皇族の万葉歌 |
(最新見直し2011.8.25日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、万葉集の皇族歌について確認しておく。 2011.8.28日 れんだいこ拝 |
【雄略天皇】 | ||
巻1(1)。万葉集の巻頭を飾るの御製歌。この歌は長歌になっている。長歌とは、5、7、5、7、5、7…と適当な長さで続けていき、最後を7、7で締める歌のことを云う。
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【舒明(じょめい)天皇】 | ||
巻1(2)。万葉集巻一の二番目に収録されている、舒明(じょめい)天皇の国見の歌。
天の香具山(あまのかぐやま)は大和三山の一つに数えられ、現在では香久山とも書く。その昔、天から降りてきた山ともいわれる大和で最も格式の高い山である。 |
【中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)】 | ||
巻1(3)。天皇の、宇智(うち)の野に遊猟(みかり)しましし時に、中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまへる歌。
この歌の大君は舒明天皇。この長歌は舒明天皇が宇智の野で猟りをされていたとき、中皇女の間人老をして献上した歌ということになっている。つまり中皇女の間人老はこの猟りの場所にはいなくて、他の場所(飛鳥の宮?)から宇智で猟りをする天皇のことを詠ったことになる。中皇女、間人老については同じ人物のことを指すのかまたは二人の人物なのかなどはっきりとしたことは分かっていないが、中皇命とは次の天皇の中継ぎとして立つ皇女という意味で皇后か皇女のことになり、ひとりの人物と解釈するなら中大兄皇子の娘の間人皇女あたりかとも言われている。 |
【中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)】 | ||
巻1(4)。天皇の、宇智(うち)の野に遊猟(みかり)しましし時に、中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまへる歌。
この歌は先の巻1(3)の歌につけられた反歌。作者はおそらく長歌と同じく中皇女の間人老。「たまきわる」は宇智にかかる枕詞で「魂の極まる命(うち)」といった意味を持つ。現代語訳してしまっては単純な一首であるが、この歌に込められた深い「想い」を感じ取ることができる。 |
【中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)】 | ||
巻1(13)。中大兄皇子(なかつおほえのみこ)〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕の三山(みやま)の歌一首
中大兄皇子(なかつおほえのみこ)は後の天智天皇のこと。この長歌は大和三山(やまとさんざん)といわれる三つの山、天の香久山(あまのかぐやま)、耳成山(みみなしやま)、畝傍山(うねびやま)の伝説を詠ったものです。大和三山は藤原京を囲むように三角形の位置に並んでいる。まさに三角関係。 |
【中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)】 | ||
巻1(14)。中大兄皇子(なかつおほえのみこ)の三山の歌、巻一(十三)に付けられた反歌のうちのひとつ。
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【中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)】 | ||
巻1(15)。こちらも中大兄皇子(なかつおほえのみこ)の三山の歌、巻一(十三)に付けられた反歌のうちのひとつ。
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【額田王(ぬかだのおおきみ)】 | ||
巻1(16)。天皇の、内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原朝臣に勅(みことのり)して、春山の万花(ばんくわ)の艶(にほひ)と秋山の千葉(せんえふ)の彩(いろどり)とを競(きそ)わしめたまひし時に、額田王の、歌を以(うた)ちて判(ことわ)れる歌。天智天皇(中大兄皇子)が藤原鎌足(中臣鎌子)に勅し、春山の花の咲きほこる様と秋山の彩とを競わせたとき額田王(ぬかたのおほきみ)が答えて詠った歌
春と秋のどちらがよいかを競わせるお話は源氏物語にも出てくるが、はるか万葉集の昔からあったことになる。額田王は最初春を称えておきながら最後に秋を選んでいる。額田王(ぬかたのおほきみ)は女性で、はじめ中大兄皇子(なかつおほへのみこ、後の天智天皇)の弟の大海人皇子(おほしあまのみこ、後の天武天皇)の妻で一女を生んでいるが、後に天智天皇の妻になっている。 |
【額田王(ぬかだのおおきみ)】 | ||
巻1(17)。額田王の近江国(おふみのくに)に下りし時に作れる歌、井戸王(ゐのへのわふきみ)のすなはち和(こた)へたる歌。この歌は天智天皇が都を近江に移すときに、住み慣れた大和の都を離れ、いままで自分たちを護ってくれていた三輪山のご加護からも離れていく寂しさと不安を、額田王(ぬかたのおほきみ)が詠ったものと言われている。
大和盆地の東にひっそりと鎮座する三輪山。神秘的な風貌の三輪山は、大名主(おほなのぬし)と呼ばれる白蛇が住む山として古事記にも有名。ご神体はなく山全体が神仏として崇められている。額田王は、三輪山に対して、土地を離れてもどうかこれからも見護っていてほしいとの祈りの言葉を捧げている。 |
【額田王(ぬかだのおおきみ)】 | ||
巻1(18)。先の額田王の長歌に付けられた反歌です。この歌も作者は額田王。
大和盆地の東にひっそりと鎮座する三輪山。神秘的な風貌の三輪山は、大名主(おほなのぬし)と呼ばれる白蛇が住む山として古事記にも有名。ご神体はなく山全体が神仏として崇められている。額田王は、三輪山に対して、土地を離れてもどうかこれからも見護っていてほしいとの祈りの言葉を捧げている。 |
【額田王(ぬかだのおおきみ)】 | ||
巻1(20)。天皇の、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまひし時に、額田王の作れる歌。
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【額田王(ぬかだのおおきみ)】 | ||
巻1(21)。皇太子の答へませる御歌〔明日香宮に天の下知らしめしし天皇、謚(おくりな)して天武天皇にといふ〕
この歌は先に紹介した額田王の「あかねさす…」の歌に答えて大海人皇子(おほしあまのみこ 後の天武天皇)が詠んだ歌。 |
巻1(23)。
麻続王(をみのおほきみ)は伝承不詳の人物で、罪があって稲葉の国に配流になったと云われている。その麻続王の流離譚をモチーフに、誰かによって詠われたもののひとつと思われる。「打つ麻を」は「打って柔らかくした麻」から「麻」を引き出す枕詞。 |
巻1(24)。麻続王これを聞きて感傷して和(こた)へたる歌。
「うつせみの」は「命」を引き出す枕詞。 |
巻1(25)。天武天皇(かつての大海人皇子)の作で、壬申(じんしん)の乱に関係する物語歌といわれている長歌。
壬申の乱とは、六七二年、皇位継承を巡って、大海人皇子が吉野に隠棲し、その後、兄の天智天皇の子である弘文天皇(大友皇子)の近江朝廷を倒して、天武天皇となるまでの戦い。額田王の「味酒 三輪の山…」のところで紹介したように、天智天皇によって近江に遷された都が、この壬申の乱のあと再び奈良の大和に戻される。天武天皇が自分がまだ大海人皇子(おほしあまのみこ)だったころ、皇位継承を巡る争いの中で近江を去り、奈良の吉野にこもる道中を回想して詠ったものといわれている。耳我の峰とは吉野の金峯山のことか。その峯に絶え間なく降るといわれる雪や雨のように、曲がり角ごとに絶え間なく物思いをしながらその山道を来たという。後に兄の子である弘文天皇の近江朝廷に反乱を起こすことにもつながる隠棲の道中なわけなので、胸中の複雑さが知られる。 |
巻1(27)。天武天皇の吉野の宮に幸(いでま)しし時の御製歌(おほみうた)。
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巻1(28)。百人一首にも取られている持統天皇(女性の天皇です)の有名な一首、持統天皇の御製歌(おほみうた)。
百人一首や新古今和歌集では「春過ぎて夏来(き)にけらし白妙(しろたへ)の衣乾(ころもほ)すてふ天(あま)の香具山」となっているが、これは平安時代の歌の好みに合わせて詠い変えられたもの。 |
巻1(32)。高市古人(たけちのふるひと)の近江の旧堵(きゅうと)を感傷して作れる歌〔或る書に云はく、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)といへり〕
天武天皇の壬申(じんしん)の乱によって近江朝廷は敗れ、都は再び大和の飛鳥地方(奈良県)に戻される。この歌はその後に古びてしまった近江の都へ立ち寄った高市古人が、繁栄していた昔の近江を思い出し感傷にふけり詠んだものとみなされている。 |
巻1(33)。
この歌も先の歌と同じく、力を失い衰退してしまった都の地霊を慰める鎮魂歌のようなもの。 |
巻1(35)。背の山を越えし時に、阿閉皇女(あへのひめみこ)の作りたませる御歌。阿閉皇女(あへのひめみこ)は草壁皇子の妻。この歌は夫を亡くした翌年に紀州(和歌山)を訪れたさいに詠まれたものといわれている。
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巻1(38)。この歌は持統天皇が吉野の宮に行幸したとき、同行した柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)が詠んだものだといわれている。
持統天皇(ぢとうてんわう)は天武天皇(てんむてんわう)の妻で、天武天皇が亡くなった後即位する。ほんとうは持統天皇は自分の子である草壁皇子(くさかべのみこ)を天皇にしたかったようで、姉の子である大津皇子を謀殺したりと無益な血も流したようですが、結局、草壁皇子は病弱で即位できずに亡くなってしまったため、持統天皇が即位することになりました。 宮廷歌人・柿本人麿(かきのもとのひとまろ)の歌はこれが万葉集の中で一番最初に出てくる歌である。 |
巻1(39)。この歌は先に紹介した巻一(三十八)の柿本朝臣人麿の長歌に付けられた反歌。
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巻1(43)。當麻真人麿(たぎまのまひとまろ)の妻が旅に出た夫を案じて詠んだ一首。
隠(なばり)は今の三重県名張市。 |
巻1(45)。軽皇子(かるのみこ)の阿騎の野に宿りましし時に、柿本朝臣人麿の作れる長歌。
軽皇子(かるのみこ)は草壁皇子(くさかべのみこ)の子。 |
巻1(46)。この歌は先の巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちのひとつ。
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巻1(47)。この歌も巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちのひとつ。
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巻1(48)。この歌も巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちのひとつ。
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巻1(49)。この歌は巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちの最後の一首。
日並皇子とは草壁皇子のことで、太陽と並ぶ皇子という皇太子の意味。その日並皇子(草壁皇子)が馬を並べて出猟されたかつての時刻がもうすぐやって来る…そして同じように今度はその子である軽皇子が出猟するのだと詠っているわけです。なんとも連作の最後を締めるに相応しい見事な一首ですが、もちろんこの歌も単なる過去を想い出している感傷歌の類のものではありません。 |
巻1(51)。この歌は志貴皇子(しきのみこ)の作で、非常に有名な一首の一つ。
志貴皇子は天智天皇の子。壬申の乱で大海人皇子が勝利し、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位したのち、京は藤原京へと遷された。この歌は京が遷されたのち、志貴皇子がかつての宮だった明日香を訪れて詠んだもの。 |
巻1(54)。この歌は坂門人足(さかとのひとたり)の作で、大宝元年(701年)の秋、持統天皇が文武天皇とともに紀伊国の「紀の牟婁(むろ)の湯」(白浜温泉)に行幸したとき、同行した坂門人足が詠んだ歌。
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巻1(55)。この歌は先に紹介した巻一(五十四)の歌とおなじく持統天皇が文武天皇とともに紀伊国の「紀の牟婁(むろ)の湯」(白浜温泉)に行幸したとき、調首淡海(つぎのおびとあふみ)が詠んだ作といわれている。
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(私論.私見)