原日本人考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).5.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2009.12.22日、新たに日本及び日本人の起源考を作ることにした。千田寛仁「日本の歴史~日本の朝日」、横尾恒雄「異説古代史 (上巻)」、「日本人の起源と系統について」その他を参照する。

 2009.12.22日 れんだいこ拝


【原日本人考】
 ここで、日本人の起源を訪ねることにする。但し、構え的には、人類の起源が解明できない以上、跡付けることもできないとすべきだろう。この問題に取り組む学問には歴史学(人類学、文化学、文献学、考古学、神社伝承学)、言語学、天文学、生物学(古生物学、分子生物学、DNA考古学)、地球科学等がある。これに、「別章【歴史研究手法考】」で触れているが、年代測定法としての放射性炭素(C14 )分析による年代特定、さらにその手法改良により約六万年前迄測定可能とされるAMS分析法、年輪年代法等も加わって、より精緻に考証されるようになった。コンピュータによる画像解析の手法を駆使して古代人の墓碑の解読もすすみ、歴史人物の在世年代が特定されている。

 日本人の起源探訪を山に例えれば、これら諸科学の裾野から登山するのに似ている。依然として頂上には至らない。但し、次の程度には解明が進んでいる。即ち、生命の起源そのものを訪ねれば、2004年12月に放映されたのNHKの「地球大進化四十六億年の歴史」によると、元は藻類かアミーバのような生物から鰭をもつ魚へ、そして手のある両生類に、さらに地上に生活するようになった獣へと進化を繰り返して猿へと辿り着いている。今日の人類の遠祖は大型類人猿と呼ばれるチンパンジー、ボノボ(ピグミーチンパンジー)、ゴリラ、オランウータンの四種であると考えられる。凡そ600万年前、この中のあるグループが人類の祖先となったと推定されている。人類学上、現代人(新人類、ホモ・サピエンス)のルーツは15~20万年前よりとされている。その故地はアフリカとされつつある。4~3万年前、日本人の祖先となる集団が日本列島へ最初にやって来たと考えられている。この時期には海面低下の影響で陸地が拡大し、日本列島周辺の海岸線は現在とはずいぶん異なっていたという。日本列島の一部では、大陸と陸続きになったり、大陸との間の海峡が非常に狭くなったりしていたと云う。但し、ムー大陸論による太平洋沖からのプレート移動論もあり確定はできない。

 新人類はその後世界各地に分散してニグロイド(黒人)、コーカサイド(白人)、モンゴロイド(黄色人)へ分化したとされている。この分類によれば、現代日本人はモンゴロイド(黄色人)になる。これにより「日本人の先祖は人類学的にモンゴロイド人と呼ばれている」。その日本人は、同じモンゴロイドながら先住系と後続系の二種に分かれる。「ミクロに見れば数種類の南方系モンゴロイドと数種類の北方系モンゴロイドとから成るという複雑なものになる」。この両系のモンゴロイドの混血が進み日本人の祖となったと考えられている。どの地点から日本人となるのか分からないが、仮に原日本人と命名すれば、原日本人は今日のアイヌ人、琉球人とDNAが近いと云われている。なお且つ、ベーリング海峡が陸続きの頃、原日本人がアメリカ大陸に渡り、後にインカ,アステカやマヤの文明を築いた。「6千年前のアンデスのミーラのミトコンドリアDNAは北海道アイヌのものとほとんど一致する」とも云われている。

 文化人類学的時代区分によれば、人類史は旧石器時代から始まる。人類が旧石器を作り始めた約250万年前から新石器を作り始めた約1万年前までの時代を云う。但し、人類が誕生した約600万年前から250万年前の期間も含めることがある。地質学上の第四期洪積世に相当する。一般的に、旧石器時代は旧大陸の旧石器文化に基づく考古学区分により、前期(下部)、中期(中部)、後期(上部)の三期に分けられている。日本列島では、現在のところ確かな旧石器文化は約4~3万年前頃の後期段階しか確認されていない。この時代、日本列島全体にどんな人々が住んでいたのかは良くわかってない。私たちの祖先・倭(和)人の姿をはっきりと見ることができるのは縄文時代からという。

 原日本人は歴史文献学的には倭人として登場する。以下、れんだいこならではの「一言もの申す」をしておきたい。倭人を縄文系と弥生系に分類されるが普通であるが、的確な表現とは思えない。そもそも「縄文弥生識別」は、縄文的なるもの、弥生的なるものの文化、習俗の違いを時代規定にまで被せていることになるが誤解の元であろう。縄文人は縄文時代の生活スタイルだけではなく、弥生時代にも弥生人と並存して共に日本列島に生息している訳で、あるいは混血も進む訳であろうから、縄文的なるもの、弥生的なるものなる文化、習俗の違いを以て縄文時代、弥生時代と識別するのは如何なものだろうか。

 他の歴史区分との比較で云えば、政権支配者名、政権首都名、その他時代を特徴づける適語のどれかをもって時代名としている。これに倣えば、縄文時代、弥生時代なる識別は不当とすべきではなかろうか。但し、政権支配者名、政権首都名、その他時代を特徴づける適語によっては識別ができないので仮に縄文時代、弥生時代としているのであろう。しかしながら誤規定である。正しくは、原日本(上古代日本)、新日本(古代日本)の識別が相応しい。その文化、習俗の違いとして原日本(上古代日本)は縄文的であり、新日本(古代日本)は弥生的であると認識すべきではなかろうか。繰り返すが、これを縄文時代、弥生時代として識別すると、弥生時代下の原日本(上古代日本)人の縄文的棲息が見落とされてしまう。

 れんだいこが、このことに何故拘るのか。それは、魏志倭人伝に登場する倭人論に繫がるからである。魏志倭人伝に記されている倭人の習俗は明らかに原日本(上古代日本)の姿である。魏志倭人伝は紀元3世紀頃の日本をスケッチしているが、日本の縄文、弥生時代の規定で云えば弥生時代である。その弥生時代に縄文的な原日本(上古代日本)の政権と風俗が活写されていることになる。これはどうも具合が悪いし、そういう規定では正しい認識ができなくなる。これが縄文時代、弥生時代規定の間違いの為せる罪技である。故に早急に縄文時代、弥生時代なる識別を改めなければならない。

 こう認識することによって、日本古代史を原日本(上古代日本)、新日本(古代日本)の規定にせねばならないことになる。但し、新日本と規定すると、その後の日本は更なる新日本なのだからややこしくなる。そういう訳で、上古代日本、古代日本とすべきと云うことになる。もっと的確な造語ができればそれに越したことはない。

 千田寛仁「日本の歴史~日本の朝日」は次のように記している。
 「東北地方の岩手県花巻市では、3万年も昔といわれる石器時代の遺跡が発見されている。縄文文化が色濃く名残りをとどめている。現代科学の粋たるスペースシャトルの外壁は高温にも耐えるセラミックス(陶器)で出来ているが、このセラミックスは、岩手県、津軽、東北地域の遮光式縄文土器(炭素セラミック)の成分を参考にしてNASAで再開発されたものである。このことは、縄文時代文明の高度性を示唆している。北海道函館市で9000年前の漆器(うるしを塗った器)が発見されている。世界最古の漆器といわれている」。

 「最新・日本古代史年表」を参照する。

年 代 時 代  社 会 ・ 文 化 ・ 遺 跡 
 旧石器時代
170万年前 前期 日本オオカミの先祖?京都昭島市で日本オオカミの先祖とみられる動物の化石が発見された。
?万年前 日本列島に人(原人)が住み始める。
60万年前 上高森遺跡。平成7年10月、「石器発見の神様」と呼ばれている藤村新一氏により宮城県築館町で「約60万年前の日本最古の旧石器を発見」。現時点における原人が残した最古の遺跡となっている。
13万年前 ナウマンゾウ(40万年前~3万年前に生存)の化石などが多数発見。馬場壇A遺跡(宮城県古川市)、中峰C遺跡(宮城県大和町)
10万年前 中期 袖原3遺跡(山形県花沢市)、中島山遺跡(宮城県色麻町)。10万年前、山脈を挟んだ異なる場所の2つの石器が同じ原石から作られていたことが判明。
3万5千年前 辻田遺跡(北九州市)。
3万年前 座散乱木遺跡(宮城県)。
立切遺跡(鹿児島県中種子町)。大量の石器、炉跡が発見された。調理用焼き石の礫群、焼土遺構、建物や杭らしい柱跡が出土。
2万5千年前 後期 シベリアでマンモスのほぼ全身を発見。
  広島大新キャンパス遺跡(広島県東広島市)中期~後期。住居遺構6棟、平地式住居の発見。鹿児島姶良カルデラ噴火,火山灰は東北にまで及ぶ。翠鳥園遺跡(大阪府羽曳野市)新人のサヌカイト製石器製作跡。
  最終氷河期ピーク,海面が百数十メートル退行。
1万6千年前  白滝遺跡(北海道)。黒曜石の石器原産地遺跡。シベリアに運ばれたことも判明。120万点出土。
1万4000年前 草創期 青森で発見の土器が世界最古と判明。青森県蟹田町にある縄文草創期の大平山元遺跡で見つかった土器片が1万6500年前に作られたものであることが明らかになった。
  鹿児島で旧石器時代(縄文早期)の住居跡見つかる。日本最古の住居跡が鹿児島県指宿市で発見された。世界でも最古か?
  「港川人骨」(沖縄県具志頭村港川)。1万数千年前の化石人骨数体分が採集。「港川人」は、「柳江人」(中国広西省出土;約4万年前の化石人骨)とよく似ている。
B.C.9000 栫ノ原(カコイノハラ)遺跡(鹿児島県加世田市)、奥ノ仁田(オクノニタ)遺跡(鹿児島県西之表市) (約1万2千年前)定住生活の跡(丸ノミ型磨製石斧,石皿、磨石、石鏃などが発見された。)有肩石斧の原始的形態のものが出土する。
 縄文時代
B.C.7000 早期 上野原遺跡(鹿児島県)。日本最古(縄文時代早期:約9500年前)の大規模な集落遺跡。住居跡46軒と蒸し焼き用炉跡が発見された。西日本には殆どないとされていた縄文遺跡だが、鹿児島県から日本最古の縄文集落が発見された。三内丸山遺跡に続いて古代史を塗り替えた。弥生式土器に似た土器まで発見され「縄文も西からか?」と騒がれている。
鬼界カルデラ噴火。中野B遺跡(北海道函館市)500軒以上の縄文早期(7~8000年前)の竪穴住居群。栽培型のヒエの種子が発見された。定住生活の安定化。
B.C.6000 漆の使用始まる。木工技術が発達し、各地で丸木船が作られる。気候が温暖化し海水面が上昇,海が内陸に入り現在の日本列島の形状が形成される。(縄文海進)
B.C.5000 前期 三内丸山遺跡(青森県)5千5百~4千年前まで約1,500年間営まれた大規模な集落跡。従来の縄文観をことごとく書き換えた有名な縄文遺跡。
  北黄金貝塚。(北海道伊達市)(約5000年前)意図的に壊された石皿やすり石を含む石敷きの作業場、池、水汲みの際の足場などの「水場遺構」が発見される。祭祀遺構の可能性も? 鯨骨製の「刀」も出土した。
B.C.4000 中期 富山・桜町遺跡(富山県小矢部市)。建築部材が大量に出土。「わたりあご仕口」と呼ばれる木組み跡の柱があった。同じ手法が、後世奈良の法隆寺の建物にも使われている。
B.C.3000 各地で大規模な縄文集落成立。新潟・長者ケ原遺跡。 富山・不動堂遺跡。石川・チカモリ遺跡。奥三面遺跡群(新潟県朝日村)。縄文期に「2000年集落」。新潟県朝日村三面地区のダム予定地で発掘調査が進む奥三面遺跡群に少なくとも2000年続いた縄文時代後―晩期の文化が存在していたことが、9日(98年10月)までに明らかとなった。これまで最長とされた縄文前―中期の三内丸山遺跡(青森市)の約1500年間を上回る。国内最古の「舗装道路」跡などが出土しているものの、同遺跡群はダムの完成に伴って水没することになっており、惜しむ声が強い。 
B.C.2000 後期 土偶・仮面・石刀などの祭祀が隆盛。
B.C.1000 晩期 九州北部に水耕稲作が伝わる。佐賀県・菜畑遺跡。日本最古の水耕稲作。稲作以外に、野菜の栽培、家畜の飼育も行っていた。
 弥生時代
B.C.300 前期 鉄器使用始まる。吉野ヶ里遺跡(佐賀県)。
  倭、百余国に別れ分立。楽浪郡と通交。
  北九州に稲作定着し環濠でムラを囲む。福岡・板付遺跡。
B.C.200 北九州各地に王国。吉武・高木遺跡(早良王国:福岡市)。野方遺跡(福岡市)。平原遺跡(伊都王国:福岡県前原市)。
  中期 青銅器の製作始まる。原の辻遺跡(長崎県)日本最小の銅鐸が出土(滋賀・下鈎遺跡)。 内外2重の環濠をめぐらした25平方㎞におよぶ集落・港湾遺跡。日本最小の小銅鐸(どうたく)が滋賀県栗太郡栗東町の下鈎(しもまがり)遺跡で見つかった。通常の銅鐸を忠実に再現しており、関係者は「古代の銅製品の使用や製造の変化を知る上で貴重な資料」と注目している。弥生時代中期の集落の環濠(ごう)と推測される溝から見つかり、弥生時代中期後半から後期ごろ(紀元前2―後3世紀)の製造とみられる。
  福岡県甘木市・平塚川添遺跡。6重の環濠をめぐらした大集落遺跡。楼閣を持った祭事建物も出現。壱岐の「原の辻遺跡」とともに北九州三大環濠遺跡。吉野ヶ里を発掘した佐賀県文化財課の高島忠平氏談。「こんど北九州で何か出るとすれば甘木・朝倉地方だと思ってました」。
A.D.1紀元後 池上曽根遺跡 環濠集落。 (大阪符)。近畿最大の掘立柱建物と一本刳り抜き井戸が出現。
  弥生集落、全国で営まれる。大塚・歳勝土遺跡(横浜市)。綾羅木・郷遺跡(下関市)。田能遺跡(尼崎市)。加茂岩倉・神庭荒神谷遺跡(島根県斐川町、加茂街)。唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)。立岩遺跡(飯塚市)。登呂遺跡(静岡市)。名古屋・見晴台遺跡。山口・土井が浜遺跡。 福岡・金隈遺跡。
  小田原で弥生時代中期の大集落を確認。98年3月7日、同市中里にある繊維工場跡地の発掘調査で、弥生時代中期中葉(紀元前2世紀)の大集落跡が確認された。調査地から61の竪穴住居跡や500を超える土坑などが見つかった。また小田原ではこれまで発見例のない瀬戸内海系の土器も出土した。中里遺跡は、酒匂川河口から2キロ上流。工場跡地に大型店舗が進出するため、98年3月から発掘調査していた。集落跡は東西、南北ともに250メートル。この遺跡から南東に300メートルほど離れた場所からは、1993年の調査で、49基の方形周溝墓が見つかっている。今回の発掘と合わせ、この地域の周辺に本格的な大規模集落があったと推測されるという。
  弥生時代のおにぎり出現。杉谷チャノバタケ遺跡(石川県鹿西町)紀元前後の弥生中期末の住居跡から見つかった。日本最古の調理・加工された炭化米の塊。チマキ、魔よけの説もある。
  青銅器、九州で盛んに製造される。各地で工房跡。須玖・岡本遺跡群(福岡県春日市)
57 奴国王漢の光武帝より金印を賜る。
  妻木晩田遺跡(鳥取県大江町・淀江町)。現在、日本最大の弥生遺跡。山陰に新たな王国か。
200 後期 倭国内乱が続く。戦いの痕跡を残した人骨が、全国各地の弥生遺跡から出土する。

 れんだいこのカンテラ時評№1289  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年10月21日
 日本土着民考

 2016.10.18日午前9時30分頃、沖縄県東村高江の米軍ヘリパッド建設工事が進むN1表ゲート前で、これに抗議する市民が対峙し、大阪府警から派遣された20代の男性機動隊員(巡査部長、29歳)が、この反対運動に参加していた芥川賞作家の目取真俊氏に対して、フェンス越しにかなり強いヤクザ口調で、「触るな、くそ。触るな、こら。どこつかんどんじゃ、ぼけ。黙れ、土人(どじん)」と発言。別の機動隊員(男性巡査長、26歳)が「黙れ、シナ人」と発言。これが、「機動隊員による沖縄人に対してのヘイト用語発言事件」になり詮議されている。

 10.19日、沖縄県の翁長知事が、県庁で「言語道断で到底許されない」と強く非難した。安倍政権の菅官房長官も同日の記者会見で、「警察官が不適切な発言を行ったことは大変残念だ」と語った。10.20日、警察庁の坂口正芳長官は定例の記者会見で「機動隊員の発言は不適切で、極めて遺憾だ」、「今後このような事案の絶無を期すとともに、適切な警備を行うよう指導を徹底していきたい」と語った。

 ところが、機動隊員派遣お膝元の松井大阪府知事が、10.19日、自身のツイッターで、「ネットでの映像を見ましたが、表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と労いコメントし、翌日のぶら下がり会見でも「相手もむちゃくちゃ言っている。売り言葉に買い言葉。鬼畜生のように隊員個人を叩くのはどうか」と述べ、改めて隊員を擁護した。翁長知事が大阪府知事のコメントに激怒!、「沖縄県民への配慮が足りないのではないのか」と強く批判して物議を呼ぶオマケまでついた。

 以下、この「土人発言」に対して、れんだいこ式に解析評論しておく。案外と重要な問題が宿されていると窺うからである。この「土人」表現が、極めて癖のある且つ歴史性のある且つ国際ユダ邪問題に密接不可分なものであると思うからである。表現の自由を極力広く取って構えようとするれんだいこは、本件を、ヘイト用語使用による非難ではなく、原理的に粉砕してみたいと思う。御意の士が現れんことを願う。件の機動隊員の目に触れんことを願う。

 一般に、「土人」という言葉は、「未開原住民」的ニュアンスで蔑視的に使われている。典型的な例はアメリカンインディアンであろう。戦後日本生まれの子供は、私がその一人であるが、嫌と云うほど西部劇を見せられ、抵抗するインディアン撃退劇を正義の出来事の如くに脳裏に焼きつけられた。この時、無意識下で洗脳、即ち「先進国の白人が原住民を退治し馴致することは正義であるとする」史観を流し込まれたように思う。これによって正視し得ていたのではなかろうか。これを仮に「先進文明国史観」と命名する。

 この史観によって、紀元16世紀頃より世界植民地分割征服戦争が始まった。この戦争を背後で主導していたのが国際ユダ邪と仮命名されているところのユダ邪系国際金融資本、及びこれに合体するところのネオシオニズム系ユダ邪教、そのタルムード教、ユダ邪教に馴致されたところのキリスト教等々の勢力だった。これが近代世界史の流れである。

 この波は日本にも及んでいた。早くは日本史上で戦国時代と云われる16世紀に関わっている。ユダ邪教に馴致されたところのキリスト教のイエズス会系宣教師がトップバッターとして鹿児島に上陸し、手に聖書、口で反逆、背に鉄砲、軍艦を従えて来襲してきた。歴史教科書はこう記さないが、元帝国のそれがハード、イエズス会のそれがソフトと云う違いはあるが共に「来襲」とみなすべきだろう。

 歴史的には、この時の日本政治の政権を担った織田、豊臣、徳川の三家の舵取りが極めて有能で、外交的にも軍事的にも日本侵略を許さず撃退することに成功し鎖国へと結実した。鎖国後、国際ユダ邪に対する警戒心を緩めることになったが、致し方なかった面もあろう。歴史教科書はこう見立てないが、それは現行の歴史教科書が国際ユダ邪ナイズされているからである。

 日本史上、次の来襲が江戸時代幕末の黒船来航である。この時、天下が激論し、尊皇攘夷か国際ユダ邪受容かを廻って激論した。結果的に、織田、豊臣、徳川の三家政治のようには撃退できず、幕末維新から明治維新へと流れ込んで行った。但し、この明治維新は、徳川政権残存派、天皇制国粋主義派、文明開化開国派と云う名の国際ユダ邪派の寄り合い三派連合で推移して行くことになった。この三派連合が次第に溶解し、国際ユダ邪派のワンサイド政権へと化していくのがその後の日本史である。この流れが時に揺り戻しはあるものの2016年の今日まで続いている。かく日本史の流れを確認しておきたい。

 さて、件の土人発言であるが、例の機動隊員が、沖縄人に対し、「この土人めが」と発言した時の真意を問題としたい。彼の土人発言は、上記分析に照らせば、余りにも文明開化開国派が盲従する国際ユダ邪派の「先進文明国史観」をそのまま受容し過ぎていないだろうか。国際ユダ邪派にとっては、国際ユダ邪派以外の世界の諸民族は牛馬犬猫の類のゴイムなる存在であり、煮て食われようが焼いて食われようが、その者たちをそのように扱うのが神から選民された国際ユダ邪派の義務であり権利であるとする。この目線上に土人が居り、殺戮しようが陵辱しようが馴致しようが我々の自由と云うまことに得手勝手好都合な論理構造式を引き下げている。

 れんだいこ史観は、国際ユダ邪派に殲滅され、あるいは馴致された原住民、即ち土人が未開野蛮であったと判定しない。今日の如くの核兵器、原発、その他化学生成物による地球汚染の時代にあっては、概ね自然と共生しつつ原始的に生活していた生態の方が寧ろ本質的に賢かったのではなかろうかとさえ思えてくる。衣食住が自然素材で自然と共生してきた彼らの文明の方が高等だった気がしないでもない。国際ユダ邪派の狡知は、いわゆる「賢こバカ」ではないかと思えてくる。

 こう考える私からすれば、例の機動隊員の「土人発言」が「先進文明国史観」に毒づけられた卑しい史観に基づいての暴言であるのは自明である。国際ユダ邪の目から見れば彼もまた土人の側であるのに、いずれブーメラン的に我が身に突き刺さってくるのに土人批判に興じて悦に入っている。お粗末と云うか思想愚人である。ここまでをその1とする。本稿はここまでとしたい。

 れんだいこのカンテラ時評№1290  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年10月22日
 日本土着民考<その2

 先のブログまでが前半である。ここからもう一つの観点から掘り下げてみたい。近代日本史が、徳川政権残存派、天皇制国粋主義派、文明開化開国派と云う名の国際ユダ邪派の寄り合い三派連合で推移し、次第に文明開化開国派ワンサイド政権へと化して行ったにせよ、世界の諸植民地のように国際ユダ邪来襲にひとたまりもなく殲滅されなかったところに日本の偉大さがある。むしろ一時的には一度も二度も跳ね除けた歴史を持つ。世界史的に見て、今この栄誉にあるのは日本、ベトナム、キューバの例があるのみではなかろうか。大和民族のこの能力をもっと称えるべきと思う。「大和民族のこの能力」に沖縄人が関係している。このことを共に悦び重視したい。これはどういう意味だろうか。以下、これに答える。

 れんだいこ史観によると、日本の大昔は「元百余国」と云われるような日本列島津々浦々に棲み分けする部族国家だった。この部族国家が次第に束ねられ、緩やかながらも結合する部族連合国家となったのが出雲王朝御代だった。他所では神無月、出雲では神有り月となる旧暦10月、各地の部族王が出雲に集まり合議政治する慣わしを確立していた。会議後、各地の文化、技芸を披露し称えあった。今日に伝わる「お国自慢」の伝統はこの時以来のものである。時代的には起源前後、更に下って邪馬台国の紀元3世紀頃まで続いた。文明的には弥生時代であるが、後の渡来系大和王朝時代と区別する為に、この時代までを敢えて仮に「縄文日本」(又は「原日本」)と命名しておく。

 この「縄文日本」時代、いわゆるアイヌ人が羽振りを効かせていた。このアイヌ人が知る人ぞ知る日本式美男美女の系統である。記紀に登場する三輪の長脛(すね)族はその代表で、名の通り脛の長い美丈夫の王家族だったように思われる。ちなみに、アイヌ人と琉球人のルーツが同じもしくは近いことがDNA解析で判明している。人だけでなく犬もそうとのことである。日本列島には、このアイヌ人のほかにも様々の人種が生息していたと思われ、これらを合わせて縄文人と云う。

 「縄文日本」の人たちの特徴は割合と混血を好むところにあったように思われる。その様は「より選れた遺伝子」を求めての交合であり、それが王族間の場合には同時に部族同盟を意味していたように思われる。以降、この混血を通して原日本人が生成されて行くことになる。この頃の「縄文日本」の版図を現在の日本地図に当て嵌めれば、北は北海道から南は沖縄まで、即ち今日の日本の如くの範囲で「縄文日本文明」を創造し共生的に満喫していたように推定できる。

 邪馬台国時代の紀元3世紀頃、外来外航族が渡来し、王権の簒奪を図った為、内乱状態に陥った。結果的に「縄文日本」が滅ぼされ、大和王朝に向かうのがその後の日本史である。記紀の記す出雲の国譲り譚、魏志倭人伝の記す邪馬台国滅亡譚はこの辺りの消息を語っていると思料したい。

 こうして大和王朝になる。この時よりの日本を、それまでの「縄文日本」と識別する為に「弥生日本」(「新日本」)と命名できようが、「縄文日本」の時代が既に弥生時代なので、「縄文日本」の呼称はあり得ても、「弥生日本」と云う表現は適切を欠くように思われるので使用しない。「新日本」も同様に後世は常に「新日本」になるので使いづらい。よって、これよりは初期大和王朝御代、奈良朝御代、平安朝御代云々で良いと思う。

 問題は、この「大和王朝」の呼称の不思議性である。何故に漢字で「大和」と書くのか。何故にこれを「ヤマト」と訓読みするのか。この問題に対する正面からの然るべき考察を知らない。これに、れんだいこが挑む。れんだいこ史観によれば、「大和」は正に的確に付与された当て字訳と読む。即ち、出雲王朝を国譲りさせ、邪馬台国を滅亡させる渦中は、記紀神話に記されている如くの苦心惨憺たる茨の道の建国となった。それまでの為政者であった出雲王朝派、邪馬台国派の能力が高く、その権威が強靭で、抵抗が止まなかった。両者疲弊の色が濃くなり妥協するしかなくなった。双方徹底抗戦派はあったものの、それぞれの主流派が最終的に大同団結和睦の道を択び新王朝を創出した。この過程を総括して最も的確であろう言葉として「大和」を案出し、新王朝名に充てたのではなかろうか。

 それだけではない。「大和」の読みは、漢音であろうが訓読みであろうが「ヤマト」とは読めない。それを「ヤマト」と訓読みすることを諒とした。これにも叡智が働いている。即ち、大同団結和睦の時の約定で、新王朝が前政権の邪馬台国の国名を継承し、漢字で「大和」と書いて「ヤマト」と読むことを諒とした。即ち、新政権は、前任統治者の国名を排除して新しい国名を案出して新国家声明するのが世界史的通例のところ、前任統治者の国名を継承し、そのことで政権の連綿性、正統性を付与する道を選択した。

 それは、前任国家の出雲王朝、続く邪馬台国の治世能力、文化伝統能力が高かった為と考えられる。国名としての「大和」、その読みとしての「ヤマト」にはこういう裏歴史事情がある。天照大御神の継承も同様と思われる。天照大御神は外来外航族の祖神ではなく元々「縄文日本」の祖神にして最高神であり、国名同様に権威を継承し利用したものと思われる。

 これらの一部始終が「大払い祝詞」(おおはらいのりと)に詠われており代々受け継がれて今日に至っている。これこそが日本国体憲法である。続く憲法が明治維新の際に発布された「五箇条のご誓文」である。「大払いの祝詞」、「五箇条のご誓文」軽視すべからずの理の所以がここにあり、日本国憲法論を論議する際には必須のもの足りえている。これに照らして見れば、近時の憲法改正論の中身が何と空疎なことか。

 別章【大祓いのりと考】
kodaishi/kodaishico/nihonshindoco/
 noritoco/noritoco.htm


 もとへ。大和王朝建国時に日本史の特異性、不思議がある。要するに、外来外航種族が「縄文日本」征服の為に来襲したものの、ワンサイド支配にはならず、旧王朝との大同団結和睦によって辛うじて王権を簒奪することができたと云う珍事が記録されている。和睦であるから当然、旧王朝派の取り込みが特徴となる。これにより旧王朝御代の言語、政治宗教としての神道、礼儀作法、生活習慣、風俗等々がそのまま横滑りで受容されることになった。これが皇統譜の連綿性に関わっており、前王朝と新王朝が継続した道を遺したと云う意味で、これに従う限り万世一系は真実と云うことになる。とはいえ、新王朝は、以降、外来派と旧王朝派の協調と確執を繰り返しながら悲喜劇の歴史を綿々とさせて行くことになる。この辺りは記紀その他史書の記す通りのところである。

 件(くだん)の機動隊員は、日本史のこの香気を嗅いで匂うべきである。どうせ上官からご都合主義的なアンチョコ歴史を教えられ、その気にさせられているだけのことだろうから、今からでも遅くない本当の日本史を学び直せ。どこでどう学べばよいのか分からないだろうから言っておくが、れんだいこサイトを何から何まで丹念に読めば良いオホンエヘン。ここまでをその2とする。

 れんだいこのカンテラ時評№1291  投稿者:れんだいこ  投稿日:2016年10月23日
 日本土着民考その3

 我が日本史の特性をこう了解する時、大阪府警機動隊員の「土人発言」が如何に残薄なものであるのか透けて見えてこよう。「土人発言」は、国際ユダ邪派の「先進文明国史観」に導かれるとき侮蔑的に用いられるが、日本史の特性に照らすとき、「土人」は「土着民」と言い換えられ、さらに「縄文原日本人」ともなり、その優秀さ故に真逆な光芒を放つことになる。それが証拠に、現代日本に至る言語としての日本語、統治の仕組み、文化伝統、生活様式等々は、この「縄文日本」時代に創造生成されている。大和王朝以降、今日までの日本史は、外航派と「縄文日本」派が一方で相和し協力提携、他方で反発拮抗しながら高度な文明を築いてきたところに特徴がある。このことに思いを馳せねばなるまい。

 こういう深層の真相の歴史を学ぶことが学びであり、かく学べば学ぶほど賢くなる。逆に「土人発言」に見られるような受け売りは脳死学問である。故に学べば学ぶほど脳が痴呆化する。最近はそういうインテリが多い。著作権網がこれに援交しており痴呆症肥大に一役買っている。今や日本支配体制を構成する政財官学報司警軍の八者機関の上層部はこういう連中の巣窟と化している。長年の秘密結社儀式活動の悪影響で精神と知能が破壊されている。件の機動隊員は、そういう連中によって仕掛けられている学問を鵜呑みにせず、「土人、シナ人」発言につき「侮蔑的な意味があるとは知らなかった」などと下手な言い訳せずに、早くれんだいこ史観から学びユダ邪学の汚染から脱け出してくれんことを願う。

 なお、いわゆる公人論に言及しておく。公務員は公けの為に資する義務と責任を負っているとすべきであるが、その公務員が、日本国民に対して、「土人、シナ人」呼び捨てにするのは聞き捨てならない。そうすると何か、お前は、国際ユダ邪に資する為に雇われていることを承知し、日本国民に対し「土人、シナ人」と呼び捨てにすることを当然と居直るつもりであるか。今や自衛隊と警察はそのように隊員教育し、隊員はそれを鵜呑みにしてしまっているのだろうか。東京の石原慎太郎、大阪の松井一郎ならともかくも、そこまで国際ユダ邪に丸め込まれて義理立てすることはあるまいに。

 それはともかく東京維新の石原、大阪維新の松井がこれほど国際ユダ邪盲従であることを思えば、明治維新なるものの国際ユダ邪盲従性をも吟味すべきではなかろうか。即ち、国際ユダ邪が対日政治に容喙するとき、「維新」なる用語を専らにする癖があるのではなかろうか。こういう用語が使われ始めたとき、我々は背後に国際ユダ邪の暗躍を認めるべきではなかろうか。この呪縛から抜け出す叡智を創造せねばなるまい。

 ところで、この際、沖縄戦争の際の沖縄人の自決死につき言及しておく。大東亜戦争末期の沖縄戦争の際、多くの沖縄人の自決が刻印されているが、これを上官の命令による強制死として告発する正義運動がある。仮にそうであるのなら、その上官告発、その上官をして自決命令せしめた当時の軍部の責任告発をすべきであろう。但し、それだけでは片付かない問題があるように思われる。あれは縄文魂的自決であり、飛び込みの面があったような気がしないでもない。もとより手前は生き延び部下には自決を命令した上官が居ないとは思わないので検証して行くべきだろう。但し逆の例もあるとしたい。特攻隊の自決も同様のもので縄文魂の為せる敢闘だったのではなかろうか。この辺り、歴史を複眼的総合的に解析、理解せねばならぬのではなかろうか。

 沖縄戦争を語るとき、専ら強制自決か自主自決かを論議することにのみ没頭するのは片手落ちである。本来は、沖縄戦争が如何に有能に「縄文日本」的に戦い、その結果として焼殺、焦土にされてしまったのか。この時の戦いぶりが本土決戦に向かう流れにおいて、連合国側に「ノーモアウォー」気分を醸成させた。そういう沖縄戦争の悲劇と敢闘ぶりを検証することの方が主となるべきであり、その一コマとして自決問題を語るのが筋ではなかろうか。

 戦後日本が靖国神社に参拝するのも良い。戦死者の御霊がそこに祀られている以上は参拝するのが公務であり為政者は参拝すべきと考える。但し祀られる御霊の公平性を促したい。もう一つ、国際ユダ邪の指図に従い再度戦争に向かうのは言語道断と考える。不戦の誓いとして参拝すべきと考える。なお、沖縄戦争被害者の御霊にも手を合わすべきであろう。広島、長崎の被爆者の御霊にも、全国各都市の空爆被害者の御霊にも。そういうことを要求しない戦後民主主義論のあぁ如何に残薄なことか。政府高官の靖国神社参拝の政治的利用が如何に許し難きことか。そういう井戸中歴史観から出藍し本来の歴史論を創出してみたい。

 「地球最古の人類は、原初日本人」その他参照。転載元「日本と地球の命運
 地球最初の先住民は、約4億年前に創造主らによって創世された原初日本人である。地球最古の人類は日本人だった。日本人は約5億年前に地球に発生した。マヤ人は、日本人より後れて約4億年前に地球上に現れた。マヤ人はイグアナの遺伝子を受け継ぐレプティリアン・ヒューマノイドである。 無数に繰り返された地球の天変地異で日本人の繁殖は乱されたが生き残って、今日に至っている。
  
 南アフリカ西トランスヴァール州で約28億-26億年前の葉蝋石鉱脈から人工構造物が発見されて、クラークスドルフ市博物館に展示されている。それは約4cmのやや扁平な金属の球体で、赤道部分に等間隔な3本の溝がある弱磁性体である。それは、ガラスケースの中に置かれていて、年間1-2回反時計方向に自転している。表面に1箇所葉蝋石のかけらが付着していて分かる(南山宏「オーパーツの謎」二見書房)。これは、日本人より古い最古の地球原住民ユージンが造ったものである。地球最古の人間文明は、約36億年前のユージン文明だった。ユージンは地球の天変地異で絶滅したので、生き延びた子孫はいない。 だから、地球最古の、今日まで生き延びた人類は、日本人である。
  
 モンゴール人は日本人の子孫である。地球最初の先住民日本人が北周りで今のアラスカから今の北米大陸へ、さらに今の中南米へ移動して文化と遺伝子を伝えた。北米インディアンの文化や、米国で今も残っている日本語の多くの地名がそれを実証している。参考書:吉田信啓「岩刻文字(ペトログラフ)の黙示録―超古代、日本語が地球共通語だった!」(徳間書店)。同「神字日文解(かんなひふみのかい)―ペトログラフが書き換える日本古代史 (改訂新版・中央アート出版社(99.03)。 
 
 南米のタワインティスーユ文明も超古代日本文明の枝葉である。コジャスーユ(ボリビア)の原住民も、ワンカール(ラミロ・レイナガ=霊長)も超古代日本人の子孫である。太田龍「時事寸評」掲載のワンカールの顔写真がそれを実証している。

 日本の原住民(1)」、「日本の原住民(2)」、「日本の原住民(3)」。
 日本の原住民(1)

 縄文人と弥生人
 今からおよそ1万年前から紀元前3世紀にわたる7、8千年間を縄文時代という。縄文時代は、当時の土器の上に「縄」の紋様があるために、そのようにいうのである。縄文人は猟をして、採集、魚を捕る生活をしていた。この縄文文化は米国の動物学者のモースが1877年に発見したものである。彼は東京の大森の駅の近くで貝塚(大森貝塚)を発見して、同時に人骨を掘り出した。この貝塚、北は北海道から、南は沖縄に至るまで、日本の全国各地に約2千5百散在している。縄文人の大人の平均身長は、男性158センチメートル、女性148センチメートルである。頭蓋骨は近代日本人より更に大きい。その平均寿命は、男性31.1歳、女性31.3歳。縄文人には抜歯習慣があった。大人が死亡した時には、大部分が屈葬である。幼児は甕棺葬である。紀元前2、3世紀、稲作文化が中国江南から朝鮮半島を通って日本に伝わって、青銅器と鉄器も同時に伝来した。これが弥生時代の始まりである。全体の生活形態が変わった。弥生時代はおよそ5、6百年間である。東京都文京区の弥生町で土器が発見されたため弥生と命名されたのである。弥生人の身長は縄文人より高くて、顔と鼻は比較的狭い。人類学者の金関丈夫博士は、弥生時代の初期、朝鮮半島から集団で日本へ移動して、縄文人と混血して、北九州の弥生人を形成したと推定している。

 隼人族

 隼人は狩猟民族で、日本九州の南端、今日の宮崎県(日向)と大隅半島(鹿児島県)の一帯を発祥の地としている。「隼(ハヤブサ)」は鷹に類似する猛禽であるが、隼人が勇猛果敢なためにその名を冠したのである。「新唐書」の「倭国伝」に、「邪古、波邪、多尼」などの地名に言及している。邪古は今日の屋久島に相当し、多尼は種子島、波邪(HAYA)は隼人である。この隼人の発祥の地、ほとんどすべて火山灰と凝灰岩の土質で、水田耕作に適しない。養分が足りないため、畑とすることができず、そのため狩猟に頼って生活を維持することしかできなかった。彼らは海に潜って魚をとり、山に登って野獣を追った。これらの勇猛な隼人は、肥沃な土地を持つ北部の地方をいつも見守っていた。その時、大和王朝は九州に進出し、比較的に以前に帰順した熊襲を利用して隼人に対抗した。隼人はいつも熊襲を仮想の敵にした。熊襲族(KUMASO)は肥後(今熊本県)の球磨(KUMA)郡と大隅の贈唹(SOU)郡にいるためにその名を得たという。この2つの地方は薩摩(鹿児島県)と大隅の地方に居住する隼人が出入りする北方の要衝である。

 熊襲族

 「日本書紀」に、以下のような伝説が記載されている。この伝説はおよそ6世紀に成立した。景行の天皇の27年12月、熊襲族の裏切りのために、景行天皇は皇子の日本武尊を派遣し討伐のために出兵した。日本武尊が北九州に到着した時、熊襲族の川上のタケルがその一族を集めて盛大な宴会を開くことを知ることができた。そこで、日本武尊はその髷を解いて、少女のように着飾って、宴会にまぎれこんだ。川上のタケルは彼を見て、たいへん喜び、日本武尊の手を引いて、痛快に酒を飲みはじめた。タケルがぐでんぐでんに酔った時になって、日本武尊は服の下から短刀を取り出して、タケルの胸を刺した。川上のタケルは気息奄々として、問うて言うには:「あなたは一体誰か?」武尊は答える:「私は日本のオグナである。」タケルは言う:「ことにこの世界にこんなに猛々しい人がいようとは驚いた!これからはヤマトタケルノミコと改名してください。」話し終わって、死んでしまった。
 大和の王朝の観点から見れば、熊襲は大和の王朝を裏切ろうと考えていたことになる。しかし熊襲の立場に立てば、彼らはただ自分の独立を堅持し、大和の王朝が九州を征服することを阻止したいだけであった。これはまさに白人がアメリカ・インディアンの土地を横領し、アメリカ・インディアンの抵抗が起きたのとおなじである。これは武装反乱ではない、侵略者への抵抗である。

 山幸と海幸――隼人の起源

 隼人の起源について、日本神話はこのように述べている。
ある日、山の幸の弟は海の幸の兄に言う:「兄さん、私は毎日山上へ野獣を捕りに行きます。もう飽き飽きしました。兄さんは毎日魚釣りに行って、きっと飽き飽きしたでしょう。道具を一度交換して、珍しいことを味わってみましょう。」海の幸の兄は必要ないと思って、弟の要求を拒絶した。しかし弟の繰り返す願いのため、「一回だけ、借りることにしよう!しかし絶対になくしてはいけないよ。」と言うほかなかった。そこで兄の海幸は釣り針を弟の山幸のに貸し、自分は弟の矢を持って山に登っていった。山幸は釣り針を持って海に出ていった。彼は水泳の術に暗くはないが、船が荒れ狂う海の中で、やっとのことで釣り針を下ろした。しかし、釣り針は魚にひきちぎられた。山幸は青くなって、家に帰って、事実の一部始終を兄につげ、そして兄に謝罪した。しかし兄の海幸のは彼を許さなかった。山幸は自分のりっぱな剣を壊して、一千本の釣り針をつくって兄にもらってもらいにいく。ところが兄は:「私のもとのあの釣り針を返しなさい、さもなくば私は決しておまえを許さない」。弟は、海岸に座って、海をじっと見つめていた。この時に鹽椎神がそこを通って、彼に海神の宮に着く方法を教えた。海神の宮に着いた後、意外にも、山幸と海神の娘が一目ぼれをし、夫婦になった。そして釣り針を飲み込んでしまった魚を探し当てて、兄の釣り針を持って帰った。

 山幸が郷里に帰る時に、海神は彼に兄の攻撃を防ぐ塩盈珠と塩乾珠を送った。山幸が郷里に帰った後に、釣り針を兄の海幸に返した。しかし、海幸は一日一日貧しくなった。そこで山幸を攻撃し始めた。山幸が塩盈珠を出すと、瞬く間に、水が四方八方から湧いてきて、海幸は溺死しそうになった。海幸は大声で哀願して言うには:「弟よ、助けておくれ。あなたが言うことを私はすべて承諾する。」。山幸は海幸の要求を受け入れて、塩乾珠を取り出し、兄を救った。後で、海幸は昼夜いつも弟の居住する近くで守って、たまに兄は溺死しそうな時の状況を演じなければならなかった。そうすることによって命の恩人の弟を忘れないことを示したのである。これは一つの服従儀式である。海幸は隼人の起源である。彼らは宮廷の防衛を担当して、宮廷が宴会を行う時、隼人舞を踊り興を添えた。隼人舞の中で、彼らはおぼれ死ぬ時の状況を演じて、今なお依然としてその時の恩を忘れないことを表した。その上、隼人は自ら「いぬびと」を自任して、昼夜宮廷を防衛した。朝廷が重大な儀式を行う時、彼らは犬の吠き声をまねた。海幸の兄と山幸の弟の神話は、ポリネシア海人族の伝説ととても類似している。そして隼人族の大和民族への帰順のこの歴史は、海幸の兄の帰順神話に進展変化した。

 鎮圧された隼人の抵抗

 隼人は、日向の隼人、大隅の隼人、阿多の隼人などに分かれていた。ヤマト民族にとって、彼らは征服しにくい辺境の民族であった。この隼人族は、最後についに屈服した。帰順を表すため、彼らはしかたなく成年男子を大和(奈良県)に派遣して、宮廷の防衛を担当した。彼らはしかたなく犬の鳴き声を学んで、たまに帰順儀式で演じた、屈辱を我慢して、ひたすら征服者の歓心を買った。大和朝廷は隼人をなだめるために、彼らに仏教の教化を受け入れるように強制した。しかし隼人はついに和銅7年(714)に武装反乱を起こした。そこで大和朝廷は分割政策をとって、隼人の土地を11郡に分割して統治しようとした。さらに、すべての郡に郡司を設け、監視した。これらの分割された隼人族は、だんだん抵抗力を失った。その上重い租税を課され、しだいに同化されて、抵抗の活力を失った。

(H19.8.17)
 日本の原住民(2)

 東北の蝦夷--肥沃な日の出の国

 蝦夷族の居住する地方を「日高見の国」と称した。いわゆる日高見の国とは、「東方の蛮族が居住する日の出の国」という意味である。それでは日高見の国はどこにあったのであろうか。それは東方の地区においてまだ大和の王朝の臣下として従っていないものを指して、特定も範囲をさしてはいないとされている。大和朝廷の勢力東漸に従い、その範囲もだんだん東方、続いて東北方へ移動した。日本武尊の伝説が成立した時代(6世紀)には、「日本書紀」の記録によると、日本武尊は海路を通って陸奥国(現在の東北地方)に進入し、日高見の国を攻撃した。討伐した後に、「蝦夷は既に平定された、日高見国より、南西の常陸(茨城県の東北方面)を経て帰ろう」といっている。これより、蝦夷族の勢力圏が茨城県の東北地区から東北地方全部に至っていたことが分かる。

 「日本書紀」の中で蝦夷の記録はこんな調子である:「朕は耳にした:その東の異民族は、性強暴で、凌犯を宗としている。村に長がいなくて、県の首領もいない。各境界をむさぼって、そして互いに領土を奪い合う。山に邪神もいて、町はずれには悪賢い幽霊。……その東の異民族の中で、蝦夷は最も強力である。男女、父子の別もない。冬は穴に宿し、夏は木に居住する。毛皮を着て血を飲み、兄弟が互いに疑いあう。……ゆえに古来から、王化に染まっていない。……巧みな言葉で粗暴な神を鎮め、武を振るってずるい幽霊を退けよ。」「東の異民族の中、日高見の国がある。その国の男女は槌に髪を結んで入れ墨をして、人となりは勇ましい。すべて蝦夷と言うのである。また土地は肥沃で広く、撃って取る価値がある。」

 「日本書紀」の記載する東北地方の蝦夷の奇異な風俗が本当かどうか、疑問がある。上述の記録は、「漢書」、「礼記」の言葉とほとんど同じである。換言すれば、「日本書紀」は、決して、実際に蝦夷の生活を観察、あるいは信頼できる情報を運用して来たのではなくて、ただ中国の古典籍の中の乱暴で俗っぽい記録に関係する記載を引用しただけのようである。

 蝦夷族はアイヌ(AINU)族か?

 まず蝦夷=アイヌの代表的学説を列挙する:1)中世、近世の蝦夷はすなわちアイヌ、ゆえに古代の蝦夷もアイヌである(江戸時代の学者 新井白石、本居宣長)。2)「日本書紀」とその他の古代の文献の史料の中の蝦夷関連の習俗の記載は、すべてアイヌと類似する。3)東北地方は多くのアイヌ語の地名(言語学者の金田一京助、等)がなお存在している。4)石器時代人はアイヌ(小金井良精、鳥居竜蔵)である、或いはアイヌの伝説の中のコビト(坪井正五郎)である。

 それと正反対に、非アイヌ学説がある:1)石器時代人も現日本人を形成する部分であって、蝦夷の時代と石器時代の末期は重複している、ゆえに蝦夷族は非アイヌ族である。2)考古学者がすでに証明しているように、東北の北部(日高見の国)は、相当早くから古墳文化と稲作の技術があった、ゆえに蝦夷族は日本人である。3)「古事記」あるいは「日本書紀」などの蝦夷族関連は乱暴な人民の記録で、すべて虚構である。そのためこれをアイヌと見るべきではない。
 1950年3月に、中尊寺の金色堂の蝦夷人、平泉の藤原氏の遺体を調査した結果、特にアイヌの特徴を発見しなかった。ゆえに蝦夷非アイヌ説はますます有利になった。しかし、この論争は今なおまだ結論がない。比較的受け入れられる言い方は:東北の古代の蝦夷族、これは日本列島の東部あるいは東北部の縄文人の子孫に位置するのである。

 農耕、狩猟、産鉄を行っていた蝦夷

 上述した通り、蝦夷族は歴史、地理、あるいは人種の方面に関わらず、その実在の境界を区切ることははなはだ難しい。彼らの習俗、文化の類型も同じく固定的ではない。私達が蝦夷族の生活を探求する時、必ず気づかなければならないことは、彼らは北方の文化の要素を有し、また西方(大和)の文化の要素を含むということである。元慶の乱(878)の時に、小野の春風と言う人がいて、異民族の言葉に精通するために異民族の軍の捕虜との疎通ができた。それからわかることは、少なくとも蝦夷族の中で、一部の人は日本語がわからなかったことである。しかし蝦夷族すべてが日本語をわからなかったかどうかは知るよしもない。
 昭和33年(1958)、青森県の南津郡の垂柳遺跡で、200粒の炭化米、および、弥生式土器に残ったもみの痕跡が発見された。この発見から次のことが分かった。すなわち、今から2000年以前、日本の東北部の北で、すでに稲作が始まっていた。しかし4、5世紀には、気候が寒くなったため、岩手県の北上川の流域以北はすべて稲作に従事することができなくて、7、8世紀にやっと稲作を再開することができた。

 蝦夷族は長い間、ずっと狩猟民族と見なされていたが、実は彼らも農耕に従事した。今なお依然として、比較的高い人口密度で定住した蝦夷族を発見してはいないが、彼らは、ある程度の定住があり、人口密度は高くなく、狩猟、採集、漁労、稲作を以て生活の手段にしていたであろうと推測することができる。
 658年、阿倍比羅夫が180隻の船を率いて東北に遠征した時、恩荷と言う人が投降してきた。彼は言う:「私達は弓矢を持つが、しかし私達は決して戦闘に用いるのではなくて、けものを捕まえるのに用いている。今、私達は更にあなた達と敵対することはしない、しかし、あなた達が万一平和条約を破るなら、秋田の浦の神はきっとあなた達を勘弁することはできないであろう。」これより分かるのは、蝦夷族は東北各地すべてで、部族社会を形成して、彼らは独自の信仰を持って、神を尊びあがめていた。
 大和朝廷の勢力がだんだん北上する時に、岩手県の各郡内で日本式神社を創立し、しかも北方の浄法寺町では天台寺を建築した。この天台寺は728年に建てられた。換言すれば、8世紀以前は、蝦夷族は仏教を信奉していなかった。

 しかし、その時大和朝廷の教化は浄法寺町一帯に浸透してはいなかった、おそらく天台寺の実際の創建年代は、900年~1000年前後である。普通は、天台寺の創建者は、大概は「最後の蝦夷」を称した地方豪族の安倍氏である。日本の律令国家は、統治する地区で租庸調法を実行した。蝦夷は租庸調の税金をなにも負担せず、かえって大和朝廷から俸禄を取った。しかし、蝦夷は稲作に従事し始め、同じころ大和朝廷も蝦夷には豊富な金と鉄が隠れていることを知った。その時、蝦夷を討伐することを始める。しかしながら、大和朝廷は蝦夷を征服するのに、必ずしも武力を重点にするのではなく、取引と懐柔政策を組み合わせた。東北地方は昔から、鉄を産するので有名であった。日本の武士の刀は、一説には岩手県一関市の「舞草刀」に源を発する。それからも、朝廷軍と蝦夷軍が戦う、その激烈なありさまが分かる。
(H19.8.18)




(私論.私見)