巻五

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.26日

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 2009.1.9日、2011.8.20日再編集 れんだいこ拝


 神皇正統記巻五
 ○第七十一代、第三十八世、 後三条ごさんでう院。諱は尊仁たかひと、後朱雀第二の子。御母中宮禎子内親王ていしないしんわう 陽明やうめい門院と申〉、三条院の皇女也。後朱雀の御素意おんそいにて太弟に給いき。又三条の御末をもうけ給へり。むかしもかゝるためし侍き。両流を内外ないぐわい欽明きんめい天皇の御母手白香たしらかの皇女、仁賢にんけん天皇の御女、仁徳にんとくの御後也〉うけ給いて継体の主となりまします。戊申つちのえさるの年即位、己酉つちのととりに改元。この天皇東宮にてくおはしましければ、しづかに和漢のふみ、顕密のまでもくらからずしらせ給う。詩哥しいかの御製もあまた人の口にはべるめり。後冷泉のすゑざま世の中あれて民間のうれへありき。四月うづきよりくらゐにゐ給いしかば、いまだ秋のをさめにもおよばぬに、世の中のなほりにける、有徳うとくの君におましましけるとぞ申伝はべる。始めて記録所きろくしよなんど云う所おかれて国のおとろへたることをなほされき。延喜・天暦よりこなたにはまことにかしこき御ことなりけんかし。天下を治給こと四年。太子にゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。此御時より執柄の権おさへられて、君の御みづからまつりことをしらせ給ことにかへり侍にし。されどそのころまでも譲国の後、院中にて政務せいむありとはみえず。四十歳おましましき。
 ○第七十二代、第三十九世、白河しらかは院。諱は貞仁さだひと、後三条第一の子。御母贈皇太后藤原茂子もちこ、贈太政大臣能信よしのぶの女、まことは中納言公成きんなりの女也。壬子みづのえねの年即位、甲寅きのえとらに改元。いにしへのあとをおこされて行幸ぎやうかうなんどもあり。又白河に法勝寺ほつしようじ九重くじゆう塔婆たふばなども昔の御願ごぐわん寺々てらでらにもこえ、ためしなきほどぞつくりとゝのへさせ給いける。このゝち代ごとにうちつゞき御願寺ごぐわんじを立られしを、造寺ざうじ 熾盛しじやうのそしり有き。造作ざうさくのために諸国の 重任ちようにんなんど云うことおほくなりて、受領ずりやう功課こうくわもたゞしからず、封戸ふこ庄園あまたよせおかれて、まことに国のつひえとこそ成侍なりはべりにしか。天下を治め給いしこと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世のまつりことをはじめて院中にてしらせ給う。後に出家せさせ給いても猶そのまゝにて御一期おんいちごはすごさせましましき。おりゐにて世をしらせ給いしこと昔はなかりしなり。孝謙 脱屣だつしのちにぞ廃帝はいたいは位にゐ給ばかりとみえたれど、古代のことなればたしかならず。嵯峨・清和・宇多の天皇もたゞゆづりてのかせ給う。円融ゑんゆうの御時はやうようしらせ給いしこともありしにや。院の御前おんまへにて摂政兼家のおとゞうけ玉はりて、源の時中ときなか朝臣を参議になされたるとて、小野宮の 実資さねすけの大臣などはかたぶけ申されけるとぞ。されば上皇ましませど、 主上しゆじやうをさなくおはします時はひとへに執柄のまつりことなりき。

 宇治の大臣の世となりては三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在じよさいにてありしに、あまりなる程になりにければにや、後三条院、坊の御時よりあしざまにおぼしめすよしきこえて、御なからひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになんありける。践祚の時 関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通のりみちの大臣、関白せられしはことの外に其権もなくおはしき。ましてこの御代には院にてまつりことをきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。執柄世をおこなはれしかど、宣旨せんじ官符くわんぷにてこそ天下の事は 施行しかうせられしに、この御時より院宣ゐんぜん庁御下文ちやうのおんくだしぶみをおもくせられしによりて在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。世の末になれるすがたなるべきにや。又城南せいなん鳥羽とばと云う所に離宮をたて、土木おほきなるありき。昔はおりきみ朱雀すざく院にまします。これを 後院ごゐんふ。又冷然院にも然字ぜんのじ のことにはゞかりありて泉の字に改む〉おはしけるに、 かの所々にはすませ給はず。白河よりのちには鳥羽殿とばどのをもちて上皇 御坐ござ本所ほんじよとはさだめられにけり。御子堀河のみかど・御孫鳥羽の御門・御ひこ 崇徳すとくの御在位まで五十余年〈在位にて十四年、院中にて四十三年〉世をしらせ給しかば、 院中ゐんちゆうなんど云こともこれよりぞさだまりける。すべて御心のまゝに久くたもたせ給し御代也。七十七歳おましましき。
 ○第七十三代、第四十世、 堀河ほりかは院。諱は善仁たるひと、白河第二の子。御母中宮賢子けんし、右大臣源顕房みなもとのあきふさの女、関白師実もろさねのおとゞの猶子いうし也。丙寅ひのえとらの年即位、丁卯ひのとうに改元。このみかど和漢の才ましましけり。ことに管絃郢曲えいきよく舞楽ぶがくかたあきらかにまします。神楽きよくなどは今の世まで地下ぢげにつたへたるもこの御説ごせつ也。天下を治め給いしこと二十一年。二十九歳おましましき。
 ○第七十四代、第四十一世、鳥羽とば院。諱は宗仁むねひと堀川ほりかは第一の子。御母贈皇太后藤原茨子じし、贈太政大臣実季さねすゑの女也。丁亥ひのとゐの年即位、戊子つちのえねに改元。天下を治め給いしこと十六年。太子にて尊号あり。白河代をしらせ給しかば、新院とて所々の御幸ごかうにもおなじ御車にてありき。雪見の御幸ごかうの日御烏帽子直衣えぼしなほしにふかぐつをめし、御馬にて本院の御車のさきにましましける、世にめづらかなる事なればこぞりてみ奉りき。昔弘仁こうにんの上皇、嵯峨の院にうつらせ給し日にや、御馬にてみやこよりいでさせまして宮城のうちをもとほらせ給へりと云ことのみえはべりし、かやうのためしにや有けん。御容儀めでたくましましければ、きらをもこのませ給いけるにや、装束のこはくなり烏帽子のひたひなんど云こともその比より出来いできにき。花園の有仁ありひとのおとど又容儀ある人にて、おほせあはせて上下おなじ風になりにけるとぞ申しめる。白河院かくれ給て後、まつりことをしらせ給。御孫ながら御子の儀なれば、重服ぢゆうぶくをきさせ給いけり。これも院中にて二十余年、そのあひだに御出家ありしかど、猶世をしらせ給き。されば院中のふるきためしには白河・鳥羽の二代を申しはべる也。五十四歳おましましき。
 ○第七十五代、 崇徳すとく院。諱は顕仁あきひと、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子しやうし 待賢たいけん門院と申〉、入道大納言公実きんさねの女也。癸卯みづのとうの年即位、甲辰きのえたつに改元。戊申つちのえさるの年、欽宗皇帝靖康せいかう三年にあたる。宋のまつりことみだれしより北てききんて上皇に欽宗をとりて北にかへりぬ。皇弟高宗江をわたりてかう州と云所に都をたてゝ行在所あんざいしよとす。南渡なんとと云はこれ也。この天皇天下を治め給いしこと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給いき。保元ほうげんに、事ありて御出家ありしが、讚岐さぬきの国にうつされ給。四十六歳おましましき。
 ○第七十六代、 近衛このゑ院。諱はなり仁、鳥羽第八の子。御母皇后藤原得子とくし 美福びふく門院と申〉、贈左大臣長実ながさねの女也。辛酉かのととりの年即位、壬戌みづのえいぬに改元。天下を治め給いしこと十四年。十七歳にて世をはやくしましましき。
 ○第七十七代、第四十二世、 後白河ごしらかは院。諱は雅仁まさひと、鳥羽第四[の]子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛しようあいの御子也しに、早世しましましぬ。崇徳の御子重仁しげひと親王つかせ給いべかりしに、もとより御中おんなか心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門みかどたゝせ給う。立太子もなくてすぐにゐさせ給う。今はこの御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥きのとゐの年即位、丙子ひのえねに改元。年号を保元とふ。鳥羽晏駕あんがありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長よりながときこえしは知足院ちそくゐん入道関白忠実たださねの次郎也。法性寺ほふしやうじ関白忠通ただみちのおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、しく執柄しつへいにてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性ほんしやうあしくおはしけるとぞ。父の愛子あいしにてよこざまにうけられければ、関白をゝきながら藤氏とうじ長者ちやうじやになり、内覧の宣旨をかうぶる。長者の他人にわたること、摂政関白はじまりてはそのためしなし。内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家とまつりことをたすけられし時、あひならびてその号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、そのためしたがふにや。兄のおとゞは本性ほんしやうおだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしにらみをふくみ、大方おほかた天下をわがまゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕のゝち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛たひらのきよもり源義朝みなもとのよしとも等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命ちよくめいありきとぞ。上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿おほひどのと云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等にみことのりして上皇の宮をせめらる。官軍かつにのりしかば、上皇は西山にしやまかたにのがれ、左大臣は流れ矢にあたりて、奈良坂辺ならざかのほとりまでおちゆかれけるが、つひに客死かくしせられぬ。上皇御出家ありしかど猶讚岐にうつされ給う。大臣だいじんの子ども国々へつかはさる。武士どもゝ多くちゆうにふしぬ。その中に源為義みなもとのためよしときこえしは義朝が父也。いかなる御志かありけん、上皇の御方にて義朝と各別かくべつになりぬ。子共こどもは父にしけるにこそ。いくさやぶれて為義も出家したりしを、義朝あづかりて誅せしこそためしなきことに侍れ。嵯峨の御代に奈良坂のたゝかひありし後は、都に兵革ひやうがくと云ことなかりしに、これよりみだれそめぬるも時運じうんのくだりぬるすがたとぞおぼえはべる。この君の御乳母めのとをつとにて少納言通憲みちのり法師と云しは、藤家の儒門じゆもんより出たり。宏才博覧くわうさいはくらんの人なりき。されど時にあはずして出家したりしに、此御世にいみじくられて、内々ないないには天下の事さながらはからひ申けり。大内だいだいは白河の御代よりしく荒廃して、里内りだいにのみましまししを、はかりことをめぐらし、国のつひえもなくつくりたてゝ、たえたる公事くじどもを申おこなひき。すべて京中の道路などもはらひきよめて昔にかへりたるすがたにぞありし。天下を治め給いしこと三年。太子にゆづりて、のごとく尊号ありて、院中にて天下をしらせ給こと三十余年。そのあひだに御出家ありしかど政務はかはらず。白河・鳥羽両代のごとし。されどうちつゞき乱世にあはせ給しこそあさましけれ。五代の帝の父祖ふそにて、六十六歳おましましき。
 ○第七十八代、 二条にでう院。諱は守仁もりひと、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子いし、贈太政大臣経実つねさねの女也。戊寅つちのえとらの年即位、己卯つちのとうに改元。年号を平治へいぢふ。右衛門督藤原信頼のぶよりと云う人あり。上皇いみじくちようせさせ給いて天下のことをさへまかせらるゝまでなりにければ、おごりの心きざして近衛[の]大将をのぞみしを通憲法師いさめ申てやみぬ。その時みなもとの義朝々臣が清盛朝臣におさへられてうらみをふくめりけるをあひかたらひて叛逆ほんぎやくくはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれど、清盛は通憲法師が縁者になりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうしなひて世をほしきまゝにせむとぞはからひける。清盛熊野にまうでけるひまをうかゞひて、上皇御坐ござの三条殿と云所をやきて大内だいだいにうつし、主上をもかたはらにおしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけん、みづからうせぬ。其子どもやがて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、おのが非をしり、未萌みばうわざはひをふせぐまでの智分ちぶんやかけたりけん。信頼が非をばいさめけれど、わが子共は顕職顕官けんしよくけんくわんにのぼり、近衛の次将なんどにさへなし、参議已上いじやうにあがるもありき。かくてうせにしかば、これも天意にたがふ所ありと云ことは疑なし。清盛このことをきゝ、道よりのぼりぬ。信頼かたらひおきける近臣等の中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだしたてまつり、清盛が家にうつしてけり。すなはち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれてかうべをきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれぬ。その首をけうせられにき。義朝重代のつはものたりしうへ、保元の勲功すてられがたくはべりしに、父のかうべをきらせたりしことおほきなるとが也。古今にもきかず、和漢にもためしなし。勲功に申し替かふともみづから退しりぞくとも、などか父をたすくる道なかるべき。名行めいかうかけはてにければ、いかでかつひに其身をまたくすべき。することは天のことわり也。かゝることは其身のとがはさることにて、朝家てうかの御あやまり也。よくあるべかりけることにこそ。其比そのころ名臣もあまた有しにや、又通憲法師申しおこなひしに、などか諌め申ざりける。大義滅親云ことのあるは、石碏せきしやくと云う人その子をころしたりしがこと也。父として不忠の子をころすはことわりなり。父不忠なりとも子としてころせと云道理なし。孟子にたとへを取ていへるに、「舜の天子たりし時、その父瞽叟こそう人をころすことあらんを時の大理なりし皐陶かうえうとらへたらば舜はいかゞし給べきといひけるを、舜は位をすてゝ父をおひてさらまし。」とあり。大賢のをしへなれば忠孝の道あらはれておもしろくはべり。保元・平治より以来このかた、天下みだれて、武用ぶようさかりに王位かろく成ぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることゝぞみえたる。かくてしばししづまれりしに、主上・上皇御中あしくて、主上の外舅ははかたのをぢ大納言経宗つねむね 〈後にめしかへされて、大臣大将までなりき〉・御めのとの子別当惟方これかた等上皇の御意にそむきければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所はいしよにつかはさる。これより清盛天下の権をほしきまゝにして、程なく太政大臣にあがり、その子大臣大将になり、あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき 〈この御門の御世のことならぬもあり。ついでにしるしのす。〉天下の諸国はすぐるまで家領けりやうとなし、官位は多く一門家僕かぼくにふさげたり。王家わうかの権さらになきがごとくになりぬ。この天皇天下を治め給いしこと七年。二十三歳おましましき。
 ○第七十九代、六条ろくでう院。諱は順仁のぶひと、二条の太子。御母大蔵少輔おほくらのせう 伊岐兼盛いきのかねもりが女也 〈そのしないやしくて、贈位までもなかりしにや。〉乙酉きのととりの年即位、丙戌ひのえいぬに改元。天下を治給こと三年。上皇世をしらせ給いしが、二条の御門の御ことにより心よからぬ御ことなりしゆゑにや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世をはやくしましましき。
 ○第八十代、第四十三世、高倉たかくら院。諱は憲仁のりひと、後白河第五の御子。御母皇后平滋子しげこ 建春けんしゆん門院と申〉、贈左大臣時信ときのぶの女也。戊子つちのえねの年即位、己丑つちのとうしに改元。上皇天下をしらせ給こともとのごとし。清盛権をもはらにせしことは、ことさらに此御代のこと也。そのむすめ 徳子とくし 入内じゆだいして女御にようごとす。立后りつこうありき。末つかたやう〳〵所々に反乱ほんらんのきこえあり。清盛一家非分のわざ天意にそむきけるにこそ。嫡子ちやくし内大臣重盛しげもりは心ばへさかしくて、父の悪行あくぎやうなどもいさめとゞめけるさへ世をはやくしぬ。いよいよおごりをきはめ、権をほしきまゝにす。時の執柄にて菩提院ぼだいゐんの関白基房もとふさの大臣おはせしも、中らひよろしからぬことありて、太宰権帥だざいのごんのそつにうつして配流はいるせらる。妙音めうおん院の師長もろながのおとゞも京中をいださる。そのほかにつみせらるゝ人おほかりき。従三位源頼政よりまさと云しもの、院の御子似仁もちひとの王とて元服ばかりし給しかど、親王のせんなどだになくて、かたはらなる宮おはせしをすゝめ申して、国々にある源氏の武士等にあひふれて平氏をうしなはんとはかりけり。ことあらはれて皇子もうしなはれ給ぬ。頼政もほろびぬ。かゝれど、それよりみだれそめてけり。義朝々臣が子頼朝よりとも 前右兵衛佐さきのうひやうゑのすけ従五位下、平治の比六位の蔵人くらうどたりしが、信頼ことをおこしける時任官すとぞ〉平治の乱に死罪をなだむる人ありて、伊豆国に配流せられて、おほくの年をおくりしが、以仁の王の密旨みつしをうけはり、院よりもて仰つかはす道ありければ、東国をすゝめて義兵をおこしぬ。清盛いよいよ悪行をのみなしければ、主上ふかくなげかせ給う。にはか避位ひゐのことありしも世をいとはせまし〳〵けるゆゑとぞ。天下を治給こと十二年。世の中の御いのりにや、平家のとりわきあがめ神なりければ、安芸あき厳嶋いつくしまになむまゐらせ給ける。この御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふかゝりき。管絃のかたもすぐれておはしましけり。尊号ありてほどなく世をはやくし給。二十一歳おましましき。
 ○第八十一代、安徳あんとく天皇。諱は言仁ときひと、高倉第一の子。御母中宮平徳子とくし 建礼けんれい門院と申〉、太政大臣清盛女きよもりのむすめ他。庚子かのえねの年即位、辛丑かのとうしに改元。法皇猶世をしらせ給。平氏はいよいよおごりをなし、諸国はすでにみだれぬ。都をさへうつすべしとて摂津国つのくに福原とて清盛すむ所のありしに行幸せさせ申ける。法皇・上皇もおなじくうつしたてまつる。人の恨おほくきこえければにやかへし奉る。いくほどなく、清盛かくれて次男宗盛むねもり其あとをつぎぬ。世のをもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にもおよばざりけるにや、威望もいつしかおとろへ、東国の軍すでにこはく成て、平氏の軍所々にて利をうしなひけるとぞ。法皇て比叡山にのぼらせ給。平氏力をおとし、主上をすゝめ西海さいかい没落す。中みとせばかりありて、平氏ことごとく滅亡。清盛が後室こうしつ従二位平時子ときこと云いし人この君をいだき奉りて、神璽しんしをふところにし、宝剣をこしにさしはさみ、海中にいりぬ。あさましかりし乱世なり。天下を治め給いしこと三年。八歳おましましき。遺詔ゆゐぜう等のさたなければ、天皇と称しなり。
 ○第八十二代、第四十四世、後鳥羽ごとば院。諱は尊成たかひら、高倉第四の子。御母七条[の]院、藤原殖子しよくし 〈先代の母儀ぼぎおほくは后宮こうぐうならぬは贈后ぞうこう也。院号ありしはみなまづ立后のゝちのさだめ也。この七条院立后なくて院号の初なり。まづ 准后じゆごうみことのりあり〉、入道修理大夫しゆりのだいぶ 信隆のぶたかの女也。先帝せんだい西海に臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通もとみちのおとゞぞ、平氏のにて供奉ぐぶせられしかど、いさめともがらありけるにや、九条の大路辺おほぢのほとりよりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還幸あるべきよし院宣ゐんぜんありけれど、平氏承引しよういん さず。よりて太上法皇のみことのりにてこの天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨せんじまでもなし。皇太子とし、受禅じゆぜんの儀あり。翌年つぎのとし 甲辰きのえたつにあたる年四月うづきに改元、七月ふみづきに即位。この同胞どうはうに高倉の第三の御子ましまししかども、法皇この君をえらび定め申給いけるとぞ。先帝せんだい三種の神器をあひぐせさせ給いしゆゑに践祚せんそ違例ゐれいはべりしかど、法皇くにの本主にて正統の位をへまします。皇太神宮・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内侍所ないしどころ神璽しんしはかへりいらせ給。宝剣はつひに海にしづみてみえず。其比ほひは 御坐ござ御剣ぎよけんを宝剣にせられたりしが、神宮の御つげにて神剣をたてまつらせ給しによりて近比までの御まぼりなりき。

 三種の神器の事は所々に申し侍はべりしかども、内侍所は神鏡也。八咫の鏡と申す。正体は皇太神宮にいはひ奉る。内侍所にましますは崇神天皇の御代に鋳かへられたりし御鏡なり。村上の御時、天徳てんとく年中に火事にあひ給。それまでは円かけましまさず。後朱雀の御時、長久ちやうきう年中にかさねて火ありしに、灰燼の中より光をさゝせ給いけるを、をさめてあがめ奉られける。されど正体はつゝがなくて万代ばんだいの宗廟にまします。宝剣も正体はあめ叢雲むらくもの剣 〈後には草薙くさなぎと云う〉と申しは、熱田の神宮にいはひ奉る。西海にしづみしは崇神の御代におなじくつくりかへられし剣也。うせぬることは末世のしるしにやとうらめしけれど、熱田の神あらたなる御こと也。昔新羅しらぎの国より道行だうぎやうと云う法師、きたりてぬすみたてまつりしかど、神変じんべんをあらはして我国をいでたまはず。彼両種は正体昔にかはりましまさず。代々の天皇のとほき御まぼりとして国土のあまねき光となり給へり。うせにし宝剣はもとより如在じよさいのことゝぞ申し侍べき。神璽しんしは八坂瓊の曲玉と申す。神代より今にかはらず、代々の御身をはなれぬ御まぼりなれば、海中よりうかび出給へるもことわり也。三種の御ことはよく心え奉るべきなり。なべて物しらぬたぐひは、上古の神鏡は天徳・長久のわざはひにあひ、草薙の宝剣は海にしづみにけりと申し伝ること侍にや。返々かへすがへすひがこと也。此国は三種の正体をもちて眼目とし、福田ふくでんとするなれば、日月の天をめぐらん程はひとつもかけ給まじき也。天照太神のみことのりに「宝祚のさかえまさんことあめつちときはまりなかるべし。」と侍れば、いかでかうたがひ奉るべき。今よりゆくさきもいとたのもしくこそおもひれ。

 平氏いまだ西海にありしほど、みなもと義仲と云う物、まづ京都にいり兵威へいゐをもて世の中のことをおさへおこなひける。征夷将軍に任ず。この官は昔坂上の田村丸までは東夷征伐のために任ぜられき。その後将門まさかどがみだれに右衛門督忠文ただふん朝臣征東将軍をかね節刀せつたうはりしよりこのかた久くたえて任ぜられず。義仲ぞ初てなりにける。あまりなることおほくて、上皇御いきどほりのゆゑにや、近臣の中にいくさをおこし対治せんとせしに事不成ならずして中々あさましき事なんいできにし。東国の頼朝、弟範頼のりより義経よしつね等をさしのぼせしかば、義仲はやがて滅ぬ。さてそれより西国へむかひて、平氏をばたひらげしなり。天命きはまりぬれば、巨猾きよくわつもほろびやすし。人民のやすからぬことは時の災難なれば、神も力およばせ給はぬにや。かくて平氏滅亡してしかば、天下もとのごとく君の御まゝなるべきかとおぼえしに、頼朝勲功まことにためしなかりければ、みづからも権をほしきまゝにす。君も又うちまかせられにければ、王家の権はいよいよおとろへにき。諸国に守護をゝきて、国司の威をおさへしかば、吏務りむと云うこと名ばかりに成ぬ。あらゆる庄園郷保しやうゑんがうほう地頭ぢとうを補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は従五位下前右兵衛佐さきのうひやうゑのすけなりしが、義仲追討の賞に越階をつかいして正四位下に叙し、平氏追討の賞に又越階、従二位に叙す。建久けんきうの初にはじめて京上きやうのぼりして、やがて一度に権大納言に任ず。又右近の大将を兼す。頼朝しきりに申しけれど、叡慮によりて朝奨てうしやうありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉のたちになんくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のまゝに成にき。平氏のみだれに南都の東大寺・興福寺やけにしを、東大寺をば俊乗しゆんじようと云上人すゝめたてければ、公家にも委任せられ、頼朝もふかく随喜ずゐきしてほどなく再興す。供養くやうの儀ふるきあとをたづねておこなはれける、ありがたきことにや。頼朝もかさねて京上しけり。かつは 結縁けちえんのため、かつは警固のためなりき。法皇かくれさせ給て、主上世をしらせ給。すべて天下を治給こと十五年ありしかば、太子にゆづりて尊号れいのごとし。院中にて又二十余年しらせ給しが、承久じようきうに、ことありて御出家、隠岐おきの国にてかくれ給いぬ。六十一歳おましましき。

 ○第八十三代、第四十五世、土御門つちみかど院。諱は為仁ためひと、後鳥羽の太子。御母承明門院じようめいもんゐん源在子みなもとのありこ、内大臣通親みちちかむすめ也。父の御門のためしにて親王の宣旨なし。立太子の儀ばかりにてすなはち践祚あり。戊午つちのえうまの年即位、己未つちのとひつじに改元。天下を治給こと十二年。太弟たいていにゆづりて尊号例の如し。この御門まさしき正嫡しやうちやくにて御心ばへもたゞしくきこえ給しに、上皇鍾愛しようあいにうつされましけるにや、ほどなく譲国あり。立太子までもあらぬさまに成にき。承久の乱に時のいたらぬことをしらせ給ければにや、様々いさめましけれども、ことやぶれにしかば、玉石ぎよくせきともにこがれて、阿波あはの国にてかくれさせ給う。三十七歳おましましき。
 ○第八十四代、順徳じゆんとく院。諱は守成もりなり、後鳥羽第三の子。御母修明門院しうめいもんゐん、藤原の重子しげこ、贈左大臣 範季のりすゑの女也。庚午かのえうまの年即位、 辛未かのとひつじに改元。この御時征夷大将軍頼朝[の]次郎実朝さねとも、右大臣左大将までなりにしが、兄左衛門督さゑもんのかみ 頼家よりいへが子に、公暁くげうと云いける法師にころされぬ。又継人つぐひとなくて頼朝が跡はながくたえにき。頼朝が 後室こうしつに従二位平政子たひらのまさことて、 時政ときまさと云ものゝ女也し、東国のことをばおこなひき。そのおとうと義時兵権をとりしが、上皇の御子をくだし申て、あふぎ奉るべきよし奏しけれど、不許にや有けん、九条摂政 道家みちいへのおとゞは頼朝の時より外戚につゞきてよしみおはしければ、其子をくだして扶持し申ける。大方のことは義時がまゝになりにき。天下を治給こと十一年。譲国ありしが、事みだれて、佐渡国にうつされ給。四十六歳おましましき。

 〔裏書[に]云実朝前右大将征夷大将軍頼朝卿二男也。建久十年正月頼朝薨。嫡男頼家可奉行諸国守護事由被宣下于時ときに左近中将、正五位下〉。建仁二年七月任征夷大将軍。同三年受病 〈狂病〉。遷伊豆国修禅寺翌年遭害。頼家受病之後、為に母幷義時等沙汰似実朝令継之。叙従五位下即日任征夷大将軍。次第昇進。不能具記。建保六年十二月二日任右大臣 〈元内大臣、左大将。大将猶帯之〉。同七年 〈四月改元承久元〉正月二十七日為拝賀参鶴岡八幡宮。実朝始中終遂不京上。有其煩故也云々。仍以参宮擬拝賀与。而神拝畢退出之処、彼宮別当公暁設刺客殺之 〈年二十八云々〉。今日扈従人々、公卿権大納言忠信、坊門左衛門督実氏、西園寺宰相中将国通、高倉平三位光盛、池刑部卿宗長、難波殿上人権亮中将信能朝臣[同被殺云々]、文章博士仲章朝臣、右馬権頭能茂朝臣、因幡少将高経、伊与少将実種、伯耆前司師孝、右兵衛佐頼経、地下前駈右京権大夫義時、修理大夫雅義、甲斐右馬助宗泰、武蔵守泰時、筑後前司頼時、駿河左馬助教利、蔵人大夫重綱、藤蔵人大夫有俊、長井遠江前司親広、相模守時房、足利武蔵前司義氏、丹波蔵人大夫忠国、前右馬助行光、伯耆前司包時、駿河前司季時、信濃蔵人大夫行国、相模前司経定、美作蔵人大夫公近、藤勾当頼隆、平勾当時盛、随身府生秦兼峯、番長下毛野篤秀、近衛秦公氏、同兼村、播磨定文、中臣近任、下毛野為光、同為氏、随兵十人武田五郎信光、加々見次郎長清、式部大夫、河越次郎、城介景盛、泉次郎左衛門尉頼定、長江八郎師景、三浦小太郎兵衛尉朝村、加藤大夫判官元定、隠岐次郎左衛門尉基行、〕

 ○廃帝。諱は懐成かねなり、順徳の太子。御母東一条院、藤原充子みつこ、故摂政太政大臣良経女よしつねのむすめ也。承久三年春の比より上皇おぼしめしたつことありければ、にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をもひとつ御心にせさせ給はん御はかりことにや、新主に譲位ありしかど、即位登壇とうだんまでもなくて軍やぶれしかば、外舅ははかたのをぢ摂政道家の大臣の九条のていへのがれさせ給う。三種さんじゆの神器をば閑院の内裏にすておかれにき。譲位の後七十七け日のあひだ、しばらく神器を伝給しかども、日嗣にはくはへたてまつらず。いゝ豊の天皇のためしになぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。

 さてもその世のに、まことに末の世にはまよふ心もありぬべく、又しもかみをしのぐはしともなりぬべし。そのいはれをよくわきまへらるべき事にはべり。頼朝勲功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下をたなごころにせしかば、君としてやすからずおぼしめしけるもことわりなり。いはんやその跡たえて後室の尼公にこう 陪臣ばいしんの義時が世になりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云うも一往いちわういひなきにあらず。しかれど白河・鳥羽の御代の比より政道のふるき姿やうようおとろへ、後白河の御時兵革ひやうがくおこりて姦臣かんしん世をみだる。天下の民ほとんど塗炭とたんにおちにき。頼朝一臂いちびをふるひてそのをたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重ここのへちりもをさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとはきこえず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがへさるべき。たとひ又うしなはれぬべくとも、民やすかるまじくは、上天よもくみし給はじ。次に王者いくさと云うは、とがあるを討じて、きずなきをばほろぼさず。頼朝高官にのぼり、守護の職をはる、これみな法皇の勅裁ちよくさい也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久く彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、しもにはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申すべき。謀叛おこしたる朝敵の利を得たるには比量ひりやうせられがたし。かゝれば時のいたらず、天のゆるさぬことはうたがひなし。しもかみこくするはきはめたる非道なり。つひにはなどか皇化に不順まつろはざるべき。まことの徳政をおこなはれ、朝威をたて、彼を剋するばかりの道ありて、その上のことゝぞおぼえはべる。且は世の治乱のすがたをよくかゞみしらせ給て、わたくしの御心なくば干戈かんくわをうごかさるゝ、弓矢をおさめらるゝ歟、天の命にまかせ、人のにしたがはせ給べかりしことにや。つひにしては、継体の道も正路しやうろにかへり、御子孫の世に一統の聖運をひらかれぬれば、御本意のすゑ達せぬにはあらざれど、一旦いつたんもしづませ給しこそ口惜くちをしくはべれ。第八十五代、後堀河ごほりかは院。諱は茂仁ゆたひと、二品守貞もりさだ親王高倉院と申〉第三の子。御母北白河院、藤原陳子ちんし、入道中納言基家もといへの女なり。入道親王は高倉第三の御子、後鳥羽同胞どうはうの御兄、後白河の御えらびにもれ給し御こと也。承久にことありて、後鳥羽の御ながれのほか、この御子ならでは皇胤くわういんましまさず。よりてこの孫王そんわうを天位につけたてまつる。入道親王尊号ありて太上皇と申て、世をしらせ給。追号の例は文武の御父草壁くさかべの太子を長岡の天皇と申し、淡路のみかどの御父舎人とねりの親王を 尽敬じんきやう天皇と申し、光仁の御父施基しきの王子を、田原天皇と申す。早良さはらの廃太子は怨霊をんりやうをやすめられんとて崇道すだう天皇の号をおくらる。院号ありしことは小一条院ぞましける。この天皇辛巳かのとみの年即位、壬午みづのえうまに改元。天下を治給こと十一年。太子に譲て尊号例のごとし。しばらくまつりことをしらせ給しが、二十一歳にて世をはやくしおましましき。

 ○第八十六代、四条しでう院。諱は秀仁みつひと、後堀河の太子。御母藻壁門院さうへきもんゐん、藤原の竴子そんし、摂政左大臣道家女みちいへのむすめ也。壬辰みづのえたつの年即位、癸巳みづのとみに改元、例のごとし。一とせばかり有て、上皇かくれ給しかば、外祖にて道家のおとゞ王室の権をとりて、昔の執政のごとくにぞありし。東国にあふぎし征夷大将軍頼経よりつねも此大臣の胤子いんしなれば、文武ひとつにて権勢おはしけるとぞ。天下を治め給いしこと十年。にはかに世をはやくし給う。十二歳おましましき。
 ○第八十七代、第四十六世、後嵯峨ごさが院。諱は邦仁くにひと、土御門院第二の御子。御母贈皇太后源通子みちこ、贈左大臣通宗みちむねの女、内大臣通親みちちか孫女まごむすめなり。承久のみだれありし時、二歳にならせ給けり。通親の大臣の四男、大納言通方みちかたは父の院にも御傍親ばうしん、贈皇后にも御ゆかりなりしかば、収養しうやうし申てかくしおきたてまつりき。十八の御年にや、大納言さへ世をはやくせしかば、いとゞ無頼ぶらいになり給いて、御祖母承明門院じようめいもんゐんになむうつろひましましける。二十二歳の御年、春正月十日四条院にはか晏駕あんが、皇胤もなし。連枝のみこもましまさず。順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都にとゞまり給し、入道摂政道家のおとゞ、彼御方の外家ぐわいけにおはせしかば、この御ながれを天位につけ奉り、もとのまゝに世をしらんとおもはれけるにや、そのおもぶきを仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子、泰時やすときはからひ申てこの君をすゑ奉りぬ。誠に天命也、正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかくきこえさせ給しかば、天照太神の冥慮みやうりよはりてはからひ申けるもことわり也。大方おほかた泰時心たゞしくまつりことすなほにして、人をはぐゝみ物におごらず、公家の御ことをおもくし、本所ほんじよのわづらひをとゞめしかば、風の前に塵なくして、天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。陪臣ばいしんとして久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。そのたりし頼朝すら二世をばすぎず。義時いかなる果報にか、はからざる家業をはじめて、兵馬の権をとれりし、ためしまれなることにや。されどことなる才徳はきこえず。又大名たいめいの下にほこる心や有けん、中二とせばかりぞありし、身まかりしかど、彼泰時あひつぎて徳政をさきとし、法式をかたくす。おのれが分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、官位をのぞむ者なかりき。そのまつりこと次第のままにおとろへ、つひに滅ぬるは天命のをはるすがたなり。七代までたもてるこそ彼が余薫よくんなれば、うらむるところなしと云つべし。保元・平治よりこのかたのみだりがはしさに、頼朝と云人もなく、泰時と云者なからましかば、日本国の人民いかゞなりなまし。此いはれをよくしらぬ人は、ゆゑもなく、皇威のおとろへ、武備のかちにけるとおもへるはあやまりなり。所々に申はべることなれど、天日嗣あまつひつぎは御にまかせ、正統にかへらせ給にとりて、用意あるべきことの侍也。神は人をやすくするを本誓ほんぜいとす。天下の万民は皆な神物じんもつなり。君は尊くましませど、一人いちにんをたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、まつりことの可否にしたがひて御運の通塞とうそくあるべしとぞおぼえ侍る。まして人臣としては、君をたふとび民をあはれみ、天にせくゝまり地にぬきあしゝ、日月ひつきのてらすをあふぎても心のきたなくして光にあたらざらんことをおぢ、雨露あめつゆのほどこすをみても身のただしからずしてめぐみにもれんことをかへりみるべし。朝夕あさゆふ長田狭田ながたさたの稲のたねをくふも皇恩也。昼夜ちうやいくさく井の水のながれをも神徳也。これをもいれず、あるにまかせて欲をほしきまゝにし、わたくしをさきとしておほやけをわするゝ心あるならば、世にきことわりもはべらじ。いはんや国柄こくへいをとるじんにあたり、兵権をあづかる人として、正路しやうろをふまざらんにおきて、いかでその運をまたくすべき。泰時が昔をには、よくまことあるところ ありけむかし。子孫はさ程の心あらじなれど、かたくしける法のまゝにおこなひければ、およばずながら世をもかさねしにこそ。異朝のことは乱逆らんげきにしてのりなきためしおほければ、ためしとするにたらず。我国は神明の誓いちじるくして、上下の分さだまれり。しかも善悪のむくいあきらかに、困果のことわりむなしからず。かつはとほからぬことゞもなれば、近代の得失をみて将来の鑒誡かんかいとせらるべきなり。そもそも此天皇正路にかへりて、日嗣をうけ給し、さきだちて様々の奇瑞きずゐありき。又土御門院阿波国にて告文かうもんをかゝせまして、石清水いはしみづの八幡宮に啓白けいびやくせさせ給ける、其御本懐すゑとほりにしかば、様々の御願ごぐわんをはたされしもあはれなる御こと也。つひに継体のしゆとして此御すゑならぬはましまさず。壬寅みづのえとらの年即位、癸卯みづのとうの春改元。御身をつゝしみ給ければにや、天下を治給こと四年。太子をさなくましまししかども譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせ、御出家の後もかはらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おましましき。
 ○第八十八代、後深草のちのふかくさ院。諱は久仁ひさひと、後嵯峨第二の子。御母大宮おほみや院、藤原の姞子きつし、太政大臣実氏さねうぢの女也。丙午ひのえうまの年四歳にて即位、丁未ひのとひつじに改元。天下を治め給いしこと十三年。后腹きさいばらの長子にてましまししかども、御病おはしましければ、同母の御弟恒仁つねひと親王を太子にたてゝ、譲国、尊号例のごとし。伏見御代にぞしばらくまつりことをしらせ給しが、御出家ありて政務をば主上に譲り申させ給う。五十八歳おましましき。
 ○第八十九代、第四十七世、亀山かめやま院。諱は恒仁つねひと、後深草院同母の御弟也。己未つちのとひつじの年即位、庚申かのえさるに改元。此天皇を継体とおぼしめしおきてけるにや、后腹きさいばらに皇子うまれ給しを後嵯峨とりやしなひまして、いつしか太子に立ち給ぬ。後深草の 〈その時新院と申き〉御子もさきまれ給いしかどもひきこされましにき 〈太子は後宇多にまします。御年二歳。後深草の御子に伏見、御年四歳になり給ける〉。後嵯峨かくれさせ給てのち、兄弟の御あはひにあらそはせ給ことありければ、関東より母儀ぼぎ大宮院にたづね申けるに、先院せんゐんの御素意は当今たうぎんにましますよしをおほせつかはされければ、ことさだまりて、禁中きんちゆうにて政務せさせ給う。天下を治め給いしこと十五年。太子にゆづりて、尊号れいのごとし。院中にても十三年まで世をしらせ給。事あらたまりにし後、御出家。五十七歳おましましき。
 ○第九十代、第四十八世、後宇多ごうだ院。諱は 世仁よひと、亀山の太子。御母皇后藤原[の]僖子きし 〈後に京極きやうごく院と申〉、左大臣 実雄さねをの女也。甲戌きのえいぬの年即位、乙亥きのとゐ改元。丙子ひのえねの年、もろこしのそうの幼帝徳祐とくいう二年にあたる。ことし、北狄ほくてきしゆ蒙古おこりて元国と云しが宋の国を ほろぼ国おこりにしより宋は東南の こう州にうつりて百五十年になれり。蒙古おこりて、まづ金国をあはせ、のちに江をわたりて宋をせめしが、ことしつひにほろぼさる〉辛巳かのとみの年 〈弘安四年なり〉蒙古のいくさおほく船をそろへて我国を筑紫にておほきに合戦あり。神明しんめい、威をあらはし かたちを現じてふせがれけり。大風にはかにおこりて数十万艘の賊船みな漂倒へうたう 破滅しぬ。末世といへども神明の威徳不可思議なり。誓約のかはらざることこれにておしはかるべし。この天皇天下を治給こと十三年。おもひの外にのがれまし〳〵て十余年ありき。後二条の御門立給しかば、世をしらせ給。遊義門院いうぎもんゐんかくれまして、御なげきのあまりにや、出家せさせ給う。さきの大僧正禅助ぜんじよを御師として、宇多・円融の例により、東寺にて潅頂せさせ給。めづらかにたふとき事にはべりき。其日は後醍醐の御門、中務なかつかさの親王とて王卿の座につかせ御座まします。只今の心地ぞしはべる。後二条かくれさせ給しのち、いとゞ世をいとはせたまふ。嵯峨の奥、大覚寺と云所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまたてぞおこなはせ給し。其後、々醍醐の御門位につきまし〳〵しかば、又しばらく世をしらせ給いて、三とせばかり有てゆづりましましき。

 大方この君は中古よりこなたにはありがたき御ことゝぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才きこえさせ給はざりしにや。寛平くわんべい御誡ぎよかいには、帝皇ていわうの御学問は群書治要ぐんしよちえうなどにてたりぬべし。雑文ざふぶんにつきて政事まつりことをさまたげ給ふなとみえたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をもしらせたまひ、政事もらかにましまししかば、二代はことふりぬ、つぎては寛弘・延久をぞ賢王とも申める。和漢の古事をしらせ給はねば、政道もあきらかならず、皇威もかろくなる、さだまれることわりなり。尚書に堯・舜・禹の徳をほむるには「いにしへ若稽したがひかんがふ。」とふ。傅説ふえついんの高宗ををしへたるには「事いにしへとせずして、世にながきことはえつがきかざる所なり。」とあり。たう仇士良きうしりやうとて、近習きんじふ宦者くわんじやにて内権ないけんをとる、たる奸人かんじん也。その党類たうるゐにをしへけるは「人主に書をみせたてまつるな。はかなきあそびたはぶれをして御心をみだるべし。書をみてこの道をたまはゝ、ともがらはうせぬべし」と云いける、今もありぬべきことにや。寛平の群書治要をさしての給ける、せばきに似たり。この書は唐太宗、時の名臣魏徴ぎちようをしてえらばせられたり。五十巻の中に、あらゆるけい・史・諸子までの名文をのせたり。全経の書・三史等をぞつねの人はまなぶる。この書にのせたる諸子なんどはみる者すくなし。ほと〳〵名をだにしらぬたぐひもあり。まして万機をしらせ給はんに、これまでまなばせ給ことよしなかるべきにや。本経等をならはせまし〳〵そまではあるべからず。すでに雑文とてあれば、経・史の御学問のうへに此書を御覧じて諸子等の雑文までなくともの御心なり。寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易しうやくの深き道をも愛成ちかなりと云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右さうにあたはず。菅氏輔佐ふさしたてまつられき。その後も紀納言きなふごん・善相公しやうこう等の名儒めいじゆありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。この御誡ぎよかいにつきて「天子の御学問さまでなくとも」と のはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡れうけんあるべきをや。此君は在位にても政事まつりことをしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせましましき。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足ぐそくし、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨あじやりをさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひる。元亨げんかうのすゑ甲子きのえね六月みなづきに五十八歳にてかくれましましき。





(私論.私見)