巻三

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.26日

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 2009.1.9日、2011.8.20日再編集 れんだいこ拝


 神皇正統記巻三
 ○第二十一代、 安康あんかう天皇は允恭第二の子。御母 忍坂大中をしさかのおほなかつ姫、 稚渟わかぬ 野毛二派けふたまた皇子みこの 〈応神の御子〉女也。甲午きのえうまの年即位。大和穴穂やまとのあなほの宮にまします。 大草香おほくさかの皇子を仁徳にんとくの御子〉殺してそのをとりて皇后とす。かの皇子の子 眉輪まゆわの王をさなくて、母にしたがひて宮中に 出入しゆつにふしけり。天皇 高楼たかどのの上に 酔臥ゑひふし給いけるをうかゞひて、刺し殺して大臣おほおみ 葛城かづらきつぶらが家ににげこもりぬ。この天皇天上を治め給いしこと三年。五十六歳おましましき。
 ○第二十二代、雄略ゆうりやく天皇は允恭いんぎよう第五の子、安康同母の弟也。大泊瀬おほはつせの尊と申。安康殺され給いし時、眉輪の王つぶらの大臣をちゆうせらる。あまつさへその事にくみせられざりし市辺押羽いちべのをしはの皇子をさへにころして位に即給つきたまふ。今年丁酉ひのととりの年也。大和の泊瀬朝倉あさくらの宮にまします。天皇せいたけくましましけれども、神に通じ給へりとぞ。二十一年丁巳ひのとみ十月かんなづきに、伊勢の皇太神すめおほみかみ大和姫の命にをしへて、丹波たんばの与佐よさ魚井まなゐの原よりして豊受とようけの太神を迎へ奉らる。大和姫の命奏聞そうもんし給いしによりて、明年みやうねん戊午つちのえうまの秋七月ふみづき勅使ちよくしをさしてむかへたてまつる。九月ながつき度会わたらひこほり山田の原の新宮しんぐうにしづまり給う。

 垂仁天皇の御代に、皇太神五十鈴いすずの宮にうつらしめ給いしより、四百八十四年になむなりにける。神武のよりすでに千百余年に成りぬるにや。又これまで大倭姫やまとひめの命存生ぞんしやうし給いしかば、内外宮ないげくうのつくりも、日の小宮わかみや図形づぎやう文形もんぎやうによりてなさせ給いけりとぞ。そもそも)この神の御事異説まします。外宮には天祖あまつみおや天御中主あめのみなかぬしの神と申し伝たり。されば皇太神の託宣たくせんにて、この宮の祭をにせらる。かみをがみ奉るもづこの宮を先とす。天孫瓊々杵あめみまににぎの尊この宮の相殿あひどのにまします。よりて天児屋あめのこやねの命・天太玉あめのふとたまの命も天孫につき申して相殿にます也。これより二所[の]太神宮と申す。丹波より遷らせことは、昔豊鋤入姫とよすきいりひめの命、天照太神を頂戴ちやうだいして、丹波の吉佐よさの宮にうつり給いけるころ、この神あまくだりて一所ひとつところにおはします。四年ありて天照太神は又大和にかへらせ。それよりこの神は丹波にとまらせ給いしを、道主みちぬしの命と云う人いつきけり。いにしへはこの宮にて御饌みけをとゝのへて、内宮へも毎日におくりたてまつりしを、神亀じんき年中より外宮げくう御饌殿みけどのをたてゝ、内宮ないくうのをも一所ひとつところにてたてまつるとなん。かやうの事によりて、御饌みけの神と説あれど、御食みけ御気みけとの両義あり。陰陽元初いんやうげんしよ御気みけなれば、あめ狭霧さぎりくに狭霧さぎり御名もあれば、猶さきの説をしやうとすべしとぞ。天孫あめみまさへ相殿あひどのにましませば、御饌の神と云う説はもちゐがたき事にや。この天皇天下を治め給いしこと二十三年。八十歳おましましき。
 ○第二十三代、清寧せいねい天皇は雄略ゆうりやく第三の子。御母韓姫からひめ、葛城のつぶらの大臣の女也。庚申かのえさるの年即位。大倭の磐余甕栗いはれのみかくりの宮にまします。誕生白髪はくはつおはしければ、しらかの天皇とぞ申しける。御子なかりしかば、皇胤くわういんのたえぬべき事をなげき給いて、国々へ勅使をつかはして皇胤をもとめらる。市辺いちべ押羽おしはの皇子、雄略にころされ給しとき、皇女くわうぢよ 一人ひとり皇子わうじ 二人ふたりましけるが、丹波国にかくれ給いけるを求め出いでて、御子にしてやしなひ給いけり。天下を治め給いしこと五年。三十九歳おましましき。
 ○第二十四代、顕宗けんそう天皇は市辺押羽の皇子第三の子、履中りちゆう天皇[の]孫也。御母荑媛はえひめあり臣女おみのむすめ也。白髪しらかの天皇やしなひて子とし給ふ。御兄このかみ 仁賢にんけん まづ位に即給つきたまふべかりしを、相共にましまししかば、同母の御姉飯豊いゝとよの尊しばらくくらゐに居給いき。されどやがて顕宗けんそう さだまりましまししによりて、飯豊いひとよ天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬ也。乙丑きのとうしの年即位。大和の近明日香八釣ちかつあすかやつりの宮にまします。天下を治め給いしこと三年。四十八歳おましましき。
 ○第二十五代、仁賢にんけん天皇は顕宗けんそう同母の御兄このかみ也。雄略ゆうりやくわが父の皇子をころし給しことをうらみて、「御陵みさゝぎをほりて御屍かばねをはづかしめん」との給いしを、顕宗いさめましまししによりて、徳のおよばざることをはぢて、顕宗をさきだて給いけり。戊申つちのえさるの年即位。大和の石上広高いそのかみひろたかの宮にまします。天下を治め給いしこと十一年。五十歳おましましき。
 ○第二十六代、武烈ぶれつ天皇は仁賢の太子。御母大娘おほいらつめの皇女、雄略の御女也。己卯つちのとうの年即位。大和の泊瀬列城はつせなみきの宮にまします。せいさがなくまして、あくとしてなさずと云ことなし。よりて 天祚あまつひつぎひさしからず。仁徳さしも聖徳せいとくましまししに、この皇胤くわういんこゝにたえにき。「聖徳はかならず百代にまつらる」。春秋しゆんじうにみゆ〉とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、そのそうを滅すべき先蹤せんしよう はなはだおほし。されば上古しやうこ聖賢せいけんは、子なれども慈愛におぼれず、うつはにあらざればつたふることなし。げう 丹朱たんしゆ 不肖ふせうなりしかば、しゆんにさづけ、舜の子商均しやうきん不肖ふせうにして夏禹かのうゆづられしが如し。堯舜よりこなたには猶天下をわたくしにする故にや、子孫にふることになりにしが、のちけつ 暴虐ぼうぎやくにして国を失ひ、いんたう聖徳ありしかど、ちうが時無道ぶだうにして永くほろびにき。天竺てんぢくにも仏滅度めつど百年の後、阿育あいくと云う王あり。姓は孔雀くじやく氏、王位につきし日、鉄輪てちりん 飛び降くだる。転輪てんりん威徳ゐとくをえて、閻浮提えんぶだい統領とうりやうす。あまさへもろもろ鬼神きじんをしたがへたり。正法しやうぼふを以て天下ををさめ、仏理に通じて三宝さんぼうをあがむ。八万四千のたふて、舎利しやり安置あんぢし、九十六億千のこがねすて功徳くどくする人なりき。その三世さんせいの弗沙密多羅ふしやみつたら王の時、悪臣のすゝめによ[つ]て、祖王そわうたてたりし塔婆たふば破壊はゑせんと云う悪念あくねんをおこし、諸々の寺をやぶり、比丘びく殺害せつがいす。阿育王のあがめし鷄雀寺けいじやくじ仏牙歯ぶつげしの塔をこぼたんとせしに、護法神ごほふじんいかりをなし、大山たいせんして王四兵しひやうの衆をおしころす。これより孔雀のしゆ ながく にき。かゝれば先祖おほきなる徳ありとも、不徳の子孫宗廟そうべうのまつりをたゝむことうたがひなし。この天皇天下を治め給いしこと八年。五十八歳おましましき。
 ○第二十七代、第二十世、継体けいたい天皇は応神おうじん五世の御孫也。応神第八[の]御子隼総別はやぶさわけの皇子、その子大迹おほとの王、その子私斐しいの王、その子彦主人ひこぬしの王、その子男大迹をほとの王とはこの此天皇にまします。御母振姫ふるひめ垂仁すゐにん七世の御孫也。越前ゑちぜんの国にましける。武烈ぶれつかくれ給いて皇胤くわういんたえにしかば、群臣うれへなげきて国々にめぐり、ちかき皇胤を求め奉たてまつりけるに、この天皇王者わうしや大度たいどまして、潜龍せんりようのいきほひ、世にきこえ給いけるにや。群臣相はからひむかへ奉る。三たびまで謙譲けんじやうけれど、つひに位につき給ふ。ことし丁亥ひのとゐの年也。武烈ぶれつかくれ給いて後、二年くらゐをむなしくす。大和の磐余玉穂いはれたまほの宮にまします。仁賢にんけんの御むすめ 白香たしらかの皇女を皇后とす。即位し給いしよりまこと賢王けんわうにましましき。応神御子おほくきこえ給いしに、仁徳にんとく賢王にてましまししかど、御末みすゑたえにき。隼総別はやぶさわけの御末、かく世をたもたせこと、いかなる故にかおぼつかなし。仁徳をば大鷦鷯おほさざきの尊と。第八の皇子をば隼総別はやぶさわけと申す。仁徳の御代みよに兄弟たはぶれて、鷦鷯さざき小鳥ことり也、はやぶさ大鳥おほとり也と給いしことありき。隼の名にかちて、末の世をうけつぎ給いけるにや。もろこしにもかゝるためしあり 左伝さでんにみゆ〉。名をつくることもつゝしみおもくすべきことにや。それもおのづから天命てんめいなりといはゞ、凡慮ぼんりよべきにあらず。この天皇の給いしことぞ思いの外ほか御運ごうんとみえはべる。皇胤くわういんたえぬべかりし時、群臣択求奉えらびもとめたてまつりき。賢名けんめいによりて天位を伝え給へり。天照太神の御本意ごほんいにこそとみえたり。皇統くわうとうにその人ましまさん時は、かしこき 諸王しよわうおはすとも、いかでをなし給べき。皇胤たえ給はんにとりては、けんにて天日嗣あまつひつぎにそなはり給はんこと、又天のゆるす所也。この天皇をば我国中興ちゆうこう祖宗そそうあふたてまつるべきにや。天下を治め給いしこと二十五年。八十歳おましましき。
 ○第二十八代、安閑あんかん天皇は継体の太子。御母は目子めのこ姫、尾張をはり草香くさかむらじむすめ也。甲寅きのえとらの年即位。大和の勾金橋まがりのかなはしの宮にまします。天下を治め給いしこと二年。七十歳おましましき。
 ○第二十九代、宣化せんくわ天皇は継体第二の子、安閑あんかん同母の弟也。丙辰ひのえたつの年即位。大和の檜隈廬入野ひのくまのいほりのの宮にまします。天下を治め給いしこと四年。七十三歳おましましき。
 ○第三十代、第二十一世、欽明きんめい天皇は継体けいたい第三の子。御母皇后手白香たしらかの皇女、仁賢にんけん天皇の女也。両兄りやうけいましまししかど、この天皇の御すゑ世をたもち。御母がた仁徳のながれにてましませば、猶もその遺徳つきずしてかくさだまり給いけるにや。庚申かのえさるの年即位。大倭磯城嶋やまとのしきしま金刺かなさしの宮にまします。十三年壬申みづのえさる十月かんなづき百済くだらの国より仏・法・僧をわたしけり。この国に伝来の始めなり。釈迦如来しやかによらい 滅後めつご一千十六年にあたる年、もろこしの後漢ごかん明帝めいてい 永平えいへい十年に仏法はじめてかの国につたはる。それよりこの壬申みづのえさるの年まで四百八十八年。もろこしには北朝のせいの 文宣帝ぶんせんてい即位三年、南朝のりやうの 簡文帝かんぶんていにも即位三年也。簡文帝の父をば武帝ぶていと申しき。おほきに仏法をあがめられき。この御代の初めつかたは武帝同時也。仏法はじめて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、我国の神慮にたがふべきよし、群臣かたく諌申いさめまをしけるによりてすてられにき。されどこの国に 三宝さんぼうの名をきくことはこの時にはじまる。又、わたくしにあがめつかへ奉る人もありき。天皇聖徳ましまして三宝をかんぜられけるにこそ。群臣のいさめによりて、その法をたてられずといへども、天皇の叡志えいしにはあらざるにや。昔、ぶつ在世に、天竺てんぢく月蓋長者ぐわつがいちやうじやたてまつりし弥陀三尊みださんぞん金像こんざうへてわたし奉りける、難波なには堀江ほりえにすてられたりしを、善光ぜんくわうと云う者とり奉て、信濃しなのの国に安置あんぢし申しき。今の善光寺ぜんくわうじこれ也。この御時八幡大菩薩はちまんだいぼさつ 垂迹すゐじやくしまします。天皇天下を治め給こと三十二年。八十一歳おましましき。
 ○第三十一代、第二十二世、敏達びだつ天皇は欽明第二の子。御母石媛いしひめの皇女、宣化せんくわ天皇の女也。壬辰みづのえたつの年即位。大倭磐余訳語田やまとのいはれおさだの宮にまします。二年癸巳みづのとみの年、天皇の御弟豊日とよひ皇子の、御子を誕生す。厩戸うまやどの皇子にまします。うまれ給いしより様々の奇瑞きずゐあり。たゞびとにましまさず。御手をにぎり給いしが、二歳にて東方にむきて、南无仏なむぶつとてひらき給いしかば、ひとつ舎利しやりありき。仏法流布るふのために権化ごんげし給へることうたがひなし。この仏舎利ぶつしやりは今に大倭やまと法隆寺ほふりゆうじにあがめ奉る。天皇天下を治め給いしこと十四年。六十一歳おましましき。
 ○第三十二代、用明ようめい天皇は欽明第四の子。御母堅塩姫きたしひめ蘇我そが稲目大臣いなめのおほおみの女也。豊日とよひの尊と申す。厩戸の皇子の父におはします。丙午ひのえうまの年即位。大和やまと池辺列槻いけのへのなみつきの宮にまします。仏法をあがめて、我国に流布るふせむとし給いけるを、弓削守屋ゆげのもりや大連をほむらじかたむけ、つひに叛逆ほんぎやくにおよびぬ。厩戸の皇子、蘇我そが大臣おほおみと心をひとつにして誅戮ちゆうりくせられ、すなはち仏法をひろめられにけり。天皇天下を治め給いしこと二年。四十一歳おましましき。
 ○第三十三代、崇峻すしゆん天皇は欽明きんめい第十二の子。御母小姉君こあねきみいらつめ。これも稲目いなめ大臣おほおみの女也。戊申つちのえさるの年即位。大和の倉橋くらはしの宮にまします。天皇横死わうしさうみえ。つゝしみますべきよしを厩戸の皇子給いけりとぞ。天下を治め給いしこと五年。七十二歳おましましき。或る人のふ。外舅ははかたのをぢ 蘇我そが馬子大臣うまこのおほおみと御なかあしくして、かの大臣のためにころされ給いきともいへり。
 ○第三十四代、推古すゐこ天皇は欽明の御女、用明ようめい同母の御妹也。御食炊屋みけしかや姫の尊と。敏達天皇々后としふ。〈仁徳も異母の妹を妃とし給うことありき〉。崇峻かくれ給いしかば、癸丑みづのとうしの年即位。大倭やまと小墾田をはりたの宮にまします。昔神功皇后じんぐうくわうごう六十余年天下を給しかども、摂政せつしやうと申して、天皇とは号したてまつらざるにや。このみかどは正位しやうゐにつき給いにけるにこそ。厩戸の皇子を皇太子として万機ばんきまつりことをまかせ給う。摂政と申しき。太子のけん国と云うこともあれど、それはしばらくの事也。これはひとへに天下を治め給いにけり。太子聖徳せいとくましまししかば、天下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。太子いまだ皇子にてましましし時、逆臣ぎやくしん守屋もりやちゆうし給いしより、仏法流布しき。ましてまつりことをしらせ給へば、三宝さんぼううやまひ正法しやうぼふをひろめ給うこと、仏世ぶつせにもことならず。又神通自在じんづうじざいにましましき。御身自ら法服をちやくして、きやうを講じ給いしかば、天より花をふらし、放光動地はうくわうどうちずゐありき。天皇・群臣、たふとびあがめ奉ること仏のごとし。伽藍がらんをたてらるゝ事四十余け所におよべり。又この国には昔より人すなほにして法令ほふりやうなんどもさだまらず。

 十二年甲子きのえねにはじめて冠位くわんゐと云ことをさだめかうぶりのしなによりて、上下かみしもをさだむるに十八階あり〉、十七年己巳つちのとみ憲法けんはふ十七け条をつくりて奏し給う。内外典ないげてんのふかき道をさぐりて、むねをつゞまやかにしてつくり給へる也。天皇よろこびて天下に施行しかうせしめ給いき。このころほひは、もろこしにはずいの世也。南北朝相分あひわかれしが、南は正統をうけ、北は戎狄じゆうてきよりおこりしかども、中国をば北朝にぞをさめける。ずゐは北朝の後周こうしうと云いしがゆづりをうけたりき。のちに南朝のちんをうちたひらげて、一統の世となれり。この天皇の元年癸丑みづのとうし文帝ぶんてい一統ののち四年也。十三年乙丑きのとうし煬帝やうだいの即位元年にあたれり。彼国よりはじめて使をおくり、よしみを通じけり。隋帝ずゐていの書に「皇帝恭問倭皇」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王しよこうわうにつかはす礼儀れいぎなりとて、群臣あやしみ申けるを、太子のゝたまひけるは、「皇の字はたやすくもちゐざることばなれば」とて、返報へんはうをもかゝせ、様々饗祿きやうろくをたまひて使をかへしつかはさる。これよりこの国よりもつねに使をつかはさる。その使を遣隋大使けんずゐたいしとなむなづけられしに、二十七年己卯つちのとうの年、隋ほろびたうの世にうつりぬ。二十九年辛巳かのとみの年太子かくれ給う。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申すこと父母にするがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化ごんげの御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御いみなを聖徳となづけたてまつる。この天皇天下を治め給いしこと三十六年。七十歳おましましき。
 ○第三十五代、第二十四世、舒明じよめい天皇は忍坂大兄おしさかおほえの皇子の子、敏達びだつの御孫也。御母糠手ぬかて姫の皇女、これも敏達の御女むすめ也。推古すゐこ天皇は聖徳太子の御子にへ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、欽明きんめい嫡曾孫ちやくそうそんにまします。又太子御やまひにふし給し時、天皇この皇子を御使としてとぶらひましゝに、天下のことを太子の申し付給へりけるとぞ。癸丑みづのとうしの年即位。大倭の高市郡岡本たけちのこほりをかもとの宮にまします。この即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、貞観ぢやうぐわん三年にあたれり。天下を治め給いしこと十三年。四十九歳おましましき。
 ○第三十六代、皇極くわうぎよく天皇は茅渟ちぬの王の女、忍坂大兄をしさかおほえの皇子の孫、敏達の曾孫そうそん也。御母吉備姫きびひめの女王と申しき。舒明天皇々后とし給う。天智てんぢ天武てんむの御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしましゝかば、壬寅みづのえとらの年即位。大倭明日香河原やまとのあすかのかはらの宮にまします。この時に蘇我蝦夷そがのえみし大臣おほおみ 馬子うまこの大臣の子〉ならびにその子入鹿いるか朝権てうけんにして皇家くわうかをないがしろにする心あり。その家を宮門みかど、諸子を王子となむ云いける。上古しやうこよりの国紀重宝こくきちようほうみな私家わたくしのいへにはこびおきてけり。中にも入鹿悖逆はいげきの心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくましまししをほろぼし奉る。こゝに皇子なか大兄おほえ舒明じよめいの御子、やがてこの天皇御所生ごしよしやう也。中臣鎌足なかとみのかまたりむらじと云う人と心をひとつにして入鹿いるかをころしつ。父蝦夷えみしも家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみなやけにけり。蘇我の一門く権をとれりしかども、積悪しやくあくのゆゑにやみなぬ。山田石川丸やまだのいしかはまろと云う人ぞ皇子と心をかよはし申しければめつせざりける。この鎌足かまたりの大臣は天児屋根あめのこやねの命二十一世[の]そん也。昔天孫あめみまあまくだり給いし時、諸神の上首じやうしゆにて、このみこと、殊に天照太神のみことのりをうけて輔佐ふさの神にまします。中臣なかとみと云うことも、ふたはしらの神の御中にて、神の御心をやはらげて申し給いけるゆゑ也とぞ。そのまご天種子あめのたねこの命、神武の御代に祭事まつりことをつかさどる。上古しやうこかみきみひとつにましまししかば、まつりをつかさどるはまつりことをとれる也。政の字のくんにても知るべし

 そののち天照太神、始めて伊勢国にしづまりましゝ時、種子たねこの命のすゑ大鹿嶋おほかしまの命祭官さいくわんになりて、鎌足かまたりの大臣の父小徳冠せうとくくわん 御食子みけこまでもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて大勲たいくんをたて、世に寵せられしによりて、祖業そげふをおこし先烈をさかやかされける、無止やんごとなきこと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえはんべれ。後に内臣うちつおみに任じ大臣に転じ、大織冠たいしよくくわんとなる 〈正一位の名なり〉。又中臣をあらためて藤原ふぢはらしやうたまはらる 〈内臣に任ぜらるゝ事は此御代にはあらず。事のついでにしるす〉。この天皇天下を治め給いしこと三年ありて、同母の御弟かるわうゆづり給う。御名を皇祖母すめみおやの尊とぞ申しける。
 ○第三十七代、孝徳かうとく天皇は皇極くわうぎよく同母の弟也。乙巳きのとみの年即位。摂津国長柄豊崎つのくにながらのとよさきの宮にまします。この御時はじめて大臣だいじん左右さいうにわかたる。大臣おほおみは成務の御時武内たけうち宿禰すくねはじめてこれに任ず。仲哀ちゆうあいの御代に又大連おほむらじの官をゝかる。大臣おほおみ大連おほむらじならびてまつりことをしれり。この御時大連をやめて左右の大臣とす。又八省百官はちしやうひやくくわんをさだめらる。中臣の鎌足を内臣になし給う。天下を治め給いしこと十年。五十歳おましましき。
 ○第三十八代、齊明さいめい天皇は皇極くわうぎよく重祚ちようそ也。重祚と云ことは本朝にはこれにはじまれり。異朝には殷大甲いんのたいかふ不明なりしかば、伊尹いいん これ桐宮とうきゆうにしりぞけて三年まつりことをとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。大甲あやまちをくいて徳ををさめしかば、もとのごとく天子とす。晉世しんのよ桓玄くわんげんと云し者、安帝あんていの位をうばひて、八十日ありて、義兵ぎへいの為にころされしかば、安帝位にかへり給う。たうの世となりて、則天そくてん皇后世をみだられし時、我所生わがしよしやうの子なりしかども、中宗をすてゝ廬陵ろりやう王とす。おなじ御子予王よわうをたてられしも又すてゝみづから位にゐ給う。後に中宗ちゆうそう くらゐにかへりて唐のたえず。予王も又重祚あり。これを睿宗えいそうふ。これぞまさしき重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝に皇極くわうぎよくの重祚を齊明さいめいと号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。天日嗣あまつひつぎをおもくするゆゑ。先賢の議さだめてよしあるにや。乙卯きのとうの年即位。このたびは大和の岡本をかもとにまします。のちの岡本の宮と。この御世はもろこしのたう高宗かうそうの時にあたれり。高麗かうらいをせめしによりてすくひのつはものうけしかば、天皇・皇太子つくしまでむかはせ。されど三韓つひに唐に属しゝかば、いくさをかへされぬ。その後も三韓よしみをわするゝまではなかりけり。皇太子となか大兄おほえの皇子の御事也。孝徳の御代より太子に立ち給、この御時は摂政しとみえたり。天皇天下を治め給いしこと七年。六十八歳おましましき。
 ○御三十九代、第二十五世、天智てんぢ天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌みづのえいぬの年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月はつき内臣うちつおみ鎌足を内大臣大織冠ないだいじんたいしよくくわんとす。又藤原朝臣ふぢはらのあそんしやう。昔の大勲を賞し給ければ、朝奨てうしやうならびなし。先後せんこう ふうこと一万五千なり。やまひのあひだにも行幸みゆきしてとぶらひ給いけるとぞ。この天皇中興のにまします 光仁くわうにんの御おやなり〉国忌こくきは時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治め給いしこと十年。五十八歳おましましき。
 ○第四十代、天武てんむ天皇は天智同母の弟也。皇太子に大倭やまとにましましき。天智は近江にまします。御やまひありしに、太子をよび申し給いけるを近江の朝廷のしんなかにつげしらせひとありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣だいじやうだいじん 大友おほともの皇子にゆづりて、芳野よしのの宮に給う。天智かくれ給いて後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、いくさをめして芳野をゝそはんとぞはかり給いける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高いひたかこほりにいたりて太神宮を遙拝えうはいし、美濃みのへかゝりて東国の軍をめす。皇子高市たけちまゐり給いしを大将軍として、美濃の不破ふはをまぼらめし、天皇は尾張をはりの国にぞこえ給いける。国々したがひ申しゝかば、不破の関のいくさ勝ちぬ。勢多せたにのぞみて合戦かつせんあり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下いげ 或るるひちゆうにふし、或るいは遠流をんるせらる。軍にしたがひともがらしなじなによりてその賞をおこなはる。壬申みづのえさるの年即位。大倭の飛鳥浄御原あすかのきよみはらの宮にまします。朝廷の法度はふとおほくさだめられにけり。上下かみしもうるしぬりの頭巾かぶりをきることもこの御時よりはじまる。天下を治め給うこと十五年。七十三歳おましましき。
 ○第四十一代、持統ぢとう天皇は天智の御むすめ也。御母越智娘をちのいらつめ、蘇我の山田やまだの石川丸の大臣の女也。天武天皇、太子にましまししより妃とし給う。後に皇后とす。皇子草壁くさかべわかくましまししかば、皇后てうにのぞみ給う。戊子つちのえねの年也。庚寅かのえとらの春正月一日むつきついたち即位。大倭やまとの藤原の宮にまします。草壁くさかべの皇子は太子に給いしが、世をはやくし給う。よりてその御子かるを皇太子とす。文武もんむにまします。さきの太子は後に追号つゐがうありて長岡ながをかの天皇と。この天皇天下を治め給うこと十年。位を太子にゆづりて太上たいしやう天皇とき。太上天皇と云うことは、異朝に、高祖の父を太公たいこう、尊号ありて太上皇たいしやうくわうと号す。そののち 後魏こうぎけん祖・たうの高祖・玄宗げんそうえい宗等也。本朝には昔はそのためしなし。皇極天皇位をのがれ給しも、皇祖母すめみおやみことと申しき。この天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おましましき。
 ○第四十二代、 文武もんむ天皇は草壁くさかべの太子第二の子、天武の嫡孫ちやくそん也。御母阿閇あへの皇女、天智てんぢのむすめ〈後に元明天皇と申す〉丁酉ひのととりの年即位。なほ藤原の宮にまします。この御時唐国たうこくの礼をうつして、宮室のつくり、文武官ぶんぶくわんの衣服のいろまでもさだめられき。又即位五年辛丑かのとうしよりて年号あり。大宝たいはうふ。これよりさきに、孝徳かうとくの御代に大化たいくわ白雉はくち、天智の御時白鳳はくほう、天武の御代に朱雀しゆじやく朱鳥しゆてうなんどふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号のとする也。又皇子を親王しんわうと云うことこの御時にはじまる。

 又藤原の内大臣ないだいじん鎌足の子、不比等ふひとの大臣、執政しつせいしんにて律令りつりやうなんどをもえらびさだめられき。藤原のうぢ、この大臣よりいよいよさかりになれり。四人の子おはしき。これを四門しもんふ。一門いちもん武智麿むちまろの大臣のながれ南家なんけふ。二門にもん参議さんぎ 中衛ちゆうゑの大将房前ふささきの流、北家ほくけふ。いまの執政大臣およびさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。三門さんもん式部卿しきぶきやう 宇合うまかひ式家しきけふ。四門しもん左京大夫さきやうのだいぶ 麿まろの流、京家きやうけといひしがはやくたえにけり。南家なんけ・式家も儒胤じゆいんにていまに相続すとども、たゞ北家のみ繁昌はんじやうす。房前の大将ひとにことなる陰徳いんとくこそおはしけめ。〔裏書[に]ふ。正一位左大臣武智丸。天平九年七月薨。天平宝字四年八月贈太政大臣。参議正三位中衛大将房前。天平九年四月薨。十月贈左大臣正一位。宝字四年八月贈太政大臣。天平宝字四年八月大師藤原恵美押勝奏。廻所帯大師之任、欲譲南北両大臣者。勅処分、依請南卿藤原武智丸贈太政大臣、北卿 〈贈左大臣房前〉転贈太政大臣云々。〕又不比等の大臣は後に淡海公たんかいこうと申す也。興福寺こうぶくじ建立こんりふす。この寺は大織冠たいしよくくわんの建立にて山背やましろ山階やましなにありしを、このおとゞ平城へいせいにうつさる。よりて山階寺とも申す也。後に玄昉げんばうへわたりて法相宗ほつさうしゆうへて、この寺にひろめられしより、氏神うぢのかみ 春日かすが明神みやうじんも殊にこの宗を擁護おうごし給うとぞ春日神かすがのかみ天児屋あめのこやねの神をもととす。本社ほんしや河内かはち平岡ひらをかにます。春日にうつり給うことは神護景雲年中じんごけいうんねんちゆうのこと也。しからば、この大臣以後のこと也。又春日第一の御殿ごてん常陸鹿嶋ひたちのかしまの神、第二は下総しもふさ香取かとりの神、三は平岡、四は姫御神ひめおんかみと申す。しかれば藤氏とうじ氏神うぢのかみさんの御殿にまします〉。この天皇天下を治め給うこと十一年。二十五歳おましましき。
 ○第四十三代、元明げんめい天皇は天智第四の女、持統異母いぼの妹。御母蘇我嬪そがのひめ。これも山田石川丸の大臣の女也。草壁の太子の妃、文武の御母にまします。丁未ひのとひつじの年即位。戊申つちのえさるに改元。三年庚戌かのえいぬ始めて大倭やまと平城宮へいせいのみやみやこをさだめらる。いにしへにはごとに都をあらため、すなはちそのみかどの御名みなによび奉りき。持統天皇藤原宮にましゝを文武はじめて改めたまはず。此元明天皇平城にうつりましまししより、又七代の都になれりき。天下を治め給いしこと七年。禅位ぜんゐありて太上天皇としが、六十一歳おましましき。
 ○第四十四代、元正げんしやう天皇は草壁の太子の御女。御母は元明天皇。文武同母の姉也。乙卯きのとうの正月むつきに摂政、九月ながつき受禅じゆぜん即日そくじつ即位、十一月しもつきに改元。平城宮にまします。この御時百官にしやくをもたしむ 〈五位以上牙笏げしやく、六位は木笏もくしやく。天下を治め給いしこと九年。禅位の後二十年。六十五歳おましましき。
 ○第四十五代、聖武しやうむ天皇は文武の太子。御母皇太夫人くわうたいぶにん藤原の宮子みやこ淡海公不比等たんかいこうふひとの大臣の女也。豊桜彦とよさくらひこの尊と 。をさなくましゝによりて、元明・元正まづ位にゐ給いき。甲子きのえねの年即位、改元。平城宮にまします。この御代おほきに仏法をあがめ給うこと先代せんだいにこえたり。東大寺を建立し、金銅こんどう十六ぢやうほとけをつくらる。又諸国に国分寺こくぶんじ 国分尼寺こくぶんにじて、国土安穏こくどあんをんのために法華ほつけ最勝さいしよう 両部りやうぶきやうを講ぜらる。又おほくの高僧他国より来朝らいてうす。南天竺なんてんぢく波羅門僧正ばらもんそうじやう 菩提ぼだい林邑りんをう仏哲ぶつてち、唐の鑒真和尚がんじんわじやうこれ也。真言しんごん祖師そしちゆう天竺の善無畏ぜんむい 三蔵さんざう来たり給へりしが、密機みつきいまだ熟せずとてかへりにけりともいへり。この国にも行基ぎやうぎ菩薩・朗弁僧正らうべんそうじやうなど権化ごんげの人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば四聖ししやうとぞ申しへたる。この御時太宰少弐だざいのせうに藤原広継ひろつぐと云う人 式部卿しきぶきやう 宇合うまかひの子なり〉 謀叛むほんのきこえあり、追討せらる玄昉げんばう僧正のざんによれりともいへり。よりて りやうとなる。今の松浦まつらの明神也云々〉祈祷きたうのために天平十二年十月かんなづき伊勢の神宮に行幸ありき。又左大臣さだいじん 長屋王ながやのわう 〈太政大臣高市王たけちのわうの子、天武の御孫なり〉つみありてちゆうせらる。又陸奥みちのおくの国より始めて黄金わうごんをたてまつる。この朝にこがねある始めなり。国のつかさ、賞ありて三位す。仏法繁昌はんじやう感応かんおうなりとぞ。天下を治め給いしこと二十五年。天位を御女高野たかの姫の皇女にゆづりて太上天皇と申す。後に出家せさせ給う。天皇出家の也。昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后光明子くわうみやうしもおなじく出家せさせ給う。この天皇五十六歳おましましき。
 ○第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女也。聖武の皇子安積あさかの親王世をはやくして後、男子ましまさず。よりてこの皇女給いき。己丑つちのとうしの年即位、改元。平城宮にまします。天下を治め給いしこと十年。大炊おほひの王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と申す。出家せさせ給いて、平城宮の西宮にしのみやになむましましける。
 ○第四十七代、 淡路廃帝あはぢのはいたい一品舎人いちほんとねりの親王の子、天武の御孫也。御母上総介かづさのすけ 当麻たぎまをきなが女也。舎人親王は皇子の中に御身のさいもましけるにや、知太政官事ちだいじやうくわんじと云う職をさづけられ、朝務をたすけ給いけり。日本紀もこの親王みことのりをうけ玉は[つ]てえらび給う。後に追号ありて尽敬じんけい天皇と。孝謙天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給う。但し、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。戊戌つちのえいぬの年即位。天下を治め給いしこと六年。事ありて淡路あはぢの国にうつされ給いき。三十三歳おましましき。
 ○第四十八代、 称徳しようとく天皇は孝謙の重祚ちようそ也。庚戌かのえいぬの正月一日むつきついたち更に即位、じき七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿むちまろの大臣の第二の子押勝をしかつかうき。大師たいし 〈その時太政大臣をあらためて大師と云う〉正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原恵美えみしやうき。天下のまつりことしかしながら委任せられにけり。後に道鏡だうきやうと云う法師ほふし 弓削ゆげ氏人うぢびと也〉寵幸ちようかうありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申して、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。みかども淡路にうつされ給う。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給えけるにこそ。非常のきはみなりけんかし。たう則天そくてん皇后は太宗の女御ぢよぎよにて、才人さいじんふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、あまなりて、感業かんげふと云う寺におはしける、高宗み給いて長髪ちやうはつせしめて皇后とす。諌申人いさめまをすひとおほかりしかどももちゐられず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、えい宗をられしを、又しりぞけて、帝位につき、国を大周たいしうとあらたむ。唐の名をうしなはんと給えけるにや。中宗・睿宗もわが給いしかども、すてゝ諸王とし、みづからのやから 武氏ぶしのともがらをもちて、国をへしめむとさへし給き。その時にぞ法師も宦者くわんじやもあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。この道鏡はじめは大臣にじゆんじて日本にほんの准大臣のはじめにや〉 大臣禅師だいじんぜんじしを太政大臣になし給う。それによりて次々納言なふごん参議さんぎにも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のまゝにしければ、あらそふ人のなかりしにや。大臣吉備きび真備まきびの公、左中弁さちゆうべん藤原の百川ももかはなどありき。されど、ちからおよばざりけるにこそ。法師の官に任ずることは、もろこしよりて、僧正・僧統そうとうなど云う事のありし、それすら出家の本意ほんいにはあらざるべし。いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳ゑりんと云し人、政事まつりことにまじらひしを黒衣宰相こくいさいしやうといひき し、これは官ににんずとはみえず〉りやうの世に恵超ゑてうと云し僧、学士がくしの官になりき。北朝[の]魏の明元帝めいげんていの代に法果ほふくわと云う僧、安城あんじやう公のしやくをたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗しゆくそうてう道平だうへいと云う人、みかどこころひとつにして安祿山あんろくさんらんをたひらげし故に、金吾きんご将軍になされにけり。だい宗の時、天竺の不空三蔵ふくうさんぞうをたふとびあまりにや、特進とうしん 鴻臚卿こうろけいをさづけらる。後に開府かいふ 儀同三司ぎどうさんし 粛国公しゆくこくこうとす。帰寂きじやくありしかば司空しこうの官をおくらる 〈司空は大臣の官なり〉則天そくてんの朝よりこの女帝によたい御代みよまで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治め給いしこと五年。五十七歳おましましき。

 天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤くわういんましまさず。この女帝によたいにてたえ給いぬ。女帝かくれ給いしかば、道鏡をば下野しもつけ講師かうじになしてながしくだされにき。そもそもこの道鏡は法王の位をさづけられたりし、なほあかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。女帝さすがわづらひ給いけるにや、和気清丸わけのきよまろふ人を勅使ちよくしにさして、宇佐の八幡宮にされける。大菩薩様々託宣たくせんありて更にゆるされず。清丸帰参きさんしてありのまゝに奏聞そうもんす。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、土左とさの国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこちければ、小蛇こへび 出来いできてそのきずをいやしけり。光仁くわうにん位につき給しかば、めしかへさる。神威をたうとび申して、河内かはちの国に寺をて、神願寺じんぐわんじふ。後に高雄たかをの山にうつし。今の神護寺じんごじこれなり。くだりのころまでは神威じんゐもかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給う。宗廟社稷しやしよくをやすくすること、八幡やはた冥慮みやうりよたりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原百川朝臣ももかはのあそんこうなりとぞ。
 ○第四十九代、第二十七世、光仁くわうにん天皇は施基しきの皇子の子、天智天皇の御孫也 〈皇子は第三の御子なり。追号ありて田原たはらの天皇と。御母贈皇太后紀旅子きのもろこ、贈太政大臣旅人もろひとの女也。白壁しらかべの王と申しき。天平てんぴやう年中に御年二十九にて従四位に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に至り給き。称徳しようとくかくれましましゝかば、大臣以下いげ 皇胤くわういんうちをえらび申けるに、おの〳〵異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひ人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣ひつぎをうけ給。そのかみ逆臣ぎやくしんを誅し、国家をもやすくし給へり。この君のかく継体にそなはり、猶ただしきにかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子に、即ち受禅じゆぜん 〈御年六十二〉。ことし庚戌かのえいぬの年なり。十月かんなづきに即位、十一月しもつき改元。平城宮へいせいのみやにまします。天下を治め給いしこと十二年。七十三歳おましましき。
 ○第五十代、第二十八世、 桓武くわんむ天皇は光仁くわうにん第一の子。御母皇太后高野たかの新笠にゐかさ、贈太政大臣乙継おとつぐの女也。光仁即位のはじめ井上ゐのへ内親王ないしんわう 聖武しやうむの御女〉をもて皇后とす。彼所生かのしよしやうの皇子 沢良さはらの親王、太子に 給いき。しかるを百川朝臣、この天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして、又はかりことをめぐらし、皇后および太子をすてゝ、つひに皇太子にすゑたてまつりき。その時しばらく 不許ふきよなりければ、四十日まで殿でんの前に て申けりとぞ。たぐひなき忠烈の臣也けるにや。皇后・さきの太子せめられてうせ給いにき。 怨霊をんりやうをやすめられんためにや、太子はのちに追号つゐがうありて崇道すだう天皇と

 辛酉かのととり
の年即位、壬戌みづのえいぬに改元。はじめは平城にまします。山背やましろの長岡にうつり、十年ばかり都なりしが、又今の平安城へいあんじやうにうつさる。 山背やましろの国をもあらためて山城やましろふ。永代えいたいにかはるまじくなんはからはせ給いける。昔聖徳太子蜂岡はちをかにのぼり給いて、太秦うづまさこれなり〉いまのじやうをみめぐらして、「 四神しじん 相応さうおう也。百七十余年ありて みやこをうつされて、かはるまじき所なり」との給いけりとぞ申し伝たる。その年紀ねんきもたがはず、又数十代不易ふえきみやことなりぬる、 まこと王気わうき相応の福地ふくちたるにや。この天皇 おほきに仏法をあがめ給う。 延暦えんりやく二十三年伝教でんげう弘法こうぼふ みことのりをうけて唐へわたり 。その時すなはち唐朝へ 使つかひをつかはさる。大使は参議左大弁さだいべん けん越前守ゑちぜんのかみ藤原 葛野麿朝臣かどのまろのあそん也。伝教は天台の 道邃和尚だうすいくわしやうにあひ、その宗をきはめて じき二十四年に大使と共に 帰朝きてうせらる。弘法は猶かの国にとゞまりて 大同だいどう年中に帰り給。この御時東夷叛乱ほんらんしければ、坂上さかのうへ田村丸たむらまろを征東大将軍になしてつかはされしに、こと〴〵くたひらげてかへりまうでけり。この田村丸は 武勇ぶよう人にすぐれたりき。近衛こんゑ将監しやうげんになり、少将にうつり、中将に転じ、 弘仁こうにんの御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。 ぶんをもかねたればにや、納言の官にものぼりにける。子孫はいまに文士ぶんしにてぞつたはれる。天皇天下を治め給いしこと二十四年。七十歳おましましき。




(私論.私見)