巻四

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.26日

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 2009.1.9日、2011.8.20日再編集 れんだいこ拝


 神皇正統記巻四
 ○第五十一代、平城へいせい天皇は桓武くわんむ第一の子。御母皇太后藤原の乙牟漏をとむろ、贈太政大臣良継よしつぐの女也。丙戌ひのえいぬの年即位、改元。平安宮へいあんのみやにまします。これより遷都なきによりて御在所ございしよをしるすべからず。天下を治め給いしこと四年。太弟にゆづりて太上天皇と。平城の旧都にかへりてすませ給いけり。尚侍ないしのかみ藤原の薬子くすりこちようしましけるに、その弟参議右兵衛督うひやうゑのかみ仲成なかなりすゝめて逆乱げきらんの事ありき。田村丸たむらまろ大将軍として追討せられしに、平城へいせいいくさやぶれて、上皇出家せさせ給う。御子みこ 東宮高岡とうぐうたかをかの親王もすてられて、おなじく出家、弘法大師こうぼふだいし弟子になり、真如しんによ親王とはこれなり。薬子・仲成等ちゆうにふしぬ。上皇しやうくわう五十一歳までおましましき。
 ○第五十二代、第二十九世、嵯峨さが天皇は桓武第二の子、平城へいせい同母の弟也。太弟たいてい給へりしが、己丑つちのとうしの年即位、庚寅かのえとらに改元。この天皇幼年より聰明にして読書、諸芸を習ひ給。又謙譲大度たいどもましましけり。桓武帝鍾愛無双しようあいぶさうの御子になんおはしける。儲君ちよくんにゐ給けるも父のみかど継体のために顧命こめいしましましけるにこそ。格式きやくしきなどもこの御時よりえらびはじめられにき。仏法をあがめ給う。先世さきのよ美濃みのの神野かむのと云う所にたふとき僧ありけり。橘太后きつたいこうの先世にねむごろに給仕きふじしけるを感じて相共に再誕さいたんありとぞ。御いみなを神野と申しけるも自然じねんにかなへり。伝教 〈御名最澄さいちよう弘法 〈御名空海くうかい両大師よりへ給いし天台・真言の両宗も、この御時よりひろまり侍ける。この両師直也人ただなるひとにおはせず。伝教入唐以前より比叡山ひえいざんをひらきて練行れんぎやうせられけり。今の根本中堂こんぼんちゆうだうの地をひかれけるに、やつしたあるかぎをもとめいでゝ唐までもたれたり。天台山てんだいさんにのぼりて智者ちしや大師 〈天台の宗おこりて四代の祖なり。天台大師とも云〉六代の正統道邃和尚だうすいくわしやうえつして、その宗をならはれしに、かの山に智者帰寂きじやくより以来このかた かぎをうしなひてひらかざる一蔵ひとつのくらありき。心みにこのかぎにてあけらるゝにとゞこほらず。一山いつさんこぞりて渇仰かつがうしけり。りて一宗いつしゆう奥義あうぎのこる所なく伝られたりとぞ。その後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼門風もんふういよいよさかりになりて天下に流布せり。唐国みだれしより経教きやうけうおほくうせぬ。道邃だうすゐより四代にあたれる義寂ぎじやくと云う人まで、たゞ観心くわんじんへて宗義をあきらむることたえにけるにや。

 呉越国ごゑつこく
忠懿王ちゆういわう せいせん、名はりう、唐の末つかたより東南の呉越を領して偏覇へんばしゆたり〉此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、教典けうてんをもとめしむ。ことごとくうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには五代ごだいうち後唐こうたうの末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。日本にほんよりかへしわたしたる宗なれば、この国の天台宗はかへりてほんとなるなり。伝教彼宗の秘密をへられたることも唐台州たうのたいしう 刺史しし 陸淳りくじゆん印記いんきもんにあり〉ことごとく一宗の論疏ろんしよをうつし、国にかへれることも釈志磐しやくしばん仏祖統紀ぶつそとうきにのせたり〉異朝の書にみえたり。

 弘法は母 懐胎くわいたい、夢に天竺の僧きたりて宿やどをかりけりとぞ。宝亀はうき五年甲寅きのえとら 六月みなづき十五日誕生。この日唐の大暦たいれき九年六月ろくぐわつ十五日にあたれり。不空三蔵ふくうさんざう 入滅にふめつす。よりてかの後身こうしん也。かつは恵果和尚けいくわわしやうにも「我と汝としき契約あり。ちかひ密蔵みつざう(ひろ)めん」とあるもそのゆゑにや。渡唐の時も或るいは五筆ごひつの芸をほどこし、様々の神異しんいありしかば、唐のしゆ順宗じゆんそう皇帝ことに仰信あふぎしんき。かの 恵果けいくわ 〈真言第六の祖、不空の弟子〉 和尚わしやう六人の附法ふほふあり。けん南の惟上ゆいしやう・河北の義円ぎゑん 〈金剛一界を新羅しらぎ恵日ゑにち訶陵かりよう弁弘べんこう 胎蔵たいざう一界を青龍せいりよう義明ぎめい・日本の空海〈両部を。義明は唐朝におきて潅頂くわんぢやうの師たるべかりしが世をはやくす。弘法は六人の中に瀉瓶しやびやうたり 〈恵果の俗弟子 呉殷ごいんさんことばにあり〉。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の書にみえたる也。

 伝教も、不空の弟子順暁じゆんげうにあひて真言をへられしかど、在唐いくばくなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけり。又いまこの流たえにけり。慈覚・智証は恵果の弟子義さう・法じゆんときこえしが弟子法全はつせんにあひてへらる。本朝流布しゆう、今は七宗しちしゆう也。この中にも真言・天台の二宗は祖師の意巧いげう 鎮護国家ちんごこくかのためと心ざゝれけるにや。比叡山には〈比叡と云うこと桓武・伝教心をひとつにして興隆せられしゆゑなづくと彼山のともがら する也。しかれど旧事本紀くじほんぎに比叡の神の御ことみえたり〉顕密ならびて紹隆せうりうす。殊に天子本命ほんみやうの道場をたてゝ御願ごぐわんを祈る地なり 〈これはみつにつくべし〉。又根本こんぼん中堂を止観院しくわんゐんふ。法華ほつけ経文につき、天台の宗義により、方々鎮護の深義じんぎありとぞ。東寺とうじは桓武遷都せんとの初め、皇城のしづめのためにこれをたてらる。弘仁こうにんの御時、弘法にてながく真言の寺とす。諸宗の雑住ざうぢゆうをゆるさゞる地也。この宗を神通乗じんづうじようふ。如来果上によらいくわしやうの法門にして諸教にこえたる極秘密ごくひみつとおもへり。就中なかんづく我国は神代よりの縁起えんぎ、この宗の所説符合せり。このゆゑにや唐朝に流布せしはしばらくのことにて、日本にとゞまりぬ。又相応の宗なりと云うもことわりにや。大唐の内道場ないだうぢやうじゆんじて宮中に真言院をたつ〈もとは勘解由使かげゆしちやうなり〉。大師奏聞そうもんして毎年正月むつきこの所にて御修法みしほあり。国土安穏あんをんの祈祷、稼穡豊饒かしよくぶねうの秘法也。又十八日の観音供くわんおんく晦日つごもり御念誦みねんじゆ等も宗によりて深意じんいあるべし。三流の真言いづれと云うべきならねど、真言をもて諸宗の第一とすることもむねと東寺によれり。延喜えんぎ御宇ぎよう綱所かうしよ印鎰いんやくを東寺の一阿闍梨いちのあじやりにあづけらる。よりて法務のことを知行ちぎやうして諸宗の一座たり。山門・寺門は天台をむねとするゆゑにや、顕密をかねたれど宗の長をも天台座主てんだいざすと云うめり。この天皇諸宗をこうぜさせけり。中にも伝教・弘法御帰依ごきえふかゝりき。伝教始めて円頓ゑんとん戒壇かいだんをたつべきよし奏せられしを、南京なんきやうの諸宗へうたてまつりてあらそひししかど、つひに戒壇の建立をゆるされ、本朝四け所の戒場となる。弘法はことさら師資ししの御やくありければ、おもくし給いけるとぞ。

 この両宗の外、華厳けごん三論さんろんは東大寺にこれをひろめらる。彼華厳は唐の杜順和尚とじゆんくわしやうよりさかりになれりしを、日本の朗弁らうべん僧正つたへて東大寺に興隆こうりゆうす。この寺は このしゆうによりて建立こんりふせられけるにや、大華厳寺と云う名あり。三論は東晉とうしんの同時に後秦こうしんと云う国に、羅什三蔵らじふさんざうと云う師きたりて、この宗をひらきて世にへたり。孝徳の御世に高麗かうらいの僧恵潅ゑくわん来朝してへ始めける。しからば最前さいぜん流布のをしへにや。その後道慈だうじ律師請来しやうらいして大安寺だいあんじにひろめき。今は華厳とならびて東大寺にあり。法相ほつさう興福寺こうふくじにあり。唐玄弉たうのげんじやう三蔵天竺よりへて国にひろめらる。日本の定恵和尚ぢやうゑわじやう 大織冠たいしよくくわんの子なり。彼国にわたり玄弉の弟子たりしかど、帰朝ののち世をはやくす。今の法相は玄昉げんばう僧正と云う人入唐にふたうして州の智周ちしう大師 〈玄弉二世の弟子〉にあひてこれをつたへて流布しけるとぞ。春日かすがの神もことさらこの宗を擁護おうごし給なるべし。この三宗に天台をくはへて四家しけ大乗だいじようふ。倶舎ぐしや成実じやうじつなむど云は小乗せうじよう也。道慈律師おなじく伝えて流布せられけれども、依学えがくの宗にて、別に一宗をたつることなし。我国大乗純熟じゆんじゆくの地なればにや、小乗を習人ならふひとなき也。又律宗は大小に通ずる也。鑒真和尚がんじんわじやう来朝してひろめられしより東大寺および下野しもつけ薬師やくし寺・筑紫の観音寺に戒壇をたてゝ、この戒をうけぬものは僧せきにつらならぬ事になりにき。中古より以来このかた、その名ばかりにて戒体かいたいをまぼることたえにけるを、南都なんと思円しゑん上人等章疏しやうしよを見あきらめて戒師かいしとなる。北京ほくきやうには我禅上人がぜんしやうにん 入宋にふそうして彼土かのど律法りつほふをうけ伝えてこれをひろむ。南北の律再興さいこうして彼宗にいる ともがらは威儀をすることふるきがごとし。禅宗は仏心宗ぶつしんしゆうともふ。仏の教外別伝けうげべつでんの宗なりとぞ。りやうに天竺の達磨だるま大師きたりてひろめられしに、武帝にかなはず。かうて北朝にいたる。嵩山すうざんと云う所にとゞまり、面壁めんぺきして年をおくられける。後に恵可ゑかこれをつぐ。恵可よりしも、四世に弘忍禅師くにんぜんじときこえし、嗣法しほふ南北に相分あひわかる。北宗ほくしゆうをば伝教・慈覚伝えて帰朝せられき。安然和尚あんねんくわしやう 慈覚じかくの 孫弟そんてい 教時諍論けうじさうろんと云う書に教理の浅深せんじんはんずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけ伝人つたふるひとなくてたえにき。近代となりて南宗なんしゆうのながれおほくつたはる。異朝には南宗のしもに五あり。そのうち 臨済りんざい宗のしもより又二流となる。これを五家七宗ごけしちしゆうふ。本朝には栄西やうせい僧正、黄龍わうりようをくみて伝来の後、聖一しやういち上人、石霜せきさうしもつかた虎丘くきうのながれ無準ぶしゆんにうく。彼宗のひろまることはこの両師よりのこと也。うちつゞき異朝の僧もあまた来朝し、この国よりもわたりてへしかば、諸家しよけの禅おほく流布せり。五家七宗とはいへども、以前のけんみつごんじつ等の不同には相にるべからず。いづれも直指人心ぢきしにんしん見性成仏けんしやうじやうぶつもんをばいでざる也。弘仁の御宇より真言・天台のさかりになることをいささかしるしはべるにつきて、大方の宗々伝来のおもむきをのせたり。きはめてあやまりおほくはべらん。

 君としてはいづれの宗をも大概たいがいしろしめしてられざらんことぞ国家攘災じやうさいの御はかりことなるべき。菩薩ぼさつ大士だいしもつかさどる宗あり。我朝の神明しんめいもとりわき擁護し給ふあり。一宗にこころざしある人余宗をそしりいやしむ、おほきなるあやまり也。人の機根きこんもしな〴〵なれば教法も無尽むじんなり。いはんやわが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、きはめたる罪業ざいごふにや。われはこの宗にすれども、人は又彼宗に心ざす。共に随分やくあるべし。これ皆な今生一世こんじやういちせ値遇ちぐにあらず。国のあるじともなり、輔政ふせいの人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして得益とくやくのひろからんことを思い給べき也。かつは仏教にかぎらず、じゆだうの二教乃至ないし諸々の道、いやしき芸までもおこしもちゐるを聖代せいだいと云べき也。男夫なんぷ稼穡かしよくをつとめておのれも食し、人にもあたへて、うゑざらしめ、女子は紡績はうせきをことゝしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。いやしきに似たれども人倫じんりん大本たいほん也。天の時にしたがひ、地の利によれり。このこのほか 商沽しやうこの利を通ずるもあり、工巧くげうのわざをもあり、仕官に心ざすもあり、これを四民とふ。仕官するにとりて文武のふたつの道あり。ざしもつて道を論ずるは文士の道也。この道にきらかならばしやうとするにたへたり。ゆきて功をつる武人ぶじんのわざなり。このわざにほまれあらばとするにたれり。されば文武ぶんぶふたつはしばらくもすて給べからず。「世みだれたる時は武を右にし文を左にす。国をさまれる時は文を右にし武を左にす」といへり 〈古に右をかみにす。よりてしかいふ也〉。かくのごとくさま〴〵なる道をもちゐて、民のうれへをやすめ、おの〳〵あらそひなからしめん事を もととすべし。民の賦斂ふれんをあつくしてみづからの心をほしきまゝにすることは乱世乱国のもとゐ也。我国は王種わうしゆのかはることはなけれども、まつりことみだれぬれば、暦数れきすうひさしからず。継体もたがふためし、所々にしるし侍りぬ。いはんや、人臣として其職をまぼるべきにおきてをや。そもそも民をみちびくにつきて諸道・諸芸みな要枢えうすう也。古には詩・書・礼・ がくをもて国を四術しじゆつとす。本朝は四術の学をたてらるゝことたしかならざれど、紀伝きでん明経みやうぎやう明法みやうばふの三道に詩・書・れいせつすべきにこそ。算道さんだうて四道とふ。代々よよにもちゐられ、その職をるゝことなればくはしくするにあたはず。医・陰陽おんやうの両道又これ国の至要しえう也。金石糸竹きんせきしちくがくは四学の一にて、もはらまつりことをするもと也。今は芸能の如くに思へる、無念のこと也。「ふうし俗をかふるには楽よりよきはなし」といへり。一音より五せい・十二律に転じて、治乱をわきまへ、興衰こうすいべき道とこそみえたれ。又詩賦哥詠しふかえいふうもいまの人のこのむ所、詩学のもとにはことなり。しかれど一心よりおこりて、よろづのことのとなり、末の世なれど人を感ぜしむる道也。これをよくせばへきをやめ邪をふせぐをしへなるべし。かゝればいづれか心のみなもとをあきらめ、しやうにかへるじゆつなからむ。輪扁りんへんをけづりて齊桓公せいのくわんこうををしへ、弓工きゆうこうが弓をつくりて唐の太宗をさとらしむるたぐひもあり。

 乃至ないし 囲碁弾碁ゐごたんきたはぶれまでもおろかなる心ををさめ、かろ〴〵しきわざをとゞめんがためなり。たゞしそのみなもとにもとづかずとも、一芸はまなぶべきことにや。孔子こうしも「あくまでに くう終日ひねもすに心をもちゐる所なからんよりは博奕ばくえきをだにせよ」とはべるめり。まして一道をうけ、一芸にもたづさはらん人、もとをあきらめ、ことわりをさとるこころざしあらば、これより理世りせいの要ともなり、出離しゆつりのはかりことゝもなりなむ。一気一心にもとづけ、五大五行により相剋さうこく相生さうしやうをしりもさとり他にもさとらしめん事、よろづの道そのことわり ひとつなるべし。

 この御門誠に顕密の両宗にきし給しのみならず、儒学もあきらかに、文章もたくみに、書芸もすぐれ給へりし、宮城きゆうじやう東面ひがしおもてがくも御みづからかゝしめ給き。天下を治給こと十四年。皇太弟にゆづりて太上天皇と申。帝都の西、嵯峨山さがやまと云所に離宮をしめてぞまし〳〵ける。一たん国をゆづり給しのみならず、行末ゆくすゑまでもさづけましまさんの御心ざしにや、新帝の御子、恒世つねよの親王を太子に給いしを、親王又かたく辞退して世をそむき給けるこそありがたけれ。上皇ふかく謙譲しましけるに、親王又かくのがれ給ける、末代までの美談びだんにや。昔仁徳兄弟相譲り給いし後にはきかざりしこと也。五十七歳おましましき。
 ○第五十三代、淳和じゆんな天皇、西院さいゐんみかどとも申す。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原の旅子もろこ、贈太政大臣百川ももかはの女也。癸卯みづのとうの年即位、甲辰きのえたつに改元。天下を治め給いしこと十年。太子にゆづりて太上天皇と申す。この時両上皇ましましければ、嵯峨をばさきの太上天皇、この御門をばのちの太上天皇と申しき。嵯峨さがの御門の御おきてにや、東宮には又此帝の御子恒貞つねさだ親王給いしが、両上皇かくれましゝ後にゆゑありてすてられ給いき。五十七歳おましましき。
 ○第五十四代、第三十世、仁明にんみやう天皇。いみな正良まさら〈これよりさき御諱たしかならず。おほくは乳母めのとしやうなどを諱にもちゐられき。これより二字たゞしくましませばのせたてまつる〉深草ふかくさみかどとも申す。嵯峨第二の子。御母皇太后たちばな嘉智子かちこ、贈太政大臣清友女きよとものむすめ也。癸丑みづのとうしの年即位、甲寅きのえとらに改元。この天皇は西院の御門の猶子いうしましましければ、朝覲てうきん両皇りやうくわうにせさせ給う。或る時は両皇同所にして覲礼きんれいもありけりとぞ。我国のさかりなりしことはこの比ほひにやありけん。遣唐使けんたうしもつねにあり。帰朝の後、建礼門けんれいもんの前に、彼国かのくにのたから物のいちをたてゝ、群臣にたまはすることも有き。律令りつりやうは文武の御代よりさだめられしかど、この御代にぞえらびとゝのへられにける。天下を治め給いしこと十七年。四十一歳おましましき。
 ○第五十五代、文徳もんとく天皇。諱は道康みちやす田村の帝とも申。仁明第一の子。御母太皇太后藤原の順子じゆんし〈五条のきさきと申す〉、左大臣冬嗣ふゆつぐの女也。庚午かのえうまの年即位、辛未かのとひつじに改元。天下を治め給いしこと八年。三十三歳おましましき。
 ○第五十六代、清和せいわ天皇。諱は惟仁これひと水尾みづのをの帝とも申す。文徳第四の子。御母皇太后藤原の明子あきらけいこ 染殿そめどのの后と申す〉、摂政太政大臣良房の女也。我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。この天皇九歳にて即位、戊寅つちのえとらの年也。己卯つちのとうに改元。践祚せんそありしかば、 外祖ぐわいそ良房の大臣はじめて摂政せらる。摂政と云うこと、もろこしには唐堯たうげうの時、虞舜ぐしゆん登用あげもちゐまつりことをまかせ給いき。これを摂政とふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。いんの代に伊尹いいんと云う聖臣せいしんあり。たう 大甲たいかう輔佐ふさす。これは保衡ほうかうと云う阿衡あかうともふ〉。そのこころは摂政也。周の世に周公旦しうこうたん大聖たいせいなりき。文王の子、武王の弟、成王の 叔父しゆくふなり。武王のには三公につらなり、成王わかくて位につき給いしかば、周公みづから南面なんめんして摂政す 〈成王を おひて南面せられけりともみえたり〉昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔ゆゐぜうにより博陸はくりく 侯霍光くわくくわうと云う人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先せうにもめる。本朝には応神うまれ給いて襁褓きやうほうにましまししかば、神功皇后天位にゐ給う。しかれど摂政と申し伝たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸うまやどの皇太子摂政し給う。これぞ帝は位にそなはりて天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。齊明天皇の御世に、御子 なか大兄おほえの皇太子摂政し給う。 元明げんめいの御世のすゑつかた、皇女浄足姫きよたらしひめの尊〈元正天皇の御ことなり〉しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。この藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議 中衛ちゆうゑの大将房前ふささき、その子大納言真楯またて、その子右大臣内麿、この三代はかみ二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子冬嗣ふゆつぐの大臣閑院かんゐんの左大臣とふ。後に贈太政大臣〉藤氏の おとろへぬることをなげきて、弘法大師にあはせて興福寺に南円なんゑん堂をたてゝ 祈り申されけり。この時明神役夫やくぶにまじはりて、

  補陀落ふだらくの南の岸に堂たてゝ今ぞさかえん北の藤浪ふじなみ

えいじ給いけるとぞ。この時源氏の人あまたうせにけりと申し人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫のみなもとしやうはりて高官高位にいたることはこの後のことなれば、誰人たれひとかうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことに祈請きせいにこたへたりとはみえたり。大方この大臣とほきおもひはかりおはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西の曹司さうじあり。くわんがうの二家これをつかさどりて、人をる所也。彼大学の南にこの院をられしかば、南曹とぞ申める。氏長者うぢのちやうじやたる人むねとこの院を管領して興福寺氏のやしろのことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退けんたいの心ふかく閑適かんてきをこのみて、つねに朝参てうさんなどもせられざりけり。その比大納言伴善男とものよしをと云う人ちようありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公けつなかりき 〈太政大臣良房、左大臣まこと、右大臣良相よしすけまことの左大臣をうしなひて、その闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門をやかしむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏ざんそうす。天皇おどろき給いて、糺明きうめいにおよばず、右大臣に召仰めしおほせて、すでに誅せらるべきになりぬ。太政大臣このことをきゝ驚遽おどろきあはてられけるあまりに、烏帽子えぼし 直衣なほしをきながら、白昼はくちう騎馬きばして、馳参はせさんじて申しなだめられにけり。その後に善男が陰謀あらはれて流刑るけいに処せらる。この大臣の忠節まことに無止やんごとなきことになん。

 天皇仏法にきし給いて、つねに脱屣だつしの御志ありき。慈覚大師に受戒し給、法号をさづけ奉らる。素真そしんと申す。在位の帝、法号をつき給うことよのつねならぬにや。昔隋煬帝ずゐのやうだい晉王しんわうと云いし時、天台の智者に受戒して惣持そうぢと云う名をつかれたりし、よからぬ君のためしなれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、男山石清水をとこやまいはしみづにうつり給う。天皇聞食きこしめし勅使をつかはし、その所をてんじ、諸々のたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟にせらる 〈鎮坐の次第は かみにみえたり〉。天皇天下を治め給いしこと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給う。中三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて潅頂うけさせ給う。丹波たんば水尾みづのをと云う所にうつらせ給いて、練行れんぎやうしましゝが、ほどなくかくれ給う。御年三十一歳おましましき。

 ○第五十七代、陽成やうぜい天皇。諱は貞明さだあきら、清和第一の子。御母皇太后藤原[の]高子たかきこ 〈二条の后と申す〉、贈太政大臣長良ながらの女也。丁酉ひのととりの年即位、改元。右大臣基経摂政して太政大臣に任ず 〈この大臣は良房の養子なり。まことは中納言長良の男。この天皇の外舅ははかたのをぢ也〉忠仁公ちゆうじんこうの故事のごとし。この天皇せいあくにして人主のうつはにたらずみえければ、摂政なげきて廃立はいりふのことをさだめられにけり。昔漢の霍光くわくくわう、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはやくし給しかば、昌邑王しやうゆうわうて天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。すなはち廃立をおこなひて宣帝せんてい奉りき。霍光が大功とこそしるしへはべるめれ。この大臣まさしき外戚ぐわいせきの臣にてまつりことをもはらにせられしに、天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほくきこえしかど、摂政関白はこの大臣のすゑのみぞたえせぬことになりにける。次々大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣の苗裔べうえいなり。積善しやくぜん余慶よきやうなりとこそおぼえはべれ。天皇天下を治給こと八年にてしりぞけられ、八十一歳までおましましき。
 ○第五十八代、第三十一世、光孝くわうかう天皇。諱は 時康ときやす小松御門こまつのみかどとも 。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子さはこ、贈太政大臣総継ふさつぐの女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政昭宣せうせん公諸々の皇子をさうし申されけり。この天皇一品いちほん式部卿けん常陸ひたちの太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にましましけるに、俄にまうでゝ見給いければ、人主の器量の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち儀衛ぎゑいをとゝのへてむかへ申されけり。本位ほんゐの服を着しながら鸞輿らんよして大内だいだいにいらせ給いにき。ことし甲辰きのえたつの年なり。乙巳きのとみに改元。践祚のはじめ摂政をあらためて関白とす。これ我が朝関白の始めなり。漢の霍光くわくくわう摂政たりしが、宣帝の時 まつりことをかへして 退しりぞきけるを、「万機のまつりこと猶霍光に関白あづかりまうさしめよ」とありし、その名を取りてさづけられにけり。この天皇昭宣公のさだめによりて給いしかば御こころざしもふかゝりしにや、その子を殿上てんじやうにめして元服せしめ、御みづから位記ゐきをあそばして正五位になし給いけりとぞ。しくたえにけるせり川の御幸ごかうなどありて、古きあとをおこさるゝことゝもきこえき。天下を治め給いしこと三年。五十七歳おましましき。

 大かた天皇の世つぎをしるせるふみ、昔より今にまで家々にあまたあり。かくしるしはべるもさらにめづらしからぬことなれど、神代より継体正統のたがはせ給はぬひとはしを申さんがためなり。我国は神国かみのくになれば、天照太神の御計おんはからひにまかせられたるにや。されどそのなかに御あやまりあれば、暦数からず。又つひには正路しやうろにかへれど、一旦いつたんもしづませ給うためしもあり。これは皆な自らなさせ御とがなり。冥助みやうじよのむなしきにはあらず。ほとけも衆生をみちびきつくし、神も万姓ばんしやうをすなほならしめんとこそし給へど、衆生の果報品々に、うくる所のしやう同じからず。十善じふぜん戒力かいりきにて天子とはなり給へども、代々の御行迹かうせき、善悪又まちまち也。かゝればもとを本としてしやうにかへり、はじめをはじめとしてじやをすてられんことぞ祖神そじん御意みこころにはかなはせ給うべき。神武より景行まで十二代は御子孫そのまゝつがせ給へり。うたがはしからず。日本武やまとたけの尊世をはやくしましゝによりて、御弟成務へだゝり給いしかど、日本武の御子にて仲哀へましましぬ。仲哀・応神の御後おんのちに仁徳伝へ給へりし、武烈悪王にて日嗣ひつぎたえましゝ時、応神五世の御孫にて、継体天皇えらばれ給う。これなむめづらしきためしに侍る。されどふたつをならべてあらそふ時にこそ傍正ばうしやうもあれ、群臣皇胤なきことをうれへて求め出いだし奉りしうへに、その御身けんにして天の命をうけ、人のにかなひましましければ、とかくのあるべからず。その後相つぎて天智・天武御兄弟立ち給しに、大友の皇子のみだれによりて、天武の御ながれしくへられしに、称徳女帝にて御嗣おんつぎもなし。又まつりこともみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御なくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれて給う。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてましましき。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にて施基しきのみこ御とがなし。その御子なれば、この天皇の立ち給へること、正理しやうりにかへるとぞ申し侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにて給いといへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれましましければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらよりいで給うこと是まで三代なり。人のなせることゝは心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべき者をや。光孝よりかみつかたは一向いつかう上古しやうこ也。よろづのためしかんがふる仁和にんなよりしもつかたをぞ申しめる。いにしへすら猶かゝることわりにて天位を嗣ぎ給。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことゝ心えたてまつるべき也。この御代より藤氏の摂籙せふろくの家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔べうえいのみぞたゞしくつたへられにける。かみは光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、しもは昭宣公の子孫、天児屋あめのこやねの命の嫡流ちやくりうとなり給へり。二神ふたはしらのかみの御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。

 ○第五十九代、第三十二世、宇多うた天皇。諱は定省さだみ、光孝第三の子。御母皇太后くわうたいこう班子はんしの女王、仲野なかの親王 〈桓武[の]御子〉の女也。元慶ぐわんぎやうころ孫王そんわうにて源氏のしやうらせまします。そのかみ、つねに鷹狩たかがりをこのませ給いけるに、ある時賀茂かもの大明神あらはれて皇位につかせ給うべきよしをしめし申されけり。践祚せんその後、彼社かのやしろの臨時のまつりをはじめられしは、大神の申しうけ給いけるゆゑとぞ。仁和にんな三年丁未ひのとひつじあき、光孝御やまひありしに、御兄の御子たちをゝきてをうけ給う。まづ親王とし、皇太子にたち、受禅。じき年の冬即位。中一とせありて己酉つちのととりに改元。践祚の初めより太政大臣基経もとつね又関白せらる。この関白こうじのちはしばらくその人なし。天下を治め給いしこと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申す。中一とせばかりありて出家せさせ給う。御年三十三にや。若くよりその御こころざしありきとぞ給いける。弘法大師四代の弟子益信やくしん僧正を御師にて東寺にして潅頂くわんぢやうせさせ給う。又智証ちしよう大師の弟子増命僧正ぞうみやうそうじやうにも 〈于時法橋也。後謚云靜観〉比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給いければ、その御法流とて今にたえず、仁和寺にんなじ伝へ侍はべるはこれなり。

 凡そ弘法の流に広沢ひろさは 〈仁和寺〉・小野 醍醐だいご寺・勧修寺くわんじゆじの二あり。広沢は法皇の御弟子寛空くわんぐう僧正、寛空の弟子寛朝くわんでう僧正 敦実あつみ親王[の]子、法皇[の]御孫也〉。寛朝広沢にすまれしかば、かのふ。そのゝち代々だいだい御室おむろへてたゞ人はあひまじはらず 〈法流をあづけられて師範となることは両度あり。されど御室は代々親王なり〉。小野の流は益信の相弟子あひでし聖宝しやうぼう僧正とて知法無双ちほふぶさうの人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど年戒ねんかいおとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は色衆しきしゆにつらなりて歎徳たんどくと云うことをつとめられたりき。延喜えんぎ護持僧ごぢそうにて、ことに崇重そうちようし給いき。その弟子観賢くわんげん僧正もあひついで護持。おなじく崇重ありき。綱中かうちゆうの法務を東寺の一阿闍梨いちのあじやりにつけられしもこの時より始まるしやうの法務はいつも東寺のいち長者ちやうじやなり。諸寺になるはみなごんの法務なり。又仁和寺の御室、そうの法務にて、綱所かうしよ召し仕つかはるゝことは後白河以来このかたの事。この僧正は高野かうやにまうでゝ、大師入定にふぢやうくつて御髪をそり、法服をきせかへし人なり。その弟子淳祐じゆんいう 〈石山の内供ないくと云う〉ともなはれけれどもつゐに見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障ざいしやうをなげきて卑下ひげの心ありければ、弟子元杲僧都げんがうそうづ延命院えんみやうゐんと云う〉 許可こかばかりにて授職じゆしよくをゆるさず。勅定ちよくぢやうによりて法皇の御弟子寛空くわんぐうにあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子仁海にんかい僧正又知法の人なりき。小野と云う所にすまれけるより小野流とふ。しかれば法皇は両流の法主ほふしゆにまします也。王位をさりて釈門しやくもんいることはそのためしおほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば無為ぶゐの御まつりことなりけんとおしはかられ侍る。菅氏の才名さいめいによりて、大納言大将まで登用ししもこの御時也。又譲国じやうこくの時様々をしへ申されし、寛平くわんべい御誡ぎよかいとて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜ぐしゆんより始まる」とみえたり。唐堯のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもてこの御ことおしはかり奉るべし。御寿いのち朱雀すざくの御代にぞかくれさせ給いける。七十六歳おましましき。
 ○第六十代、第三十三世、醍醐だいご天皇。諱は 敦仁あつひと、宇多第一の子。御母贈皇太后藤原の胤子たねこ、内大臣 高藤たかふぢの女也。丁巳ひのとみの年即位、 戊午つちのえうまに改元。大納言左大将藤原時平ときひら、大納言右大将菅氏、両人上皇のみことのりをうけて輔佐ふさし申されき。後に左右の大臣にてともに万機を内覧せられけりとぞ。御門みかど御年十四にて位につき給う。をさなくましまししかど、聰明叡哲そうめいえいてつにきこえ給いき。両大臣天下のまつりことをせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下のゝぞむ所なり。左相は譜第ふだいうつは也ければ、すてられがたし。或る時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云いさだめありて、すでに召し仰玉ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。その事世にもれにけるにや、左相いきどほりをふくみ、様々のざんをまうけて、つひにかたぶけ奉りしことこそあさましけれ。この君の御一失と申し伝はべり。菅氏権化ごんげの御事なれば、末世まつせのためにやありけん、はかりがたし。善相公清行ぜんしやうこうきよつら朝臣はこの事いまだきざゝざりしに、かねてさとりて菅氏にわざはひをのがれ給うべきよしを申しけれど、さたなくてこの事出来いできにき。さきにも申しはべりし、我国には幼主の給いこと昔はなかりしこと也。貞観ぢやうぐわん元慶ぐわんぎやうの二代始めて幼にて玉ひしかば、 忠仁公ちゆうじんこう昭宣公せうせんこう摂政にて天下を る。この君ぞ十四にてうけつぎ給いて、摂政もなく御みづからまつりことをしらせましましける。猶御幼年のゆゑにや、左相の讒にもまよはせ給いけん。聖も賢も一失はあるべきにこそ。そのおもむき経書けいしよにみえたり。されば曾子そうしは、「 吾日三省吾躬われひにみたびわがみをかへりみる」と 季文子きぶんしは「三思みたびおもふ」ともふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよいよつゝしみましますべきこと也。昔応神天皇も ざんをきかせ玉ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼はよくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮およびがたし。ほどなく神とあらはれて、今にいたるまで霊験無双れいげんぶさうなり。末世まつせやくをほどこさんためにや。讒をし大臣はのちなくなりぬ。同心ありけるたぐひもみな神罰しんばちをかうぶりにき。この君く世をたもたせ給いて、徳政とくせいをこのみ行はせ玉ふこと上代にこえたり。天下泰平たいへい民間安穏にて、本朝仁徳のふるき跡にもなぞらへ、異域いいき堯舜のかしこき道にもたぐへ申しき。延喜七年丁卯ひのとうの年、もろこしの唐りやうと云う国にうつりにけり。うちつゞき後唐こうたう・晉・漢・周となん云う五代ありき。この天皇天下を治め給いしこと三十三年。四十四歳おましましき。
 ○第六十一代、朱雀すざく天皇。諱は寛明ひろあきら、醍醐十一の子。御母皇太后藤原穏子をんし、関白太政大臣基経の女也。御兄保明やすあきらの太子おくりな文彦ぶんげんと申し〉早世、その御子慶頼よしよりの太子もうちつゞきかくれましゝかば、保明 一腹ひとつはらの御弟にて給う。庚寅かのえとらの年即位、辛卯かのとうに改元。外舅ははかたのをぢ左大臣忠平ただひら 〈昭宣公の三男、 貞信公ていしんこうと云う〉摂政せらる。寛平くわんべいに昭宣公こうじてのちには、延喜御一代まで摂関なかりき。この君又幼主にて立ち給によりて、故事にまかせて万機を摂行せつかうせられけるにこそ。この御時、 たひら将門まさかどと云う物あり。上総介かづさのすけ 高望たかもち〈高望は 葛原かづらはらの親王[の] 平姓たひらのしやうる。桓武四代の御苗裔べうえいなりとぞ〉執政しつせいいへにつかうまつりけるが、使宣旨せんじ申しけり。不許ふきよなるによりいきどほりをなし、東国に下向げかうして 叛逆ほんぎやくをおこしけり。まづ伯父をぢ 常陸ひたち大掾たいじよう 国香くにかをせめしかば、国香自殺しぬ。これより 坂東ばんどうをゝしなびかし、下総国しもふさのくに 相馬郡さうまのこほりに居所をしめ、 みやことなづけ、みづから へい親王と称し、官爵をなしあたへけり。これによりて天下騒動す。 参議さんぎ 民部卿みんぶきやう けん 右衛門督うゑもんのかみ藤原忠文朝臣ただふんのあそんを征東大将軍とし、源経基つねもと 〈清和の御すゑ六孫王とふ。頼義よりよし義家よしいへ の先祖也〉・藤原仲舒なかのぶ 〈忠文の弟也〉を副将軍としてさしつかはさる。平貞盛さだもり 〈国香が子〉・藤原秀郷ひでさと等心をひとつにして、将門をほろぼしてそのかうべを奉りしかば、諸将は道よりかへりまゐりにき 〈将門、 承平じようへい五年二月きさらぎに事をおこし、天慶てんぎやう三年二月に滅ぬ。そのあひだ六年へたり〉。藤原純友すみともと云う物、かの将門に同意して西国にて 叛乱ほんらんせしかば、少将小野好古をののよしふるつかはして追討せらる〈天慶四年に純友はころさるとぞ〉。かくて天下しづまりにき。延喜の御代さしも 安寧あんねいなりしに、いつしかこのみだれ 出来いできたる。天皇もおだやかにましましけり。又貞信公の執政なりしかば、 まつりことたがふことははべらじ。時の災難にこそとおぼえ侍る。天皇御子ましまさず。一腹ひとつはらの御弟太宰帥だざいのそつの親王を太弟たいていにたてゝ、天位をゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給う。天下を治め給いしこと十六年。三十歳おましましき。
 ○第六十二代、第三十四世、村上むらかみ天皇。諱は成明なりあきら、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。丙午ひのえうまの年即位、丁未ひのとひつじに改元。兄弟相譲ゆづらせ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれ先皇せんくわうのあとをつぎ申させ給ければ、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸を給うこともかはりまさゞりけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康 〈文王は正位につかず〉、漢には文・けいなんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立ち給いしに、うちつゞき明主のり給いし、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかた天徳てんとく年中にや、はじめて内裏だいり炎上えんしやうありて内侍所ないしどころにしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「円規ゑんき損ずることなくして分明ふんみやうにあらはれいで給う。見奉る人、驚感きやうかんせずと云ことなし」とぞ御記ぎよきにみえ侍る。この時に神鏡 南殿なでんさくらにかゝらせ給いけるを、小野宮をののみや実頼さねよりのおとゞ袖にうけられたりと申しことあれど、ひが事をなん云伝侍いひつたへはべる也。

 応和おうわ元年辛酉かのととりの年もろこしの後周て宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひだ彼国おほき五姓ごしやううつりかはりて国のしゆたり。五季ごきとぞ云ける。宋の代に賢主うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。この天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おましましき。御子おほくましまししなかに冷泉・円融は天位につき給しかばにおよばず。親王の中に具平ともひらの親王〈六条の宮と申す。中務卿なかつかさきやう給いき。さき兼明かねあきら親王名誉おはしき。よりてこれをば中書王と申す〉賢才文芸のかた代々の御あとをよく相継あひつぎ申玉ひけり。一条の御代に、よろづ昔をおこし、人をましましければ、この親王昇殿し給いし日、清涼殿せいりやうでんにて作文さくもんありしに〈中殿の作文と云ことこれよりはじまる〉「所貴是賢才」と云う題にてゐんをさぐらるゝことあり。この親王の御ためなるべし。

 凡
諸道にあきらかに、仏法のかたまでくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、この御すゑのみぞいまにまで大臣以上に至て相つぎ侍る。源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫にしやうて人臣となし給う。即ち御子あまた源氏の姓をる。桓武の御子葛原かづらはら)の親王の男、高棟平たかむねたひらの姓を給わる。平城の御子阿保あほの親王の男、行平ゆきひら業平なりひら在原ありはらの姓を給ることもこの後のことなれど、これはたまたまの儀也。弘仁以後代々の御のちはみなみなもとの姓をしなり。親王の宣旨をかうぶる人は才不才さいふさいによらず、国々に封戸ふこなどられて、世のつひえなりしかば、人臣につらねみやづかへし ものまなびして朝要てうえうにかなひ、うつはにしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人はぢきに四位に叙す 〈皇子皇孫にとりての事也〉。当君のは三位なるべしと云う 〈かゝれどそのためしまれなり。嵯峨の御子大納言さだむの卿三位に叙せしかども、当代にはあらず〉。かくて代々のあひだ姓をはりし人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓をはる人二十一人。このうち、大臣にのぼる人、ときはの左大臣けん大将、まことの左大臣、とほるの左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、まさるの右大臣、ひかるの右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。大臣にのぼる人、能有よしありの右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝さねともの右大臣兼大将 〈これは貞純さだすみ親王の苗裔なり〉。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓をはりて大臣にのぼる人、雅信まさのぶの左大臣、重信しげのぶの左大臣 〈ともに敦実あつみ親王の男なり〉。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣にのぼる人、高明たかあきらの左大臣兼大将、兼明かねあきらの左大臣 〈後には親王とす。中務卿に任ず。さきの中書王これなり〉。この後は皇子の姓をはることはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣をほんとしるすによりてことごとくはのせず。ちかくは後三条の御孫に有仁ありひとの左大臣兼大将輔仁すけひと親王の男、白川院御猶子にてぢきに三位せし人なり〉二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたまたま大臣に至てもいづれか二代と相つげる。ほとほと納言なふごん以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。

 皇胤くわういん
貴種きしゆよりいでぬる人、おんをたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものにまんずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりのちかひにて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋あめのこやねの御流きみをたすけ奉るべきうつはとなれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらばふたはしらの神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なかなか上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にもふうぜられ、将相しやうしやうにも任ぜられき。崇神天皇十年に始めて四人よにんの将軍を任じて四道しだうへつかはされしも皆なこれ皇族なり。

 景行天皇五十一年始めて棟梁とうりやうの臣をて武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に大臣おほおみとす 〈我朝大臣だいじんこれに始まる〉。六代の朝につかへて執政たり。この大臣おほおみも孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠うぢをさかやかし、忠仁公まつりことせつせられしより、もはら輔佐ふさうつはとして、立ちかへり、神代の幽契いうけいのまゝに成ぬるにや。閑院の大臣おとど冬嗣うぢおとろへたることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、そのしるしも相くはゝり侍けんかし。この親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。その子師房もろふさ姓をはりて人臣に列せられし、才芸いにしへにはぢず、名望世にきこえあり。十七歳にて納言に任じ、数十年のあいだ朝廷の故実こじつに練じ、大臣大将にのぼりて、懸車けんしやよはひまでつかうまつらる。親王のむすめ 祇子きしの女王は宇治うぢの関白のしつなり。よりてこの大臣をば彼関白の子にし給いて、藤子とうじにかはらず、春日社かすがのやしろにもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁あひかせられしかば、子孫もみなかの外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば遠祖とほつおやの如くに思へり。それよりこのかた和漢の稽古けいこをむねとし、報国の忠節をさきとするまことあるによりてや、この一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも行跡かうせきうたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづからおとろへてあとなきもあり。向後きやうこうふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉るなかに、藤氏のおこりは所々に申し侍ぬ。みなもとも久しくなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流ひととほりにて十七代にしめ給う。臣もこの御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞこの君の徳すぐれ給いけるゆゑに余慶よきやうあるかとこそあふぎ申しはべれ。
 ○第六十三代、冷泉院れいぜんゐん。諱は憲平のりひら、村上第二の子。御母中宮藤原安子やすこ、右大臣師輔もろすけの女也。丁卯ひのとうの年即位、戊辰つちのえたつに改元。この天皇邪気じやきおはしければ、即位の時大極殿だいごくでんいで給こともたやすかるまじかりけるにや、紫宸殿ししんでんにてそのれいありき。に年ばかりして譲国。六十三歳おはしましき。この御門より天皇の号を申さず。宇多うだより後、おくりなをたてまつらず。遺詔ゆゐぜうありて国忌こくき山陵さんりようをゝかれざることは君父くんふのかしこき道なれど、尊号をとゞめらるゝことは臣子の義にあらず。神武以来このかたの御号も皆後代のなり。持統・元明より以来このかた避位或るいは出家の君も謚をたてまつる。天皇とのみこそ申しめれ。中古の先賢の議なれども心をえぬことに侍なり。
 ○第六十四代、第三十五世、円融院ゑんゆうゐん。諱は守平もりひら、村上第五の子、冷泉同母の弟也。己巳つちのとみの年即位、庚午かのえうまに改元。天下を治め給いしこと十五年。禅譲、尊号つねの如し。つぎの年の程にや御出家。永延えいえんの比、寛平の れいをおふて、東寺とうじにて潅頂くわんぢやうせさせ給う。御師おんしは即ち寛平の御孫弟子でし寛朝くわんでう僧正なり。三十三歳おましましき。
 ○第六十五代、花山くわさん院。諱は師貞もろさだ、冷泉第一の子。御母皇后藤原懐子かねこ、摂政太政大臣伊尹これまさの女也。甲申きのえさるの年即位、乙酉きのととりに改元。天下を治め給いしこと二年ありて、にはか発心して花山寺くわざんじにて出家し給う。弘徽殿こきでん女御にようご〈太政大臣為光ためみつの女也〉かくれて悲歎かなしみなげきましけるをりをえて、粟田関白道兼みちかねのおとゞのいまだ蔵人弁くらうどのべんときこえし比にや、そゝのかし申してけるとぞ。山々をめぐりて修行せさせましゝが、後には都にかへりてすませ給いけり。これも御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おましましき。
 ○第六十六代、第三十六世、一条いちでう院。諱は懐仁かねひと、円融第一の子。御母皇后藤原詮子せんし〈後には東三条院と申す。后宮こうぐう院号の始也〉、摂政太政大臣兼家かねいへの女なり。花山の御門みかど神器をすてゝ宮を出給いしかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせしが、うちにまゐり、諸門をかためて譲位の儀をおこなはれき。新主もをさなくましまししかば、摂政の儀ふるきがごとし。丙戌ひのえいぬの年即位、丁亥ひのとゐに改元。そのゝち摂政病により嫡子ちやくし内大臣 道隆みちたかて出家、猶准三宮じゆさんぐうせんかうぶる 〈執政の人出家の始め也。その比は出家の人なかりしかば、入道殿となん申す。よりて源の満仲まんぢゆう出家したりしをはゞかりて 新発しんぼちとぞ云ける〉。この道隆始めて大臣を前官ぜんくわんにて関白せられき 〈前官の摂政もこれを始めとす〉やまひありてその子内大臣伊周これかたしばらく相かはりて内覧ないらんせられしが、相続して関白たるべきよしをぜられけるに、道隆かくれて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。七日と云しにあへなくうせられにき。その弟にて道長みちなが、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣までいたられしかど、延喜・天暦の昔をおぼしめしけるにや、関白はやめられにき。三条の御時にや、関白して、後一条の御世の初、外祖にて摂政せらる。兄弟おほくおはせしに、この大臣のながれひとつに摂政関白はし給ぞかし。昔もいかなるゆゑにか、昭宣公の三男にて貞信公、々々々の二男にて師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条のおとゞ、東三条の三男にて 道綱みちつなの大将は一男歟。されど三弟にこされたり。よりて道長を三男としるす〉このおとゞ、みな父のたる嫡子ならで、自然じねんに家をつがれたり。祖神そじんのはからはせ給へる道にこそ侍りけめ 〈いづれも兄にこえて家をつたへらるべきゆゑありと申ことのあれど、ことしげければしるさず〉。この御代にはさるべき上達部かんだちめ・諸道の家々・顕密の僧までもすぐれたる人おほかりき。されば御門みかども「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり。」とぞたんぜさせ給ける。天下を治給こと二十五年。御病のほどに譲位ありて出家せさせ給う。三十三歳おましましき。
 ○第六十七代、三条さんでう院。諱は居貞ゐやさだ、冷泉第二の子。御母皇太后藤原[の]超子てうし、これも摂政兼家の女也。花山院世をのがれ給しかば、太子に立給しが、御邪気のゆゑにや、折々御目のくらくおはしけるとぞ。辛亥かのとゐの年即位、壬子みづのえねに改元。天下を治め給いしこと五年。尊号ありき。四十二歳おましましき。
 第六十八代、後一条ごいちでう院。諱は敦成あつひら、一条第二の子。御母皇后藤原彰子しやうし 〈後に上東じやうとう門院と申す〉、摂政道長の大臣の女也。丙辰ひのえたつの年即位、丁巳ひのとみに改元。外祖道長のおとゞ摂政せられしが、のちに摂政をば嫡子頼通よりみちの内大臣におはせしにゆづり、猶太政大臣にて、天皇御元服の日、加冠かくわん理髪父子りはつふしならびて勤仕きんしせられしこそめづらしく侍しか。冷泉・円融の両流かはる〴〵しらせ給ひしに、三条院かくれ給てのち、御子敦明あつあきらの御子、太子にゐ給しが、心とのがれて院号かうぶりて小一条院と申しき。これより冷泉の御流はたえにけり。冷泉はこのかみにて御すゑも正統とこそ申べかりしに、昔天暦てんりやくの御時元方もとかたの民部卿のむすめ御息所みやすどころいちのみこ広平ひろひら親王をうみたてまつる。九条殿の女御にようごまゐり給て、第二の皇子 〈冷泉にまします〉いでき玉ひし比より、悪霊になりてこのみこも邪気になやまされましき。花山院のにはかに世をのがれ、三条院の御目のくらく、この此東宮のかくみづからしりぞき給いぬるも怨霊をんりやうのゆゑなりとぞ。円融も一腹ひとつはらの御弟におはしませど、これまではなやまし申ささゝりけるもしかるべき継体の御運ましましけるにこそ。東宮しりぞき給いしかば、この天皇同母の御弟敦良あつながの親王立給き。天皇も御子なくて、かの東宮の御末ぞ継体せさせ給ぬる。天皇天下を治め給いしこと二十年。二十九歳おましましき。
 ○第六十九代、第三十七世、後朱雀ごすざく院。諱は敦良あつなが、後一条同母の弟也。丙子ひのえねの年即位、丁丑ひのとうしに改元。天皇賢明にましましけるとぞ。されどその比 執柄しつへい権をほしきまゝにせられしかば、御まつりことのあときこえず。 無念なることにや。長久ちやうきうころ 内裏だいりありて、神鏡しんきやう 焼け給。猶霊光れいくわうげんじ給ければその灰をあつめて安置あんぢせられき。天下を治め給いしこと九年。三十七歳おましましき。
 ○第七十代、後冷泉ごれいぜん院。諱は親仁ちかひと、後朱雀第一の子。御母贈皇太后藤原嬉子きし 〈本は 尚侍ないしのかみ、摂政道長のおとゞ第三の女なり。乙酉きのととりの年即位、丙戌ひのえいぬ改元。此御代のすゑつかた、世の中やすからずきこえき。 陸奥みちのおくにも 貞任さだたふ宗任むねたふなど云し者、国をみだりければ、 源頼義みなもとのよりよして追討せらる 〈頼義陸奥守に任じ、鎮守府の将軍を けんす。 彼家かのいへ鎮守将軍に任ずる始め也。曾祖父 経基つねもとは征東副将軍たりき〉。十二年ありてなむしづめ侍ける。この君御子ましまさざりし上、後朱雀の 遺詔ゆゐぜうにて、後三条東宮にゐ給へりしかば、継体はかねてよりさだまりけるにこそ。天下を治め給いしこと二十三年。四十四歳おましましき。




(私論.私見)