別章【桓武朝及び以降考】

 (最新見直し2008.8.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、桓武朝及び以降を確認する。

 2008.8.2日再編集 れんだいこ拝


 第50代天皇・桓武天皇
 天平9年(737年) - 延暦25年3月7日806年4月9日))

 在位期間:781年4月30日 - 806年4月9日

【桓武天皇の出生と出自】
 737(天平9)年、後に桓武天皇となる初名・山部王は、白壁王(後の光仁天皇)の第一皇子としてに産まれた。母の高野新笠は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔と続日本紀に記されている。これにつき、2001(平成3).12.18日、昭和天皇(68歳)は、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において翌年のサッカーワールドカップ共催に際してのコメントの一部で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」との発言を行っている。即ち、「桓武天皇は百済王家の子孫」と云うことになる。

 父の白壁王が即位後も、母の高野新笠が身分の低い帰化氏族の和氏出身であったため、立太子は望まれておらず、当初は官僚としての出世を目指しており、侍従・大学頭・中務卿などを歴任していた。

 764(天平宝字8)年、仲麻呂の乱終結ののち、無位より従五位下に叙せられる。

 766(天平神護2).11.5日、従五位上。

 770(神護景雲4)年、父の立太子の後、8.28日、従四位下侍従。同年10.1日、父白壁王が即位すると(光仁天皇)、11.6日、四品に叙せられる。

【弓削氏道鏡と和気清麻呂の角逐】
 769年、称徳天皇の神護景雲3年、太政大臣法王/弓削氏道鏡が皇位につくのが相応しいというお告げが出た。それに疑問をもった朝廷が和気清麻呂公(以下、公)に勅命をだし、神のお告げが本当であるかを確かめる為宇佐神宮へ行くよう命じた。公は、「道鏡は皇位に相応しくない」というお告げが出た事を朝廷に報告した。それに怒った道鏡は公を鹿児島に追放しようとした。その途中、豊前のすわえ田村に漂着した公は道鏡の追っ手から足の筋を切られるが数百頭の猪が公を助け、再度宇佐神宮に詣り神告を受けた。その神告に従い公は現在の小倉北区湯川にあった霊泉につかるとたちどころに足の傷が治った。そこで、公は近くの足立山に登り造化神北辰尊星妙見に天皇の安泰と反逆者がいなくなることを祈った。すると、造化の天神が現れ『汝の願い聴きいれる』という神託をうけた。770年、光仁天皇が即位し天皇家は安泰となった。道鏡は下野国に流され公は平城の京に呼び戻された。公の四男/磐梨為綱(出家して妙運)を造化天神降臨の地足立山に送り足立山妙見宮を創建した。
 【御祖神社】(みおやじんじゃ)足立山妙見宮
 和気清麻呂公創始。四男/磐梨為綱(出家して妙運)が創建。
 ※清麻呂公が 足腰の神様と云われるのは この足立山の霊泉にて足が立つようになったことに由来する。

【皇后・井上内親王による呪詛事件】
 藤原氏などを巻き込んだ政争が発生する。父光仁天皇の皇后の井上内親王は、30代を過ぎて嫁いだが、それまでは伊勢神宮 の斎宮(いつきのみや)の姫であった。嫁いでからも加持祈祷をかかさなかった為、ある時それが天皇呪詛の祈祷であるとの疑いを掛けられた。これを、皇后・井上内親王による呪詛事件と云う。これにより、異母弟である前皇太子・他戸親王とその母の皇后・井上内親王が突如廃され処刑された。今日この事件は、山部親王(桓武天皇)を推す藤原良継や藤原百川らの謀略 とされている。

【立太子】
 773(宝亀4).1.2日、母の罪により廃太子された他戸親王に代わりに37歳で立太子。山部親王の立太子により、天武・草壁・聖武の皇統は完全に途絶えることとなった。

 779(宝亀10).7.9日、腹心の藤原百川を失う。
50代、桓武天皇の御世

【桓武天皇即位】
 781(天応元).4.15日、病に伏した父光仁天皇の譲位を受けて即位。辛酉の年における即位は、一説に辛酉革命を意識したものと言われる。桓武天皇即位の裏には、藤原式家の後押しと策略があった、とされている。

 同4.4日、弟の早良親王(32歳)を皇太子とした。

 同6.27日、藤原魚名を左大臣とする。


 同12.23日、光仁上皇崩ず(73歳)。


 782(天応2)閏1.11日、氷上川継の乱が発覚し、母の不破内親王と川継の姉妹を淡路国に移配し、三方王らを左遷、大伴家持・坂上苅田麻呂らを現職解任のうえ京外追放に処する。
 6.14日、左大臣藤原魚名を罷免、大宰帥に左遷する。
 6.17日、追放処分を解かれた家持を陸奥按察使鎮守将軍に任命し、蝦夷の反乱鎮圧にあてる。   
 6.21日、式家田麻呂を右大臣とする。

 783(延暦2).4.18日、藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)を皇后に立てる。安殿(のちの平城天皇)、神野(のちの嵯峨天皇)をなし、妃藤原旅子により大伴(のちの淳和天皇)をなす。


 7.19日、藤原是公を右大臣とする。


【長岡京遷都】
 784(延暦3).5.16日、平城京における奈良仏教各寺の影響力の肥大化を厭い、遷都のため山背国乙訓郡長岡の地を視察させる。

 11.11日、奈良の「平城京」から京都の現在の京都市から南西の方角に行った向日市、長岡京市、京都市右京区にまたがる地域に長岡宮を遷幸した。遷都反対の声が強かったため、副都を難波から長岡に移すと称して新都を建設し、この行幸により実質的に遷都が実現された。続紀薨伝に、造宮使藤原種継が最初中心となって建議とある。この年は甲子にあたり、革命の年である辛酉の4年後天意が革まり徳を備えた人に天命が下される甲子革令の年とされる。また長岡京南効の交野は百済王氏の本拠地であり、桓武の母高野新笠が百済王系氏族であることの関与が指摘されている。

 桓武(かんむ)天皇が都を移したことには3つの理由があった。一つは、平城京よりも水利に恵まれていたということ。長岡京の周りには桂川や宇治川などが合流した大きな川である淀川があった。古代において物資の輸送に水利の果たした役割は大きかった。二つ目の理由は南都の宗教勢力から一定の距離を置きたかった。この時代は南都六宗と言われる奈良の古代仏教の力が大きなものだった。桓武天皇がこれらの影響力を排除したいと考えた。さらに当時の富裕な商人であり、朝廷の財政にも大きく関わっていた、いわば桓武天皇のサポーターであった渡来人の秦氏の本拠地が桂川周辺であった。こういう理由で都が長岡京に移された。

早良親王失脚事件
 785(延暦4).9.23日、長岡京の造営長官だった藤原種継が造営工事を検分中暗殺されるという事件が起き、犯人として大伴竹良らが捕えられ、取調べの結果、故大伴家持らが共謀して大伴・佐伯両氏を引き込み、種継暗殺を計画、これを早良親王に報告後、実行したとの自白を得る。これにより、桓武天皇弟の早良親王が関係ありとして捕縛される。

 大伴継人・佐伯高成・大伴真麻呂・大伴竹良・大伴湊麻呂・多治比浜人(春宮主書首)らを主犯格として斬刑に処し、右兵衛督五百枝王は伊予国流罪。大蔵卿藤原雄依・春宮亮紀白麻呂・右京亮永主らは、隠岐流罪。東宮学士林忌寸稲麻呂は、伊豆流罪に処した。

 皇太子早良親王を乙訓寺(現長岡市今里)に幽閉した。早良親王は10日余り後、船で淡路に移送の途中、高瀬橋(河内国、淀川の橋)のあたりで絶命した。その後、凶事が続いたため、早良親王のたたりだと噂され、不安にかられた桓武天皇は、和気清麻呂の進言もあって再遷都する。

 皇子の安殿(あて)親王(後の平城天皇)を皇太子とした。
 
 786(延暦5).1.17日、藤原旅子(百川の第1女、この年大伴親王を生む)を夫人とする。
 788(延暦7).5.4日、夫人旅子(30歳)を失う。

 789(延暦8).3.16日、造東大寺司を廃止し、美術史上の「天平時代」に終止符を打つ。
 790(延暦9).2.27日、継縄を右大臣に任ずる。
 閏3.10日、皇后乙牟漏、崩ず(31歳)。
 9.3日、安殿親王が病を得る。この年秋から冬、豌豆瘡が流行し、畿内の30歳以下の男女はほとんど罹病したという。また大飢饉が発生。
 792(延暦11).6.10日、陰陽寮で卜定した結果、安殿親王の病は早良親王の怨霊の祟りと判明する。この年、奥羽・西海道諸国を除き、諸国の兵士を廃止し、健児の制を定める。主に地方の郡司の子弟などを採用。軍団の廃止は、農民の労役負担を軽減し、また軍団の私物化という弊害を除くためとされる。背景には、造都・征夷戦争による経済の逼迫と、国際的な緊張関係の消失の二点があった。  
 793(延暦12)年、藤原小黒麻呂らを派遣し、遷都のため山城国葛野郡宇太村を視察させる。長岡京放棄の理由は、一説に早良親王の怨霊から逃れるため (喜田貞吉)。また延暦11年の水害が重要な契機となったとの説もある。同年3月、平安京の建設を始める。同時に難波宮を廃止する。
【「続日本紀」編纂を命ずる】
 794(延暦13).8月、右大臣継縄・皇太子学士菅野真道・侍従秋篠安人らに国史編纂を命ずる。3年後、続日本紀40巻が完成される。

【平安京遷都】
 794.10月、平城京から長岡京に遷都してわずか10年で新京遷都。翌月平安京と命名する。国名も「山背」から「山城」に変更され、この時から1200年におよぶ平安時代が始まる。 平安京は唐の長安を手本にし、唐からの風水思想を元に都が設計されたとされている。 「平安京は、名高い呪術師、安部晴明によって見事に結界の張られた都市です」とある。

 遷都事業の中心的役割だった桓武天皇の側近、藤原種継暗殺事件の首謀者の中に桓武天皇の弟だった早良(さわら)親王が関与しているのではないかといううわさが流れ、この為に早良親王は廃位させられ、乙訓(おとくに)寺に幽閉させられた。その後親王は無実を訴えるために絶食して命を絶った。桓武天皇の怒りはそれでも収まらず、死後に亡骸を淡路島へ配流するという言わば「死後処刑」の挙に出る。これによって早良親王の死後、皇太子、妃などの皇族の一族の相次ぐ死や疫病、洪水などの厄災が都を襲った。これは早良親王の怨霊による祟りに違いないということで鎮魂の儀式が行われると共に、僅か10年で都を平安京に移すことになった。新しい都ができた背景には早良親王の怨霊が影響していることから平安京はその成立当時から怨霊を封じる目的があった。都から見て鬼門の方角にあたる北東には比叡山があり、天台密教の始祖、伝教大師最澄がにらみを利かせた。さらに北東からの都の入り口付近には上御霊神社、上賀茂神社、下鴨神社、幸神社(さいのかみのやしろ)など多くの鬼門封じのための社がある。都の四方には荒ぶる神、スサノオノミコトを祭る四つの大将軍神社が配置され、念の入ったことに裏鬼門である南西方向にも大原野神社や城南宮があり、万全の態勢で怨霊が都に入らないように配慮されている。「平安京」という名前も然りで言霊(ことだま)信仰が如実に表現されている。
 「古代日本ユダヤ人渡来説」(坂東誠著、PHP出版)は次のように記している。
 平安京の造成には、秦氏の尽力があったとされているのである。つまり、平安京は秦氏によって造られた都ということになる。秦氏となったユダヤ人の国はイスラエル。その国の首都はエルサレムである。エルサレムは途中他国の支配下に置かれるものの、三千年前から現在に至るまでユダヤ人にとっての永遠の都である。

 そのエルサレムをヘブライ語の発音では「イェルシャライム」という。これは、市や都を意味する「イール」と、平安を意味する「シャローム」が一つになってできた言葉である。つまり、「イール・シャローム一エルサレム)」を日本語に訳すと、「平安京」なのである。

 少し話はそれるが、平安京のあった京都の近くには「琵琶湖」がある。イスラエルのエルサレムから少し北上すると、「キネレット湖」とよばれる湖がある。この湖は「ガリラヤ湖」ともよばれ、イエス・キリストが福音を伝えた場所として知られる場所である。このヘブライ語の「キネレット」を訳すと楽器の「琵琶」や「竪琴」を意味する。つまり「キネレット湖」とは「琵琶湖」なのである。平安京に住むユダヤ系の秦氏が近くにある湖を見て、祖国の湖を思い出し、同じ名前をつけたのだろうか?

 太秦に残るユダヤ人の足跡

 秦氏の拠点があった京都太秦だが、「ウズマサ」という名前からして変わっている。関西人でもなければ、なかなか普通に「太秦」を「ウズマサ」と呼ぶのは難しい。太秦の名前の由来については、秦氏の研究の権威であられる佐伯好郎教授などによって、ヘブライ語説やヘブライ語の方言であるアラム語説等が指摘されている。

 実際、私のイスラエル人の友人等によると、これはヘブライ語の「ウズ・マシアッハ」が変形して「ウズマサ」になったのではないか、という。ヘブライ語の「ウズ」は、力とか栄光といった意味がある。そして「マシアッハ」は日本語でいうメシア、救い主の意味なのである。(P36.37)
(私論.私見)
 「日ユ同祖論」からの秦氏論である。こういう説が流布されていることの確認として掲載しておく。

 797(延暦16).5月、宮中に怪異あり、早良親王の魂鎮めを行わせる。
 8月、神王(みわおおきみ)を右大臣に任ずる。

 800(延暦19).3月から4月にかけて富士山が大噴火。
 7月、怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追称、井上内親王を皇后と追称、井上内親王の墓を山陵と追称し、皇后の位を復した。
【征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を討伏】
 桓武朝の御世、東北地方の蝦夷が不穏な動きを見せた為、これを服属させるため 数次に渡って大規模な征夷軍を派遣した。

 801(延暦20).9月、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を討伏、閉伊村までを征服する。12.26日、使を派遣して聖武天皇陵を鎮めさせる。

 802(延暦21).4.15日、坂上田村麻呂が蝦夷の総帥アテルイの降伏を報告。8.13日、アテルイらを処刑させる。しかし晩年にはこのような軍事と造作が百姓を苦しめているとして式家の藤原緒嗣に批判された。

 朝鮮の「三国史記」の新羅本紀の哀荘王3年(802年)の条に、「冬12月、均貞に大阿さんを授け、仮の王子とす。以って倭国に質せんと欲す」。哀荘王4年(803年)の条に、「日本国と聘(へい)を交わし好(よしみ)を結ぶ」、哀荘王5年(804年)の条に、「日本国、使を遣わして黄金三百両を進ず」。これによれば、802年の桓武朝の御世に於いてなえ日本国と倭国が併存していたことになる。
【第16次遣唐使船派遣、空海、最澄が随行】
 804(延暦23).7月、第16次遣唐使船4隻,久賀島田之浦に寄泊して渡唐,最澄(38歳),空海(31歳)ら随行。最澄や空海の保護者として知られる一方で、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎた事から、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、後の『薬子の変』へとつながる温床となった。

 12.25日、聖体不豫。 

 805(延暦24).3月、五百枝王・吉備泉・藤原浄岡・藤原雄依・山上船主らを免罪し、帰京を許す。夏、最澄が唐より帰国し、天皇の病気平癒の祈祷を行う。
 12.7日、参議藤原緒嗣が陸奥進軍と平安京造営の中止を提言し、これを容れる。
 806(延暦25).3.15日、病床に五百枝王を召し、翌日、従四位上に復位。氷上川継・藤原清岡を従五位下に復位。

 3.17日、種継暗殺事件の連座者を本位に復す。家持、従三位に復位。また崇道天皇のため、諸国国分寺に金剛般若経を読ませる。同日、崩御(70歳)。剣璽は東宮(安殿親王)に奉じられる。「この日血ありて、東宮寝殿に濯ぐ」(『日本後紀』)。

【崩御】
 806(延暦25).3.17日、崩御(享年70歳)。在位は、781(天応元)~806(延暦25)年までの25年。日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやでりのみこと)と和風諡号をおくられた。それとともに漢風諡号として桓武天皇がおくられた。また柏原帝(かしわばら)、天國押撥御宇柏原天皇とも呼ばれた。

【陵墓】
 陵墓は京都市伏見区桃山町の柏原陵(かしわばらのみささぎ)とされる。生前、宇多野(うたの)に葬って欲しいと固執していたが、占等の理由で、伏見の柏原陵になった。 明治になり、平安神宮に平安京最初の天皇として祀られた。現在では全ての天皇が皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。

【血脈】
 桓武天皇には少なくとも23人の妃と36人の皇子女がいた。皇后藤原乙牟漏との間に安殿親王賀美能親王・高志内親王を、夫人藤原吉子(南家是公の女)との間に伊豫親王を、夫人藤原旅子との間に大伴親王(淳和天皇)をもうける。子には他に、朝原内親王(母は酒人内親王)・長岡岡成・良峰安世(遍昭の父)・葛原親王(子孫は平氏となる)・万多親王(『新撰姓氏録』編者)・明日香親王・坂本親王・佐味親王・大田親王・仲野親王・賀陽親王・葛井親王・因幡内親王・安濃内親王・布勢内親王・滋野内親王・大宅内親王・高津内親王(嵯峨妃)・安勅内親王・大井内親王・紀伊内親王・甘南美内親王(平城妃)・駿河内親王・菅原内親王・賀楽内親王・春日内親王・善原内親王・伊都内親王(阿保親王妃)・池上内親王らがいる。

 812年成立の日本書紀私記の一つである通称「弘仁私記」と云う講義ノート序文の註に次のように記されている。
 「桓武天皇の延暦年間に、民間に帝王ありとする書が流布していたので諸国に命令を出して焚(や)かせた」。





(私論.私見)