皇族の万葉歌

 (最新見直し2011.8.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、万葉集の皇族歌について確認しておく。

 2011.8.28日 れんだいこ拝


【雄略天皇】
 巻1(1)。万葉集の巻頭を飾るの御製歌。この歌は長歌になっている。長歌とは、5、7、5、7、5、7…と適当な長さで続けていき、最後を7、7で締める歌のことを云う。
 籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも
 籠(かご)よ 美しい籠を持ち 箆(ヘラ)よ 美しい箆を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ 君はどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ 僕こそ名乗ろう 家柄も名も

 

舒明(じょめい)天皇
 巻1(2)。万葉集巻一の二番目に収録されている、舒明(じょめい)天皇の国見の歌。
 大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 
 大和には多くの山があるけれど とりわけ立派な天の香具山 その頂に登って大和の国を見渡せば 土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ 池には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ ほんとうに美しい国だ この蜻蛉島大和の国は

 天の香具山(あまのかぐやま)は大和三山の一つに数えられ、現在では香久山とも書く。その昔、天から降りてきた山ともいわれる大和で最も格式の高い山である。


中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)
 巻1(3)。天皇の、宇智(うち)の野に遊猟(みかり)しましし時に、中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまへる歌。
 やすみしし わご大君 朝(あした)には とり撫でたまひ 夕(ゆふへ)には い縁(よ)せ立たしし 御執(みと)らしの 梓(あずさ)の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり 朝猟(あさかり)に 今立たすらし 暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし 御執(みと)らしの 梓の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり
 わが天皇が朝には手に取ってお撫でになり、夕方にはお取り寄せになって立たれるご愛用の梓の弓の中弭に響く音が聴こえてくるようです。朝猟りにいま立たれたようです。夕猟りにいま立たれたようです。ご愛用の梓の弓の中弭の響きが聴こえてきます。

 この歌の大君は舒明天皇。この長歌は舒明天皇が宇智の野で猟りをされていたとき、中皇女の間人老をして献上した歌ということになっている。つまり中皇女の間人老はこの猟りの場所にはいなくて、他の場所(飛鳥の宮?)から宇智で猟りをする天皇のことを詠ったことになる。中皇女、間人老については同じ人物のことを指すのかまたは二人の人物なのかなどはっきりとしたことは分かっていないが、中皇命とは次の天皇の中継ぎとして立つ皇女という意味で皇后か皇女のことになり、ひとりの人物と解釈するなら中大兄皇子の娘の間人皇女あたりかとも言われている。

【中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)】
 巻1(4)。天皇の、宇智(うち)の野に遊猟(みかり)しましし時に、中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまへる歌。
 たまきはる宇智の大野(おほの)に馬並(な)めて朝踏ますらむその草深野(くさふかの)
 魂の極まる命)宇智の広々とした野に馬を連ねて朝に踏んでおられるでしょう、その草深い野を

 この歌は先の巻1(3)の歌につけられた反歌。作者はおそらく長歌と同じく中皇女の間人老。「たまきわる」は宇智にかかる枕詞で「魂の極まる命(うち)」といった意味を持つ。現代語訳してしまっては単純な一首であるが、この歌に込められた深い「想い」を感じ取ることができる。

【中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)】
 巻1(13)。中大兄皇子(なかつおほえのみこ)〔近江宮に天の下知らしめしし天皇〕の三山(みやま)の歌一首
 香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそひき 神世(かみよ)より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき
 香具山は 畝傍山を妻にしようとして 耳梨山と争ったそうだよ 神代からそうであったらしいよ 昔からそうだったから いまでも畝傍山を妻にしようと 耳梨山と争ってるんだってさ

 中大兄皇子(なかつおほえのみこ)は後の天智天皇のこと。この長歌は大和三山(やまとさんざん)といわれる三つの山、天の香久山(あまのかぐやま)、耳成山(みみなしやま)、畝傍山(うねびやま)の伝説を詠ったものです。大和三山は藤原京を囲むように三角形の位置に並んでいる。まさに三角関係。

【中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)】
 巻1(14)。中大兄皇子(なかつおほえのみこ)の三山の歌、巻一(十三)に付けられた反歌のうちのひとつ。
 香具山と耳梨山(みみなしやま)とあひし時立ちて見に来し印南国原(いなみくにはら)
 香具山と耳梨山が争ったとき それを止めようと阿菩(あぼ)の大神が 印南国原まで来たんだってさ


【中皇命(なかすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)】
 巻1(15)。こちらも中大兄皇子(なかつおほえのみこ)の三山の歌、巻一(十三)に付けられた反歌のうちのひとつ。
 わたつみの豊旗雲(とよはたぐも)に入日射(さ)し今夜(こよひ)の月夜(つくよ)さやけかりけり
 海の上をたなびく雲に夕日が射して輝いている うん 今宵の月は清らかであってほしいものだなあ

【額田王(ぬかだのおおきみ)】
 巻1(16)。天皇の、内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原朝臣に勅(みことのり)して、春山の万花(ばんくわ)の艶(にほひ)と秋山の千葉(せんえふ)の彩(いろどり)とを競(きそ)わしめたまひし時に、額田王の、歌を以(うた)ちて判(ことわ)れる歌。天智天皇(中大兄皇子)が藤原鎌足(中臣鎌子)に勅し、春山の花の咲きほこる様と秋山の彩とを競わせたとき額田王(ぬかたのおほきみ)が答えて詠った歌
 冬ごもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来鳴(きな)きぬ 咲(さ)かざりし 花も咲けれど 山を茂(も)み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉(もみじ)をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎(なげ)く そこし恨(うら)めし 秋山われは
 冬が過ぎて春になると いままで鳴かなかった鳥も来て鳴きます 咲かなかった花も咲きます でも山は茂りあっていて入って手にも取れないですよね 草も深く手折って見ることも出来ないですよね 一方 秋の山は木の葉を見るに付け 黄葉を手に取っては賞賛し まだ青いまま落ちてしまった葉を手に取って また地面に置いては歎いてしまいます そんな一喜一憂する 心ときめく秋山こそ 私は好きです

 春と秋のどちらがよいかを競わせるお話は源氏物語にも出てくるが、はるか万葉集の昔からあったことになる。額田王は最初春を称えておきながら最後に秋を選んでいる。額田王(ぬかたのおほきみ)は女性で、はじめ中大兄皇子(なかつおほへのみこ、後の天智天皇)の弟の大海人皇子(おほしあまのみこ、後の天武天皇)の妻で一女を生んでいるが、後に天智天皇の妻になっている。

【額田王(ぬかだのおおきみ)】
 巻1(17)。額田王の近江国(おふみのくに)に下りし時に作れる歌、井戸王(ゐのへのわふきみ)のすなはち和(こた)へたる歌。この歌は天智天皇が都を近江に移すときに、住み慣れた大和の都を離れ、いままで自分たちを護ってくれていた三輪山のご加護からも離れていく寂しさと不安を、額田王(ぬかたのおほきみ)が詠ったものと言われている。
 味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山 あをによし 奈良の山の 山際(ま)に い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや
 味酒の三輪の山を 青土の美しい奈良の山々の間に 隠れてしまうまで何度でも 道の曲がり角ごとにしみじみと 振り返って見てゆこうと思っているこの山を 心なくも雲よどうか隠さないでいてね

 大和盆地の東にひっそりと鎮座する三輪山。神秘的な風貌の三輪山は、大名主(おほなのぬし)と呼ばれる白蛇が住む山として古事記にも有名。ご神体はなく山全体が神仏として崇められている。額田王は、三輪山に対して、土地を離れてもどうかこれからも見護っていてほしいとの祈りの言葉を捧げている。

【額田王(ぬかだのおおきみ)】
 巻1(18)。先の額田王の長歌に付けられた反歌です。この歌も作者は額田王。
 三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠さふべしや
  三輪山をどうしてこのように隠すのですか せめて雲だけでも心あってほしいものです 隠さないでいてくださいね

 大和盆地の東にひっそりと鎮座する三輪山。神秘的な風貌の三輪山は、大名主(おほなのぬし)と呼ばれる白蛇が住む山として古事記にも有名。ご神体はなく山全体が神仏として崇められている。額田王は、三輪山に対して、土地を離れてもどうかこれからも見護っていてほしいとの祈りの言葉を捧げている。

【額田王(ぬかだのおおきみ)】
 巻1(20)。天皇の、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまひし時に、額田王の作れる歌。
 あかねさす紫野(むらさきの)行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る
 茜色の あの紫草の野を行き その御料地の野を歩いてるとき 野の番人は見ていないかしら ああ あなたそんなに袖を振ふらないでよ

【額田王(ぬかだのおおきみ)】
 巻1(21)。皇太子の答へませる御歌〔明日香宮に天の下知らしめしし天皇、謚(おくりな)して天武天皇にといふ〕
 紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
 紫草のように香れる君がもし憎かったなら いまは兄の妻の君を どうして恋い慕うことがあるものか

 この歌は先に紹介した額田王の「あかねさす…」の歌に答えて大海人皇子(おほしあまのみこ 後の天武天皇)が詠んだ歌。

 巻1(23)。
 打つ麻(そ)を麻続王海人(をみのおほきみあま)なれや伊良虞(いらご)の島の玉藻刈(たまもか)ります
 打った麻を績(う)む麻海人(をみのおほきみ)は海人なのかな いやいやそんなはずはないのに 伊良碁(いらご)の島の玉藻をわびしく刈ってらっしゃるよ

 麻続王(をみのおほきみ)は伝承不詳の人物で、罪があって稲葉の国に配流になったと云われている。その麻続王の流離譚をモチーフに、誰かによって詠われたもののひとつと思われる。「打つ麻を」は「打って柔らかくした麻」から「麻」を引き出す枕詞。

 巻1(24)。麻続王これを聞きて感傷して和(こた)へたる歌。
 うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈りをす
 儚いこの命を惜しみ 浪にぬれてはわたくしは 伊良虞の島のこの玉藻を刈り そして食べているのです

 「うつせみの」は「命」を引き出す枕詞。

 巻1(25)。天武天皇(かつての大海人皇子)の作で、壬申(じんしん)の乱に関係する物語歌といわれている長歌。
 み吉野の 耳我(みみが)の峰に 時なくそ 雪は降りける 間(ま)なくそ 雨は零(ふ)りける その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を
 吉野の耳我の山には 時知れず雪が降るという 絶え間なく雨が降るという その雪や雨の絶え間ないように 道を曲がるたびに 物思いを重ねながら その山道を辿ってきたことだよ

 壬申の乱とは、六七二年、皇位継承を巡って、大海人皇子が吉野に隠棲し、その後、兄の天智天皇の子である弘文天皇(大友皇子)の近江朝廷を倒して、天武天皇となるまでの戦い。額田王の「味酒 三輪の山…」のところで紹介したように、天智天皇によって近江に遷された都が、この壬申の乱のあと再び奈良の大和に戻される。天武天皇が自分がまだ大海人皇子(おほしあまのみこ)だったころ、皇位継承を巡る争いの中で近江を去り、奈良の吉野にこもる道中を回想して詠ったものといわれている。耳我の峰とは吉野の金峯山のことか。その峯に絶え間なく降るといわれる雪や雨のように、曲がり角ごとに絶え間なく物思いをしながらその山道を来たという。後に兄の子である弘文天皇の近江朝廷に反乱を起こすことにもつながる隠棲の道中なわけなので、胸中の複雑さが知られる。

 巻1(27)。天武天皇の吉野の宮に幸(いでま)しし時の御製歌(おほみうた)。
 よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ
 昔のりっぱな人が、よき所としてよく見て「よし(の)」と名付けたこの吉野。りっぱな人である君たちもこの吉野をよく見るがいい。昔のりっぱな人もよく見たことだよ

 巻1(28)。百人一首にも取られている持統天皇(女性の天皇です)の有名な一首、持統天皇の御製歌(おほみうた)。
 春過ぎて夏来(きた)るらし白妙(しろたへ)の衣乾(ころもほ)したり天(あま)の香具山(かぐやま)
 春も終わり夏がやってきたようですね 天の香具山に(神祭りの)純白の衣が乾されているのが見えますよ

 百人一首や新古今和歌集では「春過ぎて夏来(き)にけらし白妙(しろたへ)の衣乾(ころもほ)すてふ天(あま)の香具山」となっているが、これは平安時代の歌の好みに合わせて詠い変えられたもの。

 巻1(32)。高市古人(たけちのふるひと)の近江の旧堵(きゅうと)を感傷して作れる歌〔或る書に云はく、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)といへり〕
 古(いにしへ)の人にわれあれやささなみの古(ふる)き京(みやこ)を見れば悲しき
 古い時代の人間だからか私は、楽浪の近江の旧都を見ると心がいたむことだよ。

 天武天皇の壬申(じんしん)の乱によって近江朝廷は敗れ、都は再び大和の飛鳥地方(奈良県)に戻される。この歌はその後に古びてしまった近江の都へ立ち寄った高市古人が、繁栄していた昔の近江を思い出し感傷にふけり詠んだものとみなされている。

 巻1(33)。
 ささなみの国つ御神の心(うら)さびて荒れたる京見(みやこみ)れば悲しも
 楽浪の地の神の御心も衰えて、荒廃に帰してしまったこの都を見ると、ほんとうに悲しいことだなあ。

 この歌も先の歌と同じく、力を失い衰退してしまった都の地霊を慰める鎮魂歌のようなもの。

 巻1(35)。背の山を越えし時に、阿閉皇女(あへのひめみこ)の作りたませる御歌。阿閉皇女(あへのひめみこ)は草壁皇子の妻。この歌は夫を亡くした翌年に紀州(和歌山)を訪れたさいに詠まれたものといわれている。
 これやこの大和(やまと)にしてはわが恋ふる紀路(き)にありといふ名に負(お)ふ背(せ)の山
 紀州路にあると聞いてかねて大和で心ひかれていた背の山。ああ、これこそその名にそむかぬ背の山だわ。

 巻1(38)。この歌は持統天皇が吉野の宮に行幸したとき、同行した柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)が詠んだものだといわれている。
 やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳(たたな)はる 青垣山(あおがきやま) 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみじ)かざせり 逝(ゆ)き副(そ)ふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると 上(かみ)つ瀬に 鵜川(うかわ)を立ち 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依(よ)りて仕ふる 神の御代かも
 わが天皇が、神そのものとして、神々しくおられるとして、吉野川の流れ激しい河内に、見事な宮殿を高くお作りになり、そこに登り立って国土をご覧になると、何層にも重なる青い垣根のごとき山では、山の神が天皇に奉る貢ぎ物として、大宮人らは春には花を挿頭(かざし)に持ち、秋になると紅葉を頭に挿しているよ。
宮殿をめぐって流れる川の神も、天皇の食膳に奉仕するというので、大宮人らは上流には鵜飼いを催し、下流には網を渡して魚を捕っているよ。
ほんとうに、山も川もこぞってお仕えする神たる天皇の御代だなあ。

 持統天皇(ぢとうてんわう)は天武天皇(てんむてんわう)の妻で、天武天皇が亡くなった後即位する。ほんとうは持統天皇は自分の子である草壁皇子(くさかべのみこ)を天皇にしたかったようで、姉の子である大津皇子を謀殺したりと無益な血も流したようですが、結局、草壁皇子は病弱で即位できずに亡くなってしまったため、持統天皇が即位することになりました。

 宮廷歌人・柿本人麿(かきのもとのひとまろ)の歌はこれが万葉集の中で一番最初に出てくる歌である。

 巻1(39)。この歌は先に紹介した巻一(三十八)の柿本朝臣人麿の長歌に付けられた反歌。
 山川も依(よ)りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも
 山の神も川の神も一丸となって仕え従う現人神(あらひとがみ)の天皇は、神そのものとして、いま激流ほとばしる河内に船出されようとしておられるよ

 巻1(43)。當麻真人麿(たぎまのまひとまろ)の妻が旅に出た夫を案じて詠んだ一首。
 わが背子は何処(いづく)行くらむ奥(おき)つもの隠(なばり)の山を今日か越ゆらむ
 私の夫はどのあたりを旅しているかな。きっと遠い彼方の隠の山を今ごろは越えているころでしょう。

 隠(なばり)は今の三重県名張市。

 巻1(45)。軽皇子(かるのみこ)の阿騎の野に宿りましし時に、柿本朝臣人麿の作れる長歌。
 やすみしし わご大君 高照らす 日の御子(みこ) 神ながら 神さびせすと 太敷(ふとし)かす 京(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 真木(まき)立つ 荒山道(あらやまみち)を 石(いわ)が根 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さりくれば み雪降る 阿騎(あき)の大野に 旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿(たびやど)りせす 古(いにしへ)思ひて
 阿騎(あき)の野に宿る旅人打ち靡(なびき)き眠(い)も寝(ぬ)らめやも古思(いにしへおも)ふに
 ま草(くさ)刈る荒野にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにし君が形見(かたみ)とそ来(こ)し
 東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ
 日並皇子(ひなみしのみこ)の命(みこと)の馬並(な)めて御猟(みかり)立たせし時は来向かふ
 わが大君、高く輝く日の御子、皇子は神そのものとして神々しく、立派に君臨されている京(みやこ)を後にして、隠(こも)り国の泊瀬(はつせ)の山の真木(まき)が茂り立つ荒々しい山道を、岩や木々を押し分けて坂鳥の鳴く朝にお越えになり、玉の輝くような夕暮れになると、雪の降る阿騎の大野に旗薄や小竹を押しのけて、草を枕の旅宿りをされている。懐かしき父の想い出を胸に。

 軽皇子(かるのみこ)は草壁皇子(くさかべのみこ)の子。

 巻1(46)。この歌は先の巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちのひとつ。
 阿騎(あき)の野に宿る旅人打ち靡(なびき)き眠(い)も寝(ぬ)らめやも古思(いにしへおも)ふに
 阿騎の野で夜を過ごす旅人は、心しずかに寝入ることが出来るだろうか。いや、出来はしないよ、これほど昔のことが思い出されるというのに。
 

 巻1(47)。この歌も巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちのひとつ。
 ま草(くさ)刈る荒野にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにし君が形見(かたみ)とそ来(こ)し
 騎の野は草を刈るしかない荒野だけれど、黄葉のように去っていった君の形見としてまたやって来たんだよ。
 

 巻1(48)。この歌も巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちのひとつ。
 東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ
 東の野の果てに曙光がさしそめて、振り返ると西の空には低く下弦の月が見えている。
 

 巻1(49)。この歌は巻一(四十五)の柿本朝臣人麿の長歌につけられた人麿自身作による四首の反歌のうちの最後の一首。
 日並皇子(ひなみしのみこ)の命(みこと)の馬並(な)めて御猟(みかり)立たせし時は来向かふ
 日並皇子の命が馬を連ねて出猟なさったあの暁の時刻が、今日もやって来るのだ。

 日並皇子とは草壁皇子のことで、太陽と並ぶ皇子という皇太子の意味。その日並皇子(草壁皇子)が馬を並べて出猟されたかつての時刻がもうすぐやって来る…そして同じように今度はその子である軽皇子が出猟するのだと詠っているわけです。なんとも連作の最後を締めるに相応しい見事な一首ですが、もちろんこの歌も単なる過去を想い出している感傷歌の類のものではありません。

 巻1(51)。この歌は志貴皇子(しきのみこ)の作で、非常に有名な一首の一つ。
 采女(うねめ)の袖吹きかえす明日香風(あすかかぜ)都を遠みいたづらに吹く
 采女の袖を明日香の風が吹きかえしているよ。いまはもう京も遠くなりむなしく吹くことだなあ。

 
志貴皇子は天智天皇の子。壬申の乱で大海人皇子が勝利し、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位したのち、京は藤原京へと遷された。この歌は京が遷されたのち、志貴皇子がかつての宮だった明日香を訪れて詠んだもの。

 巻1(54)。この歌は坂門人足(さかとのひとたり)の作で、大宝元年(701年)の秋、持統天皇が文武天皇とともに紀伊国の「紀の牟婁(むろ)の湯」(白浜温泉)に行幸したとき、同行した坂門人足が詠んだ歌。
 巨勢山(こせやま)のつらつら椿つらつらに見つつ思(しの)はな巨勢の春野を
 巨勢山のつらつら椿を、その名のようにつらつら見ては賛美したいものだなあ。巨勢の春の野を。

 巻1(55)。この歌は先に紹介した巻一(五十四)の歌とおなじく持統天皇が文武天皇とともに紀伊国の「紀の牟婁(むろ)の湯」(白浜温泉)に行幸したとき、調首淡海(つぎのおびとあふみ)が詠んだ作といわれている。
 あさもよし紀人羨(きひとともし)しも亦打山(まうちやま)行き来(く)と見らむ紀人羨しも
 麻の裳もよい紀の国の人は羨しいものだなあ。真土山を行き帰りに見れる紀の国の人は、ほんとに羨しものだ。





(私論.私見)