巻二 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.26日
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ここで、巻1を確認しておくことにする。「」を転載する。 2009.1.9日、2011.8.20日再編集 れんだいこ拝 |
神皇正統記 巻二 ○人皇第一代、神日本磐余彦天皇と申。後に神武となづけたてまつる。地神鸕鶿草葺不合の尊の第四の子。御母玉依姫、海神 小童第二の女也。伊弉諾尊には六世、大日孁の尊には五世の天孫にまします。神日本磐余彦と申すは神代よりのやまとことばなり。神武は中古となりて、もろこしの詞によりてさだめたてまつる御名也。又この御代より代ごとに宮所をうつされしかば、その所を名づけて御名とす。この天皇をば橿原の宮と申す、これ也。又神代より至て尊を尊と云、その次を命と云ふ。 人の代となりては天皇とも号したてまつる。臣下にも朝臣・宿禰・臣などと、いふ号いできにけり。神武の御時よりはじまれる事なり。上古には尊とも命とも兼て 称けるとみえたり。世くだりては天皇を尊と申こともみえず、臣を命と云う事もなし。古語の耳なれずなれるゆゑにや。この天皇御年十五にて太子に立、五十一にて父神にかはりて皇位にはつかしめ給。ことし辛酉なり。筑紫日向の宮崎の宮におはしましけるが、兄の神達および皇子群臣に勅して、東征のことあり。この大八州は皆なこれ王地也。神代 幽昧なりしによりて西偏の国にして、おほくの年序をおくられけるにこそ。天皇舟楫をとゝのへ、甲兵をあつめて、大日本州にむかひ給う。みちのついでの国々をたひらげ、大やまとにいりまさむとせしに、その国に天の神饒の速日の尊の御すゑ宇麻志間見の命と云う神あり。外舅の長髄彦と云う、「天神の御子両種有むや」とて、軍をおこしてふせぎたてまつる。その軍こはくして皇軍しばしば利をうしなふ。又邪神 毒気をはきしかば、士卒みなやみふせり。こゝに天照太神、健甕槌の神をめして、「葦原の中つ州にさわぐおとす。汝ゆきてたひらげよ」とみことのりし給う。 健甕槌の神申給いけるは、「昔国をたひらげし時[の]剣あり。かれをくださば、自らたひらぎなん」と申して、紀伊国名草の村に高倉下命と云う神にしめして、この剣をたてまつりければ、天皇悦給いて、士卒のやみふせりけるもみなおきぬ。又神魂の命の孫、武津之身命大烏となりて軍の御さきにつかうまつる。天皇ほめて八咫烏と号し給う。又金色の鴟くだりて皇弓のはずにゐたり。その光てりかゞやけり。これによりて皇軍大にかちぬ。宇麻志間見の命その舅のひがめる心をしりて、たばかりてころしつ。その軍をひきゐてしたがひ申しにけり。天皇はなはだほめましまして、天よりくだれる神剣をさづけ、「その大勲にこたふ」とぞのたまはせける。この剣を豊布都の神と号す。はじめは大和の石上にましましき。後には常陸の鹿嶋の神宮にまします。 |
彼宇麻志間見の命又饒速日の尊天降し時、外祖高皇産霊の尊さづけ給し 十種の瑞宝を伝へもたりけるを天皇に奉る。天皇鎮魂の瑞宝也しかば、その祭りを始られにき。この宝をも即宇麻志間見にあづけ給いて、大和石上に安置す。又は布瑠と号。この瑞宝を一づゝよびて、呪文をして、ふる事あるによれるなるべし。かくて天下たひらぎにしかば、大和国 橿原に都をさだめて、宮つくりす。その制度天上の儀のごとし。天照太神より伝え給へる三種の神器を 大殿に安置し、 床を同じくしまします。皇宮・神宮一なりしかば、国々の御つき物をも 斎蔵にをさめて官物・ 神物のわきだめなかりき。天児屋根命の孫 天種子の命、 天太玉の命[の]孫 天富の命もはら神事をつかさどる。神代の 例にことならず。又霊畤を鳥見山の中にたてゝ、 天神・ 地祇をまつらしめ給。この御代の始め、辛酉の年、もろこしの 周の世、第十七代にあたる君、恵王の十七年也。五十七年 丁巳は周の二十一代の君、定王の三年にあたれり。ことし老子誕生す。これは道教の祖也。天竺の釈迦如来入滅し給いしより元年辛酉までは二百九十年になれるか。この天皇天下を治給いしこと七十六年。一百二十七歳おはしき。 |
○第二代、綏靖天皇[は]〈これより和語の尊号をばのせず〉神武第二の御子。御母鞴五十鈴姫、事代主の神の女也。父の天皇かくれまして、みとせありて即位し給う。庚辰年也。大和葛城高岡の宮にまします。三十一年庚戌の年もろこしの周の二十三代の君、霊王の二十一年也。ことし 孔子誕生す。自是七十三年までおはしけり。儒教をひろめらる。この道は昔の賢王、唐堯、虞舜、夏の初の禹、殷のはじめの湯、周のはじめの文王・武王・周公の国を治め、民をなで給し道なれば、心を正しくし、身をなほくし、家を治め、国を治めて、天下におよぼすを宗とす。さればことなる道にはあらねども、末代となりて、人不正になりしゆゑに、その道ををさめて儒教をたてらるゝ也。天皇天下を治給いしこと三十三年。八十四歳おましましき。 |
○第三代、 安寧天皇は綏靖第二の子。御母 五十鈴依姫、 事代主の神のおと 女也。 癸丑の年即位。 大和の片塩の 浮穴の宮にまします。天下を治め給いしこと三十八年。五十七歳おましましき。 |
○第四代、 懿徳天皇は 安寧第二の子。御母渟名底中媛、 事代主の神の孫也。 辛卯年即位。大和の 軽曲峡の宮にまします。天下を治め給いしこと三十四年。七十七歳おはしましき。 |
○第五代、孝昭天皇は 懿徳第一の子。御母天豊津姫、 息石耳の命の女也。父の天皇かくれまして一年ありて、 丙寅の年即位。大和の掖の上池の心の宮にまします。天下を治め給いしこと八十三年。百十四歳おはしましき。 |
○第六代、孝安天皇は孝昭第二の子。御母 世襲足の姫、 尾張の 連の上祖 瀛津世襲の女也。 乙丑の年即位。 大倭秋津嶋の宮にまします。天下を治め給いしこと一百二年。百二十歳おましましき。 |
○第七代、孝霊天皇は
孝安の太子。御母押姫、
天足彦国押人命の女也。
辛未年即位。大和の黒田廬戸の宮にまします。三十六年丙午にあたる年、もろこしの周の国滅して秦にうつりき。四十五年
乙卯、秦の
始皇即位。この始皇仙方をこのみて
長生不死の薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の遺書を彼国にもとめしに、始皇ことごとくこれをおくる。その後三十五年ありて、彼国、書を焼、儒をうづみにければ、孔子の全経日本にとゞまるといへり。この事異朝の書にのせたり。我国には神功皇后三韓をたひらげ給いしより、異国に通じ、応神の御代より経史の学つたはれりとぞ申しならはせる。孝霊の御時よりこの国に文字ありとはきかぬ事なれど、上古のことは慥に注とゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、
吉備大臣、入唐して伝へたりける本こそ流布したれば、この御代より伝わりけん事もあながちに疑まじきにや。 凡そこの国をば君子不死の国とも云う也。孔子世のみだれたる事を歎て、「九夷にをらん」との給いける。日本は九夷のその一なるべし。異国にはこの国をば東夷とす。この国よりは又彼国をも西蕃と云えるがごとし。四海と云うは東夷・南蛮・ 西羌・北狄也。南は蛇の種なれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありて命ながし。よりて大・ 弓の字をしたがふと云へり。〔裏書に云ふ。夷説文曰。東方之人也。从大从弓。徐氏曰。唯東夷从大从弓。仁而寿。有君子不死之国 云ふ。仁而寿、未合弓字之義。弓者以近窮遠也 云ふ。若取此義歟〕孔子の時すらこなたのことをしり給いければ、秦の世に通じけんことあやしむに足ぬことにや。この天皇天下を治給いし事七十六年。百十歳おはしましき。 |
○第八代、孝元天皇は孝霊の 太子。御母細媛、 磯城県主の女也。 丁亥年即位。大倭の 軽境原の宮にまします。九年乙未の年、もろこしの秦滅て 漢にうつりき。この天皇天下を治め給いしこと五十七年。百十七歳おましましき。 |
○第九代、開化天皇は孝元第二の子。御母鬱色謎姫、 穂積の 臣 上祖 鬱色雄命妹也。 甲申年即位。大和の 春日率川の宮にまします。天下を治め給いしこと六十年。百十五歳おましましき。 |
○第十代、
崇神天皇は開化第二の子。御母
伊香色謎姫。
初めは孝元の妃として彦太忍信の命をうむ〉、
太綜麻杵の命の女也。
甲申の歳即位。大和の磯城の瑞籬の宮にまします。この御時神代をさる事、世は十つぎ、年は六百
余になりぬ。やうやく神威をおそれ給いて、即位六年己丑年
〈神武元年辛酉よりこの己丑までは六百二十九年〉神代の鏡造の
石凝姥の神のはつこをめして鏡をうつし鋳せしめ、
天目一箇の神のはつこをして剣をつくらしむ。大和宇陀の郡にして、この両種をうつしあらためられて、
護身の璽として同殿に安置す。 神代よりの宝鏡および霊剣をば皇女豊鋤入姫の命につけて、大和の笠縫の邑と云う所に 神籬をたてゝあがめ奉らる。これより神宮・皇居各別になれりき。その後太神のをしへありて、豊鋤入姫の命、神体を 頂戴て所々をめぐり給いけり。十年の秋、大彦命を北陸に遣し、武渟川別の命を東海に、吉備津彦命を西道に、 丹波の道主の命を丹波に遣す。ともに 印綬を 給て将軍とす。 将軍の名はじめてみゆ。 天皇の叔父武埴安彦の命、朝廷をかたぶけんとはかりければ、将軍等を止て、まづ追討しつ。冬 十月に将軍 発路す。十一年の夏、四道の将軍 戎夷を平ぬるよし 復命す。六十五年秋任那の国、 使をさして 御つきをたてまつる 。 筑紫をさること二千余里と云う。天皇天下を治め給いしこと六十八年。百二十歳おましましき。 |
○第十一代、垂仁天皇は崇神第三の子。御母 御間城姫、大彦の命 〈孝元の御子〉女也。 壬辰の年即位。大和の 巻向の 珠城の宮にまします。この御時皇女大和姫の命、豊鋤入姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年丁巳冬十月甲子に伊勢国 度会郡 五十鈴川上に宮所をしめ、高天の原に 千木高知 下都磐根に大宮柱広敷 立てしづまりましましぬ。この所は昔天孫あまくだり給いし時、猨田彦の神まゐりあひて、「われは伊勢の狭長田の五十鈴の川上にいたるべし」と申しける所也。大倭姫の命、宮所を尋給いしに、大田の命と云う人 〈又 興玉とも云う〉まゐりあひて、この所ををしへ申しき。この命は昔の猨田彦の神の苗裔なりとぞ。彼川上に五十鈴・天上の 図形などあり 〈天の逆戈もこの所にありきと云う一説あり〉。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき」となん申しける。かくて中臣の祖 大鹿嶋の命を祭主とす。又 大幡主と云う人を 太神主になし 給。これより皇太神とあがめ奉て、天下第一の宗廟にまします。この天皇天下を治め給いしこと九十九年。百四十歳おましましき。 |
○第十二代、 景行天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛、丹波道主の王の女也。 辛未年即位。大和の 纏向の日代の宮にまします。十二年秋、 熊襲〈日向にあり〉そむきてみつき奉らず。 八月に天皇筑紫に幸して是を征し給う。十三年夏ことごとく平ぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫より還給う。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓の尊御年十六、をさなくより雄略気まして、 容貎魁偉。身の 長一丈、 力能かなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ 給。冬十月ひそかに彼国にいたり、 奇謀をもて、梟帥 取石鹿父と云う物を 殺し給。梟帥ほめ奉て、 日本武となづけ申しけり。悉余党を 平て帰り給う。所々にしてあまたの悪神をころしつ。二十八年春かへりこと申し給いけり。天皇その功をほめてめぐみ給うこと諸子にことなり。四十年の夏、 東夷おほく背て辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備の武彦、 大伴の武日を左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に 枉道して伊勢の神宮にまうでゝ、大和姫の命にまかり 申給う。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ」とをしへ給いける。駿河に 〈駿河日本紀説、 或相模古語拾遺説〉いたるに、賊徒野に火をつけて害したてまつらんことをはかりけり。火のいきほひまぬかれがたかりけるに、はかせる叢雲の剣をみづからぬきて、かたはらの草をなぎてはらふ。これより名をあらためて草薙の剣と云ふ。又火うちをもて火を出て、むかひ火を 付て、賊徒を 焼ころされにき。これより船に乗給いて上総にいたり、転じて陸奥国にいり、 日高見の国 〈その所異説あり〉にいたり、 悉蝦夷を平げ給う。かへりて 常陸をへ甲斐にこえ、又 武蔵・ 上野をへて、 碓日坂にいたり、 弟橘媛と云し妾をしのび給う 〈上総へ 渡給いし時、風波あらかりしに、尊の御命をあがはんとて海に入し人なり〉。東南の方をのぞみて、「吾嬬者耶」との給しより、 山東の諸国をあづまと云う也。これより道をわけ、吉備の武彦をば 越後国に遣して不順者を 平しめ給う。尊は 信濃より尾張にいで給う。かの国に宮簀媛と云う女あり。尾張の稲種宿禰の妹也。この女をめして 淹 留まり給ふあひだ、五十葺の山に荒神ありときこえければ、剣をば宮簀媛の家にとゞめて、かちよりいでます。山神 化して小蛇になりて、御道によこたはれり。尊またこえてすぎ給しに、山神毒気を吐けるに、御心みだれにけり。それより伊勢にうつり給う。能褒野と云う所にて御やまひはなはだしくなりにければ、武彦の命をして天皇に事のよしを奏して、つひにかくれ給ぬ。御年三十也。天皇きこしめして、悲給う事 限なし。 群卿百寮に 仰て、伊勢国能褒野にをさめたてまつる。 白鳥と 成て、大和国をさして 琴弾原にとゞまれり。その所に又 陵をつくらしめられければ、又飛て 河内古市にとゞまる。その所に陵を定られしかば、白鳥又飛て天にのぼりぬ。仍 三の陵あり。 彼草薙の剣は宮簀媛あがめたてまつりて、尾張にとゞまり給。今の 熱田神にまします。五十一年秋八月、武内の宿禰を棟梁の臣とす。五十三年秋、小碓の命の 平し国をめぐりみざらんやとて、東国に 幸し給う。 十二月あづまよりかへりて、伊勢の綺の宮にまします。五十四年秋、伊勢より大和にうつり、纏向の宮にかへり給う。天下を治め給いしこと六十年。百四十歳おましましき。 |
○第十三代、 成務天皇は景行第三[の]子。御母八坂入姫、八坂入彦の皇子[の] 〈崇神の御子〉女也。日本武尊 日嗣をうけ給ふべかりしに、世をはやくしましまししかば、この御門 立給う。 辛未歳即位。近江の志賀高穴穂の宮にまします。神武より十二代、大和国にましましき 〈景行天皇のすゑつかた、この高穴穂にましまししかども定る皇都にはあらず〉。この時はじめて他国にうつり給う。三年の春、武内の宿禰を大臣とす 〈大臣の号これにはじまる〉。四十八年の春、 姪仲足彦の尊 〈日本武の尊の御子〉をたてゝ皇太子とす。天下を治め給いしこと六十一年。百七歳おましましき。 |
○第十四代、第十四世、 仲哀天皇は 日本武尊第二の子、景行御孫也。御母両道入姫、垂仁天皇[の]女也。大祖神武より第十二代景行までは代のまゝに 継体し給う。日本武尊世をはやくし給いしによりて、成務是をつぎ給う。この天皇を太子としてゆづりましまししより、代と 世とかはれる初也。これよりは世を本としるし奉べき也。 代と世とは常の義 差別なし。然ど 凡の承運とまことの継体とを分別せん為に書き分たり。但字書にもそのいはれなきにあらず。代は更の義也。世は周礼の註に、父 死て子立を世と云うとあり。この天皇御かたちいときらきらしく、御たけ一丈ましましける。壬申の年即位。この御時熊襲又反乱して朝貢せず。天皇軍をめしてみづから征伐をいたし、筑紫にむかひ給う。皇后息長足姫尊は越前の国 笥飯の神にまうでゝ、それより北海をめぐりて行あひ給いぬ。こゝに神ありて皇后にかたり奉る。「これより西に宝の国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国也。又伊弉諾・伊弉冊のうみ給へりし国なれば、うたずともつひにしたがひたてまつりなん」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずして 橿日の行宮にしてかくれ 給。 長門にをさめ奉る。これを穴戸豊浦の宮と申す。天下を治め給いしこと九年。五十二歳おましましき。 |
○第十五代、神功皇后は息長の 宿禰の女、 開化天皇四世の御孫也。 息長足姫の尊と申す。仲哀たてゝ皇后とす。仲哀神のをしへによらず、世を早くし給いしかば、皇后いきどほりまして、七日あ[つ]て 別殿を作り、いもほりこもらせ給う。この時応神天皇はらまれましましけり。神がゝりて様々道ををしへ給ふ。この神は「表筒男・中筒男・ 底筒男なり」となんなのり給けり。これは伊弉諾尊日向の 小戸の川檍が原にてみそぎし給いし時、化生しましける神也。後には 摂津 国住吉にいつかれ給う神これなり。かくて 新羅・ 百済・ 高麗を 〈この三け国を三韓と云ふ。正は新羅にかぎるべきか。辰韓・馬韓・ 弁韓をすべて新羅と云う也。しかれどふるくより百済・高麗をくはへて三韓と 云ならはせり〉うちしたがへ給いき。海神かたちをあらはし、御船をはさみまぼり申しかば、思の如く彼国を 平げ給う。神代より年序久くつもれりしに、かく 神威をあらはし給いける、不測御ことなるべし。海中にして如意の 珠を得給へりき。さてつくしにかへりて皇子を誕生す。応神天皇にまします。神の申給いしによりて、これを 胎中の天皇とも申す。皇后 摂政して 辛巳年より天下をしらせ給う。皇后いまだ筑紫にましましし時、皇子の異母の 兄忍熊の王 謀反をおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、 紀伊の水門につけ、皇后はすぐに難波につき給いて、程なくその乱を平げられにき。皇子おとなび給いしかば皇太子とす。武内[の]大臣もはら朝政を輔佐し申しけり。大和の 磐余稚桜の宮にまします。これより三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、この国よりも彼国に 鎮守のつかさをおかれしかば、西蕃相通て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「 倭国の女王遣使て来朝す」と後漢書にみえたり。元年 辛巳年は漢の孝献帝二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王莽と云う臣位をうばひて十四年ありき。その後漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢は滅してこの御代の十九年己亥に献帝位をさりて、魏の文帝にゆづる。これより天下三にわかれて、魏・蜀・ 呉となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづ通じけるにや。 呉国より道々のたくみなどまでわたされき。又 魏国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年乙酉と云し年、魏又滅て晉の代にうつりにき。 蜀の国は三十年癸未に魏のためにほろぼされ、呉は魏より後までありしが、応神十七年 辛丑晉のためにほろぼさる〉。この皇后天下を治め給いしこと六十九年。一百歳おましましき。 |
○第十六代、第十五世、
応神天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。胎中の天皇とも、又は誉田天皇ともなづけたてまつる。
庚寅年即位。大和の軽嶋豊明の宮にまします。この時
百済より
博士をめし、
経史をつたへられ、太子以下これをまなびならひき。この国に経史及文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が
後也と云ふ」といへり。
返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云う事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地
開て後、すさのをの尊韓の地にいたり給いきなど云う事あれば、彼等の国々も神の
苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。
天地神の御すゑなれば、なにしにか代くだれる
呉の太伯が後にあるべき。三韓・震旦に通じてより
以来、異国の人おほくこの国に帰化しき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ
蕃人の子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せしによりて、
姓氏録と云う文をつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。異朝にも人の心まちまちなれば、異学の輩の
云い出せる事歟。後漢書よりぞこの国のことをばあらあらしるせる。符合したることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書には、日本の皇代記を神代より光孝の御代まであきらかにのせたり。さてもこの御時、武内大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされける比、おとゝの讒によりて、すでに追討せられしを、大臣の
僕、真根子と云う人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりて誅せらる。大臣は忍て都にまうでゝ、とがなきよしを明められにき。上古
神霊の
主猶かゝるあやまちましまししかば、末代争かつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治め給いしこと四十一年。百十一歳おましましき。 欽明天皇の御代に始めて神とあらはれて、筑紫の 肥後国 菱形の池と云う所にあらはれ 給、「われは人皇十六代 誉田の 八幡丸なり」との給いき。誉田はもとの御名、八幡は 垂迹の号也。後に豊前の国 宇佐の宮にしづまり給いしかば、聖武天皇東大寺 建立の後、 巡礼し給うべきよし 託宣ありき。 仍威儀をとゝのへてむかへ申さる。又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺に勧請し奉らる。されど勅使などは宇佐にまゐりき。清和の御時、 大安寺の僧、 行教宇佐にまうでたりしに、霊告ありて、今の男山石清水にうつりまします。爾来行幸も奉幣も石清水にあり。 一代一度宇佐へも 勅使をたてまつらる。昔天孫 天降給いし時、御供の神八百万ありき。大物主の神したがへて天へのぼりしも、八十万の神と云えり。今までも 幣帛を奉まつらるゝ神、三千余坐也。しかるに天照太神の宮にならびて、二所の 宗廟とて八幡をあふぎ申さるゝこと、いとたふとき御事也。八幡と申し御名は御託宣に「得道来不動法性。示八正道垂権迹。皆得解脱苦衆生。故号八幡大菩薩」とあり。 八正とは、内典に、正見・ 正思惟・ 正語・ 正業・ 正命・ 正精進・ 正定・正恵、これを八正道と 云ふ。凡心正なれば身口はおのづからきよまる。三業に邪なくして、内外真正なるを 諸仏出世の 本懐とす。神明の 垂迹も又これがためなるべし。又八方に 八色の 幡を立ることあり。密教の 習、西方阿弥陀の 三昧耶形也。その故にや行教和尚には弥陀三尊の形にてみえさせ給いけり。光明袈裟の上にうつらせましましけるを頂戴して、男山には安置し申けりとぞ。神明の本地を云うことはたしかならぬたぐひおほけれど、 大菩薩の応迹は昔よりあきらかなる証拠おはしますにや。或るいは又、「昔於霊鷲山説妙法華経」とも、或るいは弥勒なりとも、大自在王菩薩なりとも託宣し給う。中にも八正の幡をたてゝ、八方の衆生を済度し給本誓を、能々思い入てつかうまつるべきにや。天照太神もたゞ 正直をのみ御心とし給へる。神鏡を伝へましまししことの起は、さきにもしるし侍ぬ。 又 雄略天皇二十二年の冬 十一月に、伊勢の神宮の新嘗のまつり、夜ふけてかたへの人々罷り出て後、 神主物忌等ばかり 留たりしに、 皇太神・ 豊受の太神、 倭姫命にかゝりて託宣し給しに、「人はすなはち天下の神物なり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝに祈祷を以て先とし、冥はくはふるに正直を以て本とす」とあり。 同二十三年二月、かさねて託宣し給いしに、「 日月は四州をめぐり、六合を照すと 云ども正直の 頂を照すべし」とあり。されば二所宗廟の御心をしらんと思はゞ、只正直を先とすべき也。大方 天地の間ありとある人、陰陽の気をうけたり。不正にしてはたつべからず。こと更にこの国は神国なれば、神道にたがひては一日も日月をいたゞくまじきいはれなり。倭姫の命人にをしへ給けるは「 黒心なくして 丹心をもて、 清潔 斎 慎。左の物を右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめぐることも 万事たがふことなくして、太神につかうまつれ。 元々本々故なり」となむ。まことに、君につかへ、神につかへ、国ををさめ、人ををしへんことも、かゝるべしとぞおぼえ侍。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本となる。 周易に、「霜を 履 堅 氷に 至」と云うことを、孔子釈しての給はく、「積善の家に 余慶あり、積不善の家に 余殃あり。君を弑し父を弑すること一朝一夕の故にあらず」と云り。毫釐も君をいるかせにする心をきざすものは、かならず乱臣となる。芥蔕も親をおろそかにするかたちあるものは、果して賊子となる。この故に古の聖人、「道は 須臾もはなるべからず。はなるべきは道にあらず」と云いけり。但の 末を学びて源を 明めざれば、ことにのぞみて 覚えざる過あり。その源と云うは、心に一物をたくはへざるを云ふ。しかも虚無の中に 留るべからず。天地あり、君臣あり。善悪の 報 影響の如し。 己が欲をすて、人を利するを先として、 境々に対すること、鏡の物を照すが如く、 明々として迷はざらんを、まことの正道と云べきにや。代くだれりとて自ら 苟むべからず。天地の始めは今日を始とする理なり。加之、君も臣も神をさること遠からず。常に冥の知見をかへりみ、神の本誓をさとりて、 正に居せんことを心ざし、邪なからんことを思い給べし。 |
○第十七代、
仁徳天皇は応神第一の御子。御母仲姫の命、
五百城入彦皇子女也。大
鷦鷯の尊と
申。応神の御時、菟道稚皇子と申すは
最末の御子にてましまししをうつくしみ給いて、太子に
立むとおぼしめしけり。兄の御子達うけがひ給はざりしを、この天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神
悦まして、菟道稚を太子とし、この尊を
輔佐になん定め給いける。応神かくれましまししかば、
御兄達太子を失はんとせられしを、この尊さとりて太子と心を一にして彼を誅せられき。
爰太子天位を尊に譲り給。尊堅くいなみ給う、三年になるまで互に
譲て位を空す。太子は山城の宇治にます。尊は摂津の難波にましけり。国々の
御つぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民の愁となりしかば、太子みづから失給いぬ。尊おどろき
歎き給ことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、癸酉の年即位。摂
津国難波高津の宮にまします。日嗣をうけ給ひしより国をしづめ民をあはれみ給こと、ためしもまれなりし御事にや。民間の
貧きことをおぼして、三年の
御調を
止られき。
高殿にのぼりてみ給へば、にぎはゝしくみえけるによりて、
高屋にのぼりてみれば 煙立 民のかまどはにぎはひにけり とぞよませ給いける。さて猶三年を許されければ、宮の中 破て 雨露もたまらず。 宮人の 衣 壊てそのよそほひ全からず。 御門はこれをたのしみとなむおぼしける。かくて六年と云うに、国々の民各まゐり 集て大宮造し、 色[の]御調を 備へけるとぞ。ありがたかりし御政なるべし。天下を治め給いしこと八十七年。百十歳おましましき。 |
○第十八代、履中天皇は仁徳の太子。御母 磐之姫の命、 葛城の 襲津彦の女也。庚子の年即位。又大和の 磐余稚桜の宮にまします。 後の稚桜の宮と申。天下を治め給いしこと六年。六十七歳おましましき。 |
○第十九代、 反正天皇は仁徳第三の子、履中同母の弟也。丙午年即位。河内の丹比の柴籬の宮にまします。天下を治め給いしこと六年。六十歳おましましき。 |
○第二十代、允恭天皇は仁徳第四[の]子、履中反正同母[の]弟也。壬子の年即位。大和の遠明日香の宮にまします。この御時までは三韓の御調年々にかはらざりしに、これより後はつねにおこたりけりとなん。八年己未にあたりて、もろこしの晉ほろびて南北朝となる。宋・齊・梁・陳あひつぎて起る。これを南朝と云ふ。後魏・北齊・後周におこれりしを北朝と云ふ。百七十余年はならびて立たりき。この天皇天下を治め給いしこと四十二年。八十歳おましましき。 |
(私論.私見)