富士谷御杖、萬葉集燈5 |
(最新見直し2011.8.25日)
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ここで、万葉集の文人歌について確認しておく。 2011.8.28日 れんだいこ拝 |
右一首或云天皇御製(ノ)歌
この歌、御製とする時は、幸はもと御心づからあそばしゝなれば、幸を悔させたまひし御詞づく(248)りとみるべし。さるは后妃をこひしくおぼしめす大御心を、后妃に告させ給へる大御歌にて、さばかり后妃を戀ひしくおぼさば、この幸はしたまふまじきを。と人思ふべければ、從駕の人のきくをはゞからせ給ひし御詞づくり也。これ予が牽強にあらず。詞は活物なれば、同じ詞も人にしたがひて變化すべし。うたがふべからず。
宇治間山《ウヂマヤマ》。朝風寒之《アサカゼサムシ》。旅爾師手《タビニシテ》。衣應借《コロモカスベキ》。妹毛有勿久爾《イモモアラナクニ》
〔言〕宇治間山は、吉野なり。○朝風寒之 朝ふく風はことにさむきものなれば也。○旅爾師手は、上にありしにおなじく、旅デと里言にいふ心也。こゝも朝風に心あらせむとて、旅を重くよませ給へる也。○衣應借云々 京にて妹に起わかれたまひしあしたなどは、寒からむとて、妹が衣をかしなどしたる事もありしが、けさはさやうの妹もあらぬにとの心なり。應《ベキ》とは、里言にソウナといふ心也。毛《モ》もじはさる妹にてもある事ならば、さむさもしのがるべきにとの心なり。有勿久爾は、朝かぜにむかひての詞なり。衣かすべき妹もあらぬに、かく寒くふくべき事かは。よくよくわがさむさを察して、さむくは吹まじき事を。と朝風を詰りたる心なり。勿久《ナク》は、あらぬの奴《ヌ》を、奈《ナ》にかよせはせて、久《ク》をそへたるなる事前にいへるが如し。上の爾師手《ニシテ》に照らして、衣かすべき妹もあらぬ事をも、おもくよみたまへる也。これもはら風を詰らむが爲なり。
〔靈〕この御歌、表は、此うぢま山の朝風、都にてこそあらめ。衣かすべき妹もなき旅中に、心して(249)もふくべき事を。と朝風を詰りうらみ給へるなり。されど非情の風こゝろせむやうもなく、詰りうらみたりとてきゝしらむやうもなし。これ表は、本情ならぬしるし也。されば思ふに、郷思たへがたくて、はやくかへらまほしき情を、家に告たまへる歌なる事明らか也。されど從駕をいとふになりぬべきをはゞかりて、風をうらむるに詞をつけたまへる、めでたしともなか/\なり。或註に、男女の衣をかりて着る事、いにしへの常也とあるは、いかなるひがことぞや。さむき時衣をかすは、寒からせじとおもふ情のいたす所なる事、今世とても同じ常也。といはゞ、さる情なくとも、衣をかすが常のやうなり。もししか見ば、この御歌もたゞ無味なるべし。かへす/”\、後世の目はいたる所かぎりあり。志あらむ人は、後世の弊をあきらむべし。古人の詞のつけざまにめをひらくべき事を、くりかへしいへども、かゝるすぢになづめらむ人は、この王の御こゝろもちひをいたづら物にせむがくちおしさに論らひおく也。
右一首|長屋《ナガヤノ》王
高市(ノ)皇子の御子なり。大寶元年正月、無位より正四位上をさづけたまひし事、續日本紀にみゆ。
和銅元年戊申天皇御製(ノ)歌
これは 元明天皇也。この年、陸奥越後の蝦夷ども叛きて、和銅二年討手の使をつかはされし事あり。こゝは元年とあれば、その前年軍の調練ありける時の御製にや。契冲は、大甞會の御製也(250)といへり。
丈夫之《マスラヲノ》。鞆乃音爲奈利《トモノトスナリ》。物部乃《モノノフノ》。大臣《オホマヘツキミ》。楯立良思母《タテタツラシモ》
〔言〕丈夫は、契冲が説にしたがはゞ、その日の陣の武夫どもをさしたまへるなり。眞淵は、討手の使にしたがふ武夫どもをさし給へる也といへり。○鞆乃音爲奈利 ある註に、神代卷に稜威《イツ》之|高鞆《タカトモ》とあるをもて、鞆は弓射る時、左臂につけて箭をはなつに、弦のふれて鳴るその弦の音を高からしめむがため也。音をもて威《オド》す事、鳴鏑に同じといへり。これは高の字にめを奪はれたる説なり。たとひしかにもあれ、弦音を高からしめむがためなるを高鞆といはむやは。神典に、高の字あるはすべて建《タケ》のかよひにて、よりもつきがたきさまを云也。【わが御國にて、威といふは、これにこと也。くはしくは、古事記燈にいへり。】これは弦の音のおのづからたけきをもて、高鞆とはいふ也。弦音をもて威す事はさる事なれど、もと鞆はさる爲の物か。たしかなる事をしらず。こゝに音すとよませ給へれば、弦のふれて鳴る物なる事は明らか也。しかれども、おもふに、もと鞆は鳴る爲につくる物とはおぼえず。弓《ユ》がへりする時、弦の左臂にあたりて臂を傷ふが故に、その防につくるが本意なるべし。それに弦のふるゝ音、おのづからするをいふにこそ。表にめをうばはるれば、自然をうしなふべき事、これらにも思ふべし。奈利《ナリ》は、前の中皇女命の御長歌にくはしくいへるが如く、此音のふかく御心にあたる所あるを、さとし給へる也。○物部乃大臣 この物部は、氏にあらず。たゞ武《タケ》きをのこをいふよし。古註にいへるげにしかなるべし。大臣とは、この討手の使の大將をおほせられたるなるべ(251)し。契冲が説によらば、大甞會の陣の大將なるべし。まへつぎみといふは、 天皇の大御前に侍る臣をひろくいふ也。後世、大臣といふにはたがへり。上の丈夫《マスラヲ》は、この大將にしたがふ武夫どもをさし給へる也。○楯立良思母 楯はあたより射る箭をふせがむ爲にたつる物なり。立とは、大甞の方に從はゞ、陣の備の成るよしをおほせられたる也。討手の方に從はゞ、楯をたてならべて調練するさま也。良思《ラシ》は、前にいへるが如く、里言にラシイ・コトソウナなどいふ心なり。楯たつらしきさまを、 天皇のつねのおましよりおしはかりたまへる也。もと、此|良思《ラシ》は、上の奈利《ナリ》より出たるにて、鞆の音するより楯たつらしきをはかり給へる也。鞆は、音する物なるが故に、おましより遠けれど、奈利《ナリ》とよませ給ひ、楯たつるは音もせねば、良思《ラシ》とはおほせられし也。されど鞆の音するより、察し給ひしなれば、良思《ラシ》とは、よませたまひしなる事をしるべし。請註、たゞ二事をならべておほせられしやうに釋せるは、奈利《ナリ》・良思《ラシ》の義を審らかにせず。かつ、鞆と楯の音の有無におもひいたられざりければ也。母《モ》は、まへにいへるが如く、鞆の音し、楯たつらしといへども。といふ義なり。この母もじ、一首の眼なり。もはら靈にひゞかせ給ひし也。下にいふをてらして思ふべし。
〔靈〕この御製、上にいへるが如く、契冲は大甞會の時の御製とす。その故は、續日本紀に、慶雲四年秋七月壬子即2位(ニ)大極殿(ニ)1云々六月、 文武天皇崩じ給ひ、翌年慶雲五年改元和銅元年なり。その十一月大甞會ありければ也。眞淵は、蝦夷の叛けるに討手の使つかはされしその調練の時の御製とす。この兩説いづれか是なるべき。此兩首をつら/\みれど、たしかにいづれともさためがたし。大か(252)た、歌の端作または詞づくりのさま、脚給のひゞきなどにて、その心しるきもあれど、又察し定めがたきもあるは常なり。いはゞ察しさだめがたきは、中にも詞づくりのめでたき也。もと私情をもて、公理を傷らじとての詞づくりなれば、その心のさだかならぬが本意なり。ゆめゆめあやしむまじき也。されどそのかみ、まのあたりその歌見たらむ人は、いかに詞はみやびたりとも、其靈にはおもひ入られしなるべき事明らかなり。今多くの年を經てみるが故に、はかり定めがたきなり。これ此御製にかぎらぬ事ながら、ついでに辯じおくなり。されば此兩説さだめがたければ、今兩説にしたがひて、表裏をとくなり。まづ大嘗に從ひていはゞ、表は、ますらをどもの弦の音の鞆にあたりてひゞくをきかせ給ひて、さは物部の大まへつぎみは、楯たてなめて、庭上のそなへも今はとゝのひたりげにおぼしやらせ給ひて、いと御心よきさまに御詞をつけさせたまへる也。されど物部の楯たてたるか。いまだたてざるかばかりの事は、たゞ御もとこ(の?)人にとはせたまひてもありぬべき事なるを、こと/”\しく大御歌あそばすべきにあらず。されば思ふに、これより天のしたをしろしめさむ事、女帝にさへましませば、この大嘗に、すめ神たちのおぼしめすらむ程もいとかしこく、はづかしくおぼしめす大御心をよませたまへるなり。しかれども、あらはに謙遜をいふは、かへりてさかしらなれば、御心よくおぼしめしての御言擧かとみゆらむやうに、御詞をつけさせたまへる也。から國のをしへいまだこぬほども、人は天地を渾沌する質なるが故に、謙遜などはあらはにいふをめでたき事にすめるを、かくみやびたる御(253)詞づくり、かたじけなしとも、かしこしともまをすべきやうなくこそ。又討手使のかたにしたがはゞ、鞆の音をきこしめして、楯たつるさまを遠くおましよりおしはかりまして、いさましくおぼしめすに、御詞をつけさせ給ひしなり。されどいさましく思ふばかりの事を、上古の人歌とよむものにあらねば、別に御情はあるべき事必せり。されば思ふに、御位につかせ給ひしはじめより、叛くものいできし事を、ふかくなげきおぼしめし、それにつけては、この武夫たち、天皇の御ことよさしのかしこさに、命のほどもはかられぬ此※[人偏+殳]に、家をすてゝ遠くゆくらむ心のうちをもおぼしやられ、いかでこのあた安く服して、計手の軍卒ども皆恙なくかへり、天(ノ)下しづかならむ事をおぼす大御心をよませ給ひし也。しかれども、これをいさゝかもあらはにおほせられむは、さかしらなるべきをはゞかりおぼしめしし御詞づくりなり。女帝にもおはしませば、安からずおぼしなやみたまひし大御心のほど、今もみるが如くいとかたじけなく、かしこき御詞づくり也かし。軍卒のこの御製をきゝたらむに、いかに身にしみてかたじけなくて、命もをしからずおぼえ、いかで宸襟をやすめたてまつらむとこそおもひけめとぞおぼゆる。この兩説、いづれとも定がたきが中に、此次下の御和歌に、須賣神乃嗣而賜流《スメガミノツギテタマヘル》とあるをおもふに、それも討手の方にもそむくにはあらねど、大嘗の方にはことに切なるべくや。
御名部《ミナベノ》皇女奉(リタマフ)v和御歌
(254)これは、 元明天皇の御姉みこ。 文武天皇の皇女なり。此御和歌も、上の御製にしたがひて、兩説を存してみるべし。
吾大王《ワガオホキミ》。物莫御念《モノナオモホシ》。須賣神乃《スメガミノ》。嗣而賜流《ツギテタマヘル》。吾莫勿久爾《ワレナケナクニ》
〔言〕吾大王は 元明天皇をさし奉り給へる也。○物莫御念 なにごとも御心にかけさせたまふな。と申させたまへるなり。古點は、ものなおぼしそとあれど、曾《ソ》もじなどもなければ、ものなおもほしとよむべし.奈曾《ナソ》とよむべくして、曾もじなき例、この集中かぞへもあへず。物おもほすなとよむとは異にして、奈曾《ナソ》の曾《ソ》もじをはぶきたる例なり。前にいへるが如く、奈《ナ》は大かたの事をひろく禁じ、奈曾《ナソ》といふ時は、その一筋を禁じて、他の筋にはかゝはらぬ心なり。と脚結抄にいへり。されば、これもその心にみるべし。他のすぢには、大御心をなやませ給ふとも、この筋におきては、御心やすくませとの心なり。物とは多事をひとつにいふ詞なる事、前にいへるが如し。○須賣神乃 須賣は、統《スベ》の義にて、統はなに事をもすべさせ給ひて、よろづの本なるを云也。さればひろく皇御祖神たちをさし奉りたまへるなり。○嗣而賜流とは、皇《スメ》神よりつぎ/\に、あれ繼ますを云。而《テ》もじの事、返々いへるが如く、この而《テ》もじなど、下にやがてつゞくる脚結なりと心えば語をなさゞるべし。嗣而《ツギテ》なにを賜流《タマヘル》ともなきは、而《テ》もじ多事をゝさめたる所以なり。大かた人の生るゝ事、神の御たばかりによる事、神典【古事記上卷】淤能碁呂島之件に審らかなり。皇統たやさず、やごとなき御腹に心身をたまへる事、すめ神の御心なれば、これらの多事を、(255)而《テ》もじにをさめ給へるなり。○莫吾勿久爾 古點は、われならなくにとあれど、下に引たる此集卷十五の歌にしたがひて、われなけなくにとよむべし。此集卷四に吾背子波《ワガセコハ》。物莫念《モノオモヒソ》。事之有者《コトシアラバ》。火爾毛水爾毛《ヒニモミヅニモ》。吾莫七國《ワレナケナクニ》また卷十五に多婢等伊倍婆《タビトイヘハ》。許等爾曾夜須伎《コトニゾヤスキ》。須久奈久毛《スクナクモ》。伊母爾戀都都《イモニコヒツツ》。須敝奈家奈久爾《スベナケナクニ》など同じ例也。これらの歌の心は、その卷々にくはしくいへるをてらして思ふべし。吾なけなくに、とはわれなからぬにはあらぬにとの心也。かく奈家《ナケ》と江緯にかよはする事、高けむ・深けむなどよむ例にて、それは高からむ・深からむの心なり。これも吾なからなくにの心なり。されど加良《カラ》の合音は加《カ》なるを、又|計《ケ》にかよはせたるにや。かゝる事はさかしらにつねいふ人あれど、大かた通音の事はおきて、音義にかなはぬ事は、古人いふべきにあらねば、通音にかゝはらず江緯の義、こゝにかなふが故に、奈伎《ナキ》の伎《キ》を江緯にかよはせて、計《ケ》といへるなるべし。かく江緯にかよはすに、おのづから加良《カラ》の義こもればなるべし。江緯の義こゝにかなふは、未然を思はする心なれば也。さて、この吾といふもじ、宣長は君の字の誤ならむといへるを、千蔭これに同意して、しかする時は、上よりのつゞき穩なりといへり。此説例のわが御國の古言を直言と心得たるひがみ也。上よりのつづき穩なりといへる事こゝろえず。上に吾大王とありて、又君とさし奉らむに、穩なりといはむやは。これは猶吾なるべし。すめ神の、嗣てうまれしめ給へる吾なからぬにはあらねば、あらむかぎりはたすけたてまつらむ。しかるをなにをかなげきおぼしめすぞ。となぐさめ奉りたまへる也。されど、御みづか(256)らかやうにおほせられむは、さかしらなれど、此さかしらは倒語なれば害なし。かくさかしらに御詞をつけ給ひしは、下に情をとくにてらしてさとるべし。大かた直言に妖あるべき事も、倒語なれば神さきはひたまふなり。かへす/”\、直言と倒語の別をくはしく辨へて、混ずまじき也。 さればこれはなほ、吾とさだむべき也。後世心もて、この御心もちひをむなしくせむ事、國學せむ人のかへりみるべき事なり。しかれども、君ともいふべきを、わざと吾とよまむ事のことわり大旨にあげつらへるが如く、天平以後の人は心得かぬべき事なり。まして今をや。よくよく倒語の妙用を味はひて、此吾の字、君の誤ならぬ事をしるべし。
〔靈〕此御歌も、またかの兩説にしたがひていふべし。大嘗の方にていはゞ、表は、わが大王大御心をくるしめさせ給ふな。凡庸のわれにあらねば、天下の事もわがあらむかぎりは、たすけたてまつらむを。何をかなげきおぼしめさむとなぐさめ奉りたまへるなり。されど上古の人、さるさかしらにも、なめしくもある事を、言擧すべきにあらねば、言外に御情ある事あきらかなり。されば思ふに、女にましませども、天下臣民服したてまつりて、大御位につかせ奉れるばかりの御徳にませば、かならず天下も安寧ならむ事しるきを、なほ天下の爲に、大御身をかへりみます大御心のかたじけなさをふかく感歎したてまつり給へる御歌なり。されど諂におつべきをはゞかりたまひて、わざとさかしらに、なめしく御詞をつけたまへる、めでたしともよのつねなり。ことに、すめ神のつぎてたまへる、おしなべたらぬ吾といひなしたまひて、もはら(257)御心づよくおもはせたてまつり給へる御詞づくりに、後世目及ばぬ事、くちをしともくちをしかし。又討手の使の方にていはゞ、なに事も大御心にかけさせ給ふな。凡庸ならぬ吾御かたはらに侍れば、御心づよくおぼしめせ。となぐさめたてまつりたまひしなり。されど、女の御身にして、をゝしげにおぼせられむ事、あるまじき事なれば、必言外に御こゝろあるべき事、明らか也。さればおもふに、 天皇の御徳澤により、北地の※[人偏+殳]勝利うたがひなく、軍卒どもゝ恙なく凱陣して、天下靜謐になり侍るべし。とほぎ奉りたまへる也。されど諂におつべきをはゞかり給ひて、御心の外に、をゝしく御詞をつけさせたまへるなり。その御心用ひのほど思ひやられ奉られて、めでたしなどもなか/\也。この兩説まへにいへるが如く、これ・かれを思ふに、大嘗の方心ひかるかし。
和銅三年庚戌(ノ)春三月從2藤原(ノ)宮1遷2寧樂《ナラノ》宮(ニ)1時御輿《ミコシヲ》停(テ)2長屋原《ナガヤノハラニ》1※[しんにょう+向](ニ)望2古郷(ヲ)1御作歌
一書(ニ)云太上天皇(ノ)御製
普通の本には、二月とあれど、紀に三月とあるにしたがへり。一畫脱たるにこそ。長屋原は、大和(ノ)國山邊(ノ)郡なり。和名抄に、山邊(ノ)郡長屋とある所なるべし。この御歌の事、千蔭があめる略解に、宣長が説をしるせり。げにこの 太上天皇は、持統天皇にて、飛鳥より藤原にうつりましゝ時の御歌にて、和銅三年云々とかけるはあやまりつたへたるなるべし。もし倒語に、藤原を、明日香の里とよませたまひしにやと思へど、上古、倒語、大抵法則あるものなれば、さは見がたき所あ(258)り。なほこれは誤り傳へたるにこそ。されど又は御歌のかはりたるにもあるべければ、端作は、舊本にしたがひおきぬ。
飛鳥《トブトリノ》。明日香能里乎《アスカノサトヲ》。置而伊奈婆《オキテイナハ》。君之當者《キミガアタリハ》。不所見香聞安良武《ミエズカモアラム》一云、君之當乎不見而香毛安良牟《キミガアタリヲミズテカモアラム》
〔言〕飛鳥のは、あすかの冠なり。眞淵は、いすかといふ鳥の名に冠らせたる也とて、くはしく論らへり。おのれおもひよれる事もあれど、猶よく考へていふべし。あすかを飛鳥とかくは、かすがを春日とかくに同じ。○明日香能里乎 このあすかの事、まへに宣長が説をあげしがごとく、明日香より藤原にうつりましゝ時の御製とせば、論なかるべし。乎《ヲ》は、おきていぬべきこゝちなき里なるを。との心におかせ給へる也。○置而伊奈婆 さとはもとよりゐ(率)ておはすべきものならねば、いとをさなき御詞なれど、これ倒語の所以なる也。古言をまねびてはいはるぺし。大かた倒語のかたきは、かゝるをさな言ぞかし。上にいへるが如く、この五言、また下の香聞《カモ》の脚結など、倒語たる所以やごとなければ、明日香の里ながら、倒語とは見がたき法則なり。なほ情は下にいふべし。古人はかゝる詞づくり多し。これ表を重くするが故なり。伊奈《イナ》は、いぬのかよへるにて、いきぬといふになりなば。といふほどの心なり。大かた伊久《イク》と由久《ユク》の別辨ふべし。伊久《イク》は、道のほどをかけずして、いたりつくをいふ詞なり。由久《ユク》は、道のほどをいふ詞なり。からもじの到と至の別のごとし。この奈婆《ナバ》に、いたくたちはなれがたくおぼす御心こもれり。○君之當者 この君とさし給へるは、誰かはしらねど、その里なる人をさし給へるなれど、君が(259)みえずかもあらむとはよみ給はずして、君之當とよませ給へる、これまた倒語の所以なり。者《ハ》は他の方はたとひみえずとも、そのあたりはみずてはえあるまじきを、との御心なり。○不所見香聞安良武 かもは、疑なり。古人脚結を用ひたる、いづれとはなけれど、此|香聞《カモ》は、ことにめでたくおかせたまへり。その故は、明日香のさとを置ておはさば、その人のあたりのみえざらむ事はいふもさら也。されば香聞《カモ》などおぼつかなげにはおほせらるまじき事なるを、香聞《カモ》とよませたまへるがめでたきなり。そのめでたしといふ所以は、この御製をきかむ人の、さらばかならずみえじと思はむを、まち給ふためなれば也、必おぼめくべき事がらをば、わざと決定し、必定なる事がらをば、わざとうたがふ。これ皆倒語の手段なる也。すべて我よりさしさだめ、さしつけたる詞をいさめ給ふ、わが御國ぶりのかしこき事、人は必その反を思ふべきものなるがゆゑなり。其本源は、昇降二氣におこり、よろづの物みなこれにあやかり、こなたをゆけばかなたを來る事、やむごとなき眞理なり。此故に、 神武天皇倒語をはじめさせ給ひて、よの妖氣をはらひたまへり。倒語の道のかしこさ、かへす/”\思ふべし。一云、君之當乎不見而香毛安良牟とあるは、藤原にうつりまして後、君があたりをみずして、常にこひしみてかもあらむとの心なり。而《テ》もじに例の多事をゝさめたまへり。この香聞《カモ》は、君があたりをみずしてをらむに堪むか。堪まじきか。といふ義となる也。
〔靈〕此御製、表は、この明日香のさとを置て、藤原にいたりなば、君がすむあたりは、みえずかあら(260)ん。又なほみえかすらむ。とこのさし給ひし人にかたらひ給ひし也。これ長屋原よりその人のもとにつかはされし御製なるべし。されど藤原にいたり給はゞ古郷のあたりのみえざらむを、かたらひ給ふに及ばざる事なるを、かくことさらに御歌とよませ給ふべきやうなし。これ言外に御情あるしるしなり。されば思ふにこの後は此明日香なる人にあひがたくましまさむ事を、ふかくなげきつかはされし御製なる事、うたがひなし。しかれどもこれをあらはになげき給はむは、遷都をうらみ給ふになりぬべきをはゞからせたまひて、明日香の里を置、またみえずかもなど、大かたをさなく御詞をつけさせたまへる也。かけまくもかしこき御うへなれば、御詞のみやびは申すもさらなれど、此御詞づくりのめでたさ、倒語に志あらむ人は、かしこくも、心をとゞめてまねびたてまつるべし。
或本從2藤原(ノ)京1遷2于|寧樂《ナラノ》宮(ニ)1時(ノ)歌
この或本の二字、いとうたがはし。上の御製の或本とならば、上は短歌にて、或本は長歌なるべきやうなし。千蔭が略解に、一本にはなくて、或本にあれば、かくしるせるならむといへれど、一本・或本、いかなるたがひめぞや。心えず。たとひしかにもあれ、端作の上にかく冠らせむ事しかるべからず。かつ上の或本の歌とならば、從藤原京以下はあるべくもあらず。端作上と同じかるべき事なるに、上のは明日香よりの遷都の時なり。この長歌はうつなく、藤原よりの遷都の(261)時の歌なれば、このことわりにもそむければ、とにもかくにも、この或本の二字はうたがはし。此作者はたれなるらむ。名を脱せり。
天皇乃《スメロギノ》。命畏美《ミコトカシコミ》。柔備爾之《ニギビニシ》。家乎放《イヘヲサカリテ》。隱國乃《コモリクノ》。泊瀬乃《ハツセノ》。川爾《カハニ》。※[舟+共]浮而《フネウケテ》。吾行河乃《ワガユクカハノ》。川隈之《カハグマノ》
。八十阿不落《ヤソクマオチズ》。萬段《ヨロヅタヒ》。顧爲乍《カヘリミシツヽ》。玉桙乃《タマボコノ》。道行晩《ミチユキクラシ》。青丹吉《アオニヨシ》。楢乃京師乃《ナラノミヤコノ》。佐保川爾《サホガハニ》。伊去至而《イユキイタリテ》。我宿有床乃上從《ワガネタルトコノウヘヨリ》。朝月夜《アサヅクヨ》。清爾見者《サヤカニミレバ》。栲乃穗爾《タヘノホニ》。夜之霜落《ヨルノシモフリ》。磐床等《イハドコト》。川之水凝《カハノミヅコリ》。冷夜乎《サムキヨヲ》。息言無久《ヤムコトモナク・ヤムコトナク》。通乍《カヨヒツヽ》。作家爾《ツクレルイヘニ》。千代二手《チヨマデニ》。來座牟公與《キマサムキミト》。吾毛通武《ワレモカヨハム》
〔言〕天皇乃云々 遷都の事を命令し給ふを云。畏とは、 天皇の命はいかなる事ありてもそむくべからぬ心にて、命令の重き事をいふ也。美《ミ》は前にいへるが如く、牟《ム》のかよへるにて、ガリといふ心なり。○柔備爾之云々 にぎぶとは、あらぶの反にて、里言はニツトリなどいふ心也。賑《ニギ》はふといふも、此詞よりいふ也。里には、この詞をニギヤカナといひて、人などの多きをいふは末也。源氏物語ににぎはゝしきによるなめりとあるは、富たる事なり。これ皆、ニツトリとしたる所より、富もし、人多くもある事なれば也。すべて、詞に本末あるもの也。本末をよくたゞさでは義をまどふべきなり。こゝはひさしくすみつきて居心よき家をいふ也。これは藤原の家なり。乎《ヲ》もじはさる住心よき家なれば、はなるべきこゝちもなきをとの心を思はせたる也。擇はえらびてともよむべけれど、例によれば、択に放をあやまれるにて、放《サカリテ》なるべし。※[氏/一]もじは、(262)つけてよむべし。例の多事ををゝさむる心、こゝにかなへり。○隱國乃云々 くはしく前にいへり。泊瀬川より舟にのりて、奈良にうつるさまなり。千蔭が略解に、この川の事くはしくいへり。○※[舟+共]浮而云々 後世の詞にていはゞ、舟うかべたるばかりにて、棹さしなどもせぬやうなり。これ而《テ》もじは多事をゝさむる所以なり。おのれ、而《テ》もじにかぎらず、古人脚結を用ひたる心得をいふ事、これらに信ずべし。すべて詞の檢糺無益の事にいふ人もあれど、これらいかにか心うべき。さる妄説になづむまじき也。川隈とは、前に道の隈といへるにおなじく、川のたをりて、こなたよりかなたの川すぢのみえずなる所を云也。八十隈とは、その川隈のいと多かるを云。八十は、たゞ大かたに、物の多かるをいふ事、そのもとは神典より出たる詞なり。これたゞ隈の多かるをいふにはあらで、川路のいと遠きことをいはむがため也。これすべて古言のいひざま也。不落とは、その川のくま毎にのこらずといふ心なり。やう/\藤原の思はるゝを云○萬段云々 段は、心をえてかけるもじ也。一萬度とかぎれるにあらず。これも大かたにいふなり。前の八十隈も、あまり數多くて、かぞへがたきばかりなる事をさとさむとて、わざといかめしき數をいへるもの也。きく人おもへらく、萬たびはあまり也。百分が一にして、百たびばかりにもやと思ふべき。それ即、よみ人の罟獲なる也。古人は、大かた、かくざまに詞はつけたる物なり。人の壽をほぐとて、千とせ萬世などいふこの轍なり。これは今世の人もつねにいひながら、まことに千とせ・よろづ代もとおもふ實情なりなど心えたれど、いかにしかおもふとも、千年・萬世あるべ(263)きかは。倒語なる事しるきにあらずや。しかるをいふかひなき人は、歌はすゞろなるそら言するもの也。と心うることゝなりぬ。なげくべき事なり。此京になりてだに、古今集に、なく涙雨とふらなむわたり川水まさりなばかへりくるがに。とよめるも、涙に水のまさらむやは。これ涙のいたく流るゝさまを思はせむがためなる事、上古の詞づくりなるをや。乍《ツヽ》は、下の道行晩にうちあはせておかれたるなり。かく道行晩にうちあはせて、乍《ツヽ》とよまれたるこゝろは、藤原のみゆるとはなけれど、萬たびもかへりみするに、日をくらしたるさまにいへる也。○玉桙乃云々 道は桙のごとく直なる物なれば、冠とせる也。道は川路なり。略解に、人は陸にのぼりてもゆけば也といへり。これは道行などいふもじにめをうばゝれたるにて、例の古言を直言と心えたる説也。おほかた詞をかくなづみては、古言の妙處もしる事あたはず。みづからの詞づくりも、いつまでも同處に依然たるべき也。舟行なるをかくいふ事、古人の詞づかひの常なり。すべて舟行のうへなるに、この一句のみ陸の事をいはむやうなし。よく思ふべきなり。舟行なるを陸のやうにいふは、死人《シニビト》を活人《イキビト》のやうにいふ類にて、かぞふるにいとまあらずかし。かへりみに道のいとまいりて、日をくらしたる形容に、陸路のさまをもて詞とせる也。としるべし。○青丹吉云々 あをによし、前にいへり。佐保川爾伊去至而とは、泊瀬川の末三輪川にて、三輪川をくだり、廣瀬川の落合よりさかのぼりて、佐保川までのぼるとぞ。伊の義、まへにいへり。發語なりとのみ古來註し、後學もしかなりとのみおもひてやみぬる事心えがたし。もし發語とならば、去至《ユキイタル》と(264)いふ詞、發語をおかでかなはざるよしをこそとかめ。さる理もなくて、たゞ發語とのみいはむは所詮遯辭なる事明らかなるをや。これは佐保川にゆきいたるまでに、はじめ泊瀬川に舟うけたるより、此かたを陰にもちていふ詞なり。かく伊《イ》としもおける所以は、まへの多事にわたる心を、この佐保川ひとつにとゞめさせむが為也。これ今は、藤原のかへりみだにせられぬまでに、遠くなりはてたる事を思はせむとてなり。去至《ユキイタル》とは、ゆきはゆく道をいふ詞なり。いたるはかしこにいたりつくをいふ詞なり。前にいへりしいく・ゆくの別これなり。而《テ》もじ、例の用ひざま思ふべし。ゆきいたりて寐るまでには、多事なくてはあらざるべきぞかし。○我宿有云々 衣は床の誤にて、床のうへよりなるべし。と古説なり。しかるべし。衣と今本にあり。心えがたし。かり廬なれば、夜床にも月はさし入りたるなるべし。從《ヨリ》は、次の見者《ミレバ》の首尾なり。○朝月夜云々 これは有明にて、朝まである月を云。朝月夜に、物のさやかにみゆるを云。清爾は、さやかにとも、又六言一句にさやにともよむべし。さやには、そのわたりのさまなごりなくみゆるを云。下に夜之霜落とあれば、この朝月夜は清爾のよせなり。○栲乃穂爾云々 眞淵云、栲は楮の誤なるべしと。げに栲の字は字書にもみえぬ字なり。古語拾遺に 植(テ)v穀《コクヲ》造(リ)2白和幣《シラニギテヲ》1植(テ)v麻《アサヲ》造(リ)2青和幣《アヲニギテヲ》1とあれば、白たへといふは、この穀の皮もておれる布なり。しかるに白たへに、白栲とかける所多くて、栲の字、諸書に、多倍《タヘ》とも、多久《タク》ともよめるは、もとふたやうにいひし木の名なればにや。今思ふに、古事記上卷の歌に多久夫須麻佐夜具賀斯多爾《タクブスマサヤクカシタニ》 仲哀天皇の御紀に栲衾《》(265)新羅國《タクフスマシラギノクニ》。この集卷十四・十五などにも、栲衾《タクブスマ》とあり。又古事記上卷の歌に多久豆恕能斯路伎多佗牟伎《タクツヌノシロキタヾムキ》。この集卷三にも、栲角乃新羅國《タクヅヌノシラギノクニ》卷二十にも多久頭怒能之良比氣乃宇倍由《タクツヌノシラヒゲノウヘユ》などよめり。又古事記上卷に、栲繩之千尋繩《タクナハノチヒロナハ》。この集卷二に、栲繩《タクナハ》とよみ、又卷三・卷九・卷十一等に、栲領巾《タクヒレ》ともよめり。かく多久《タク》といふ時は、多久《タク》何とやがて物につゞけて、多久乃《タクノ》何といへる例なし。多倍《タヘ》といふ時は、多倍乃《タヘノ》何とのみあるを思へば、同物ながら多倍《タヘ》といひ、多久《タク》といふには、必別ありとおぼし。されば、これかれを考ふるに、多倍は、布に織りての名にて、この栲のもとの名は、多久《タク》なれば、衾《フスマ》・領巾《ヒレ》・紲《ナハ》などの類につくれるは多久《タク》とのみいふなるべし。多倍《タヘ》はもと、此木の名にはあらで、布の名なるを、その布には、此木の皮もて織るによりて、やがてこの木をも、多倍《タヘ》といふなるべしとぞおぼゆる。穂《ホ》とは、國秀《クニノホ》・浪穂《ナミノホ》などもいひて、中にもめにたつ所をいふなり。この栲乃穂《タヘノホ》は、栲の白くにほへるがめにたつをいへり。爾《ニ》は、よせの爾《ニ》にて、ノ如クニといふ心なり。これは霜のさまを云。夜之霜落とは、朝霜・夕霜にむかへていふなり。そのわたりさやにみゆるが中に、白くて、霜のことにめにたてば也。さらぬだに住もつかぬかり廬に、ひとりぬる夜なれば、さむさことにたへがたきを、さとさむがために、夜之霜としもいへるなるべし。これは上の方より寒氣の襲ふをいふ。下によめる氷は、下の方より寒氣の襲ふをいふ也。○磐床等云々 磐床は、磐を床にしたるを云。古事記上卷に、天之石位《アメノイハクラ》とあるくらは座なり。神代卷祝詞などには、やがて石座《イハクラ》ともかけり。太古は穴居しければ、石を座とも、床ともしたるなるべし。こゝに床としもといへる(266)は、水のさまをいふ也。等《ト》はよせのとなり。磐床といふごとくにといふ也。栲乃穂・磐床ともに、霜氷のいたくさむきを思はせむが爲也。古人よせを用ひたるは、冠に同じくいふべき事の、いへば中々なるが故のわざなり。川之氷凝。古點はかはのひこりてとあるを、かはのひこゞりともよめるは、こゞりは凝々の義にていはがねのこゞしきなどいへるこゞしきに同じければ、さもありぬべけれど、氷は水の誤にて、かはのみづこりならむとおぼし。乎《ヲ》もじは、かく上には霜さえ、下には氷さえて、寒さたへがたければ、かよふべきこゝちもなき夜比なるを。との心なり。○息言無久云々 いこふことなく。と眞淵はよめり。 神武天皇の御紀に、息をいこふとよめれど、こゝの語意をおもふに、たゞ、たえずといふ心にて、いこふはここにかなへりともおぼえねば、なほ、やむこともなくとよめる古點しかるべし。されど、毛《モ》もじ詮ありともなければ、やむことなくと六言にもよむべし。通乍《カヨヒツヽ》は、藤原の舊都より、奈良の新京にかよひつゝ也。乍《ツヽ》の義まへにくはしくいへるがごとし。これは新京に家造らむ爲に、數箇度かよへる也。この歌によめるは、一度のやうなれど、たゞ此|乍《ツヽ》にて、上のしか/\を數个度なりけり。とおもはせたる詞づくり、有力おもふべし。作家爾とは、この次に來座牟公とさしたる人の家にて、わが家にはあらじ。爾《ニ》もじにて思ふべし。この公とさしたるは古註は 天皇の御事とおもひたりげなれど、さにはあるまじき證あり。下にいふべし。いかなる人にかありけむ。此歌ぬしの主人か。または父母か。伯叔父などか。又は兄か。などなるべし。○千代二手云々 或註にこの歌の大意をとける(267)所に、末にいたりて、新室をことほぐ言もてむすべる也。とかゝれたる、古人さる稚き事をよむものにあらず。くはしくは此下にいふをみてさとるべし。二手は左右の手をいふ。即集中に左右手・左右などかけるに同じ。眞はすべて、ふたつを具したるをいふ事、まへにいへるが如し.此|麻傳《マデ》といふ脚結、まへに釋せるがごとく、程を超てのかなたの限をさす詞なり。こゝも大抵人生かぎりありて程あるを、千代とさす故に、麻傳《マテ》とはよめる也。これひとへに本情より生じたる詞なり。くはしくは下にいふをみるべし。來座牟公與 來《キ》は、爾《ニ》の誤ならむ。と或註にみゆるはいかゞあらむ。今思ふに上にいへるがごとく、公といへるを、 天皇の御事とおもへるより、天皇はこの新京にまし/\て、往來し給ふべきにあらざる事なれば、來座はあたらずと思ひての説なるべし。されど、與《ト》とよめるは、この人とゝもに。といへるなれば、 天皇にあらざる事しるし。この故に公とは主人・父・母などにや。とはいふ也。されば、これは、なほ來座牟《キマサム》とよむべきなり。今の本、座多とある多は、うつなく牟《ム》の誤なるべし。○吾毛通武 こゝに、公とさしたる人を主とたてゝ、毛といへるは、吾を主とせざるいひざま神妙なり。
〔靈〕この歌、表は天皇乃命畏美吾毛通武とむすびたるにて、中間ははさみたるものなり。 天皇の命令のいと重さに、ひさしく住なれし家をはなれ、泊瀬川よりとほく舟路を經て、佐保川にいたり、霜氷いたくさゆる夜のさむさ堪がたきもいとはず、たび/\かの舟路をかよひつゝ造れる家に、千世までに君は來まさむ。その君とゝもに、吾もかよはむ。とこの新京は干世までも不(268)變なるべければ。といとたのしげによめるなり。されど、たのしともみえ、又古郷に心の殘るやうにもみえ、又舟路遠く寒夜のさまくるしげにもみえて、いづれを主意ともわきがたし。かくくだ/\しき事をしらずして、古人すゞろに歌とよむものにあらねば、必、情言外にあるべき事明らか也。さればつら/\思ふに、しかさま/”\に心あるやうにはみゆれど、 天皇の命のやむごとなさに、家をはなれ、寒夜のひとりねをしのびて、この新京にかよはむ事、いつまでといふ限もなきわびしさ。言外に一律なり。こゝをもておもふに、此たびの遷都によりて、家人に踈くなるをなげき、ふかく家をしのびたる歌なりとはしるし。されど家人に踈からむ事をいはゞ、遷都を歎く心となりて、おほやけにおそりあるが故に、かよふべき限もしらぬなげきを、千代二手といひたのしくよろこばしく思ふらむやうに詞をつけたるなり。されば、此歌畢竟は家人を戀ひて、新京より家に贈れる歌なるべし。反歌の終に、忘跡念勿とよめるに明らかなるをや。古人の詞づくり、公私に心を用ふる事のたらひたる事、かへす/”\心をとゞむべきなり。
反 歌
青丹吉《アヲニヨシ》。寧樂乃家爾者《ナラノイヘニハ》。萬代爾《ヨロヅヨニ》。吾母將通《ワレモカヨハム》。忘跡念勿《ワスルトオモフナ》
〔言〕青丹吉 まへにいへり。かく冠をおける心ありて也。下に情をとくにてらしておもふべし。○寧樂乃家爾者とは、新京の家を云。爾者《ニハ》の爾《ニ》は、この寧樂の家にふかく執する心にすゑていふ也。(269)されど此家に執するは倒語也。下にてしるべし。者も、この家をめにたつものにしていへるなり。これまた倒語なり。○萬代爾 長歌には千代といひ、これには萬代とよめるは、長歌に十倍この新京の不變をほぎよろこべる心によめる也。心はなほ、長歌に千代とよめるに同じけれど、ひときは久しくいへる、この歌の手段なり。○吾母將通 これも、この來座牟公とともにかよはむといふなり。長歌にゆづりて、母《モ》もじにておもはせたる也。○忘跡念勿 萬代に、この新京の家に、この公とわれもかよはゞ、家人は忘れたりともおもふべければ、そこをことわりていふ也。かくことわれる心は、 天皇の命の重ければなり。との心を思はせむがための詞づくり也。直言になづめる後世人は、この句を直言とみて、たゞおのがわすれざるをことわりたる也。とみるべけれどしからず。古人は戯にもさる詞をつかふ事なし。今釋せるが如く、 天皇の命のおもき事を思はせむが爲より出たる詞なりとしるべし。おほかた、詞はかくさまにつかふ物ぞかし。くはしくこのけじめをわきまへしるべし。此歌は、第四句にて、上よりの意をむすぴて、此終の一句はそへたる物なり。これ標實の法によれり。されど、本情は必をはりの添たる句にあるものなりと心うべし。
〔靈〕此歌、表は、この新京の家には、 天皇の、此新京に天下しろしめさむかぎり、萬代に、この公とゝもに吾もかよはむ。しからば家人をわすれたりと家におもふべけれど、さらにわすれたるにあらず。 天皇乃御言のおもさになりと思へ。と家人にいひやりたるなり。されど忘れたり(270)とおもへらむ人に、しひて忘跡念勿といふが如き強言《シヒゴト》を、古人すゞろに歌とよむものにあらねば必言外に情あるべき事あきらか也。さればおもふに、寧樂の家をわざとふかく執したるが如く、爾者《ニハ》とよみ冠をおきたるも、さらに好まぬ家なるよしをいふに代《カヘ》たるにて、萬代は、長歌におなじく、かよふに期なき事を十倍になげき、結句もはらおほやけのそむきがたく、やむごとなき歎をよめる事しるければ、概するに、藤原の家のこひしくはなれがたく思ふ心を、家人に推量せよといひやりたる歌なり。されどもかゝるわびしさをいさゝかも詞にいづる時は、遷都をうらむるにおつべきをはゞかりて、すべて新京をほぎ、この京の家を執したるやうにのみ、詞をつけたる也。公私いづれにもさはらず。しかも公私をそなへたる詞づくり、めでたしともなか/\也。この人の心のうち、かゝる詞をつけたるわびしさ、いかなりけむとおもひやられて、あはれいふばかりなし。
右(ノ)歌、作主未v詳。
和鍋五年壬子(ノ)夏四月。遣2長田《ナガタノ》王(ヲ)于伊勢(ノ)斎《イツキノ》宮(ニ)1時(ニ)山(ノ)邊(ノ)御井(ニ)作歌。
この山邊(ノ)御井とは、山邊村といふ所に、この御井の跡あり。と宣長いへりとぞ。その國人にしてものゝ穿鑿あつき人なりしかば、しかなるべし。此集卷十三の長歌に山邊《ヤマノベノ》乃。五十師乃原爾《イシノハラニ》【上下略】とありて、反歌に、山邊乃《ヤマノベノ》。五十師乃御井者《イシノミヰハ》。自然《オノヅカラ》。成錦乎《ナレルニシキヲ》。張流山可母《ハレルヤマカモ》とよめるこれ(271)なり。長田(ノ)王は長(ノ)皇子の御子なるよし、三代實録にみゆ。續日本紀には、和銅五年正五位下とみえたり。これはなにゝよりてつかはされけるにか。しられず。
山邊乃《ヤマノベノ》。御井乎見我※[氏/一]底利《ミヰヲミガテリ》。神風乃《カムカゼノ》。伊勢處女等《イセノヲトメラ・イセヲトメドモ》。相見鶴鴨《アヒミツルカモ》
〔言〕山邊乃御井 端作の下にいへり。乎《ヲ》もじ、よく心をとゞめておもふべし。もとこの王齋宮に公用ありてくだり給へるなれば、みる事たやすからぬ御井をとの心なり。この乎《ヲ》もじにて、公務のいとまをもとめたまひし事こもれり。見我※[氏/一]利 がてりは、後世がてらといふに同じ。されど良《ラ》もじ・里《リ》もじ、おのづから安緯、以緯の義はたがふ也。大かた良《ラ》もじはかなふともおぼえず。されば古はがてりとのみよめるにや。がてりはもと、加《カツ》るといふ詞のなれるにて、一事にまた一事のくはるゝ心なり。かつといふ挿頭同じ詞なり。花みがてら人をとふなどは、もとよりその心がまへしたる心あり。これは御井みる序に、思ひかけずみたるにて、もとよりの心がまへにあらず。心がまへしたる心となるは、歌がら・事がらによるべし。心がまへもなきが、此詞の本義なりと心うべし。御井をみる事主なるよしをさとしたまへるなり。○神風乃云々 神かぜは、伊《イ》の冠なり。伊《イ》は息《イキ》の事にて、神風は即息なれば、冠らせたる也。古事記燈に風神をとける所に、くはしくいへるをみるべし。伊勢處女等 古點は、いせのをとめらとあり。諸先達もそれにしたがはれたり。されば古點のまゝにもよむべけれど、乃《ノ》もじおもふ所あれば、いせをとめどもともよむべし。【因に云、大かた、詞の變化自在は、脚結のつかさどる所なれば、脚結に自在ならざれば、所思も自在に變化しがたき物なり。されば、歌には必用の物なれども、あまり理をもらさず、脚結をおく時はこと(272)わり過て、なか/\なる事いでくる物也。こゝをもて、上古には、おかれたる脚結、みなその歌の眼にして、大かた、脚結すくなし。脚結すくなければ事ひろくなるが故なり。上古の人に、心をこゝにあつく用ひたりとおぼえて、目とまる所ども多し。中昔より脚結多くおく事となれり。近世・今世はまたすくなくなれるに、上古に似てしからず。脚結にくらくなれるが故なり。されば、脚結はおかでかなはぬものゝ、おきて中々なる事あるものなりと心うべし。この故にこゝの乃もじなからむぞこの作者の心なるべき。とおぽゆる也。乃もじは常に瓦礫の如く用ふる脚結なれば、乃もじの有無のけぢめを思ふ人なし。脚結はこれにかぎらず、その義その用ひざまをくはしくたづねて、麁暴すべからざる事なり。大方の脚結無用なるは、本義にそむけば也。無用なりとてたのむべからず。】○相見鶴鴨 つるは現當なりし事を、今よりおもひやらする詞也。これは、處女のあひみたるより後によみ給へれば也。鴨はまへにくはしくいへるが如く、大かたの理のあてられぬ事ある時の歎なり。こゝはもと、此御井をみむとて來たるに、思はず、伊勢處女どもをみたる事の歎なり。
〔靈〕この歌、表は、此山(ノ)邊の御井をみむとて來つるに、おもはず、伊勢處女どもさへあひみつるかな。とこの山(ノ)邊の御井のあたりのおもしろき所なるに、うるはしき處女をさへみたるを、ふかくよろこびたる也。されど、御井をみたるがうへに、處女をみたるばかりのよろこびを、古人のこと/”\しく歌とよむ物にあらず。又さばかりの事に、鴨《カモ》をおくべき事にあらねば、必、言外に情あるべき事明らかなり。されば思ふに、公命やむごとなくて、伊勢に日をへて家の妹の戀しさにいかではやくあはまほしく思ふに、心にもあらぬ處女をあひみつるよ。とひとへに妹のこひしさを家に告たまひし歌也。これ處女をみたる事意外なるよし、又|鴨《カモ》といふ脚結、もはら此歎息なる事しるきぞかし。されど公にはゞかりたまひて、一事ならぬよろこびの爲のやうに、詞をつけ給へる也。この次の二首、左註にうたがひ置たれど、そこに辨じたるがごとく、なほ同じ客中の(273)歌にて、二首とも郷思を家に告たまへる歌なる事しるければ、この歌の情、予がおしはかりならざる事をあきらむべし。或註に、この御井をみる時、よきをとめらに行逢て、興をましたる心のみにて、ふかき心なしと註したる、いとも/\くちをし。古人倒語の、おのがめに及ばずば、ただ及ばぬにてやみぬべき事なるを、深き心なしなど定められしは、中々その目の限もみゆるこゝちし、かつは初學をまどはすわざ也かし。これにかぎらず、古註にかゝる釋おほし。心してみるべし。此歌の詞づくり、ことにめでたければ、後世人の目及ばぬもことわりなる事也。よく/\心をとゞめて、この詞づくりのめでたさをおもひしるべし。
浦佐夫流《ウラサブル》。情佐麻禰之《コヽロサマネシ》。久堅乃《ヒサカタノ》。天之四具禮能《アメノシクレノ》。流相見者《ナガラフミレバ》
〔言〕浦佐夫流 まへにくはしくいへり。この詞、情中心にある事をさとせる也。されどなにの故とも、何の歎ともいはず、たゞ浦佐夫流情とのみよみたまへる妙なり。〇情佐麻禰之 今の本、彌之《ミシ》とあれど、さまみしといふ詞、いまだきかねば、彌は禰の誤なりと眞淵がいへるに從ふべし。このぬしは、間無《マナシ》の義なりといへるを、宣長は數多き義なりといへり。此兩説を思ふに、いづれも得失あり。その故は、禰《ネ》はもと奈《ナ》のかよへるにて、間《マ》無といふ詞なれば、眞淵が説あたれり。しかれども、宣長が數多き義なりといへるも、ことすぢにはあらで、畢竟この詞の心をえて釋したるなり。この詞、本義は、間|無《ナシ》の義にて、その間なきは、即數多きかたちなれば、間無《マナシ》をもて數(274)多き事をさとす詞なり。この故に、得失ありとはいふ也。これ古言のいひざまなり。後世は古言をみるべき法を失ひたるが故に、此兩人さばかりの大家なりしかど、その説かくひとしへにして、ふたしへの如くきこゆる也。わが御國のふる言は、すべて直倒をもてはからざれば、その義盡ざる事、このひとつにてもしれとて、あげつらひおく也。千蔭も.宣長が説に同意して、間無の心とする時は、卷十七・十八・十九の歌どもにかなはずといはれし、これかなはぬにはあらず。間無をもて、歎多きをさとしたる也。その歌どもは、此集卷十七に多麻保許乃《タマボコノ》。美知爾伊泥多知《ミチニイデタチ》。和可禮奈婆《ワカレナバ》。見奴日佐麻禰美《ミヌヒサマネミ》。孤悲思家武可母《コヒシケムカモ》また同卷に矢形尾能《ヤカタヲノ》。多加乎手爾須惠《タカヲテニスヱ》。美之麻野爾《ミシマヌニ》。可良奴日麻禰久《カラヌヒマネク》。都奇曾倍爾家流《ツキゾヘニケル》また卷十八に【長歌上下略】安良多末乃《アラタマノ》。等之由吉我敝理《トシユキガヘリ》。月可佐禰《ツキカサネ》。美奴日佐末禰美《ミヌヒサマネミ》。故敷流曾良《コフルソラ》。夜須久之安良禰波《ヤスクシアラネバ》云々また卷十九に【長歌上下略】香吉《カグハシキ》。於夜能御言《オヤノミコトノ》。朝暮爾《アサヨヒニ》。不聞日麻禰久《キカヌヒマネク》云々 また同卷に 都禮母奈久《ツレモナク》。可禮爾之毛能登《カレニシモノト》。人者雖云《ヒトハイヘド》。不相日麻禰美《アハヌヒマネミ》。念曾吾爲流《オモヒソアガスル》などよめる歌の事也。また續日本記等【三十六】宣命に氏人《ウヂビト》【乎毛《ヲモ》】滅人等麻禰久在《ホロボスヒトドモマネクアリ》などの類、たゞ間なきをもて、數多きをさとす詞なりとみば、かなひ、かなはぬの論には及ぶまじき事をや。佐《サ》はかく冠らせていふ事多し。したがふものゝとゞかぬかたちをしめす義也。いはゆる狹筵《サムシロ》・小男鹿《サヲジカ》・小夜《サヨ》・佐衣《サゴロモ》の類これに同じ。こゝも猶しかり。多くは言外にその循《シタガ》ふ所の物はあるなり。こゝの言外のさまは、下にいふをてらして心うべし。○久堅乃云々 天をはじめ、すべて天象の物に冠らする詞なり。古來説々あれど、いづれもうけがたし。眞淵は、この(275)集中に瓠形《ヒサカタ》とかける所あるによりて、天は瓠《ヒサゴ》の形なればなるべしといへり。これもいかゞあらむ。おのれおもひよれるすぢもあれど、猶よくたゞしていふべし。天之四具禮能 しぐれは、暮秋より冬かけてふる雨の名なりとのみ後世はおもへり。もとしぐれは天のかきくらすより、雨の名となれるなれば、天のしぐれとはよむ也。としるべし。此王を、伊勢につかはされしは、四月と端作にあり。しぐれは、長月のしぐれの雨と此集中によめるが如く、九月より冬かけてふる雨をいへば、この歌は、四月より九月までも伊勢にありてよみたまへるにこそ。これは時たがひ、次の歌は、立田山伊勢よりの路にあらねば、もし此二首は、こと人のにて、端作の脱たるにや。それはしらず。されど、これは、九月までも伊勢におはしてよみ給ひ、立田山は、其歸路に伊勢よりこの山をこゆべき公務ありて、しかよみたまひしにや。實事をしらねば、さだめがたけれど上の歌のつゞきなれば、それにしたがはむが穩しかるべし。○流相見者 ながらふ前にいへり。いにしへは、雨雪の長々しく降るを流るといへり。水のながるといふも、長々しく水のゆくを云也。良布《ラフ》は留《ル》を延云なりといふ説よにおこなはれたり。げに音の合ふ所は、ことわりかなひたれど、いにしへ、留《ル》とも、良布《ラフ》ともたがひによめるをや。もし良布《ラフ》は即|留《ル》ならば、さらに良布《ラフ》とはいふまじきをや。この延約の説うけがたし。句のもじの數のたらねば、留《ル》を良布《ラフ》といひ、また留《ル》も良布《ラフ》も同じ義なるを、心のまゝにすゞろにいふ後世人の如き事は、古人はさらにせざりしぞかし。又|良布《ラフ》は、留《ル》と約《ツヾ》まる也と思ふも亦麁なり。もししからば、上古に四言六言などは、よむ(276)まじき理をもて、その麁なるを思ふべし。良布《ラフ》の事、前にいへり。見者の者《バ》は、みてのち、みぬまと、ことの外なるよしをいふ也。
〔靈〕この歌の表は、しぐれの長々しくふるをみれば、これまでにたがひて、中心の情數なくなりぬ。心なきしぐれや。としぐれをうらめる也。されどもとより心なきしぐれなれば、うらみたりとて、その詮もあるべからぬをしりながら、古人すゞろに歌とよむべきにあらねば、必言外に情あるべき事明らかなり。されば思ふに、四月より九月にいたるまで、客中におはして、家人のこひしさしのびがたき事を、家にいひつかはし給へる歌也。されど公にはゞかりたまひて、かくしぐれの所爲をうらみたる詞をつけさせたまへる也。浦佐夫流情、また佐麻禰之の佐もじなど、詞づくり、みやびめでたしとも、よの常ぞかし。
海底《ワタノソコ》。奥津白浪《オキツシラナミ》。立田山《タツタヤマ》。何時越奈武《イツカコエナム》。妹之當見武《イモガアタリミム》
〔言〕海底 わたは、海をいふ事、まへにいへるがごとし。底はもと曾伎古《ソキコ》の伎《キ》のはぶかりたる也。曾伎《ソキ》は放《ソキ》なり。古《コ》 處《コ》なり。こゝより遠き處を、曾古《ソコ》とはいふなり。されば澳の冠とせる也。奥《オキ》とは、とほくもあれ、深くもあれ、奥まりたる所をいふなり。この故に、海底奥とはつゞけたるなり。此集卷五に【長歌】和多能曾許意枳郡布可延乃《ワタノソコオキツフカエノ》云々とよめると、此歌は冠詞なるなり。【冠辭考には、この卷五の歌一首のみ、この集中には冠なるやうにかかれたれど、此歌も冠也。序にいひおくなり。】都《ツ》もじは、すべてそこにつきて、他にふれぬかたちを云。天(277)津風・時津風・澳津藻・邊津藻などの津に同じ。以上二句、海底は奥の冠なり。奥津白浪は、立のよせなり。畢竟は、二句立のよせなれば冠ならず、と眞淵はいへるなるべし。しかれどもよせの中の冠例少からず。○立田山 大和國平群郡河内の堺にある山なり。されば前にもいへるがごとく、伊勢よりの歸路にあらねば、こと人の歌にや。又左註にいへるがごとく、誦せられたる古歌にやともおもへども、これはなべてのめにもかゝる所なり。いかなる公用ありて、伊勢よりの歸路、河内の方より大和にかへり給ふべき事ありて、かくよませたまひしか。またはゞかりてわざと歸路にあらざる山をよませ給へる倒語ならむもはかりがたし。古人の詞づくりは、變化不測なれば、この疑をのこしおくなり。○何時越奈武 なむの奈《ナ》は、去倫の奴のかよへるにて、いつか越畢る時にならむといふ程の心なり。これもはらその時の待どほなるを思はせむが爲なり。○妹之當見武 これは立田山を越はつる處よりは、妹が家のあたりみやらるればなるべし。この二句うちつけにはをさなげなる詞づくりのやうにみるべけれど、しからず。大かたわが所思は何時越奈武とばかりにて盡ぬべけれど、みむ人、さは妹にあはむの心をやみとほされむとて、さらに妹之當見武とは添たる也。さればいつか越なむと待遠なるは、妹にあはむとにはあらず。妹が家のあたりをみむとの心なり。との心に詞をつけ給へる也。古人公理をおもくおもふ心の厚き事、かつ詞をつくるに心を用ひたる事みつべし。
〔靈〕此歌、表は、いつ立田山を越はつる時にかならむ。そのあたりよりは、妹が家のあたりのみゆ(278)べければ、待どほなり。とたゞ妹が家のあたりのみまほしさの心を、むねとよみ給へるなり。されど、妹が家のあたりのみまほしきばかりの事に、古人こと/”\しく歌はよむものにあらぬがうへに、長々しきよせを置たまへる、ひとへに情言外にあるしるし也。されば思ふに、客中に月を經て、家のこひしく今はかた時もはやく妹にあはまほしき心を、家に告たまひし歌なる事明らか也。しかれども私ならぬ旅なれば、妹にあはまほしと人おもはむをさへはゞかりて、かくは詞をつけたまひしもの也。ことに長々しきよせをおかれたる事、客中に月ごろになりぬるしかじかをはゞかりて、かへ給へる事しるし。後世あさましき言ざまに照らして、この詞づくりのみやびよくくこゝろをとゞむべし。
右二首今案(ズルニ)、不2似御井(ノ)所作(ニ)1若(シ)疑(ラクハ)當時誦(セル)之古歌|歟《カ》
この左註ことわりなり。されど、古人の倒語、凡眼の及びがたき所なれば、是非しがたし。前に予がおもふよしは、論らひおけり。
寧樂宮
こゝにかく標すべきにあらず。錯亂したるなるぺし。
長(ノ)皇子與2志貴《シキノ》皇子1於《ニ》2佐紀《サキノ》宮1倶(ニ)宴(スル)歌
この佐紀宮は、大和國添下郡佐貴郷なるべし。此皇子の宮にこそ。此集卷十に 春日在《カスガナル》。三笠乃(279)山爾《ミカサノヤマニ》。月母出奴可母《ツキモイデヌカモ》。佐紀山爾《サキヤマニ》。開有櫻之《サケルサクラノ》。花乃可見《ハナノミユベク》とよめる、同處なるべし。春日も同じ郡也。
秋去者《アキサラバ》。今毛見如《イマモミルゴト》。妻戀爾《ツマゴヒニ》。鹿將鳴山曾《カナカムヤマゾ》。高野原之宇倍《タカヤハラノウヘ》
〔言〕秋去者は、秋にならばと云也。去の事、まへに論らへり。此飲宴したまひしは、春夏のほどなりけるなるべし。○今毛見如 ある註に、今みるごとくに行末もかはらじと云也といへるは、毛《モ》もじの心をいかにみての説にや。心ゆかず。この毛《モ》もじを思ふに、古今集にあなこひし今もみてしが山がつのかきねにさけるやまとなでしこ とよめる詞と同じく、今《イマ》とは眼前をさす也。毛《モ》は未然を主とたてゝ、そこに眼前をつけて毛《モ》とはいふ也。かくいふ故は、心にむねと思ふ事をさとさむがために、かへりて今を客としたるなり。古人脚結を用ふる自在思ふべし。大かた、毛《モ》と如《ゴト》に未然をねがふこゝろがまへををさめたる詞なり。此一句、下の三句につゞけてみるべからず。此集卷十八に等許余物能《トコヨモノ》。己能多知婆奈能《コノタチハナノ》。伊夜※[氏/一]里爾《イヤテリニ》。和期大皇波《ワゴオホキミハ》。伊麻毛見流其登《イマモミルコト》また卷二十二に波之伎余之《ハシキヨシ》。家布能安路自波《ケフノアロシハ》。伊蘇麻都能《イソマツノ》。都禰爾《ツネニ》。伊麻佐禰《イマサネ》。伊麻母美流其等《イマモミルコト》など、よめり。かゝるおきざま、この詞の常なれば、こゝも此句にて句とすべきなり。此詞、ひとりまた來むとおほせられたるにもあらず。又來ませと賓におほせられたるにもあらざる、これ古言のたふとぶべき所なり。○妻戀爾云々 鹿を、古點|志加《シカ》とよめれど、さては八言となりて、ひきあひのさだめにかなはず。【ひきあひとは、よにいふもじあまりなり。】加《カ》とのみいふ例多ければこれも鹿《カ》とよむべし。秋は(280)妻ごひすと鹿のなかむ山ぞや。と賓志貴(ノ)皇子にまをしたまへる也。この妻戀をば、志貴(ノ)皇子をこふるにそへ給ふなるべしと或註にいへるは、後世の歌のめうつし也。これはたゞ、妻こふると鳴む鹿の聲をきかむとの心なり。曾《ゾ》は、里言にジヤゾといふ心にて、その筋の自然を示す詞なり。古事記の長歌に【上畧】阿治志貴多迦比古泥能迦微曾也《アチシキタカヒコネノカミゾヤ》とあるに同じ。○高野原之宇倍 この集卷九に黒玉《ヌバタマノ》。夜霧立《ヨギリゾタテル》。衣手《コロモデヲ》。高屋於《タカヤノウヘニ》。霏※[雨/微]麻天爾《タナビクマデニ》といふ歌あれば、こゝも、たかやはらとよむべし。續日本紀に、添下郡佐貴郷高野山陵ともあれば、此宮近き所なるべし。これ、佐貴(ノ)宮を弛《ハヅ》してよませ給へるみやび言也。宇倍は、あたりといふ心なる事、まへにいへるがごとし。
〔靈〕この御歌、表は、秋ふかくならば、此高野原のあたりは、妻ごひに鹿なくべき山なれば、その聲きゝにこむとの心なり。されどしかおぼしめさば、たゞ御心のうちにてやみぬべく、曾《ゾ》もじをおき給ふべき事ならぬを、古人ことさらに歌とよむものにあらず、必言外に御情あるべき事明らか也。されば思ふに、けふ賓の志貴(ノ)皇子と遊びたまふが、あかずおもしろさに再會をちぎり給へる御歌なり。しかれども、大かた人を來《コ》よといはむはしひ言なれば、志貴(ノ)皇子のその聲きゝにこむとおぼしたち給はむやうに、との倒語也。古人はかく興あるべき事に誘ふだに、深くつゝしみて詞をつけたり。返々、後世のいやしき心をかへりみて、此御歌のめでたさを思ひしるべし。よに、十人がひとりだにとて、我ながら狂へるがごと、わか御國ぶりをいふ。なほしひ言の罪ま(281)ぬかれがたくやあらむ。
萬葉集燈卷之五 本集卷之一終
2007年6月5日(火)午後6時56分、入力終了
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(私論.私見)