巻六

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.26日

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 2009.1.9日、2011.8.20日再編集 れんだいこ拝


 神皇正統記巻六
 ○第九十一代、伏見ふしみ院。諱は煕仁ひろひと、後深草第一の子。御母玄輝門院げんきもんゐん、藤原[の]愔子やすこ、左大臣実雄さねをの女也。後嵯峨の御門、継体をば亀山とおぼしめし定ければ、深草の御流いかゞとおぼえしを、亀山、弟順ていじゆんの儀をおぼしめしけるにや、この君を御猶子ごいうしにして東宮にすゑ給いぬ。そのゝち御心もゆかず、あしざまなる事さへいできて践祚ありき。丁亥ひのとゐの年即位、戊子つちのえねに改元。東宮にさへ此天皇の御子ゐ給き。天下を治給こと十一年。太子にゆづりて尊号例の如し。院中にて世をしらせ給しが、程なく時うつりにしかど、中六とせばかり有て又世をしり給き。関東のともがらも亀山の正流をうけたまへることはしり侍りしかど、近比となりて、世をうたがはしく思ければにや、両皇の御流をかはる〴〵すゑ申さんと相計はからひけりとなん。のちに出家せさせ給う。五十歳おましましき。
 ○第九十二代、後伏見ごふしみ院。諱は胤仁たねひと、伏見第一の子。御母永福門院えいふくもんゐん、藤原鏱子しやうし、入道太政大臣実兼さねかねの女なり。まことの御母は准三宮じゆさんぐう藤原経子つねこ、入道参議経氏女つねうぢのむすめ也。戊戌つちのえいぬの年即位、己亥つちのとゐに改元。天下を治め給いしこと三年。推譲すゐじやうのことあり。尊号例のごとし。正和しやうわの比、父の上皇の御にて世をしらせ給。時の御門は御弟なれど、御猶子の儀なりとぞ。元弘に、世の中みだれし時又しばらくしらせ給。事あらたまりても、かはらず都にすませましまししかば、出家せさせ給て、四十九歳にてかくれさせましましき。
 ○第九十三代、後二条ごにでう院。諱は邦治くにはる、後宇多第二の子。御母西花せいくわ門院、源基子みなもとのもとこ、内大臣具守とももりの女なり。辛丑かのとうしの年即位、壬寅みづのえとらに改元。天下を治め給いしこと六年有て、世をはやくし給う。二十四歳おましましき。
 ○第九十四代の天皇。諱は富仁とみひと、伏見第三の子。御母顕親門院けんしんもんゐん、藤原季子すゑこ、左大臣実雄さねをの女也。戊申つちのえさるの歳即位、改元。〔裏書[に]ふ。天子践祚以禅譲年属先代、踰年即位、是古礼也。而我朝当年即位翌年改元已為流例。但禅譲年即位改元又非無先例。和銅八年九月元明禅位。即日元正即位、改元為霊亀。養老八年二月元正禅位。即日聖武即位、改元為神亀。天平感宝元年四月聖武禅位。同年七月孝謙即位、改元為天平勝宝。神護景雲四年八月称徳崩、同年十月光仁即位、十一月改元為宝亀。徳治三年八月後二条崩、同年月新主即位、十月改元為延慶。又踰年不改元例。天平宝字二年淡路帝即位、不改元。仁和三年宇多帝即位、不改元。隔年改為寛平。延久四年白河帝即位、又不改元。隔年改為承保等也。即位似前改元例、寿永二年八月後鳥羽受禅、同三年四月改元為元暦、七月即位。是非常例也。〕父の上皇世をしらせ給いしが、御出家の後は御譲にて、御兄の上皇しらせまします。法皇かくれ給ても諒闇りやうあんの儀なかりき。上皇御猶子いうしの儀とぞ。例なきこと也。天下を治め給いしこと十一年にてのがれ給う。尊号例の如し。世の中あらたまりて出家せさせ給き。
 ○第九十五代、第四十九世、後醍醐ごだいご天皇。諱は尊治たかはる、後宇多第二の御子。御母談天門院だんてんもんゐん、藤原忠子ただこ、内大臣師継もろつぐの女、まこと入道にふだう参議忠継女ただつぐのむすめなり。御祖父亀山の上皇やしなひ申し給いき。弘安こうあんに、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、度々関東に給いしかば、天命のことわりかたじけなくおそれ思ければにや、にはかに立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君をすゑ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文かうもんををさめ給いしかど、いち御子みこさしたるゆゑなくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上のためしにより、太宰帥だざいのそつにて節会せちゑなどにいでさせ給いき。後に中務なかつかさの卿をけんせさせ給う。後二条世をはやくしましまして、父の上皇なげかせ給いし中にも、よろづこの君にぞ委附ゐふし申させ給いける。やがて儲君ちよくんのさだめありしに、後二条のいちのみこ邦良くによしの親王ゐ給うべきかときこえしに、おぼしめすゆゑありとて、この王を太子にたて給う。「かのいちのみこをさなくましませば、御子みこの儀にてへさせ給うべし。もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし」とぞしるしおかせましましける。彼親王鶴膝かくしつの御病ありて、あやふくおぼしめしけるゆゑなるべし。後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましましゝに、その御跡をばよくつぎ申させ給へり。あまさへ諸々の道をこのみしらせ給うこと、ありがたき程の御ことなりけんかし。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言しんごんをならはせ給う。はじめは法皇にうけましましけるが、後に前大僧正さきのだいそうじやう 禅助ぜんじよ許可こかまでうけ給いけるとぞ。天子潅頂くわんぢやうの例は唐朝にもみえはべり。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師じかくだいしに潅頂をおこなはる。主上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁けちえん潅頂とぞ申める。此度はまことの授職じゆしよくとおぼしめしゝにや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それならず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までもうちにめしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせましましけるにや。

 戊午つちのえうまの年即位、己未つちのとひつじの夏四月うづきに改元。々応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、つとにおき、はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家くげのふるき御まつりことにかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、かねてうたひ侍き。かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮とうぐう御方おんかたにさぶらふ人々そは〳〵にきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申たてまをすともがらありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子きのえね九月ながつきのすゑつかた、やう〳〵事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。その後ほどなく東宮かくれ給う。神慮しんりよにもかなはず、祖皇そくわうの御いましめにもたがはせ給いけりとぞおぼえし。今こそこの天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。されど坊には後伏見第一の御子、量仁かずひと親王ゐさせ給う。

 かくて元弘辛未かのとひつじの年八月はつきにはかに都をいでさせ、奈良のかたに臨幸ありしが、その所よろしからで、笠置かさぎと云う山寺のほとりに行宮かりみやをしめ、御志おんこころざしあるつはものをめし集らる。度々合戦ありしが、同九月おなじながつきに東国のいくさおほくあつまりのぼりて、事かたくなりにければ、他所たしよにうつらしめ給しに、おもひの外のこといできて、六波羅ろくはらとて承久じようきうよりこなたしめたる所に御幸ごかうある。御供にはべりし上達部かんだちめ・うへのをのこどもゝあるひはとられ、或るいはしのびかくれたるもあり。かくて東宮とうぐう位につかせ給う。つぎの年の春隠岐おきの国にうつらしめまします。御子たちもあなたかなたにうつされ給いしに、兵部卿ひやうぶきやう 護良もりよしの親王ぞ山々をめぐり、国国をもよほして義兵ぎへいをおこさんとくはたて給いける。

 河内国かはちのくに
橘正成たちばなのまさしげと云う者ありき。御志深かりければ、河内と大和との金剛山こんがうせんと云う所に城を構へて、近国ををかしたひらげしかば、あづまより諸国のいくさをあつめてせめしかど、かたくまもりければ、たやすくおとすにあたはず。世の中みだれ立にし。次の年癸酉みづのととりの春、しのびて御船にたてまつりて、隠岐をいでゝ伯耆はうきにつかせ給う。その国に源長年みなもとのながとしと云う者あり。御方みかたにまゐりて船上ふなのうへと云う山寺やまでらにかりの宮をたてゝぞすませたてまつりける。かのあたりの軍兵ぐんぴやうしばらくはきほひておそひ申しけれど、みなゝびき申ぬ。都ちかき所々にも、御心ざしある国々のつはものより〳〵うちいづれば、合戦も度々になりぬ。京中きやうぢゆうさわがしくなりては、上皇も新主も六波羅にうつり給う。伯耆はうきよりもいくさをさしのぼせらる。ここに畿内きだい・近国にも御志あるともがら八幡山やはたやまに陣をとる。坂東ばんどうよりのぼれるつはものの中に藤原の親光ちかみつと云う者も彼山にはせくはゝりぬ。次々御方にまゐるともがらおほくなりにけり。

 源高氏みなもとのたかうぢ
ときこえしは、昔の義家よしいへ朝臣が二男、義国よしくにと云いしが後胤こういんなり。彼義国が孫なりし義氏よしうぢ平義時たひらのよしとき朝臣が外孫なり。義時等が世となりて、源氏の号ある勇士には心をゝきければにや、おしすゑたるやうなりしに、これは外孫なれば取り立て領ずる所などもあまたはからひおき、代々になるまでへだてなくてのみありき。高氏も都へさしのぼせられけるに、うたがひをのがれんとにや、告文かうもんをかきおきてぞ進発しける。されど冥見をもかへりみず、心がはりして御方みかたにまゐる。官軍力をえしまゝに、五月さつき八日のころにや、都にある東軍みなやぶれて、あづまへこゝろざしておちゆきしに、両院・新帝しんたいおなじく御ゆきあり。近江国馬場あふみのくにばんばと云う所にて、御方に心ざしあるともがらうちいでにければ、武士はたゝかふまでもなく自滅しぬ。両院・新帝は都にかへし奉り、官軍これをまぼり申き。かくて都より西ざま、程なくしづまりぬときこえければ還幸せさせ給。まことにめづらかなりし事になん。

 あづまにも上野国かみつけのくにに源義貞よしさだと云う者あり。高氏が一族也。世のにおもひをおこし、いくばくならぬ勢にて鎌倉にうちのぞみけるに、高時たかとき等運命きはまりにければ、国々のつはものつきしたがふこと、風の草をなびかすがごとくして、五月さつきの二十二日にや、高時をはじめとしての一族みな自滅してければ、鎌倉又たひらぎぬ。符契ふけいをあはすることもなかりしに、筑紫の国々・陸奥みちのおく・出羽のおくまでもじき月にぞしづまりにける。六七千里のあひだ、一時いちじにおこりあひにし、時のいたり運のきはまりぬるはかゝることにこそと不思議にも侍しもの哉。君はかくともしらせ給はず、摂津国つのくに 西にしみやと云う所にてぞきかせましましける。六月みなづき四日東寺にいらせ給ふ。都にある人々まゐりあつまりしかば、威儀をとゝのへて本の宮に還幸し給う。いつしか賞罰のさだめありしに、両院・新帝をばなだめ申し給いて、都にすませましましける。されど新帝は主の儀にて正位にはもちゐられず。改元して正慶しやうきやうと云いしをももとのごとく元弘げんこうと号せられ、官位昇進せしともがらもみな元弘元年八月はつきよりさきのまゝにてぞありし。平治へいぢより後、平氏へいじ世をみだりて二十六年、文治ぶんち、頼朝権をもはらにせしより父子あひつぎて三十七年、承久じようきう義時よしとき世をとりおこなひしより百十三年、すべて百七十余年のあひだおほやけの世をひとつにしらせ給うことたえにしに、この天皇の御代にたなごころをかへすよりもやすく一統し給いぬること、宗廟そうべうの御はからひも時節ありけりと、天下こぞりてぞ奉りける。

 じき年冬十月かんなづきに、まづあづまのおくをしづめらるべしとて、参議さんぎ右近うこんの中将源顕家あきいへの卿を陸奥守みちのおくのかみになしてつかはさる。代々和漢の稽古けいこをわざとして、朝端てうたんにつかへ政務にまじはる道をのみこそまなびはべれ。吏途りとかたにもならはず、武勇の芸にもたづさはらぬことなれば、度々いなみしかど、「公家くげすでに一統しぬ。文武の道ふたつあるべからず。昔は皇子皇孫もしは執政の大臣の子孫のみこそおほくはいくさの大将にもさゝれしか。今より武をかねて蕃屏はんぺいたるべし」とおほせ給いて、御みづから旗のめいをかゝしめ、様々の兵器をさへくだしたまはる。任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるきためしをたづねて、罷申まかりまをしの儀あり。御前おんまへにめし勅語ありて御衣おんぞ御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申しうけて、御子を一所ひとところともなひたてまつる。かけまくもかしこき今上きんじやう皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなゝびきしたがひにけり。

 同じき十二月しはす左馬頭さまのかみ 直義朝臣ただよしあそん 相模守さがみのかみを兼て下向す。これも四品しほん 上野大守かみつけのたいしゆ 成良親王なりよしのしんわうをともなひたてまつる。この親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給う 〈直義は高氏が弟なり〉 そもそも彼高氏御方にまゐりし、その功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ちようかうありて、抽賞ちうしやうせられしかば、ひとへに頼朝卿よりとものきやう天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階をつかいして四位に叙し、左兵衛督さひやうゑのかみに任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務りむ守護及びあまたの郡庄ぐんしやうる。弟直義ただよし 左馬頭さまのかみに任じ、従四位に叙す。昔頼朝よりともためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。はたして子孫もはやくたえぬるは高官のいたす所かとぞ申し伝えたる。高氏等は頼朝・実朝が時に親族などゝて優恕いうじよすることもなし。たゞ家人けにんの列なりき。実朝公八幡はちまん宮に拝賀せし日も、地下前駈ぢげぜんく二十人の中に相加くははれり。たとひ頼朝が後胤こういんなりとも今さら登用すべしともおぼえず。いはむや、ひさしき家人けにんなり。さしたる大功もなくてかくやは抽賞ちうしやうせらるべきとあやしみ申すともがらもありけりとぞ。関東の高時天命すでにまりて、君の御運ごうんをひらきしことは、更に人力じんりよくといひがたし。武士たるともがら、いへば数代すだいの朝敵也。御方にまゐりてその家をうしなはぬこそあまさへある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運りうんをもくわたてはべるべき。しかるを、天の功をぬすみておのれが功とおもへり。介子推かいしすゐがいましめもならひしるものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬともがらもあまた昇進し、昇殿をゆるさるゝもありき。されば或る人の申されしは、「公家くげの御世にかへりぬるかとおもひしに中〳〵猶武士の世に成ぬる」とぞ有し。およそ政道と云ことは所々にしるしはべれど、正直慈悲を本として決断の力あるべき也。これ天照太神のあきらかなる御教へなり。

 決断と云うにとりてあまたの道あり。ひとつにはその人をえらびて官に任ず。官にその人ある時は君は垂拱すゐきようしてまします。されば本朝にも異朝にもこれを治世のもととす。ふたつには国郡をわたくしにせず、わかつ所かならずそのことわりのまゝにす。みつには功あるをばし、罪あるをば必ず罰す。これ善をすゝめ悪をこらす道なり。これに一もたがふを乱政とはいへり。上古しやうこには勲功あればとて官位をすゝむことはなかりき。つねの官位のほかに勲位と云うしなをゝきて一等より十二等まであり。無位の人々なれど、勲功たかくて一等にあがれば、正三位のしも、従三位のかみにつらなるべしとぞみえたる。又本位ほんゐある人のこれを兼たるも有べし。官位といへるは、かみ三公よりしも諸司の一分いちぶにいたる、これを内官ないくわん、諸国のかみより史生しじやう郡司ぐんじにいたる、これを外官げくわんふ。天文てんもんにかたどり、地理にのとりて各々つかさどるかたあれば、その才なくては任用せらるべからざることなり。

 「名与器なとうつはものとは人にかさず」とも、「天のつかさに人それかはる」ともいひて、君のみだりにさづくるを謬挙びうきよとし、臣のみだりにうくるを尸祿しろくとす。謬挙と尸祿とは国家のやぶるゝはし、王業のからざるもとゐなりとぞ。中古ちゆうこと成りて、平将門たひらのまさかどを追討の賞にて、藤原秀郷ふぢはらのひでさと正四位下に叙し、武蔵むさし下野しもつけ両国のかみを兼す。平貞盛さだもり正五位下に叙し、鎮守府の将軍に任ず。安倍貞任あべのさだたふ あうしうをみだりしを、源頼義よりよし朝臣十二年までにたゝかひ、凱旋がいせんの日、正四位下に叙し、伊与守に任ず。彼らその功たかしといへども、一任四五け年の職なり。これ猶上古しやうこの法にはかはれり。

 保元の賞には、義朝左馬頭さまのかみに転じ、清盛太宰大弐だざいのだいにに任ず。このほか受領・ 検非違使けびゐしになれるもあり。この時や既にみだりがはしき始めとなりにけん。平治よりこのかた皇威ことのほかにおとろへぬ。清盛天下の権を、太政大臣にあがり、子ども大臣大将にしうへはいふにたらぬ事にや。されど朝敵になりてやがて滅亡せしかば後のためしにはひきがたし。頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱をたひらげ、二十余年の御いきどほりをやすめたてまつりし、昔神武の御時、宇麻志麻見うましまみみことの中州をしづめ、皇極の御宇ぎように大織冠の蘇我の一門をほろぼして、皇家くわうかをまたくせしより後は、たぐひなき程の勲功にや。それすら京上きやうのぼりの時、大納言大将に任ぜられしをば、かたくいなみ申けるをゝしてなされにけり。公私のわざはひにや侍けん。その子は彼があとなれば、大臣大将になりてやがて滅びぬ。更にあとゝ云う物もなし。天意にはたがひけりとみえたり。君もかゝるためしをはじめ給いしによりて、大功なきものまでも皆なかゝるべきことゝあへり。頼朝は我が身かゝればとて、兄弟一族をばかたくおさへけるにや。義経よしつね五位の検非違使にてやみぬ。範頼のりより三河守みかはのかみなりしは、頼朝拝賀の日地下ぢげの前駈にめしくはへたり。おごる心みえければにや、この両弟をもつひにうしなひにき。さならぬ親族もおほくほろぼされしは、おごりのはしをふせぎて、世をもひさしく、家をもしづめんとにやありけん。

 先祖経基つねもとはちかき皇孫なりしかど、承平じようへいみだれに征東将軍忠文ただふん朝臣が副将として彼が節度せつとをうく。それより武勇ぶようの家となる。その子満仲まんぢゆうより頼信よりのぶ頼義よりよし義家よしいへ 相続あひつい朝家てうかのかためとしてひさしく召仕めしつかはる。かみにも朝威ましまし、しもにもその分にすぎずして、家をまたくし侍りけるにこそ。為義にいたりて乱にくみしてちゆうにふし、義朝又功をたてんとてほろびにき。先祖の本意にそむきけることはうたがひなし。さればよく先蹤せんしようをわきまへ、得失をかむがへて、身を、家をまたくするこそかしこき道なれ。おろかなるたぐひは清盛・頼朝が昇進をみて、皆なあるべきことゝおもひ、為義、義朝が逆心ぎやくしんをよみして、ほろびたるゆゑをしらず。近ごろ伏見の御時、源為頼みなもとのためよりと云うをのこ内裏だいりにまゐりて自害したりしが、かねて諸社に奉る矢にも、その夜射ける矢にも、大政大臣源為頼とかきたりし、いとをかしきことに申しめれど、人の心のみだりになりゆく姿はこれにておしはかるべし。

 義時などはいかほどもあがるべくやありけん。されど正四位右京権大夫うきやうのごんのだいぶにてやみぬ。まして泰時が世になりては子孫の末をかけてよくおきておきければにや。びしまでもつひに高官にのぼらず、上下の礼節をみだらず。近く維貞これさだといひしもの吹挙すゐきよによりて修理大夫しゆりのだいぶになりしをだにいかがと申しける。まことにその身もやがてうせ侍りにき。父祖のおきてにたがふは家門かもんをうしなふしるしなり。人は昔をわするゝものなれど、天は道をうしなはざるなるべし。さらばなど天は正理しやうりのまゝにおこなはれぬと云うこと疑はしけれど、人の善悪はみづからの果報也。世のやすからざるは時の災難なり。天道も神明もいかにともせぬことなれどよこしまなるものは久しからずしてほろび、たる世もしやうにかへる、古今のことわりなり。これをよくわきまへしるを稽古けいこふ。

 昔、人をえらびもちゐられし日はまづ徳行をつくす。徳行おなじければ、才用さいようあるをもちゐる。才用ひとしければ労効らうかうあるをとる。又徳義とくぎ清慎せいしん公平くびやう恪勤かくごんの四善をとるともみえたり。格条きやくでうには「あした廝養しやうたれども公卿こうけいにいたる」と云うことの侍るも、徳行才用によりて不次ふじにもちゐらるべき心なり。寛弘くわんこうよりあなたには、まことに才かしこければ、種姓しゆしやうにかゝはらず、将相しやうしやうにいたる人もあり。寛弘以来よりこのかたは、譜第ふだいをさきとして、その中に才もあり徳もありて、職にかなひぬべき人をぞえらばれける。世の末に、みだりがはしかるべきことをいましめらるゝにやありけん、「七け国の受領ずりやうをへて、合格がふきやくして公文くもんといふことかんがへぬれば、参議に任ず」と申すならはしたるを、白河の御時、修理のかみ顕季あきすゑといひし人、院の御めのとのをつとにて、時のきら人なかりしが、この労をつのりて参議を申しけるに、院のに、「それも物かきてのうへのこと」ゝありければ、ことわりにふしてやみぬ。この人は哥道などもほまれありしかば、物かゝぬ程のことやはあるべき。又参議になるまじきほどの人にもあらじなれど、和漢の才学のたらぬにぞ有けん。白河の御代まではよく官をおもくし給いけりときこえたり。あまり譜第ふだいをのみとられても賢才のいでこぬはしなれば、上古におよびがたきことをうらむるやからもあれど、昔のまゝにてはいよいよみだれぬべければ、譜第をおもくせられけるもことわり也。才もかしこく徳もあらはにして、登用せられむに、人のそしりあるまじき程のうつはならば、今とてもかならず非重代ひぢゆうだいによるまじき事とぞおぼえ侍る。

 その道にはあらで、一旦いつたんの勲功など云うばかりに、武家代々陪臣ばいしんをあげて高官をられむことは、朝議てうぎのみだりなるのみならず、身のためもよくつゝしむべきことゝぞおぼえ侍る。もろこしにも漢高祖かんのかうそはすゞろに功臣をおほきほうじ、公相こうしやうの位をもしかば、はたしておごりぬ。ればほろぼす。よりてのちには功臣のこりなくなりにけり。後漢光武くわうぶはこの事にこりて、功臣に封爵ほうしやくをあたへけるも、そのしゆたりし鄧禹とううすらほうぜらるゝ所四県にすぎず。官を任ずるには文吏ぶんりをもとめえらびて、功臣をさしおく。これによりて二十八将の家ひさしくはりて、昔の功もむなしからず。てうには名士おほくもちゐられて、曠官くわうくわんのそしりなかりき。彼二十八将の中にも鄧禹とうう賈復かふくとはそのえらびにあづかりて官にありき。漢朝の昔だに文武の才をそなふることいとありがたく侍りけるにこそ。次に功田こうでんと云ことは、昔は功のしなにしたがひて大・上・中・下のよつの功をて田をあかち給き。そのすうみなさだまれり。大功は世々にたえず。そのしもつかたは或るは三世につたへ、孫子まごこにつたへ、身にとゞまるもあり。天下をと云うことは、国郡をにせずして、そのことゝなく不輸ふしゆの地をたてらるゝことのなかりしにこそ。

 国にかみあり、こほりりやうあり、一国のうち皆な国命のしたにてをさめしゆゑに法にそむく民なし。かくて国司の行迹かうせきをかむがへて、賞罰ありしかば、天下のことたなごころをさしておこなひやすかりき。その中に諸院・諸宮に御封みふあり。親王・大臣も又かくの如し。その外官田くわんでん職田しよくでんとてあるも、皆な官符くわんふはりて、そのところ正税しやうぜいをうくるばかりにて、国はみな国司の吏務なるべし。大功の者ぞ今の庄園などとてふるが如く、国にいろはれずして伝へける。中古となりて庄園おほくたてられ、不輸ふしゆの所いできしより乱国とはなれり。上古しやうこにはこの法よくかたかりければにや、推古天皇の御時、蘇我大臣「わが封戸ふこをわけて寺によせん」と奏せしをつひに許されず。光仁天皇はなが神社・仏寺によせられし地をも「えいの字は一代にかぎるべし」とあり。後三条院の御世こそ此つひえをきかせ給いて、記録所をゝかれて国々の庄公しやうこう文書もんじよをめして、おほく停廃ちやうはいせられしかど、白河・鳥羽の御時より新立しんりふの地いよいよ多くなりて、国司のしりどころ百分が一になりぬ。後ざまには、国司任におもむくことさへなくて、その人にもあらぬ眼代がんだいをさして国ををさめしかば、いかでか乱国とならざらん。いはん文治ぶんちのはじめ、国に守護職し、庄園郷保がうほう地頭ぢとうをおかれしよりこのかたは、さらにいにしへのすがたと云うことなし。

 政道をおこなはるゝ道、ことごとくたえはてにき。たまたま一統いちとうの世にかへりぬれば、このたびぞふるきつゐえをもあらためられぬべかりしかど、それまではあまさへのことなり。今は本所ほんじよの領と云し所々さへ、皆な勲功に混ぜられて、累家るゐけもほとほとその名ばかりになりぬるもあり。これ皆な功にほこれるともがら、君をおとし奉るによりて、皇威もいとゞかろくなるかとみえたり。かゝればその功なしといへども、ふるくよりいきを)いあるともがらをなつけられんため、或るいは本領なりとてたまはるもあり、或るいは近境きんけいなりとてのぞむもあり。闕所けつしよをもておこなはるゝにたらざれば、国郡につきたりし地、もしは諸家相伝しよけさうでんの領までもきほひ申しけりとぞ。をさまらんとしていよ〳〵みだれ、やすからんとしてます〳〵あやふくなりにける、末世まつせのいたりこそまことにかなしく侍れ。王土にはらまれて、忠をいたし命をすつるは人臣の道なり。これを身の高名かうみやうとおもふべきにあらず。しかれどものちの人をはげまし、そのあとをあはれみて賞せらるゝは、君の御政まつりことなり。下としてきほひあらそひ申べきにあらぬにや。ましてさせる功なくして過分くわぶんをいたすこと、みづからあやぶむるはしなれど、前車のてつをみることはまことに有がたき習なりけんかし。中古までも人のさのみ豪強がうきやうなるをばいましめられき。豪強になりぬればかならずおごる心あり。はたして身をほろぼし、家をうしなふためしあれば、いましめらるゝもことわりなり。鳥羽院の御代にや、諸国の武士の源平の家に属することをとゞむべしと制符せいふたび〳〵ありき。源平ひさしく武をとりてつかへしかども、事ある時は、宣旨せんじはりて諸国のつはものをめしぐしけるに、近代となりてやがて肩をいるゝやからおほくなりしによりて、この制符はくだされき。はたして、今までの乱世のもとゐなれば、ふかひなきことになりにけり。

 此比このごろのことわざには、ひとたびいくさにかけあひ、或るいは家子郎従いへのこらうじゆう せつにしぬるたぐひもあれば、「わが功におきては日本国を、もしは半国をはりてもたるべからず」など申しめる。まことにさまでおもふことはあらじなれど、やがてこれよりみだるゝはしともなり、又朝威のかろ〴〵しさもおしはからるゝものなり。「言語げんぎよは君子の枢機すうきなり」といへり。あからさまにも君をないがしろにし、人におごることあるべからぬことにこそ。さきにしるしはべりしごとく、かたき氷は霜をふむよりいたるならひなれば、乱臣賊子と云者は、そのはじめ心ことばをつゝしまざるよりいでくる也。世の中のおとろふると申は、日月ひつきひかりのかはるにもあらず、草木くさきの色のあらたまるにもあらじ。人の心のあしくなりゆく末世まつせとはいへるにや。昔許由きよいうふ人は帝げうの国をつたへんとありしをきゝて、潁川えいせんに耳をあらひき。巣父さうほはこれをきゝて此水をだにきたながりてわたらず。その人の五臓六腑ござうろくふのかはるにはあらじ、よくおもひならはせるゆゑにこそあらめ。猶行すゑの人の心おもひやるこそあさましけれ。大方おのれ一身は恩にほこるとも、万人まんにんのうらみをのこすべきことをばなどかかへりみざらん。君は万姓ばんしやうあるじにてましませば、かぎりある地をもて、かぎりなき人にわかたせ給はんことは、おしてもはかりたてまつるべし。もし一国づゝをのぞまば、六十六人にてふさがりなむ。一郡づゝといふとも、日本は五百九十四郡こそあれ、五百九十四人はよろこぶとも千万の人は不悦よろこばじいはんや日本のを心ざし、皆ながらのぞまば、帝王はいづくをしらせ給べきにか。かゝる心のきざしてことばにもいでおもてにははづる色のなきを謀反の始めと云うべき也。

 昔の将門まさかどは比叡山にのぼりて、大内だいだいを遠見して謀反むほんをおもひくはたてけるも、かゝるたぐひにや侍けん。昔は人の心正くて自ずら将門にみもこり、きゝもこり侍りけん。今は人々の心かくのみなりにたれば、この世はよくおとろへぬるにや。漢高祖かんのかうその天下をとりしは蕭何せうか張良ちやうりやう韓信かんしんちからなり。これを三けつふ。万人まんにんにすぐれたるを傑と云とぞ。中にも張良は高祖の師として、「はかりことを帷帳ゐちやうにめぐらして、かつことを千里のほかに決するはこの人なり」との給いしかど、張良はおごることなくして、りうといひてすこしきなる所をのぞみて封ぜられにけり。あらゆる功臣おほくほろびしかど、張良は身をまたくしたりき。

 ちかき代のことぞかし、頼朝の時までも、文治ぶんちの比にや、奥の泰衡やすひらを追討せしに、みづからむかふことありしに、平重忠たひらのしげただ先陣せんぢんにてその功すぐれたりければ、五十四郡のうちに、いづくをものぞむべかりけるに、長岡ながをかこほりとてきはめたる小所をのぞみたまはりけるとぞ。これは人々にひろく賞をもおこなはしめんがためにや。かしこかりけるをのこにこそ。又直実なほざねと云いける者に一所いちしよをあたへたまふ下文くだしぶみに、「日本第一のかふの者なり」と書いててけり。ひととせ彼下文かのくだしぶみ奏聞そうもんする人の有けるに、褒美はうびことばのはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことゝ口々にほめあへりける。いかに心えてほめけんといとをかし。これまでの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくするともがらのみ多くなれり。

 ありし世の東国の風儀ふうぎもかはりはてぬ。公家くげのふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍るともがらもありときこえしかど、中一なかひととせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞりて都のうちはえ〴〵しくこそ侍りけれ。建武乙亥きのとゐの秋の比、にし高時が余類よるゐ 謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義ただよし成良なりよしの親王をひきつれ奉て参河みかはの国までのがれにき。兵部卿ひやうぶきやう 護良もりよしの親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申してけり。みだれの中なれど宿意しゆくいをはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑けんぎせられけるなかに権大納言公宗卿きんむねのきやう めしおかれしも、このまぎれにちゆうせらる。承久じようきうより関東の方人かたうどにて七代になりぬるにや。高時も七代にてぬれば、運のしからしむることゝはおぼゆれど、弘仁こうにん死罪をとめられて後、信頼が時にこそめづらかなることに申しはべりけれ。せき里のよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪なりともあらはならぬ法令ほふりやうもあるに、うけはりおこなふともがらのあやまりなりとぞきこえし。

 高氏は申しうけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使そうつゐぶくしを望みけれど、征東将軍になされてことごとくはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所たつせずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月しもつき十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、即ち討手のぼりければ、京中きやうぢゆう 騒動す。追討のために、中務卿なかつかさきやう 尊良たかよし親王を上将軍じやうしやうぐんとして、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくのつはものをくだされしに、十二月しはすに官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子ひのえねの春正月むつき十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。よりて比叡山東坂本に行幸して、日吉社にぞましましける。内裏もすなはち焼ぬ。累代るゐだいの重宝もおほくうせにけり。昔よりためしなきほどの乱逆らんげきなり。かゝりしあひだに、陸奥守みちのおくのかみ鎮守府の将軍顕家卿このをきゝて、親王をさきに奉りて、陸奥・出羽の軍兵をそつしてせめのぼる。じき十三日近江国につきてことの由を奏聞す。十四日に江をわたりて坂本にまゐりしかば、官軍大に力をえて、山門の衆徒しゆうとまでも万歳ば んぜいをよばひき。同じき十六日より合戦始まりて三十日つひに朝敵を追い落す。やがてその夜還幸くわんかうし給う。高氏等猶摂津国つのくににありときこえしかば、かさねて諸将をつかはす。二月きさらぎ十三日又これをたひらげつ。朝敵は船にのりて西国さいこくへなむおちにけり。諸将および官軍はかつ〴〵かへりまゐりしを、東国の事おぼつかなしとて、親王も又かへらせ給うべし、顕家卿も任所にんじよにかへるべきよしおほせらる。義貞は筑紫へつかはさる。かくて親王元服し給う。直ぢきに三品に叙し、陸奥太守に任じまします。彼国の太守は始めたることなれど、たよりありとてぞ任じ給う。勧賞けんしやうによりて同母の御兄四品成良なりよしのみこをこえ給う。顕家卿はわざと賞をば申しうけざりけるとぞ。義貞朝臣は筑紫へくだりしが、播磨国はりまのくにに朝敵の党類たうるゐありとて、まづこれを対治すべしとて、日をおくりし程に五月さつきにもなりぬ。高氏等西国の凶徒きようとをあひかたらひてかさねてせめのぼる。官軍利なくして都に帰参きさんせしほどに、同じき二十七日に又山門に臨幸し給う。八月はつきにいたるまで度々たびたび合戦ありしかど、官軍いとすゝまず。仍よりて都には元弘偽げんこうぎ主の御弟に、三の御子豊仁ゆたひとと申しけるを位につけ奉る。十月かんなづき十日の比にや、主上しゆじやう都に出させ給い、いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は北国に行啓ぎやうけいあり。左衛門督さゑもんのかみ 実世さねよの卿以下いげの人々、左中将義貞朝臣をはじめてさるべき兵つはものもあまたつかうまつりけり。主上は尊号の儀にてましましき。御心をやすめ奉らんためにや、成良なりよしの親王を東宮にすゑたてまつる。同十二月おなじきしはすにしのびて都を出でましまして、河内国に正成といひしが一族等をめしぐして芳野よしのにいらせ給ぬ。行宮かりみやをつくりてわたらせ給う。もとのごとく存位の儀にてぞましましける。内侍所ないしどころもうつらせ給ひ、神璽しんしも御身にしたがへ給いけり。まことに奇特きどくのことにこそ侍しか。

 芳野のみゆきにさきだちて、義兵ぎへいをおこす輩もはべりき。臨幸りんかうの後には国々にも御心ざしあるたぐひあまたきこえしかど、つぎの年もくれぬ。又の年戊寅つちのえとらの春二月きさらぎ、鎮守大将軍ちんじゆたいしやうぐん 顕家あきいへの卿又親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。海道の国々こと〴〵くたひらぎぬ。伊勢・伊賀をへて大和に入り、奈良の京になんつきにける。それより所々の合戦あまたゝび互ひに勝負しようぶ侍りしに、同じき五月さつき 和泉国いづみのくににてのたゝかひに、時やいたらざりけん、忠孝の道こゝにきはまりはべりにき。苔こけの下にうづもれぬものとてはたゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな。官軍猶こゝろをはげまして、男山をとこやまに陣をとりて、しばらく合戦ありしかど、朝敵忍しのびて社壇をやきはらひしより、ことならずして引しりぞく。北国にありし義貞も度々めされしかど、のぼりあへず。させることなくてむなしくさへなりぬときこえしかば、云ふばかりなし。さてしもやむべきならずとて、陸奥の御子みこ又東あづまへむかはせ給うべき定めあり。左少将顕信あきのぶ朝臣中将に転じ、従三位叙し、陸奥の介すけ鎮守将軍を兼かねてつかはさる。東国の官軍ことごとく彼節度せつとにしたがふべき由を仰せらる。親王は儲君ちよくんにたゝせ給べきむね申しきかせ給ひ、「道の程もかたじけなかるべし。国にてはあらはさせ給へ」となん申されし。

 異母いぼの御兄もあまたましましき。同母どうぼの御兄も前さきの東宮、恒良つねよしの親王しんわう・成良親王なりよしのしんわうましまししに、かくさだまり給いぬるも天命なればかたじけなし。七月ふみづきの末つかた、伊勢にこえさせ給いて、神宮にことのよしを啓まをして御船をよそひし、九月ながつきのはじめ、ともづなをとかれしに、十日ごろのことにや、上総かづさの地ちかくより空のけしきおどろおどろしく、海上かいしやうあらくなりしかば、又伊豆いづの崎さきと云ふ方かたにたゞよはれ侍しに、いとゞ浪風おびたゞしくなりて、あまたの船ゆきかたしらずはべりけるに、御子みこの御船はさはりなく伊勢の海につかせ給う。顕信朝臣はもとより御船にさぶらひけり。同じ風のまぎれに、東あづまをさして常陸国ひたちのくになる内うちの海につきたる船はべりき。方々かたがたにたゞよひし中なかに、この二ふたつのふねおなじ風にて東西にふきわけゝる、末の世にはめづらかなるためしにぞ侍べき。儲まうけの君にさだまらせ給いて、例ためしなきひなの御すまひもいかゞとおぼえしに、皇太神すめおほみかみのとゞめ申させ給いけるなるべし。後に芳野へいらせましまして、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。又常陸国ひたちのくにはもとより心ざす方かたなれば、御志みこころざしある輩ともがらあひはからひて義兵こはくなりぬ。奥州・野州の守かみも次の年の春かさねて下向げかうして、各々国につきはべりにき。さても旧都きうとには、戊寅つちのえとらの年の冬改元して暦応りやくおうとぞ云ける。

 芳野の宮にはもとの延元えんげんの号なれば、国々もおもひおもひの号なり。もろこしには、かゝるためしおほけれど、この国には例ためしなし。されど四とせにもなりぬるにや。大日本嶋根やまとしまねはもとよりの皇都くわうと也。内侍所ないしどころ・神璽しんしも芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。さても八月はつきの十日あまり六日にや、秋霧あきぎりにをかされさせ給てかくれましましぬとぞきこえし。ぬるが中うちなる夢の世は、いまにはじめぬならひとはしりながら、数々めのまへなる心ちして老泪おいのなみだもかきあへねば、筆の跡さへとゞこほりぬ。昔、「仲尼ちゆうぢは獲麟に筆をたつ。」とあれば、こゝにてとゞまりたくはべれど、神皇正統じんわうしやうとうのよこしまなるまじき理ことわりを申のべて、素意そいの末をもあらはさまほしくて、しひてしるしつけ侍るなり。かねて時をもさとらしめ給けるにや、まへの夜より親王をば左大臣の亭ていへうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる。後の号をば、仰せのまゝにて後醍醐ごだいご天皇と申す。天下を治め給いしこと二十一年。五十二歳おましましき。昔仲哀ちゆうあい天皇熊襲くまそをせめさせ給いし行宮かりみやにて神さりましましき。されど神功皇后じんぐうくわうごうほどなく三韓をたひらげ、諸皇子の乱をしづめられて、胎中天皇たいちゆうてんわうの御代にさだまりき。この君きみ 聖運せいうんましまししかば、百七十余年中なかたえにし一統いちとうの天下をしらせ給いて、御目の前にて日嗣をさだめさせ給ぬ。功こうもなく徳もなきぬす人世におごりて、四とせ余りがほど宸襟しんきんをなやまし、御世をすぐさせ給ぬれば、御怨念ごをんねんの末むなしく侍りなんや。今の御門みかどまた天照太神よりこのかたの正統をうけましましぬれば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。中々かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。

 ○第九十六代、第五十世の天皇。諱は義良のりよし、後醍醐の天皇第七御子だいしちのみこ。御母准三宮、藤原の廉子れんし。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御ことゝぞかねてよりきこえさせ給し。元弘癸酉げんこうみづのととりの年、あづまの陸奥・出羽のかためにておもむかせ給。甲戌きのえいぬの夏、立親王、丙子ひのえねの春、都にのぼらせまし〳〵て、内裏にて御元服。加冠かくわん左のおとゞなり。すなはち三品に叙し、陸奥の太守に任ぜさせ給。おなじき戊寅つちのえとらとしの春、又のぼらせ給て、芳野宮よしののみやにましまししが、秋七月ふみづき 伊勢にこえさせ給。かさねて東征とうせいありしかど、猶伊勢にかへりまし、己卯つちのとうの年三月やよひ又芳野へいらせ給う。秋八月はつき中の五日ゆづりをうけて、天日嗣あまつひつぎをつたへおまします。
 神皇正統記 終




(私論.私見)