継体天皇考

 (最新見直し2008.4.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2006.12.3日、2008.4.7日再編集 れんだいこ拝


【継体天皇考】
 現在の天皇陛下の血統を遡ると、第26代継体天皇が一番古い。その前の天皇と継体天皇は血統が断絶している。継体天皇は、福井の豪族だった。天皇の血統が途切れてしまい、誰が次の天皇にふさわしいかということになり、大伴氏や物部氏が継体天皇を推薦したとされる。

 継体天皇は、即位した後も奈良の地に入らず、桂川、木津川、淀川の河川交通の要に3度にわたって宮を築き、それが古代の謎とされる。奈良の旧勢力を警戒したからと説明される。異説として、継体天皇の即位後の新羅討伐に注目する説がある。新羅は朝鮮半島の新興国で、継体天皇が即位した西暦500年頃、中国王朝が、国境を接する高句麗対策として新羅を支援した。新羅は、その南の日本の大陸における出先機関であった任那の地を圧迫し、支配下に置いた。この任那を取り返すための戦いが、その後、ずっと続いていく。継体天皇が急遽、即位することになったのは、当時のこの国際関係が関係しているように思われる。

 日本古代史上における福井という場所の意味。1000年前、紫式部の父親、藤原為時は、地方に赴任することになり、最初は、淡路島の予定だったが、淡路は嫌だと泣いて天皇にすがったため、気の毒に思った天皇のはからいで福井となり、とても喜んだという。なので、紫式部は少女時代、福井の地で過ごした。なぜ福井の方がよかったのか。福井の地というのは、新羅と日本を結ぶ場所である。朝鮮半島の西南の百済は、九州を通じて日本と交流したが、朝鮮半島の東中部の新羅は、対馬海流の影響で、九州ではなく丹後、若狭あたりが日本上陸の地となる。継体天皇が、河川交通の要に宮を築いた理由も、水上交通と関係していて、島国の日本が朝鮮半島や大陸と交流したり戦ううえで、水上交通の知恵と経験と技術がある勢力が、重要な役割を果たしていた。大陸からの新しい知識や技術も、海上交通を通じて日本にもたらされたのだから、福井は、古代から最先端の文化を誇る地であった。だからこそ、紫式部の父親は、福井への赴任を喜んだのではないか。

 関 裕二「消えた出雲と継体天皇の謎」(学研M文庫)。

 6世紀初頭、新たな王(継体天皇)が日本海側から現れ、ヤマトに迎えられた。継体天皇には、実は出雲の影が色濃く刻まれていた。日本書紀は執拗に出雲の影と東の人脈を消し去ろうとしている。それはなぜなのか。その怪しげな出自から「王朝交代説」も囁かれている。正史が抹殺しようとした歴史の闇を気鋭の歴史作家が解き明かす!
 目次
第1章 継体天皇と日本海(「婿入り」だった?継体天皇;継体天皇は古代日本史のヘソ ほか)
第2章 継体天皇と大伴氏・尾張氏(神武と継体の即位にかかわった大伴氏;継体天皇即位のいきさつ ほか)
第3章 出雲と継体天皇(なぜ天皇家は出雲神を恐れ続けたのか;出雲神に媚びる人々 ほか)
第4章 継体天皇と磐井の乱(復活した日本海;蘇我氏と継体天皇のつながりほか)
第5章 継体天皇の正体(「東」を仮想敵国とみなした八世紀の朝廷;継体の王家は断絶していた?ほか)

【百済の聖明王の使者が海石榴市(つばいち)で仏教伝来】
 552年、百済の聖明王の使者が大和川を遡上し海石榴市(つばいち/奈良県桜井市)で、釈迦仏の金銅像や経典を献上し日本に仏教が伝来した云々。

【百済から暦博士(こよみはかせ)固德王保孫(ことくおうほうそん)が渡来】
 554年、日本に百済から暦博士(こよみのはかせ)固德王保孫(ことくおうほうそん)が渡来した(日本書紀)。日本書紀の記載はそのころ「春秋暦」から現在の「正歳四節暦」に切り替わっている。




(私論.私見)