神皇正統記巻六 |
○第九十一代、伏見院。諱は煕仁、後深草第一の子。御母玄輝門院、藤原[の]愔子、左大臣実雄の女也。後嵯峨の御門、継体をば亀山とおぼしめし定ければ、深草の御流いかゞとおぼえしを、亀山、弟順の儀をおぼしめしけるにや、この君を御猶子にして東宮にすゑ給いぬ。そのゝち御心もゆかず、あしざまなる事さへいできて践祚ありき。丁亥の年即位、戊子に改元。東宮にさへ此天皇の御子ゐ給き。天下を治給こと十一年。太子にゆづりて尊号例の如し。院中にて世をしらせ給しが、程なく時うつりにしかど、中六とせばかり有て又世をしり給き。関東の輩も亀山の正流をうけたまへることはしり侍りしかど、近比となりて、世をうたがはしく思ければにや、両皇の御流をかはる〴〵すゑ申さんと相計けりとなん。のちに出家せさせ給う。五十歳おましましき。 |
○第九十二代、後伏見院。諱は胤仁、伏見第一の子。御母永福門院、藤原鏱子、入道太政大臣実兼の女なり。実の御母は准三宮藤原経子、入道参議経氏女也。戊戌の年即位、己亥に改元。天下を治め給いしこと三年。推譲のことあり。尊号例のごとし。正和の比、父の上皇の御譲にて世をしらせ給。時の御門は御弟なれど、御猶子の儀なりとぞ。元弘に、世の中みだれし時又しばらくしらせ給。事あらたまりても、かはらず都にすませましまししかば、出家せさせ給て、四十九歳にてかくれさせましましき。
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○第九十三代、後二条院。諱は邦治、後宇多第二の子。御母西花門院、源基子、内大臣具守の女なり。辛丑の年即位、壬寅に改元。天下を治め給いしこと六年有て、世をはやくし給う。二十四歳おましましき。 |
○第九十四代の天皇。諱は富仁、伏見第三の子。御母顕親門院、藤原季子、左大臣実雄の女也。戊申の歳即位、改元。〔裏書[に]云ふ。天子践祚以禅譲年属先代、踰年即位、是古礼也。而我朝当年即位翌年改元已為流例。但禅譲年即位改元又非無先例。和銅八年九月元明禅位。即日元正即位、改元為霊亀。養老八年二月元正禅位。即日聖武即位、改元為神亀。天平感宝元年四月聖武禅位。同年七月孝謙即位、改元為天平勝宝。神護景雲四年八月称徳崩、同年十月光仁即位、十一月改元為宝亀。徳治三年八月後二条崩、同年月新主即位、十月改元為延慶。又踰年不改元例。天平宝字二年淡路帝即位、不改元。仁和三年宇多帝即位、不改元。隔年改為寛平。延久四年白河帝即位、又不改元。隔年改為承保等也。即位似前改元例、寿永二年八月後鳥羽受禅、同三年四月改元為元暦、七月即位。是非常例也。〕父の上皇世をしらせ給いしが、御出家の後は御譲にて、御兄の上皇しらせまします。法皇かくれ給ても諒闇の儀なかりき。上皇御猶子の儀とぞ。例なきこと也。天下を治め給いしこと十一年にてのがれ給う。尊号例の如し。世の中あらたまりて出家せさせ給き。 |
○第九十五代、第四十九世、後醍醐天皇。諱は尊治、後宇多第二の御子。御母談天門院、藤原忠子、内大臣師継の女、実は入道参議忠継女なり。御祖父亀山の上皇やしなひ申し給いき。弘安に、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、度々関東に仰給いしかば、天命の理かたじけなくおそれ思ければにや、俄に立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君をすゑ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文ををさめ給いしかど、一の御子さしたるゆゑなくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上の例により、太宰帥にて節会などに出させ給いき。後に中務卿を兼せさせ給う。後二条世をはやくしましまして、父の上皇なげかせ給いし中にも、よろづこの君にぞ委附し申させ給いける。やがて儲君のさだめありしに、後二条の一のみこ邦良親王ゐ給うべきかときこえしに、おぼしめすゆゑありとて、この王を太子にたて給う。「かの一のみこをさなくましませば、御子の儀にて伝へさせ給うべし。もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし」とぞしるしおかせましましける。彼親王鶴膝の御病ありて、あやふくおぼしめしけるゆゑなるべし。後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましましゝに、その御跡をばよくつぎ申させ給へり。あまさへ諸々の道をこのみしらせ給うこと、ありがたき程の御ことなりけんかし。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言をならはせ給う。はじめは法皇にうけましましけるが、後に前大僧正
禅助に許可までうけ給いけるとぞ。天子潅頂の例は唐朝にもみえはべり。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師に潅頂をおこなはる。主上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁潅頂とぞ申める。此度はまことの授職とおぼしめしゝにや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それならず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までも内にめしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせましましけるにや。
戊午の年即位、己未の夏四月に改元。々応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、夙におき、夜はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家のふるき御政にかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、かねてうたひ侍き。かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮の御方にさぶらふ人々そは〳〵にきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申輩ありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子の九月のすゑつかた、やう〳〵事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。その後ほどなく東宮かくれ給う。神慮にもかなはず、祖皇の御いましめにもたがはせ給いけりとぞおぼえし。今こそこの天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。されど坊には後伏見第一の御子、量仁親王ゐさせ給う。
かくて元弘辛未の年八月に俄に都をいでさせ給、奈良の方に臨幸ありしが、その所よろしからで、笠置と云う山寺のほとりに行宮をしめ、御志ある兵をめし集らる。度々合戦ありしが、同九月に東国の軍おほくあつまりのぼりて、事かたくなりにければ、他所にうつらしめ給しに、おもひの外のこといできて、六波羅とて承久よりこなたしめたる所に御幸ある。御供にはべりし上達部・うへのをのこどもゝあるひはとられ、或るいはしのびかくれたるもあり。かくて東宮位につかせ給う。つぎの年の春隠岐国にうつらしめまします。御子たちもあなたかなたにうつされ給いしに、兵部卿
護良親王ぞ山々をめぐり、国国をもよほして義兵をおこさんとくはたて給いける。
河内国に橘正成と云う者ありき。御志深かりければ、河内と大和との境に金剛山と云う所に城を構へて、近国ををかしたひらげしかば、あづまより諸国の軍をあつめてせめしかど、かたくまもりければ、たやすくおとすにあたはず。世の中みだれ立にし。次の年癸酉の春、忍て御船にたてまつりて、隠岐をいでゝ伯耆につかせ給う。その国に源長年と云う者あり。御方にまゐりて船上と云う山寺にかりの宮をたてゝぞすませたてまつりける。彼あたりの軍兵しばらくはきほひておそひ申しけれど、みなゝびき申ぬ。都ちかき所々にも、御心ざしある国々のつはものより〳〵うちいづれば、合戦も度々になりぬ。京中さわがしくなりては、上皇も新主も六波羅にうつり給う。伯耆よりも軍をさしのぼせらる。ここに畿内・近国にも御志ある輩、八幡山に陣をとる。坂東よりのぼれる兵の中に藤原の親光と云う者も彼山にはせくはゝりぬ。次々御方にまゐる輩おほくなりにけり。
源高氏ときこえしは、昔の義家朝臣が二男、義国と云いしが後胤なり。彼義国が孫なりし義氏は平義時朝臣が外孫なり。義時等が世となりて、源氏の号ある勇士には心をゝきければにや、おしすゑたるやうなりしに、これは外孫なれば取り立て領ずる所などもあまたはからひおき、代々になるまでへだてなくてのみありき。高氏も都へさしのぼせられけるに、疑をのがれんとにや、告文をかきおきてぞ進発しける。されど冥見をもかへりみず、心がはりして御方にまゐる。官軍力をえしまゝに、五月八日のころにや、都にある東軍みなやぶれて、あづまへこゝろざしておちゆきしに、両院・新帝おなじく御ゆきあり。近江国馬場と云う所にて、御方に心ざしある輩うちいでにければ、武士はたゝかふまでもなく自滅しぬ。両院・新帝は都にかへし奉り、官軍これをまぼり申き。かくて都より西ざま、程なくしづまりぬときこえければ還幸せさせ給。まことにめづらかなりし事になん。
東にも上野国に源義貞と云う者あり。高氏が一族也。世の乱におもひをおこし、いくばくならぬ勢にて鎌倉にうちのぞみけるに、高時等運命きはまりにければ、国々の兵つきしたがふこと、風の草をなびかすがごとくして、五月の二十二日にや、高時をはじめとして多の一族みな自滅してければ、鎌倉又たひらぎぬ。符契をあはすることもなかりしに、筑紫の国々・陸奥・出羽のおくまでも同月にぞしづまりにける。六七千里のあひだ、一時におこりあひにし、時のいたり運の極ぬるはかゝることにこそと不思議にも侍しもの哉。君はかくともしらせ給はず、摂津国
西の宮と云う所にてぞきかせましましける。六月四日東寺にいらせ給ふ。都にある人々まゐりあつまりしかば、威儀をとゝのへて本の宮に還幸し給う。いつしか賞罰のさだめありしに、両院・新帝をばなだめ申し給いて、都にすませましましける。されど新帝は偽主の儀にて正位にはもちゐられず。改元して正慶と云いしをも本のごとく元弘と号せられ、官位昇進せし輩もみな元弘元年八月よりさきのまゝにてぞありし。平治より後、平氏世をみだりて二十六年、文治の初、頼朝権をもはらにせしより父子あひつぎて三十七年、承久に義時世をとりおこなひしより百十三年、すべて百七十余年のあひだおほやけの世を一にしらせ給うことたえにしに、この天皇の御代に掌をかへすよりもやすく一統し給いぬること、宗廟の御はからひも時節ありけりと、天下こぞりてぞ仰奉りける。
同年冬十月に、先あづまのおくをしづめらるべしとて、参議右近中将源顕家卿を陸奥守になしてつかはさる。代々和漢の稽古をわざとして、朝端につかへ政務にまじはる道をのみこそまなびはべれ。吏途の方にもならはず、武勇の芸にもたづさはらぬことなれば、度々いなみ申しかど、「公家すでに一統しぬ。文武の道二あるべからず。昔は皇子皇孫もしは執政の大臣の子孫のみこそおほくは軍の大将にもさゝれしか。今より武をかねて蕃屏たるべし」とおほせ給いて、御みづから旗の銘をかゝしめ給、様々の兵器をさへくだしたまはる。任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるき例をたづねて、罷申の儀あり。御前にめし勅語ありて御衣御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申しうけて、御子を一所ともなひたてまつる。かけまくもかしこき今上皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなゝびきしたがひにけり。
同じき十二月左馬頭
直義朝臣
相模守を兼て下向す。これも四品
上野大守
成良親王をともなひ奉。この親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給う 〈直義は高氏が弟なり〉
抑彼高氏御方にまゐりし、その功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階して四位に叙し、左兵衛督に任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務・守護あまたの郡庄を給る。弟直義
左馬頭に任じ、従四位に叙す。昔頼朝ためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。はたして子孫もはやくたえぬるは高官のいたす所かとぞ申し伝えたる。高氏等は頼朝・実朝が時に親族などゝて優恕することもなし。たゞ家人の列なりき。実朝公八幡宮に拝賀せし日も、地下前駈二十人の中に相加れり。たとひ頼朝が後胤なりとも今さら登用すべしともおぼえず。いはむや、ひさしき家人なり。さしたる大功もなくてかくやは抽賞せらるべきとあやしみ申す輩もありけりとぞ。関東の高時天命すでに極て、君の御運をひらきしことは、更に人力といひがたし。武士たる輩、いへば数代の朝敵也。御方にまゐりてその家をうしなはぬこそあまさへある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運の望をも企はべるべき。しかるを、天の功をぬすみておのれが功とおもへり。介子推がいましめも習しるものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬ輩もあまた昇進し、昇殿をゆるさるゝもありき。されば或る人の申されしは、「公家の御世にかへりぬるかとおもひしに中〳〵猶武士の世に成ぬる」とぞ有し。およそ政道と云ことは所々にしるしはべれど、正直慈悲を本として決断の力あるべき也。これ天照太神のあきらかなる御教へなり。
決断と云うにとりてあまたの道あり。一にはその人をえらびて官に任ず。官にその人ある時は君は垂拱してまします。されば本朝にも異朝にもこれを治世の本とす。二には国郡をわたくしにせず、わかつ所かならずその理のまゝにす。三には功あるをば必賞し、罪あるをば必ず罰す。これ善をすゝめ悪をこらす道なり。これに一もたがふを乱政とはいへり。上古には勲功あればとて官位をすゝむことはなかりき。つねの官位のほかに勲位と云うしなをゝきて一等より十二等まであり。無位の人々なれど、勲功たかくて一等にあがれば、正三位の下、従三位の上につらなるべしとぞみえたる。又本位ある人のこれを兼たるも有べし。官位といへるは、上三公より下諸司の一分にいたる、これを内官と云、諸国の守より史生・郡司にいたる、これを外官と云ふ。天文にかたどり、地理にのとりて各々つかさどる方あれば、その才なくては任用せらるべからざることなり。
「名与器は人にかさず」とも云、「天の工に人代」ともいひて、君のみだりにさづくるを謬挙とし、臣のみだりにうくるを尸祿とす。謬挙と尸祿とは国家のやぶるゝ階、王業の久からざる基なりとぞ。中古と成りて、平将門を追討の賞にて、藤原秀郷正四位下に叙し、武蔵・下野両国の守を兼す。平貞盛正五位下に叙し、鎮守府の将軍に任ず。安倍貞任
州をみだりしを、源頼義朝臣十二年までにたゝかひ、凱旋の日、正四位下に叙し、伊与守に任ず。彼らその功たかしといへども、一任四五け年の職なり。これ猶上古の法にはかはれり。
保元の賞には、義朝左馬頭に転じ、清盛太宰大弐に任ず。この外受領・
検非違使になれるもあり。この時や既にみだりがはしき始めとなりにけん。平治よりこのかた皇威ことのほかにおとろへぬ。清盛天下の権を盜、太政大臣にあがり、子ども大臣大将に成しうへはいふにたらぬ事にや。されど朝敵になりてやがて滅亡せしかば後の例にはひきがたし。頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱をたひらげ、二十余年の御いきどほりをやすめたてまつりし、昔神武の御時、宇麻志麻見の命の中州をしづめ、皇極の御宇に大織冠の蘇我の一門をほろぼして、皇家をまたくせしより後は、たぐひなき程の勲功にや。それすら京上の時、大納言大将に任ぜられしをば、かたくいなみ申けるをゝしてなされにけり。公私のわざはひにや侍けん。その子は彼があとなれば、大臣大将になりてやがて滅びぬ。更にあとゝ云う物もなし。天意にはたがひけりとみえたり。君もかゝるためしをはじめ給いしによりて、大功なきものまでも皆なかゝるべきことゝ思あへり。頼朝は我が身かゝればとて、兄弟一族をばかたくおさへけるにや。義経五位の検非違使にてやみぬ。範頼が三河守なりしは、頼朝拝賀の日地下の前駈にめしくはへたり。おごる心みえければにや、この両弟をもつひにうしなひにき。さならぬ親族もおほくほろぼされしは、おごりのはしをふせぎて、世をもひさしく、家をもしづめんとにやありけん。
先祖経基はちかき皇孫なりしかど、承平の乱に征東将軍忠文朝臣が副将として彼が節度をうく。それより武勇の家となる。その子満仲より頼信、頼義、義家
相続で朝家のかためとしてひさしく召仕る。上にも朝威ましまし、下にもその分にすぎずして、家を全し侍りけるにこそ。為義にいたりて乱にくみして誅にふし、義朝又功をたてんとてほろびにき。先祖の本意にそむきけることはうたがひなし。さればよく先蹤をわきまへ、得失をかむがへて、身を立、家をまたくするこそかしこき道なれ。おろかなるたぐひは清盛・頼朝が昇進をみて、皆なあるべきことゝおもひ、為義、義朝が逆心をよみして、亡たるゆゑをしらず。近ごろ伏見の御時、源為頼と云うをのこ内裏にまゐりて自害したりしが、かねて諸社に奉る矢にも、その夜射ける矢にも、大政大臣源為頼とかきたりし、いとをかしきことに申しめれど、人の心のみだりになり行姿はこれにておしはかるべし。
義時などはいかほどもあがるべくやありけん。されど正四位下右京権大夫にてやみぬ。まして泰時が世になりては子孫の末をかけてよくおきておきければにや。滅びしまでもつひに高官にのぼらず、上下の礼節をみだらず。近く維貞といひしもの吹挙によりて修理大夫になりしをだにいかがと申しける。まことにその身もやがてうせ侍りにき。父祖のおきてにたがふは家門をうしなふしるしなり。人は昔をわするゝものなれど、天は道をうしなはざるなるべし。さらばなど天は正理のまゝにおこなはれぬと云うこと疑はしけれど、人の善悪はみづからの果報也。世のやすからざるは時の災難なり。天道も神明もいかにともせぬことなれど邪なるものは久しからずしてほろび、乱たる世も正にかへる、古今の理なり。これをよくわきまへしるを稽古と云ふ。
昔、人をえらびもちゐられし日は先徳行をつくす。徳行おなじければ、才用あるをもちゐる。才用ひとしければ労効あるをとる。又徳義・ 清慎・公平・恪勤の四善をとるともみえたり。格条には「朝に廝養たれども夕に公卿にいたる」と云うことの侍るも、徳行才用によりて不次にもちゐらるべき心なり。寛弘よりあなたには、まことに才かしこければ、種姓にかゝはらず、将相にいたる人もあり。寛弘以来は、譜第をさきとして、その中に才もあり徳もありて、職にかなひぬべき人をぞえらばれける。世の末に、みだりがはしかるべきことをいましめらるゝにやありけん、「七け国の受領をへて、合格して公文といふことかんがへぬれば、参議に任ず」と申すならはしたるを、白河の御時、修理のかみ顕季といひし人、院の御めのとの夫にて、時のきら並人なかりしが、この労をつのりて参議を申しけるに、院の仰に、「それも物かきてのうへのこと」ゝありければ、理にふしてやみぬ。この人は哥道などもほまれありしかば、物かゝぬ程のことやはあるべき。又参議になるまじきほどの人にもあらじなれど、和漢の才学のたらぬにぞ有けん。白河の御代まではよく官をおもくし給いけりときこえたり。あまり譜第をのみとられても賢才のいでこぬはしなれば、上古におよびがたきことをうらむるやからもあれど、昔のまゝにてはいよいよみだれぬべければ、譜第をおもくせられけるもことわり也。但才もかしこく徳もあらはにして、登用せられむに、人のそしりあるまじき程の器ならば、今とてもかならず非重代によるまじき事とぞおぼえ侍る。
その道にはあらで、一旦の勲功など云うばかりに、武家代々の陪臣をあげて高官を授られむことは、朝議のみだりなるのみならず、身のためもよくつゝしむべきことゝぞおぼえ侍る。もろこしにも漢高祖はすゞろに功臣を大に封じ、公相の位をも授しかば、はたして奢ぬ。奢ればほろぼす。よりて後には功臣のこりなくなりにけり。後漢の光武はこの事にこりて、功臣に封爵をあたへけるも、その首たりし鄧禹すら封ぜらるゝ所四県にすぎず。官を任ずるには文吏をもとめえらびて、功臣をさしおく。これによりて二十八将の家ひさしく伝て、昔の功もむなしからず。朝には名士おほくもちゐられて、曠官のそしりなかりき。彼二十八将の中にも鄧禹と賈復とはそのえらびにあづかりて官にありき。漢朝の昔だに文武の才をそなふることいとありがたく侍りけるにこそ。次に功田と云ことは、昔は功のしなにしたがひて大・上・中・下の四の功を立て田をあかち給き。その数みなさだまれり。大功は世々にたえず。その下つかたは或るは三世につたへ、孫子につたへ、身にとゞまるもあり。天下を治と云うことは、国郡を専にせずして、そのことゝなく不輸の地をたてらるゝことのなかりしにこそ。
国に守あり、郡に領あり、一国のうち皆な国命のしたにてをさめしゆゑに法にそむく民なし。かくて国司の行迹をかむがへて、賞罰ありしかば、天下のこと掌をさしておこなひやすかりき。その中に諸院・諸宮に御封あり。親王・大臣も又かくの如し。その外官田・職田とてあるも、皆な官符を給て、その所の正税をうくるばかりにて、国はみな国司の吏務なるべし。但大功の者ぞ今の庄園などとて伝が如く、国にいろはれずして伝へける。中古となりて庄園おほくたてられ、不輸の所いできしより乱国とはなれり。上古にはこの法よくかたかりければにや、推古天皇の御時、蘇我大臣「わが封戸をわけて寺によせん」と奏せしをつひに許されず。光仁天皇は永神社・仏寺によせられし地をも「永の字は一代にかぎるべし」とあり。後三条院の御世こそ此つひえをきかせ給いて、記録所をゝかれて国々の庄公の文書をめして、おほく停廃せられしかど、白河・鳥羽の御時より新立の地いよいよ多くなりて、国司のしり所百分が一になりぬ。後ざまには、国司任におもむくことさへなくて、その人にもあらぬ眼代をさして国ををさめしかば、いかでか乱国とならざらん。況や文治のはじめ、国に守護職補し、庄園・郷保に地頭をおかれしよりこのかたは、さらに古のすがたと云うことなし。
政道をおこなはるゝ道、ことごとくたえはてにき。たまたま一統の世にかへりぬれば、この度ぞふるき費をもあらためられぬべかりしかど、それまではあまさへのことなり。今は本所の領と云し所々さへ、皆な勲功に混ぜられて、累家もほとほとその名ばかりになりぬるもあり。これ皆な功にほこれる輩、君をおとし奉るによりて、皇威もいとゞかろくなるかとみえたり。かゝればその功なしといへども、ふるくより勢ある輩をなつけられんため、或るいは本領なりとてたまはるもあり、或るいは近境なりとてのぞむもあり。闕所をもておこなはるゝにたらざれば、国郡につきたりし地、もしは諸家相伝の領までもきほひ申しけりとぞ。をさまらんとしていよ〳〵みだれ、やすからんとしてます〳〵あやふくなりにける、末世のいたりこそまことにかなしく侍れ。凡王土にはらまれて、忠をいたし命をすつるは人臣の道なり。必これを身の高名とおもふべきにあらず。しかれども後の人をはげまし、そのあとをあはれみて賞せらるゝは、君の御政なり。下としてきほひあらそひ申べきにあらぬにや。ましてさせる功なくして過分の望をいたすこと、みづからあやぶむるはしなれど、前車の轍をみることはまことに有がたき習なりけんかし。中古までも人のさのみ豪強なるをばいましめられき。豪強になりぬればかならずおごる心あり。はたして身をほろぼし、家をうしなふためしあれば、いましめらるゝも理なり。鳥羽院の御代にや、諸国の武士の源平の家に属することをとゞむべしと云ふ制符たび〳〵ありき。源平ひさしく武をとりてつかへしかども、事ある時は、宣旨を給て諸国の兵をめしぐしけるに、近代となりてやがて肩をいるゝ族おほくなりしによりて、この制符はくだされき。はたして、今までの乱世の基なれば、云ふかひなきことになりにけり。
此比のことわざには、一たび軍にかけあひ、或るいは家子郎従
節にしぬるたぐひもあれば、「わが功におきては日本国を給、もしは半国を給てもたるべからず」など申しめる。まことにさまでおもふことはあらじなれど、やがてこれよりみだるゝ端ともなり、又朝威のかろ〴〵しさもおしはからるゝものなり。「言語は君子の枢機なり」といへり。あからさまにも君をないがしろにし、人におごることあるべからぬことにこそ。さきにしるしはべりしごとく、かたき氷は霜をふむよりいたるならひなれば、乱臣賊子と云者は、そのはじめ心ことばをつゝしまざるよりいでくる也。世の中のおとろふると申は、日月の光のかはるにもあらず、草木の色のあらたまるにもあらじ。人の心のあしくなり行を末世とはいへるにや。昔許由と云ふ人は帝堯の国を伝へんとありしをきゝて、潁川に耳をあらひき。巣父はこれをきゝて此水をだにきたながりてわたらず。その人の五臓六腑のかはるにはあらじ、よくおもひならはせるゆゑにこそあらめ。猶行すゑの人の心おもひやるこそあさましけれ。大方おのれ一身は恩にほこるとも、万人のうらみをのこすべきことをばなどかかへりみざらん。君は万姓の主にてましませば、かぎりある地をもて、かぎりなき人にわかたせ給はんことは、おしてもはかりたてまつるべし。もし一国づゝをのぞまば、六十六人にてふさがりなむ。一郡づゝといふとも、日本は五百九十四郡こそあれ、五百九十四人はよろこぶとも千万の人は不悦。況日本の半を心ざし、皆ながらのぞまば、帝王はいづくをしらせ給べきにか。かゝる心のきざしてことばにもいでおもてには恥る色のなきを謀反の始めと云うべき也。
昔の将門は比叡山にのぼりて、大内を遠見して謀反をおもひくはたてけるも、かゝるたぐひにや侍けん。昔は人の心正くて自ずら将門にみもこり、きゝもこり侍りけん。今は人々の心かくのみなりにたれば、この世はよくおとろへぬるにや。漢高祖の天下をとりしは蕭何・張良・韓信が力なり。これを三傑と云ふ。万人にすぐれたるを傑と云とぞ。中にも張良は高祖の師として、「はかりことを帷帳の中にめぐらして、勝ことを千里の外に決するはこの人なり」との給いしかど、張良はおごることなくして、留といひてすこしきなる所をのぞみて封ぜられにけり。あらゆる功臣おほくほろびしかど、張良は身をまたくしたりき。
ちかき代のことぞかし、頼朝の時までも、文治の比にや、奥の泰衡を追討せしに、みづからむかふことありしに、平重忠が先陣にてその功すぐれたりければ、五十四郡の中に、いづくをものぞむべかりけるに、長岡の郡とてきはめたる小所をのぞみたまはりけるとぞ。これは人々にひろく賞をもおこなはしめんがためにや。かしこかりけるをのこにこそ。又直実と云いける者に一所をあたへたまふ下文に、「日本第一の甲の者なり」と書いて給てけり。一とせ彼下文を持奏聞する人の有けるに、褒美の詞のはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことゝ口々にほめあへりける。いかに心えてほめけんといとをかし。これまでの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩のみ多くなれり。
ありし世の東国の風儀もかはりはてぬ。公家のふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍る輩もありときこえしかど、中一とせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞり集て都の中はえ〴〵しくこそ侍りけれ。建武乙亥の秋の比、滅にし高時が余類
謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王をひきつれ奉て参河国までのがれにき。兵部卿
護良親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申してけり。みだれの中なれど宿意をはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑せられける中に権大納言公宗卿
召おかれしも、このまぎれに誅せらる。承久より関東の方人にて七代になりぬるにや。高時も七代にて滅ぬれば、運のしからしむることゝはおぼゆれど、弘仁に死罪をとめられて後、信頼が時にこそめづらかなることに申しはべりけれ。戚里のよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪なりともあらはならぬ法令もあるに、うけ給おこなふ輩のあやまりなりとぞきこえし。
高氏は申しうけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望みけれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、即ち討手のぼりければ、京中
騒動す。追討のために、中務卿
尊良親王を上将軍として、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくの兵をくだされしに、十二月に官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子の春正月十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。よりて比叡山東坂本に行幸して、日吉社にぞましましける。内裏もすなはち焼ぬ。累代の重宝もおほくうせにけり。昔よりためしなきほどの乱逆なり。かゝりしあひだに、陸奥守鎮守府の将軍顕家卿この乱をきゝて、親王をさきに立奉りて、陸奥・出羽の軍兵を率してせめのぼる。同十三日近江国につきてことの由を奏聞す。十四日に江をわたりて坂本にまゐりしかば、官軍大に力をえて、山門の衆徒までも万歳
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○第九十六代、第五十世の天皇。諱は義良、後醍醐の天皇第七御子。御母准三宮、藤原の廉子。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御ことゝぞかねてよりきこえさせ給し。元弘癸酉の年、あづまの陸奥・出羽のかためにておもむかせ給。甲戌の夏、立親王、丙子の春、都にのぼらせまし〳〵て、内裏にて御元服。加冠左のおとゞなり。すなはち三品に叙し、陸奥の太守に任ぜさせ給。おなじき戊寅の年春、又のぼらせ給て、芳野宮にましまししが、秋七月
伊勢にこえさせ給。かさねて東征ありしかど、猶伊勢にかへりまし、己卯の年三月又芳野へいらせ給う。秋八月中の五日ゆづりをうけて、天日嗣をつたへおまします。
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神皇正統記 終 |