大正時代史3、大正ルネサンスの光と影 |
(最新見直し2006.5.7日)
これより以前は、「大正時代史2、第一次世界大戦前後の流れ」
1919(大正8)年、ベルサイユ講和条約以降の動き |
8.1日、大川周明、満川亀太郎ら、国家社会主義組織「猶存社」を結成。8月、北一輝、「国家改造案原理大綱」を完成(後「日本改造法案大綱」と改題)。
8.12日、斉藤実を朝鮮総督に、水野錬太郎を朝鮮総督府政務総監に任命。
8.23日、東京砲兵工廠、賃上げ・8時間労働求めスト。8.30日、東京砲兵工廠のスト解決。9.18日、神戸川崎造船所職工、賃上げ・待遇改善ストを実施。9.29日、神戸川崎造船所スト、8時間労働で妥結。0.6日、大阪東洋紡績四貫島工場の職工3300人が5割賃上げ・労働時間短縮を求めて争議を起こす。11.27日、足尾銅山坑夫1万人が解雇反対・賃上げ要求・労働時間短縮を求めてストライキ。12.4日、足尾銅山スト、労働者の要求が受け入れられ解決。9.3日、東京市電従業員ら、日本交通労働組合を結成。
8.30日、友愛会、創立7周年大会で、大日本労働総同盟友愛会と改称。10.5日、友愛会、東京本所で婦人労働者大会を開催。
12.渋沢栄一ら、協調会設立
9.10日、オーストリア政府、サン=ジェルマン講和条約に調印し、ハプスブルク帝国解体。
10.18日、早稲田大学民人同盟から、浅沼稲次郎、平野力三らが分かれ出て、建設者同盟会を興す。
11.24日、第1回関西婦人団体連合大会開催。平塚らいてう、新婦人協会創立を宣言。
11.25日、大正日日新聞創刊。
12.25日、普通選挙期成関西労働連盟結成。
12.23日、渋沢栄一ら、労資協調を目指して、協調会を設立。
12.24日、第42回通常帝国議会招集(〜2月26日)。
12.25日、憲政会大会が内閣弾劾と普通選挙の実施を決議。
憲政会の尾崎行雄(1858−1954)が軍縮演説と遊説。
1920(大正9)年の動き |
1月、国際連盟に正式加入(常任理事国となる)
3月、.株価暴落(戦後恐慌始まる)
3月、平塚雷鳥、市川房枝ら、新婦人協会を結成。
5.2日、上野公園で日本最初のメーデー。
戦後恐慌・関東大震災・軍縮 (大正9年〜昭和元年 1920〜26年)
大戦終了後も1年間は続いた好況もそれ以上は続かず大正9年春、過剰投資の反動から株式市場、商品市場が大暴落。戦後恐慌となる。一年後に一応沈静化した後も、石井定七事件(石井商店が大借金の上で破産)、銀行の取り付け事件なども起こり、政府・日銀の行った銀行救済策については「問題を本質的に解決せず、かえって病状を悪化させた」などの批判もでる。
1920年初め、レーニンが次のように読み取っている。「日米両国は形式的には互いに同盟関係にある列強であるにも関わらず、両国の間に、ますます競争や敵対心がはっきりと見受けられる」。この「日米間の不和反目」という歴史の低流を分析したレーニンは、「この反目を利用して自国ロシアを強化する」という方針を樹立した。
【「西にレーニン東に原敬」】 |
第十四回衆議院議員総選挙で与党政友会の圧倒的勝利をおさめた原敬内閣は、衆議院における絶対多数と、貴族院内に提携勢力を確保する工作に成功した勢いをもって、大正9年(1920)7月、開会の第43回特別議会に臨んだ。原内閣は、かねてから政友会が唱えていたいわゆる四大政綱である教育の改善整備・産業及び通商貿易の振興・交通通信機関の整備拡充・国防の充実をこの議会で積極的に押し進めた。 |
10月、第一回国勢調査施行(人口7700万人)。
12月、大杉栄、境利彦ら、日本社会主義同盟を組織(翌年解散)。
原政権は、文官任用令を改正し、拓殖局局長や各省次官、内務省警保局長、警視総監などの資格制限を撤廃し、政党人に採用門戸を開いた。山県が制限したものを元に戻したことになる。同時に、原首相は、高文官僚を政友会に取り込んだ。
この年、「シオンの議定書」の最初の日本語版が公刊された。
1921(大正10)年の動き |
1.24日、加藤高明憲政会総裁、貴族院でシベリア撤兵を主張。
1.31日、衆議院予算委員会で、憲政会が満鉄疑獄と関東州阿片取引問題について政友会を攻撃。
2.3日、衆議院の憲政会と国民党、それぞれ普通選挙法案を提出するが、政友会の反対で否決。
2.10日、宮内省、皇太子妃に内定している久邇宮良子女王について、変更はないと異例の発表。宮中某重大事件を収拾するため。長州閥の中村雄二郎宮内大臣は辞職。2.19日、宮内大臣に薩摩閥の牧野伸顕が就任。3.21日、山県有朋、宮中某重大事件の責任をとり、元老・枢密院議長などの職を辞すると申し出る。5.18日、天皇、山県有朋の元老などの辞表を却下する。
2.12日、京都府警察部、綾部の大本教本部に200人の警官を派遣し、教主出口王仁三郎と幹部の浅野和三郎、吉田祐定を検挙(第1次大本教事件)。10.20日、警察、大本教の本宮山御殿を取り壊す。
2.16日、朝鮮参政権運動代表者閔元植が東京駅ホテルで暗殺される。
2.17日、衆議院、阿片取引非難決議案を否決。
2月、プロレタリア文学雑誌「種蒔く人」創刊。
3.3日、皇太子裕仁親王、渡欧に出発。
3.14日、足尾銅山争議が起こる。4.18日、足尾銅山争議解決。
5月、大阪藤永田造船所争議が解決。6.25日、三菱内燃機工場の職工が労働条件の改善と横断組合承認を求めて争議を開始。
4.24日、山川菊栄ら社会主義婦人団体「赤瀾会」を設立。
4.28日、大阪電燈会社争議が起こる。5月、大阪藤永田造船所争議が解決。6.25日、三菱内燃機工場の職工が労働条件の改善と横断組合承認を求めて争議を開始。
4月、第一次世界大戦の敗戦国ドイツの賠償金額が1320億マルクに確定された。ドイツは、第一回支払いをしたのみで、支払い義務履行難に陥り、支払い猶予承認を余儀なくされた。かくして、ドイツの支払い能力如何が問題となったが、数次の国際会議でも関係各国の対ドイツ政策に食い違いが見られ、意見の一致点を見出すことが出来なかった。
5.16日、原首相主催で、植民地総督・軍人・外交官らが出席し、東方会議が開かれる。
5.28日、日本社会主義同盟に解散命令。
7.1日、中国共産党創立大会が上海で開かれる。中国各地の共産主義者が上海に集まり、内外に党設立を宣言。主なメンバーは、李漢俊、張国*、陳独秀、毛沢東。是より先1919.10月孫文率いる中華革命党が「中国国民党」を結成しており、中国国内には「中国国民党」と共産党の二つの有力な革命勢力が誕生したことになる。
7.8日、神戸の川崎造船所と三菱造船所の労働争議団が合併。7.10日、神戸川崎造船所と三菱造船所の労働争議を実施している労働者35000人が神戸で大デモ行進を実施。7.12日、神戸川崎造船所争議団が工場管理を宣言。警察がデモを禁止する。7.14日、兵庫県知事が争議に対し軍隊出動を要請。7.29日、神戸造船所争議団と警察が衝突し、死者が出る。同日、争議団の指導者賀川豊彦が検挙される。8.12日、神戸造船所争議団が「惨敗宣言」をし労働争議を終える。100人以上が起訴され、1300人が会社側から解雇される。
7月、宮内省、「天皇の病状が悪化し、御発言に障害起こり」と発表。
8.20日、暁民会の近藤栄蔵・高津正道らが暁民共産党を結成。
8.20日、山崎今朝弥ら、自由法曹団を結成。
9.16日、鈴木文治ら日本労働学校を開設。
9.28日、安田財閥総帥安田善次郎が、大磯の別邸で右翼少年朝日平吾に刺殺される。朝日平吾はその場で割腹自殺。
10.1日、日本労働総同盟友愛会創立10周年記念大会開催。名称を日本労働総同盟と改称する。
11.4日、東京駅で京都に向かおうとしていた原敬首相が大塚駅の転轍手中岡艮一に刺殺される。11.5日、原内閣総辞職。
【ワシントン会議】 |
1921(大正10).11.12日、ワシントン会議が開かれ、米、英、日、仏、伊、蘭、ベルギー、ポルトガルの9カ国が国際情勢、海軍軍縮問題などを話し合う。1・全世界で就役中又は建造中の主力艦65隻180万トンを廃棄する。2・英、米、日、仏、伊の主力艦保有率を5、5、3、1.67、1.67として上限を定める。英・米を50万トンとする。などに合意した(四カ国条約調印)。これは、当時にあつて空前絶後の国際的合意による軍縮の動きであった。会議の成功には、議長国アメリカの「建造中の巨艦15隻61万トンを率先廃棄する」との自ら範を垂れた軍縮提案が効果を与えていた。日英同盟廃棄を決定。 日本側の全権委員は、加藤友三郎海相・海軍大将(1861〜1923)が主席全権、貴族院議長・徳川家達、駐米大使・幣原喜重郎が瀬全権委員として参加した。加藤は、「国防は軍人の専有物ではない。国力の充実がなければ、いかに巨大な軍備を持っても無意味である」と考える自重派であり、艦隊増強派と対立していた。この二派の対立相克が、その後の海軍内に尾を引いていくことになり、やがて政治問題化し、昭和の歴史を彩ることになる。 ヤコブ・モルガン氏の「山本五十六は生きていた」は次のように記している。「この諸条約とともに日本は明治35年以来続いた日英同盟や石井・ランシング協定(明治41年、中国に於ける日本の特殊権益を米国が認めたもの)の破棄、山東省の旧ドイツや満蒙についてのいくつかの特権など21か条約の一部破棄、シベリア撤兵などを約束させられたのであった。このワシントン条約こそアメリカ、イギリスのユダヤ、アングロ・サクソン同盟が日本に突きつけた挑戦状であり、のちの日米開戦の伏線となるのである」。 財政に見合った規模への国防予算の削減・軍縮の気運が高まり、ワシントン軍縮会議により海軍軍縮(大正10年 1921年 11月)・山梨軍縮による陸軍師団の兵員の削減(第一次 大正11年 1922年 8月)、(第二次 大正12年 1923年 4月)・宇垣軍縮による陸軍4個師団削減 (大正14年 1925年 5月)が行われた。 特に陸軍は軍縮により兵員の3分の1を削減。軍縮派の中心、宇垣陸相は軍内部の反対派を予備役に編入して軍縮を強引に押し進めた。宇垣の考えは兵員削減により浮いた軍事費を装備の近代化に充てるというもの。ちなみに予備役とは、軍を退役して民間に戻るが、戦争等の国家緊急時に軍人の増員が必要になるため、この時たたちに現役に戻れるよう、軍籍だけは持っている立場。つまり事実上の引退。この軍縮により多数の陸軍将校が失業。軍人の社会的地位は低くなり、青年将校の結婚難が問題になったほど。軍内部の志気はかなり低下。ポストが少なくなり出世が難しくなった軍将校の間には「出世第一主義」「事なかれ主義」という見えない、そして致命的な構造腐敗が蔓延していく。 |
軍縮合意に先立って原首相が暗殺され、高橋が首相兼蔵相となった。陸海軍の軍備節約を促した結果、12年度の軍事費の一般会計に占める割合が42%から33%に下がった(それまでの最高は10年度の49%)。翌13年度(1924)には30%を割り、以後昭和5年度(1930)までの7年間、30%を越えることはなかった。日清戦争の開戦(1894)から太平洋戦争の終結(1945)に至る半世紀の間、軍事費の比重が30%を割ったのはこの7年間だけであった。軍人が肩身が狭い時代となっていたことになる。その加藤は、12年8月現職のまま病死した。
11.12日、暁民共産党員の検挙が始まる。
11.12日、元老西園寺公望、高橋是清を後継首相に推薦。
11.13日、高橋是清内閣成立。
11.25日、皇太子裕仁が摂政に就任。
12.13日、太平洋方面の現状維持に関する日・米・英・仏4カ国条約成立。日英同盟は失効。
「日本皇軍兵士・武富登巳男氏」は次のように記している。
「このー、二年の防衛費の動きをご覧になったら分かりますが、国民の総生産のーパーセントを突破したらいかんということを盛んに言っておった時代がありました。ところが、実際にーパーセントを突破したら、もうそれが当たり前になって、もう全然新聞などでも攻撃もしない。 大正十年度は国の予算のほぼ半分ぐらい、正確には四十九パーセントまでを軍事費に取られたことがあります。こういうふうになってくると、もうまともな国民の生活などは期待できません。このように軍事費というのは、いったん膨張したら整理がつかなくなる」。 |
1922(大正11)年の動き |
1.21日、コミンテルン主催のモスクワ極東民族大会に片山潜、高瀬清、徳田球一らが出席。
2.6日、ワシントン会議終了。軍縮5条約が決まり、日本は海軍対英米比率6割で調印、主力艦の建造を中止。中国に関する9カ国条約にも調印する。
2.23日、憲政会、国民党、無所属団が共同で普通選挙法を衆議院に提出。討議中に傍聴席から蛇が投げ込まれる事件が起こる。2.23日、普通選挙を要求する数万人の群衆と警官隊が衝突。2.27日、衆議院で普通選挙法否決。
3.3日、部落解放運動の全国水平社創立大会開催。
3.24日、過激社会運動取締法が貴族院で修正可決。衆議院では審議未了。
4.9日、日本農民組合創立大会が神戸の山手キリスト教会館で開催。
4.20日、治安警察法改正。政談集会への婦人の参加が認められる。
5.12日、石川島造船所の職工2500人が不当解雇撤回などを求めてサボタージュ。5.19日、石川島造船所のサボタージュ首謀者16人が解雇され。失敗に終わる。
5.15日、新婦人協会主催で治安警察法改正祝賀集会が開かれる(婦人政談演説会の最初)。
6.1日、賀川豊彦、自著「死線を越えて」の印税で大阪北区安治川教会に大阪労働学校を設立。
6.6日、高橋内閣、内閣改造問題で閣内不一致のため、総辞職。政友会、非改造派の6人を除名処分。
6.9日、元老西園寺公望と松方正義、後継首相に加藤友三郎海軍大臣を推薦。6.12日、加藤友三郎内閣成立。政友会がこれを支持。
6.24日、政府、シベリアから撤退することを表明。10.25日、北樺太に残る部隊を除き、シベリア出兵全部隊が撤退完了。
7.3日、海軍軍備制限計画発表。7.4日、陸軍軍備制限計画発表。
7.15日、堺利彦、近藤栄蔵、山川均ら渋谷で日本共産党を極秘結成。
7.16日、憲政会、憲政擁護民衆大会を芝で開催。政党内閣組織を宣言。
7.18日、有島武郎、北海道狩太に所有する農場の内400町歩を小作人に無償で提供。
8月、山川均、「前衛」に無産階級運動の方向転換を発表。
中国で、「第一次国共合作」。コミンテルンの仲介により、1922年夏頃より協力関係に入った。
9.1日、立憲国民党解散。
9.4日、長春で日本・ソビエト・極東共和国の3者が利権問題を討議(長春会議)。9.25日、長春会議決裂。
9.30日、日本労働組合総連合創立大会が大阪で開催。
11.7日、東京帝国大学の学生会「新人会」など各大学の学生研究会が集まり、学生連合会を結成。
11.8日、犬養毅、尾崎行雄、島田三郎ら革新倶楽部を創設。
11.10日、ノーベル委員会、物理学賞をアインシュタインに与えると決定。11.17日、物理学者アインシュタイン夫妻が神戸に到着。各地で講演。 12.29日、アインシュタイン夫妻離日。
11月、コミンテルン大会で日本共産党を支部として承認。
12.30日、ソビエト社会主義共和国連邦樹立宣言。
1923(大正12)年の動き |
1月、パリ会議決裂。これを契機として、フランスの鉄血宰相ポアンカレーはドイツ領ルール地域の占領を敢行した。
1.20日、普選即行全国記者同盟大会開催。2.11日、東京・千葉・飯田・名古屋・京都・大阪・八幡で「過激社会運動取締法案」「労働組合法案」「小作争議調停法案」(労働3悪法)の制定反対集会とデモが行われる。 2.23日、東京で普選即行大示威行進が行われる。 3.1日、衆議院、憲政会・革新倶楽部などの提出した統一普通選挙法案を否決。
1月、「文芸春秋」創刊。
2.1日、ソビエト極東代表のヨッフェが後藤新平の招きで来日。
3.10日、中国政府、対華21ヶ条条約の破棄を通告。併せて旅順・大連の返還を要求。3.14日、日本、中国側の領土返還要求を拒否。
4.14日、石井・ランシング協定破棄の交換公文に調印。ワシントン軍縮会議の了解事項に基づいて、日本の中国における権益を承認。
5.10日、早稲田大学軍事研究団発会式開催。5.12日、軍事研究団反対学生大会で、左右学生が衝突。5.15日、軍事研究団解散。5.20日、軍研反対派だった早稲田大学文化連盟も解散(早大軍研事件)。
6.5日早朝、早大軍研事件を発端として、早稲田大学を初め共産党関係者の一斉検挙が実施される(第1次共産党事件)。
8.18日付け東洋経済新報社社説で、石橋湛山が、「(第一次世界大戦後の賠償問題の行き詰まりから)世界は絶えず第二次欧州大戦争引いては世界大戦争の悪夢に脅かされねばならぬ」と指摘している。石橋氏は、「激動期の日本経済」で、当時のドイツのインフレについて次のように述べている。「通貨膨張は必然に物価の騰貴を起し、通貨の価値即ちその購買力を減ずるからであります。通貨の購買力が減ずる場合に資金を貸す人は、将来において購買力の少ない価値の低い資金を返して貰うことになります。従って金利を多く貰わなければ、この損害を償うことが出来ません。ですから、インフレーションの場合には金利は必ず騰貴します。もし戦後のドイツの如く、激烈に貨幣の購買力が減る場合には、恐らく金銭貸借は出来ますまいが、出切るとしても、その金利は非常に高いものにならねばなりません。1923年には、ドイツの中央銀行は金利を一時、108%に上げました」。
8.28日、加藤友三郎首相が現職のまま病死。山本権兵衛に組閣大命が下る。この行財政改革は第二次山本権兵衛内閣に引き継がれた。
【関東大震災】 |
9.1日、震度6、マグニチュード7.9の関東大震災が発生し、9府県で焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人の被害が発生した。これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は約100億円(当時の一般会計の6.5年分)と推定される。 |
【第2次山本権兵衛内閣】 |
9.2日、第2次山本権兵衛内閣成立。 山本内閣は発足直前に関東大震災に見舞われその処理に忙殺されることになった。 第二次山本内閣(蔵相は前日銀総裁の井上準之助)は、震災直後の経済混乱を避けるため、被災地・振出地とする手形「震災手形」(1ヶ月のモラトリアム=支払い猶予例)を、政府補償のもとに日銀に再割引させる「日本銀行震災手形割引損失補償令」を出す。つまり被災地関連の手形を政府が肩代わりして経済混乱を避ける政策を取った。その他暴利取締令をはじめ、次々と緊急措置で対応した。震災手形の発行により政府保証の財政出動も図ったが、甘い救済措置となり成功しなかった。 |
【混乱の最中、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量虐殺事件発生】 |
直後、「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」との噂が飛び交い始めた。発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義的労働者の検束を始めた。9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。 警察と軍により捉えられた朝鮮人、中国人、社会主義者の大量虐殺事件が発生した。事件は、無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。正力は、秩序維持の責任者の地位にあったから、事件発生に責任がある。 |
【亀戸事件】 |
9.5日、亀戸事件が発生している。河合義虎ら7名の革命的労働者(北島吉蔵・山岸実司・吉村光治(南喜一の弟)・加藤高寿・近藤広造・鈴木直一)、アナーキスト系の平沢計七ら14名が亀戸警察署で虐殺された。その遣り口が憤激に耐えない次のような史実を残している。古森署長は事後対策を警視庁に上申。この時のこの時の警視庁官房主事が正力松太郎(米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った)で、正力は軍隊への応援依頼、近衛騎兵第13連隊(田村騎兵少尉指揮)がやって来て、留置された中から最も指導能力を有していた危険な人物を選別し、演武場前広場へ引きずり出し、銃剣と軍刀で虐殺した。亀戸事件と云われる。 |
【天皇の緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」公布】 |
9.7日、天皇の緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」が公布された。これが後の治安維持法の前段となる。 |
【大杉栄ら虐殺される】(「戦前日共史(三)関東大震災事件(大杉栄事件)」参照) |
9.16日、関東大震災の混乱に際して、大杉栄は妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一とともに麹町憲兵分隊に連行され。甘粕憲兵大尉に殺害された。享年38歳。妻野技は1895年1月12日生、享年28歳、甥橘宗一は1917年4月12日生、享年6歳。 |
10月27日 法制審議会、婦人参政権を否決。 11月 2日 選挙の納税資格無条件撤廃を決定。 11月10日 国民精神作興に関する詔書を公布。
【虎の門事件】 |
12.27日、後の昭和天皇となる当時の皇太子・摂政宮裕仁親王が、摂政の宮として大正天皇の代理で第48帝国議会の開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上の虎の門を通過中に、ステッキ状の仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助はその場で逮捕された。これを虎ノ門事件と云う。 この事件で第2次山本権兵衛内閣は総辞職。事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあり警備の直接の責任者であった。正力は警視総監・湯浅倉平らとともに、即刻辞表を提出。警務部長らは懲戒免職、山口県知事は休職、父は衆議院議員を辞任して閉門 蟄居、謹慎した。正力は、翌大正13.1.7日、懲戒免官となった。 1.26日、摂政殿下裕仁のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となった。官界復帰の道が開けた。但し、本人は古巣に戻る気をうせていた。 難波大介の履歴は次の通り。 山口県熊毛郡周防村立野(光市)の旧家に生まれる。父作之進は県議を経て大正9年(1920)代議士当選。母はロク。長兄は東京帝国大学、三兄、弟は京都帝国大学出身。 母方の遠縁に河上肇・大塚有章、長兄夫人の遠縁に宮本顕治がいる名望家。 徳山中学に進んだが退学、私立鴻城中学に移り、高等学校受験に失敗。11年、大正第一早稲田高等学院文科に入学したが、翌大正12.2月、退学。深川の労働者街に身を投じた。この間、河上肇『断片』(「改造」)を讀むなど左傾化しつつあった。関東震災直後の帰省の途次、甘粕事件・亀戸事件などを聞いて官憲の非道ぶりにテロリズムの実行を決意する。12.22日、父のステッキ銃を持って上京。京都の友人宅に滞留の後、事前に新居格ら新聞記者にテロ決意の手紙を送ったうえで、12.27日、虎ノ門で帝国議会開院式に赴く車中の皇太子(当時摂政にして後の昭和天皇)を狙撃したが失敗した。この銃は、韓国帰りの林文太郎が作之進に譲ったものだが、伊藤博文が部下の林に与えたものという説がある。 事件当日より予審訊問が行われ、翌年2月、本裁判に付された。裁判長は横田秀雄大審院長、検事は小山松吉検事総長ら。官選弁護人は今村力三郎、岩田宙造、松谷与二郎であった。10.1日、公判開始、11.13日に死刑の判決が下った。 大審院でも天皇制否定の主張を曲げず、裁判所の改悛慫慂政策は、判決直後、難波の「日本無産労働者、日本共産党万歳」の絶叫で挫折した。判決2日後の11.15日、大助は処刑された。26歳。 |
【第二次山本内閣総辞職】 |
即日山本権兵衛内閣は引責総辞職。 |
大正末期の加藤高明(1860−1926)内閣(憲政会内閣)が組閣された。蔵相・浜口雄幸(1870−1931)。14年度予算で、@・行政機構の統廃合、A・軍縮の継続、B・不急事業の繰り延べ、C・特別会計の整理などを断行。一般会計歳出を前年度より1億円(6.2%)削った。ところが、この加藤も現職のまま15年(1926)1月、急死。二人の加藤首相はいずれも財政再建の途上で殉死することになった。
1924(大正13)年の動き |
1.7日、枢密院議長清浦奎吾首相の清浦内閣成立(超然内閣)。 清浦圭吾(1850−1943)。貴族院内閣。蔵相・勝田主計。
1.10日、政友会、憲政会、革新倶楽部が、清浦内閣を非政党の特権階級内閣であると批判。第2次護憲運動が始まる。
1.16日、清浦内閣を支持する議員148人が政友会を離党。
1.26日、中国、第1次国共合作。
1.26日、摂政宮裕仁と久邇宮良子の結婚式が宮中で挙行される。
【政友本党を結成】 |
1.29日、政友会は、清浦奎吾内閣への賛否をめぐって古傷が開き、激しい対立の結果、床次竹二郎、山本達雄、中橋徳五郎、元田肇らが政友会を離党し、148議席を率いて大挙脱党して政友本党を結成した。 |
1.30日、大阪中央公会堂で、憲政擁護関西大会。出席した政友会、憲政党、革新倶楽部の3党首を狙った列車転覆未遂事件が起こる。
2.25日、虎ノ門事件で辞職した正力松太郎元警視庁警務部長が読売新聞を買収。反対する記者が相次いで辞職する。
3月、平沼騏一郎枢密顧問官ら、国本社を設立。
3月、日本共産党、解党を決議。
4.12日、第6回国際労働会議労働代表に鈴木文治が選出される。
4.27日、安部磯雄、山崎今朝弥、石川三四郎ら日本フェビアン協会を設立。
4月、大川周明、安岡正篤、満川亀太郎ら、行地社を設立。
5.10日、第15回衆議院議員選挙。護憲3派が大勝。
5.15日、芳沢謙吉駐中国公使とソ連のカラハン駐中国代表が、日ソ国交回復交渉を開始。
5.26日、クーリッジ米国大統領、新移民法に署名。移民総数の制限、ハワイを除く在米移民数比率による移民割当、帰化不能外国人の入国禁止など、日本人排斥を目的としているため、日本で反発、対米感情が悪化する。
6月、中国で「黄土甫軍官学校」設立される。この学校は、コミンテルンから派遣された軍事顧問による各種の軍事教練を目的として設立された軍学校であり、校長には国民党の右派幹部の一人である蒋介石が就任し、共産党側からも周恩来らが教官として参加していた。この学校から後の指揮官が輩出していくことになり、国共内戦時に死闘を繰り返すことになる。
6.日、清浦内閣総辞職。
【第二次憲政擁護運動(第二次護憲運動)】 |
政友会、憲政会、革新倶楽部三党は三党首会談で、清浦内閣打倒と憲政擁護を謳って共同歩調をとることを決定。これを憲政擁護運動と称して十年前の運動を模した。前回のような盛り上がりに欠けてはいたものの、「苦節十年」の憲政会が154議席で第一党の座に躍り出、野党三党(護憲三派)が圧勝をおさめ、清浦内閣は総辞職した。これを「第二次憲政擁護運動(第二次護憲運動)」と云う。これによって、憲政会総裁・加藤高明に大命が降下し、加藤は昂然、組閣に着手することになる。政友会総裁・高橋是清、革新倶楽部の犬養毅を招いての協議で、高橋は内務、または大蔵のポストを要求して組閣交渉を難航させたが、行司役を務めた平田東助伯爵が「内務は政府の中心、大蔵は政策の中心であるから、これは憲政会から閣僚を出す」としてはねつけ、憲政会の領袖・若槻礼次郎と濱口雄幸がそれぞれ内相・蔵相となった。政友会の高橋には農商務相、横田千之助に法相、革新倶楽部の犬養には逓信相のポストをそれぞれ提供し、こうして護憲三派内閣が発足した。
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【第1次加藤高明内閣成立】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6.11日、憲政会、政友会、革新倶楽部の三党連立による憲政会の加藤高明を首相とする第1次加藤内閣(護憲3派連立内閣)が成立(在任・1924.6.11−1925.8.2日)。多数政党による組閣「憲政の常道」の初め。首相・加藤、蔵相・浜口雄幸、内相・若槻礼次郎、外相・幣原喜重郎。いずれも高文官僚の登用であった。加藤内閣から犬養内閣までの8年間、政友会と民政党(憲政会の後身)が政権交代を繰り返すことになる。
政友会は、民政党攻撃の為もあり軍縮を「統帥権干犯」だと非難し、軍官僚の暴走に手を貸していくことになる。三派連立について、大正十三年三月の「国際写真情報」に次のように評している。「往日の犬と猿が同じテーブルで護憲を談じる、大いに結構だがこれがいつまで続くやら」。 |
6.13日、小山内薫、土方与志らが私財を投じて建設した築地小劇場が開場。 6.14日、築地小劇場一般開場。公演が始まる。
7.1日、メートル法施行。
7.5日、第8回オリンピック・パリ大会開催。
7.18日、衆議院、貴族院制度改正に関する建議案を可決。
9.1日、アナキスト和田久太郎が元戒厳司令官福田雅太郎陸軍大将を狙撃するが、未遂に終わる。
9.4日、政府、与党3派の普選連合協議会、普選法案大綱を決定。
9月、中国で、第2次奉直戦争勃発。一部日本人が直隷派馮玉祥のクーデターを支援。
11.12日、学連を中心に、全国学生軍事教練反対同盟結成。
11.24日、孫文、馮玉祥の招請で北京へ向かう途中、神戸に立ち寄る。11.28日、孫文、神戸高等女学校講堂で「大アジア主義」の講演を行い、西洋覇道ではなく東方王道の干城となることを訴える。
12.13日、東京婦人会などが、婦人参政権獲得期成同盟会を結成。
【中国軍閥間に内戦が発生「奉直戦争」】 | |
中国内の軍閥間に内戦が発生した。日本軍の支援を仰いだ張作霖がやはり軍閥の呉佩孚の逆襲にあって満洲そのものが危機にさらされる情勢となった。これを奉直戦争と云う。が、浜口首相、幣原外相は動かなかった。これが為「軟弱外交」と評された。その後、呉佩孚の部下だった馮玉祥の反乱にあって、呉陣営は敗退し日本の介入は結果的には必要なくなった。馮の反乱は裏で日本の軍部による謀略だったとの評が立った。この事件は、軍が文官の指揮を越えて政治に手を出す契機となった点で史実的意味がある。
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1925(大正14)年の動き |
ラジオ放送開始される。
1.5日、イタリアのムッソリーニ、ファシスタ党独裁体制を確立。
1.7日、連合国財政会議がパリで開催される。
1.12日、海軍陸戦隊、南京の排日運動に対処するため上陸。
1.15日、ドイツでハンス・ルター内閣が成立。ナチス党員が閣僚となる。
1.17日、ロックフェラー、東京帝国大学図書館に400万円を寄付。
1.18日、群馬県世良田村で村民が被差別部落23戸を襲う。世良田村事件。
1.20日、日ソ基本条約調印(国交回復)。
1.22日、施政方針演説で、普通選挙成立・貴族院改革・行財政整理・綱紀粛正を表明。
1.24日、警視庁、軍事教育反対を唱える学生デモを禁止。
1.28日、トロツキー、ソ連革命評議会議長を解任される。
3月、孫文死去。「革命いまだ成らず」。国民党の指導部はおう精衛(おう兆銘)を首班とする集団指導体制に移行。
【普通選挙法成立】 |
加藤高明第一次内閣の大仕事は普通選挙法案を可決することであった。貴族院と、枢密院が関門となった。枢密院は、選挙権は独立で生計を営むものに付与すべきだとして、「他人の救助を受けるもの」を除外する欠格事項を設けた。これでは学生などに選挙権が付与されないことになってしまう。内相・若槻礼次郎や翰長・江木翼などが奔走し、枢府議長の浜尾新、副議長の一木喜徳郎などが協力して、「他人の救恤を受けるもの」とした。これにより学生が親から援助を受けることは救恤に当たらないことになった。これにより枢密院可決となった。衆議院は苦もなく通過したが難関が貴族院であった。貴族院は「他人の救恤を受けるもの」規定を問題視した。議論は平行線のまま、両院協議会が開かれるに到った。加藤首相が政友会の名うての策士・岡崎邦輔に依頼し、「他人の救助を受けるもの」の上に「貧困のため」という言葉を入れることによって、ようやく協議会が可決、第五十議会において可決する運びとなった。 |
3月、政治的に「大正デモクラシー」による民主化を求める大衆運動が盛んに成り、その成果として遂に第50議会で25歳以上の成人男子全てを選挙人とする「普通選挙法」が成立し、5月公布された。絶対主義的天皇制の枠内での議会主義のスタートとなった。 |
シベリアからの撤兵。「寄席の落語家をして、『シベリアシッパイ』と云わしめたシベリア出兵は、皇軍の光輝有る歴史に、拭うことの出来ない汚点を記した海外派兵であった」(「日本戦争外史・従軍記者」、全日本新聞連盟)。
4月、.田中義一、政友会総裁に就任。
【治安維持法制定】 | |
4月、治安維持法発布。第一条は次の通り。
当時の若槻内相によれば、「もともと治安維持法は、・・・・以前から内務省内の宿題であった(古風庵回顧録)」と述べている。同法にも反対が根強く、とくに新聞社は、言論の自由がどこにあるかとして激越に反対した。そこで関係省庁の若槻内相と小川平吉法相が委員会を開いて、新聞の自由な意見までが取り締まられないように、取締のポイントを絞った。つまり、国体変更と私有財産制の否認のみが取締の対象となった。こうして、両院を通過することとあいなった。 |
5.10日、革新倶楽部が政友会と合同、政友会の議席数は136議席の第二党となり、第一党の憲政会に迫った。政友会閣僚は、内閣における埋伏の毒としての役割を果たし始める。
【総同盟第一次分裂】 |
5月、総同盟が第一次分裂。総同盟主流派の松岡駒吉、西尾末広、鈴木文治ら右派が、当時勢力急伸中の日共系「総同盟革新同盟」を除名。左派の労働組合約30が「日本労働組合評議会」を結成した。総同盟は、右派と左派に割れた。 |
5月、北樺太派遣軍撤退完了。
8月、日本農民組合の提唱で、「合法的な単一無産政党」結成の動きが始まった。
【第2次加藤高明内閣成立】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8.2日、第一次加藤高明内閣が総辞職した。顛末は次の通り。濱口蔵相の財政改革案に反対し、閣内不統一を惹起した。加藤首相は、どうしても賛成できんか、賛成できんならば、辞めてもらうほかない」と通告したが、政友会閣僚は、「自分らだけで辞めるということはしない」とがんばり続けた。そこで加藤首相は、「そんなら閣内不統一ということになるから、よろしい、自分は辞める」と言って辞表を取りまとめ、捧呈した。往日の犬と猿の護憲体制は、わずか一年足らずで崩壊した。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
閣内不統一によって加藤高明首相が辞表を捧呈すると、摂政宮は西園寺に後継首班の選考を下問した。西園寺は、「大命再降下こそしかるべし」と奉答する。元老はあまりに露骨な政友会のやりかたを嫌悪した。加藤高明は辞退したが、ついに拝受し、憲政会単独内閣が発足した。8.2日、第2次加藤高明内閣が組閣され、1928(対象15).1.30日まで続く。
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12月、.農民労働党結成(即日禁止)。
1926(大正15→昭和1)年の動き |
1.11日、張作霖、東三省は北京政府から独立と宣言。
1月、若槻礼次郎、憲政会総裁に就任。
1.19日、共同印刷争議。会社側は全員解雇で対抗。2.7日、資本家側の要求容れた労働組合法政府案に対し、大都市各地で大規模な反対デモ。
【第1次加藤高明内閣成立】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.30日、第一次若槻礼次郎内閣(民政党内閣)が組閣される(1927(昭和2).4.20日まで続く)。
加藤高明首相死後の総辞職を受けての西園寺公に下問がくだった。西園寺は、首相死去によって政権が移動することを避けたいと考え、「政界のお使い番」松本剛吉などが収集してくる情報をもとに、摂政宮に対し、今回も憲政会に対して大命降下せられんことを奏請した。憲政会の新総裁となった若槻礼次郎が拝受し、加藤高明内閣の閣員名簿をほぼ引き継ぐ形で新内閣が発足した。若槻内閣が基盤とする憲政会は依然少数党であったから、若槻首相以下は政友本党と提携し、第五十一議会を乗り切ることに成功し、同時に、後の憲本合同への道を開くことになった。 |
2.11日、在郷軍人会、赤尾敏ら第一回建国祭。東京では三万人がデモ行進、紀元節をより国粋化。
2.12日、福本和夫、「社会の構成並に変革の過程」を発表。この頃「福本イズム」隆盛。
3.5日、左翼を排除して、労働農民党結成。
3.18日、北京で反軍閥大会。軍警が発砲し、死者多数。
3.20日、蒋介石、軍の共産党員を逮捕(「中山艦」事件)。
3.末日、学連事件。
7.18日、長野市で警察署統合・廃止反対県民大会が暴動化、知事官舎などを襲撃し八六三人検挙。
9.20日、慶大の学生一六人、社会科学研究で無期停学。
10月、日本農民党が旗揚げされた。
11.22日、スターリン、一国社会主義建設を説く。
11.26日、中国国民党左派、武漢遷都を決議(蒋介石は南昌を主張)。
12.25日、大正天皇崩御、大正天皇を追号。摂政宮裕仁親王が践祚(即位)し、「昭和」と改元。
これより以降は、「昭和時代史1、第ニ次世界大戦への流れ」
(私論.私見)