大山祇大社考

 (最新見直し2011.09.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2011.09.07日 れんだいこ拝


【石上神社譚】
 奈良県天理市布留町384に布留(都)御魂大神(布都御魂大神叉は布都斯御魂大神とも記す)を主祭神とする石上神社がある。古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。布留の長男の宇摩志麻治命、五十瓊敷命(イニシキニミコト)、白川天皇、木事命(コゴトノミコト)、市川臣命(イチカワノオミノミコト)と八神おられ、この八神を鎮魂する為に、1081年に、白川天皇がじきじき参拝し、始められた。鎮魂するということは、祟りを恐れているから鎮魂する訳で、何故、この八神の祟りを恐れたのか、史実でははっきりしない。

 奈良時代の末期に編纂された4500首にのぼる万葉集の歌の中で、袖ふる山として歌われている。聖徳太子と蘇我馬子によって、滅ぼされた物部氏の本拠地であったと伝えられている。

 
主祭神として布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)・布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)・布都斯御魂大神(ふつしみたまのおおかみ)。配祀として五十に敷命(いにしきのみこと)・宇摩志麻治命(うましめじめみこと)・白川天皇・市川臣命(いちかわのおみのみこと)。旧社格は官幣大社。

 古事記・日本書紀に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。神武天皇が大和朝廷を開く前にこの地を治めていた大王であったニギハヤヒ−ナガスネヒコ王朝の古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。

 古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。 また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのか興味深い。

 武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣とされている布都御魂剣が奉納されている。この剣は、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、天津神から高倉下の手を通して天皇の元に渡った。その後、物部氏によって宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀った。

 この石上神宮で、毎年11月22日に鎮魂祭が催される。この鎮魂祭の神事は、「一二三四五六七八九十」(ひふみよ いむなや こと)、「ふるへ ふるへ ゆらゆらとふるへ」と、現在の日本語の数の読み方である、「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、と」の語源になっている呪文を唱えつつ、「布留部 布留部 由良由良都布留部」と石上神宮の保存している国宝の「十種の神宝」を持って、呪文を唱え、生命の長寿を祈る。
第二十九章 石上神宮の不思議な呪文」参照

 略史は次の通り(出典参照は、大野七三著「古事記、日本書紀に消された皇祖神ニギ速日大神の復権」)。
 概要「石上神社は日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放っている。主祭神は布都御魂大神であり、ご神体は神代の昔、武甕雷(たけみかづち)の神が帯びておられた神剣『ふつの霊(みたま)』で『平国之剣』(くにむけのつるぎ)である。と云う。

 記紀によれば、神武天皇御東遷の折に天降られ、邪神を破り国土を平定された御偉功により、天皇御即位の後、勅により物部氏の遠祖に当たる宇摩志麻治の命が宮中に奉祀された。この時、宇摩志麻治の命が御父のニギ速日の尊から継承された天璽(あまのしるし)十種瑞宝(とぐさのたから)も一緒に奉祀されたと云う。

 その後、崇神天皇7年に至り、勅命によって物部氏の祖の伊香色雄の命が、ふつの霊(みたま)と十種瑞宝を石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)にお遷(うつ)しして奉祀したのが石上神社の創祀で、以後物部氏が代々神宮の祭祀を預かることになった。

 創祀以降、スサノウの尊がヤマタノオロチを退治するのに用いられた天十握剣(あまのとつかのつるぎ)も祀られて、我が国古代の霊剣は全て石上神社に祀られることとなった」云々。







(私論.私見)