津田左右吉学説考

 (最新見直し2011.9.2日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、津田左右吉学説を検討し、れんだいこ学説を対置しておくことにする。

 2011.9.1日 れんだいこ拝


【津田左右吉の履歴考】
 ここで、津田左右吉の履歴を確認する。「ウィキペディア津田左右吉」その他を参照する。

 津田 左右吉(つだ そうきち、1873年(明治6年)10月3日 - 1961年(昭和36年)12月4日)は、20世紀前半の日本史学者である。『日本書紀』『古事記』を近代的な史料批判の観点から批判・否定したことで知られる。従三位勲一等瑞宝章。

 1873(明治6).10.3日、岐阜県美濃加茂市下米田町(現在の美濃加茂市東栃井(とちい)にて尾張藩家老竹腰家の旧家臣津田藤馬(とうま)の長男として生まれる。本名親文(ちかふみ)。出身。名古屋の私立中学を中退。

 1891(明治24)年、東京専門学校(後の早稲田大学)邦語政治科卒業。卒業後、沢柳政太郎(さわやなぎまさたろう)の庇護(ひご)を受け、白鳥庫吉(しらとりくらきち)に紹介され、白鳥の西洋史教科書に協力する。

 1896(明治29)年より1908(明治41)年まで、千葉、独協(どつきよう)などの中学教員を歴任。


 1901(明治34)年、「新撰東洋史」(宝永館)を著わす。

 1908(明治41)年、白鳥が開設した満鉄の満鮮歴史地理調査室研究員となった。ここにおいて満蒙(まんもう)・朝鮮の歴史地理的研究に着手する。

 1913(大正2)年、「朝鮮歴史地理 上下巻」(南満洲鉄道)を著わす。調査室での文献批判的実証研究の経験と討論は、学問的研究の出発点となった。満州・朝鮮史に次いで日本古代史と中国思想史を中心に多くの研究を発表することになる。

 同年、「神代史の新しい研究」(二松堂書店)を著わす。

 1918(大正7)年、早稲田大学講師(東洋史)として採用される。

 1920(大正9)年、教授となり、東洋哲学を教えた。1916年から21年にかけて「文学に現はれたる我が国民思想の研究 四冊」(洛陽堂)を著わし、日本の国民思想が中国思想など外来の思想の影響を受けつつも独自のものを展開してきたことを跡づけた。

 1919(大正8)年、「古事記及び日本書紀の新研究」(洛陽堂)を著わす。

 1924(大正13)、51歳の時、先の「神代史の新しい研究」に続いて「神代史の研究」(岩波書店)を発行する。この二著は神武天皇以前の神代史を研究の対象にし史料批判を行ったもので、記紀の皇統譜は帝紀を基礎とし,8世紀初頭の天皇制を正当化するための創作とし,天孫降臨などの史実性を否定した。いわゆる記紀作為説を展開し、記紀に書かれた内容は歴史的史実ではなく、神話でもなく、当時の政治思想の表現で在るに過ぎないとした。これを仮に「津田史学」と命名する。「津田史学」とは、記紀の神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして厳格に文献批判を行うもので、近代実証主義を日本古代史に当てはめて記紀解析に向かったと解することができる。しかし、この手法は皇国史観批判に繫がる故に禁忌とされていた。津田が、このタブーを破って堂々と批判したことに意味が認められる。皇国史観に拠らない古代史研究の基礎を築いたことになる。

 続いて「古事記および日本書記の新研究」を著わし、「神武天皇東征」、「ヤマトタケルの命の西伐東征」、「神功皇后の新羅征伐」などを「すべてが空想の物語」だと断じた。

 1927(昭和2)年、「道家の思想と其の開展」(東洋文庫)を著わす。

 1930(昭和5)年、「日本上代史研究」( 岩波書店)を著わす。

 1933(昭和8)年、「上代日本の社会及び思想」(岩波書店)を著わす。

 1935(昭和10)年、「左伝の思想史的研究」(東洋文庫)を著わす。

 1937(昭和12)年、「支那思想と日本」(岩波書店)を著わす。

 1938(昭和13)年、「儒教の実践道徳」()を著わす。「蕃山・益軒」(岩波書店)を著わす。

 1939(昭和14)年、東京帝国大学法学部講師(東洋政治思想史)を兼任する。

 国家主義者の蓑田胸喜(みのだ・むねき)、三井甲之らが、蓑田の主宰する雑誌「原理日本」誌上で、津田史学の諸学説が大逆思想にあたると糾弾し、津田を「日本精神東洋文化抹殺論に帰着する悪魔的虚無主義の無比凶悪思想家」と攻撃した。当時の皇国―神国史史観よりする批判であった。こうして、当時の世情の右傾化が進むことにより不敬に当たるとして国粋主義者から睨まれるようになった。

 概要「いまこの津田氏の所論に至っては、日本国体の淵源(えんげん)成立、神代上代の史実を根本的全体的に否認することによって、皇祖[天照大神から神武天皇まで]、皇宗(こうそう)[第二代以降の歴代天皇]を始め奉り十四代[神武天皇から仲哀天皇まで]の天皇の御存在を、それ故にまた神宮皇陵の御義をも併せて抹殺しまつらむとするものであるから、これは国史上全く類例なき思想的大逆行為である」。

 1940(昭和15).2.10日、政府が、「古事記及び日本書紀の研究」、「神代史の研究」、「日本上代史研究」、「上代日本の社会及思想」の4冊を発売禁止の処分にした。同年、文部省の要求で早稲田大学教授も辞職させられた。津田と出版元の岩波茂雄は出版法違反で起訴された。

 裁判は29回の予審と21回の公判を経た。

 予審では「古事記及び日本書紀の研究」が次のように認定されている。

 「(1)畏(かしこ)くも 神武天皇の建国の御偉業をはじめ 景行天皇の筑紫御巡業および熊襲(くまそ)御親征、日本武尊(やまとたける)の熊襲御討伐および東国御経略ならびに神功皇后の新羅御征討等上代における皇室の御事跡をもってことごとく史実として認めがたきものとなし奉るのみならず仲哀天皇以前の御歴代の天皇に対し奉りその御存在をも否定しし奉るものと解するほかなき講説を敢(あえ)てし奉り、(2)畏くも現人神(あらひとがみ)に在(まし)ます天皇の御地位をもって巫祝(ふしゅく)に由来せるもののごとき講説を敢てし奉り(3)畏くも 皇祖天照大神は神代史作者の作為したる神に在ます旨の講説を敢てし奉る」。

 1942(昭和17).5月、第1審判決が下され、「古事記及び日本書紀の研究」のみを出版法違反とし、津田に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の有罪判決を受けた。判決理由は、「(仲哀天皇以前の)御歴代の御存在について疑惑を抱かしむるの虞(おそれ)ある記述をおこない、今上陛下に至らせ給う我が皇室の尊厳を冒瀆した」云々。判決が比較的に軽いものとなった背景には、津田の著作がけっして不敬にはあたらないという東大教授、和辻哲郎による弁護証言が寄与したものと思われる。

 検察当局はこの判決を不満として控訴、また津田、岩波の側も控訴して争った。

 1944(昭和19).11月、控訴院〔現在の高等裁判所〕が、本件は「時効完成により免訴」と宣告、事件はあっけなく終わった。津田のいずれの著作も増刷を重ねたとはいえ、発行時期がかなりの期間を経過しており、出版法の公訴時効1年をすぎているという、当時の厳しい状況からすれば例外的な目こぼしとなった。

 戦後、津田自身の戦前における弾圧の経験とあいまって、ほとんど熱狂的に学界に迎えられ、軍国に屈しなかった進歩的学者と持ち上げられた。戦後、皇国史観否定が時代の流れとなり、マルクスの唯物史観に立つ人ぴとが、戦前来より記紀否定の立場を堅持していた津田史学を支持するようになった。津田史学は唯物史観と共に広く受け入れられ第二次世界大戦後の歴史学の主流となった。津田は、敗戦による価値観の転換を体現する歴史学者の代表となった。

 1946(昭和21)年、津田は、雑誌「世界」第4号に論文「建国の事情と万世一系の思想」を発表し、「天皇制は時勢の変化に応じて変化しており、民主主義と天皇制は矛盾しない」と天皇制維持論を展開した。これにより、天皇制廃止論者たちからは「津田は戦前の思想から変節した」と批判された。津田本人は日本独自の歴史を重んじる立場で当時のマルキシズムにも敵対していたことになる。

 津田の個々具体的な主張には、かなり印象論的なものも多く、当然一部に批判もあった。日本史の坂本太郎や井上光貞は、津田らの研究が「主観的合理主義」に過ぎないという主旨の批判を行っている。但し、坂本や井上をはじめ戦後の文献史学者の多くは津田の文献批判の基本的な構図を受け入れており、一般に継体天皇以前の記紀の記述については単独では証拠力に乏しいと見ている。


 同年、「論語と孔子の思想」(岩波書店)を著わす。

 1947(昭和22)年、帝国学士院(同年中に日本学士院と改称)会員に選ばれた。「歴史の矛盾性」(大洋出版社)を著わす。

 1948(昭和23)年、「ニホン人の思想的態度」(中央公論社)、「学問の本質と現代の思想」(岩波書店)を著わす。

 同年、「日本古典の研究」(岩波書店)を著わし、次のように述べている。

 概要「一々の物語の内容についての著者の研究は、それらが何れも後人の述作であることを示したのであるから、そういう材料は初めからなかったものとする外ない。(中略)そうして国家の成立に関する、或いは政治上の重大事件としての、記紀の物語が一として古くよりの言い伝えによったものらしくないとすれば、それらが幾らか旧辞の原形とは変わっていようとも、根本が後人の述作たることには疑いはなかろう。(中略)口碑としても伝説としても、その情勢が殆ど伝えられていなかった。(中略)だから、それによって、我々の民族全体を包括する国家が如何なる事情、如何なる径路、によって形成せられたか、ということを知ることはできない。ヤマトの朝廷の勢力の発展の状態についても、歴史的事実がそれによって知られるのではない。帝紀旧辞の初めて述作せられた時に於いて、既にそれが分からなくなっていたのである。それ故にこそ其の述作者は、其の空虚を充たすために、種々の人物とその物語とを作り、それを古い時代のこととして記したのである」。

 1949(昭和24)年、文化勲章受賞する。「日本の神道」(岩波書店)、「おもひだすまゝ」(岩波書店)を著わす。

 1950(昭和25)年、「必然・偶然・自由」(角川新書)、「儒教の研究 全3巻 」(岩波書店)を著わす。 

 1951(昭和26)年、「諸民族における人間概念」(国連出版社)を著わす。

 1952(昭和27)年、「日本の皇室」(早稲田大学出版部)を著わす。

 1953(昭和28)年、「日本文芸の研究」(岩波書店)、「歴史の扱ひ方 歴史教育と歴史学 中央公論社 」(中央公論社)を著わす。

 1957(昭和32)年、「シナ仏教の研究」(岩波書店)を著わす。 

 1959(昭和34)年、「歴史学と歴史教育」(岩波書店)を著わす。

 1960(昭和35)年、美濃加茂市名誉市民第1号に選ばれた。

 1961(昭和36)年、「想・文芸・日本語」(岩波書店)を著わす。

 同年12.4日、逝去(享年88歳)。

 1963(昭和38)年、「津田左右吉全集 全28巻、別冊5巻、補巻2巻」(岩波書店)出版される。

 2006(平成18)年、「津田左右吉歴史論集 岩波文庫 」(岩波書店)出版される。

 2011.9.1日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№991 れんだいこ 投稿日:2011年 9月 2日
 【津田左右吉学説考その1】

 ここで、れんだいこの津田左右吉論を記しておく。過日、今後の古代史研究の方向性を探る為に津田左右吉の諸学説を確認しようと思いネット検索した。確かに「ウィキペディア津田左右吉」を始めとして出るには出てくる。だが津田学説の中身を知ろうとしても一向に分からない。

 こういう例は何も津田左右吉ばかりではない。極論すればあらゆる情報が表相であり肝腎の知りたいものが出てこない。あたかも「知らしむべからず寄らしむべし」を地で行っている感がある。これがネット情報の限界なのだろうか。

 政治や思想関係に限って言えば、敢えて入口止まりの情報に止められている気がする。グーグル検索とヤフー検索が次第に似てきており、こうなると情報統制の恐れなしとしない。こういう寒い状況に抗して、この閉塞を打破し、真相を解明し、これを積極的に知らせる為のサイトアップが要請されている。

 一般に或る対象を解析する為の常法は「5W1H」である。「WHEN(いつ)」、「WHO(誰が)」、「WHAT(何を)」、「WHY(なぜ)」、「HOW(どうした)」を確認すれば、当らずとも遠からずとなる。ところが、ネット上に出てくるのは「WHEN(いつ)」、「WHO(誰が)」、「WHAT(何を)」止まりであることが多い。

 肝腎の「WHY(なぜ)」、「HOW(どうした)」が抜けている。更に付け加えれば「REASON(論拠)」、「PROCEED(経緯)」の考察が必要である。これがなければ絵画彫刻で云えば「画竜点睛」を欠いていることになる。これ故、今後は「5W1H+RP」(略して「5W1HRP」)を正解としたい。これを「れんだいこの実践論理学」に加えることとする。

 「れんだいこの実践論理学」
 (gengogakuin/jissenronrigaku/jissenronrigaku.htm

 「WHY(なぜ)」、「HOW(どうした)」、「REASON(論拠)」、「PROCEED(経緯)」のくだりは難しいところであるから評しにくいのは分かる。しかし、ここを評さなければものになるまい。ものにならないまま上ヅラの情報のみで事勿れし、事足りている精神の持主はよほど幸せもんだろう。

 代わりにご執心なのが著作権である。著作権法によれば、著作者、出典元、出所元等を記し、盗用の恐れのないよう配慮に気をつければ引用転載可と読むべきところ、この規定を超えて事前通知、事前承諾なければ引用転載不可論、他にも文量規制論を公言する手合いが多い。

 中には引用は可であるが転載はダメだとか、分かったような訳の分からない理屈をこねる者が後を絶たない。最近はさすがに少なくなったが、ネット上のリンクさえ事前通知、事前承諾の対象とするサイトが存在する。中には営業的利用は不可だが学問的利用は可論を唱える者もいる。しかし、営業的と学問的の仕切りをどこでするのかにつき精密に規定できるものはない、即ち問題を小難しくしているだけのことに過ぎない。

 強権的な著作権論を振りまわして著作権森の中から獲物を見つけ出して狩猟に励むよりも、我々の学問水準が大きく立ち遅れていることを憂慮し、この遅れを打開する方向に頭を使うべきだろう。その頭脳がない腹いせ代償行為と思われるが、強権的な著作権論を仕立て上げ強硬的適用で正義ぶる手合いが多い。

 こういう連中に漬ける薬はないものかと思案しているが、れんだいこが身を持って手本を示すに如かずとして意欲的にサイトアップし続けている。これにより知識を得た者は己の狭い了見による囲い込みの非を恥じ、私も貰うがお返しもするの助け合いの精神に転じ、沃野の開墾に向かい始めるだろう。

 分別すべきは我々の寿命である。朝に紅顔ありとも夕べには死す身の者が千年万年の鶴亀の如く生ある身と勘違いして欲心起こすこと勿れ。著作権野郎と、れんだいこおのこと、どちらの云いが生産的か暫し沈思黙考せよ。

 2011.9.2日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№992  れんだいこ 投稿日:2011年 9月 2日
 【津田左右吉学説考その2】

 もとへ。津田史学をどう受け止めるべきだろうか。これが本稿の本題である。れんだいこは次のように考えている。もっとも今時点では津田氏の書籍を読んでいない。諸氏の評から透けて見えてくる津田史学を前提にして批評する。

 津田氏は、当時の皇国史観に立ち向かった稀有の学者であった。多くの者が皇国史観を鵜呑みにし、或いは皇国史観が御用学故に批判することの不利益を思い面従腹背で上手に世渡りしている折柄に於いて、堂々たる皇国史観批判諸説を開陳した。ここに津田史学の意味と価値がある。

 次のように評されている。
 「津田史学は、古事記、日本書紀の記述間の食い違い、あるいは相互矛盾をとりあげ、記紀に記されている神話は天皇制が確立した第29代欽明天皇の時代の頃、即ち6世紀の中頃以後、天皇家の権威を高める為に大和朝廷の万世一系の皇統譜を正当化しようとする政治的意図に従って作りあげたものであると説いた。 端的に云えば、神話は机上でつくられた虚構創作であり史実を記した歴史ではないとした 」。

 戦後、皇国史観否定が時代の流れとなり、これを批判していた津田史学が学界に迎えられた。津田自身の戦前における弾圧の経験が軍国主義に屈しなかった進歩的学者と持ち上げられ歴史学者の泰斗の評を得た。唯物史観を戴くマルクス主義派が津田史学を支持するようになり、津田史学が第二次世界大戦後の歴史学の主流となった。津田は、敗戦による価値観の転換を体現する歴史学者の代表となった。これにより記紀記述を代表とする日本神話を軽視する流れが生まれた。日本のマルクス主義歴史学はこの系譜から生み出されている。

 但し、津田氏の皇国史観批判スタンス即ち記紀神話批判スタンスの荒唐無稽論は良いとして、本来はその先に向かわねばならない筈のものではなかったか。記紀神話の裏に秘められたる筆法による歴史記述をどう嗅ぎ取るべきか、これが問われていたのではないのか。この問いに対し、津田史学はどう立ち向かおうとしていたのだろうか。津田史学がここに及ばないとすれば片手落ちではなかろうか。

 記紀の編者達の能力をどう見るかによることになるが、編者達は時の御用学者、御用史家として云われるままに荒唐無稽説を記したのであろうか。れんだいこはそうは看做さない。荒唐無稽の部分は逆に荒唐無稽を浮き上がらせる形にしており、史実とは違うことを裏メッセージしているようにも思える。

 19世紀の文献批判学者達が古代ギリシャ神話のイリアス、オデュッセイアなどをホメロスの空想の所産でありお伽噺に過ぎないとしていた折柄、学者としてはアマチュアのシュリーマンが神話の中に潜む真実に魅せられて遂に伝説のトロイアを見つけ、都市トロイアの存在を証明した。この例は、荒唐無稽論者の方が荒唐無稽であることを逆証左した。

 例えば皇紀2600年問題に繫がる「辛酉年春正月庚辰朔」などが典型である。明らかに詐術しているのであり、こういう場合、詐術批判で済ませてはならない。なぜ詐術しているのか、真相はどうなのかへ関心を向かわねばならない。他の下りも同様である。

 記紀編纂時点で伝承が混乱しており混乱のまま記述している場合もあろう、時の政権の正統性を引き出す為に不都合記述を削除し、有利な記述を更に脚色している場合もあろう。いろんな筆法がなされているであろうが、これを読み解くのが仕事であり荒唐無稽批判するのは入り口の話でしかない。

 繰り返すが、記紀神話の荒唐無稽批判の次には真相の史実を探ろうとせねばならない。これが引き続きの学問的営為となるべきであろう。津田史学は荒唐無稽批判の次に何を営為したのだろうか。ここが知りたいところだが見えてこない。荒唐無稽の個所を荒唐無稽と批判しても、当たり前過ぎる批判に過ぎない。仮に津田史学が記紀神話の荒唐無稽批判で事足りているとしたら、それは時の皇国史観批判に於いてのみ意味があり、それ以上のものではないと断ぜざるを得ない。

 れんだいこは、津田史学の記紀神話荒唐無稽批判を受け入れる。だがしかし、ならば真相はどうだったのかを次に引き受ける。津田史学が何故にこの姿勢を持たなかったのかを訝る。この姿勢を持たない津田史学とは何ものか。ここに疑惑を宿さない訳にはいかない。

 以上は、津田氏の著書を読んでないままの評である。実際に読めば、津田史学の本意は皇国史観的歪曲を政治利用する近代天皇制批判の為に記紀神話批判を策したのであり、日本神話の否定自体が目的であったのではないと理解することができるのだろうか。実際の津田史学については知らないので舌鋒が鈍るが、津田史学はかく理解される時にのみ価値がある。単に日本神話否定論を唱えていたとしたら歴史の屑かごに入れられるべきであろう。

 日本のマルクス主義歴史学然りであり、本来であれば戦後は古代史解明の貴重な資料として非皇国史観的理解による日本神話研究に精力的に取り組むべきであった。日本神話否定、却下に向かうべきではなかった。史実は、津田史学の最も悪しき方向へ舵を切ったことになる。そういう意味で、れんだいこの日本神話研究こそ、日本マルクス主義歴史学が誤った学的態度の今時の軌道修正に向かう営為であるということになる。誰かかく共認せんか。

 2006.12.3日、2011.9.2日再編集 れんだいこ拝

【津田左右吉学説考その3】
 梅原猛・氏の「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」(新潮社、2010.4.25日初版)が、本居宣長と津田左右吉の対照的な論を述べ、且つ持論を述べている。これを確認する。
 これで出雲神話が、決して古事記編集者が勝手に作り上げた全くのフィクションではなく、歴史的事実を正確に反映したものであることが分かっていただけたものと思う。(中略)それにはます、本居宣長と津田左右吉の説を批判しなければならない。戦前の記紀論は、おおむね本居宣長の説に支配されていたといっていい。宣長は、今まで軽視されていた古事記こそ日本の『神ながらの道』が表れた神典であると考え、古事記の注釈書を書くことに一生を捧げた。その書が有名な古事記伝である。

 それに対して、戦後の歴史学者の多くは津田左右吉の説によっている。津田はまことに綿密な考証によって古事記、日本書紀の研究を行った。それが昭和23年(1948)、日本古典の研究と題する一冊の書物としてまとめられた。この書で津田し、日本神話ばかりでなく、記紀の応神天皇以前の記事をすべて信用できないと否定する。そしてそれらの神話は、6世紀の末、おそらく欽明天皇の御世に、天皇家に神聖性を付与する為に創作されたフィクションであるとしてしまう。彼は『日本神話は偽造された』と一刀のもとに日本神話を切り捨ててしまった。戦時中、津田説は出版法に触れたが、そのことが却って津田左右吉の学者としての良心の証であると考えられ、津田説は、家永三郎氏の如き戦後左翼に転向した歴史家のみならず、井上光貞氏の如きマルクス主義を採用しない冷静な歴史家すら影響を受けるところとなった。

 つまり記紀を解明するには、この二人の説、本居宣長と共に津田左右吉を徹底的に批判しなければならない。さらにもう一つ、批判しなければならない説がある。それは誰あろう私自身の説である。(中略)日本神話を解明する為には、本居宣長説、津田左右吉説と共に、私の旧著『神々の流ざん』をも厳しく批判しなければならない。

【1946年、大隈講堂での津田講演】
 早稲田一九五〇年・史料と証言 別冊・資料」より転載する。
 『裁判の日々』  津田左右吉博士は一九四〇年(昭和十五年)、皇室の尊厳を冒したとして、岩波書店主、 岩波茂雄とともに出版法違反の容疑で起訴された.裁判は戦時下の二年半に及び、禁固三 月(執行猶予二年)の判決をうけ、主著「古事記及び日本書紀の研究」「神代史の研究」 外二冊も発禁となった.この書簡は、当時、岩波書店にあって津田博士のよき相談役とな った藤川覚氏(ジャーナリスト.のち横浜事件に連座.本誌編集部・藤川亨の父)あてに 送られた五十五通の書簡中から、裁判に関係する十二通を特輯したものである. (編集部)
 一九四六年十一月二十一日号  満身にみなぎる学的良心  学の自由を説く津田博士  聴衆講堂にあふれる三日間  

 わが国の歴史学会に不滅の足跡を印し、また早稲田の生んだ最大の学者の一人としてさ らに公選された総長の椅子さえも辞退して、只管学問の研究に生涯を託する真摯な学究の人津田左右吉博士の特別講演が十二日(学問の本質)十四日(現代思想界と学問)十六日 (学問と学生)と三日にわたって大隈講堂で行われた。島田総長・吉村常任理事等の懇請 により、奥州平泉の地から早稲田の徒のために、学問の自由を説きに来られた博士の熱情 は、連日講堂を埋め尽くし、また入場出来ず小講堂の拡声器の前に立つて講演を聴いていた数千の早稲田の徒に深い感銘と感激を与えたのである。とくに第二日天皇制を論じ、天皇を愛し天皇治下の民主政治の確立を叫ぶ津田博士が、目をうるませて腹の底から、心の底から全聴衆に愛国の至情を訴え、左翼の攻撃を非学問的な態度として鋭く批判したことは、聴講者に非常な興奮とセンセーションを捲き起し、しばし拍手が鳴り止まぬ劇的なシーンを展開した。陛下の人間的な悩みを人一倍同情されている博士の「人間を理解せずし て人間生活を論じ国政を執ることは不可能だ」と叫ばれた一節は、また悩み多き学生の胸に一際強く響いたのか、その節を口ずさみ乍ら帰途についた者も多かった。
 □ 第一日  真実の姿を眺めよ  学問の本質を説く  

 午後二時吉村常任理事、島田総長の挨拶後、満場の拍手の裡に背広姿の津田博士は静か に歩んで登壇された。七十四歳の高齢とはみえない張り切った皮膚、眼鏡の奥に鋭く光る瞳は、津田博士未だ老いずの第一印象を万人に与えたのであった。学問の自由の弾圧時代、 博士もまた無実の罪に問われ、学園を去った。以後幾星霜、今幾千もの学問の独立、研究 の自由を擁護しようと志す若い世代を前にして博士は感慨深げに講堂の二階あるいは一階 の隅にまで溢れている学生を見廻された後、低い声で講演を開始されたが、話の進むに従ってその声は熱を帯び、若々しさを取り戻し「学問は現実に遡れ」と叫ぶ博士の熱情は堂を圧したのである。  


 【講演要旨】  
 戦後、権力による学問の圧迫はなくなったが、今や思想混乱の底流に強い流れがある。 われわれはかかるものにも流されない学問、学問の自由を護らねばならない、一口にいえ ば学問の目的は、物事の真実の姿を眺めることである。真実探求こそ学問なのである。真理探求の方法として二つの区別がある、第一として自然科学のように一般的事物の法 則を知ること、第二として歴史学のように具体的な事柄を具体的なまま知ることである、 つぎに学問を得る方法としては(一)方法論の正しいこと(二)論理的なこと(三)体系的なこと(四)人間を全体的に考える、即ち全人的な働きとしてみる、以上四つの観点があり、とくに第四は重要である。  

 
人間生活は色々の側面を持っているがそれを全体としてみることが必見なのである。学問の分科は、一つの学問の側面であり、人間生活の色々の作用である、また現実の事柄は 世界性をもち各民族に共通なものがあるが、一方共通でも他方に異なる点があるから、相 違を比較研究し、他民族の思想学問をそのままわが国に適用してはならぬ、また古今の相 違がある故、昔の学説をそのまま現代に適用することは、現実を離れ、学問を誤らせるから、歴史的研究をせねばならぬ。人間の精神の面と物質の面は不即不離であり、われわれは一つの概念と具体的事実、あるいは現実と特殊の理論をごっちゃにしてはならぬ。現実と理論の相違を認識することが大切である。学問と現実面を考える時、学問の第一の目的は真理探究であり、真実を擁護することこそ学問成立の要諦であるが、これのみが全部ではなく一側面に過ぎない、学問の力で現実を一歩進めねばならぬ。また現実は真実に非常に多くの事柄が側面として作用しているのであるから、一つの概念によって複雑な現実を指導してはならぬ、これはあくまで現実より出発して現実を観ね ばならぬ。「芸術は自然に帰れ」というが如く「学問は現実に還れ」と私は言いたい。 現代の思想界に単純化された理論をもって現実を指導せんとする傾向のあることを私は憂うものである。
 □ 第二日  民主政治実現に三前提  天皇制に存続二つの意味  現代思想界を批判  

 「学問の立場から見た現代思想」と題し、前回に勝る多くの学生を前にして、十四日午 後二時から五時卅分まで三時間半の長時間、博士は熱弁を揮った。  

 【講演要旨】   
 現代の民主政治は、民主主義という概念が思想的に存在し、その概念の実行を考えてい るのが現在の状態である、しかし民主政治はつぎのような状態になって始めて完全となるのである。 (一)国民の智能が向上し、全国民が国政を監視し処理をする。(二)個人が自覚して国政に熱意をもつ。(三)国民全体の道徳的教養が高いこと等である。現在の集団は、この条件に適合しないから国民の文化水準を高めて民主政治の実現に努力をなすべきである。現代に於ては民主体制の機構、方法が民主的であることに重点が向けられ、人間が閑却されているが、まず個人の人格を重んじてよい社会を作らねばならぬ、 民主政治においては指導者が権力を特殊のものと考えて民衆を自己の意思に従わせようと してはならない。物事を一方的な概念で見るのは民主政治の原則に反するし学問的でない。 左翼の一部の人は、労働者という概念を現実にあてはめようとしているがそれには怠者や、 高い収入を得てる労働者もその概念に含まれる。それに日本のプロレタリヤと他の階級( 官公吏教員等)との報酬の差はどうであろうか。特殊の理論で一面的に物を見たり、今の 思想で皆を律するのは非学問的な態度である。

 天皇制には二つの意味がある。 (一) 天皇の存在していた古今の事実。 (二) 天皇によって何かの働きのある状態。 反対論者の多くは、天皇の本質と付随的なものを混同している、天皇と資本主義あるいは天皇と軍閥のごときは一時的な結合で、それが天皇の本質ではない。天皇は専制君主ではない。今の天皇陛下が、一度でも憲法上の裁可を拒否されたことがあったろうか、西洋的な専制君主の概念で天皇を攻撃するのは学問的でないし天皇制の研究の足らぬものがこ ういうことをいうのである、また天皇の存在することに反対するものは、神話の虚偽やそれによって尊敬される天皇は権威がないという。しかし神話は始めから本当のことではな い、神話はある時代にすでに権威のあった皇室を価値づけるために作られた物語であり解釈なのだから、神話否定は皇室否定を意味しない。神秘的な天皇を崇拝することなどは明治以後のことで日本史にはそんな事実はどこにもない。天皇が氏族の長だという史実もない。神武紀元もこしらえたもので、歴史を組立てる便宜上のものであるが、それだからといって皇室の価値の否定の原因にはならぬ。皇室は権威があるからこそ永く続いたのである。

 また皇室は征服民族で国民は被征服者という考えは、皇室と一般民衆の言語が昔から一 致してるのをみても問題とするに足りない。また日本にはヨーロッパ的な奴隷はいなかった。皇室を国民の敵とする左翼の考え方は、誤りを正す学問的態度ではなく、非学問的な右翼の説の反対をいって皇室を攻撃しているだけである。これは右翼の反動に過ぎない。皇室が何故存在してきたのかというと、皇室は人民の敵ではなくて日本独得のもので国民はそれを誇りとし、存続を希望していたからである。今や新憲法が制定された、明文化された憲法で天皇は国民の象徴となった。天皇の地位は変革された。われわれはこの事実を認識して、国民の総意で存続を決定した天皇制を正しい方向に運用せねばならぬ、しかし反対のための反対論者が存在することも良く認識しておくべきである。

 天皇制の存在と民主政治について考えれば皇室をどこまでも存続させて良い皇室とする ことが良い民主政治といえる。今の陛下には戦争責任はない。国家の政治が国民の政治である民主主義ならば敗戦の責任は国民にある。国民は明治憲法において参政権を得て国会政治に参加したのに政府または国会を監視せず、軍閥の出現に注意を払わなかったのは理由の如何にかかわらず事実であった。天皇が平和愛好者であり、敗戦をいかに考えておられるかは国民の等しく知るところである。天皇に責任を転嫁することは、国民としての自覚と責任感に欠けることであり民主主義的でない。これに反して、天皇を攻撃する人達は(津田博士昂奮涙ぐむ)人間を理解せず人間生活 を論じ、国家の政治を考えることの不可能な人々である。反対意見は正しい事実に立脚し 正しい方法で論理を展開してこそ学問的である。今の左翼はそうではない。
 □ 第三日  学究は永遠の真理  〃若人よ前人の業をつげ〃  溢れる温情で学生を諭す  第三日目は十六日午前十時から十二時三十分まで、二時間半に亘って行われた。

 【講演要旨】  
 マルキシズムの学者は、歴史は弁証法的に発展するというが、これは論理の方式で、実 際の歴史はこのようには発展していない。歴史の発展は必然的なものと考えるのは人間生活を理解していないからである。資本主義が打倒されて社会主義となっても、必ずしも完全な社会は出現できない。われわれは歴史の発展を今日予想することはできない。フランス革命当時、自由を得た第三階級は、第四階級の出現を予想したであろうか? 現代の欠陥は経済生活が一切を解決するとすると社会主義で完全に除去出来るものではない。環境を良くするよりも、人間をよくすることが大切である、現代の根本的欠陥は、人と人が争うことである、国際間の戦争も、 階級の闘争も、人間性を没却し愛を失うことから生ずるのである。日本人は教養を高めて、人を愛し、現実を一歩進めるようにせねばならない。民主政治の目的は、人生の幸福、平和、人間性の昂揚であり、人を敵とみることはこの原則に反する。学生生活の根本は学問にある、これには二つの目的がある。 一、学問そのものを研究する。二、学問を実生活の基礎とする。学生は人から学ぼうとしてはならぬ。智識は自ら創造すべきである。過去の状態から新しい状態を作り出すことが学問である。また自分の専攻だけが学問の全体と考えてはならぬ。人の結論のみを問題にするよりは、結論を導く方法が重大なのであってそこに学問的価値がある。学問と教養を分離する考えがあるが、これは間違いである。学問研究で一番大切なことは、誠実、努力及び謙虚な態度であり、これが道徳的な態度なのである。

 学生が政治運動に参加することは、三つの点で問題である、第一に政治運動の狭い面を全体と考えて研究を行えば間違が出来る。第二に堕落した政界をみて、それに捲き込まれ る恐れがある。第三に政党の一方的な見解のみを信ずることは学問的な態度ではない。青年は多感の時代なのだから特に正しい認識をもち一方的な見解に従ってはならない、 左翼の思想は、まずマルクス主義を徹底的に研究し究明して、日本の独自性と比較しその欠陥を発見すべきである、学問は人間に関する全人的な研究なのだから人生を味わい、体得し、自らの学問を作り出さねばならぬ。学生諸君、諸君はまだ若い、しかしながら人生は短い。諸君は日々に研究を重ねても、 個人の能力には限度があるが、しかし乍ら、学問研究は永遠の真理である。真理とは永遠に新らしきを求めることである。若人は前人の業を継いで前進せよ。敗戦の現実の中から 新しき方式、教養、人格を打ち立てゝ進まねばならぬ、私は老人だが生ける限り、今日の ことは、今日のこととして努力を続けよう、私もまた永遠の学生である、最後に早稲田の全学生諸君並びに大学当局の熱情と好意に感謝の意を表するものである(金原)





(私論.私見)