巻四 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.26日
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神皇正統記巻四 |
○第五十一代、平城天皇は桓武第一の子。御母皇太后藤原の乙牟漏、贈太政大臣良継の女也。丙戌年即位、改元。平安宮にまします。これより遷都なきによりて御在所をしるすべからず。天下を治め給いしこと四年。太弟にゆづりて太上天皇と申。平城の旧都にかへりてすませ給いけり。尚侍藤原の薬子を寵ましけるに、その弟参議右兵衛督仲成等申すゝめて逆乱の事ありき。田村丸を大将軍として追討せられしに、平城の軍やぶれて、上皇出家せさせ給う。御子 東宮高岡の親王もすてられて、おなじく出家、弘法大師の弟子になり、真如親王と申はこれなり。薬子・仲成等誅にふしぬ。上皇五十一歳までおましましき。 |
○第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇は桓武第二の子、平城同母の弟也。太弟に立給へりしが、己丑年即位、庚寅に改元。この天皇幼年より聰明にして読書を好、諸芸を習ひ給。又謙譲の大度もましましけり。桓武帝鍾愛無双の御子になんおはしける。儲君にゐ給けるも父のみかど継体のために顧命しましましけるにこそ。格式などもこの御時よりえらびはじめられにき。又深仏法をあがめ給う。先世に美濃国神野と云う所にたふとき僧ありけり。橘太后の先世にねむごろに給仕しけるを感じて相共に再誕ありとぞ。御諱を神野と申しけるも自然にかなへり。伝教 〈御名最澄〉弘法 〈御名空海〉両大師唐より伝へ給いし天台・真言の両宗も、この御時よりひろまり侍ける。この両師直也人におはせず。伝教入唐以前より比叡山をひらきて練行せられけり。今の根本中堂の地をひかれけるに、八の舌ある鎰をもとめいでゝ唐までもたれたり。天台山にのぼりて智者大師 〈天台の宗おこりて四代の祖なり。天台大師とも云〉六代の正統道邃和尚に謁して、その宗をならはれしに、彼山に智者帰寂より以来
鎰をうしなひてひらかざる一蔵ありき。心みにこの鎰にてあけらるゝにとゞこほらず。一山こぞりて渇仰しけり。仍一宗の奥義のこる所なく伝られたりとぞ。その後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼門風いよいよさかりになりて天下に流布せり。唐国みだれしより経教おほくうせぬ。道邃より四代にあたれる義寂と云う人まで、たゞ観心を伝へて宗義をあきらむることたえにけるにや。 呉越国の忠懿王 〈姓は銭、名は鏐、唐の末つかたより東南の呉越を領して偏覇の主たり〉此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、教典をもとめしむ。ことごとくうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには五代の中、後唐の末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。日本よりかへしわたしたる宗なれば、この国の天台宗はかへりて本となるなり。凡伝教彼宗の秘密を伝へられたることも唐台州 刺史 陸淳が印記の文にあり〉ことごとく一宗の論疏をうつし、国にかへれることも釈志磐が仏祖統紀にのせたり〉異朝の書にみえたり。 弘法は母 懐胎の始、夢に天竺の僧来りて宿をかり給けりとぞ。宝亀五年甲寅 六月十五日誕生。この日唐の大暦九年六月十五日にあたれり。不空三蔵 入滅す。仍かの後身と申也。かつは恵果和尚の告にも「我と汝と久契約あり。誓て密蔵を弘」とあるもそのゆゑにや。渡唐の時も或るいは五筆の芸をほどこし、様々の神異ありしかば、唐の主、順宗皇帝ことに仰信じ給き。彼 恵果 〈真言第六の祖、不空の弟子〉 和尚六人の附法あり。剣南の惟上・河北の義円 〈金剛一界を伝〉、新羅の恵日・訶陵の弁弘 胎蔵一界を伝〉、青龍の義明・日本の空海〈両部を伝〉。義明は唐朝におきて潅頂の師たるべかりしが世をはやくす。弘法は六人の中に瀉瓶たり 〈恵果の俗弟子 呉殷が纂の詞にあり〉。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の書にみえたる也。 伝教も、不空の弟子順暁にあひて真言を伝へられしかど、在唐いくばくなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけり。又いまこの流たえにけり。慈覚・智証は恵果の弟子義操・法潤ときこえしが弟子法全にあひて伝へらる。凡本朝流布の宗、今は七宗也。この中にも真言・天台の二宗は祖師の意巧 専鎮護国家のためと心ざゝれけるにや。比叡山には〈比叡と云うこと桓武・伝教心を一にして興隆せられしゆゑなづくと彼山の輩 称也。しかれど旧事本紀に比叡の神の御ことみえたり〉顕密ならびて紹隆す。殊に天子本命の道場をたてゝ御願を祈る地なり 〈これは密につくべし〉。又根本中堂を止観院と云ふ。法華の経文につき、天台の宗義により、方々鎮護の深義ありとぞ。東寺は桓武遷都の初め、皇城の鎮のためにこれをたてらる。弘仁の御時、弘法に給てながく真言の寺とす。諸宗の雑住をゆるさゞる地也。この宗を神通乗と云ふ。如来果上の法門にして諸教にこえたる極秘密とおもへり。就中我国は神代よりの縁起、この宗の所説に符合せり。このゆゑにや唐朝に流布せしはしばらくのことにて、則日本にとゞまりぬ。又相応の宗なりと云うもことわりにや。大唐の内道場に准じて宮中に真言院をたつ〈もとは勘解由使の庁なり〉。大師奏聞して毎年正月この所にて御修法あり。国土安穏の祈祷、稼穡豊饒の秘法也。又十八日の観音供、晦日の御念誦等も宗によりて深意あるべし。三流の真言いづれと云うべきならねど、真言をもて諸宗の第一とすることもむねと東寺によれり。延喜の御宇に綱所の印鎰を東寺の一阿闍梨にあづけらる。仍法務のことを知行して諸宗の一座たり。山門・寺門は天台をむねとするゆゑにや、顕密をかねたれど宗の長をも天台座主と云うめり。この天皇諸宗を並て興ぜさせ給けり。中にも伝教・弘法御帰依ふかゝりき。伝教始めて円頓の戒壇をたつべきよし奏せられしを、南京の諸宗表を上てあらそひ申ししかど、つひに戒壇の建立をゆるされ、本朝四け所の戒場となる。弘法はことさら師資の御約ありければ、おもくし給いけるとぞ。 この両宗の外、華厳・三論は東大寺にこれをひろめらる。彼華厳は唐の杜順和尚よりさかりになれりしを、日本の朗弁僧正伝へて東大寺に興隆す。この寺は 則宗によりて建立せられけるにや、大華厳寺と云う名あり。三論は東晉の同時に後秦と云う国に、羅什三蔵と云う師来て、この宗をひらきて世に伝へたり。孝徳の御世に高麗の僧恵潅来朝して伝へ始めける。しからば最前流布の教にや。その後道慈律師請来して大安寺にひろめき。今は華厳とならびて東大寺にあり。法相は興福寺にあり。唐玄弉三蔵天竺より伝へて国にひろめらる。日本の定恵和尚 大織冠の子なり。彼国にわたり玄弉の弟子たりしかど、帰朝の後世をはやくす。今の法相は玄昉僧正と云う人入唐して泗州の智周大師 〈玄弉二世の弟子〉にあひてこれを伝へて流布しけるとぞ。春日の神もことさらこの宗を擁護し給なるべし。この三宗に天台をくはへて四家の大乗と云ふ。倶舎・成実なむど云は小乗也。道慈律師おなじく伝えて流布せられけれども、依学の宗にて、別に一宗を立ことなし。我国大乗純熟の地なればにや、小乗を習人なき也。又律宗は大小に通ずる也。鑒真和尚来朝してひろめられしより東大寺および下野の薬師寺・筑紫の観音寺に戒壇をたてゝ、この戒をうけぬものは僧籍につらならぬ事になりにき。中古より以来、その名ばかりにて戒体をまぼることたえにけるを、南都の思円上人等章疏を見あきらめて戒師となる。北京には我禅上人 入宋して彼土の律法をうけ伝えてこれをひろむ。南北の律再興して彼宗に入 輩は威儀を具することふるきがごとし。禅宗は仏心宗とも云ふ。仏の教外別伝の宗なりとぞ。梁の代に天竺の達磨大師来てひろめられしに、武帝に機かなはず。江を渡て北朝にいたる。嵩山と云う所にとゞまり、面壁して年をおくられける。後に恵可これをつぐ。恵可より下、四世に弘忍禅師ときこえし、嗣法南北に相分る。北宗の流をば伝教・慈覚伝えて帰朝せられき。安然和尚 慈覚 孫弟〉 教時諍論と云う書に教理の浅深を判ずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけ伝人なくてたえにき。近代となりて南宗のながれおほくつたはる。異朝には南宗の下に五家あり。その中 臨済宗の下より又二流となる。これを五家七宗と云ふ。本朝には栄西僧正、黄龍の流をくみて伝来の後、聖一上人、石霜の下つかた虎丘のながれ無準にうく。彼宗のひろまることはこの両師よりのこと也。うちつゞき異朝の僧もあまた来朝し、この国よりもわたりて伝へしかば、諸家の禅おほく流布せり。五家七宗とはいへども、以前の顕・密・権・実等の不同には相似べからず。いづれも直指人心、見性成仏の門をばいでざる也。弘仁の御宇より真言・天台のさかりになることを聊しるし侍につきて、大方の宗々伝来のおもむきを載たり。極てあやまりおほく侍らん。 但君としてはいづれの宗をも大概しろしめして捨られざらんことぞ国家攘災の御はかりことなるべき。菩薩・大士もつかさどる宗あり。我朝の神明もとりわき擁護し給ふ教あり。一宗に志ある人余宗をそしりいやしむ、大なるあやまり也。人の機根もしな〴〵なれば教法も無尽なり。況わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、極たる罪業にや。われはこの宗に帰すれども、人は又彼宗に心ざす。共に随分の益あるべし。これ皆な今生一世の値遇にあらず。国の主ともなり、輔政の人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして得益のひろからんことを思い給べき也。且は仏教にかぎらず、儒・道の二教乃至諸々の道、いやしき芸までもおこしもちゐるを聖代と云べき也。凡男夫は稼穡をつとめておのれも食し、人にもあたへて、飢ざらしめ、女子は紡績をことゝしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。賎に似たれども人倫の大本也。天の時にしたがひ、地の利によれり。この外 商沽の利を通ずるもあり、工巧のわざを好もあり、仕官に心ざすもあり、これを四民と云ふ。仕官するにとりて文武の二の道あり。坐て以道を論ずるは文士の道也。この道に明ならば相とするにたへたり。征て功を立は武人のわざなり。このわざに誉れあらば将とするにたれり。されば文武の二はしばらくもすて給べからず。「世みだれたる時は武を右にし文を左にす。国をさまれる時は文を右にし武を左にす」といへり 〈古に右を上にす。仍しかいふ也〉。かくのごとくさま〴〵なる道をもちゐて、民のうれへをやすめ、おの〳〵あらそひなからしめん事を 本とすべし。民の賦斂をあつくしてみづからの心をほしきまゝにすることは乱世乱国のもとゐ也。我国は王種のかはることはなけれども、政みだれぬれば、暦数ひさしからず。継体もたがふためし、所々にしるし侍りぬ。いはんや、人臣として其職をまぼるべきにおきてをや。抑民をみちびくにつきて諸道・諸芸みな要枢也。古には詩・書・礼・ 楽をもて国を治る四術とす。本朝は四術の学をたてらるゝことたしかならざれど、紀伝・明経・明法の三道に詩・書・礼を摂すべきにこそ。算道を加て四道と云ふ。代々にもちゐられ、その職を置るゝことなればくはしくするにあたはず。医・陰陽の両道又これ国の至要也。金石糸竹の楽は四学の一にて、もはら政をする本也。今は芸能の如くに思へる、無念のこと也。「風を移し俗をかふるには楽よりよきはなし」といへり。一音より五声・十二律に転じて、治乱をわきまへ、興衰を知べき道とこそみえたれ。又詩賦哥詠の風もいまの人のこのむ所、詩学の本にはことなり。しかれど一心よりおこりて、よろづのことの葉となり、末の世なれど人を感ぜしむる道也。これをよくせば僻をやめ邪をふせぐをしへなるべし。かゝればいづれか心の源をあきらめ、正にかへる術なからむ。輪扁が輪をけづりて齊桓公ををしへ、弓工が弓をつくりて唐の太宗をさとらしむるたぐひもあり。 乃至 囲碁弾碁の戯までもおろかなる心ををさめ、かろ〴〵しきわざをとゞめんがためなり。たゞしその源にもとづかずとも、一芸はまなぶべきことにや。孔子も「飽 食て終日に心を用所なからんよりは博奕をだにせよ」と侍めり。まして一道をうけ、一芸にも携らん人、本をあきらめ、理をさとる志あらば、これより理世の要ともなり、出離のはかりことゝもなりなむ。一気一心にもとづけ、五大五行により相剋・相生をしり自もさとり他にもさとらしめん事、よろづの道その理 一なるべし。 この御門誠に顕密の両宗に帰給しのみならず、儒学もあきらかに、文章もたくみに、書芸もすぐれ給へりし、宮城の東面の額も御みづからかゝしめ給き。天下を治給こと十四年。皇太弟にゆづりて太上天皇と申。帝都の西、嵯峨山と云所に離宮をしめてぞまし〳〵ける。一旦国をゆづり給しのみならず、行末までもさづけましまさんの御心ざしにや、新帝の御子、恒世の親王を太子に立給いしを、親王又かたく辞退して世をそむき給けるこそありがたけれ。上皇ふかく謙譲しましけるに、親王又かくのがれ給ける、末代までの美談にや。昔仁徳兄弟相譲り給いし後にはきかざりしこと也。五十七歳おましましき。 |
○第五十三代、淳和天皇、西院の帝とも申す。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原の旅子、贈太政大臣百川の女也。癸卯年即位、甲辰に改元。天下を治め給いしこと十年。太子にゆづりて太上天皇と申す。この時両上皇ましましければ、嵯峨をば前太上天皇、この御門をば後太上天皇と申しき。嵯峨御門の御おきてにや、東宮には又此帝の御子恒貞親王立給いしが、両上皇かくれましゝ後にゆゑありてすてられ給いき。五十七歳おましましき。 |
○第五十四代、第三十世、仁明天皇。諱は正良〈これよりさき御諱たしかならず。おほくは乳母の姓などを諱にもちゐられき。これより二字たゞしくましませばのせたてまつる〉、深草の帝とも申す。嵯峨第二の子。御母皇太后橘の嘉智子、贈太政大臣清友女也。癸丑年即位、甲寅に改元。この天皇は西院の御門の猶子の儀ましましければ、朝覲も両皇にせさせ給う。或る時は両皇同所にして覲礼もありけりとぞ。我国のさかりなりしことはこの比ほひにやありけん。遣唐使もつねにあり。帰朝の後、建礼門の前に、彼国のたから物の市をたてゝ、群臣にたまはすることも有き。律令は文武の御代よりさだめられしかど、この御代にぞえらびとゝのへられにける。天下を治め給いしこと十七年。四十一歳おましましき。 |
○第五十五代、文徳天皇。諱は道康、田村の帝とも申。仁明第一の子。御母太皇太后藤原の順子〈五条の后と申す〉、左大臣冬嗣の女也。庚午年即位、辛未に改元。天下を治め給いしこと八年。三十三歳おましましき。 |
○第五十六代、清和天皇。諱は惟仁、
水尾の帝とも申す。文徳第四の子。御母皇太后藤原の明子
染殿の后と申す〉、摂政太政大臣良房の女也。我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。この天皇九歳にて即位、戊寅年也。己卯に改元。践祚ありしかば、
外祖良房の大臣はじめて摂政せらる。摂政と云うこと、もろこしには唐堯の時、虞舜を登用て政をまかせ給いき。これを摂政と云ふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。殷の代に伊尹と云う聖臣あり。湯
及大甲を輔佐す。これは保衡と云う〈
阿衡とも云ふ〉。その心は摂政也。周の世に周公旦又大聖なりき。文王の子、武王の弟、成王の
叔父なり。武王の代には三公につらなり、成王わかくて位につき給いしかば、周公みづから南面して摂政す
〈成王を
負て南面せられけりともみえたり〉。
漢昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔により博陸
侯霍光と云う人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤にも申める。本朝には応神うまれ給いて襁褓にましまししかば、神功皇后天位にゐ給う。しかれど摂政と申し伝たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸皇太子摂政し給う。これぞ帝は位に備て天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。齊明天皇の御世に、御子
中の大兄の皇太子摂政し給う。
元明の御世のすゑつかた、皇女浄足姫の尊〈元正天皇の御ことなり〉しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。但藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議
中衛大将房前、その子大納言真楯、その子右大臣内麿、この三代は上二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子冬嗣の大臣〈閑院の左大臣と云ふ。後に贈太政大臣〉藤氏の
衰ぬることをなげきて、弘法大師に申あはせて興福寺に南円堂をたてゝ
祈り申されけり。この時明神役夫にまじはりて、
補陀落の南の岸に堂たてゝ今ぞさかえん北の藤浪 と詠給いけるとぞ。この時源氏の人あまたうせにけりと申し人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫の源の姓を給て高官高位にいたることはこの後のことなれば、誰人かうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことに祈請にこたへたりとはみえたり。大方この大臣とほき慮おはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西の曹司あり。菅・江の二家これをつかさどりて、人を教る所也。彼大学の南にこの院を立られしかば、南曹とぞ申める。氏長者たる人むねとこの院を管領して興福寺及氏の社のことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退の心ふかく閑適をこのみて、つねに朝参などもせられざりけり。その比大納言伴善男と云う人寵ありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公闕なかりき 〈太政大臣良房、左大臣信、右大臣良相〉。信の左大臣をうしなひて、その闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を焼しむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏す。天皇おどろき給いて、糺明におよばず、右大臣に召仰て、すでに誅せらるべきになりぬ。太政大臣このことをきゝ驚遽られけるあまりに、烏帽子
直衣をきながら、白昼に騎馬して、馳参じて申しなだめられにけり。その後に善男が陰謀あらはれて流刑に処せらる。この大臣の忠節まことに無止ことになん。 |
○第五十七代、陽成天皇。諱は貞明、清和第一の子。御母皇太后藤原[の]高子 〈二条の后と申す〉、贈太政大臣長良の女也。丁酉年即位、改元。右大臣基経摂政して太政大臣に任ず 〈この大臣は良房の養子なり。実は中納言長良の男。この天皇の外舅也〉。忠仁公の故事のごとし。この天皇性悪にして人主の器にたらずみえ給ければ、摂政なげきて廃立のことをさだめられにけり。昔漢の霍光、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはやくし給しかば、昌邑王を立て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。即廃立をおこなひて宣帝を立奉りき。霍光が大功とこそしるし伝へはべるめれ。この大臣まさしき外戚の臣にて政をもはらにせられしに、天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほくきこえしかど、摂政関白はこの大臣のすゑのみぞたえせぬことになりにける。次々大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣の苗裔なり。積善の余慶なりとこそおぼえはべれ。天皇天下を治給こと八年にてしりぞけられ、八十一歳までおましましき。 |
○第五十八代、第三十一世、光孝天皇。諱は
時康、小松御門とも
申。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子、贈太政大臣総継の女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政昭宣公諸々の皇子を相申されけり。この天皇一品式部卿兼常陸太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にましましけるに、俄にまうでゝ見給いければ、人主の器量余の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち儀衛をとゝのへてむかへ申されけり。本位の服を着しながら鸞輿に
駕して大内にいらせ給いにき。ことし甲辰年なり。乙巳に改元。践祚のはじめ摂政を改て関白とす。これ我が朝関白の始めなり。漢の霍光摂政たりしが、宣帝の時
政をかへして
退けるを、「万機の政猶霍光に関白しめよ」とありし、その名を取りてさづけられにけり。この天皇昭宣公のさだめによりて立給いしかば御志もふかゝりしにや、その子を殿上にめして元服せしめ、御みづから位記をあそばして正五位下になし給いけりとぞ。久絶にける芹川の御幸などありて、古きあとをおこさるゝことゝもきこえき。天下を治め給いしこと三年。五十七歳おましましき。
大かた天皇の世つぎをしるせるふみ、昔より今に至まで家々にあまたあり。かくしるし侍もさらにめづらしからぬことなれど、神代より継体正統のたがはせ給はぬ一はしを申さんがためなり。我国は神国なれば、天照太神の御計にまかせられたるにや。されどその中に御あやまりあれば、暦数も久からず。又つひには正路にかへれど、一旦もしづませ給うためしもあり。これは皆な自らなさせ給御とがなり。冥助のむなしきにはあらず。仏も衆生をみちびきつくし、神も万姓をすなほならしめんとこそし給へど、衆生の果報品々に、うくる所の性同じからず。十善の戒力にて天子とはなり給へども、代々の御行迹、善悪又まちまち也。かゝれば本を本として正にかへり、元をはじめとして邪をすてられんことぞ祖神の御意にはかなはせ給うべき。神武より景行まで十二代は御子孫そのまゝつがせ給へり。うたがはしからず。日本武の尊世をはやくしましゝによりて、御弟成務へだゝり給いしかど、日本武の御子にて仲哀伝へましましぬ。仲哀・応神の御後に仁徳伝へ給へりし、武烈悪王にて日嗣たえましゝ時、応神五世の御孫にて、継体天皇えらばれ立給う。これなむめづらしきためしに侍る。されど二をならべてあらそふ時にこそ傍正の疑もあれ、群臣皇胤なきことをうれへて求め出奉りしうへに、その御身賢にして天の命をうけ、人の望にかなひましましければ、とかくの疑あるべからず。その後相続て天智・天武御兄弟立ち給しに、大友の皇子の乱によりて、天武の御ながれ久伝へられしに、称徳女帝にて御嗣もなし。又政もみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御譲なくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれて立給う。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてましましき。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にて施基のみこ御とがなし。その御子なれば、この天皇の立ち給へること、正理にかへるとぞ申し侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにて立給いといへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれましましければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらより出給うこと是まで三代なり。人のなせることゝは心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべき者哉。光孝より上つかたは一向上古也。よろづの例を勘も仁和より下つかたをぞ申しめる。古すら猶かゝる理にて天位を嗣ぎ給。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことゝ心えたてまつるべき也。この御代より藤氏の摂籙の家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔のみぞたゞしくつたへられにける。上は光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、下は昭宣公の子孫、天児屋の命の嫡流となり給へり。二神の御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。 |
○第五十九代、第三十二世、宇多天皇。諱は定省、光孝第三の子。御母皇太后班子の女王、仲野親王 〈桓武[の]御子〉の女也。元慶の比、孫王にて源氏の姓を給らせまします。そのかみ、つねに鷹狩をこのませ給いけるに、ある時賀茂大明神あらはれて皇位につかせ給うべきよしをしめし申されけり。践祚の後、彼社の臨時の祭をはじめられしは、大神の申しうけ給いけるゆゑとぞ。仁和三年丁未の秋、光孝御病ありしに、御兄の御子たちをゝきて譲をうけ給う。先親王とし、皇太子にたち、即受禅。同年の冬即位。中一とせありて己酉に改元。践祚の初めより太政大臣基経又関白せらる。この関白薨て後はしばらくその人なし。天下を治め給いしこと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申す。中一とせばかりありて出家せさせ給う。御年三十三にや。若くよりその御志ありきとぞ仰給いける。弘法大師四代の弟子益信僧正を御師にて東寺にして潅頂せさせ給う。又智証大師の弟子増命僧正にも 〈于時法橋也。後謚云靜観〉比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給いければ、その御法流とて今にたえず、仁和寺に伝へ侍はこれなり。 凡そ弘法の流に広沢 〈仁和寺〉・小野 〈醍醐寺・勧修寺〉の二あり。広沢は法皇の御弟子寛空僧正、寛空の弟子寛朝僧正 〈敦実親王[の]子、法皇[の]御孫也〉。寛朝広沢にすまれしかば、かの流と云ふ。そのゝち代々の御室相伝へてたゞ人はあひまじはらず 〈法流をあづけられて師範となることは両度あり。されど御室は代々親王なり〉。小野の流は益信の相弟子に聖宝僧正とて知法無双の人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど年戒おとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は色衆につらなりて歎徳と云うことをつとめられたりき。延喜の護持僧にて、ことに崇重給いき。その弟子観賢僧正もあひついで護持申。おなじく崇重ありき。綱中の法務を東寺の一阿闍梨につけられしもこの時より始まる〈正の法務はいつも東寺の一の長者なり。諸寺になるはみな権法務なり。又仁和寺の御室、惣の法務にて、綱所を召し仕るゝことは後白河以来の事歟〉。この僧正は高野にまうでゝ、大師入定の窟を開て御髪を剃、法服をきせかへ申し人なり。その弟子淳祐 〈石山の内供と云う〉相伴はれけれどもつゐに見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障の至をなげきて卑下の心ありければ、弟子元杲僧都に〈延命院と云う〉 許可ばかりにて授職をゆるさず。勅定によりて法皇の御弟子寛空にあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子仁海僧正又知法の人なりき。小野と云う所にすまれけるより小野流と云ふ。しかれば法皇は両流の法主にまします也。王位をさりて釈門に入ことはその例おほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば無為の御政なりけんとおしはかられ侍る。菅氏の才名によりて、大納言大将まで登用し給しもこの御時也。又譲国の時様々をしへ申されし、寛平の御誡とて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜より始まる」とみえたり。唐堯のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもてこの御ことおしはかり奉るべし。御寿も長て朱雀の御代にぞかくれさせ給いける。七十六歳おましましき。 |
○第六十代、第三十三世、醍醐天皇。諱は 敦仁、宇多第一の子。御母贈皇太后藤原の胤子、内大臣 高藤の女也。丁巳年即位、 戊午に改元。大納言左大将藤原時平、大納言右大将菅氏、両人上皇の勅をうけて輔佐し申されき。後に左右の大臣に任てともに万機を内覧せられけりとぞ。御門御年十四にて位につき給う。をさなくましまししかど、聰明叡哲にきこえ給いき。両大臣天下の政をせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下のゝぞむ所なり。左相は譜第の器也ければ、すてられがたし。或る時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云いさだめありて、すでに召し仰玉ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。その事世にもれにけるにや、左相いきどほりをふくみ、様々の讒をまうけて、つひにかたぶけ奉りしことこそあさましけれ。この君の御一失と申し伝はべり。但菅氏権化の御事なれば、末世のためにやありけん、はかりがたし。善相公清行朝臣はこの事いまだきざゝざりしに、かねてさとりて菅氏に災をのがれ給うべきよしを申しけれど、さたなくてこの事出来にき。さきにも申しはべりし、我国には幼主の立給いこと昔はなかりしこと也。貞観・ 元慶の二代始めて幼にて立玉ひしかば、 忠仁公・ 昭宣公摂政にて天下を 治る。この君ぞ十四にてうけつぎ給いて、摂政もなく御みづから政をしらせましましける。猶御幼年のゆゑにや、左相の讒にもまよはせ給いけん。聖も賢も一失はあるべきにこそ。その趣経書にみえたり。されば曾子は、「 吾日三省吾躬」と 云、季文子は「三思」とも云ふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよいよつゝしみましますべきこと也。昔応神天皇も 讒をきかせ玉ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼はよくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮およびがたし。ほどなく神とあらはれて、今にいたるまで霊験無双なり。末世の益をほどこさんためにや。讒を入し大臣はのちなくなりぬ。同心ありけるたぐひもみな神罰をかうぶりにき。この君久く世をたもたせ給いて、徳政をこのみ行はせ玉ふこと上代にこえたり。天下泰平民間安穏にて、本朝仁徳のふるき跡にもなぞらへ、異域堯舜のかしこき道にもたぐへ申しき。延喜七年丁卯年、もろこしの唐滅て梁と云う国にうつりにけり。うちつゞき後唐・晉・漢・周となん云う五代ありき。この天皇天下を治め給いしこと三十三年。四十四歳おましましき。 |
○第六十一代、朱雀天皇。諱は寛明、醍醐十一の子。御母皇太后藤原穏子、関白太政大臣基経の女也。御兄保明の太子〈 謚を文彦と申し〉早世、その御子慶頼の太子もうちつゞきかくれましゝかば、保明 一腹の御弟にて立給う。庚寅年即位、辛卯に改元。外舅左大臣忠平 〈昭宣公の三男、後 貞信公と云う〉摂政せらる。寛平に昭宣公薨てのちには、延喜御一代まで摂関なかりき。この君又幼主にて立ち給によりて、故事にまかせて万機を摂行せられけるにこそ。この御時、 平の将門と云う物あり。上総介 高望が孫也〈高望は 葛原の親王[の] 孫、 平姓を給る。桓武四代の御苗裔なりとぞ〉。執政の家につかうまつりけるが、使の宣旨を 望申しけり。不許なるによりいきどほりをなし、東国に下向して 叛逆をおこしけり。まづ伯父 常陸の大掾 国香をせめしかば、国香自殺しぬ。これより 坂東をゝしなびかし、下総国 相馬郡に居所をしめ、 都となづけ、みづから 平親王と称し、官爵をなしあたへけり。これによりて天下騒動す。 参議 民部卿 兼 右衛門督藤原忠文朝臣を征東大将軍とし、源経基 〈清和の御すゑ六孫王と云ふ。頼義・ 義家 の先祖也〉・藤原仲舒 〈忠文の弟也〉を副将軍としてさしつかはさる。平貞盛 〈国香が子〉・藤原秀郷等心を一にして、将門をほろぼしてその首を奉りしかば、諸将は道よりかへりまゐりにき 〈将門、 承平五年二月に事をおこし、天慶三年二月に滅ぬ。その間六年へたり〉。藤原純友と云う物、かの将門に同意して西国にて 叛乱せしかば、少将小野好古を遣て追討せらる〈天慶四年に純友はころさるとぞ〉。かくて天下しづまりにき。延喜の御代さしも 安寧なりしに、いつしかこの乱 出来る。天皇もおだやかにましましけり。又貞信公の執政なりしかば、 政たがふことははべらじ。時の災難にこそとおぼえ侍る。天皇御子ましまさず。一腹の御弟太宰帥の親王を太弟にたてゝ、天位をゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給う。天下を治め給いしこと十六年。三十歳おましましき。 |
○第六十二代、第三十四世、村上天皇。諱は成明、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。丙午年即位、丁未に改元。兄弟相譲せ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれ先皇のあとを継申させ給ければ、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸を好給うこともかはりまさゞりけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康
〈文王は正位につかず〉、漢には文・景なんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立ち給いしに、うちつゞき明主の伝り給いし、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかた天徳年中にや、はじめて内裏に炎上ありて内侍所も焼にしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「円規損ずることなくして分明にあらはれ出給う。見奉る人、驚感せずと云ことなし」とぞ御記にみえ侍る。この時に神鏡 南殿の桜にかゝらせ給いけるを、小野宮の実頼のおとゞ袖にうけられたりと申しことあれど、ひが事をなん云伝侍也。 応和元年辛酉年もろこしの後周滅て宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひだ彼国大に乱て五姓うつりかはりて国の主たり。五季とぞ云ける。宋の代に賢主うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。この天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おましましき。御子おほくましましし中に冷泉・円融は天位につき給しかば申におよばず。親王の中に具平親王〈六条の宮と申す。中務卿に任給いき。前に兼明親王名誉おはしき。仍これをば後中書王と申す〉賢才文芸のかた代々の御あとをよく相継申玉ひけり。一条の御代に、よろづ昔をおこし、人を用ましましければ、この親王昇殿し給いし日、清涼殿にて作文ありしに〈中殿の作文と云ことこれよりはじまる〉「所貴是賢才」と云う題にて韻をさぐらるゝことあり。この親王の御ためなるべし。 凡諸道にあきらかに、仏法の方までくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、この御すゑのみぞいまに至まで大臣以上に至て相継侍る。源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫に姓を給て人臣となし給う。即ち御子あまた源氏の姓を給る。桓武の御子葛原親王の男、高棟平の姓を給わる。平城の御子阿保親王の男、行平・業平等在原の姓を給ることもこの後のことなれど、これはたまたまの儀也。弘仁以後代々の御後はみな源姓を給しなり。親王の宣旨を蒙る人は才不才によらず、国々に封戸など立られて、世のつひえなりしかば、人臣につらね宦 学して朝要にかなひ、器にしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人は直に四位に叙す 〈皇子皇孫にとりての事也〉。当君のは三位なるべしと云う 〈かゝれどその例まれなり。嵯峨の御子大納言定卿三位に叙せしかども、当代にはあらず〉。かくて代々のあひだ姓を給し人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓を給人二十一人。この中、大臣にのぼる人、常の左大臣兼大将、信の左大臣、融の左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、多の右大臣、光の右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。大臣にのぼる人、能有の右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝の右大臣兼大将 〈これは貞純親王の苗裔なり〉。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓を給て大臣にのぼる人、雅信の左大臣、重信の左大臣 〈ともに敦実親王の男なり〉。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣にのぼる人、高明の左大臣兼大将、兼明の左大臣 〈後には親王とす。中務卿に任ず。前中書王これなり〉。この後は皇子の姓を給ことはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣を本としるすによりてことごとくはのせず。ちかくは後三条の御孫に有仁の左大臣兼大将〈輔仁親王の男、白川院御猶子にて直に三位せし人なり〉二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたまたま大臣に至てもいづれか二代と相継る。ほとほと納言以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。 皇胤の貴種より出ぬる人、蔭をたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものに慢ずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりの誓にて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋の御流君をたすけ奉るべき器となれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらば二神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なかなか上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にも封ぜられ、将相にも任ぜられき。崇神天皇十年に始めて四人の将軍を任じて四道へつかはされしも皆なこれ皇族なり。 景行天皇五十一年始めて棟梁の臣を置て武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に大臣とす 〈我朝大臣これに始まる〉。六代の朝につかへて執政たり。この大臣も孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠氏をさかやかし、忠仁公政を摂せられしより、もはら輔佐の 器として、立ちかへり、神代の幽契のまゝに成ぬるにや。閑院の大臣冬嗣氏の衰たることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、そのしるしも相くはゝり侍けんかし。この親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。その子師房姓を給て人臣に列せられし、才芸古にはぢず、名望世に聞あり。十七歳にて納言に任じ、数十年の間朝廷の故実に練じ、大臣大将にのぼりて、懸車の齢までつかうまつらる。親王の女 祇子の女王は宇治関白の室なり。仍この大臣をば彼関白の子にし給いて、藤子にかはらず、春日社にもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁せられしかば、子孫もみな彼外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば遠祖の如くに思へり。それよりこのかた和漢の稽古をむねとし、報国の忠節をさきとする誠あるによりてや、この一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも行跡うたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづから衰てあとなきもあり。向後と云ふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉る中に、藤氏のおこりは所々に申し侍ぬ。源の流も久しくなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流一とほりにて十七代に成しめ給う。臣もこの御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞこの君の徳すぐれ給いけるゆゑに余慶あるかとこそあふぎ申しはべれ。 |
○第六十三代、冷泉院。諱は憲平、村上第二の子。御母中宮藤原安子、右大臣師輔の女也。丁卯年即位、戊辰に改元。この天皇邪気おはしければ、即位の時大極殿に出給こともたやすかるまじかりけるにや、紫宸殿にてその礼ありき。に年ばかりして譲国。六十三歳おはしましき。この御門より天皇の号を申さず。又宇多より後、謚をたてまつらず。遺詔ありて国忌・山陵をゝかれざることは君父のかしこき道なれど、尊号をとゞめらるゝことは臣子の義にあらず。神武以来の御号も皆後代の定なり。持統・元明より以来避位或るいは出家の君も謚をたてまつる。天皇とのみこそ申しめれ。中古の先賢の議なれども心をえぬことに侍なり。 |
○第六十四代、第三十五世、円融院。諱は守平、村上第五の子、冷泉同母の弟也。己巳年即位、庚午に改元。天下を治め給いしこと十五年。禅譲、尊号つねの如し。翌年の程にや御出家。永延の比、寛平の 例をおふて、東寺にて潅頂せさせ給う。御師は即ち寛平の御孫弟子寛朝僧正なり。三十三歳おましましき。 |
○第六十五代、花山院。諱は師貞、冷泉第一の子。御母皇后藤原懐子、摂政太政大臣伊尹の女也。甲申年即位、乙酉に改元。天下を治め給いしこと二年ありて、俄に発心して花山寺にて出家し給う。弘徽殿の女御〈太政大臣為光の女也〉かくれて悲歎ましけるをりをえて、粟田関白道兼のおとゞのいまだ蔵人弁ときこえし比にや、そゝのかし申してけるとぞ。山々をめぐりて修行せさせましゝが、後には都にかへりてすませ給いけり。これも御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おましましき。 |
○第六十六代、第三十六世、一条院。諱は懐仁、円融第一の子。御母皇后藤原詮子〈後には東三条院と申す。后宮院号の始也〉、摂政太政大臣兼家の女なり。花山の御門神器をすてゝ宮を出給いしかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせしが、内にまゐり、諸門をかためて譲位の儀をおこなはれき。新主もをさなくましまししかば、摂政の儀ふるきがごとし。丙戌年即位、丁亥に改元。そのゝち摂政病により嫡子内大臣 道隆に譲て出家、猶准三宮の宣を蒙 〈執政の人出家の始め也。その比は出家の人なかりしかば、入道殿となん申す。仍源の満仲出家したりしをはゞかりて 新発とぞ云ける〉。この道隆始めて大臣を辞て前官にて関白せられき 〈前官の摂政もこれを始めとす〉。病ありてその子内大臣伊周しばらく相かはりて内覧せられしが、相続して関白たるべきよしを存ぜられけるに、道隆かくれて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。七日と云しにあへなくうせられにき。その弟にて道長、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣までいたられしかど、延喜・天暦の昔をおぼしめしけるにや、関白はやめられにき。三条の御時にや、関白して、後一条の御世の初、外祖にて摂政せらる。兄弟おほくおはせしに、この大臣のながれ一に摂政関白はし給ぞかし。昔もいかなるゆゑにか、昭宣公の三男にて貞信公、々々々の二男にて師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条のおとゞ、東三条の三男にて 〈道綱大将は一男歟。されど三弟にこされたり。仍道長を三男としるす〉このおとゞ、みな父の立たる嫡子ならで、自然に家をつがれたり。祖神のはからはせ給へる道にこそ侍りけめ 〈いづれも兄にこえて家をつたへらるべきゆゑありと申ことのあれど、ことしげければしるさず〉。この御代にはさるべき上達部・諸道の家々・顕密の僧までもすぐれたる人おほかりき。されば御門も「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり。」とぞ自歎ぜさせ給ける。天下を治給こと二十五年。御病の程に譲位ありて出家せさせ給う。三十三歳おましましき。 |
○第六十七代、三条院。諱は居貞、冷泉第二の子。御母皇太后藤原[の]超子、これも摂政兼家の女也。花山院世をのがれ給しかば、太子に立給しが、御邪気のゆゑにや、折々御目のくらくおはしけるとぞ。辛亥年即位、壬子に改元。天下を治め給いしこと五年。尊号ありき。四十二歳おましましき。 |
第六十八代、後一条院。諱は敦成、一条第二の子。御母皇后藤原彰子 〈後に上東門院と申す〉、摂政道長の大臣の女也。丙辰年即位、丁巳に改元。外祖道長のおとゞ摂政せられしが、のちに摂政をば嫡子頼通の内大臣におはせしにゆづり、猶太政大臣にて、天皇御元服の日、加冠・理髪父子ならびて勤仕せられしこそめづらしく侍しか。冷泉・円融の両流かはる〴〵しらせ給ひしに、三条院かくれ給てのち、御子敦明の御子、太子にゐ給しが、心とのがれて院号かうぶりて小一条院と申しき。これより冷泉の御流はたえにけり。冷泉はこのかみにて御すゑも正統とこそ申べかりしに、昔天暦御時元方の民部卿のむすめ御息所、一のみこ広平親王をうみたてまつる。九条殿の女御まゐり給て、第二の皇子 〈冷泉にまします〉いでき玉ひし比より、悪霊になりてこのみこも邪気になやまされましき。花山院の俄に世をのがれ、三条院の御目のくらく、この此東宮のかくみづからしりぞき給いぬるも怨霊のゆゑなりとぞ。円融も一腹の御弟におはしませど、これまではなやまし申ささゝりけるもしかるべき継体の御運ましましけるにこそ。東宮しりぞき給いしかば、この天皇同母の御弟敦良親王立給き。天皇も御子なくて、彼東宮の御末ぞ継体せさせ給ぬる。天皇天下を治め給いしこと二十年。二十九歳おましましき。 |
○第六十九代、第三十七世、後朱雀院。諱は敦良、後一条同母の弟也。丙子年即位、丁丑に改元。天皇賢明にましましけるとぞ。されどその比 執柄権をほしきまゝにせられしかば、御政のあときこえず。 無念なることにや。長久の比 内裏に火ありて、神鏡 焼け給。猶霊光を現じ給ければその灰をあつめて安置せられき。天下を治め給いしこと九年。三十七歳おましましき。 |
○第七十代、後冷泉院。諱は親仁、後朱雀第一の子。御母贈皇太后藤原嬉子 〈本は 尚侍〉、摂政道長のおとゞ第三の女なり。乙酉年即位、丙戌改元。此御代のすゑつかた、世の中やすからずきこえき。 陸奥にも 貞任・ 宗任など云し者、国をみだりければ、 源頼義に 仰て追討せらる 〈頼義陸奥守に任じ、鎮守府の将軍を 兼す。 彼家鎮守将軍に任ずる始め也。曾祖父 経基は征東副将軍たりき〉。十二年ありてなむしづめ侍ける。この君御子ましまさざりし上、後朱雀の 遺詔にて、後三条東宮にゐ給へりしかば、継体はかねてよりさだまりけるにこそ。天下を治め給いしこと二十三年。四十四歳おましましき。 |
(私論.私見)