巻五 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.26日
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神皇正統記巻五 |
○第七十二代、第三十九世、白河院。諱は貞仁、後三条第一の子。御母贈皇太后藤原茂子、贈太政大臣能信の女、実は中納言公成の女也。壬子年即位、甲寅に改元。古のあとをおこされて野の行幸なんどもあり。又白河に法勝寺を立、九重の塔婆なども昔の御願の寺々にもこえ、ためしなきほどぞつくりとゝのへさせ給いける。このゝち代ごとにうちつゞき御願寺を立られしを、造寺
熾盛のそしり有き。造作のために諸国の
重任なんど云うことおほくなりて、受領の功課もたゞしからず、封戸・庄園あまたよせおかれて、まことに国の費とこそ成侍にしか。天下を治め給いしこと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世の政をはじめて院中にてしらせ給う。後に出家せさせ給いても猶そのまゝにて御一期はすごさせましましき。おりゐにて世をしらせ給いしこと昔はなかりしなり。孝謙
脱屣の
後にぞ廃帝は位にゐ給ばかりとみえたれど、古代のことなればたしかならず。嵯峨・清和・宇多の天皇もたゞゆづりてのかせ給う。円融の御時はやうようしらせ給いしこともありしにや。院の御前にて摂政兼家のおとゞうけ玉はりて、源の時中朝臣を参議になされたるとて、小野宮の
実資の大臣などは傾申されけるとぞ。されば上皇ましませど、
主上をさなくおはします時はひとへに執柄の政なりき。 宇治の大臣の世となりては三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在の礼にてありしに、あまりなる程になりにければにや、後三条院、坊の御時よりあしざまにおぼしめすよしきこえて、御中らひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになんありける。践祚の時 即関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通の大臣、関白せられしはことの外に其権もなくおはしき。ましてこの御代には院にて政をきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。執柄世をおこなはれしかど、宣旨・官符にてこそ天下の事は 施行せられしに、この御時より院宣・ 庁御下文をおもくせられしによりて在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。世の末になれるすがたなるべきにや。又城南の 鳥羽と云う所に離宮をたて、土木の大なる営ありき。昔はおり位の君は 朱雀院にまします。これを 後院と云ふ。又冷然院にも〈然字 火のことにはゞかりありて泉の字に改む〉おはしけるに、 彼所々にはすませ給はず。白河よりのちには鳥羽殿をもちて上皇 御坐の本所とはさだめられにけり。御子堀河のみかど・御孫鳥羽の御門・御ひこ 崇徳の御在位まで五十余年〈在位にて十四年、院中にて四十三年〉世をしらせ給しかば、 院中の礼なんど云こともこれよりぞさだまりける。すべて御心のまゝに久くたもたせ給し御代也。七十七歳おましましき。 |
○第七十三代、第四十世、 堀河院。諱は善仁、白河第二の子。御母中宮賢子、右大臣源顕房の女、関白師実のおとゞの猶子也。丙寅の年即位、丁卯に改元。このみかど和漢の才ましましけり。ことに管絃・郢曲・舞楽の方あきらかにまします。神楽の曲などは今の世まで地下につたへたるもこの御説也。天下を治め給いしこと二十一年。二十九歳おましましき。 |
○第七十四代、第四十一世、鳥羽院。諱は宗仁、堀川第一の子。御母贈皇太后藤原茨子、贈太政大臣実季の女也。丁亥の年即位、戊子に改元。天下を治め給いしこと十六年。太子に譲て尊号あり。白河代をしらせ給しかば、新院とて所々の御幸にもおなじ御車にてありき。雪見の御幸の日御烏帽子直衣にふか沓をめし、御馬にて本院の御車のさきにましましける、世にめづらかなる事なればこぞりてみ奉りき。昔弘仁の上皇、嵯峨の院にうつらせ給し日にや、御馬にてみやこよりいでさせまして宮城の内をもとほらせ給へりと云ことのみえ侍し、かやうの例にや有けん。御容儀めでたくましましければ、きらをもこのませ給いけるにや、装束のこはくなり烏帽子のひたひなんど云こともその比より出来にき。花園の有仁のおとど又容儀ある人にて、おほせあはせて上下おなじ風になりにけるとぞ申しめる。白河院かくれ給て後、政をしらせ給。御孫ながら御子の儀なれば、重服をきさせ給いけり。これも院中にて二十余年、そのあひだに御出家ありしかど、猶世をしらせ給き。されば院中のふるきためしには白河・鳥羽の二代を申し侍也。五十四歳おましましき。 |
○第七十五代、 崇徳院。諱は顕仁、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子 待賢門院と申〉、入道大納言公実の女也。癸卯の年即位、甲辰に改元。戊申年、宋欽宗皇帝靖康三年にあたる。宋の政みだれしより北狄の金国起て上皇徽宗並に欽宗をとりて北にかへりぬ。皇弟高宗江をわたりて杭州と云所に都をたてゝ行在所とす。南渡と云はこれ也。この天皇天下を治め給いしこと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給いき。保元に、事ありて御出家ありしが、讚岐国にうつされ給。四十六歳おましましき。 |
○第七十六代、 近衛院。諱は体仁、鳥羽第八の子。御母皇后藤原得子 〈美福門院と申〉、贈左大臣長実の女也。辛酉年即位、壬戌に改元。天下を治め給いしこと十四年。十七歳にて世をはやくしましましき。 |
○第七十七代、第四十二世、 後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四[の]子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子也しに、早世しましましぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給いべかりしに、もとより御中心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門たゝせ給う。立太子もなくてすぐにゐさせ給う。今はこの御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長ときこえしは知足院入道関白忠実の次郎也。法性寺関白忠通のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久執柄にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子にてよこざまに申うけられければ、関白をゝきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。長者の他人にわたること、摂政関白はじまりてはその例なし。内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家と政をたすけられし時、あひならびてその号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、その例たがふにや。兄のおとゞは本性おだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしに恨をふくみ、大方天下を我まゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕のゝち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛・源義朝等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命ありきとぞ。上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿と云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等に勅して上皇の宮をせめらる。官軍勝にのりしかば、上皇は西山の方にのがれ、左大臣は流れ矢にあたりて、奈良坂辺までおちゆかれけるが、つひに客死せられぬ。上皇御出家ありしかど猶讚岐にうつされ給う。大臣の子共国々へつかはさる。武士どもゝ多く誅にふしぬ。その中に源為義ときこえしは義朝が父也。いかなる御志かありけん、上皇の御方にて義朝と各別になりぬ。余の子共は父に属しけるにこそ。軍やぶれて為義も出家したりしを、義朝あづかりて誅せしこそためしなきことに侍れ。嵯峨の御代に奈良坂のたゝかひありし後は、都に兵革と云ことなかりしに、これよりみだれそめぬるも時運のくだりぬるすがたとぞおぼえはべる。この君の御乳母の夫にて少納言通憲法師と云しは、藤家の儒門より出たり。宏才博覧の人なりき。されど時にあはずして出家したりしに、此御世にいみじく用られて、内々には天下の事さながらはからひ申けり。大内は白河の御代より久荒廃して、里内にのみましまししを、はかりことをめぐらし、国のつひえもなくつくりたてゝ、たえたる公事どもを申おこなひき。すべて京中の道路などもはらひきよめて昔にかへりたるすがたにぞありし。天下を治め給いしこと三年。太子にゆづりて、例のごとく尊号ありて、院中にて天下をしらせ給こと三十余年。そのあひだに御出家ありしかど政務はかはらず。白河・鳥羽両代のごとし。されどうちつゞき乱世にあはせ給しこそあさましけれ。五代の帝の父祖にて、六十六歳おましましき。 |
○第七十八代、 二条院。諱は守仁、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子、贈太政大臣経実の女也。戊寅の年即位、己卯に改元。年号を平治と云ふ。右衛門督藤原信頼と云う人あり。上皇いみじく寵せさせ給いて天下のことをさへまかせらるゝまでなりにければ、おごりの心きざして近衛[の]大将をのぞみ申しを通憲法師いさめ申てやみぬ。その時源義朝々臣が清盛朝臣におさへられて恨をふくめりけるをあひかたらひて叛逆を思くはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれど、清盛は通憲法師が縁者になりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうしなひて世をほしきまゝにせむとぞはからひける。清盛熊野にまうでけるひまをうかゞひて、先上皇御坐の三条殿と云所をやきて大内にうつし申、主上をもかたはらにおしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけん、みづからうせぬ。其子どもやがて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、己が非をしり、未萌の禍をふせぐまでの智分やかけたりけん。信頼が非をばいさめ申けれど、わが子共は顕職顕官にのぼり、近衛の次将なんどにさへなし、参議已上にあがるもありき。かくてうせにしかば、これも天意にたがふ所ありと云ことは疑なし。清盛このことをきゝ、道よりのぼりぬ。信頼かたらひおきける近臣等の中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだしたてまつり、清盛が家にうつし申てけり。すなはち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれて首をきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれぬ。その首を梟せられにき。義朝重代の兵たりしうへ、保元の勲功すてられがたく侍しに、父の首をきらせたりしこと大なるとが也。古今にもきかず、和漢にも例なし。勲功に申し替ともみづから退とも、などか父を申たすくる道なかるべき。名行かけはてにければ、いかでかつひに其身をまたくすべき。滅することは天の理也。凡かゝることは其身のとがはさることにて、朝家の御あやまり也。よく案あるべかりけることにこそ。其比名臣もあまた有しにや、又通憲法師専申しおこなひしに、などか諌め申ざりける。大義滅親云ことのあるは、石碏と云う人その子をころしたりしがこと也。父として不忠の子をころすはことわりなり。父不忠なりとも子としてころせと云道理なし。孟子にたとへを取ていへるに、「舜の天子たりし時、その父瞽叟人をころすことあらんを時の大理なりし皐陶とらへたらば舜はいかゞし給べきといひけるを、舜は位をすてゝ父をおひてさらまし。」とあり。大賢のをしへなれば忠孝の道あらはれておもしろくはべり。保元・平治より以来、天下みだれて、武用さかりに王位かろく成ぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることゝぞみえたる。かくてしばししづまれりしに、主上・上皇御中あしくて、主上の外舅大納言経宗 〈後にめしかへされて、大臣大将までなりき〉・御めのとの子別当惟方等上皇の御意にそむきければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所につかはさる。これより清盛天下の権をほしきまゝにして、程なく太政大臣にあがり、その子大臣大将になり、あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき 〈この御門の御世のことならぬもあり。ついでにしるしのす。〉天下の諸国は半すぐるまで家領となし、官位は多く一門家僕にふさげたり。王家の権さらになきがごとくになりぬ。この天皇天下を治め給いしこと七年。二十三歳おましましき。 |
○第七十九代、六条院。諱は順仁、二条の太子。御母大蔵少輔 伊岐兼盛が女也 〈そのしないやしくて、贈位までもなかりしにや。〉乙酉の年即位、丙戌に改元。天下を治給こと三年。上皇世をしらせ給いしが、二条の御門の御ことにより心よからぬ御ことなりしゆゑにや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世をはやくしましましき。 |
○第八十代、第四十三世、高倉院。諱は憲仁、後白河第五の御子。御母皇后平滋子 〈建春門院と申〉、贈左大臣時信の女也。戊子の年即位、己丑に改元。上皇天下をしらせ給こともとのごとし。清盛権をもはらにせしことは、ことさらに此御代のこと也。その女 徳子 入内して女御とす。即立后ありき。末つかたやう〳〵所々に反乱のきこえあり。清盛一家非分のわざ天意にそむきけるにこそ。嫡子内大臣重盛は心ばへさかしくて、父の悪行などもいさめとゞめけるさへ世をはやくしぬ。いよいよおごりをきはめ、権をほしきまゝにす。時の執柄にて菩提院の関白基房の大臣おはせしも、中らひよろしからぬことありて、太宰権帥にうつして配流せらる。妙音院の師長のおとゞも京中をいださる。その外につみせらるゝ人おほかりき。従三位源頼政と云しもの、院の御子似仁の王とて元服ばかりし給しかど、親王の宣などだになくて、かたはらなる宮おはせしをすゝめ申して、国々にある源氏の武士等にあひふれて平氏をうしなはんとはかりけり。ことあらはれて皇子もうしなはれ給ぬ。頼政もほろびぬ。かゝれど、それよりみだれそめてけり。義朝々臣が子頼朝 前右兵衛佐従五位下、平治の比六位の蔵人たりしが、信頼事をおこしける時任官すとぞ〉平治の乱に死罪を申なだむる人ありて、伊豆国に配流せられて、おほくの年をおくりしが、以仁の王の密旨をうけ給、院よりも忍て仰つかはす道ありければ、東国をすゝめて義兵をおこしぬ。清盛いよいよ悪行をのみなしければ、主上ふかくなげかせ給う。俄に避位のことありしも世をいとはせまし〳〵けるゆゑとぞ。天下を治給こと十二年。世の中の御いのりにや、平家のとりわきあがめ申神なりければ、安芸の厳嶋になむまゐらせ給ける。この御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふかゝりき。管絃のかたもすぐれておはしましけり。尊号ありてほどなく世をはやくし給。二十一歳おましましき。 |
○第八十一代、安徳天皇。諱は言仁、高倉第一の子。御母中宮平徳子 建礼門院と申〉、太政大臣清盛女他。庚子の年即位、辛丑に改元。法皇猶世をしらせ給。平氏はいよいよおごりをなし、諸国はすでにみだれぬ。都をさへうつすべしとて摂津国福原とて清盛すむ所のありしに行幸せさせ申ける。法皇・上皇もおなじくうつしたてまつる。人の恨おほくきこえければにやかへし奉る。いくほどなく、清盛かくれて次男宗盛其あとをつぎぬ。世の乱をもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にもおよばざりけるにや、威望もいつしかおとろへ、東国の軍すでにこはく成て、平氏の軍所々にて利をうしなひけるとぞ。法皇忍て比叡山にのぼらせ給。平氏力をおとし、主上をすゝめ申て西海に没落す。中みとせばかりありて、平氏ことごとく滅亡。清盛が後室従二位平時子と云いし人この君をいだき奉りて、神璽をふところにし、宝剣をこしにさしはさみ、海中にいりぬ。あさましかりし乱世なり。天下を治め給いしこと三年。八歳おましましき。遺詔等のさたなければ、天皇と称し申なり。 |
○第八十二代、第四十四世、後鳥羽院。諱は尊成、高倉第四の子。御母七条[の]院、藤原殖子
〈先代の母儀おほくは后宮ならぬは贈后也。院号ありしはみな先立后のゝちのさだめ也。この七条院立后なくて院号の初なり。但先
准后の勅あり〉、入道修理大夫
信隆女也。先帝西海に臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通のおとゞぞ、平氏の縁にて供奉せられしかど、いさめ申輩ありけるにや、九条の大路辺よりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還幸あるべきよし院宣ありけれど、平氏承引
申さず。よりて太上法皇の詔にてこの天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨までもなし。先皇太子とし、即受禅の儀あり。翌年
甲辰にあたる年四月に改元、七月に即位。この同胞に高倉の第三の御子ましまししかども、法皇この君をえらび定め申給いけるとぞ。先帝三種の神器をあひぐせさせ給いしゆゑに践祚の初の違例に侍しかど、法皇国の本主にて正統の位を伝へまします。皇太神宮・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内侍所・神璽はかへりいらせ給。宝剣はつひに海にしづみてみえず。其比ほひは
昼の御坐の御剣を宝剣に擬せられたりしが、神宮の御告にて神剣をたてまつらせ給しによりて近比までの御まぼりなりき。
三種の神器の事は所々に申し侍しかども、先内侍所は神鏡也。八咫の鏡と申す。正体は皇太神宮にいはひ奉る。内侍所にましますは崇神天皇の御代に鋳かへられたりし御鏡なり。村上の御時、天徳年中に火事にあひ給。それまでは円規かけましまさず。後朱雀の御時、長久年中にかさねて火ありしに、灰燼の中より光をさゝせ給いけるを、をさめてあがめ奉られける。されど正体はつゝがなくて万代の宗廟にまします。宝剣も正体は天の叢雲の剣 〈後には草薙と云う〉と申しは、熱田の神宮にいはひ奉る。西海にしづみしは崇神の御代におなじくつくりかへられし剣也。うせぬることは末世のしるしにやとうらめしけれど、熱田の神あらたなる御こと也。昔新羅国より道行と云う法師、来てぬすみたてまつりしかど、神変をあらはして我国をいでたまはず。彼両種は正体昔にかはりましまさず。代々の天皇のとほき御まぼりとして国土のあまねき光となり給へり。うせにし宝剣はもとより如在のことゝぞ申し侍べき。神璽は八坂瓊の曲玉と申す。神代より今にかはらず、代々の御身をはなれぬ御まぼりなれば、海中よりうかび出給へるもことわり也。三種の御ことはよく心え奉るべきなり。なべて物しらぬたぐひは、上古の神鏡は天徳・長久の災にあひ、草薙の宝剣は海にしづみにけりと申し伝ること侍にや。返々ひがこと也。此国は三種の正体をもちて眼目とし、福田とするなれば、日月の天をめぐらん程は一もかけ給まじき也。天照太神の勅に「宝祚のさかえまさんことあめつちときはまりなかるべし。」と侍れば、いかでか疑奉るべき。今よりゆくさきもいとたのもしくこそおもひ給れ。 平氏いまだ西海にありしほど、源義仲と云う物、まづ京都に入、兵威をもて世の中のことをおさへおこなひける。征夷将軍に任ず。この官は昔坂上の田村丸までは東夷征伐のために任ぜられき。その後将門がみだれに右衛門督忠文朝臣征東将軍を兼て節刀を給しよりこのかた久くたえて任ぜられず。義仲ぞ初てなりにける。あまりなることおほくて、上皇御いきどほりのゆゑにや、近臣の中に軍をおこし対治せんとせしに事不成して中々あさましき事なんいできにし。東国の頼朝、弟範頼・義経等をさしのぼせしかば、義仲はやがて滅ぬ。さてそれより西国へむかひて、平氏をばたひらげしなり。天命きはまりぬれば、巨猾もほろびやすし。人民のやすからぬことは時の災難なれば、神も力およばせ給はぬにや。かくて平氏滅亡してしかば、天下もとのごとく君の御まゝなるべきかとおぼえしに、頼朝勲功まことにためしなかりければ、みづからも権をほしきまゝにす。君も又うちまかせられにければ、王家の権はいよいよおとろへにき。諸国に守護をゝきて、国司の威をおさへしかば、吏務と云うこと名ばかりに成ぬ。あらゆる庄園郷保に地頭を補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は従五位下前右兵衛佐なりしが、義仲追討の賞に越階して正四位下に叙し、平氏追討の賞に又越階、従二位に叙す。建久の初にはじめて京上して、やがて一度に権大納言に任ず。又右近の大将を兼す。頼朝しきりに辞申しけれど、叡慮によりて朝奨ありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉の館になんくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のまゝに成にき。平氏のみだれに南都の東大寺・興福寺やけにしを、東大寺をば俊乗と云上人すゝめたてければ、公家にも委任せられ、頼朝もふかく随喜してほどなく再興す。供養の儀ふるきあとをたづねておこなはれける、ありがたきことにや。頼朝もかさねて京上しけり。かつは 結縁のため、かつは警固のためなりき。法皇かくれさせ給て、主上世をしらせ給。すべて天下を治給こと十五年ありしかば、太子にゆづりて尊号れいのごとし。院中にて又二十余年しらせ給しが、承久に、ことありて御出家、隠岐国にてかくれ給いぬ。六十一歳おましましき。 |
○第八十三代、第四十五世、土御門院。諱は為仁、後鳥羽の太子。御母承明門院、源在子、内大臣通親の女也。父の御門の例にて親王の宣旨なし。立太子の儀ばかりにてすなはち践祚あり。戊午の年即位、己未に改元。天下を治給こと十二年。太弟にゆづりて尊号例の如し。この御門まさしき正嫡にて御心ばへもたゞしくきこえ給しに、上皇鍾愛にうつされましけるにや、ほどなく譲国あり。立太子までもあらぬさまに成にき。承久の乱に時のいたらぬことをしらせ給ければにや、様々いさめましけれども、ことやぶれにしかば、玉石ともにこがれて、阿波国にてかくれさせ給う。三十七歳おましましき。 |
○第八十四代、順徳院。諱は守成、後鳥羽第三の子。御母修明門院、藤原の重子、贈左大臣
範季の女也。庚午の年即位、
辛未に改元。この御時征夷大将軍頼朝[の]次郎実朝、右大臣左大将までなりにしが、兄左衛門督
頼家が子に、公暁と云いける法師にころされぬ。又継人なくて頼朝が跡はながくたえにき。頼朝が
後室に従二位平政子とて、
時政と云ものゝ女也し、東国のことをばおこなひき。その弟義時兵権をとりしが、上皇の御子をくだし申て、あふぎ奉るべきよし奏しけれど、不許にや有けん、九条摂政
道家のおとゞは頼朝の時より外戚につゞきてよしみおはしければ、其子をくだして扶持し申ける。大方のことは義時がまゝになりにき。天下を治給こと十一年。譲国ありしが、事みだれて、佐渡国にうつされ給。四十六歳おましましき。
〔裏書[に]云実朝前右大将征夷大将軍頼朝卿二男也。建久十年正月頼朝薨。嫡男頼家可奉行諸国守護事由被宣下〈于時左近中将、正五位下〉。建仁二年七月任征夷大将軍。同三年受病 〈狂病〉。遷伊豆国修禅寺翌年遭害。頼家受病之後、為に母幷義時等沙汰似実朝令継之。叙従五位下即日任征夷大将軍。次第昇進。不能具記。建保六年十二月二日任右大臣 〈元内大臣、左大将。大将猶帯之〉。同七年 〈四月改元承久元〉正月二十七日為拝賀参鶴岡八幡宮。実朝始中終遂不京上。有其煩故也云々。仍以参宮擬拝賀与。而神拝畢退出之処、彼宮別当公暁設刺客殺之 〈年二十八云々〉。今日扈従人々、公卿権大納言忠信、坊門左衛門督実氏、西園寺宰相中将国通、高倉平三位光盛、池刑部卿宗長、難波殿上人権亮中将信能朝臣[同被殺云々]、文章博士仲章朝臣、右馬権頭能茂朝臣、因幡少将高経、伊与少将実種、伯耆前司師孝、右兵衛佐頼経、地下前駈右京権大夫義時、修理大夫雅義、甲斐右馬助宗泰、武蔵守泰時、筑後前司頼時、駿河左馬助教利、蔵人大夫重綱、藤蔵人大夫有俊、長井遠江前司親広、相模守時房、足利武蔵前司義氏、丹波蔵人大夫忠国、前右馬助行光、伯耆前司包時、駿河前司季時、信濃蔵人大夫行国、相模前司経定、美作蔵人大夫公近、藤勾当頼隆、平勾当時盛、随身府生秦兼峯、番長下毛野篤秀、近衛秦公氏、同兼村、播磨定文、中臣近任、下毛野為光、同為氏、随兵十人武田五郎信光、加々見次郎長清、式部大夫、河越次郎、城介景盛、泉次郎左衛門尉頼定、長江八郎師景、三浦小太郎兵衛尉朝村、加藤大夫判官元定、隠岐次郎左衛門尉基行、〕 ○廃帝。諱は懐成、順徳の太子。御母東一条院、藤原充子、故摂政太政大臣良経女也。承久三年春の比より上皇おぼしめしたつことありければ、にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも一御心にせさせ給はん御はかりことにや、新主に譲位ありしかど、即位登壇までもなくて軍やぶれしかば、外舅摂政道家の大臣の九条の第へのがれさせ給う。三種神器をば閑院の内裏にすておかれにき。譲位の後七十七け日のあひだ、しばらく神器を伝給しかども、日嗣にはくはへたてまつらず。飯豊の天皇の例になぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。 さてもその世の乱を思に、まことに末の世にはまよふ心もありぬべく、又下の上をしのぐ端ともなりぬべし。そのいはれをよくわきまへらるべき事にはべり。頼朝勲功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下を掌にせしかば、君としてやすからずおぼしめしけるもことわりなり。況やその跡たえて後室の尼公 陪臣の義時が世になりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云うも一往いひなきにあらず。しかれど白河・鳥羽の御代の比より政道のふるき姿やうようおとろへ、後白河の御時兵革おこりて姦臣世をみだる。天下の民ほとんど塗炭におちにき。頼朝一臂をふるひてその乱をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もをさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとはきこえず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがへさるべき。縱又うしなはれぬべくとも、民やすかるまじくは、上天よもくみし給はじ。次に王者の軍と云うは、とがあるを討じて、きずなきをばほろぼさず。頼朝高官にのぼり、守護の職を給、これみな法皇の勅裁也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久く彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申すべき。謀叛おこしたる朝敵の利を得たるには比量せられがたし。かゝれば時のいたらず、天のゆるさぬことはうたがひなし。但下の上を剋するはきはめたる非道なり。終にはなどか皇化に不順べき。先まことの徳政をおこなはれ、朝威をたて、彼を剋するばかりの道ありて、その上のことゝぞおぼえはべる。且は世の治乱のすがたをよくかゞみしらせ給て、私の御心なくば干戈をうごかさるゝ歟、弓矢をおさめらるゝ歟、天の命にまかせ、人の望にしたがはせ給べかりしことにや。つひにしては、継体の道も正路にかへり、御子孫の世に一統の聖運をひらかれぬれば、御本意の末達せぬにはあらざれど、一旦もしづませ給しこそ口惜はべれ。第八十五代、後堀河院。諱は茂仁、二品守貞親王〈後高倉院と申〉第三の子。御母北白河院、藤原陳子、入道中納言基家の女なり。入道親王は高倉第三の御子、後鳥羽同胞の御兄、後白河の御えらびにもれ給し御こと也。承久にことありて、後鳥羽の御ながれのほか、この御子ならでは皇胤ましまさず。よりてこの孫王を天位につけたてまつる。入道親王尊号ありて太上皇と申て、世をしらせ給。追号の例は文武の御父草壁の太子を長岡の天皇と申し、淡路の帝御父舎人親王を 尽敬天皇と申し、光仁の御父施基の王子を、田原天皇と申す。早良の廃太子は怨霊をやすめられんとて崇道天皇の号をおくらる。院号ありしことは小一条院ぞましける。この天皇辛巳年即位、壬午に改元。天下を治給こと十一年。太子に譲て尊号例のごとし。しばらく政をしらせ給しが、二十一歳にて世をはやくしおましましき。 |
○第八十六代、四条院。諱は秀仁、後堀河の太子。御母藻壁門院、藤原の竴子、摂政左大臣道家女也。壬辰の年即位、癸巳に改元、例のごとし。一とせばかり有て、上皇かくれ給しかば、外祖にて道家のおとゞ王室の権をとりて、昔の執政のごとくにぞありし。東国にあふぎし征夷大将軍頼経も此大臣の胤子なれば、文武一にて権勢おはしけるとぞ。天下を治め給いしこと十年。俄に世をはやくし給う。十二歳おましましき。 |
○第八十七代、第四十六世、後嵯峨院。諱は邦仁、土御門院第二の御子。御母贈皇太后源通子、贈左大臣通宗の女、内大臣通親の孫女なり。承久のみだれありし時、二歳にならせ給けり。通親の大臣の四男、大納言通方は父の院にも御傍親、贈皇后にも御ゆかりなりしかば、収養し申てかくしおきたてまつりき。十八の御年にや、大納言さへ世をはやくせしかば、いとゞ無頼になり給いて、御祖母承明門院になむうつろひましましける。二十二歳の御年、春正月十日四条院俄に晏駕、皇胤もなし。連枝のみこもましまさず。順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都にとゞまり給し、入道摂政道家のおとゞ、彼御方の外家におはせしかば、この御流を天位につけ奉り、もとのまゝに世をしらんとおもはれけるにや、そのおもぶきを仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子、泰時はからひ申てこの君をすゑ奉りぬ。誠に天命也、正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかくきこえさせ給しかば、天照太神の冥慮に代てはからひ申けるもことわり也。大方泰時心たゞしく政すなほにして、人をはぐゝみ物におごらず、公家の御ことをおもくし、本所のわづらひをとゞめしかば、風の前に塵なくして、天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。陪臣として久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。その主たりし頼朝すら二世をばすぎず。義時いかなる果報にか、はからざる家業をはじめて、兵馬の権をとれりし、ためしまれなることにや。されどことなる才徳はきこえず。又大名の下にほこる心や有けん、中二とせばかりぞありし、身まかりしかど、彼泰時あひつぎて徳政をさきとし、法式をかたくす。己が分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、高官位をのぞむ者なかりき。その政次第のままにおとろへ、つひに滅ぬるは天命のをはるすがたなり。七代までたもてるこそ彼が余薫なれば、恨ところなしと云つべし。凡保元・平治よりこのかたのみだりがはしさに、頼朝と云人もなく、泰時と云者なからましかば、日本国の人民いかゞなりなまし。此いはれをよくしらぬ人は、ゆゑもなく、皇威のおとろへ、武備のかちにけるとおもへるはあやまりなり。所々に申はべることなれど、天日嗣は御譲にまかせ、正統にかへらせ給にとりて、用意あるべきことの侍也。神は人をやすくするを本誓とす。天下の万民は皆な神物なり。君は尊くましませど、一人をたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、政の可否にしたがひて御運の通塞あるべしとぞおぼえ侍る。まして人臣としては、君をたふとび民をあはれみ、天にせくゝまり地にぬきあしゝ、日月のてらすをあふぎても心の黒して光にあたらざらんことをおぢ、雨露のほどこすをみても身のただしからずしてめぐみにもれんことをかへりみるべし。朝夕に長田狭田の稲のたねをくふも皇恩也。昼夜に生井栄井の水のながれを飲も神徳也。これを思もいれず、あるにまかせて欲をほしきまゝにし、私をさきとして公をわするゝ心あるならば、世に久きことわりもはべらじ。いはんや国柄をとる仁にあたり、兵権をあづかる人として、正路をふまざらんにおきて、いかでその運をまたくすべき。泰時が昔を思には、よくまことある所 有けむかし。子孫はさ程の心あらじなれど、かたくしける法のまゝにおこなひければ、およばずながら世をもかさねしにこそ。異朝のことは乱逆にして紀なきためしおほければ、例とするにたらず。我国は神明の誓いちじるくして、上下の分さだまれり。しかも善悪の報あきらかに、困果のことわりむなしからず。かつはとほからぬことゞもなれば、近代の得失をみて将来の鑒誡とせらるべきなり。抑此天皇正路にかへりて、日嗣をうけ給し、さきだちて様々の奇瑞ありき。又土御門院阿波国にて告文をかゝせまして、石清水の八幡宮に啓白せさせ給ける、其御本懐すゑとほりにしかば、様々の御願をはたされしもあはれなる御こと也。つひに継体の主として此御すゑならぬはましまさず。壬寅の年即位、癸卯の春改元。御身をつゝしみ給ければにや、天下を治給こと四年。太子をさなくましまししかども譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせ給、御出家の後もかはらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おましましき。 |
○第八十八代、後深草院。諱は久仁、後嵯峨第二の子。御母大宮院、藤原の姞子、太政大臣実氏の女也。丙午の年四歳にて即位、丁未に改元。天下を治め給いしこと十三年。后腹の長子にてましまししかども、御病おはしましければ、同母の御弟恒仁親王を太子にたてゝ、譲国、尊号例のごとし。伏見御代にぞしばらく政をしらせ給しが、御出家ありて政務をば主上に譲り申させ給う。五十八歳おましましき。 |
○第八十九代、第四十七世、亀山院。諱は恒仁、後深草院同母の御弟也。己未の年即位、庚申に改元。此天皇を継体とおぼしめしおきてけるにや、后腹に皇子うまれ給しを後嵯峨とりやしなひまして、いつしか太子に立ち給ぬ。後深草の 〈その時新院と申き〉御子もさき立て生給いしかどもひきこされましにき 〈太子は後宇多にまします。御年二歳。後深草の御子に伏見、御年四歳になり給ける〉。後嵯峨かくれさせ給てのち、兄弟の御あはひにあらそはせ給ことありければ、関東より母儀大宮院にたづね申けるに、先院の御素意は当今にましますよしをおほせつかはされければ、ことさだまりて、禁中にて政務せさせ給う。天下を治め給いしこと十五年。太子にゆづりて、尊号れいのごとし。院中にても十三年まで世をしらせ給。事あらたまりにし後、御出家。五十七歳おましましき。 |
○第九十代、第四十八世、後宇多院。諱は
世仁、亀山の太子。御母皇后藤原[の]僖子
〈後に京極院と申〉、左大臣
実雄の女也。甲戌の年即位、乙亥改元。丙子の年、もろこしの宋幼帝徳祐二年にあたる。ことし、北狄の種、蒙古おこりて元国と云しが宋の国を
滅す〈
金国おこりにしより宋は東南の
杭州にうつりて百五十年になれり。蒙古おこりて、先金国をあはせ、のちに江をわたりて宋をせめしが、ことしつひにほろぼさる〉。辛巳の年
〈弘安四年なり〉蒙古の軍おほく船をそろへて我国を侵す筑紫にて大に合戦あり。神明、威をあらはし
形を現じてふせがれけり。大風にはかにおこりて数十万艘の賊船みな漂倒
破滅しぬ。末世といへども神明の威徳不可思議なり。誓約のかはらざることこれにておしはかるべし。この天皇天下を治給こと十三年。おもひの外にのがれまし〳〵て十余年ありき。後二条の御門立給しかば、世をしらせ給。遊義門院かくれまして、御歎のあまりにや、出家せさせ給う。前大僧正禅助を御師として、宇多・円融の例により、東寺にて潅頂せさせ給。めづらかにたふとき事にはべりき。其日は後醍醐の御門、中務の親王とて王卿の座につかせ御座す。只今の心地ぞしはべる。後二条かくれさせ給しのち、いとゞ世をいとはせたまふ。嵯峨の奥、大覚寺と云所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立てぞおこなはせ給し。其後、々醍醐の御門位につきまし〳〵しかば、又しばらく世をしらせ給いて、三とせばかり有てゆづりましましき。
大方この君は中古よりこなたにはありがたき御ことゝぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才きこえさせ給はざりしにや。寛平の御誡には、帝皇の御学問は群書治要などにてたりぬべし。雑文につきて政事をさまたげ給ふなとみえたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をもしらせたまひ、政事も明にましまししかば、先二代はことふりぬ、つぎては寛弘・延久をぞ賢王とも申める。和漢の古事をしらせ給はねば、政道もあきらかならず、皇威もかろくなる、さだまれる理なり。尚書に堯・舜・禹の徳をほむるには「古に若稽。」と云ふ。傅説が殷高宗ををしへたるには「事古を師とせずして、世にながきことは説がきかざる所なり。」とあり。唐に仇士良とて、近習の宦者にて内権をとる、極たる奸人也。その党類にをしへけるは「人主に書をみせたてまつるな。はかなきあそびたはぶれをして御心をみだるべし。書をみてこの道を知たまはゝ、我ともがらはうせぬべし」と云いける、今もありぬべきことにや。寛平の群書治要をさしての給ける、部せばきに似たり。但書は唐太宗、時の名臣魏徴をしてえらばせられたり。五十巻の中に、あらゆる経・史・諸子までの名文をのせたり。全経の書・三史等をぞつねの人はまなぶる。この書にのせたる諸子なんどはみる者すくなし。ほと〳〵名をだにしらぬたぐひもあり。まして万機をしらせ給はんに、これまでまなばせ給ことよしなかるべきにや。本経等をならはせまし〳〵そまではあるべからず。已に雑文とてあれば、経・史の御学問のうへに此書を御覧じて諸子等の雑文までなくともの御心なり。寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易の深き道をも愛成と云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右にあたはず。菅氏輔佐したてまつられき。その後も紀納言・善相公等の名儒ありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。この御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申 人のはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。此君は在位にても政事をしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせましましき。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足し、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひ給る。元亨のすゑ甲子の六月に五十八歳にてかくれましましき。 |
(私論.私見)