789(延暦8).3.16日、造東大寺司を廃止し、美術史上の「天平時代」に終止符を打つ。
790(延暦9).2.27日、継縄を右大臣に任ずる。
閏3.10日、皇后乙牟漏、崩ず(31歳)。
9.3日、安殿親王が病を得る。この年秋から冬、豌豆瘡が流行し、畿内の30歳以下の男女はほとんど罹病したという。また大飢饉が発生。
792(延暦11).6.10日、陰陽寮で卜定した結果、安殿親王の病は早良親王の怨霊の祟りと判明する。この年、奥羽・西海道諸国を除き、諸国の兵士を廃止し、健児の制を定める。主に地方の郡司の子弟などを採用。軍団の廃止は、農民の労役負担を軽減し、また軍団の私物化という弊害を除くためとされる。背景には、造都・征夷戦争による経済の逼迫と、国際的な緊張関係の消失の二点があった。
793(延暦12)年、藤原小黒麻呂らを派遣し、遷都のため山城国葛野郡宇太村を視察させる。長岡京放棄の理由は、一説に早良親王の怨霊から逃れるため
(喜田貞吉)。また延暦11年の水害が重要な契機となったとの説もある。同年3月、平安京の建設を始める。同時に難波宮を廃止する。
【「続日本紀」編纂を命ずる】 |
794(延暦13).8月、右大臣継縄・皇太子学士菅野真道・侍従秋篠安人らに国史編纂を命ずる。3年後、続日本紀40巻が完成される。 |
【平安京遷都】 |
794.10月、平城京から長岡京に遷都してわずか10年で新京遷都。翌月平安京と命名する。国名も「山背」から「山城」に変更され、この時から1200年におよぶ平安時代が始まる。 平安京は唐の長安を手本にし、唐からの風水思想を元に都が設計されたとされている。 「平安京は、名高い呪術師、安部晴明によって見事に結界の張られた都市です」とある。
遷都事業の中心的役割だった桓武天皇の側近、藤原種継暗殺事件の首謀者の中に桓武天皇の弟だった早良(さわら)親王が関与しているのではないかといううわさが流れ、この為に早良親王は廃位させられ、乙訓(おとくに)寺に幽閉させられた。その後親王は無実を訴えるために絶食して命を絶った。桓武天皇の怒りはそれでも収まらず、死後に亡骸を淡路島へ配流するという言わば「死後処刑」の挙に出る。これによって早良親王の死後、皇太子、妃などの皇族の一族の相次ぐ死や疫病、洪水などの厄災が都を襲った。これは早良親王の怨霊による祟りに違いないということで鎮魂の儀式が行われると共に、僅か10年で都を平安京に移すことになった。新しい都ができた背景には早良親王の怨霊が影響していることから平安京はその成立当時から怨霊を封じる目的があった。都から見て鬼門の方角にあたる北東には比叡山があり、天台密教の始祖、伝教大師最澄がにらみを利かせた。さらに北東からの都の入り口付近には上御霊神社、上賀茂神社、下鴨神社、幸神社(さいのかみのやしろ)など多くの鬼門封じのための社がある。都の四方には荒ぶる神、スサノオノミコトを祭る四つの大将軍神社が配置され、念の入ったことに裏鬼門である南西方向にも大原野神社や城南宮があり、万全の態勢で怨霊が都に入らないように配慮されている。「平安京」という名前も然りで言霊(ことだま)信仰が如実に表現されている。 |
「古代日本ユダヤ人渡来説」(坂東誠著、PHP出版)は次のように記している。
平安京の造成には、秦氏の尽力があったとされているのである。つまり、平安京は秦氏によって造られた都ということになる。秦氏となったユダヤ人の国はイスラエル。その国の首都はエルサレムである。エルサレムは途中他国の支配下に置かれるものの、三千年前から現在に至るまでユダヤ人にとっての永遠の都である。
そのエルサレムをヘブライ語の発音では「イェルシャライム」という。これは、市や都を意味する「イール」と、平安を意味する「シャローム」が一つになってできた言葉である。つまり、「イール・シャローム一エルサレム)」を日本語に訳すと、「平安京」なのである。
少し話はそれるが、平安京のあった京都の近くには「琵琶湖」がある。イスラエルのエルサレムから少し北上すると、「キネレット湖」とよばれる湖がある。この湖は「ガリラヤ湖」ともよばれ、イエス・キリストが福音を伝えた場所として知られる場所である。このヘブライ語の「キネレット」を訳すと楽器の「琵琶」や「竪琴」を意味する。つまり「キネレット湖」とは「琵琶湖」なのである。平安京に住むユダヤ系の秦氏が近くにある湖を見て、祖国の湖を思い出し、同じ名前をつけたのだろうか?
太秦に残るユダヤ人の足跡
秦氏の拠点があった京都太秦だが、「ウズマサ」という名前からして変わっている。関西人でもなければ、なかなか普通に「太秦」を「ウズマサ」と呼ぶのは難しい。太秦の名前の由来については、秦氏の研究の権威であられる佐伯好郎教授などによって、ヘブライ語説やヘブライ語の方言であるアラム語説等が指摘されている。
実際、私のイスラエル人の友人等によると、これはヘブライ語の「ウズ・マシアッハ」が変形して「ウズマサ」になったのではないか、という。ヘブライ語の「ウズ」は、力とか栄光といった意味がある。そして「マシアッハ」は日本語でいうメシア、救い主の意味なのである。(P36.37) |
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(私論.私見) |
「日ユ同祖論」からの秦氏論である。こういう説が流布されていることの確認として掲載しておく。 |
797(延暦16).5月、宮中に怪異あり、早良親王の魂鎮めを行わせる。
8月、神王(みわおおきみ)を右大臣に任ずる。
800(延暦19).3月から4月にかけて富士山が大噴火。
7月、怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追称、井上内親王を皇后と追称、井上内親王の墓を山陵と追称し、皇后の位を復した。
【征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を討伏】 |
桓武朝の御世、東北地方の蝦夷が不穏な動きを見せた為、これを服属させるため 数次に渡って大規模な征夷軍を派遣した。
801(延暦20).9月、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を討伏、閉伊村までを征服する。12.26日、使を派遣して聖武天皇陵を鎮めさせる。
802(延暦21).4.15日、坂上田村麻呂が蝦夷の総帥アテルイの降伏を報告。8.13日、アテルイらを処刑させる。しかし晩年にはこのような軍事と造作が百姓を苦しめているとして式家の藤原緒嗣に批判された。 |
朝鮮の「三国史記」の新羅本紀の哀荘王3年(802年)の条に、「冬12月、均貞に大阿さんを授け、仮の王子とす。以って倭国に質せんと欲す」。哀荘王4年(803年)の条に、「日本国と聘(へい)を交わし好(よしみ)を結ぶ」、哀荘王5年(804年)の条に、「日本国、使を遣わして黄金三百両を進ず」。これによれば、802年の桓武朝の御世に於いてなえ日本国と倭国が併存していたことになる。
【第16次遣唐使船派遣、空海、最澄が随行】 |
804(延暦23).7月、第16次遣唐使船4隻,久賀島田之浦に寄泊して渡唐,最澄(38歳),空海(31歳)ら随行。最澄や空海の保護者として知られる一方で、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎた事から、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、後の『薬子の変』へとつながる温床となった。
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12.25日、聖体不豫。
805(延暦24).3月、五百枝王・吉備泉・藤原浄岡・藤原雄依・山上船主らを免罪し、帰京を許す。夏、最澄が唐より帰国し、天皇の病気平癒の祈祷を行う。
12.7日、参議藤原緒嗣が陸奥進軍と平安京造営の中止を提言し、これを容れる。
806(延暦25).3.15日、病床に五百枝王を召し、翌日、従四位上に復位。氷上川継・藤原清岡を従五位下に復位。
3.17日、種継暗殺事件の連座者を本位に復す。家持、従三位に復位。また崇道天皇のため、諸国国分寺に金剛般若経を読ませる。同日、崩御(70歳)。剣璽は東宮(安殿親王)に奉じられる。「この日血ありて、東宮寝殿に濯ぐ」(『日本後紀』)。
【崩御】 |
806(延暦25).3.17日、崩御(享年70歳)。在位は、781(天応元)~806(延暦25)年までの25年。日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやでりのみこと)と和風諡号をおくられた。それとともに漢風諡号として桓武天皇がおくられた。また柏原帝(かしわばら)、天國押撥御宇柏原天皇とも呼ばれた。 |
【陵墓】 |
陵墓は京都市伏見区桃山町の柏原陵(かしわばらのみささぎ)とされる。生前、宇多野(うたの)に葬って欲しいと固執していたが、占等の理由で、伏見の柏原陵になった。
明治になり、平安神宮に平安京最初の天皇として祀られた。現在では全ての天皇が皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 |
【血脈】 |
桓武天皇には少なくとも23人の妃と36人の皇子女がいた。皇后藤原乙牟漏との間に安殿親王・賀美能親王・高志内親王を、夫人藤原吉子(南家是公の女)との間に伊豫親王を、夫人藤原旅子との間に大伴親王(淳和天皇)をもうける。子には他に、朝原内親王(母は酒人内親王)・長岡岡成・良峰安世(遍昭の父)・葛原親王(子孫は平氏となる)・万多親王(『新撰姓氏録』編者)・明日香親王・坂本親王・佐味親王・大田親王・仲野親王・賀陽親王・葛井親王・因幡内親王・安濃内親王・布勢内親王・滋野内親王・大宅内親王・高津内親王(嵯峨妃)・安勅内親王・大井内親王・紀伊内親王・甘南美内親王(平城妃)・駿河内親王・菅原内親王・賀楽内親王・春日内親王・善原内親王・伊都内親王(阿保親王妃)・池上内親王らがいる。 |
812年成立の日本書紀私記の一つである通称「弘仁私記」と云う講義ノート序文の註に次のように記されている。
「桓武天皇の延暦年間に、民間に帝王ありとする書が流布していたので諸国に命令を出して焚(や)かせた」。 |