大和王朝の豪族考、土蜘蛛族考

 (最新見直し2008.8.24日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 古代史上、時の政権政府にまつろわぬ種部族として鬼族、蝦夷族、土蜘蛛(つちくも)族に出くわすことが多い。各地の伝承も数多く遺されている。ここでは、そのうちの土蜘蛛族を検証する。しかしながら、土蜘蛛族の正体がはっきりしない。以下、れんだいこの独眼流でこれを考察する。「土蜘蛛正統記」その他を参照する。

 2008.8.24日 れんだいこ拝


 (れんだいこのショートメッセージ)
 土蜘蛛(つちくも)について 次のように総評できるのではなかろうか。
 日本古代史上、大和王朝政権が樹立された以前の段階で、出雲王朝、これに関係する河内王朝ナガスネ彦−ニギハヤヒ政権の存在が確認されている。そこへ大和王朝政権が樹立されることになった。国譲り譚−神武東征譚が史実の一端を記紀神話に記しているが、問題は、これにより相当の諸豪族、部族が大和王朝政権に基準したものの、頑として従わなかった一部諸勢力が発生した。

 各地に伝承されている鬼族、蝦夷族、土蜘蛛族とはこの手合いであったと思われる。土蜘蛛の蜘蛛は雲とも書かれ、出雲の雲と繋がる。これより推定すれば、大和王朝政権の支配に従わなかった出雲王朝系部族と云うことができるのではなかろうか。鬼族、蝦夷族、土蜘蛛族の記述分けの基準がはっきりしないが、多少なりとも違うのであろうが規定上は案外同じとも考えられる。

 それが証拠に、土蜘蛛の所伝は、大和をはじめ東は陸奥から西は日向におよぶ広範囲にみられる。征討伝承は記紀神話にあり、常陸、豊後、肥前の各風土記や摂津、越後、肥後、日向諸国の同逸文にも各地土着の土蜘蛛の記事がみえる。ヤマト王権の征討伝承の中に抵抗する凶賊として登場すること、土窟に穴居して未開の生活を営み、凶暴であるとして異民族視されていることでも共通する。

 日本書紀の神武即位前紀は土蜘蛛の身が短く手足が長いとしており、同景行紀では石窟に住み皇命に従わなかったとある。常陸国風土記は土窟に穴居したとし、摂津国風土記逸文にもつねに穴居することから土蜘蛛と賤称したとする。しかし,これらの習俗はむしろ土蜘蛛の名から作られた逆伝説とも考えられる。

 各地の風土記、古事記、日本書紀に土蜘蛛族が登場する。その後滅ぼされたか、オカミに帰順したかのいずれかで、その後の行方が杳として分からない。中でも、葛城山や大江山の「土蜘蛛」が知られている。土蜘蛛族は鬼族、蝦夷と重なりながら、支配者を悩ます存在として古代史上を彩っている。

 歌舞伎の「土蜘」は次のように記している。
 我を知らずや其の昔、葛城山に年経りし、土蜘の精魂なり。此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの。
 古代土蜘蛛の総本山は葛城山であった。神武東征譚との絡みで最終的に帰順させられるが、それ以前の元王朝系と云う位置づけは変わらない。能−歌舞伎は、この辺りを伝承している。次のように見えをきる。
 汝知らずや、我れ昔、葛城山に年を経し、土蜘の精魂なり。なお君が代に障りをなさんと、頼光に近づき奉れば、却って命を絶たんとや

 2008.8.24日 れんだいこ拝

【歴史の中に消えた土蜘蛛と国栖族】

 「歴史の中に消えた土蜘蛛と国栖族−−土蜘蛛は山で猟をし、国栖は地祇を拝した」を転載しておく。

 日本の古文献の中に「土蜘蛛」あるいは「国栖」と称された蛮族がある。実は国栖は土蜘蛛である。彼らは時には「八掬脛」、あるいは「山の佐伯」、「野の佐伯」とも称されていた。土蜘蛛の名は、手が長く足が長いクモの類のようなという意味から来ている。八掬脛は足のとても大きいという意味である。山の佐伯あるいは野の佐伯は、荒れ山や野外で大声でさわぐ人を指した。要するに、これらの呼び方は原始的生活をする人を軽蔑する呼び方にすぎない。「国栖」という語は多少異なっている。それは国の神(地方の神)を拝む人である。換言すれば、天上の神(天照大神など)を拝む朝廷、皇室、豪族に比べてて、国の神を拝む民族の地位が一段低くなったということである。奈良の吉野に住んでいる国栖は、皇室が大嘗祭を開催する時はいつも、彼らは貢物を提供しそして歌や笛を演奏しなければならなかった。

 彼らは最初は皇室と敵対し、しかし後には皇室に帰順して、皇室の忠実な追随者になった。ゆえに吉野の国栖はクモと蔑称されることはない。それから、大嘗祭に参与する国栖は、実は吉野に住んでいる普通の農民が演じたのである。「日本書紀」とその他の古代文献の記載した土蜘蛛あるいは国栖は、かなり古い昔の事である。奈良時代後で、土蜘蛛は二度と日本で歴史の舞台に現れてこない。大和朝廷が全国征服を始めた時期は、およそ3世紀の後半から4世紀である。この時期、各地の絶えず現れる小首長を占領した、しかし、深山などの僻地に依然として人がいて、狩猟をしたり魚を捕ったり生活をしていた。彼らは依然として縄文時代のさながらの生活をし、縄文時代の信仰を維持した。しかし、朝廷の統治する範囲の拡大に従って、この人たちもすべて農耕民族になった。現在の土蜘蛛関連の叙述は、大和の王朝の人が、これら縄文時代的生活をしている人と遭遇した時の印象に基づいて編纂したものである。日本の古書の中で出現する神武天皇の東征の伝説のように、「土蜘蛛」が消えてなくなった2、3百年後に、やっと編纂したものである。そのため、土蜘蛛の叙述に関しては、大部分が後世に創作されたため、信頼できる歴史記載とはいえない。

【「常陸国の風土記」の穴居人土蜘蛛の記録】

 「「常陸国の風土記」の穴居人土蜘蛛の記録」を転載しておく。

 土蜘蛛関連の伝説には、日本の全国各地で会うことができる。これは各地の首長がすべて狩猟民族を手なずけ、彼らを農耕民族にかえた経験があることを証明している。奈良時代、「風土記」を編纂して、もっぱら各地の古代の伝説を探し集めた。その中の「常陸国の風土記」は当時の詩人の高橋虫麻呂が文章を書いた。虫麻呂は各地の風景と現地の独特な伝説にたいへん関心を持っていた。ために、「常陸国の風土記」の中の土蜘蛛の記述には、民間伝説の質素な面をすべてもっている。

 例えば、ある伝説はこんな感じである。「老人は言う:昔、民族がひとつあって国栖と呼ばれていた、彼らはまた土蜘蛛、八掬脛、山の佐伯、野の佐伯と呼ばれた。彼らは洞穴に土居を掘った。人が来ると洞穴に隠れ、人が行くと再び出る。彼らはいつも農民が注意していない時に乗じて、出てきてものを盗みあるいは人を殺す。ある時、黒阪命という人がいて、彼は土蜘蛛を消滅させる一つの方法を考え出した。彼は土蜘蛛が外出する時に乗じて、イバラで穴の口を塞ぎとめて、それから更に騎兵で彼らを追いかけた。その結果、土蜘蛛はすべてイバラにつまずいてころび、最後に消滅させられた。」

 今の観点で見ると、土蜘蛛は農耕民族の財産の略奪によって生活を維持していたわけではなかった。彼らは狩猟に依存して生を維持していた、しかし時には農民と紛糾が起きることがあり、さらに進んで農地を攻撃したこともあった。最初、農民は彼らと決して大きい衝突を起こさなかった。しかし後から、黒阪命のようなこのような強大な族長が現れて、土蜘蛛を消滅させて、農民の生活を安定させたいと思った。そこで、大挙して土蜘蛛討伐を開始した。大和朝廷は朝鮮半島からウマを運んできた。土蜘蛛はまるっきり馬に会ったことがない。結局、彼らは自分たちが走るよりずっと速い騎兵に負けた。土蜘蛛が投降した後に、族長は彼らに荒地を開墾するように命じ、彼らは農民になった。昔、土蜘蛛が疾走した原野は、すぐに農村になった。

 10世紀末、源頼光の大江山鬼伝説を検証する。退治される土蜘蛛族の人格性の高さが裏伝承されている。この伝説は後に頼光による酒呑童子退治物語へと完成される。土蜘蛛は、鬼である酒呑童子の子分というような役回りで登場する。大江山鬼伝説とは次のようなものである。
 「990(正暦元)年頃、世は藤原氏の摂関政治の全盛期に、大江山千丈ヶ嶽に、酒呑童子を頭目、茨木童子を副将、他に熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子を四天王とする鬼の一味が立て篭もっていた。都を始め辺り一帯に出没した。池田中納言の娘がさらわれるに及び、時の帝の一条天皇が源頼光に鬼賊討伐の勅命を下す。頼光との酒宴の席で、童子は次のように語る。『比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた。仁明天皇の嘉祥2年(849)から大江山にすみつき、王威も民力の神仏の加護も薄れる時代のくるのを待っていた』。..頼光たちは、鬼の仲間だといって近づき、毒酒をのませて自由を奪い、酒呑童子一党を殺す。この時、酒呑童子は『鬼に横道はない』と頼光を激しくののしっている。酒呑童子は、権力側から見れば悪者、敵、妖怪であったが、彼らからみれば、自分たちが昔から住んでいた土地を奪った武将や陰陽師たち、その中心にいる帝こそが、極悪人であった」。

 この物語が民衆に語り継がれて行くことになる。結末は頼光・朝廷側の勝利とされているが、登場人物の性格と背景を通して「征伐」の不当性を暗に示す高度な暗喩となっている。滅ぼされた辺境の民の歴史、支配者の横暴の歴史を知る者には共感できる憤激であり、支配者に対する「糾弾宣言」となっている。これ以上の政治的なメッセージを許されない能・歌舞伎作品においては、土蜘蛛と頼光の立ち回り、蜘蛛の派手な最期と展開で幕を閉じるが、土蜘蛛の心情がメッセージされる伝説となっている。

 「帰ってきた土蜘蛛 土蜘蛛は死なず!中世・近世文学にあらわれた蜘蛛の精霊たち」は次のようにコメントしている。
 「こうしてみると、土蜘蛛は、日本の歴史を貫いて、マイナーの側から抵抗と不服従(ないし不服)をつぶやきつづける、異形の花形ともいう地位をもっていることが分かる」。

 

 「巻の七 実説・土蜘蛛無惨」。
茨城郡(うばらきのこおり)は東には香島郡(かしまのこおり)南は佐我の流海(霞ヶ浦北部)西は筑波山、北は那珂郡(なかのこおり)に囲まれた一帯を言った。常陸国の国司が所在する国庁はここの石岡にあった。さてこの地方の古老がこんなことを語った 。
 昔のことだがこのあたりには国巣(くず)と呼ばれるものが住んでおった。都知久母(つちくも)とか夜都賀波岐(やつかはぎ)ともいわれ、山の佐伯、野の佐伯と名乗っていた。こやつらは山腹のいたるとこに穴倉をほり、いつもはその穴の中で暮らしておって、人間が近づくとすぐに穴倉にかくれるが、遠ざかれば野原にでてきて遊ぶ。オオカミの性格、フクロウの情をもっていて、ネズミのように隙を窺って掠め取るわるさをし、だれからも招かれたりかわいがられたりすることがないから、ますます、土地の風習から隔たって孤立していた。

 ある時、大臣(おほのかみ)の一族であります黒坂命(くろさかのみこと)は穴からやつらがでて遊んでいるところを見計らって、茨棘(うばら)を穴の中へつめこみ、すぐさま騎乗の兵を放って、急遽、追い立てさせた。佐伯どもはいつものように穴倉に走り帰ったところ、一網打尽、茨棘に突き刺さって傷つき痛んで散々に死んでしまった。そこでこの茨棘(うばら)にちなんで県(あがた)の名につけたのだといわれている。

 土地の古老はもう一つの「茨城」由来を語っている。
  山の佐伯と野の佐伯はすすんで盗賊の頭目となった。賊徒を率いて、国中を横行し、大がかりな強奪、殺生を繰り返していた。そのころに黒坂命が登場し、策略をもってこの賊徒を滅ぼそうと茨(うばら)で城(き)を作ったのである。これにちなんでこの土地の名を茨城(うばらき)と言うようになったと語った。

 「城(き)」 敵を防ぐために築いた軍事的構造物であり、古くは柵や石垣、濠、土累を巡らせた軍事拠点であるがここでは茨を絡ませて作ったということであろう。これが「茨城」の由来となる。

 先住者はまだ穴居生活をおくる人々であり、生活の糧は狩猟、採取によっていたとされ、まつろわぬ神であり、あらぶるものたち、蛮人であり、強盗集団として徒党を組むものであり、壊滅すべき対象でしかなかった。これがやがて大和朝廷の陸奥(みちのく)制圧という大軍事戦略へつながる。


 「常陸国風土記」の行方郡の章にある伝説は次の通り。
 概要「行方郡の板来(現在の潮来)には霞ヶ浦を航行するための水駅が設置され、板来の驛(うまや)と呼ばれる。この西には榎の林があって、その昔の天武天皇の御世にオミノオオギミが放逐されて住むことになった。霞ヶ浦には塩を焼く藻、海松(みる)、白貝(おふ)、辛螺(にし)、蛤(うむぎ=ハマグリ)が多く生育していた。崇神天皇の時、これを征服するためにタケカシマノミコトが遣わされた。タケカシマノミコトは軍勢を率いて、行く先々の兇徒を平らげて進み、信太郡の阿波崎近辺、浮島に宿をとった。霞ヶ浦の東の浜辺、板来のあたりを望めば、煙が上がっているのが見えた。『あれにあるは兇族なり。みなのものはやばやに戦支度をせよ』。

 この地の国巣に夜尺斯(ヤサカシ)、夜筑斯(ヤツクシ)と名乗る二人がいて、一族を束ね、穴を掘って土窟を構え居住していた。タケカシマノミコトが兵に命じて追討、駆逐しようとすれば逃げ、土窟を閉じ、守備を固めるので容易に攻めきることができなかった。タケカシマノミコトははかりごとを廻らした。土蜘蛛族が祭りを好むのを利用して一網打尽にすることを思いついた。琴、笛の音曲を演じさせ、七日七夜の宴が演ぜられた。この盛況な音楽を耳にした賊どもは一族こぞって男も女も全員が土窟から這い出して来て、浜辺一杯に広がって大喜びではしゃぎまわった。タケカシマは、騎馬武者たちに土窟の入り口を閉鎖させ、用意の伏兵で背後から襲撃した。彼らは一網打尽に捕虜となり、全員まとめたうえで同時に焼き殺した。

 痛く殺した土地は伊多久=板来=潮来と名づけられた。臨斬る(ふつにきる=斬り尽くす)土地は今の布都奈(ふつな)村(潮来の東北の古高あるいは桜川村の古渡)と名づけられた。安く殺る(きる)ところで、今の安伐(やすきり)の里をいう。(アバの里とよんで潮来町古高の阿波台あるいは安婆島と解釈もある) 吉く殺く(よくさく)といった場所は今は、吉前(えさき)の邑(潮来町江崎)を言う。これが地名の由来である。

 「肥前国風土記」の「賀周の里」の項。
 「昔、この里に土蜘蛛あり、名を海松橿姫といひき。天皇、国巡りしましし時、陪従、大屋田子をやりて、誅(つみな)ひ滅ぼさしめたまひき。時に、霞、四方をこめて物の色見えざりき。因りて霞の里といひき」。

 土蜘蛛・海松橿媛の根拠地として「肥前國風土記」に登場する「賀周の里」は、現在の唐津市見借であるという。一時は、私・みるかし姫が本籍地を定めてさえいた。土地では「庚申様」と云われている。「庚申様」は猿をまつる神社で、毎年2.17日の初庚申節に、 「見借浮立(ふりゅう)」という踊りが奉納される。他の地域では廃れたが残ったという。庚申様は、そもそも怨霊系の神社らしく、天皇族に滅ぼされた土蜘蛛族の故郷としてはふさわしい。神社の前まで行くと「見借庚申様前」とある。

 今日、「見借」と呼ばれているこの土地は、古代・風土記の時代には、このあたりを跳梁跋扈した土蜘蛛族の姫に敬意を表して「海松橿」であった。そのつぎには、「見留加志」として天平勝宝6歳太宰都督となった吉備真備は勅命によって藤原広嗣の霊廟を創建、大領田十五町を施入したというが、それが「在当地見留加志之庄是也」とある(「松浦廟宮先祖次第並本縁起」)。また、南北朝期の文書によれば、女子一期分知行が行われていたことがうかがえ、古代の姫への敬意なのかどうなのか、女性の地位に対する興味深い習わしがあったようだ。「見借」と称されるようになったのは、江戸のことだが、昭和になっても「見借峠」は急坂で、唐津側とは隔絶された土地だったようだ。

 土蜘蛛と、「天皇」の威を借る入植者と、何が違うかといえば、おそらく、土蜘蛛は縄文人、入植者は弥生人だったのかもしれない。 魏志倭人伝にも出てくる 「末盧(まつろ)國」というのがあるが、唐津は、日本でもっとも早くコメ作りがなされた地域だった。その「コメ文化」をひっさげた弥生人が、先住の民として駆逐しなければならなかったのが、縄文人(の生き残り)。「土蜘蛛」とは、歴史的にはその人々に名づけられた蔑称だったのだろう。唐津の「末盧館」にも行ってみたが、 そこにあった「縄文人」の絵は、なぜか、もののけ姫によく似た化粧・装身具をつけていた。



2006年05月18日

◆「葛城の神」と「葛城王朝」の謎(三)5

◆「葛城の神」と「葛城王朝」の謎(三)

◆◇◆葛城地方と「土蜘蛛」

 大和の葛城地方は、天皇家と深い関係を持つ葛城氏の本拠地である。また葛城氏は、かつては大王家に対抗できる最大の豪族であったようだ。

 この「葛城」という地名は、そもそもどこから来たのであろうか? また、この葛城地方には「土蜘蛛」の伝承が残されている。この「土蜘蛛」の伝承は何を意味するのであろうか?

 『日本書記』には、昔、この地に朝廷に従わない胴が短く手足の長い「土蜘蛛族」がおり、皇軍が植物の「葛(かづら)」を編んだ網で捕らえ平定して、「葛城邑(かつらぎむら)」としたと記している。

 葛城山の一言主神社の境内には「土蜘蛛塚」という塚があり、そこは土蜘蛛を頭と胴と足を三つに切って埋めた所だと云われている。

 また、すぐ近くには、土蜘蛛(赤銅色<あかがねいろ>をした八十梟帥<やそたける・八十建>とも)が住んでいたとされる「蜘蛛窟(くもくつ)」もある。

 古代日本では土蜘蛛とは朝廷に従わない先住民を蔑視した呼び名であったが、中世には人の怨霊が化けた妖怪として登場する。

 土蜘蛛は、中世の軍記物語『平家物語』では武者の源頼光の病床に現れるが、頼光に斬りつけられ、葛城山に追いつめられて退治されたりする。

 また、歌舞伎・『土蜘』にはこうした台詞があります。「 我を知らずや其の昔、葛城山に年経りし、土蜘の精魂なり。此の日の本に天照らす、伊勢の神風吹かざらば、我が眷族の蜘蛛群がり、六十余州へ巣を張りて、疾くに魔界となさんもの」。

 このように、葛城山など(大江山にも)に残る「土蜘蛛」のイメージは、「鬼」のイメージとも重なり、支配者を悩ます「まつろわぬ」存在であったようだ。

 鬼・土蜘蛛退治の伝説は古典芸能の題材となり、朝廷による「まつろわぬ」者たちへの「征伐」戦の象徴として、こうした物語(鬼・土蜘蛛退治の伝説)が繰り返し、後世に語られるようになった。


スサノヲ(スサノオ)

 
【土蜘蛛正統記第三部 】 【「カタカナ族」の歴史】

      
「土蜘蛛族」発掘
「

カ---目に見えないが、森羅万象の背後に、「隠れ身」として感じられる、「脅威的はチカラ」をいう。
タ---大もとから分けられて独立的になるという基底思念である。
カ---同上
ム---目に見えない「潜象界」のこと。
ナ---多様性、変化性が現れる(七変化、七周期)という思念である。

◎以上により「カタカムナ」とは、---目に見えないが、森羅万象の背後に、「隠れ身」として感じられる、

「脅威的はチカラ」から、「森羅万象」が分かれ出て、多様に(七変化、七周期)変化して現れること。---で

ある。したがって「カタカナ」とは、「カタカムナ」の「ム」を除外したもの則ち、「背後に、「隠れ身」と

して存在する「脅威的はチカラ」から分かれ、現れ出た「森羅万象」が、多様(七変化、七周期)に変化して

いること」である。

また別の表現でいえば、二者の関係は、「カタカムナ」という「目に見えない物理哲学の法則」、と、

その法則のとうりに、現象の森羅万象が多種多様に変化している有様を「カタカナ」というのである。

その「カタカムナ」を語るのが「カタカナ言葉」であり、その「絵文字」が「カタカムナ」である。

卑弥呼時代までは、この二者により人の意思伝達は実行されていたと思われるが、漢字の伝来以後は大きな

影響を受けるわけである。漢字渡来といっても、遠くは秦の始皇帝時代に、渡来して来た「除福」が齎した

かもしれないことを、初めとして、百済の「王仁」やその他の渡来人も居ったのである。

そして漢字が熟成して、「古事記」その他の漢字本が出現したと思われる。然し、漢字の熟成が不完全で

あったがために、古事記中に「表意」することの出来なかった「表音文字」が相当数存在している、と私には

思われる.安万侶が表意出来なかった「表音文字」は、「古事記」という重要な「証拠物件」の一部として、

何を物語るのだろうか。その位置付けのため、もう一度、古事記を見直してみよう。

一応終わったことにしている「神世七代」の、その次の、
 
 鹽許袁呂許袁呂邇【此七字以音】と
  畫鳴【訓鳴云、那志】而、と、
  引上時、自其矛末垂落之鹽之累積、成嶋。是淤能碁呂嶋。【自淤以下四字以音。】と

から解読を初めてみよう。

●「許袁呂許袁呂邇【此七字以音】」---

許=「コ」---ものごとが繰り返されること。
袁=「オ」---「オ」とは、六方にひろがる大きな環境のチカラを意味する。それは、環境といつても、
   単なる「空間」では無く、我々の生命の根源、「ヤ」まで一ぱい遍万しているが、目には見えぬ「カム」
   の存在するところ、という意味の環境である。
呂=「ロ」---六方の環境からの カム の カカワリがつづく、という思念であると考えられる。
許=「コ」---ものごとが繰り返されること。
袁=「オ」---上述「オ」に同じ。
呂=「ロ」---上述「ロ」に同じ。
邇=「ニ」--- 定着的に發生が繰り返される。現象の粒子として現象界へ定着。

◎以上により、「許袁呂許袁呂邇」とは、「物事が繰り返されること。目には見えぬ「カム」の存在する
  ところから、物事が繰り返し発生して、定着すること。」と解読される。

●「是淤能碁呂嶋。【自淤以下四字以音。】」---
淤=「オ」---六方にひろがる大きな環境のチカラを意味する。
能=「ノ」---陰陽.正反に分離対向しながら、変遷循環していく様をいう。○○がノして○○になるということ。
碁=「ゴ」---ものごとが繰り返されること。「コ」よりも重い感じ。
呂=「ロ」---六方の環境からの カム(目に見えないチカラ) の カカワリがつづくということ。
  「コロ」は、「繰り返し(コ)現れた粒子(ロ)」のこと。「ゴロ」は「コロ」の重積した感じで、
  「コロコロ」と「ゴロゴロ」と「ゴロッゴロッ」との段差(事物の大きさや、その音のチカラの強さ)を
   認めざるを得ない。

◎「○○がノして○○になるということ」は、「オ」が「ゴ」「ロ」に変化するということである。

ということは、「六方にひろがる大きな環境のチカラ」を、陰陽.正反に分離対向しながら変遷循環を繰り返

し続けることで、その背後には、目には見えない「カム」のチカラが、働いているのである。

森羅万象の背後には、「目には見えない「カム」のチカラが、働いている」ということである。

【そしてその森羅万象は、それぞれ各個に、「固体のチカラ」を、「脅威的なチカラ」から「微かなチカラ」

まで、段階的に所有している】ということである。森羅万象は、各自、段階的に、「カミのチカラを所有して

いる、」ということで、これが「カタカムナ」の根底にある物理哲学である。

●「美斗能麻具波比。」【此七字以音。】---、
美=「ミ」---素量の意味である。いわば現象成立の前駆象(カタチに現れる前の状態)である。
斗=「ト」---、カムウツシ、アマウツシによってあらゆる生命が発生され、持続され、還元される
 という(カタカムナ)の根本思想を示す、最も重要な声音符なのである。
能=「ノ」---○○がノして○○になるということ。
麻=「マ」---充実したチカラが、アマ(現象界)へ出ていても、まだ目にみえぬ 状態のものをさすコトバ。
具=「グ」---カムのチカラが、自由に発生するという思念である。
波=「ハ」---正.反が対応している、という思念。
比=「ヒ」---あらゆる現象の根源(カ)であり、あらゆる現象の始元(ア)である。

◎万物は、太陽のような充実したチカラから生まれ出るものであるが、イマ は、潜象と現象との ハザマ 
にあって、正反、陰陽が対応の状態にあるが、この状態は「あらゆる現象の根源(カ)であり、あらゆる現象
の始元(ア)である。」

茲まできて感ずることであるが、「カタカムナ」による解読は、その形態が非常に抽象的であり、潜象的であ
り、物理.哲学的であり、具象性がないということである。安万侶が漢字で表意することが出来なかったのも、
その故であったのだろうか。それともやはり安万侶は漢字族で、「カタカナ言葉」に馴染むことが出来なかっ
たためか。

●「阿那邇夜志愛(上)袁登古袁。」【此十字以音。下效此。】---
阿=「ア」---ア」という思念は、何でも、そこに、あるもの、あることの、その存在をさすと共に、それを
 自分の認識に出して納得する(安定する)思念である。
那=「ナ」---六方にひろがる大きな環境のチカラ
邇=「ニ」---定着的に發生が繰り返される。現象の粒子として現象界へ定着。
夜=「ヤ」---極限を意味する。「現象の極は潜象にある」というのが<ヤ>の基底思念である。
志=「シ」---示し。「シめされて現れたもの」(現象)と、「それをシめしたヌシ」(潜象)の二つを暗示し
 ている。
愛=「エ」---波が拡がるように、枝がのびるように.生成繁栄する思念と考えられる。
(上)=---
袁=「オ」---六方にひろがる大きな環境のチカラ
登=「ト」---カムウツシ、アマウツシによってあらゆる生命が発生され、持続され、還元されること。
古=「コ」---ものごとが繰り返されること」。
袁=「ヲ」---四相性、方向性、変化性を以つて、「オ」から發生する、即ち、「---を以て---する」という
 思念を示すものと考えられる。

◎「アマナ」という言葉がある。「マ」を抜けば「アナ」になる。その「マ」とは【「充実したチカラがアマ

(現象界)へ出ていても、まだ目にみえぬ 状態のものをさすコトバ】とある。則ち「マ」には余裕がある。

「アナ」にはこの余裕が無い。そこで、「ナ」という、「大きな環境のチカラ」が現れるまでに、余裕が無く
て「アッ」という「マ=間」である。間髪を容れない感じがある。.

「国語大辞典」をみると、「何事かに感動したり驚いたりした時に発する言葉」とある。「アナ カシコ」と

いう言葉もある。

「ニヤシ」は、現象界に発生して極限までも発展しておるもので、「それをシめしたヌシ」の大きなチカラ

が背後にあり、波が拡がるように、枝がのびるように.生成繁栄する「頼もしさ」が感じられる。

「オ.ト.コ」は、大きなチカラが発生し、持続、維持されている状態。張りきっている感じ。

「ヲ」は、「オ」と対語をなしており、「オ」という大きなチカラを、その、四相性、方向性、変化性などを

重ねて強調しているのだろう。

●「久美度邇」【此四字以音】

久=「ク」---カムのチカラが、自由に発生するという思念である。
美=「ミ」---
度=「ド」---カムウツシ、アマウツシによってあらゆる生命が発生され、持続され、還元されること。
邇=「ニ」---定着的に發生が繰り返される。現象の粒子として現象界へ定着。

◎目に見えない世界から、自由に現象界にどんどん発生して来て、持続され還元する、ことが繰り返される。

生命の自由な発生、展開、還元が順調で、満足な感じである。

然るに、第一回目の「美斗能麻具波比」は失敗に終わった。そこで次のような「二柱神議」が始まった。

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【於是二柱神議云、「今吾所生之子不良。猶宜白天神之御所。」即共參上、請天神之命。爾天神之命以、
布斗麻邇爾【上、此五字以音】ト相而詔之、「因女先言而不良、亦還降改言。」故爾反降、更往迴其天之御柱
如先。於是伊邪那岐命、先言「阿那邇夜志愛袁登賣袁。」、後妹伊邪那美命言、「阿那邇夜志愛袁登古袁。」
如此言竟而、御合、】

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解読してみると、---

●布斗麻邇爾【上、此五字以音】
布=「フ」---フタツ。ものがふえる、ふとる。あらゆる現象 の根源のフタツのもの。
  アマとカムのフタツのチカラ。
斗=「ト」---カムウツシ、アマウツシによってあらゆる生命が発生され、持続され、還元されること。
麻=「マ」---充実したチカラが、アマ(現象界)へ出ていても、まだ目にみえぬ 状態のものをさすコトバである。
邇=「ニ」---定着的に發生が繰り返される。現象の粒子として現象界へ定着。
爾=「ニ」---現象の粒子として現象界に定着すること。最後のニは、フトのマニの夥しい繰り返しの後に、
 いよいよ「現象粒子(客観的存在)としてその發生が定着される」という意味の<ニ>である。P63参照。
 ★(第十号、カタカムナ文献解読、P63)---およそ現象物質は(物質の現象も精神現象も込めて、)いきなり
 表れるものではない。現象の發生にはかならず潜象の過程があり、先ず、潜象から現象過渡の粒子として定着
 されてから、次々と、現象粒子として定着されるものである。

△「 フトマニニ」、(第十号、カタカムナ文献解読、P59)
     フト---フタツのト(アマウツシ、カムウツシのチカラ)の重合。P62参照。
                 (第十一号、カタカムナ文献解読第三首、九十二頁参照。)
     マニ---アマ始元量から現象過渡の状態に、定着的に發生が繰り返されること。
       二---現象の粒子として現象界に定着すること。最後のニは、フトのマニの夥しい繰り返しの後に、
     いよいよ「現象粒子(客観的存在)としてその發生が定着される」という意味の<ニ>である。P63参照
◎「美斗能麻具波比」の如く、「陰」と「陽」の二つのチカラが重合して、発生し定着するのであるが、ここ
では「マ」が大切で、「間合い」を取ることが重要で、発生、定着までにある程度の時間が必要である。

◎「神議」が順調に進行し、再度の挑戦の決果、「国産み」が始まりましたので、以下に解読してみます。

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生子、淡道之穗之狹別嶋【訓別、云和氣。下效此。】 
次生、伊豫之二名嶋。 
此嶋者、身一而有面四、毎面有名。故、伊豫國謂『愛(上)比賣』【此二字以音下效此】 
讚岐國謂『飯依比古』。 
粟國謂『大宜都比賣』【此四字以音】 
土左國謂『建依別』。 
次生、隱伎之三子嶋。亦名『天之忍許呂別』【許呂二字以音】 
次生、筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四、毎面有名、 
故、筑紫國謂『白日別』。 
豐國謂『豐日別』。 
肥國謂『建日向日豐久士比泥別』【自久至泥以音】 
熊曾國謂『建日別』【曾字以音】 
次生、伊岐嶋。亦名謂『天比登都柱』【自比至都以音。訓天如天。】 
次生、津嶋。亦名謂『天之狹手依比賣』。 
次生、佐度嶋。 
次生、大倭豐秋津嶋。亦名謂『天御虚空豐秋津根別』。 
故、因此八嶋先所生、謂『大八嶋國』 
 然後、還坐之時、

生、吉備兒嶋。亦名謂『建日方別』。 
次生、小豆嶋。亦名謂『大野手(上)比賣』。 
次生、大嶋。亦名謂『大多麻(上)流別』【自多至流以音】 
次生、女嶋。亦名謂『天一根』【訓天如天】 
次生、知訶嶋。亦名謂『天之忍男』。 
次生、兩兒嶋。亦名謂『天兩屋』。【自吉備兒嶋至天兩屋嶋并六嶋】 
既生國竟、更生神。

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●生子、淡道之穗之狹別嶋【訓別、云和氣。下效此。】
「訓別、云和氣」=「ワケ」---「ワケ」の図象は、「ワ」から変遷して ケ=変化する思念を示している。
 則ち、「ワ」から発生した「ミ」は次々と(ヨからヤまで)変遷し 変化性をもつ、という思念である。
 それが、「分け」という意味になった語源である。

◎「分ける」「別ける」という言語の意味を、この様に抽象的、物理的に解読することは、この「カタカムナ

文献」の発見者楢崎皐月が、物理学者出身の故であろうか。殆どがこの要領で解読されている。

●次生、隱伎之三子嶋。亦名『天之忍許呂別』【許呂二字以音】 
許=「コ」---六方にひろがる大きな環境のチカラ
呂=「ロ」---六方の環境からの カム(目に見えないチカラ) の カカワリがつづくということ。「コロ」は、
 「繰り返し(コ)現れた粒子(ロ)」のこと。「ゴロ」は「コロ」の重積した感じで、「コロコロ」と
 「ゴロゴロ」の段差を認めざるを得ない。
碁=「ゴ」---六方にひろがる大きな環境のチカラの重積。
呂=「ロ」---六方の環境からの カム(目に見えないチカラ) の カカワリがつづくということ。

◎「コロ」は、「繰り返し(コ)現れた粒子(ロ)」のこと。「ゴロ」は「コロ」の重積した感じで、
 
「コロコロ」と「ゴロゴロ」の段差を認めざるを得ない。もう一つ、「ゴロッ」という言葉もある。これらは

大中小の感じもある。則ち、「コロ、コロ」した小さな島、「ゴロ、ゴロ」した中の島、次は、「ゴロッ」と

した大きな嶋、といった「感じ」が浮んで来る。「カタカナ言葉」は実に「微妙な感じ」まで表意出来るもの
である。今までの「解読体験」から分かるとおり、この「カタカナ言葉」は「感じ」の意識世界における、

則ち、古代人の「直感」の働きによる物理哲学を、述べたものではなかろうか。

現代でも、「カタカナ言葉」の意味は、幾重にも、様々に解釈されるのは、「古事記」時代から、いやそれ

以上、古代からの伝統というべきか。ここに「カタカナ族」の特異性と価値を見出だすものである。

●肥國謂『建日向日豐久士比泥別』【自久至泥以音】

◎肥國を、『建日向日豐久士比泥別』と謂う、とあるから、「肥國とは火の国」ではないかと探してみたら、

やはり肥前.肥後であった。我が「火の国」のことだから、少し詳細に。

●建日向日豐久士比泥別
建=「タケ」---独立的(タ)に正.反に変化性(ケ).方向性(ヘ)をもって次々とヤ まで発生する思念。
日=「ヒ」---チカラの根源であり、始元でもある、「朝日の日」が昇る感じ。
向=「ムカ」---「ムカヒ」とは、六方の立体化.粒子化する カ のチカラの根源。則ち、正.反対向して
 発生すること。
日=「ヒ」---上述に同じ。
豐=「トヨ」---「ト」は、カムウツシ、アマウツシによってあらゆる生命が発生され、持続され、還元される
 という(カタカムナ)の根本思想を示す。「ヨ」は、宇宙のあらゆる現象物は、オホトの ヒ から分け
 られて、カ の量なりに発生し、正.反四相をもつ、ということの物理である。
 「トヨ」とは、「統合=トの四相=ヨ」則ち「フトマニ」によって発生したものが、「正、反.四相」をもつ
 ことである。(四相とは、春夏秋冬、昼夜朝夕のような四相をいう)
久=「ク」---カムのチカラが、自由に発生するという思念である。
至=「ジ」---「シめされて現れたもの」(現象)と「それをシめしたヌシ」(潜象)の二つを暗示している。
比=「ヒ」---生命力には、二つ(陰陽)の「ヒ」がある。「身体のアワのヌシ(チカラ)と、頭のサヌキの
 ヌシ(チカラ)」である。
泥=「ネ」---我々は「根」という意味が浮かぶ。「ネ」の思念とは、要するにものごとの根源という意味で
 あろうと考えられる。

◎「建日向日豐久士比泥別」とは、肥国の別名であるが、建日、向日 豊 久士比泥 別 の五つに別けて

解読するのが、得策のような気がする。

建日=「朝日の上がるよう」に、万物が、どんどん勢いよく発生して、朝昼夕べと変化する。
向日=六方の立体化.粒子化する カ のチカラの根源。則ち、チカラの根源て発生すること。
建日向日=万物は、チカラの根源から、勢いよく発生して、四相に変化する。
豊=カムウツシ、アマウツシによってあらゆる生命が発生され、持続され、還元されるという(カタカムナ)
の根本思想を示す。
久士比泥=「建日向日豐」と略同じ内容であるが、「ネ」(根)が強調されているようだ。
別=「ワ」から発生した「ミ(チカラの実質)」は次々と(ヨからヤまで)変遷し変化性をもつという思念である。
それが、「分け」という意味になった語源である。この「別」という文字は、島や嶋のみに付されているが、
これは、本土から「分かれた」という意味だろうか。

◎総括してみると、「肥国」(肥前.肥後)の国とは、「万物が、チカラの根源から、勢いよく発生して、

四相に変化する、豊かな、しかも シッカリ した「根」を持てる国」とでも解すべきか。

●熊曾國謂『建日別』【曾字以音】
熊=「クマ」---ク とはカムのチカラが、自由に發生する その自由さ。マ とはその自由さを発する本体。
曾=「ソ」---現象に示された状態であるがワクにはまらず、ワクから ソ レ て ソ の トコロ にあること。
 「クマソ」とは、自由にその本体から発せられる勢力系(生命のハタラキ、エネルギー)のこと。
國=「クニ」---「ク」とは、カムのチカラが、自由に發生する 、その自由さ。
 「ニ」とは---定着的に發生が繰り返される。現象の粒子として現象界へ定着している状態。
建=「タケ」--
日=「ヒ」---
 「タケヒ」とは、上述の如く「朝日の上がるよう」に、万物がどんどん勢いよく発生し変化してゆくこと。
別=---辞典には、『「ワ」から発生した「ミ」は次々と(ヨからヤまで)変遷し 変化性をもつ、という
 思念である。それが、「分け」という意味になった語源である。』と出ている。

◎核心が持てないので、古事記のあちこちをみたら、一個の名称の語尾の文字として、「神」「命」「別」と

三種類がでてきた。そして、「別」というのは、「国」の名称に付されていた。また「神世七代」の項には、

【上件五柱神者、別天神】と出ている。この場合の「別」、はあきらかに、「別の、分かれた、他の」という

意味に解される。

つまり、「別」とは本体から「ワカレ」た存在ということか。

◎熊曾國謂『建日別』を総括すると、【「クマソ」とは、自由にその本体から発せられる勢力系(生命の

ハタラキ、エネルギー)のことで、そいう力強い国即ち「熊襲国」を別名「建日の別れ」と謂う。

「建日の別れ」とは、上述の如く、「朝日の上がるよう」に、万物が、どんどん勢いよく発生し変化してゆく

 エネルギーの本体からの「別れ」を指す】こと。

●次生、伊岐嶋。亦名謂『天比登都柱』【自比至都以音。訓天如天。】 
天=「アメ」---アメとは、【「アマのメ」則ち、アマ(あらゆる現象、但し潜象からの過渡状態)から出て
 きた「メ」(「アマのメ」)、則ち、アマ(あらゆる現象、但し潜象からの過渡状態)から「メ」 
 (カ=潜象のチカラが マ=現象に出る思念。)が出るという状態。】である。
比=「ヒ」---
登=「ト」---
都=「ツ」---
「ヒトツ」とは、最初の一個という意味であるが、又、同じヒ(根源)から出たものを、すべて集めた統一の
「ヒトツ」(全体)という意味もある。
柱=「バシラ」---現代人が思う「柱」は「正、反=ハ に 示=シ めされる カム の チカラ」である。 

◎「伊岐嶋」とは、「天比登都柱」則ち、(カ=潜象 のチカラが マ=現象 に出て、正.反合一して、一本

にまとまつていることをいう。現在の「壱岐嶋」である。

●津嶋。亦名謂『天之狹手依比賣』。
天=「アメ」---
之=「ノ」---すべて、○○が「ノ」して○○になる、という意味で使われている。
狹=「サ」---物の差という思念であろう。
手=「デ」---「ワ から タ して正反に出る」という意味。
依=「ヨリ」---四相分立。「リ」は「ワ」を分離する思念。
比=「ヒ」---
賣=「メ」---

◎「天之狹手依比賣」とは、(あらゆる現象、但し潜象からの過渡状態)から、 (潜象 のチカラが)、

マ=現象 に出たのであるが、それぞれに「差」があり、正.反,四相分立したりする、姫。

「ヒメ」は「ヒコ」と相対し、「ヒ」カラ「コ」されたもの「ヒコ」は、「ヒ」(根源)から生まれた嫡出子
というわけである。「ヒコ」は「ヒメ」と対向する「サヌキ性」である。

●佐度嶋。 
佐=「サ」---
度=「ド」---
「サト」は微分性.統合性の意味である。「ド」の濁音は、その意味を強調する。
嶋= 「シマ」---

◎「微分性のものが、よく統合されている嶋。

●大倭豐秋津嶋。亦名謂『天御虚空豐秋津根別』。
 大=「オオ」---、「オ」とは、六方にひろがる大きな環境のチカラを意味する。それは、環境といつても、
 単なる「空間」では無く、我々の生命の根源、「ヤ」まで一ぱい遍万しているが、目には見えぬ「カム」の
 存在するところ、という意味の環境である。「オオ」はオの拡大を意味する。
倭=「ヤマト」---ヤ まで マ に ト=統合 される。
豐=「トヨ」---統合(ト) の 四相(ヨ)、則ち「フトマニ」によって発生したものが、「正.反四相」を
 もつことである。
秋=「アキ」---。「アから発生したタマ」のこと。「キ」とは、發生を示す。あらゆるものが潜象から現象へ
 出現するときの發生のチカラをしめす。
 「タマ」 とは、その実質は「カ」の「ミ」である。日本語の「タマシヒ」は、本来、タマ に示された 
  ヒ(根元、則ちアマナの思念)である。
津=「ヅ」---十字象(ツのカタカムナ符号)によつてあらゆる個々の現象が發生するという思念を示すもので 
 あろう.
嶋=「シマ」---示=シ めされた「マ」。その形には、島=ナギ(粒子形)と 縞=ナミ(流線型)がある。

◎「大倭豐秋津嶋」とは、大きく統合されて、現象界へ チカラ 強く発生して来て、万物が個々に、

「正.反四相」をもつて展開している島。と解される。

●「天御虚空豐秋津根別」
天=「アメ」---「アマのメ」則ち、アマ(あらゆる現象.但し潜象からの過渡状態)から、 「メ」(カ=潜象
 のチカラがマ=現象に出る思念。)が出るという状態。
御=「ミ」---実質。
虚空=「ソラ」---宇宙空間に現われていること。「ラ」は、物(ミ)が、潜象、現象の界面(ウ)から
 生まれて持続的に(チ)、あらわれるという思念であると考えられる。
豐=「トヨ」---上掲
秋=「アキ」---上掲
津=「ヅ」---上掲
根=「ネ」---アマ の根源(ネ)のこと。
別=「ワケ」---上掲

◎「天御虚空豐秋津根別」とは、目には見えない チカラ が、潜象、現象の界面に充実していて、その根から

万物が宇宙空間に別れ出て、個々に、「正.反四相」をもつて展開している状態をいう。

 ●故、因此八嶋先所生、謂『大八嶋國』

◎これは解読の必要がないので、「大八嶋國」とは?、現在の名称に当ててみた。おうよそ判明したが、本州
に該当するのは「大倭豐秋津嶋」だろうか。

それにしても、同じ長崎県の「壱岐」や「対馬」が確認されるのに、我が「五島」は二島より大きいのに、

それらしい嶋も見当たらない。これはどうしたことだろう!

この頃、「古事記時代」には、「倭国」とか「日本国」とかいわないで、「大八嶋國」と記録されているこの

「日本」、ここに「五島」は記載されていない。あの「軍歌」の中に盛んに歌われた「おおやしま」の言葉。

あの歌の「おおやしま」の中に、我が「五島」は含まれていなかったのだ!

淋しい気持ちとともに、遠い昔の、少年時代の思い出が湧き上がってきた。

それは、大阪での一家流浪の生活時代に、小学校で受けた屈辱である、ポット出の「田舎弁丸出し」を、同級
生の皆から嘲笑されたのである

「俺は、日本人だろうか、朝鮮人か、支那人か! 地図を見ると西の果てで、朝鮮や支那に
近い!」

この淋しい気持ちは、少年時代の私から、長い間消えることはなかつた。

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「大八嶋」を産み終わった二神は、つぎに「六嶋」を、「おまけ」のように、誕生させている。次のとおり。

然後、還坐之時、

生、吉備兒嶋。亦名謂『建日方別』。 
次生、小豆嶋。亦名謂『大野手(上)比賣』。 
次生、大嶋。亦名謂『大多麻(上)流別』【自多至流以音】 
次生、女嶋。亦名謂『天一根』【訓天如天】 
次生、知訶嶋。亦名謂『天之忍男』。 
次生、兩兒嶋。亦名謂『天兩屋』。【自吉備兒嶋至天兩屋嶋并六嶋】 

これはもう解読の必要もない。だが、なかに「知訶嶋」を発見した。これは、我が「五島」のことである。

知訶嶋を何時五島に改名したのか、「古事記」時代にはどんな状態だつたのか?

興味深々たるものがある。
◎
そこで我が「知訶嶋」(私はここで産まれました)を、その歴史を、詳細に「発掘」していきたいと思います。

古代における「知訶嶋」の詳細は、なんといっても「肥前風土記」であろう。そこには次のように出ている。

古事記で産まれた時は「知詞嶋」だつたのですが、「肥前風土記」では「値嘉の郷」と改名されていました。

「値嘉の郷」

  肥前国風土記 松浦郷 (郡の西南の海中にあり)

昔者、同じ天皇(景行天皇)、巡り幸しし時、志式島の行宮にいまして、西の海を御覧はししに、海中に島あり

煙気多に覆へりき。陪従の阿曇連百足に勤せて、遣はして察しめたまひしに、島八十余りありき。就中の二つ

の島には、人あり、第一の島は、名は小近、土蜘蛛大耳居み、第二の島は、名は大近、土蜘蛛垂耳居めりき。
                 大近、小近の名は?
自余の島は並人あらざりき。ここに、百足、大耳等を獲へて奏聞しき。

【天皇、勅して誅ひ殺さしめむとしまひし時、】(天皇は土蜘蛛を虫けらのように取り扱つている)、

大耳等、叩頭みて陳聞ししく、「大耳等が罪は、実に極刑に当たれり、万たび戮殺さゆとも

、罪を塞ぐに足らじ。もし恩の情を降したまひ、再生くることを得ば、御贄を造り奉り、恒に御膳に貢らむ」

と。-----以下省略-----

ここまできて、心底より込み上げてくる、ニ三の問題を避けて通ることは出来なかつた。

1、「土蜘蛛」とは何なのか。

2、景行天皇とは如何なる人物か。

3、その他の天皇は「土蜘蛛」をどう処理したか。

4、大耳等の罪状は、何一つ記録されていないのに、何故、天皇は「誅ひ殺」そうとしたのか。

5、大耳等は、何もしていないのに、何故、「大耳等が罪は、実に極刑に当たれり-----」云々と述べたのか。

6、他の「土蜘蛛」等は、天皇に対しどんな対応が記録されているか。

6、その他の天皇は「土蜘蛛」をどう処理したか。

以上の諸問題について、検討してみた。

1、「土蜘蛛」とは何なのか

「国語大辞典」より---
【土蜘蛛」---「じぐも」(地蜘蛛)の異名。古代中央政府の威徳に服しない土着の人々を、中央から蔑視して
     呼んだ称。穴居して、性狂暴であつたという。神話、伝説にみえる。
【地蜘蛛】---体形等省略---樹幹、垣根、石垣などの根元に、くも糸と土砂からなる細長い袋状の巣をつくる。
     雄は地上を這いまわるが、雌は巣中にすむ。---昆虫などを巣の中に引きこんで食べる。---

◎「土蜘蛛」とは天皇族以前からの「土着民」のことであり、「倭族」のことにもなる。横穴などの、

穴居生活をしていたのであろうか。大耳等の罪状は、何一つ記録されていないのに、何故、天皇は「誅ひ殺」
そうとしたのか。「無辜の民を殺した」という感じを受ける。


2、景行天皇とは如何なる人物か。

「国語大辞典」より---
【景行天皇】---第十二代天皇。垂仁天皇の第三皇子。名は大足彦忍代別尊。書紀には、垂仁天皇九九年即位し、
 
 大和の纏向日代宮(マキムクヒシロノミヤ)に遷都、在位60年の間に熊襲を征伐したとある。

「インターネット」より---
 三皇子で、父帝に望むものを聞かれた際、兄の五十瓊敷入彦命が弓矢を望んだのに対し、皇位を望んで

それを許されて即位した。 七十七人の皇子女を諸国に分封し、諸国の別の祖とするなど全国的に勢力を

広げ、皇后播磨稲日大郎との間に生まれた日本武尊に九州の熊襲や東国の蝦夷を鎮定させたと伝えられている。  

古事記に無く、日本書紀にのみある景行天皇(オオタラシヒコ)の九州討伐記事の中には数々の疑問点がある。

まず問題とすべきは、崇神、垂仁と続いたとはいえ、まだ王権の確立が不安定であり、支配地域も近畿周辺に

限られるような状況で、九州の賊が騒ぐからと言って天皇自ら征伐に遠征し、七年間も大和の地を不在にする

ことは考えにくいことである。崇神天皇の代に、教化に沿わぬ周辺地域に四道将軍の派遣という記事があるが、

天皇自らが出向いたわけではない。さらに言えばオオタラシヒコにはイニシキイリヒコという能力と弓矢に

長けた兄王がいて、後継天皇の座も本来ならば難しかった状況であったはずで、長期にわたり大和を不在に

することは危険なことでもある。

◎七十七人の皇子女を、その名を、ずらりと併記してあつたが、全く驚くべき精力家というべきであろう。

そしてまた、この子女を全国に分封した勢力家とも成っている。

皇紀起源の「神武天皇」、その東征以来、日本全国の天皇族による制覇が実現したのであるが、その実態を、

ここでは、全国の各風土記から入つてみよう。

因みに「風土記」というのは、奈良時代に、朝廷の命によってシ諸国が編述した地誌である。その当時は、

おそらく、ほとんどの国が「風土記」を作製したものと想像されるが、今日まで伝わっているものは、あまり

多くはない。わずかに、出雲.常陸.播磨.豊後.肥前の五か国だけで、その他には逸文が残っている。

「出雲国風土記」から入ってみよう。


土蜘蛛正統記第一部
土蜘蛛正統記第二 1部 
土蜘蛛正統記第ニ 2部
土蜘蛛正統記第三部
出雲国風土記






 





(私論.私見)