期 完本 静嘉堂文庫
京一本 江戸時代後期 巻七~十のみ 東京大学国語研究室
狩谷棭斎自筆訂本 江戸時代後期 完本 国立公文書館(旧内閣文庫)/校訂を含む
天文本 江戸時代後期 完本 東京大学国語研究室/「下総本」系写本
前田本 明治時代 完本 前田尊経閣

 版本

刊行 校訂 底本
享和版本 享和元年(1801年 稲葉通邦 真福寺本
楊守敬刊本 明治29年(1906年 楊守敬 下総本系写本

 校注本

成立
刊行
校訂 底本 備考
箋注倭名類聚抄 文政10年(1827年
明治16年(
1883年
狩谷棭斎 京本 諸本で校訂

【二十巻本】
 二十巻本は、十巻本に比べ、部の分割・統合・付加、名称や配列の異同があり、32部249門より成っている。配列は以下の通り。太字で示したものが二十巻本独自の部、もしくは名称の変更されている部である。
  1. 天部=天文・気象
  2. 地部=土石
  3. 水部=水
  4. 歳時部=暦
  5. 鬼神部=神霊
  6. 人倫部=人間
  7. 親戚部=家族
  8. 形體部=身体の各部
  9. 術藝部=武芸・武具
  10. 音樂部=音楽楽器
  11. 軄官部=官庁官職名
  12. 國郡部=国名・郡名・郷名
  13. 居處部=住居・道路
  14. 舩部=船
  15. 車部=車
  16. 牛馬部=牛・馬
  17. 寳貨部=金銀・玉石
  18. 香藥部=香
  19. 燈火部=燈火
  20. 布帛部=布
  21. 装束部=衣類
  22. 調度部=日用品
  23. 器皿部=器・皿
  24. 飮食部=食物
  25. 稻穀部=稲・穀類
  26. 果蓏部[注 3]=果物
  27. 菜蔬部=野菜
  28. 羽族部=鳥類
  29. 毛群部=獣一般
  30. 鱗介部=爬虫類両生類・魚類・海棲動物
  31. 蟲豸部=虫
  32. 草木部=草木
 諸本
 本書には完本・零本(端本)も含めて、数多くの写本が存在する。江戸時代には版本の形でも刊行されているが、十巻本は当時写本の形で流布したためほとんど梓に上らず、二十巻本が重点的に刊行された。以下、影印・複製や直接閲覧により閲覧可能なものを筆写年代・刊行年代順に挙げる。
 現在、二十巻本の本文として最も流布しているのは、那波道円校注の「元和古活字本」であるが、これは昭和7年(1932年)に影印復刻されるまでほとんど世に出回らなかった稀覯書で、代わりに「慶安版本」「寛文版本」が広く用いられ、明治時代初期まで何度も刷を重ねた。また、写本のうち「高山寺本」は、「國郡部」の後に古代律令制下の(うまや)を記しており、他の二十巻本には見られない独自の本文を持つほか、本文の異同も多く、特に「國郡部」を見る際に「元和古活字本」とともに参照される。

 写本

書写時期 状態 蔵書
高山寺本 平安時代末期 巻六~十のみ 天理大学附属天理図書館
伊勢二十巻本 室町時代初期 巻一~二および巻九~二十のみ 神宮文庫
大東急本 室町時代中期 完本 大東急記念文庫

 版本

刊行 校訂
元和古活字本 元和3年(1617年 那波道円
慶安版本 慶安元年(1648年
寛文版本 寛文11年(1671年

 注解刊行本・影印本
  • 『和名類聚抄 : 高山寺本 . 三寶類字集 : 高山寺本』天理圖書館善本叢書和書之部(第2巻)、1971年
  • 『諸本集成倭名類聚抄』本文篇・索引篇・外篇、臨川書店、1971年-1981年
  • 『和名類聚抄 : 20巻本』古辞書叢刊、雄松堂書店、1973年
  • 『和名類聚抄』名古屋市博物館資料叢書2、名古屋市博物館、1992年
  • 『高松宮本・林羅山書入本和名類聚抄声点付和訓索引』アクセント史資料索引16、アクセント史資料研究会、2000年
  • 『古写本和名類聚抄集成』勉誠出版、2008年
    • 第1部『諸本解題・関係資料集及び語彙総集』
    • 第2部『十巻本系古写本の影印対照』
    • 第3部『二十巻本系諸本の影印対照』
  • 『和名類聚抄 : 高山寺本』新天理図書館善本叢書(第7巻)八木書店、2017年
注釈
 例として、武蔵国児玉郡の黄田郷が実は草田郷の誤字だったなど。詳しくは、「大田部身万呂#草田郷の再発見を参照。
 ワニ、イルカなどを含む。
 a b 「果蓏部」の「蓏」はくさかんむりに「瓜」2つ
出典
亀田次郎「國語辭書史」『日本文学講座』16、改造社、1935年、p259
関連文献
池辺弥『和名類聚抄郷名考證』吉川弘文館、1966年/増訂版(1970年)/改訂増補版(1981年)
沖森卓也・倉島節尚・加藤知己・牧野武則編 『日本辞書辞典』おうふう、1996年。
林忠鵬『和名類聚抄の文献学的研究』勉誠出版、2002年
工藤力男『和名類聚抄地名新考 : 畿内・濃飛』和泉書院、2018年




(私論.私見)

長門国阿武郡について投稿させて頂きます。

阿武郡は、穴門国と阿武国を併せて長門国が置かれる前は、阿武国と呼ばれていました。かつて、この国を支配していたのは、国造あった阿牟氏でした。自分たちを神魂命の子孫であると称しています。

阿武郡の郷は、阿武・椿木・大原・宅佐・多萬・住吉・神戸の七郷です。式内社はありません。

次に、郷の比定地の住所を示します。地点名ですのでその周辺とお考えください。

阿武は、山口県阿武郡阿武町奈古。国郡里制では、郡に郡衙が置かれていました。記録によれば、この郷に郡衙があり、また、阿武駅が置かれていました。

椿木は、山口県萩市椿。垣田駅が置かれていました。

大原は、山口県山口市阿東徳佐中。同名の郷が因幡国氣高郡、出雲国大原郡、播磨国赤穂郡、美作国英多郡にあります。

宅佐は、山口市萩市高佐下。

多萬は、山口市萩市下田万。

住吉は、山口市萩市浜崎町。

神戸は、山口市萩市中小川。「神田」と書いてカンデと読む字が残っています。この郷には、小川駅が置かれていました。官道を東に向かうと、石見国美濃郡美濃に至ります。すなわち、国境の郷です。
長門国大津郡について書かせて頂きます。
大津郡の郷は、三隅・深川・日置・三島・向国・駅家・二處・神戸・稻妻の九郷です。式内社はありません。
次に、比定地の住所を書きます。地点名ですのでその周辺とお考えください。
三隅は、山口県長門市三隅下。長門国美禰郡作美郷と境を接しており、三隅駅という駅家が置かれていました。
深川は、山口県長門市東深川。同名の郷が飛騨国荒城郡と下野国梁田郡にあります。
日置は、山口県長門市日置上。天平勝宝四年(752年)に書かれた文献に「長門司日置山守家刀自」という名前が出ています。日置氏がこの郷に住んでいたことは間違いありません。
三島は、山口県萩市見島。萩市の沖にある島です。この島には、見島ジーコンボ古墳群があります。この古墳群は、7世紀から10世紀初めに造られました。埋葬者は、副葬品などから島民ではなく、新羅などの侵略を防ぐために駐屯していた武人たちだと考えられています。すなわち、防人の郷です。因みに、同名の郷が伊豆国賀茂郡、下野国都賀郡、越中国射水郡、越後国三島郡、筑前国上座郡にあります。
向国は、山口県長門市油谷向津具下。
駅家は、山口県長門市深川湯本。長門国美禰郡美禰に接し、由宇駅という駅家が置かれていました。
二處は、山口県長門市俵山。長門国厚狭郡にも同名の郷があります。
神戸は、山口県下関市豊北町神田上。土居ヶ浜遺跡がこの郷にあります。土居ヶ浜遺跡は、国指定史跡で弥生時代前期から中期の埋葬遺跡です。また、和久1号古墳があり、古墳時代にも住民がいたことが窺えます。
稻妻は、山口県下関市豊田町稲見。「稻妻」をイナメと読みます。稲見は稻妻の転化です。
長門国美禰郡について書かせて頂きます。
美禰郡は、美禰・渚鋤・位佐・作美・賀萬・駅家の六郷です。式内社はありませんが、壬生神社という国史現在社があります。
次に、比定地の住所を書きます。地点名ですのでその周辺と考えください。
美禰は、山口県美祢市大嶺町東分。美禰には、鹿野駅が置かれていました。厚狭川に沿って北上し、意福駅(美祢市於福町下)を経て長門国大津郡駅家郷に至る官道があり、また、東に向かい、北上し、渚鋤の郷を抜けて参美駅に至る山路がありました。この郷は、山陽と山陰を結ぶ交通の要衝でした。
湝鋤は、山口県美祢市美東町赤。「渚鋤」をススキと読みます。
位佐は、山口県美祢市伊佐町伊佐。
作美は、山口県萩市三見。「作美」をサミと読みます。参美駅が置かれていました。
賀萬は、山口県美祢市秋芳町嘉万。「賀満」をカマと読みます。この郷には、国史現在社である壬生神社があり、御祭神は高龗神・神功皇后です。
駅家は、山口県美祢市西厚保町本郷。厚狭川の上流に位置し、日本海に向かう官道が通っており、阿津駅が置かれていました。次の駅家は、鹿野駅です。
長門国厚狭郡に続き、豊浦郡を投稿させて頂きます。
浦は「海岸」の意味に思われがちですが、本来は海岸が入り江や湾を成すところを言います。まさに、豊浦郡はそいう地形をしています。
豊浦郡は、田部・生倉・室津・額田・駅家・栗原・内日・神田の八郷です。式内社の数は、住吉坐荒御魂神社三座・忌宮神社村屋神社の五座です。
次に、郷の比定地の住所を示します。地点名ですのでその周辺と考えてください。
田部は、山口県下関市菊川町田部。田部郷は、伊勢国渡會郡、下総匝瑳郡、下野足利郡、出羽河邊郡、筑前早良郡にもあり、物部氏の一族である田部氏が住んでいたと言われています。
生倉は、山口県下関市伊倉町。弥生時代前期の複合遺跡である綾羅木郷遺跡があり、また、若宮1号墳(5世紀中頃の前方後円墳)などがある郷です。
室津は、山口県下関市豊浦町室津下。「室」の付く地名は河谷や海岸に多く、地形的に山などに囲まれています。牟呂や牟婁と表記されている場合もあります。式内社の村屋神社〔長門国三之宮杜屋神社〕があり、御祭神は三保津姫命です。
大門古墳、天神古墳、長仙古墳があり、栄えていたことが窺えます。
額田は、山口県下関市長府宮の内町。額田氏は、大和国平群郡額田を本貫とし、伊勢国桑名郡、筑前国早良郡などにも郷があるほどの大豪族です。国造である穴門氏は、その一族です。因みに、この郷に国府が置かれていました。
式内社の住吉坐荒御魂三座〔住吉神社〕は、住吉大神の荒御魂を祭る名神大社です。また、式内社の忌宮神社は、息長帯比賣命を祭る式内小社です。
駅家は、山口県下関市小月町。長門国厚狭郡松室郷の西にあって官道が通っており、宅賀駅が置かれていました。そして、官道は、神田郷額田郷を経て臨門駅(下関市壇ノ浦町)に至ります。
栗原は、山口県下関市豊北町田耕。「田耕」をタスキと読みます。一般的には田を耕すと理解されるでしょう。しかしながら、地名の場合、スキは、村落を意味することがあります。「栗」や「スキ」が付く地名の郷には渡来人や帰化人が住んでいることがあるので気になります。
内日は、山口県下関市内日上。
神田は、山口県下関市王司神田。駅家郷の南西にあり、また、額田郷のに隣接しており、おそらく、住吉坐荒御魂神社と忌宮神社の神戸であったと考えます。
長門国は、古くは穴門国と呼ばれておりましたが、阿武国を併せて長門国と呼ばれるようになりました。天智天皇四年の条に「城を長門国に築かしむ」とありますから、交通上の要衝であるばかりではなく、国防上の要衝でもあったことが窺えます。
厚狭郡は、見穂・小幡・厚狭・久喜・二處・神戸・駅家・良田・松室の九郷です。式内社はありませんが、別府八幡宮が山口県山陽小野田市有帆にあります。創建は神護景雲四年(770年)の古社です。
『倭名類聚抄』の地名部の郷の記載は、一見ランダムに見えますが、郷を比定してその分布を見ると、そうではないことが判ります。つまり、簡単な地図をイメージして書かれています。それゆえに、注意深く読む必要があるのです。
次に、比定地の住所を書きます。地点名なので、その周辺とお考えください。
見穂は、山口県山陽小野田市有帆。「有帆」は、見穂の転化であると考えられる。
小幡は、山口県宇部市西万倉。
厚狭は、山口県山陽小野田市厚狭。厚菱村の大字として残っています。
久喜は、山口県宇部市船木。久喜という地名は東北・関東・北陸・山陰・四国・九州北部にあります。小高い丘を意味する地形語です。
二處は、山口県宇部市吉見。この郷には、阿潭駅が置かれていました。
神戸は、山口県宇部市東須恵。神戸は。神社の封戸です。
駅家は、山口県山陽小野田市埴生。律令制時代には、官道に駅が設置されていました。埴生駅はここにあったと考えられます。
良田は、山口県下関市吉田。吉田村として残っています。
松室は、山口県下関市松屋本町。松室は、松屋の誤記だと思われます。
今日、市町村合併や都市化に伴う区画整理によって古代地名を探すのは非常に困難になっています。
私は、明治の測量地図を利用しています。古代地名が村の名や大字・小字として残っていることがあるからです。さらに、位置も正確に判ります。
河川や神社の名や遺跡・古墳の分布も手掛かりになるので調べています。
郷の分布についは、国土地理院地図等でご確認ください。では、次回の投稿をお待ちください。
皆さん、私の投稿に沢山の「いいね」を下さりありがとうございます。
六十六ヵ国と壱岐・対馬の風土記の大部分は、失われて、『常陸国風土記』、『出雲国風土記』、『播磨国風土記』、『豊後国風土記』、『肥前国風土記』と他の文献に引用された逸文と呼ばれる断章が残されていだけです。しかしながら、風土記が失われたことを残念がることはありません
『倭名類聚抄』の地名部と『延喜式神名帳』は、律令制時代の地理を知る上で重要な基本資料です。また、古墳時代の地理を知る手掛かりでもあります。十分とは言えないかもしれませんが、私は、それを元に古代の地理を再構成し、復元することを試みたいと思います。
投稿の折々に古代地名の探し方について述べさせて頂きたいとも思います。
投稿は。六十六ヵ国と壱岐・対馬の各郡別に行います。
讃岐国苅田(カリタ)について投稿させて頂きます。
『倭名類聚抄』によれば、郷は、山本紀伊柞田坂本高屋姫江の六郷です。式内社は、六座です。
次に、郷の比定地の住所を示します。地点名ですので、郷は、その周辺とお考えください。
山本は、香川県三豊市山本町辻。
【式内社】黒嶋神社〔黒島神社〕は、香川県観音寺市池之尻町式内小社で、御祭神は、闇山祇尊です。
紀伊は、香川県観音寺市大野原町福田原。-同名の郷が山城国紀伊郡にあります。
【論社】応神社は、香川県観音寺市大野原町大野原にある式内於神社の論社で、御祭神は、誉田別命です。
柞田(クヌイタ)は、香川県観音寺市柞田町。
【式内社】山田神社は、香川県観音寺市高屋町柞田町にある式内小社で、御祭神は、山田大娘神、大己貴神、素盞嗚神、月讀神です。
坂本は、香川県観音寺市坂本町。
【論社】加茂神社は、香川県観音寺市植田町にある式内加麻良神社の論社で、御祭神は、大明神、彦火瓊瓊杵尊、大山咋命、賀茂御祖神、賀茂別良神です。
高屋は、香川県観音寺市高屋町。
【式内社】高屋神社は、香川県観音寺市高屋町稲積山にある式内小社で、御祭神は、瓊瓊杵命保食神咲夜比女命です。
【論社】加麻良神社は、香川県観音寺市流岡町にある式内加麻良神社の論社で、御祭神は、大己貴命です。
姫江(ヒメノエ)は、香川県観音寺市豊浜町姫浜。
【式内社】粟井神社は、香川県観音寺市粟井町にある名神大社で、御祭神は、天太玉命です。
【論社】於神社は、香川県観音寺市粟井町にある式内於神社の論社で、御祭神は、誉田別命です。
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