巻三 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.26日
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神皇正統記巻三 |
○第二十一代、 安康天皇は允恭第二の子。御母 忍坂大中姫、 稚渟 野毛二派の 皇子 〈応神の御子〉女也。甲午年即位。大和穴穂宮にまします。 大草香皇子を〈 仁徳御子〉殺してその妻をとりて皇后とす。彼皇子の子 眉輪王をさなくて、母にしたがひて宮中に 出入しけり。天皇 高楼の上に 酔臥給いけるをうかゞひて、刺し殺して大臣 葛城の円が家ににげこもりぬ。この天皇天上を治め給いしこと三年。五十六歳おましましき。 |
○第二十二代、雄略天皇は允恭第五の子、安康同母の弟也。大泊瀬尊と申。安康殺され給いし時、眉輪の王及円の大臣を誅せらる。あまつさへその事にくみせられざりし市辺押羽皇子をさへにころして位に即給。今年丁酉の年也。大和の泊瀬朝倉の宮にまします。天皇性猛ましましけれども、神に通じ給へりとぞ。二十一年丁巳冬十月に、伊勢の皇太神大和姫の命にをしへて、丹波国与佐の魚井の原よりして豊受太神を迎へ奉らる。大和姫の命奏聞し給いしによりて、明年戊午の秋七月に勅使をさしてむかへたてまつる。九月に度会の郡山田の原の新宮にしづまり給う。 垂仁天皇の御代に、皇太神五十鈴の宮に遷らしめ給いしより、四百八十四年になむなりにける。神武の始よりすでに千百余年に成りぬるにや。又これまで大倭姫の命存生し給いしかば、内外宮のつくりも、日の小宮の図形・文形によりてなさせ給いけりとぞ。抑神の御事異説まします。外宮には天祖天御中主の神と申し伝たり。されば皇太神の託宣にて、この宮の祭を先にせらる。神拝奉るも先づこの宮を先とす。天孫瓊々杵の尊この宮の相殿にまします。仍天児屋の命・天太玉の命も天孫につき申して相殿にます也。これより二所[の]太神宮と申す。丹波より遷らせ給ことは、昔豊鋤入姫の命、天照太神を頂戴して、丹波の吉佐の宮にうつり給いける比、この神あまくだりて一所におはします。四年ありて天照太神は又大和にかへらせ給。それよりこの神は丹波にとまらせ給いしを、道主の命と云う人いつき申けり。古はこの宮にて御饌をとゝのへて、内宮へも毎日におくり奉しを、神亀年中より外宮に御饌殿をたてゝ、内宮のをも一所にて奉となん。かやうの事によりて、御饌の神と申説あれど、御食と御気との両義あり。陰陽元初の御気なれば、天の狭霧・国の狭霧と申御名もあれば、猶さきの説を正とすべしとぞ。天孫さへ相殿にましませば、御饌の神と云う説は用がたき事にや。この天皇天下を治め給いしこと二十三年。八十歳おましましき。 |
○第二十三代、清寧天皇は雄略第三の子。御母韓姫、葛城の円の大臣の女也。庚申の年即位。大倭の磐余甕栗の宮にまします。誕生の始、白髪おはしければ、しらかの天皇とぞ申しける。御子なかりしかば、皇胤のたえぬべき事を歎給いて、国々へ勅使をつかはして皇胤を求らる。市辺の押羽の皇子、雄略にころされ給しとき、皇女 一人、皇子 二人ましけるが、丹波国にかくれ給いけるを求め出て、御子にしてやしなひ給いけり。天下を治め給いしこと五年。三十九歳おましましき。 |
○第二十四代、顕宗天皇は市辺押羽の皇子第三の子、履中天皇[の]孫也。御母荑媛、蟻の臣女也。白髪天皇養て子とし給ふ。御兄 仁賢 先位に即給べかりしを、相共に譲ましまししかば、同母の御姉飯豊の尊しばらく位に居給いき。されどやがて顕宗 定りましまししによりて、飯豊天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬ也。乙丑の年即位。大和の近明日香八釣の宮にまします。天下を治め給いしこと三年。四十八歳おましましき。 |
○第二十五代、仁賢天皇は顕宗同母の御兄也。雄略の我父の皇子をころし給しことをうらみて、「御陵をほりて御屍をはづかしめん」との給いしを、顕宗いさめましまししによりて、徳のおよばざることをはぢて、顕宗をさきだて給いけり。戊申の年即位。大和の石上広高の宮にまします。天下を治め給いしこと十一年。五十歳おましましき。 |
○第二十六代、武烈天皇は仁賢の太子。御母大娘の皇女、雄略の御女也。己卯の年即位。大和の泊瀬列城の宮にまします。性さがなくまして、悪としてなさずと云ことなし。仍 天祚も久からず。仁徳さしも聖徳ましまししに、この皇胤こゝにたえにき。「聖徳は必百代にまつらる」。春秋にみゆ〉とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、その宗を滅すべき先蹤 甚おほし。されば上古の聖賢は、子なれども慈愛におぼれず、器にあらざれば伝ことなし。堯の子 丹朱 不肖なりしかば、舜にさづけ、舜の子商均又不肖にして夏禹に譲られしが如し。堯舜よりこなたには猶天下を私にする故にや、必子孫に伝ことになりにしが、禹の後、桀 暴虐にして国を失ひ、殷の湯聖徳ありしかど、紂が時無道にして永くほろびにき。天竺にも仏滅度百年の後、阿育と云う王あり。姓は孔雀氏、王位につきし日、鉄輪 飛び降る。転輪の威徳をえて、閻浮提を統領す。あまさへ諸の鬼神をしたがへたり。正法を以て天下ををさめ、仏理に通じて三宝をあがむ。八万四千の塔を立て、舎利を安置し、九十六億千の金を棄て功徳に施する人なりき。その三世孫弗沙密多羅王の時、悪臣のすゝめによ[つ]て、祖王の立たりし塔婆を破壊せんと云う悪念をおこし、諸々の寺をやぶり、比丘を殺害す。阿育王のあがめし鷄雀寺の仏牙歯の塔をこぼたんとせしに、護法神いかりをなし、大山を化して王及び四兵の衆をおしころす。これより孔雀の種 永 絶にき。かゝれば先祖大なる徳ありとも、不徳の子孫宗廟のまつりをたゝむことうたがひなし。この天皇天下を治め給いしこと八年。五十八歳おましましき。 |
○第二十七代、第二十世、継体天皇は応神五世の御孫也。応神第八[の]御子隼総別の皇子、その子大迹の王、その子私斐の王、その子彦主人の王、その子男大迹の王と申はこの此天皇にまします。御母振姫、垂仁七世の御孫也。越前国にましける。武烈かくれ給いて皇胤たえにしかば、群臣うれへなげきて国々にめぐり、ちかき皇胤を求め奉けるに、この天皇王者の大度まして、潜龍のいきほひ、世にきこえ給いけるにや。群臣相議て迎奉る。三たびまで謙譲し給けれど、つひに位に即給ふ。ことし丁亥の年也。武烈かくれ給いて後、二年位をむなしくす。大和の磐余玉穂の宮にまします。仁賢の御女 白香の皇女を皇后とす。即位し給いしより誠に賢王にましましき。応神御子おほくきこえ給いしに、仁徳賢王にてましまししかど、御末たえにき。隼総別の御末、かく世をたもたせ給こと、いかなる故にかおぼつかなし。仁徳をば大鷦鷯の尊と申。第八の皇子をば隼総別と申す。仁徳の御代に兄弟たはぶれて、鷦鷯は小鳥也、隼は大鳥也と争給いしことありき。隼の名にかちて、末の世をうけつぎ給いけるにや。もろこしにもかゝるためしあり 〈左伝にみゆ〉。名をつくることもつゝしみおもくすべきことにや。それもおのづから天命なりといはゞ、凡慮の及べきにあらず。この天皇の立給いしことぞ思いの外の御運とみえ侍る。但、皇胤たえぬべかりし時、群臣択求奉き。賢名によりて天位を伝え給へり。天照太神の御本意にこそとみえたり。皇統にその人ましまさん時は、賢 諸王おはすとも、争か望をなし給べき。皇胤たえ給はんにとりては、賢にて天日嗣にそなはり給はんこと、即又天のゆるす所也。この天皇をば我国中興の祖宗と仰ぎ奉るべきにや。天下を治め給いしこと二十五年。八十歳おましましき。 |
○第二十八代、安閑天皇は継体の太子。御母は目子姫、尾張の 草香の連の女也。甲寅年即位。大和の勾金橋の宮にまします。天下を治め給いしこと二年。七十歳おましましき。 |
○第二十九代、宣化天皇は継体第二の子、安閑同母の弟也。丙辰の年即位。大和の檜隈廬入野の宮にまします。天下を治め給いしこと四年。七十三歳おましましき。 |
○第三十代、第二十一世、欽明天皇は継体第三の子。御母皇后手白香の皇女、仁賢天皇の女也。両兄ましまししかど、この天皇の御すゑ世をたもち給。御母方も仁徳のながれにてましませば、猶もその遺徳つきずしてかくさだまり給いけるにや。庚申年即位。大倭磯城嶋の金刺の宮にまします。十三年壬申十月に百済の国より仏・法・僧をわたしけり。この国に伝来の始めなり。釈迦如来 滅後一千十六年にあたる年、もろこしの後漢の明帝 永平十年に仏法はじめて彼国につたはる。それよりこの壬申の年まで四百八十八年。もろこしには北朝の齊 文宣帝即位三年、南朝の梁 簡文帝にも即位三年也。簡文帝の父をば武帝と申しき。大に仏法をあがめられき。この御代の初めつかたは武帝同時也。仏法はじめて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、我国の神慮にたがふべきよし、群臣かたく諌申けるによりてすてられにき。されどこの国に 三宝の名をきくことはこの時にはじまる。又、私にあがめつかへ奉る人もありき。天皇聖徳ましまして三宝を感ぜられけるにこそ。群臣の諌によりて、その法をたてられずといへども、天皇の叡志にはあらざるにや。昔、仏在世に、天竺の月蓋長者、鋳たてまつりし弥陀三尊の金像を伝へてわたし奉りける、難波の堀江にすてられたりしを、善光と云う者とり奉て、信濃の国に安置し申しき。今の善光寺これ也。この御時八幡大菩薩 始て垂迹しまします。天皇天下を治め給こと三十二年。八十一歳おましましき。 |
○第三十一代、第二十二世、敏達天皇は欽明第二の子。御母石媛の皇女、宣化天皇の女也。壬辰年即位。大倭磐余訳語田の宮にまします。二年癸巳年、天皇の御弟豊日皇子の妃、御子を誕生す。厩戸の皇子にまします。生給いしより様々の奇瑞あり。たゞ人にましまさず。御手をにぎり給いしが、二歳にて東方にむきて、南无仏とてひらき給いしかば、一の舎利ありき。仏法流布のために権化し給へること疑なし。この仏舎利は今に大倭の法隆寺にあがめ奉る。天皇天下を治め給いしこと十四年。六十一歳おましましき。 |
○第三十二代、用明天皇は欽明第四の子。御母堅塩姫、蘇我の稲目大臣の女也。豊日の尊と申す。厩戸の皇子の父におはします。丙午年即位。大和の池辺列槻の宮にまします。仏法をあがめて、我国に流布せむとし給いけるを、弓削守屋の大連かたむけ申、つひに叛逆におよびぬ。厩戸の皇子、蘇我の大臣と心を一にして誅戮せられ、すなはち仏法をひろめられにけり。天皇天下を治め給いしこと二年。四十一歳おましましき。 |
○第三十三代、崇峻天皇は欽明第十二の子。御母小姉君の娘。これも稲目の大臣の女也。戊申年即位。大和の倉橋の宮にまします。天皇横死の相みえ給。つゝしみますべきよしを厩戸の皇子奏給いけりとぞ。天下を治め給いしこと五年。七十二歳おましましき。或る人の云ふ。外舅 蘇我の馬子大臣と御中あしくして、彼大臣のためにころされ給いきともいへり。 |
○第三十四代、推古天皇は欽明の御女、用明同母の御妹也。御食炊屋姫の尊と申。敏達天皇々后とし給〈仁徳も異母の妹を妃とし給うことありき〉。崇峻かくれ給いしかば、癸丑年即位。大倭の小墾田の宮にまします。昔神功皇后六十余年天下を治給しかども、摂政と申して、天皇とは号したてまつらざるにや。このみかどは正位につき給いにけるにこそ。即厩戸の皇子を皇太子として万機の政をまかせ給う。摂政と申しき。太子の監国と云うこともあれど、それはしばらくの事也。これはひとへに天下を治め給いにけり。太子聖徳ましまししかば、天下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。太子いまだ皇子にてましましし時、逆臣守屋を誅し給いしより、仏法始て流布しき。まして政をしらせ給へば、三宝を敬、正法をひろめ給うこと、仏世にもことならず。又神通自在にましましき。御身自ら法服を着して、経を講じ給いしかば、天より花をふらし、放光動地の瑞ありき。天皇・群臣、たふとびあがめ奉ること仏のごとし。伽藍をたてらるゝ事四十余け所におよべり。又この国には昔より人すなほにして法令なんどもさだまらず。 十二年甲子にはじめて冠位と云ことをさだめ〈冠のしなによりて、上下をさだむるに十八階あり〉、十七年己巳に憲法十七け条をつくりて奏し給う。内外典のふかき道をさぐりて、むねをつゞまやかにしてつくり給へる也。天皇悦て天下に施行せしめ給いき。このころほひは、もろこしには隋の世也。南北朝相分しが、南は正統をうけ、北は戎狄よりおこりしかども、中国をば北朝にぞをさめける。隋は北朝の後周と云いしがゆづりをうけたりき。後に南朝の陳をうちたひらげて、一統の世となれり。この天皇の元年癸丑は文帝一統の後四年也。十三年乙丑は煬帝の即位元年にあたれり。彼国よりはじめて使をおくり、よしみを通じけり。隋帝の書に「皇帝恭問倭皇」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王につかはす礼儀なりとて、群臣あやしみ申けるを、太子の給けるは、「皇の字はたやすく用ざる詞なれば」とて、返報をもかゝせ給、様々饗祿をたまひて使をかへしつかはさる。これよりこの国よりもつねに使をつかはさる。その使を遣隋大使となむなづけられしに、二十七年己卯の年、隋滅て唐の世にうつりぬ。二十九年辛巳の年太子かくれ給う。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申すこと父母に喪するがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化の御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御諱を聖徳となづけ奉る。この天皇天下を治め給いしこと三十六年。七十歳おましましき。 |
○第三十五代、第二十四世、舒明天皇は忍坂大兄の皇子の子、敏達の御孫也。御母糠手姫の皇女、これも敏達の御女也。推古天皇は聖徳太子の御子に伝へ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、欽明の嫡曾孫にまします。又太子御病にふし給し時、天皇この皇子を御使としてとぶらひましゝに、天下のことを太子の申し付給へりけるとぞ。癸丑年即位。大倭の高市郡岡本の宮にまします。この即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、貞観三年にあたれり。天下を治め給いしこと十三年。四十九歳おましましき。 |
○第三十六代、皇極天皇は茅渟王の女、忍坂大兄の皇子の孫、敏達の曾孫也。御母吉備姫の女王と申しき。舒明天皇々后とし給う。天智・天武の御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしましゝかば、壬寅の年即位。大倭明日香河原の宮にまします。この時に蘇我蝦夷の大臣
〈馬子の大臣の子〉ならびにその子入鹿、朝権を専にして皇家をないがしろにする心あり。その家を宮門と云、諸子を王子となむ云いける。上古よりの国紀重宝みな私家にはこびおきてけり。中にも入鹿悖逆の心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくましまししをほろぼし奉る。こゝに皇子中の大兄と申は舒明の御子、やがてこの天皇御所生也。中臣鎌足の連と云う人と心を一にして入鹿をころしつ。父蝦夷も家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみな焼にけり。蘇我の一門久く権をとれりしかども、積悪のゆゑにやみな滅ぬ。山田石川丸と云う人ぞ皇子と心をかよはし申しければ滅せざりける。この鎌足の大臣は天児屋根の命二十一世[の]孫也。昔天孫あまくだり給いし時、諸神の上首にて、この命、殊に天照太神の勅をうけて輔佐の神にまします。中臣と云うことも、二神の御中にて、神の御心をやはらげて申し給いけるゆゑ也とぞ。その孫天種子の命、神武の御代に祭事をつかさどる。上古は神と皇と一にましまししかば、祭をつかさどるは即政をとれる也。政の字の訓にても知るべし。 その後天照太神、始めて伊勢国にしづまりましゝ時、種子の命のすゑ大鹿嶋の命祭官になりて、鎌足大臣の父〈小徳冠〉 御食子までもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて大勲をたて、世に寵せられしによりて、祖業をおこし先烈をさかやかされける、無止こと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえ侍れ。後に内臣に任じ大臣に転じ、大織冠となる 〈正一位の名なり〉。又中臣をあらためて藤原の姓を給らる 〈内臣に任ぜらるゝ事は此御代にはあらず。事の次にしるす〉。この天皇天下を治め給いしこと三年ありて、同母の御弟軽の王に譲給う。御名を皇祖母の尊とぞ申しける。 |
○第三十七代、孝徳天皇は皇極同母の弟也。乙巳年即位。摂津国長柄豊崎の宮にまします。この御時はじめて大臣を左右にわかたる。大臣は成務の御時武内の宿禰はじめてこれに任ず。仲哀の御代に又大連の官をゝかる。大臣・大連ならびて政をしれり。この御時大連をやめて左右の大臣とす。又八省百官をさだめらる。中臣の鎌足を内臣になし給う。天下を治め給いしこと十年。五十歳おましましき。 |
○第三十八代、齊明天皇は皇極の重祚也。重祚と云ことは本朝にはこれに始れり。異朝には殷大甲不明なりしかば、伊尹 を桐宮にしりぞけて三年政をとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。大甲あやまちを悔て徳ををさめしかば、もとのごとく天子とす。晉世に桓玄と云し者、安帝の位をうばひて、八十日ありて、義兵の為にころされしかば、安帝位にかへり給う。唐の世となりて、則天皇后世をみだられし時、我所生の子なりしかども、中宗をすてゝ廬陵王とす。おなじ御子予王をたてられしも又すてゝみづから位にゐ給う。後に中宗 位にかへりて唐の祚たえず。予王も又重祚あり。これを睿宗と云ふ。これぞまさしき重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝に皇極の重祚を齊明と号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。天日嗣をおもくするゆゑ歟。先賢の議さだめてよしあるにや。乙卯年即位。このたびは大和の岡本にまします。後の岡本の宮と申。この御世はもろこしの唐 の高宗の時にあたれり。高麗をせめしによりてすくひの兵を申うけしかば、天皇・皇太子つくしまでむかはせ給。されど三韓つひに唐に属しゝかば、軍をかへされぬ。その後も三韓よしみをわするゝまではなかりけり。皇太子と申は中の大兄の皇子の御事也。孝徳の御代より太子に立ち給、この御時は摂政し給とみえたり。天皇天下を治め給いしこと七年。六十八歳おましましき。 |
○御三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月に内臣鎌足を内大臣大織冠とす。又藤原朝臣の姓を給。昔の大勲を賞し給ければ、朝奨ならびなし。先後 封を給こと一万五千戸なり。病のあひだにも行幸してとぶらひ給いけるとぞ。この天皇中興の祖にまします 〈光仁の御祖なり〉。国忌は時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治め給いしこと十年。五十八歳おましましき。 |
○第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立て大倭にましましき。天智は近江にまします。御病ありしに、太子をよび申し給いけるを近江の朝廷の臣の中につげしらせ申人ありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣 大友の皇子にゆづりて、芳野の宮に入給う。天智かくれ給いて後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍をめして芳野をゝそはんとぞはかり給いける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高の郡にいたりて太神宮を遙拝し、美濃へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市まゐり給いしを大将軍として、美濃の不破をまぼらめし、天皇は尾張国にぞこえ給いける。国々したがひ申しゝかば、不破の関の軍に打勝ちぬ。則勢多にのぞみて合戦あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下 或るは誅にふし、或るいは遠流せらる。軍にしたがひ申輩しなじなによりてその賞をおこなはる。壬申年即位。大倭の飛鳥浄御原の宮にまします。朝廷の法度おほくさだめられにけり。上下うるしぬりの頭巾をきることもこの御時よりはじまる。天下を治め給うこと十五年。七十三歳おましましき。 |
○第四十一代、持統天皇は天智の御女也。御母越智娘、蘇我の山田石川丸の大臣の女也。天武天皇、太子にましまししより妃とし給う。後に皇后とす。皇子草壁わかくましまししかば、皇后朝にのぞみ給う。戊子年也。庚寅の春正月一日即位。大倭の藤原の宮にまします。草壁の皇子は太子に立給いしが、世をはやくし給う。よりてその御子軽の王を皇太子とす。文武にまします。前の太子は後に追号ありて長岡天皇と申。この天皇天下を治め給うこと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申き。太上天皇と云うことは、異朝に、漢高祖の父を太公と云、尊号ありて太上皇と号す。その後 後魏の顕祖・唐高祖・玄宗・睿宗等也。本朝には昔はその例なし。皇極天皇位をのがれ給しも、皇祖母の尊と申しき。この天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おましましき。 |
○第四十二代、
文武天皇は草壁の太子第二の子、天武の嫡孫也。御母阿閇の皇女、天智御女也 〈後に元明天皇と申す〉。丁酉年即位。猶藤原の宮にまします。この御時唐国の礼をうつして、宮室のつくり、文武官の衣服の色までもさだめられき。又即位五年辛丑より始て年号あり。大宝と云ふ。これよりさきに、孝徳の御代に大化・白雉、天智の御時白鳳、天武の御代に朱雀・朱鳥なんど云ふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の始とする也。又皇子を親王と云うことこの御時にはじまる。 又藤原の内大臣鎌足の子、不比等の大臣、執政の臣にて律令なんどをもえらびさだめられき。藤原の氏、この大臣よりいよいよさかりになれり。四人の子おはしき。これを四門と云ふ。一門は武智麿の大臣の流、南家と云ふ。二門は参議 中衛大将房前の流、北家と云ふ。いまの執政大臣およびさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。三門は式部卿 宇合の流、式家と云ふ。四門は左京大夫 麿の流、京家といひしがはやくたえにけり。南家・式家も儒胤にていまに相続すと云ども、たゞ北家のみ繁昌す。房前の大将人にことなる陰徳こそおはしけめ。〔裏書[に]云ふ。正一位左大臣武智丸。天平九年七月薨。天平宝字四年八月贈太政大臣。参議正三位中衛大将房前。天平九年四月薨。十月贈左大臣正一位。宝字四年八月贈太政大臣。天平宝字四年八月大師藤原恵美押勝奏。廻所帯大師之任、欲譲南北両大臣者。勅処分、依請南卿藤原武智丸贈太政大臣、北卿 〈贈左大臣房前〉転贈太政大臣云々。〕又不比等の大臣は後に淡海公と申す也。興福寺を建立す。この寺は大織冠の建立にて山背の山階にありしを、このおとゞ平城にうつさる。仍山階寺とも申す也。後に玄昉と云ふ僧、唐へわたりて法相宗を伝へて、この寺にひろめられしより、氏神 春日の明神も殊にこの宗を擁護し給うとぞ〈春日神は天児屋の神を本とす。本社は河内の平岡にます。春日にうつり給うことは神護景雲年中のこと也。しからば、この大臣以後のこと也。又春日第一の御殿、常陸鹿嶋神、第二は下総の香取神、三は平岡、四は姫御神と申す。しかれば藤氏の氏神は三御殿にまします〉。この天皇天下を治め給うこと十一年。二十五歳おましましき。 |
○第四十三代、元明天皇は天智第四の女、持統異母の妹。御母蘇我嬪。これも山田石川丸の大臣の女也。草壁の太子の妃、文武の御母にまします。丁未年即位。戊申に改元。三年庚戌始めて大倭の平城宮に都をさだめらる。古には代ごとに都を改、すなはちそのみかどの御名によび奉りき。持統天皇藤原宮にましゝを文武はじめて改めたまはず。此元明天皇平城にうつりましまししより、又七代の都になれりき。天下を治め給いしこと七年。禅位ありて太上天皇と申しが、六十一歳おましましき。 |
○第四十四代、元正天皇は草壁の太子の御女。御母は元明天皇。文武同母の姉也。乙卯年正月に摂政、九月に受禅、即日即位、十一月に改元。平城宮にまします。この御時百官に笏をもたしむ 〈五位以上牙笏、六位は木笏〉。天下を治め給いしこと九年。禅位の後二十年。六十五歳おましましき。 |
○第四十五代、聖武天皇は文武の太子。御母皇太夫人藤原の宮子、淡海公不比等の大臣の女也。豊桜彦の尊と 申。をさなくましゝによりて、元明・元正まづ位にゐ給いき。甲子年即位、改元。平城宮にまします。この御代大に仏法をあがめ給うこと先代にこえたり。東大寺を建立し、金銅十六丈の仏をつくらる。又諸国に国分寺 及国分尼寺を立て、国土安穏のために法華・最勝 両部の経を講ぜらる。又おほくの高僧他国より来朝す。南天竺の波羅門僧正 菩提と云ふ、林邑の仏哲、唐の鑒真和尚等也。真言の祖師、中天竺の善無畏 三蔵も来たり給へりしが、密機いまだ熟せずとてかへり給にけりともいへり。この国にも行基菩薩・朗弁僧正など権化人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば四聖とぞ申し伝へたる。この御時太宰少弐藤原広継と云う人 〈式部卿 宇合の子なり〉 謀叛のきこえあり、追討せらる〈玄昉僧正の讒によれりともいへり。仍 霊となる。今の松浦の明神也云々〉。祈祷のために天平十二年十月伊勢の神宮に行幸ありき。又左大臣 長屋王 〈太政大臣高市王の子、天武の御孫なり〉つみありて誅せらる。又陸奥国より始めて黄金をたてまつる。この朝に金ある始めなり。国の司の王、賞ありて三位叙す。仏法繁昌の感応なりとぞ。天下を治め給いしこと二十五年。天位を御女高野姫の皇女にゆづりて太上天皇と申す。後に出家せさせ給う。天皇出家の始也。昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后光明子もおなじく出家せさせ給う。この天皇五十六歳おましましき。 |
○第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女也。聖武の皇子安積親王世をはやくして後、男子ましまさず。仍この皇女立給いき。己丑年即位、改元。平城宮にまします。天下を治め給いしこと十年。大炊の王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と申す。出家せさせ給いて、平城宮の西宮になむましましける。 |
○第四十七代、 淡路廃帝は一品舎人親王の子、天武の御孫也。御母上総介 当麻の老が女也。舎人親王は皇子の中に御身の才もましけるにや、知太政官事と云う職をさづけられ、朝務を輔給いけり。日本紀もこの親王勅をうけ玉は[つ]てえらび給う。後に追号ありて尽敬天皇と申。孝謙天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給う。但し、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。戊戌年即位。天下を治め給いしこと六年。事ありて淡路国にうつされ給いき。三十三歳おましましき。 |
○第四十八代、
称徳天皇は孝謙の重祚也。庚戌年正月一日更に即位、同七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿の大臣の第二の子押勝を幸し給き。大師
〈その時太政大臣を改て大師と云う〉正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原恵美の 姓を給き。天下の政しかしながら委任せられにけり。後に道鏡と云う法師
弓削の氏人也〉又寵幸ありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申して、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。帝も淡路にうつされ給う。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給えけるにこそ。非常の極なりけんかし。唐の則天皇后は太宗の女御にて、才人と云ふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、尼に成て、感業と云う寺におはしける、高宗み給いて長髪せしめて皇后とす。諌申人おほかりしかども用られず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、睿宗を立られしを、又しりぞけて、自帝位につき、国を大周とあらたむ。唐の名をうしなはんと思給えけるにや。中宗・睿宗もわが生給いしかども、すてゝ諸王とし、みづからの族
武氏のともがらをもちて、国を伝へしめむとさへし給き。その時にぞ法師も宦者もあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。この道鏡はじめは大臣に准じて〈日本の准大臣のはじめにや〉
大臣禅師と云しを太政大臣になし給う。それによりて次々納言・参議にも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のまゝにしければ、あらそふ人のなかりしにや。大臣吉備の真備の公、左中弁藤原の百川などありき。されど、ちからおよばざりけるにこそ。法師の官に任ずることは、もろこしより始て、僧正・僧統など云う事のありし、それすら出家の本意にはあらざるべし。いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳と云し人、政事にまじらひしを黒衣宰相といひき 〈但これは官に任とはみえず〉。梁の世に恵超と云し僧、学士の官になりき。北朝[の]魏の明元帝の代に法果と云う僧、安城公の爵をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗の朝に道平と云う人、帝と心を一にして安祿山が乱をたひらげし故に、金吾将軍になされにけり。代宗の時、天竺の不空三蔵をたふとび給あまりにや、特進
試
鴻臚卿をさづけらる。後に開府
儀同三司
粛国公とす。帰寂ありしかば司空の官をおくらる 〈司空は大臣の官なり〉。則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治め給いしこと五年。五十七歳おましましき。 天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤ましまさず。この女帝にてたえ給いぬ。女帝かくれ給いしかば、道鏡をば下野の講師になしてながしくだされにき。抑この道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。女帝さすが思わづらひ給いけるにや、和気清丸と云ふ人を勅使にさして、宇佐の八幡宮に申されける。大菩薩様々託宣ありて更にゆるされず。清丸帰参してありのまゝに奏聞す。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、土左国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこち申ければ、小蛇 出来てそのきずをいやしけり。光仁位につき給しかば、即めしかへさる。神威をたうとび申して、河内国に寺を立て、神願寺と云ふ。後に高雄の山にうつし立。今の神護寺これなり。件のころまでは神威もかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給う。宗廟社稷をやすくすること、八幡の冥慮たりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原百川朝臣の功なりとぞ。 |
○第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基皇子の子、天智天皇の御孫也 〈皇子は第三の御子なり。追号ありて田原の天皇と申〉。御母贈皇太后紀旅子、贈太政大臣旅人の女也。白壁の王と申しき。天平年中に御年二十九にて従四位下に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に至り給き。称徳かくれましましゝかば、大臣以下 皇胤の中をえらび申けるに、おの〳〵異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひ申人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣をうけ給。そのかみ逆臣を誅し、国家をも安し給へり。この君のかく継体にそなはり給、猶正にかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子に立、即ち受禅 〈御年六十二〉。ことし庚戌年なり。十月に即位、十一月改元。平城宮にまします。天下を治め給いしこと十二年。七十三歳おましましき。 |
○第五十代、第二十八世、
桓武天皇は光仁第一の子。御母皇太后高野の
新笠、贈太政大臣乙継の女也。光仁即位のはじめ井上の
内親王
聖武御女〉をもて皇后とす。彼所生の皇子
沢良の親王、太子に
立給いき。しかるを百川朝臣、この天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして、又はかりことをめぐらし、皇后および太子をすてゝ、つひに皇太子にすゑたてまつりき。その時しばらく
不許なりければ、四十日まで殿の前に
立て申けりとぞ。たぐひなき忠烈の臣也けるにや。皇后・前太子せめられてうせ給いにき。
怨霊をやすめられんためにや、太子はのちに追号ありて崇道天皇と申。 辛酉の年即位、壬戌に改元。はじめは平城にまします。山背の長岡にうつり、十年ばかり都なりしが、又今の平安城にうつさる。 山背の国をもあらためて山城と云ふ。永代にかはるまじくなんはからはせ給いける。昔聖徳太子蜂岡にのぼり給いて、〈 太秦これなり〉いまの城をみめぐらして、「 四神 相応の地也。百七十余年ありて 都をうつされて、かはるまじき所なり」との給いけりとぞ申し伝たる。その年紀もたがはず、又数十代不易の都となりぬる、 誠に 王気相応の福地たるにや。この天皇 大に仏法をあがめ給う。 延暦二十三年伝教・ 弘法 勅をうけて唐へわたり 給。その時すなはち唐朝へ 使をつかはさる。大使は参議左大弁 兼越前守藤原 葛野麿朝臣也。伝教は天台の 道邃和尚にあひ、その宗をきはめて 同二十四年に大使と共に 帰朝せらる。弘法は猶かの国にとゞまりて 大同年中に帰り給。この御時東夷叛乱しければ、坂上の 田村丸を征東大将軍になしてつかはされしに、こと〴〵くたひらげてかへりまうでけり。この田村丸は 武勇人にすぐれたりき。初は 近衛の将監になり、少将にうつり、中将に転じ、 弘仁の御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。 文をもかねたればにや、納言の官にものぼりにける。子孫はいまに文士にてぞつたはれる。天皇天下を治め給いしこと二十四年。七十歳おましましき。 |
(私論.私見)