中臣氏考 |
(最新見直し2008.8.24日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2008.8.24日 れんだいこ拝 |
【中臣氏の系譜】 |
代表的古代豪族の一つである中臣氏(なかとみうじ)は、高天原王朝系の天児屋(アメノコヤネ)の命を祖とする。これによれば天津神系と云うことになる。元々は「卜部(占部)姓」で途中から中臣姓になったのだとも云われている。天児屋(アメノコヤネ)の命は、記紀神話上、天の岩屋戸の前で祝詞を奏上する神
、また天孫降臨に際し、五伴緒(いつとものお)の一人として布刀玉命、天宇受売命らと天降ったと記されている神である。 中臣氏人物列伝として次のような人物が挙げられる。天児屋根命(あめのこやね)、天押雲(あめのおしくも)、宇佐津臣(うさつおみ)、大御気津臣(みけつおみ)、国摩大鹿島(くにうずおおかしま)、雷大臣(いかつおおみ)、忍見(おしみ)、中臣鎌子、中臣勝海(?-587)、稗田阿札()、中臣鎌足(614-669)、卜部兼方(?-?)、吉田兼好(1283-1350?)、吉田兼倶(1435-1511)等々。
この一族は、律令制度の2官八省の内の格式で言えば実務の太政官に対する祭政の神祇官のトップを常に握っていた。神社関係の総元締め的地位に位置していたことになる。この神祇官の長官を神祇伯と云う。但し相当する位階は太政官に比し低く、神祇伯でも従四位下であった。ちなみに太政官に属する太宰帥でも従三位相当職である。
伊勢神宮の祭主家・大宮司、鹿島神宮大宮司、香取神宮大宮司、枚岡神社社家、気比神社宮司、平野神社、梅宮神社、吉田神社宮司家、春日大社社家、松尾大社社家などが関係する。 鎌倉時代に京都「吉田神社」の関係者であった「徒然草」の作者「兼好法師」もこの系譜の者である。中臣氏、大中臣氏の一部及び卜部氏の一部は、公家として奈良・京都で藤原氏を強く支えてきた氏族でもある。その中でも最も有名なのは大中臣氏の嫡流である藤波家である。また一方伊勢神宮内宮の禰宜職を世襲した「荒木田氏」も中臣氏と同じ流れの神別氏族として有名である。 伊勢外宮の禰宜職「度会氏」は中臣氏とは別流の神別氏族である。大三輪氏・出雲氏・宗像氏なども神を祀る氏族として有名であるが出雲系で別系である。 |
【中臣家入れ替わりの可能性】 | ||||||||
「古代豪族」の「23.中臣氏・大中臣氏考(含:卜部氏)」は次のように記している。
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【中臣鎌足の出自】 |
藤原鎌足(ふじわらのかまたりの生没年は、614(推古天皇22)年-669(天智天皇8).10.16日。飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖。中臣氏の一族で、初期のころには中臣鎌子と名乗っていた。その後中臣鎌足となる。645年、中大兄皇子(天智天皇)と共に蘇我馬子を斬殺し、大化の改新の立役者となる。以降、中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍した。藤氏家伝には「偉雅、風姿特秀」と記されている。死の直前、臨終に際して、大織冠とともに藤原姓を賜った。これにより、彼自身が生きていたころを指す場合は中臣鎌足を用い、藤原氏の祖として彼を指す場合には藤原鎌足を用いる。字は仲郎。鎌足は不比等の父で、藤原氏繁栄の礎を築いた。 なお、欽明天皇朝で、仏教受容問題で蘇我氏と対立し、物部尾輿と共に排仏をおこなった中臣鎌子とは全く別人である。 614(推古天皇22)年、父を中臣御食子(なかとみのみけこ)、母を大伴夫人(大伴囓子の娘)の長子として誕生。中臣も大伴も共に高天原王朝系であることが注目されても良いと思われる。 「多武峯縁起絵巻」には、鎌足が生まれるときに、どこからか鎌をくわえた白い狐が現われ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」(のちの鎌足)と名づけたと描かれている。このエピソードにちなみ、談山神社では鎌をくわえたかわいい白狐のお守りが売られている。 出生地は、藤氏家伝は大和国高市郡藤原(現在の橿原市)としている。大鏡は、常陸国鹿島としている。摂津の三嶋付近とする説もある。三嶋は、継体の樟葉宮が営まれた地であり、真の継体陵と云われる今城塚古墳もこの地に所在する。強い関係が有ると思われる。 |
【「乙巳の変」までの歩み】 |
早くから中国の史書に関心を持ち、六韜(りくとう)を暗記した。隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くと、儒教を学び、そこでは蘇我入鹿とともに秀才とされた。 628.3.7日、推古天皇は皇嫡を指名せずに没した。有力な皇位継承者は田村皇子と山背大兄王となり、最高実力者大臣・蘇我蝦夷は蝦夷の姉妹の法堤郎媛が田村皇子田村皇子の妃であった事と、二人の間の皇子(古人皇子)を皇位に就ける事を願い、田村皇子が天皇になる事を望んだ。そこで山背大兄王を推すグループのボスである蘇我一族の有力者境部摩理勢を誅滅し、強引に田村皇子を舒明天皇としたのである。 642.1.15日、舒明天皇没後、蘇我蝦夷は再び山背大兄王を退けて、舒明天皇の皇后であった宝皇女を即位させた。当然山背大兄王と蘇我蝦夷の間には険悪な空気が流れ始めた。この様な時代背景の中、643年11月1日蘇我入鹿は山背大兄王の斑鳩宮を急襲し、王の一族を殲滅した。蘇我入鹿はこの事件により、権力の集中と皇位継承という難問を一度に解決した。つまり王は、権力集中を急ぐ蘇我氏の犠牲となったのである。 644(皇極天皇3)年、日本書紀によると、中臣氏の家業であった神祗伯祭官につくことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づく、 同年、飛鳥寺の西の大槻の下で蹴鞠が催された時に、飛んでいった中大兄皇子の靴を鎌足が拾い上げ差し出したことで、二人は運命の出会いを果たした、と伝えられている。二人は、南淵請安(みなみぶちのじょうあん)の元で儒学を学び、その行き帰りの道すがら、打倒蘇我氏の計画を練ったとも云われている。 また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。 三韓(高句麗・百済・新羅)進貢の日が蘇我入鹿暗殺の日と決まった。 |
【「乙巳の変」】 | |
645(皇極天皇3).6.12日、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。 この日、蘇我入鹿は紫冠(大臣の冠)を付けて飛鳥板葺宮に入廷した。天皇が正殿に出御して進貢の儀式が始まると、中大兄皇子は宮廷の諸門の閉鎖を命じ、みずから楯を手にして宮殿の陰に身を隠し、鎌足は弓矢を取って皇子の護衛にあたった。石河麻呂が三韓の上表文を読んでいる間に子麻呂と網田が蘇我入鹿に斬りかかる手筈になっていたが、両名は入鹿の威勢に恐れをなして現れない。ついに中大兄皇子がみずから飛び出して子麻呂らと共に入鹿の頭肩と足に斬りつけた。入鹿は玉座のもとに転び行き救いを求めた。驚いた天皇は中大兄皇子にわけをただすと、中大兄皇子は入鹿が皇位を傾けようとしているとして次のように述べた。
聞き終わった天皇は玉座をおりて宮殿の奥に姿を消した。子麻呂と網田が入鹿にとどめをさした。古人大兄皇子が乙巳の変の現場に居合わせ、私邸に逃げ帰り、嘆き発した言葉です。「韓人が入鹿を殺した!胸が張り裂けそうだ!」。ここで云う韓人とは誰か。中臣鎌足と推定される。 その後、直ちに中大兄皇子は法興寺を城として立て籠もり、蘇我氏の反撃に備え、皇族・貴族の多くは中大兄皇子側についた。しかし、帰化氏族の雄「漢」氏は蘇我氏を助けようとしたが中大兄皇子の使者に説得され、武装を解いて引き上げた。孤立した蝦夷は、翌日邸宅に火を放ち自殺し、ここに蘇我氏本宗家は滅亡した。(このとき船恵尺が火中より「国記」を取り出し、中大兄皇子に献じた。) 時に、中大兄皇子は20歳、鎌足は32歳であった。蝦夷が自殺した翌日の14日、中大兄皇子の叔父の軽皇子が皇極天皇より譲位されて孝徳天皇となり、中大兄皇子は皇太子に立った。次に阿倍内麻呂を左大臣、蘇我石河麻呂を右大臣、鎌足を内臣、僧(みん)と高向玄理を国博士に任じ、大化改新への第一歩を踏み出した。 |
【大化の改新】 |
同6.14日、乙巳の変の翌日には皇極天皇が退位し、弟の軽皇子(天万豊日尊(あめよろずとよひ)、孝徳天皇)が即位する。安倍内麻呂臣や蘇我倉山田石川麻呂が左大臣や右大臣とされる中、鎌足も大錦の冠位をうけるとともに中臣の位と封(へひと)と呼ばれた食封も加増される。 乙巳の変から間もない9.12日、吉備笠臣垂(きびのかさおみのしだる)という人が、「古人大兄皇子が謀反を企てています。私もその仲間に加わっていたのです」と讒言し、中大兄皇子はすぐさま兵を挙げ、古人大兄皇子を攻め殺害する。 649(大化5).3月、梯麻呂・蘇我倉山田石川麻呂が死去。中大兄皇子-中臣鎌足の絶対権力が確立した。 その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我(倉山田)石川麻呂と対立した。647年の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を握った。ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。 この頃、大化改新が断行される。1・年号を大化とする。2・大和六県(むつあがた)の造籍・校田を命じる。3・仏教隆盛の詔を発し、十師と寺司・寺主・法頭を任命する。4・難波長柄豊碕宮に遷都する(中国情勢・朝鮮半島情勢に的確に対応するため、軍事・外交の要地への遷都) 大化改新の詔を発布した。1・旧来の私地・私民をやめ、代わりに大夫に食封、以下の官人・百姓に布はくを賜る。2・京師・畿内・国司・郡司などの地方行政組織と、駅馬・伝馬の制を定める。3・戸籍・計帳、班田収授の法を定める。4・旧来の賦役をやめ、新しい税制を行う。 |
653(白稚4)年、孝徳天皇は即位に際し、都を飛鳥から大阪平野の難波に遷都していたのですが、皇太子の中大兄皇子は、孝徳天皇の姉である前帝の皇極天皇および孝徳天皇の妻・間人皇后等をひきいて、飛鳥へ都を遷してしまう。孝徳天皇は完全に孤立し難波に取り残され、怒りのうちに死んでいく。結局、孝徳天皇は、白雉五年(654年)、難波の宮で孤独な死をとげました。 |
655年、皇極上皇が再び斉明天皇として復活する。中大兄皇子は鎌足の勧めで、その身を影において君臨する。斉明政権は知謀鎌足の後ろ盾により政権基盤は磐石なものとなり、百済と深い関係を有す左右大臣の巨勢氏、大伴氏のもと極めて親百済的海外政策を執る。 当時の東アジア情勢は、朝鮮半島の南部、西に百済(くだら)、東に新羅(しらぎ)、北には北方騎馬民族である高句麗(こうくり)。大陸には隋がひかえていた。しかし隋王朝が滅び唐となり、朝鮮半島で新羅が勢力を拡大し出すと、各国のバランスは一気に崩れ始める。新羅は勢力拡大を狙って百済に攻め込む。同じ頃、高句麗は朝鮮半島を手中に収めようと南下政策を開始、新羅侵略を目論む。百済は、新羅の侵略に対抗すべく、高句麗と同盟関係を結ぶ。一方新羅は、高句麗の侵略に対抗すべく、唐に同盟を呼びかける。唐は新羅と手を組む。ここに、百済・高句麗連合軍と、唐・新羅連合軍の争いが勃発する。 中大兄皇子と中臣鎌足は、親百済政策を開始した。それは日本が、唐・新羅連合軍に宣戦布告したことを意味する。660年、百済が、新羅・唐連合軍の攻撃を受け滅亡。斉明天皇は、百済復興をかけて百済王子豊璋を百済へ送り届けるため、中大兄皇子や大海人皇子などを伴い筑紫へと向かい、福岡県の朝倉宮に移る。661(斉明7)年、斉明天皇は筑紫の朝倉宮で崩御。 662年、中大兄皇子は称制に就任、阿曇連比羅夫を将軍とし豊璋を伴って朝鮮半島へと向かわせる。滅亡した百済の残党に復興支援を呼びかけられると、中大兄皇子は無謀にも全軍を率いて、唐・新羅連合軍に戦争をしかけた。 663(天智2)年、百済・倭の連合軍は新羅・唐の連合軍に惨敗する。中大兄皇子政権は大打撃を被る。 |
667年、中大兄皇子は近江へ遷都。 668年、中大兄皇子は即位して天智天皇となる。天智天皇は日本最初の律令である「近江令」を制定する。 |
669(天智8).10.15日、死の直前に、天智天皇が見舞うと、「生きては軍国に務無し」と語った。すなわち、私は軍略で貢献できなかった、と嘆いている。日本書紀によれば、天智天皇から大織冠(後の正一位。臣下最高の左大臣の、さらに上に位する超名誉職)を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。 670(天智9).9.6日、山階舎(やましなのてら、興福寺の前身)で火葬され、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祭られる。平安時代中ごろ成立と見られる「多武峯略記」などに「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。 鎌足の業績ははっきりしていない。『藤氏家伝』には近江令の編纂を命じられたとされているが、これを疑問視する研究者も多い。 |
蘇我氏に呼び出された時は仮病だったようだが、病気では、けっこう長期休暇をとっていた。なかなか治らないので、加持祈祷の僧を呼んではおおがかりに療養していたが、それでも回復せず、役小角の呼んできてやっと治してもらったという話もある。 |
正妻は鏡王女(?-683)(最初、中大兄皇子妃であった)。妻は車持与志古娘。長男は定恵(俗名、真人)(644-665)(僧侶)、次男・不比等(659-720)(『尊卑分脈』による。なお『興福寺縁起』では不比等の母は鏡王女とされている)。娘は、氷上娘(ひかみのいらつめ)(?-682)(天武天皇夫人、但馬皇女の母)、五百重娘(いおえのいらつめ)(天武天皇夫人、後に不比等の妻 新田部親王・藤原麻呂の母)、耳面刀自(みみもとじ、みみものとじ)(弘文天皇夫人、壹志姫王の母)、斗売娘(とめのいらつめ、とねのいらつめ)(中臣意美麻呂室、中臣東人の母)。 |
中臣氏の中でも鎌足の子供「不比等」の流れのみが「藤原氏」を称することになった。 |
(私論.私見)
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