倭名類聚抄編纂考 |
更新日/2018(平成30).7.6日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「倭名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)を概括しておくことにする。 2009.1.9日 れんだいこ拝 |
【和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)】 |
「ウィキペディア(Wikipedia)和名類聚抄」。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。本書の構成は大分類である「部」と小分類の「門」より成っており、その構成は十巻本・二十巻本によってそれぞれ異なる。 名詞をまず漢語で類聚し、意味により分類して項目立て、万葉仮名で日本語に対応する名詞の読み(和名・倭名)をつけた上で、漢籍(字書・韻書・博物書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁を取る。今日の国語辞典の他、漢和辞典や百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。漢の分類辞典「爾雅」の影響を受けている。当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代の国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として日本文学・日本語学・日本史の世界で重要視されている書物である。 和名類聚抄は「倭名類聚鈔」、「倭名類聚抄」とも書かれ、その表記は写本によって一定していない。一般的に「和名抄」、「倭名鈔」、「倭名抄」と略称される。巻数は十巻または二十巻で、その内容に大きく異同があるため「十巻本」、「二十巻本」として区別され、それぞれの系統の写本が存在する。国語学者の亀田次郎は「二十巻本は後人が増補したもの」としている。なお二十巻本は古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称を網羅しており、この点でも基本史料となっている。 [例] 大和国葛下郡 神戸郷・山直郷・高額郷・加美郷・蓼田郷・品治(保無智)郷・當麻(多以末)郷。但し、郷名に関しては誤記がないわけではなく、後世の研究によって誤記が判明した事例もある[注1]。 |
「和名(わみょう)類聚抄」「和名抄」ともいう。平安時代の分類体漢和対照辞書。源順(みなもとのしたごう)撰(せん)。承平(しょうへい)年間(931~938)ごろの成立。約2600の漢語を分類し、その文例・語釈を漢籍から引用して、割注で字音と和訓を示す。従来の『楊氏(ようし)漢語抄』『弁色立成(べんしきりゅうじょう)』(いずれも逸書)などの漢和対訳語彙(ごい)集を集成し、漢籍を引用して学問的権威づけを施したもので、辞書の一つの標準として後の時代に影響を与えた。十巻本(24部128門)と二十巻本(32部249門)の二系統があり、いずれを原撰とみるかで論が分かれている。二十巻本は職官、国郡、郷里、曲調、薬名など、語彙や地名を列挙するのみの部門がある。 [宮澤俊雅] |
和名類聚抄
わみょうるいじゅしょう
〈わみょうるいじゅしょう〉とも読み,《和名抄》と略称する。また〈和〉は〈倭〉とも記す。醍醐天皇の皇女勤子内親王の命により,源順(みなもとのしたごう)が撰上した意義分類体の漢和辞書。承平年間(931-938)の編集か。10巻本と20巻本とがあるが,どちらが原撰かについては論議がある。10巻本は24部128門,20巻本は32部249門に分かれる。漢語の出典,字音,和名などを説明した一種の百科事典である。和名は万葉仮名で記されており,古代の語彙を研究するための貴重な資料である。写本の中には声点(しようてん)を付したものもあり,アクセント資料としても使える。引用書には現存しないものも多い。また文学作品にはあまり見られない,日常使われる物品の和名が多く採用されている。なお本書の研究書としては狩谷棭斎(かりやえきさい)の《箋注(せんちゆう)倭名類聚抄》(1827成立)がある。 |
和名類聚抄
わみょうるいじゅしょう
意義分類体の辞書。源順(みなもとのしたごう)撰。承平年間(九三一―三八)成立。『倭名類聚鈔』とも書き、『和名抄』『和名』『順和名(したごうがわみょう)』『順』などともいう。醍醐天皇皇女の勤子内親王のために撰進した書で、部類を分かち、項目を立て、内外の諸書から記事を引用し、三千余の項目と万葉仮名による和名約三千、ならびに撰者の説を付記する。全文漢文で記され、和訓も万葉仮名を使用する。現存諸本は二十巻本系と十巻本系とに大別され、部立や内容に異同があるが、両系の前後関係については定説がない。二十巻本は、天部・地部以下、草木部までの三十二部を、十巻本は、天地部以下、草木部までの二十四部を存するが、序文によると、原撰本には四十部が存したらしい。二十巻本には歳時部・官職部・国郡部があるが、十巻本にはこれらを欠く。ことに国郡部は巻第五から九までの大量の部分を占めており、この記事の内容は、古文書類と比較すると、九世紀ごろのものとされている。国語史学では、十世紀前半の和訓の集成として、当時の国語語彙の実態や語義の研究に不可欠の文献として重視される。引用書は約二百九十種の多きに上るが、その中には和漢の逸書が多く、また収載された『史記』『後漢書』『遊仙窟』や『日本書紀』などの師説は、それまでに伝承された漢文の訓説として、訓法上重要である。古写本には、高山寺本(天理図書館蔵、重要文化財。平安時代末期写、一帖、巻第六―十存、四帖中の第二帖か。二十巻本系)、真福寺本(大須本ともいい、宝生院蔵、重要文化財。弘安六年(一二八三)写、一冊、巻第一・二存。十巻本系)、伊勢本(神宮文庫蔵。室町時代末期写か。十巻本・二十巻本系)などがあるが、江戸時代には元和三年(一六一七)那波道円刊の古活字版(二十巻本系)、ならびにそれに基づいた附訓整版本が流布した。狩谷
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和田英松『本朝書籍目録考証』、池辺弥『和名類聚抄郡郷里駅名考証』、坂本太郎「高山寺本倭名類聚抄について」(『日本古代史の基礎的研究』上所収)、山本信哉「高山寺本倭名類聚抄に就いて」(『史学雑誌』四二ノ二)、秋本吉郎「倭名類聚抄二十巻本成立考」(『国語と国文学』三一ノ一)、築島裕「図書寮本類聚名義抄と和名類聚抄」(同四〇ノ七)、峰岸明「前田本色葉字類抄と和名類聚抄との関係について」(同四一ノ一〇)、宮沢俊雅「倭名類聚抄二十巻本諸本の類別」(同五三ノ四) ©Yoshikawa kobunkan Inc.
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【十巻本】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現在、十巻本の本文として最も流布しているのは、狩谷棭斎校注の『箋注倭名類聚抄』であるが、これは下にも書く通り明治時代刊なので、それまでは写本による流布が主であった。なお、十巻本の写本の中でも「下総本」とそれに連なる系統の本は、他の本と異なる記述を持つなど異質の本である。このため十巻本の写本には、しばしば下総本系の本を参照し、朱でその校異を書き入れているものも少なくない。しかし狩谷はこの下総本の本文を「後世の改竄によるもの」と見なし、「諸本の中で最も劣悪」として認めていない。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
十巻本は24部128門より成り、各部は次の順に配列されている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
写本
版本
校注本
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【二十巻本】 | ||||||||||||||||||||||||||||
二十巻本は、十巻本に比べ、部の分割・統合・付加、名称や配列の異同があり、32部249門より成っている。配列は以下の通り。太字で示したものが二十巻本独自の部、もしくは名称の変更されている部である。 | ||||||||||||||||||||||||||||
諸本 本書には完本・零本(端本)も含めて、数多くの写本が存在する。江戸時代には版本の形でも刊行されているが、十巻本は当時写本の形で流布したためほとんど梓に上らず、二十巻本が重点的に刊行された。以下、影印・複製や直接閲覧により閲覧可能なものを筆写年代・刊行年代順に挙げる。 |
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現在、二十巻本の本文として最も流布しているのは、那波道円校注の「元和古活字本」であるが、これは昭和7年(1932年)に影印復刻されるまでほとんど世に出回らなかった稀覯書で、代わりに「慶安版本」「寛文版本」が広く用いられ、明治時代初期まで何度も刷を重ねた。また、写本のうち「高山寺本」は、「國郡部」の後に古代律令制下の駅(うまや)を記しており、他の二十巻本には見られない独自の本文を持つほか、本文の異同も多く、特に「國郡部」を見る際に「元和古活字本」とともに参照される。
写本
版本
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(私論.私見)