原日本人考その2

 更新日/2017(平成29).9.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2009.12.22日、新たに日本及び日本人の起源考を作ることにした。千田寛仁「日本の歴史~日本の朝日」、横尾恒雄「異説古代史 (上巻)」、「日本人の起源と系統について」その他を参照する。

 2009.12.22日 れんだいこ拝


 「地球最古の人類は、原初日本人」その他参照。転載元「日本と地球の命運
 地球最初の先住民は、約4億年前に創造主らによって創世された原初日本人である。地球最古の人類は日本人だった。日本人は約5億年前に地球に発生した。マヤ人は、日本人より後れて約4億年前に地球上に現れた。マヤ人はイグアナの遺伝子を受け継ぐレプティリアン・ヒューマノイドである。 無数に繰り返された地球の天変地異で日本人の繁殖は乱されたが生き残って、今日に至っている。
  
 南アフリカ西トランスヴァール州で約28億-26億年前の葉蝋石鉱脈から人工構造物が発見されて、クラークスドルフ市博物館に展示されている。それは約4cmのやや扁平な金属の球体で、赤道部分に等間隔な3本の溝がある弱磁性体である。それは、ガラスケースの中に置かれていて、年間1-2回反時計方向に自転している。表面に1箇所葉蝋石のかけらが付着していて分かる(南山宏「オーパーツの謎」二見書房)。これは、日本人より古い最古の地球原住民ユージンが造ったものである。地球最古の人間文明は、約36億年前のユージン文明だった。ユージンは地球の天変地異で絶滅したので、生き延びた子孫はいない。 だから、地球最古の、今日まで生き延びた人類は、日本人である。
  
 モンゴール人は日本人の子孫である。地球最初の先住民日本人が北周りで今のアラスカから今の北米大陸へ、さらに今の中南米へ移動して文化と遺伝子を伝えた。北米インディアンの文化や、米国で今も残っている日本語の多くの地名がそれを実証している。参考書:吉田信啓「岩刻文字(ペトログラフ)の黙示録―超古代、日本語が地球共通語だった!」(徳間書店)。同「神字日文解(かんなひふみのかい)―ペトログラフが書き換える日本古代史 (改訂新版・中央アート出版社(99.03)。 
 
 南米のタワインティスーユ文明も超古代日本文明の枝葉である。コジャスーユ(ボリビア)の原住民も、ワンカール(ラミロ・レイナガ=霊長)も超古代日本人の子孫である。太田龍「時事寸評」掲載のワンカールの顔写真がそれを実証している。

 「古代史日和」の日本人の源泉は一万年の縄文文化」。
 そして縄文は縄文、弥生は弥生と相違点を強調するのでなく、縄文から弥生へと精神は連面と継承されて、各アイテムの共通性や進化系としてとらえる考え方も大切と思います。

 縄文文化のさまざまなアイテムが弥生九州へ

 弥生文化の成立期に、東北系の縄文土器が九州各地でみられるようになることが、考古学者の方々によって指摘されています。考古学者の瀬川拓郎氏は、青森県の亀ヶ岡系土器が、福岡・大分・熊本・鹿児島・奄美大島などで出土することから、北日本人の九州地方への進出について述べています。

 亀ヶ岡系土器は、精選した粘土で作られた土器です。国立博物館にも展示されていました。青森県十和田市滝沢原川出土の壺は、美しく均整のとれたフォルム、施された模様は流麗で、磨(す)り消し縄文や漆塗りの技巧など、実に見事な壺でした。亀ヶ岡式土器の西日本への流入からは、遠賀川式土器(板付Ⅱ式土器)との共通性も、縄文研究者が指摘するところです。 

 さらに縄文を代表するアイテム「ヒスイ」も、はるばる新潟県から、縄文晩期の北部九州の遠賀川河口に運ばれます。ヒスイや鹿角製の装飾品とともに女性の人骨が出土しています。縄文スタイルのヒスイ大珠(たいしゅ)を胸に、鹿角製の垂飾りを身に着けた、きわめて縄文的な女性です。これもまた縄文展に展示がありました。自然に考えれば、ヒスイの流入とともに、ヒスイという石の最高難度の加工技術者、玉振り・玉鎮めという祭祀を司る人々も、東日本から九州地方に移動したと考えられます。寒冷化という気候条件の中で、その活路を新天地の北部九州へ見出した人々もいたでしょうし、技術力に期待されて招かれた人々なども想定されます。

 ……このように縄文時代までさかのぼって考察することで、これまで大陸渡来文化との共通性に目が向けがちであった文物も、異なった見解が出てくるのでした。今後も縄文から弥生へと連続している文物が判明し、増加してくるものとみられます。

 日本人がものごとを多面的に見られるのは

 こうして考えてみると、大陸から離れた1万年の縄文時代に、日本人の文化・精神の源が形成されたものと考えられます。四季の自然の恩恵・自然の脅威という、相反する自然と共生してきた先祖でした。「和魂(にぎたま)」と「荒魂(あらたま)」という、一柱の神さまに両面を見出す考え方に重なります。そのような自然との付き合い方は、日本人がものごとや人物を多面的に見る、という懐(ふところ)の広さ、寛容さを育んだのではないでしょうか。

 縄文から弥生へ多くのアイテム・精神は継承されました。三種の神器のヒスイ=八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)もその一つです。

 筑紫の国では、祖霊を祭る山上崇拝など、神武天皇に係わる伝承が顕著です。出雲方面では、比婆(ひば)山にイザナミノミコトをお祭りします。大国主命(おおくにぬしのみこと)は、立山の大汝(おおなんじ)山に、安曇氏の穂高見命(ほだかみのみこと)は、穂高岳に祭られます。それも縄文人の精神を継承したものとすれば、自然に納得できます。

 寒冷化という自然状況の中で、それまで高い文化をもっていた北日本・中部高地から、西日本へ移住した人々が想定されます。いち早く水田農耕を取り入れ、新たに移住してきた人々を受容した北部九州の筑紫の国の人々は、新たな大陸文化と縄文文化を融合して、より豊かな国作りへの道を歩みだしました。物づくり集団である部(べ)を統合し、国家統一へのイニシアティブをとったのではないでしょうか。

 ものづくりの心と女性の尊重を育む「平和」

 1万年の縄文時代は、大陸から切り離されて独立した「平和な時代」でした。ものづくりに打ち込めて、女性が尊重されたのも平和な時代だからこそと思われます。その長い平和こそが、縄文文化を育み、日本人の源泉を育てたのでしょう。 

 縄文時代が、決してユートピアであるとは思いませんが、現在の私たちが見失い薄らいでしまった精神の拠りどころがあるのではないでしょうか? それを顧みることによって、明日への行く先や生きる力が見えてくるところが確かにあるようです。…………

 勉強会に参加された皆さんの感想や質問は、共感することばかりで、教えていただけることが多かったのです。

「土偶も土器も何千年前の人が作ったとはおもえないほど、オシャレで洗練された現代的な感性を感じます」

「みみずく土偶などとにかく可愛い!」

「縄文展では、あまりにもスバラシイものを一気に見たので、これからは一つ一つじっくり丁寧に見ていきたい」

「野性的と思っていた縄文人が、芸術性や感性が高い」

「出産を真剣に祈った土偶を見ていたら、その気持ちが胸に迫ってきてジンとしてしまいました」

「縄文も弥生も知っているつもりでしたが、よくわからなくなりました」

「弥生グッズのミニチュアは、三角縁神獣鏡でなく内行花文鏡にしてほしいですよね」

「土偶は乳首が目立つのに乳房がめだたないのは?」

「世界最高の土器」

「日本人の源流があるようです」

「渦巻き模様など、土器の模様について深く考えたい」

「諏訪から伊那地方を訪ねて、古く深いものを感じました」

「鮭神社は福岡だけでなく、出雲にも全く同じものがありました」

「抜群のプロポーションを誇る縄文の女神についてもっと知りたい」

 …………

 驚きや感動がありました!お土産のお菓子も合わせて、お礼申し上げます。「一つ一つのものを丁寧にゆっくり見て考えたい」「ここから日本の歴史は始まる」まさにそのような思いです。 今日は終戦記念日です。1万年の平和な時代を享受して、ものづくり打ち込んだ縄文人に思いを馳せるにつけても、平和への思いを強くします。

 第2代綏靖天皇からの縄文ヒスイ「ぬなかわ」

  1. 邪馬台国は筑紫にある~畿内説への疑念~

  2. 奈良の都の大女帝~天武天皇系の最後の孝謙(称徳)天皇~

  3. 縄文人はどんな民族?遺伝子からやさしく解説

  4. 神武天皇についてサイコーの講演会【1】「歴史の真実はシンプルなもの」

  5. ルーツに定説がない日本語をどう考える?

  6. 蝦夷(えみし)が大和朝廷に頼る?!『日本書紀』と遺伝子の一致

  7. 神武天皇についてサイコーの講演会【2】系図と古典は補い合っている


 2009年4月15日、縄文の思考~日本文化の源流を探る 」。

第1章 日本列島で起きた歴史的な大事件「縄文革命」

「縄文の思考」~日本文化の源流を探る 会場様子

小林達雄: 縄文文化というのは農耕以前の米も鉄もない時代にもかかわらず、文化的な内容は非常に見上げたものです。語るべきものがたくさんあります。今日は時間の許す限り、皆さんにその一端をお伝えできればと思っております。

人類は今から650万年ぐらい前にチンパンジーやゴリラの仲間から分離独立して、人としてひとり立ちを始めました。アフリカで誕生した人類はヨーロッパの方に渡ってきますが、その先祖はやがて途絶えます。

けれどその後、またやはりなぜかアフリカの方で新しい仲間が誕生しました。これが10万年ぐらい前になりますが、3万5000年とか4万年ぐらい前になると、またヨーロッパの方に渡り、その仲間がユーラシア大陸からアジア大陸の方にまで拡散していきます。その分派、仲間が日本列島にたどり着いたのが3万5000年前ぐらいです。

この頃の遺跡が北海道から九州までたくさん残っています。大雑把にいいますと、1万カ所ぐらい遺跡があります。それはいわゆる旧石器時代、旧石器人の遺跡です。当時はナウマンゾウやオオツノジカといった、ものすごく図体の大きい大型動物が群れをなしていた時代です。多分、その後ろを追いかけながら日本列島に渡ってきたのが、日本列島における人類の歴史の始まりだろうと考えることができます。

今、「3万5000年前」と申しましたが、それよりも古い文化があったのではないか——というのは3万5000年前ぐらいの遺跡が北海道から九州までずっとありますから。遺跡は地から湧くわけではありませんので、もしかしたら何年か前に、「何年か前」と申しましても1000年、1万年の単位ですが、そのぐらい前に先遣隊が来ていた可能性は大いにあります。そしてその可能性のある遺跡もいくつか見つかっております。これからそのあたりの解明が進むと思います。

さて、3万5000年前ぐらいから旧石器人の文化、活動が展開されますが、その後、1万5000年前ぐらいに、日本列島における歴史的な最初にして最大の事件が起こります。それを「縄文革命」と呼んでいます。

1万5000年前ぐらいというのは、最後の氷河時代が終わりに向かい温暖化に差し掛かってきた時代です。氷河時代はまだまだ1万年ぐらい前まで続くのですが、1万5000年前というのは、新しい歴史的な転換期に向かって地球が動き始めた、そういう時代なんです。

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授
この頃、日本列島の旧石器人は弓矢、飛び道具を使うようになります。これは画期的な道具です。それから犬を飼育するようになります。犬はそれ以降ずっと人類の伴侶として我々の仲間になるわけで、最も古い家畜です。日本列島では世界に先駆けて犬を飼育していたと考えられます。

さらに、土器を発明します。土器というのは、それまでの長い人類の歴史の中で見ることのできなかった、全く新しい材料を使って道具をつくったという画期的なものです。それまでの道具は、ご存じのように石器を主としていました。動物の骨、牙、角、そういったものを使ったり、木の枝など、あり合わせのものを道具に仕立てたりしていたわけです。

1万5000年前ぐらいになって製作を始め、そして使用に供された土器というのは画期的なものです。何といっても、その道具が粘土製であるということが重要です。粘土を使って道具の形に仕上げるのですが、粘土はそのままだったら乾燥すると固くはなりますが、雨に打たれたり水に浸かったりすると溶けてしまいます。けれど焼きを入れる、熱を加えると全く違う性質に変化します。つまり、水に溶けないものになるのです。

土器はいわゆるそうした化学的な変化を応用した道具なんです。石や骨や角は物理的に形を変えるという意味があったわけですが、それに化学的な変化を取り込んだ道具が土器であり、人類の技術的な革新性としては極めて注目すべきものです。

それが器である——これがまた重要な点です。器は物を入れたり出したりできればいいのですが、日本列島では粘土を利用して器をつくるとき、粘土の性質を巧みに利用しました。粘土はちょっと具合が悪い形になりそうだったらコントロールして修正ができる。

これが石器だったら、打ち欠えているときに、きれいな人が通ってうっかりよそ見をしてパーンと変なところに打撃を加えて折れたり、折れなくても期待するような剥離ができなくなったりして、だめな形になってしまうかもしれない。

けれど粘土の場合は、そうなってもちゃんと修正ができるわけです。これは人類の造形学的な意味でも大変な革新性を持っています。道具というものは全て人間がデザインした形なのですが、その形の歴史において粘土を使った土器が出現したというのは極めて重要で、これが縄文革命の引き金になるわけです。

第2章 発明の力の源は、土地の活気と情報の移動

「縄文の思考」~日本文化の源流を探る 会場様子

小林達雄: 土器は世界各地で製作されるようになりますが、日本列島の土器が物理化学的な年代測定によると一番古い、圧倒的に古いのです。4、5000年は差をつけて、水を開けてトップグループを走っています。

だからといって、縄文土器が日本列島で発明されたかどうかというのは極めて難しい問題でして、まだまだ結論づけるわけにはいきません。けれど有力な候補地です。こんな島国で、アジア大陸の東の端から蹴り出されて、「ちょっと仲間に入れてくれよ」という悲鳴が聞こえてくるようなぶら下がり方をしている日本列島で、世界のトップグループになるような活躍をしていたわけです。

なぜそんなことが可能だったかということは大きな問題ですが、「これだ!」という答えはまだ出ておりません。しかし、いくつか状況として考慮すべき点があると思います。

1つは、日本列島というのは気候がちょうどいいのです。日本の風土には、本当に優れたものがあります。四季の適当な変化、冬といっても寒からず、夏も今年などは暑い日が続きましたけれども、それほど大したことがない、そういう土地柄です。

これが非常にうまく作用して、1万5000年前ぐらいに、集団がいろいろ活躍していた世界各地の土地を見渡しても、日本列島ほど人口密度の高いところはほかにありませんでした。とにかく事実として、遺跡の数が多い、ほかの地域を寄せつけないほど群を抜いた遺跡の密度なのです。

もちろん、遺跡の数がそのまま人口密度に正比例するわけではありませんが、ほぼ比例すると考えて大きな間違いはないでしょう。我々の経験則上、いろいろな歴史、あるいは各地の歴史を見てもそう言えると思います。

そして今でもそうですが、人口密度の高いところは活気があるのです。現在では過疎地がいろいろと問題になっていますが、その最も大きな問題は活気がなくなるということです。義務教育あるいは高校教育を終えると若者たちがみんな東京を目指すのは、何といっても刺激を求め、活力のある所に惹かれるというのが一番大きな理由でしょう。

東京は住む場所としては不適当な所だと思います。空気は悪いし、地方の方が食べ物もおいしい。けれどみんなが東京に集まってくるのは、人を引きつける違う要素があったわけです。それが活力です。

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授
歴史的に地球上、各地の出来事を見ていくと、何か大きなことを仕出かした地域というのは過疎地ではなく、人口密度が高い所です。それと同じように、日本列島の人口密度が高いということでものすごい力を発揮し、世界に先駆けて土器を製作、使用したということです。

発明地かどうかは特定できないとしても、マラソンレースのように人類の土器づくりレースというものがあったとすれば、少なくともトップグループのトップに近いところをずっと維持していた、それも圧倒的に早かったんです。アフリカ出身のランナーがぐんぐんトップを走るみたいに相当速かったのです。

もう1つ、1万5000年前ぐらいというのはまだまだ氷河時代が続いている時期で、地球は全体に寒くなっていました。寒いとどうなるかというと、高い山の上や緯度の高いところに氷河が発達します。地球上には一定の量の水があるわけですが、氷河として水の相当部分を氷として閉じ込めてしまうわけです。そうなると、海は水の状態ですから海面がぐっと低下するのです。

例えば東京湾などは今よりも20mぐらいかそれ以上、低いところに平坦面がありました。それがその後だんだん暖かくなって今の状態になるわけですが、以前は大陸と北海道が陸続きでした。津軽海峡は130mの水深があります。朝鮮海峡もそうです。130m水面が下がるということはありませんが、少なくとも北の方は北海道の東海岸に流氷が押し寄せるのと同じように、今でも間宮海峡(タタール海峡)は冬になると氷でちゃんとつながるのです。それと同じように宗谷海峡(ラペルーズ海峡)がつながって、日本列島に到達できるようなフリーウェイができていたのです。

人口が多くて活気づいていて、環境としては大陸側のさまざまな動きをキャッチできるような位置にあったというのは重要な点だと思います。そのほかにもいろいろあったかもしれませんが、この2つは少なくとも忘れてはならない非常に重要なことで、日本の縄文革命を推進した原動力になったと考えられます。
 第3章 土器の使用が遊動生活から定住生活への転機になった
小林達雄: 土器は素焼きです。我々がやるキャンプファイヤー程度の焚き火で、縄文土器というのは焼かれるのです。ですから非常に脆弱です。これを持ち運んで動き回るわけにはいかない、つまり縄文土器をつくった途端に定住する指向を強めていきます。

「縄文革命」の重要な点は、先ほど申し上げた道具の造形学的な革新性がありますが、もっと重要な人類の歴史的な意味での革新性といえば「定住」です。定住的な村を営むところです。

人が定住的な村を営むようになったのは日本列島に起きた「縄文革命」だけではありません。いずれ世界各地で始まるのですが「人類の歴史の優等生」と、かねがね高い評価を得てきたのが西アジア、チグリス・ユーフラテス川流域のあたりです。今でも不幸なことにいつまでたってもくすぶった争いが絶えないのですが、いち早く農耕を始めたということで、今、ヨーロッパが大きな顔をしていますが、実は西アジアの文化から刺激を受けてヨーロッパも次の段階にいくのです。

「縄文革命」に対して、ヨーロッパの農耕を基盤にした定住的な始まりを「新石器革命」と呼んでいます。あるいは農耕を始めたということで「農業革命」と呼ばれており、歴史的な意義が高く評価され、それが人類の歴史の優等生の歩みと見られてきたのです。その年代は今からせいぜい1万年ぐらい前です。

縄文革命は1万5000年前ぐらいですから、この何千年の差をどう評価すべきかという話は抜きにしても、日本列島が定住的な生活に飛躍的に到達したというのは歴然としているのです。けれど日本列島は農耕とは無縁でした。昔ながらの旧石器時代以来の狩猟・漁猟・採集の3本柱を基盤にし、定住的な村を営むようになったのです。

それに対して5000年以上遅れて定住的な村を営むようになった西アジアや後のヨーロッパなど、西アジアを先頭グループとする文化の動きというのはずっと遅いのですが、「農耕していた」ということが優等生として評価されています。

日本列島の方が圧倒的に早く新しい段階に飛び込んだのです。新しい段階とは「定住」です。それまでの旧石器時代は、遊動的な生活が基本でした。もちろん何日間とか1カ月ぐらいにわたって、動物を仕留めるためにキャンプ地に滞在するということはあったでしょう。けれどそれは一時的に滞在するということ、あるいは何度も同じ場所に戻ってくるということであって、「ここぞ」と決めた所に腰を据えて住み続ける村というものは、まだできていなかったのです。

定住の開始は人類の歴史にとって極めて重要なことです。土器の発明などというものを超えて、人類の歴史そのものについて大きな意味を持っていたのです。

それまでの遊動的な生活というのは、猿やチンパンジーやゴリラと同じだと言えば、なるほどと思うかもしれません。もっと極端にわかりやすく言えば、鹿やイノシシとも、あるいは植物とも同じ。人類も自然的な秩序の中の1要素にすぎなかったのです。

どういう点で猿やチンパンジーと同じかというと、形も仕草も似ているということもさることながら、大きな自然の摂理に対して同格だったんです。自然的秩序を構成する一要素で、「人だ」と言って威張れたものではない、要素の1つだったということです。

ところが縄文革命、あるいは農業革命、新石器革命によって、自然の秩序から脱却する、抜け出るのです。一人、「私は抜ける」と言って人類はそこから抜けていくのです。これが定住の重要さです。

つまり定住することによって、自分たちが今までお世話になった自然的秩序から抜け出て、新しい人間の世界をつくるのです。自然の秩序から抜け出たから、新たに生きるために今度は人間が工夫して人工的な秩序をつくって、猿やチンパンジーとは違う、人間的な社会というものをつくり出していく。そういうきっかけがそこに含まれているわけで、これは極めて重要なことです。

さらに村を営むことの重要性には、いろいろな要素、意義が含まれています。今まで自然的秩序の中で猿やチンパンジーや鹿やイノシシと同格であった人間が、そこから飛び出て自分勝手に自分のための空間を自分で確保するのです。自然の一画をもぎとるのです。猿やチンパンジーは自然の中の植物と一緒ですが、人間だけが初めて自分たち特有のスペースを確保した、それが村になるわけです。

「人類の最初にして最大の大事件」というのは、そういう意味があるわけです。定住するときにスペースを確保した、自分勝手に自然の一画をもぎ取った。これは自然に対する最初の抵抗です。ただ、自分が1人抜けたのではなく、自然界の中から大事な面積、区画をもぎ取ったわけで、これが縄文革命の重要な意義です。


該当講座

『縄文の思考』〜日本文化の源流を探る
小林達雄 (考古学者/國學院大學名誉教授)

人類史を三段階に分け、第一段階を旧石器時代、第二段階を新石器時代とし、この契機を「農業」の開始に焦点を当てて評価する説があります。ところが、大陸の新石器時代に匹敵する独自の文化が、大陸と隔てられた日本に生み出されました。それが農業を持たない「縄文時代」「縄文文化」です。 縄文文化は土器の制作・使用が....

第4章 定住生活によって営まれた村には、社会的なルールがあった

小林達雄 
考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: 先ほど中国の話に触れなかったのですが、中国には「日本列島で1万5000年前に定住が始まったなら、中国で始まっていないわけがない」という考え方がありまして、それらしい遺跡が発見されています。ですが、日本列島の1万5000年前の遺跡に残された遺物のさまざまな種類の豊かさとは比較にならない、とても貧弱なのです。「農耕も1万年前ぐらいから始まっていて、世界で一番早い」とも彼らは言っていますが……。

とにかく定住したのは日本が圧倒的に早かった。西アジアやそれに追いつこうとしている中国大陸は独自路線として第二段階の定住的な村を営むのですが、いかんせん、日本列島の縄文より遅いのです。

ただ向こうは「農耕を基盤にして、それをてこにして第二段階の定住的な村を営むようになった」ということで、高い評価が与えられています。「日本は農耕を持っていなかったじゃないか」ということで、依然として日本は世界的な新石器革命の劣等生である、あるいは欠点だらけの新石器文化であるという評価が今でもなされております。私などは少数派です。

ところで、空間を確保して村を営む、「確保して」とはどういうことかというと、自分たちの使い勝手のいい空間、スペースにしたいわけですから、確保したスペースから自然的な要素をどんどん排除していき、どんどん人工的な景観につくり変えていくわけです。村の整備が進めば進むほど、周りの自然とは別の人工的な景観を持つというのが村の特徴です。

村の中にはそれぞれの家族が住む家がつくられます。自分の家や仲間の家がつくられます。村の中には家が群がるのです。そのほかに、食べ物を採ってきて消費しきれないもの、あるいは計画的に貯蔵するために貯蔵施設が必要ですから、穴蔵を掘ったり、倉庫をつくったりします。

自分たちのスペースを生活の根拠地にし始めるとゴミが出ます。今も昔も同じことです。ゴミは少しだったらパパッと掃き出せば済むかもしれませんが、常時、ずっとそこに座ってそこで食事をしようということになると、周りにゴミがあっては困るわけで、縄文人はものすごく掃除をしていました。

掃除したゴミは、ゴミ捨て場を設けていて、そこにちゃんと捨てるのです。それが貝塚になるわけです。食べかすを捨てているわけです。だから貝塚というのは貝だけではありません。魚の骨も動物の骨もあります。折れた石斧とか、矢じりの欠けたものとか、壊れた土器なども出てきます。

それは全て、勝手に周りに恣意的に捨てておこうというのではなくて、ちゃんと村設計があって、家を建てるゾーンはここだ、ゴミ捨て場はここだと、みんな決まっているのです。今の我々の碁盤目のような都市設計ではありませんが、整然とした縄文設計、ヴィレッジプランがあったのです。

面白いのは、真ん中に広場があるのです。それが縄文モデル村です。広場の周りを、円形に手をつなぐようにして家が取り囲むのです。広場は恐らくさまざまな社会的な行事、あるいは共同作業、祭りや宴会、話し合いの場所にもなったのでしょう。広場は全ての村にあったわけではありません。縄文モデル村という典型的な、地域の中で群を抜いて安定し、継続的にずっと続いていたような村にありました。

第5章 縄文人は人工的な村を営みながらも、自然と共生していた

「縄文の思考」~日本文化の源流を探る 会場様子

小林達雄: 村の中だけで生活が自己完結できるわけはありません。村を根拠地として、そこから外に出ます。村の外に広がるのは「原(はら)」です。原は、かつて縄文人が身を置いていた自然的秩序が支配しているスペースです。

原に行って食べ物を手に入れる、生活をするのに必要な道具の材料を手に入れる。そして村に帰ってくる。原というのは村の周りにあり、自然が恵んでくれる食糧倉庫であり、資材庫なのです。村と原は、こうやってはっきりと分かれます。

原での行動は、自然を一方的に痛めつけるということではなく、自然とうまい具合にバランスをとりながら共生していました。原を共存共栄のスペースとして生きていたわけです。これは非常に重要なことです。

ヨーロッパや中国大陸の、新石器革命、農耕によって定住的な生活段階に突入した地域では、縄文の人々のように村の周りに原を持つのではなく、「野良(のら)」を持ちました。縄文人は村を人工的なスペースとして確保して、一応それで収まっていたのです。ところが大陸側の新石器文化人、農耕民は村の中だけでは収まりきれないで、人工的なスペースを外にどんどん広げ、耕作地を拡大していくのです。耕作地を拡大することによって、より安定した食料を確保しようとする方向に向かうわけです。

すると、どういうことになるか。村の周りは野良で、どんどん波紋状に村の周りに野良を広げていく。自然が残っていると「これは遊休地であるから、効率よく利用しなければいけない」というわけです。最近の日本の土地に対する考え方みたいなものです。こんなに人口密度の高い東京で、国有地をどんどん民間に払い下げて住宅にしたりする、そういう考え方です。

そこが縄文の場合と違うのです。大陸側の新石器文化人の歴史というのは自然と共生するのではなく、自然と闘う、闘争する歴史なんです。私もここの皆さんもそうだと思うのですが、学んだ歴史では「人類は自然との厳しい戦いを戦い抜いて、勝利を納めて——相当弊害も出てきましたが——現在の人間としての歴史というものを勝ち取ったんだ」という思考があったと思います。

これは欧米から輸入されたものです。欧米の考え方が日本に輸入されて、それがそのまま教科書に載り、先生もそう教えますから、「自然とは対決して生きてきた」という歴史になるわけです。あちこちすり傷をつくりながら、山野を駆け巡りながら、「ここがいい土地だ」と思えば他人に先んじてそこを開墾して耕作地にした、という思考を我々は習うわけです。それは村の周りが野良だからという文化です。「村+野良文化」が大陸側の第二段階です。

日本の縄文の場合は、村の周りは原です。原は、征服するべき所ではありません。共存すべき場所なんです。ですから、それは今でもいっぱい残っていますが、山の木を1本切るにも、ちゃんと御参りをするのです。「木を1本切らせてね」と。木にお酒を注いで、ときには自分も飲んで景気付けしてから木を切る。
更新日 : 2009年07月17日 (金)

第6章 日本の「文化的遺伝子」は言葉を通して紡がれた

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: 私には今でも鮮烈な記憶があります。小笠原で漁船をチャーターして、北硫黄島まで行ったときのことです。我々を連れて行ってくれた漁師はまだ若く、20代ぐらいでした。その彼が船の上で清涼飲料水の栓を開けたのです。飲むのだろうと思ったら、パッと船縁から海のわだつみの神に垂れたのです、それもドーッと。

僕だったらちょっと垂らしてすぐ戻したいところですが、彼はそんなことはしない。ドーッとやって、それから飲んだんです。僕はそれを見て感動しました、「ああ、こういうことなんだ」と思いました。

このように、山で材料を手にしたり食べ物を手にしたりするとき、いつも挨拶をするのです。『縄文の思考』の中で、僕は宮沢賢治が好きなものですから、宮沢賢治のそういう話を引用しておきました。森を支配している霊、木霊がいるのです。そういう霊に対して、「おーい、木を切っていいか?」と尋ねるんです。すると、ちゃんと「いいよ」と答えてくれる。それで「ありがとうございます」と言って、木を1本切ってくる。そうして家を建てるのです。

こういうことは大陸側にはありません。大陸側では、「こんなに根を張ってやがって、苦労させるなこの木は」と悪態をつきながら汗水たらして開墾する。

日本列島の場合、ついこの間まではそうだったのです。それを壊したのは林野庁です。林野庁は植林といってワーッと皆伐して、評判の悪い杉を植える。今でも杉を植えているんですよ、信じられないでしょう。杉の木には鳥が来ません、なぜなら虫がいないからです。白秋の「落葉松は寂しかりけり(『落葉松』)」という詩がありますが、落葉松には昆虫も鳥もいないんです。林野庁はそういう状態にしようとしているのです。

広葉樹には神格化されるものもあります。先ほどお話したように挨拶をしたり、本当に大きい風格を備えた木には名前がつけられたりするのです。そして拝むのです。ところが、その拝んでいる木まで切れと言うのです、霞ヶ関は。縄文時代に培った共生の精神というものを全く無視して。

霞ヶ関の人たちは、山から出てきた人じゃないんです。都会で生まれて、霞ヶ関という都会に住んで、そこの机の上で線引きをするだけなんですね。そして「今度はここだ」と言って線引きしたところは皆伐しなければいけないと。

四万十川を見たこともない人が、「四万十川に河口堰をつくろう」と言うのです。いまだに言っているんですよ。関係ない人が有明海に河口堰をつくったじゃないですか、バタバタバタと。どう考えてもおかしいのに、それがまかり通るというのは縄文的な共生の精神とは程遠い、対極ですね。

縄文人の定住的な生活では、村の外に原をずっと維持していました。原は自然との共生の場です。大陸が原を容赦しないで開墾してきた、征服すべき土地として見てきたのと対極にある日本文化というのが、日本的心情というものにずっと脈々とつながってきているのです。

私は、かつてそれを「文化的遺伝子」と名づけました。その文化的遺伝子があるから、欧米の人たちとは違う心、日本的な心を持つことができるんだと。最近はそれをもう少し限定することができるようになりました。それは、言葉です。

第7章 現代の言葉に息づく、自然との共生体験の歴史

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: 文化的遺伝子というのは生理学的な遺伝子のDNAとは違って、言葉を通してつながってくるのです。自然の秩序が維持されている原における生活というものが、実は村の生活、縄文村の生活を維持するためには必要な伴侶、仲間の土地なんです。そういうところでも自然との共生というのは、その後の日本の大和言葉の中にたくさん残っています。

擬音語とか擬声語というのがあります。風の音や川の流れを欧米あるいは中国の漢語でもそうですが、「小さな川が静かに流れている」「水量は小さい」「波風立てないで流れている」と言う。大きな黄河や揚子江になると、「とうとうと流れている」と形容詞で言うのです。日本語の場合は「サラサラ」流れたり、「ザブザブ」流れたりする。これが擬音語ですが、風の渡る音も、みんな擬音語、大和言葉です。

縄文時代は1万5000年前ぐらいに幕を開けて、それからずっと紀元前1000年ぐらいまで続きます。その間、原で自然と共生してきたわけで、自然とのつき合い方の中で、自分たちの言葉を自然としゃべり合うのです。

例えばコオロギの鳴き方、キリギリスの鳴き方、スズムシの鳴き方、これらを全部、日本人は言葉で言い換えるのです。鳥だってそうです、セミだってそうでしょう。セミはただ「鳴いている」とは言わないんですよ、鳴いていると同時に「ああ、これはツクツクボウシだ」「これはカナカナゼミだ、ヒグラシだ」「これはクマゼミだ」と全部わかるのです。そんな文化は世界中、おそらくどこにもありません。

面白いことに、欧米の人に「今、コオロギが鳴いていますね?」と指で(鳴き声のする方を)示しても彼らには聞こえないんですよ。我々は「あっ、鳴いているね」「ああ、そうだね」と、そっちを向かなくても鳴いているのをキャッチできるんです。

つまり、耳も目もみんな文化なのです。例えば目が必要な狩猟民は、我々現代人の何倍も遠くが見えます。そういう研究はいっぱいあります。音もそうです。そういう世界に住んでいて、それが必要なところでは我々が聞こえない音をちゃんとキャッチできるのです。

我々がキャッチできるものは生理学的に限定されるだけではなく、文化的にも限定されるものなのです。日本人は文化的な訓練によって、セミの声も虫の声も全部キャッチできるのです。

先ほど「ツクツクボウシ」と言いましたけど、縄文時代にツクツクホウシと鳴いていたとは言っていないのです。仏教が入ってきてから、あのセミを「ツクツクホウシ」と聞くのです、聞きなしていたのです。この聞きなしは擬声語と言います。人間が話をしている言葉でセミは鳴くのです。「テッペンカケタカ」もそうなんです。カッコウは「テッペンカケタカ(天辺欠けたか)」と鳴くんですよ。

こういうふうに人間だけではなく自然も大和言葉で話をするというのは、縄文時代の1万3000年以上の間、ずっと自然と共生してきたことが文化的遺伝子としてあるわけです。

俳句が今、欧米をはじめあちこちで流行っていますが、俳句は日本にしかないのです。俳句というのは四季の移ろいをパッと取り入れて、五七五に読み込むんですね。欧米のように音素だけで五七五にしようというものは俳句精神とは全く違います。やはり縄文1万3000年以上の体験が自然との共生体験が俳句を生んでいるのです。だから真似をしたってだめなんです。

私たちは「俳句が普及している」なんて喜んではだめなんですよ。むしろ「それ、ちょっと違いますよ。あなた方はあなた方の方法でやりなさい」と言わないと。もちろん日本の文化や俳句について興味を持ってくれたり、評価をしてくれたりするのはありがたいことですが、真似をしてもらう必要はない。真似できるわけがないんです、文化的遺伝子が全然違うのですから。

『古今和歌集』などに掛け詞というのがありますよね。例えば「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」と、私の容色は衰えていくじゃないかと悲しむ歌があります。この「眺め」と「長雨」の掛け詞なども全部そうですよ。こんなに巧みな掛け詞は世界中のどの言語にもないでしょう。全くないとは申しません。多少ありますが、日本はそれの花盛りというか、オンパレードです。

言葉尻をつかまえるというか、韻を踏んでダジャレを言えるのが日本語です。ほかの言語にもセンスのあるダジャレが一口話としてはありますが、一言でパッとダジャレで落ちをつくれるのは日本語、大和言葉です。縄文時代の1万年以上に亘る自然との共生のなかで、それが出てきたんですね。

第8章 縄文時代、既に「言葉の壁」があったのではないか?

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: 言葉というのは本当に大事なものでして、縄文時代、日本列島の周りの国々にはすでに違う言葉がありました。縄文時代、宗谷海峡を渡るのは津軽海峡を渡るよりも実は簡単だったんです。あそこはせいぜい60メートルぐらいの水深で、冬になれば狭まる、うまくすれば流氷が堰をつくってくれたかもしれない。でも、縄文人はそこを渡らないし、樺太の原住民も渡って来ないのです。

朝鮮海峡は130メートルほど。縄文人は対馬までは渡るのです。あそこは縄文の国なんです。対馬は朝鮮海峡の九州寄りではなくて、朝鮮半島寄りにあります。そこまで縄文人は行っているのに、そこから先には全然興味を示さず、朝鮮半島には渡らないのです。おかしなことです。

津軽海峡はボートで行っていました。それも丸木船です。今の一番簡易な漁船と比べても100分の1以下ほどの機能しかないような船を操って、しょっちゅう行き来をしていました。だから津軽海峡をはさんで、縄文時代を通じて同じ文化圏なんです。それぐらいナビゲーターとしての力があるのに、なぜもっと簡単に渡れる宗谷海峡を渡らなかったのか。朝鮮海峡の対馬まで行って、どうしてその先には行かなかったのか。

南に目を向ければ、縄文人は沖縄まで行っています。新潟県の糸魚川沿いの姫川という所はヒスイの産出地です。ヒスイの産出地は1カ所しかないのですが、そのヒスイが沖縄まで行っているんです。

だから、宗谷海峡や朝鮮海峡を渡って向こう側に行かないのは航海技術が理由ではなく、「行かないんだ」という意思があるんです。なぜ行かないかというと、行っても言葉が通じないからです。言葉が通じないと、せっかく見目麗しい女性が遠くに見えても、船で行ったときに見えても口説けない——これはわかりやすく話をしました。

今は極端に話しましたが、全く行っていないわけではないんです。少し文物が行ったり来たりしています。痕跡として朝鮮半島からも物が来ているし、縄文土器も朝鮮半島に行っています。でも、例えば大きな向こうの貝塚遺跡に縄文土器の破片が2つしかないとか。もっと持って行ってよとなぜ言わなかったのか、あるいはどうしてもっと受け入れなかったのか。これは受け入れる気がない、縄文土器の意味を知らないというか、交流がない。言葉が通じないからです。

つまり、大和言葉の祖先、祖語が縄文時代にはもうでき上がっていた、だからこそ、朝鮮半島の人々と交流できなかったのではないか。宗谷海峡を渡ろうとしなかったのではないか。何回か行き来はしていますけれども、手を結ぶということは一切なかった。津軽海峡はものともしないで行ったり来たりしていたし、南西諸島、沖縄本島にも行っている。それなのに「なぜ宗谷海峡や朝鮮海峡は行けなかったの?」ということです。

そういうふうに見ていくと、「弥生時代から日本語の形が整った」という考え方は言語学者のもので、『万葉集』『古事記』『日本書記』などを材料にして大和言葉を遡ろうとすると、そういうことになるのです。私は全く賛同できません。「日本語はウラル・アルタイ語で、それから何万年ぐらい前に分かれた」といいますが、そんなことはありません。

分かれてくるまではどうしたんですか? 日本列島の人たちは、手振り身振りだったんですか? そんなことはありません。言語中枢はもう十分に発達していて、今と全然変わらない。チンパンジーなどが四つん這いになって移動するときには喉を圧迫しますから発音、音域が限られるのですが、人類は本当に幅広い音域を持っています。だからこそ、あちらこちらでいろいろな言葉があるのではないしょうか。今、世界中の言語は65,000種類といわれています。

その言語はウラル・アルタイ語だとかインド・ヨーロッパ語だとか、そういうところに基があって、それから分かれてきたのではないです。みんな、もともと地域地域にあった言葉がその後の交流によって貸し借りが出てきたりして、同じような言葉のグループができたのです。本末転倒してはいけません。人間の能力や、人間と言語という哲学的な思考、言語学者の多くはそれに目を向けていないだけの話なのです。

記号論やチョムスキーなどの新しい言語学というのは、今申し上げたような、「人間と言葉とは何か」そういうところから来ているのです。我々の言葉はどこから来たかとか、ミクロネシアの言葉はどこから来たかなど、「この言葉はどこから来たか」ということから発想するのが、まず間違いです。

ちょっとほかの分野にまで話が飛びましたが、このように縄文日本語というのは、もう確立していました。猿やチンパンジーと違って人類は言葉を手にして、そしてそれを自由に操った。手に入れた言葉というその武器を活用しないわけがない。最初から活用していますよ。

第9章 縄文時代を知ることは、我々自身を見直すことにつながる

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: 先ほど申しましたヒスイは北海道にもたくさん行っています。糸魚川という、新潟県の富山県寄りの所でしか採れないヒスイをそこまで運んでいる。それから、船に乗せて沖縄まで持って行っている。これはどういうことでしょうか?

ヒスイはダイヤモンドのようには、決して目を引くものではありません。沖縄に行っているのは、ヒスイの中でも貧弱なものです。ところが「これはヒスイである」という由緒を持つと行くのです。由緒というのは、「ヒスイの色の良さを目で見て、そして惹かれて価値が生まれた」というものではなく、もっと人間が理屈をこねたものです。新潟県と富山県境の集団の中にはものすごい演出家がいたんですよ。そして価値の高い物として縄文世界の中にダーッとヒスイを普及させた。それは言葉以外の何物でもないんです。

ただ見せて、手振りでやれますか?「これは向こうの向こうの向こうの、もっと向こうのそこから手に入れた。やっと手に入れて、1人か2人、犠牲になって……」とか、言葉抜きではそんなの全然話にならないでしょう。

ヒスイは固くて加工しづらい。だから形を整えたり、穴を開けたりするのに大変手間隙がかかるので、ビーズやアクセサリーをつくる材料としては劣悪品なんです。その劣悪品の性質のいくつかのものを言葉で相手を説得して、「これがすごいんだよ」と言うわけです。

言葉、自然と共生した縄文体験が日本文化の中に文化的遺伝子として脈々とつながっているという重要な事実を私たちはさらに評価しなければなりません。今、自然環境の問題で私たちはたくさん失敗してしまい、抜本的な対策を全然立てようとしていません。京都議定書ではアメリカなど先進国で先頭を走っている国が離脱したり、その後の協議でもなかなかサインしようとしないというのは、どこか間違っています。

「縄文時代に帰れ」とか、「縄文時代をお手本にしろ」と言うのではないのです。ただ、私たちはまだ心の中に、文化の中にそういう要素を持っているのです。その持っているのものはよく見えないけれど、縄文文化や縄文人を鑑として見ると、それが浮き上がってくるのです。そうすると、「ああ、そういうものなら、俺たち、まだ持っているじゃないか」となる、それが大事ではないかと思うのです。

縄文文化をもっともっと皆さんに知っていただきたいのは、そういう意味からなんです。そしてそれは、非常に大きな将来に向かっての理論的根拠になるのです。理論武装をするとき、縄文を鑑として見ることが非常に大事になってくるということをお考えいただければと思います。

第10章 縄文人に芽生えた「人間意識」

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: 縄文人は村で生活し、原に出かけていっては十分な話し合いのもとに原の恵みをとって利用していました。そのうちに縄文人は村の整備を整えていきます。それによって目にする景観——朝起きて目が覚めたとき目に飛び込んでくる近景としての村の景観、中景としての原の景観、そして遠景としての山の景観、その全体を覆いつくしている天蓋の役割をしている空、そういうものの中で人として非常に重要な意識に目覚めるのです。

自分たちが整備したこの村の空間、人工的な空間というのは自分たちだけしか持っていない。自分たちでつくって、自分たちの使い勝手のいいように設計して、どんどん村と原との景観上の違いをくっきりとさせていきます。

そのとき縄文人は、「俺たちはもはや動物ではない」と思ったのではないでしょうか。かつては自然的秩序の中で動物と同格でした。ところが「俺たちはちゃんとした生活の舞台、俺たち特有の舞台を持ち、動物たちの舞台とは別のものを持っているんだ」という景観の中で、「俺たちはもはや動物ではない」という自覚を得るきっかけを縄文人は手にしたのではないかと思います。

これは「人間意識」です。「自我意識」とは違います。近代ヨーロッパ以降芽生えた人間の自我とは別の人間意識です。人間対人間の中で、他人とは違う自分という自我意識とは区別されるものです。

縄文人が意識したのは、「自然と自然の秩序を構成しているいろいろな要素と俺たち人間とは違うよ」というものです。例えば、日本語の「ひと」というのは人を表します。「アイヌ」も人を表します。それからエスキモーの人たち、エスキモーは「生肉を食う人」というドイツ語系の呼称がなまったものですが、自分たちを「イヌイット」と呼ぶのです。これは我々が「ひと」と言って自分を呼ぶのと同じ、アイヌが「アイヌ」と自分を呼んでいるのと同じです。外国語にもみんな人を表す言葉があるのです。人というのは自分たちのことです。

なぜ自分たちを「自分たち」と言うのか。「自然と別の俺たち」ということで「人」という言葉を持つんです。私は縄文の定住的な村の営みからそのきっかけを得た可能性が極めて高いと思うのです。

第11章 日常生活の役に立たないモニュメントをつくるのは、人間だから

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: そのうちに縄文人は変なことをはじめます。「俺たちはもはや動物ではない、俺たちは人だぞ、人間だぞ」と主張するのです。そこで何をしたかというと、縄文人は日常的な生活とは無関係の変な施設をつくりはじめました。私はこれをモニュメント、記念物と呼んでいます。

記念物はストーンサークルだったり、環状の土手であったり、巨木樹であったりするのですが、つくるのにものすごい手間隙が掛かるのです。これら記念物に共通する性質は目立つということです。目立つものをつくるということは規模が大きくなるということです。規模が大きくなるということは、それだけ人を動員して長い年月も掛かる。

でも、そうしてつくったものは、日常的な生活には直接関係ないものです。人手も時間も掛かるのに、そんなに一生懸命つくるということはどういうことでしょう? 実はこれが縄文人の極めて人間くさい行動の表れなのです。

彼らが何を考えていたか、我々はうかがい知ることができません。だから我々にも図りかねるようなことですが、つまりそれは、彼らの信念の世界です。一言でいえば世界観です。彼らの世界観と関わりを密接に持つものを形にしたのです。

世界観を言葉で表したって具体的にはわかりません。「お前はそう思うかもしれないけれど、俺はそうじゃあねえぞ」と議論百出しますよ。そのとき誰かが「じゃあこんなものだよ、これでいこうじゃないか」と目に見えるカタチにしてみせると、世界観はそういうカタチのものだなとみんなが納得する。それでエイヤとつくるわけですが、大変なんですよ。

秋田県の大湯のストーンサークルは2つ並んでいるのですが、この2つをつくるために7kmぐらい上流から7,000個ぐらいの石を運んできているのです。1人で担いでは来られないような物をひきずってくるのです。7,000個ですからね、ダンプカーがあるわけじゃない、リヤカーもない、車もないんですから。人が人力で運んでくるのです。

栃木県小山市に寺野東遺跡がありますが、これは直径約165mのドーナツ状の土手で、比高差は約5mです。小さなマウンドを1つつくるのでも大変です。それが直径約165m。奈良県の黒塚という鏡をたくさん出した前方後円墳がありますが、これでも約135mですから、どんなに大きいことをしているかがわかります。環状列石にしても、世界観として大きなものを何百年も掛けてつくるのです。

しかし、日常的な生活の役には立っていない。少なくとも私たちにはわからない。そういう世界観に関わるものを彼らがつくったというのは、どういうことなのでしょう? 言い換えれば、全く腹の足しにならないものをつくっているのです。つくればつくるほど腹が減る、それなのにつくるのです。

腹の足しにはならないけれど、違うところの足しになっているのです、心の足し、頭の足しになっているのです。そういうふうに考えると面白いですね。そういうことを私たちは忘れてきたのです。

東大寺などもみんなそうです。あんなに大きくなくてもいいはずなのに、やっぱり大きさが必要なんです。古墳だって、大きな古墳は権力者の象徴でも何でもないのです。みんなの、自分たちのモミュメントなのです。1人の権力者がいて命令一下でああいうものをつくれると思ったら大間違いです。みんなの合意の下にできたのです。

奴隷制があったわけではないのですから、世界観とスローガンで「よしつくろう。俺たちの世界はこういうものだ!」と言ってものすごい仕事をやるのです。石を一所懸命、100年200年と掛けて集めてきて、こつこつ円形に並べていくんです。どれほどロマンチックなことか。

第11章 日常生活の役に立たないモニュメントをつくるのは、人間だから

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: そのうちに縄文人は変なことをはじめます。「俺たちはもはや動物ではない、俺たちは人だぞ、人間だぞ」と主張するのです。そこで何をしたかというと、縄文人は日常的な生活とは無関係の変な施設をつくりはじめました。私はこれをモニュメント、記念物と呼んでいます。

記念物はストーンサークルだったり、環状の土手であったり、巨木樹であったりするのですが、つくるのにものすごい手間隙が掛かるのです。これら記念物に共通する性質は目立つということです。目立つものをつくるということは規模が大きくなるということです。規模が大きくなるということは、それだけ人を動員して長い年月も掛かる。

でも、そうしてつくったものは、日常的な生活には直接関係ないものです。人手も時間も掛かるのに、そんなに一生懸命つくるということはどういうことでしょう? 実はこれが縄文人の極めて人間くさい行動の表れなのです。

彼らが何を考えていたか、我々はうかがい知ることができません。だから我々にも図りかねるようなことですが、つまりそれは、彼らの信念の世界です。一言でいえば世界観です。彼らの世界観と関わりを密接に持つものを形にしたのです。

世界観を言葉で表したって具体的にはわかりません。「お前はそう思うかもしれないけれど、俺はそうじゃあねえぞ」と議論百出しますよ。そのとき誰かが「じゃあこんなものだよ、これでいこうじゃないか」と目に見えるカタチにしてみせると、世界観はそういうカタチのものだなとみんなが納得する。それでエイヤとつくるわけですが、大変なんですよ。

秋田県の大湯のストーンサークルは2つ並んでいるのですが、この2つをつくるために7kmぐらい上流から7,000個ぐらいの石を運んできているのです。1人で担いでは来られないような物をひきずってくるのです。7,000個ですからね、ダンプカーがあるわけじゃない、リヤカーもない、車もないんですから。人が人力で運んでくるのです。

栃木県小山市に寺野東遺跡がありますが、これは直径約165mのドーナツ状の土手で、比高差は約5mです。小さなマウンドを1つつくるのでも大変です。それが直径約165m。奈良県の黒塚という鏡をたくさん出した前方後円墳がありますが、これでも約135mですから、どんなに大きいことをしているかがわかります。環状列石にしても、世界観として大きなものを何百年も掛けてつくるのです。

しかし、日常的な生活の役には立っていない。少なくとも私たちにはわからない。そういう世界観に関わるものを彼らがつくったというのは、どういうことなのでしょう? 言い換えれば、全く腹の足しにならないものをつくっているのです。つくればつくるほど腹が減る、それなのにつくるのです。

腹の足しにはならないけれど、違うところの足しになっているのです、心の足し、頭の足しになっているのです。そういうふうに考えると面白いですね。そういうことを私たちは忘れてきたのです。

東大寺などもみんなそうです。あんなに大きくなくてもいいはずなのに、やっぱり大きさが必要なんです。古墳だって、大きな古墳は権力者の象徴でも何でもないのです。みんなの、自分たちのモミュメントなのです。1人の権力者がいて命令一下でああいうものをつくれると思ったら大間違いです。みんなの合意の下にできたのです。

奴隷制があったわけではないのですから、世界観とスローガンで「よしつくろう。俺たちの世界はこういうものだ!」と言ってものすごい仕事をやるのです。石を一所懸命、100年200年と掛けて集めてきて、こつこつ円形に並べていくんです。どれほどロマンチックなことか。

第12章 「定住したのは縄文の方が大陸より早い」は本当か?

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: 縄文を知るということは、縄文時代にどういうことがあったのかという情報としての知識をいっぱい得るためではないのです。もちろんそれは知的な関心を満足させてはくれますよ。けれどそれが縄文について関心を持つことの意味ではないのです。

つい先日(2008年10月)、『縄文人追跡』という文庫本を出しましたので、興味ある人はぜひ読んでください。これを売ることによって私の足しには何もなりませんよ、印税についてはみなさんご存じでしょう。もともとベストセラーになるような本ではないのですが、なぜ私がわざわざこういう話をさせていただくかというと、縄文のことについて知ってもらいたいからです。

『縄文人追跡』はちくま文庫から出ています、ちくま新書の『縄文の思考』は私の縄文哲学を語っているものです。興味がおありの方はぜひ目を通していただければ大変ありがたい。縄文ファンを私はつくりたいのです。今日はご清聴、ありがとうございました。

会場からの質問: 「定住したのは縄文の方が大陸より早い」というお話がありましたが、知識がないので「本当かな?」と、ちょっと腑に落ちないところがありまして……。単に経済レベルの問題で、余裕がないから発掘や研究が進んでいないからということではないのでしょうか。

小林達雄: 部分的修正はあっても、今日お話ししたようなことは、あまり訂正しなくもいいと思います。物理化学的な方法で年代も測定しています。その基本は「地層累重の法則」というのですが、今日の雪は昨日の雪の上に積もりますね。下にある層の方が古いのです。ずっと掘っていくと雪がない層が出てくる、地面が出てきます。そうしてわかったわけですから、いい加減な比較ではないのです。

私は「土器をつくったりして、定住的な村の生活に入ったのは大陸側より、群を抜いて早かったんですよ」とはお話ししましたが、「高かった」とは言っておりません。これはとても大切なことです。

会場からの質問: 「モニュメントは世界観だ」というお話がありましたが、祭祀が生まれてきた背景とモニュメントの関係は、どう考えればいいのでしょうか。

小林達雄: 密接にかかわっていると思います。祭りというのは人間にはつきものですね。一所懸命努力をすれば効果は上がります。腕は上がるけれども限界があります。例えば走り高跳びで2m50cm以上なんかは、普通の人は到底超えられない。それ以上超えようと思ったら、祈るんです。でも祈ったって超えられない。全く別の手段、棒高跳びにしないと越えられないのです。全く別のことで勝負しないと超えられないのです。

棒高跳びでも超えられない高さがありますね。そのときには、やっぱり祈るんですよ。人は願望を捨てません。願望を捨てないとき、最後は神頼みする。限界を超ええるために祈ったり、儀式やまじないをしたりするのです。これは世界中どこにでもあるのです。

私たちはもう祈らなくなったじゃないですか。「こうしたい」と思ってもすぐ限界が見えて、非常に悲しいことだけれども自分の能力とは別に人間としての限界を生理学的に自覚してしまうので、祈りもしない。極端になると新興宗教になっていきます。それで救いを得られる人たちは、それはそれでいいかもしれないけれど、そうでない人たちは非常に現実的に「これは可能か不可能か」という場面に遭遇しては諦めていくのです。

ところが縄文人は諦めないのです。私の言う「第二の道具」というのがあるのです。第一の道具というのは、魚をとったり、獣をとったり、煮炊きをしたり、自分たちの肉体を維持するのに必要なカロリーを摂取するための道具です。釣り針も、槍も、弓もそうです。

けれど、そうではない道具があるのです。土偶や石棒がそうです。あれを使って魚はとれません。弓の矢の先につけるやじりを土でつくったりするのもそうです。そんなの刺さるわけがないじゃないですか。でも、土でつくるんです。これを私は「第二の道具」と呼んでいます。

「第二の道具」は心の働きと結びついて、希望を失いかけるような局面でも諦めないで祈る、まじないをするときに使う道具なんです。

例えば今、私たちは神社にお参りするとき、小銭がなかったら「今日は(お参りを)遠慮しておこう」と思うのです。小銭を入れないでお参りをした人に、「そうかそうか、俺にお参りしてくれたのか」なんて思う人のいい神様いませんよ(笑)。子どものころから親に連れて行かれると、ちゃんと親が小銭を用意しておいてくれて、それをポンと入れてお参りするわけです。今、私が孫を連れて行けば、ちゃんとそうするわけです。私は信心深くはないのですが、そうしたことは刷り込まれているのです。

神に祈ったりまじないをしたりするときには、手土産、供物がないとだめで、ちゃんと用意するのです。ただ単に日常的に、「おい、頼むよ、神様」と言ってもだめなんです。ちゃんとした格式に則った祈りをしたり、儀式を行ったりする、それが祭りなんです。だから、どんなところにも祭りがあって、縄文人もいっぱい祭りをしています。その証拠に第二の道具の種類がいっぱいあるのです。

第12章 「定住したのは縄文の方が大陸より早い」は本当か?

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

小林達雄: 縄文を知るということは、縄文時代にどういうことがあったのかという情報としての知識をいっぱい得るためではないのです。もちろんそれは知的な関心を満足させてはくれますよ。けれどそれが縄文について関心を持つことの意味ではないのです。

つい先日(2008年10月)、『縄文人追跡』という文庫本を出しましたので、興味ある人はぜひ読んでください。これを売ることによって私の足しには何もなりませんよ、印税についてはみなさんご存じでしょう。もともとベストセラーになるような本ではないのですが、なぜ私がわざわざこういう話をさせていただくかというと、縄文のことについて知ってもらいたいからです。

『縄文人追跡』はちくま文庫から出ています、ちくま新書の『縄文の思考』は私の縄文哲学を語っているものです。興味がおありの方はぜひ目を通していただければ大変ありがたい。縄文ファンを私はつくりたいのです。今日はご清聴、ありがとうございました。

会場からの質問: 「定住したのは縄文の方が大陸より早い」というお話がありましたが、知識がないので「本当かな?」と、ちょっと腑に落ちないところがありまして……。単に経済レベルの問題で、余裕がないから発掘や研究が進んでいないからということではないのでしょうか。

小林達雄: 部分的修正はあっても、今日お話ししたようなことは、あまり訂正しなくもいいと思います。物理化学的な方法で年代も測定しています。その基本は「地層累重の法則」というのですが、今日の雪は昨日の雪の上に積もりますね。下にある層の方が古いのです。ずっと掘っていくと雪がない層が出てくる、地面が出てきます。そうしてわかったわけですから、いい加減な比較ではないのです。

私は「土器をつくったりして、定住的な村の生活に入ったのは大陸側より、群を抜いて早かったんですよ」とはお話ししましたが、「高かった」とは言っておりません。これはとても大切なことです。

会場からの質問: 「モニュメントは世界観だ」というお話がありましたが、祭祀が生まれてきた背景とモニュメントの関係は、どう考えればいいのでしょうか。

小林達雄: 密接にかかわっていると思います。祭りというのは人間にはつきものですね。一所懸命努力をすれば効果は上がります。腕は上がるけれども限界があります。例えば走り高跳びで2m50cm以上なんかは、普通の人は到底超えられない。それ以上超えようと思ったら、祈るんです。でも祈ったって超えられない。全く別の手段、棒高跳びにしないと越えられないのです。全く別のことで勝負しないと超えられないのです。

棒高跳びでも超えられない高さがありますね。そのときには、やっぱり祈るんですよ。人は願望を捨てません。願望を捨てないとき、最後は神頼みする。限界を超ええるために祈ったり、儀式やまじないをしたりするのです。これは世界中どこにでもあるのです。

私たちはもう祈らなくなったじゃないですか。「こうしたい」と思ってもすぐ限界が見えて、非常に悲しいことだけれども自分の能力とは別に人間としての限界を生理学的に自覚してしまうので、祈りもしない。極端になると新興宗教になっていきます。それで救いを得られる人たちは、それはそれでいいかもしれないけれど、そうでない人たちは非常に現実的に「これは可能か不可能か」という場面に遭遇しては諦めていくのです。

ところが縄文人は諦めないのです。私の言う「第二の道具」というのがあるのです。第一の道具というのは、魚をとったり、獣をとったり、煮炊きをしたり、自分たちの肉体を維持するのに必要なカロリーを摂取するための道具です。釣り針も、槍も、弓もそうです。

けれど、そうではない道具があるのです。土偶や石棒がそうです。あれを使って魚はとれません。弓の矢の先につけるやじりを土でつくったりするのもそうです。そんなの刺さるわけがないじゃないですか。でも、土でつくるんです。これを私は「第二の道具」と呼んでいます。

「第二の道具」は心の働きと結びついて、希望を失いかけるような局面でも諦めないで祈る、まじないをするときに使う道具なんです。

例えば今、私たちは神社にお参りするとき、小銭がなかったら「今日は(お参りを)遠慮しておこう」と思うのです。小銭を入れないでお参りをした人に、「そうかそうか、俺にお参りしてくれたのか」なんて思う人のいい神様いませんよ(笑)。子どものころから親に連れて行かれると、ちゃんと親が小銭を用意しておいてくれて、それをポンと入れてお参りするわけです。今、私が孫を連れて行けば、ちゃんとそうするわけです。私は信心深くはないのですが、そうしたことは刷り込まれているのです。

神に祈ったりまじないをしたりするときには、手土産、供物がないとだめで、ちゃんと用意するのです。ただ単に日常的に、「おい、頼むよ、神様」と言ってもだめなんです。ちゃんとした格式に則った祈りをしたり、儀式を行ったりする、それが祭りなんです。だから、どんなところにも祭りがあって、縄文人もいっぱい祭りをしています。その証拠に第二の道具の種類がいっぱいあるのです。

第13章 文化的遺伝子を継承するために

小林達雄 考古学者/國學院大學名誉教授

会場からの質問: 今、経済では100年に1度の世界恐慌みたいなことになっていて、これから価値観が大きく変わるのではないかとか、いろいろなことが言われています。そういう中で、「日本文化の源流を探る」という今日のタイトルではありませんが、今の私たち日本人が縄文人から学ぶべきというか、「今こそ、こういうことを縄文から学ぶべきではないか」ということがあればお教えいただきたいのですが。

小林達雄: 縄文人からたくさんのメッセージを僕たちは受けているので、それを評価するのは私たちです。ただ真似をすればいいというのではなく、評価するだけの土台を私たちは持たないといけない。つまり現代に身を置く僕たちは、今を考えないといけないのです。
考えていろいろな問題点を具体的に自分で意識したときに、縄文を見ていくといろいろなメッセージがあることに気づくのです。

今日のテーマの1つ「自然との共生」、そしてそこから生まれてくる「文化」、それが「日本的心、心情」になっているというところは、まだそう簡単には消えません。遺伝子が簡単に消えないのと同じように、文化的遺伝子としての言葉、日本語が消えない限りはこの理論的考え方は残ると思います。

だから、それを大切にするというのでしょうか。日本語を大切にすること、日本文化を大切にすることが、縄文時代の文化遺伝子を継承することにつながるのだと思います。





(私論.私見)