蘇我氏考 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).7.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
日本古代史上には数々の未解明問題がある。その代表的双璧なものは「邪馬台国論争、所在地論争」、「出雲王朝論争」であろうが、ここで考察する「蘇我氏の出自」問題も然りである。れんだいこの見立てるところ、「邪馬台国論争、所在地論争」に象徴的なように、結局のところどこも何も解決していない。論者が百家争鳴的に自説を開陳し合うだけの学問に成り下がっている。別智を以ってすればそれで良いのかもしれない、困る事かも知れない、それさえ分からない。 いずれにせよ、れんだいこは、この間手掛けてきた通説批判と同様の臭いを嗅ぎ取る。ならば挑まねばなるまい。れんだいこの労作はほぼどれも皆な無視され続けているが、無視される期間が長ければ長いだけ、れんだいこの突出振りが後付けされるだけのことであり、いずれ誰かが追考証し、かの時点でかくも鮮やかに指摘していたれんだいこ観点の正しさを確認し称賛することになるだろう。宮顕論然り、角栄論然り、中山みき論然り、学生運動論然り、その他諸々。財宝の山が山積みされている。 もとへ。蘇我氏は、いわゆる神話時代を終えた頃より歴史に登場し、仏教受容を廻って物部氏と対立し排斥した後、「大化の改新」と云われる政変で蘇我馬子が宮中謀殺されるまでの間、蘇我稲目-蘇我馬子-蘇我蝦夷-蘇我入鹿に亙る約50年間の執政時代を迎え、歴史の舞台から消える。 この蘇我氏が、高天原王朝系の豪族か出雲王朝系の豪族か新たに韓半島からの渡来人なのか、それも百済系なのか新羅系譜の者なのかが分からない。その蘇我氏と天皇家が外戚関係に入ることができた事情も不明のままである。れんだいこは、このように設定するが、この設定の仕方そのものさえ獲得できていないように思われる。 れんだいこはこれまで、「記紀史観的大化の改新論」に何の違和感も覚えず過ごしてきた。それにより、「悪役蘇我氏論」的位置づけをしてきていた。しかし次第に、「記紀史観的蘇我氏論」に疑問を抱くようになった。聖徳太子との蜜月関係、天皇家との姻戚関係、聖徳太子晩年に於ける対立、没後の聖徳太子派への弾圧、大化の改新、天智王朝、壬申の乱、天武王朝、ポスト天武王朝への経緯を踏まえると、そこから見えて来るのはむしろ古代史に占める蘇我氏の原動力性であり、歴史の波に翻弄された姿である。 そういう折、関裕二氏の「蘇我氏の正体-日本書紀が隠そうとした真実」を手にした。一読後、れんだいこなりの蘇我氏考を立ち上げようと思った。既に関・氏が、「蘇我氏の出自は隠滅されている」、「蘇我氏は案外と出雲王朝系の系譜の正統嫡出子系譜の豪族なのではなかろうか」と立論している。れんだいこは、さもありなんと思う。但し、その先、れんだいこは、出雲王朝史を仮に原出雲、元出雲、スサノウ出雲、大国主出雲と区分しているが、関・氏はそのように立論していないので、蘇我氏が出雲王朝史のどの系譜に連ねようとしているのかまでは分からない。れんだいこは、これに挑戦して見ようと思う。 いずれにせよ、蘇我氏と物部氏の対立を、仏教受容を廻る確執とばかり捉えていては真相が見えてこない気がする。史実は、蘇我氏と物部氏も「大和王朝内非主流の出雲王朝系」であり、いわば同じ立場の二大豪族内の革新派と守旧派の対立、当時の大和王朝がそれほど出雲王朝化しつつあった史実内のできごと、として捉えるべきなのではなかろうか、と思い始めている。 それにしても、蘇我氏が新興勢力として台頭してきた背景事情が気になる。それがなぜ隠されているのかも気になる。そして、物部氏が葬られ、やがて蘇我氏も葬られるに至った背景が気になる。この辺り、史学界は解明し得ているのだろうか。こういう問題意識がない為に、そのスタートラインにも至っていないのではなかろうかと云う気がする。ならば、れんだいこが挑む。解明できるものでもあるまいが、ここにサイトを開設しておくことにする。追々深めて行きたいと思う。 2008.8.24日 れんだいこ拝 |
【蘇我氏の出自考その1、竹内宿禰末裔説】 |
古事記は、第8代孝元天皇の条で、建内宿禰(日本書紀では「竹内宿禰」、たけのうちすくね)につき記述している。建内宿禰は、孝元天皇と内色許男(うつしこお)の娘の伊か賀色許売命(いかがしこめのみこと)の間に生まれた比古布都押之信命(ひこふつおしのみこと)を父とし、木国造(きのくにのみやっこ)の祖・宇豆比古の妹の山下影日売(やましたかげひめ)を母とすると記述している。建内宿禰には9人の子(男7、女2)あり、蘇我氏がその末裔であるとしている。但し、日本書紀は、竹内宿禰は、孝元天皇と賀色許売命の皇子・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を祖父とすると記述している。但し、蘇我氏との繫がりについては全く記述していない。 その竹内宿禰は、古事記では成務、仲哀、応神、仁徳の4朝、神功皇后も入れれば五朝、日本書紀は、成務朝の前に景行朝も入れており、凡そ三百年の長期に亙って政務を執ったとしている。 |
【蘇我氏の出自考その2、渡来人説】 |
蘇我氏が大和王権の表舞台に登場してくるのは6世紀の初めで,それまで無名の人物であった。 5世紀前半の履中天皇2年冬10月の条、蘇我満智宿禰(そがのまちすくね)が国政に参加したとの記述がある。門脇禎二氏は、蘇我満智宿禰を応神天皇の御代に百済から渡来した高官の木満致(もくまんち)に比定し「蘇我氏渡来人説」を展開している。稲目の祖父は韓子(からこ)、父は高麗(こま)であることもそれを証しているとする。 「蘇我氏渡来人説」は他にも「新羅王子・天日ホコの末裔説」がある。そして、「天日ホコ=カヤ王子ツヌガアラシト説」もある。 これに対し、関裕二氏は、著書「蘇我氏の正体」の中で、1・入鹿神社の祭神が蘇我入鹿と出雲系のスサノウとしていること、2・スサノウを祀る社「素が社」と関係しているように思われること、3・蘇我も出雲も鬼伝説と繋がることに注目し、「蘇我氏出雲王朝の末裔説」を展開している。更に、建内宿禰を事代主神=言代主神とも比定している。 れんだいこは、蘇我氏は出雲王朝系の出自にして、或る時に渡来人系との婚姻により混淆したと考えている。 |
【蘇我氏の出自考その3、大和の畝傍山の北説】 |
蘇我氏の出身地は、大和の畝傍山の北、現在の奈良県橿原市曽我町あたりとされている。他に,大阪府の石川とする説もある。宗我坐宗我都比古神社(そがにいますそがつひこ、橿原市曽我町)や入鹿神社(橿原市今川町)等、曽我川など蘇我氏に関係ありそうな名が今に残っている。 蘇我氏が次に構えた居宅は、飛鳥の明日香村(奈良県高市郡明日香村)の嶋庄とされている。飛鳥地方には朝鮮半島,特に東漢氏(やまとのあやし)という百済からの渡来人たちが多く住み着いていた土地で、彼らと深くつながった形跡が認められる。 |
【蘇我稲目時代/蘇我氏台頭】 |
蘇我氏の台頭は、大和王朝創出期の豪族であった葛城氏や平群氏の没落と裏合わせであった形跡が認められる。生き残ったのは大伴氏、物部氏、蘇我氏であり三大勢力となった。やがて、大伴金村が失脚による大伴氏の没落。大連の物部尾輿と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力となる。 蘇我稲目は、天皇との縁戚政策を押し進める。これにより、天皇家の外戚となっていく。蘇我氏が天皇家と姻戚関係に入ることができた事情は、かなり重要な事であろうが解明されていない。れんだいこは、蘇我氏が出雲王朝の皇統譜に連なる出自故に可能となったのではないかと観る。 蘇我氏と天皇家との婚姻政策を確認しておく。1・稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)、小姉君(おあねのきが欽明天皇に嫁ぐ。2・堅塩媛の子の額田部(ぬかたべ)皇女が敏達天皇の后となる。額田部皇女は後の推古天皇。堅塩媛の子の大兄(おおえ)皇子が用明天皇。3・用明天皇は小姉君の子の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を后とする。4・その子が厩戸皇子(聖徳太子)。用明天皇は稲目の子の石寸名(いしきな)を夫人とする。5・小姉君の子の泊瀬部(はつせべ)皇子は崇峻天皇で馬子の娘の河上娘を妃とする。6・聖徳太子は馬子の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を夫人とする。7・舒明天皇は馬子の娘の法提郎媛(ほほてのいらつめ)を夫人とする。まず蘇我氏は、自家の女人を天皇に嫁がせることで、蘇我氏の息のかかった皇族、いわゆる蘇我系皇族を大量に生み出していきました。実際稲目は、2人の娘を天皇に嫁がせることで、18人の蘇我系皇族を生み出し(そのうちの11人は皇子)、なんとその中から3人の天皇を即位させることに成功しているのです。これによって蘇我氏はその発言力を、一気に高めていきました。 |
【蘇我馬子時代/蘇我氏一極体制確立】 |
稲目は欽明天皇とほぼ同時期に没し、二大勢力の構図は次代の蘇我馬子まで引き継がれる。 531年、百済本記に「継体天皇および太子、皇子が同時に死んだ」と記載されている。 536年、宣化即位の翌年、蘇我稲目が大臣になったとされている。4男3女の子があった。実際にはもっと多くの妻子がいたことであろう。隋書俀国伝では、王の後宮について、後宮有女六七百人(後宮には女性が六、七百人いる)と記載されている。 538(552年説もある)年、仏教が伝来する。受容を廻って、受容派の蘇我氏と守旧派の物部氏が対立する。570年、稲目が死去する。 572年、敏達即位のこの年、蘇我馬子が大臣になったとされている。敏達以降の大和王朝の皇統は馬子の挿げ替えに過ぎない。 584年、仏教受容を廻って蘇我氏対物部氏の対立が再燃する。 587年、蘇我氏と守旧派の物部氏が戦闘状態に入る。用明天皇没後、後継者をめぐる争いがあり、蘇我氏は、小姉君の子ながらも物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を暗殺し、戦いで物部守屋を討ち滅ぼすと、その後は大連に任じられる者も出ず、政権は蘇我氏の一極体制となる。この戦いには蘇我氏の血をひく14歳の廐戸皇子(うまやどのおうじ、後の聖徳太子)も蘇我氏側について戦っている。 日本最初の仏教寺院馬子は先進文化の仏教を基盤として廐戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)とともに国造りを行っていく。 588年、馬子は「仏教」を広めるため、約20年を要して飛鳥寺を建てた。 592年、蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺させ、蘇我稲目の孫にあたり,敏達(びだつ)天皇の妃であった炊屋姫(かしきやひめ)を推古天皇とした。推古天皇の宮は最初、豊浦宮(とゆらのみや)、後に小墾田宮(おはりだのみや)に移る。推古天皇の甥(おい)の聖徳太子が摂政となり、政治を行った。ここに、推古天皇-聖徳太子-蘇我馬子という蘇我氏の血族による権力集中の政治体制が確立した。以降、権力を欲しいがままにした、とされている。推古天皇への葛城県の割譲の要求、蝦夷(えみし)による天皇をないがしろにするふるまいが伝えられている。 600年、倭国は遣隋使を送っているが隋書俀国伝の倭王名は妻子のあるアメ・タリシヒコであり推古ではない。当時の権力者は、推古を除くと蘇我馬子と厩戸皇子(聖徳太子)以外にない。厩戸皇子は蘇我氏の一族で摂政。タリシヒコは蘇我馬子で、倭国の大王だったと考えられる。 609年、仏師の鞍作止利(くらつくりのとり)が飛鳥大仏を造営する。 |
【蘇我蝦夷時代/蘇我氏の隆盛】 |
皇極天皇の時代、蘇我蝦夷(えみし),蘇我入鹿(いるか)父子が朝廷での実権を握った。蝦夷は遣唐使を何度も派遣し,海外の文化を積極的に導入しようとした。大陸から遣唐使として唐で学び帰国した者たちの中には私塾を開く者もいて,そこに豪族たちの子弟が通って大陸の文化や知識を学んだ。入鹿はそこで学ぶ1人で、同塾生として中臣鎌足がいた。藤原氏の歴史書には「帰国した僧の私塾で入鹿が一番優秀だった」と書かれており、賢い人物であったことが裏付けられる。
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【蘇我入鹿時代/蘇我氏の絶頂】 |
642(皇極天皇元年)年、大臣・蘇我蝦夷の晩年、皇極天皇の即位に伴い、蘇我入鹿が父に代わって国政を掌理する。翌643(皇極天皇2).10.6日、父から独断で大臣を譲られる。 644(皇極天皇3).11月、蘇我蝦夷・入鹿は甘橿(あまかし)丘にそれぞれ居を構えた。蝦夷の邸宅は「上の宮門(みかど)」(「宮上の門」),入鹿の邸宅は「谷(はざま)の宮門」とよんだ。甘橿丘からは都を見下ろすようになり,天皇の住居も眼下に位置する。さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、さらに畝傍山に要塞を築いた。家の周りには柵がめぐらされ,火災に備えて水槽も置かれていた。門には武器庫があり,常時護衛が警護していた。まるで要塞のような邸宅だった。 |
【蘇我氏分家のその後】 |
蘇我氏宗本家は滅亡したが、蝦夷の弟・蘇我倉麻呂家が傍流として生き残っていく。倉麻呂の子・蘇我倉山田石川麻呂は、「乙巳の変」の際に中大兄皇子の協力者として関わっており、石川麻呂はその後右大臣に任じられ娘の遠智娘と姪娘を中大兄皇子の后にしている。 しかし、彼らの栄光も長続きはせず、連子は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去、赤兄ともう一人の弟・蘇我果安は壬申の乱で大友皇子につき、敗れてそれぞれ流罪・自害となった。その甥で、連子の子である蘇我安麻呂は、天武天皇の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、石川朝臣の姓氏を賜った。このように、乙巳の変後も倉麻呂の息子達が政治の中心的立場になおとどまったが、相次ぐ政争で失脚しつつ連子の系統のみがしばらく続く事になる。 |
【蘇我氏分家の衰退その1、次第衰退】 |
天武天皇没後、石川氏は次第に衰退していく。持統天皇、元明天皇は、それぞれ石川麻呂の娘、遠智娘と姪娘を母としていたが、蘇我赤兄の外孫である山辺皇女が持統天皇に排除された夫の大津皇子に殉死したり、文武天皇の妻の一人で、血縁者と言われている石川刀子娘が天皇崩御後、某男との関係を持った事からその身分を剥奪され、子の広成皇子・広世皇子も連座して皇族の身分を剥奪されると云う事件に巻き込まれている。刀子娘の事件は、異母兄弟の首皇子の競争相手を排除する目的があった藤原不比等・橘三千代夫婦の陰謀説がある。 |
【蘇我氏分家の衰退その2、藤原氏台頭】 |
蘇我氏は、この頃台頭してきた藤原氏に地位を奪われていく事になる。とはいえ、藤原不比等の正妻は安麻呂の娘である蘇我娼子(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合の母)であるからして血統的命脈は保たれていく。 |
【蘇我氏分家の衰退その3、藤原南家が藤原仲麻呂衰退による衰退】 |
蘇我氏の最後の生命線となっていた藤原南家が藤原仲麻呂の乱で衰退したことにより、石川氏も再び振るわなくなる。正四位上・参議の石川真守(年足の孫、馬子の7代孫)を最後に公卿は出なくなり、歴史から姿を消す事になる。 |
篠川 賢「欽明朝と蘇我氏の登場」。 | |
▶︎継体の死と「辛亥の変」 | |
継体紀25年(531)2月丁未条には、継体はこの時に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で崩じ、享年82であったと記している。そして、同年12月庚子条の分注には、或る本では継体は継体28年(甲寅(こういん)年=534年)に崩じたとするが、ここに継体25年(辛亥年531年)に崩じたとしたのは、百済本記に、「辛亥年に日本の天皇と太子・皇子がともに亡くったと聞いた」と書かれているからである、と記している。安閑紀によれば、継体は臨終の際に安閑に譲位したとされ、安閑元年の干支は甲寅(534年)にあたるとしている。したがって、上の分注にいう或る本の伝えが、本来の日本側の伝えであったことがわかる。日本書紀編者は、百済本記の記載によって本来の伝えを訂正したが、安閑元年の干支そのままにしたため、継体から安閑への継承は、臨終の際の譲位としながらも、二年の空位があるいう矛盾が生じてしまったのである。一方、古事記によれば、継体の崩年干支は丁未(ていび)とあり、これは527年に相当する。また、継体の享年は43としており、日本書紀のいずれの所伝とも異なつている。継体の死をめぐつては不明な点が多いが、百済本記に「辛亥年に日本の天皇と太子・皇子がもに亡くなつたと聞いた」とあるのが事実の伝えであったならば、それは尋常なことではない。こを「辛亥の変」と名づけ、継体の死にあたっては、何らかの政変があったとする説がある。それに対し、百済本記の伝えは誤伝であり、政変は存在しなかったとする説もある。この議論は、継体死後、二朝が併立したとする説や、内乱状態にあったとする説と、直接関係する議論である。 | |
▶︎二朝併立説と内乱説 | |
日本書紀によれば、継体の死が辛亥年(531年)であっても、甲寅年(534年)であっても、それを受けて即位したのは安閑とされる。しかし、「仏教公伝」の年代について、上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)(平安時代中頃にまとめられた聖徳太子の伝記集)や元輿寺縁起(がんこうじえんぎ)(747(天平19)年に元輿寺=飛鳥寺が政府に提出した寺の縁起。ただし現存の縁起がこれに相当するか否か疑問も出されている)は、欽明7年の戊午(ぼご)年(538年)としており、これによれば、欽明元年は532年ということになる。すなわち、日本書紀本文にいう継体の死去年(511年)が正しく、右の二書の伝えも正しいとするならば、継体の死を受けて即位したのは、安閑で山なく欽明であったということになる。 このような、年代上の混乱を説明するために提出されたのが、二朝併立説である。この説によれば継体の死後、一時期、欽明と安閑・宣化の二朝が併立したとするのである。二朝併立説は早く戦前から唱えられていたが、これを発展させ、継体・欽明朝を国家形成上重要な画期をなした内乱期であたと位置付けたのが林屋辰三郎である。林屋によれば、531年、辛亥の変によって継体が死去し、蘇我氏に擁立された欽明が即位したが、それに反対した大伴氏を中心とする勢力が、534年、安閑を擁立し、安閑の死後は宣化を擁立した。しかし539年、宣化の死により、欽明に統一されたというのである。 宣化天皇 生没年不詳。記紀によれば第28代の天皇。6世紀前半に在位。武小広国押盾(たけおひろくにおしたて)天皇ともいう。継体(けいたい)天皇の第2子。母は目子媛(めのこひ …日本大百科全書)。 林屋説を基本的に承認する説は、今日においても有力であるが、年代の混乱は、それぞれがよりどころとした暦の違いにすぎないとする説もある。上官聖徳法王帝説などに伝える年代も、必ずしも信憑性の高いものではない。「辛亥年(531)に日本の継体天皇と太子・皇子がともに死去したと聞いた」という百済本記の記事をいに考えるかという問題は残るが、継体の死後、安閑・宣化そして欽明へと王位が継承されていったする記紀の伝えは、年月の細部はともかくとして、事実と認めてよいのではないかと思う。 |
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▶︎蘇我氏の登場 | |
安閑即位前紀によれば、安閑の即位とともに、大伴金村と物部麁鹿火(もののべのあらかび)が従来どお大連に任命されたという。大連については後述するが、金村と麁鹿火が、継体の即位を支え、磐井の乱を鎮圧したことなどによって台頭し、安閑朝の執政官的職(地位)についたことは、事実と認めてよいと思う。安閑は、安閑2年(635)12月に死去し、次いで同母弟の宣化が即位したとされる。宣化紀元年(536)2月朔条には、
とある。これは、蘇我稲目が日本書紀に登場する最初の記事であり、稲目は突然「大臣」として登場する。また、大臣という職(地位)も、実際には稲目に始まるとみるのが普通である。 蘇我氏は、武内宿禰(12代景行から16代仁徳までの五代にわたって執政官として仕えたとされる伝承上の人物)の後裔氏族の一つであり、武内宿禰の子の蘇我石川宿禰を祖とする。蘇我氏の系譜は、石川宿禰の子が満智(まち)、満智の子が韓子(からこ)、韓子の子が高麗(こま)、そして高麗の子が稲目(いなめ)と続くが、高麗までの人物については実在性が乏しく、実際の蘇我氏の初代は稲目とみるべきであろう。もちろん、稲目の父祖は実在し、蘇我氏の前身集団も存在したのであるが、大王に仕える集団(ウヂ)としての蘇我氏は、稲目に始まるということである。 日本の古代における氏(うじ、ウジ)とは、男系祖先を同じくする同族集団、すなわち氏族を指す。家々は氏を単位として結合し、土着の政治的集団となった。さらに、ヤマト王権(大和朝廷)が形成されると、朝廷を支え、朝廷に仕える父系血縁集団として、氏姓(うじかばね)制度により姓氏(せいし)へと統合再編され、支配階級の構成単位となった。 |
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▶︎蘇我氏の出自 | |
蘇我氏の出自については、渡来人説や、5世紀に有力であった葛城一族の勢力を継承した一族とする説など、諸説がある。渡来人説においては、応神紀25年条に百済の権臣(けんしん。権力をもった臣下)として登場する木満致(もくまち)と、蘇我満智を同一人とみるのであり、葛城説においては、推古記32年(624)10月朔条に、蘇我馬子が天皇に「葛城県(かつらぎあがた)」は自分の「本居」であるから領有を認めてほしいと願い出たが拒否された、という記事のあることに注目するのである。 ほかにも、もともと蘇我(奈良県橿原市)の地を本拠としていた一族であるという説や、本拠地は河内の石川(大阪府南河内郡)にあったとする説もある。 古語拾遺(平安時代の初め、斎部広成(いんべのひろなり)によって編集された斎部氏の活躍を中心に述べた歴史書)には、雄略朝に大蔵(おおくら)が建てられ、斎蔵(いみくら)・内蔵・大歳の三蔵を蘇我満智が検校(管理)したという話が載せられている。この話をそのまま事実の伝えとみることはできないが、蘇我氏が朝廷の財政管理にあたっていたこと、またその実務を担当した渡来人との関係が深く、渡来系氏族を掌握して台頭していったことなどは、事実と認めてよいであろう。 稲目が突然大臣として登場する事情も明確ではないが、これについては、稲目の一族(蘇我氏の前身集団)が、それまでは王権に従属していなかった一族であり、しかも当時の最有力の豪族であったため、王権が最高位を与えるという待遇をもって臣下に組み込んだ、ということが考えられるのではなかろうか。 <余談> ここで思い出されるのが、天皇陛下の「ゆかり発言」だ。2002年の日韓ワールドカップを前にして、陛下は次のように発言されている(朝日新聞 2001年12月23日より)。
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▶︎大伴金村の失脚 | |
欽明即位前紀によれば、宣化4年(539)10月の宣化天皇(せんかてんのう、467-539年)の死去をうけて、同年2月に欽明が即位したとされる。欽明は、継体と仁賢の娘の手白香皇女との間に生まれた子であり、継体の多くの子のなかで、特別な位置にあったとみてよい。 欽明もまた、宣化の娘の石姫皇女を皇后(大后)に立て、欽明の次は、その間に生まれた敏達(びだつ)が王位を継承していくのである。このことは、欽明の血統が王統として固定化されていったことを示すものとして注意される。 欽明即位前紀には、欽明の即位とともに、もとのとおり、大伴金村と物部尾輿(もののべのおこし)を大連、蘇我稲目を大臣に任命したと記されている。もとのとおりとあるが、物部尾興が大連に任命されたという記事はこれが最初である。物部麁鹿火(もののべのあらかび)は、宣化元年7月条にその薨去(こうきょ・皇族・三位(さんみ)以上の人が死亡すること)記事が載せられているから、その後、尾興が麁鹿火にかわって大連に任命されていたのであろう。 また大伴金村については、欽明紀元年(540)9月己卯条に、物部尾輿(もののべのおこし)らから、かつて「任那四県の割譲」を行ったことを非難され、住吉(すみのえ・大阪府大阪市)の宅に引退したと記されている。大伴金村の失脚を示す記事であるが、この記事については、なぜ欽明元年の段階で突然、30年近く前の朝議の責任が問われるのか不審であり、「任那四県の割譲」と金村の失脚とは直接の因果関係はないとの指摘もある。 しかし、継体紀6年12月条には、百済に割譲を認める旨を伝える勅使の役を物部麁鹿火が辞退したという話や、金村が百済から賄賂を受け取ったという流言の話も載せられている。これらの話も事実としては疑わしいが、このような話がわざわざ金村失脚の伏線として語られていることからすると金村が外交問題で失脚し、そこに物部氏との対立があったということは事実と考えてよいと思う。 継体・欽明朝の内乱を認める立場からは、金村失脚の理由として、安閑・宣化と結んだ大伴氏と、欽明と結んだ蘇我氏との対立があったとするが、右の記事からすれば、大伴氏と物部氏の対立を想定する方が妥当であろう。 |
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▶︎「仏教公伝」 | |
欽明紀13年(壬申(じんしん)年=552年)10月条には、百済の聖明王が使いを遣わして、「釈迦仏(しゃかほとけ)の金銅堂像1軀(かねのみかたひとはしら)・幡蓋若干(はたきぬがさそこら)・経論若干巻(きょうろんそこらのまき)」を献上してきたとの記事がある。いわゆる「仏教公伝」である。同じことは、上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起にも述べられており、そこでは、欽明天皇の戊午(ほご)年(538年)のこととして伝えられている。戊午年は、日本書紀によれば宣化3年にあたり、この違いが、二朝併立説の根拠にもなっていることは先に述べた。
「仏教公伝」の年次をめぐつては、多くの議論が重ねられてきたが、いまだ決着はついていない。欽明紀13年10月条には、聖明王からの手紙も引用されており、その文章には、唐の義浄が長安3女(703)に訳した金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)に基づいた表現がある。したがって、その記事に、日本書紀編纂段階の潤色のあることは明らかである。しかし、それだからといって、戊午年(538年)が正しいということにはならない。 「仏教公伝」の年次をめぐつては、多くの議論が重ねられてきたが、いまだ決着はついていない。欽明紀13年10月条には、聖明王からの手紙も引用されており、その文章には、唐の義浄が長安3女(703)に訳した金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)に基づいた表現がある。したがって、その記事に、日本書紀編纂段階の潤色のあることは明らかである。しかし、それだからといって、戊午年(538年)が正しいということにはならない。 欽明紀は、百済本記に基づいて書かれたと推定される外交記事が大半を占めるのであり、13年10月条も、そのもとになった記事が百済本記に基づく記事であった可能性は否定できない。そぅであるならば、年次も壬申年(552年)に従うのが妥当ということになろう。年次はともかく、欽明朝に百済の聖明王が仏像・経論などを伝えてきたということは、両者に共通する内容であり、事実を伝えたものとみてよいであろう。隋書倭国伝にも、「仏法を敬す。百済にぉいて仏経を求得し、始めて文字あり」と書かれている。 |
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▶︎仏教の伝来とその意味 | |
仏教の伝来を示す記事としては、扶桑略記(ふそうりゃっき)」(平安時代末、延暦寺の僧の皇円によって著された歴史書。仏教の記事が多い)に、渡来人の司馬達等(鞍作鳥・くらつくりのとり・祖父)が継体16年(522)に草堂を営んで仏像を礼拝したとあるのが、もっとも古い記事である。この記事の信憑性にも問題はあるが、「仏教公伝」以前にも、渡来人の一部に私的な信仰があったとして不思議ではない。聖明王によって仏像・経論などが倭政権のもとに送られてきたのは、単に仏教を伝えるというのではなく、倭に軍事援助を要請する見返りとしての意味を持つものであった。 先に、継体7年(513に百済から五経博士の段楊爾が送られてきたのは、「任那4県の割譲」を倭が承認したことに対する見返りと考えられると述べた。五経博士についてはその後も、継体紀10年9月条に、段楊爾の交代として公安茂(こうあんも)が送られてきたとあり、欽明紀15年(55 4)2月条に、王柳貴(おうりゅうき)が馬丁安(ばちょうあん)の交代として送られてきたとある。 五経博士とは儒教の博士のことであり、「五経」は、易経・書経・詩経・春秋・礼記を指す。中国では大学の教官を五経博士と呼んだが、百済は南朝の梁からこの制度を学び、さらにそれを倭に伝えたのである。仏教も、梁から百済に伝えられたのであり、6世紀の倭は、中国と直接の交渉は持たなかったが、百済をとおして中国の先進文化に触れることができた。 また、欽明紀15年2月条には、易博士・暦博士・医博士なども、交代のために送られてきたとされている。当時百済からは、五経博士だけではなく、様々な博士が交代で恒常的に倭政権のもとけ送られてきていたのである。これらもまた、軍事援助の見返りであり、百済からすれば、それらの博士には、外交官という性格もあったのであろう。 経論(きょうろん) 仏教の三蔵(=経・律・論)の中の、経(=仏説を文学的に表現したもの)と論(=経の内容を論理的に述べたもの)。 目的は政治的なものであったとしても、「仏教公伝」が、その後の倭の文明化にとって、大き興味を持ったことは間違いない。百済から送られてきた金銅の仏像は、先進文化を象徴するものとして、倭の支配者層に強い印象を与えたであろうし、経論は、『隋書』倭国伝の記事に示されるとおり、漢文を学ぶための重要なテキストになったのである。 |
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▶︎「崇仏論争」 | |
欽明紀十三年十月条には、「仏教公伝」の記事に続けて、次のような記事も載せらている。
いわゆる「崇仏(すうぶつ。仏をあがめる)論争」記事である。この記事にも金光明最勝王経が利用されており、日本書紀編者の潤色(じゅんしょく。うわべや表現を(面白く)つくろい飾ること)のあることは明らかである。同様の内容の記事は、敏達紀14年(585)2月六月条にも載せられており、崇仏の主体は蘇我稲目から蘇我馬子に、排仏の主体は物部尾輿・中臣鎌子から物部守屋・中臣勝海(かつみ・六月条の或本(わくほん・ある本)では物部守屋・大三輪逆(おおみやのさかう)・中臣磐余(なかとみのいわれ)に変わっているが、話の大筋は同じである。また、用明紀2年(587)4月丙午(ひのえうま)条にも、天皇の仏教帰依について、物部守屋・中臣勝海は反対し、蘇我馬子は賛成したとの記事が載せられている。 これらの記事については、表現に潤色があるばかりではなく、記事内容そのもの(すなわち「崇仏論争」の存在そのもの)も疑わしいとするのが、今日では一般的な見方である。物部氏の建てたと推定される寺院の跡(大阪府八尾市の渋川廃寺)も発見されており、このことも、物部氏を排仏派とする記事の信憑性を疑わせる理由になっている。蘇我氏を崇仏派=開明派、物部氏を排仏派=旧守派として、両者の対立の理由をこの点に求める説は、今日でもなお広く行われているが、両者の対立の理由は、別のところに求めるべきであろう。 |
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▶「任那日本府と任那復興会議 | |
日本書紀にいう「仏教公伝」の年(552年)の前後は、朝鮮半島における情勢が大きく変化した時期であった。さかのぼつて、金官国が新羅に降伏したのは532年であったが、その後、倭政権は、「任那復興」(金官国など新羅に併合された伽耶諸国の復興)を方針とし、それを実現するための拠点を安羅(あら・残る南伽耶地域の最有力国)に置いたと考えられる。欽明紀に登場する「任那旦府」は、その拠点を指すとみるのが妥当であろう。「任那日本府」という語は日本書紀編者の造語と考えられるが、それは、倭政権から派遣された倭臣と、現地の倭系の人物から構成されていた。 日本書紀によれば、当時は、倭人の男性と百済人・伽耶人の女性との間に生まれた「韓子(からこ)」と呼ばれる人々が多くいて、そのなかには百済の官人となり、倭に遣わされてきた人物も少なくなかったとされる。そしてそれらの百済官人の名や、「任那日本府」の倭臣の名からすると、倭から派遣されたのは、物部・紀(き)・許勢(こせ)・河内・吉備(きび)などの氏(ウヂ)の人物であったことが知られる。「任那日本府」を、倭政権から独立した存在とみる説もあるが、「任那日本府」の行動が安羅や新羅などの意向に影響されることはあったにせよ、それは、基本的には倭政権の方針に従ったその出先機関であったとみてよいであろう。 百済の聖明王は、この倭政権の方針を、表向きでは支持し、541年と544年の二度にわたって「任那復興会議」を開催している。会議に招集されたのは、大伽耶・安羅・「日本府」などの官人であり、それぞれの思惑に違いがあったため、会議による進展は得られなかったようである。 |
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▶︎「任那」(伽耶諸国)の滅亡 | |
またその頃になると、高句麗で新たな動きが生じた。545年に大規模な政変がおこり、陽原王(在位545〜559年)が即位し、百済北辺への圧力をかけてきたのである。545年、百済の聖明王は新羅の真輿王(しんこうおう・在位540〜576年。新羅は540年、法輿王が死去して真輿王が即位し、この裏輿王の時代に、さらに国力を充実させ、領土を大幅に拡張した)と結んで高句麗と戦い、これを撃退し、550年には逆に攻勢に転じた。そして翌年、旧都の漢城の地(京畿道広州)を取り戻し、さらに平壌(南平壌、今のソウル)を討った。しかし、この高句麗と百済の戦いに乗じて、新羅が侵攻し、結局は新羅がこの地域を領有することになった。 こうしたなかで、聖明王は新羅との戦いを覚悟し、552年以降、頻繁に倭に援軍を要請してきたのである。倭もこれに応じて出兵したが、554年七月、聖明王は新羅との戦いに敗れて戦死した。その後、百済では、聖明王の子の威徳王(在位554〜598年)が即位し、引き続き倭との藤携をはかったが、勢力を挽回するには至らなかった。 百済との戦いに勝利した新羅は、まもなく安羅など残された南部伽耶諸国を制圧し、562年に大伽耶を降伏させ北部伽耶地域も支配下におさめた。ここに「任那」(伽耶諸国)は滅亡したので⊥る。欽明紀23年(562)正月条に、「新羅、任那の宮家を打ち滅しつ」とあり、その分注に、「一本に云はく、21年に、任那滅ぶといふ」とあるのは、このことを指している。 |
(私論.私見)