巻二

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).2.26日

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 2009.1.9日、2011.8.20日再編集 れんだいこ拝


神皇正統記 巻二

 ○
人皇にんわう第一代、神日本磐余彦天皇すめらみこと。後に神武じんむとなづけたてまつる。地神ちじん鸕鶿草葺不合の尊の第四の子。御母玉依姫、海神うみのかみ 小童わたつみの第二のむすめ也。伊弉諾尊には六世、大日孁おほひるめの尊には五世の天孫にまします。神日本磐余彦と申すは神代よりのやまとことばなり。神武は中古となりて、もろこしのことばによりてさだめたてまつる御名也。又この御代より代ごとに宮所みやどころをうつされしかば、そのところを名づけて御名とす。この天皇をば橿原かしはらの宮と申す、これ也。又神代よりたふときみこと、その次をみことふ。

 人の代となりては天皇すめらみこととも号したてまつる。臣下にも朝臣あそむ宿禰すくねおみなどと、いふ号いできにけり。神武の御時よりはじまれる事なり。上古しやうこには尊とも命ともかねしようしけるとみえたり。世くだりては天皇を尊と申こともみえず、しんを命と云う事もなし。古語の耳なれずなれるゆゑにや。この天皇てんわう御年十五にて太子たいし、五十一にてちち)の神にかはりて皇位にはつかしめ。ことし辛酉かのととりなり。筑紫つくしの日向の宮崎の宮におはしましけるが、このかみの神達および皇子群臣わうじぐんしんみことのりして、東せいのことあり。この大八州おほやしまは皆なこれ王地也。神代かみよ 幽昧ゆうまいなりしによりて西偏にしのほとりの国にして、おほくの年序ねんじよをおくられけるにこそ。天皇舟楫しうしふをとゝのへ、甲兵かふへいをあつめて、大日本州おほやまとのくににむかひ給う。みちのついでの国々をたひらげ、大やまとにいりまさむとせしに、その国にあめの神にぎ速日はやひの尊の御すゑ宇麻志間見うましまみの命と云う神あり。外舅はゝかたのをぢ長髄彦ながすねひこと云う、「天神あまつかみの御子両種有むや」とて、いくさをおこしてふせぎたてまつる。その軍こはくして皇軍みいくさしばしば利をうしなふ。又邪神あしきかみ 毒気どくきをはきしかば、士卒しそつみなやみふせり。こゝに天照太神、健甕槌たけみかづちの神をめして、「葦原の中つくににさわぐおとす。汝ゆきてたひらげよ」とみことのりし給う。

 健甕槌の神
給いけるは、「昔国をたひらげし時[の]剣あり。かれをくださば、おのづからたひらぎなん」と申して、紀伊きの名草なぐさの村に高倉下たかくらじの命と云う神にしめして、この剣をたてまつりければ、天皇よろこび給いて、士卒のやみふせりけるもみなおきぬ。又神魂かみむすひの命のまご武津之身たけつのみの命大からすとなりて軍の御さきにつかうまつる。天皇ほめて八咫烏やたからすと号し給う。又金色こんじきとびくだりて皇弓みゆみのはずにゐたり。その光てりかゞやけり。これによりて皇軍おほきにかちぬ。宇麻志間見うましまみの命そのをぢのひがめる心をしりて、たばかりてころしつ。そのいくさをひきゐてしたがひ申しにけり。天皇はなはだほめましまして、あめよりくだれる神剣をさづけ、「その大勲だいくんにこたふ」とぞのたまはせける。この剣を豊布都とよふつの神と号す。はじめは大和やまと石上いそのかみにましましき。後には常陸ひたち鹿嶋かしまの神宮にまします。
 彼かの宇麻志間見うましまみの命又饒速日にぎはやひの尊天降し時、外祖ぐわいそ高皇産霊たかみむすひの尊さづけ給し 十種とくさ瑞宝みづたからへもたりけるを天皇に奉る。天皇鎮魂みたましづめの瑞宝也しかば、その祭りを始られにき。この宝をも宇麻志間見うましまみにあづけ給いて、大和やまとの石上に安置あんぢす。又は布瑠ふる。この瑞宝をひとつづゝよびて、呪文じゆもんをして、ふる事あるによれるなるべし。かくて天下あめのしたたひらぎにしかば、大和国 橿原かしはらに都をさだめて、宮つくりす。その制度せいど天上の儀のごとし。天照太神より伝え給へる三種の神器を 大殿みあらかに安置し、 ゆかを同じくしまします。皇宮・神宮ひとつなりしかば、国々のつき物をも 斎蔵いみくらにをさめて官物くわんもつ神物じんもつのわきだめなかりき。天児屋根あめのこやねの命の孫 天種子あめのたねこの命、 天太玉あめのふとたまの命[の]孫 天富あめのとみの命もはら神事しんじをつかさどる。神代の ためしにことならず。又霊畤まつりのには鳥見山とみのやまなかにたてゝ、 天神あまつかみ地祇くにつかみをまつらしめ。この御代の始め、辛酉かのととりの年、もろこしの しうの世、第十七代にあたる君、けい王の十七年也。五十七年 丁巳ひのとみは周の二十一代の君、てい王の三年にあたれり。ことし老子らうし誕生す。これは道教の祖也。天竺てんぢく釈迦如来しやかによらい入滅にふめつし給いしより元年辛酉までは二百九十年になれるか。この天皇天下てんか給いしこと七十六年。一百二十七歳おはしき。
 ○第二代、綏靖すゐぜい天皇[は]〈これより和語わごの尊号をばのせず〉神武じんむ第二の御子。御母鞴五十鈴姫たたらいすずひめ事代主ことしろぬしの神の女也。父の天皇かくれまして、みとせありて即位し給う。庚辰かのえたつの年也。大和葛城高岡やまとのかづらきのたかをかの宮にまします。三十一年庚戌かのえいぬの年もろこしの周の二十三代の君、れい王の二十一年也。ことし 孔子こうし誕生す。自是これより七十三年までおはしけり。儒教をひろめらる。この道は昔の賢王、唐堯たうげう虞舜ぐしゆんはじめいんのはじめのたうしうのはじめのぶん王・王・しう公の国を治め、民をなで給し道なれば、心をただしくし、身をなほくし、家を治め、国を治めて、天下におよぼすをむねとす。さればことなる道にはあらねども、末代まつだいとなりて、人不正になりしゆゑに、その道ををさめて儒教じゆけうをたてらるゝ也。天皇天下を給いしこと三十三年。八十四歳おましましき。
 ○第三代、 安寧あんねい天皇は綏靖すゐぜい第二の子。御母 五十鈴依姫いすずよりひめ 事代主ことしろぬしの神のおと むすめ也。 癸丑みづのとうしの年即位。 大和やまと片塩かたしほ 浮穴うきあなの宮にまします。天下を治め給いしこと三十八年。五十七歳おましましき。
 ○第四代、 懿徳いとく天皇は 安寧あんねい第二の子。御母渟名底中媛ぬなそこなかつひめ 事代主ことしろぬしの神の孫也。 辛卯かのとうの年即位。大和の 軽曲峡かるのまがりをの宮にまします。天下を治め給いしこと三十四年。七十七歳おはしましき。
○第五代、孝昭かうせう天皇は 懿徳いとく第一の子。御母天豊津あまのとよつ姫、 息石耳おきしみみの命の女也。父の天皇かくれまして一年ひととせありて、 丙寅ひのえとらの年即位。大和のわき上池かみのいけこころの宮にまします。天下を治め給いしこと八十三年。百十四歳おはしましき。
 ○第六代、孝安かうあん天皇は孝昭かうせう第二の子。御母 世襲足よそたらしの姫、 尾張をはり むらじ上祖とほつおや 瀛津世襲おきつよその女也。 乙丑きのとうしの年即位。 大倭秋津嶋やまとのあきづしまの宮にまします。天下を治め給いしこと一百二年。百二十歳おましましき。
 ○第七代、孝霊かうれい天皇は 孝安かうあん太子たいし。御母押姫おしひめ 天足彦国押人あめたらしひこくにおしひとの命の女也。 辛未かのとひつじの年即位。大和の黒田廬戸くろだいほとの宮にまします。三十六年丙午ひのえうまにあたる年、もろこしの周の国めつしてしんにうつりき。四十五年 乙卯きのとう、秦の 始皇しくわう即位。この始皇仙ほうをこのみて 長生不死ちやうせいふしの薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の遺書ゐしよかの国にもとめしに、始皇ことごとくこれをおくる。その後三十五年ありて、かの国、書をやき、儒をうづみにければ、孔子の全きやう日本にとゞまるといへり。この事異朝の書にのせたり。我国には神功皇后じんぐうくわうごう三韓をたひらげ給いしより、異国に通じ、応神の御代より経史けいしの学つたはれりとぞ申しならはせる。孝霊の御時よりこの国に文字もんじありとはきかぬ事なれど、上古しやうこのことはたしかしるしとゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、 吉備大臣きびのだいじん入唐にふたうしてへたりける本こそ流布るふしたれば、この御代より伝わりけん事もあながちにうたがふまじきにや。

 凡そこの国をば君子不死の国とも云う也。孔子世のみだれたる事を
なげきて、「九夷きういにをらん」との給いける。日本は九夷のそのひとつなるべし。異国にはこの国をば東夷とす。この国よりは又彼国をも西蕃せいばんと云えるがごとし。四海しかいと云うは東夷とうい南蛮なんばん 西羌せいきやう北狄ほくてき也。南はじやしゆなれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありていのちながし。よりてだい きうの字をしたがふと云へり。〔裏書にふ。夷説文曰。東方之人也。从大从弓。徐氏曰。唯東夷从大从弓。仁而寿。有君子不死之国 ふ。仁而寿、未合弓字之義。弓者以近窮遠也 ふ。若取此義歟〕孔子の時すらこなたのことをしり給いければ、秦の世に通じけんことあやしむにたらぬことにや。この天皇天下を給いし事七十六年。百十歳おはしましき。
 ○第八代、孝元かうげん天皇は孝霊の 太子たいし。御母細媛くはしひめ 磯城県主しきのあがたぬしの女也。 丁亥ひのとゐの年即位。大倭やまと 軽境原かるのさかひはらの宮にまします。九年乙未きのとひつじの年、もろこしのしんほろび かんにうつりき。この天皇天下を治め給いしこと五十七年。百十七歳おましましき。
 ○第九代、開化かいくわ天皇は孝元第二の子。御母鬱色謎うつしこめ姫、 穂積ほづみ おみの 上祖とをつをや 鬱色雄命うつしこをのみことの妹也。 甲申きのえさるの年即位。大和の 春日率川かすがのいさがはの宮にまします。天下を治め給いしこと六十年。百十五歳おましましき。
 ○第十代、 崇神すじん天皇は開化第二の子。御母 伊香色謎いかがしこめ姫。 初めは孝元のきさきとして彦太忍信ひこふとおしまことの命をうむ〉 太綜麻杵おほへそきの命の女也。 甲申きのえさるの歳即位。大和の磯城しき瑞籬みづかきの宮にまします。この御時神代をさる事、世は十つぎ、年は六百 になりぬ。やうやく神威をおそれ給いて、即位六年己丑つちのとうしの 〈神武元年辛酉かのととりよりこの己丑つちのとうしまでは六百二十九年〉神代の鏡造かがみつくり 石凝姥いしこりどめの神のはつこをめして鏡をうつしせしめ、 天目一箇あめのまひとつの神のはつこをして剣をつくらしむ。大和宇陀やまとのうだこほりにして、この両種をうつしあらためられて、 護身ごしんしるしとして同殿おなじとのに安置す。

 神代よりの宝鏡および霊剣をば
皇女くわうぢよ豊鋤入姫とよすきいりひめの命につけて、大和の笠縫かさぬひむらと云う所に 神籬ひもろぎをたてゝあがめ奉らる。これより神宮・皇居おのおのべつになれりき。その後太神のをしへありて、豊鋤入姫の命、神体を 頂戴ちやうだいし所々ところどころをめぐり給いけり。十年の秋、大彦おほひこの命を北陸ほくろくつかはし、武渟川別たけぬなかはわけの命を東海とうかいに、吉備津彦命を西道さいだうに、 丹波たには道主みちぬしの命を丹波たんばに遣す。ともに 印綬いんじゆ て将軍とす 将軍の名はじめてみゆ

 天皇の
叔父しゆくふ武埴安彦たけはにやすひこの命、朝廷をかたぶけんとはかりければ、将軍等をとどめて、まづ追討しつ。冬 十月かんなづきに将軍 発路みちたちす。十一年の夏、四道の将軍 戎夷じゆういたひらげぬるよし 復命かへりことす。六十五年秋任那みまなの国、 使つかひをさして つきをたてまつる 筑紫をさること二千余里と云う。天皇天下を治め給いしこと六十八年。百二十歳おましましき。
 ○第十一代、垂仁すゐにん天皇は崇神すじん第三の子。御母 御間城姫みまきひめ大彦おほひこみことの 〈孝元の御子〉女也。 壬辰みづのえたつの年即位。大和の 巻向まきむく 珠城たまきの宮にまします。この御時皇女大和姫の命、豊鋤入とよすきいり姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年丁巳ひのとみ十月甲子かんなづききのえね伊勢いせの 度会郡わたらひのこほり 五十鈴いすずの川上に宮所みやどころをしめ、高天たかまの原に 千木高知ちぎたかしり 下都磐根したついはねに大宮柱広敷ふとしき てしづまりましましぬ。このところは昔天孫あめみまあまくだり給いし時、猨田彦さるだびこの神まゐりあひて、「われは伊勢の狭長田さながたの五十鈴の川上にいたるべし」と申しける所也。大倭やまと姫の命、宮所をたづね給いしに、大田の命と云う人 〈又 興玉おきたまとも云う〉まゐりあひて、この所ををしへ申しき。この命は昔の猨田彦の神の苗裔べうえいなりとぞ。彼川上に五十鈴いすず・天上の 図形づぎやうなどあり 〈天の逆戈さかほこもこの所にありきと云う一説あり〉。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき」となん申しける。かくて中臣なかとみおや 大鹿嶋おほかしまの命を祭主さいしゆとす。又 大幡主おほはたぬしと云う人を 太神主おほかむぬしになし 。これより皇太神すめおほみかみとあがめ奉て、天下てんか第一の宗廟そうべうにまします。この天皇天下を治め給いしこと九十九年。百四十歳おましましき。
 ○第十二代、 景行けいかう天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛ひはすひめ、丹波道主の王の女也。 辛未かのとひつじの年即位。大和の 纏向まきむく日代ひしろの宮にまします。十二年秋、 熊襲くまそ〈日向にあり〉そむきてみつき奉らず。 八月はつきに天皇筑紫にみゆきして是をせいし給う。十三年夏ことごとくたひらぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫よりかへり給う。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓をうすの尊御年十六、をさなくより雄略気をゝしきけまして、 容貎ようばう魁偉すぐれたゝはし。身の たけ一丈、 ちから)くかなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ 。冬十月かんなづきひそかに彼国にいたり、 奇謀きぼうをもて、梟帥たけるひとこのかみ 取石鹿父とりいしかやと云う物を 殺し給。梟帥ほめ奉て、 日本武やまとたけとなづけ申しけり。ことごとく余党を たひらげて帰り給う。所々にしてあまたの悪神あしきかみをころしつ。二十八年春かへりこと申し給いけり。天皇その功をほめてめぐみ給うこと諸子にことなり。四十年の夏、 東夷とういおほくそむきて辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備きび武彦たけひこ 大伴おほとも武日たけひを左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に 枉道よきりみちして伊勢の神宮にまうでゝ、大和姫の命にまかり 給う。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ」とをしへ給いける。駿河するが 〈駿河日本紀説、 るひは相模さがみ古語拾遺説〉いたるに、賊徒ぞくと野に火をつけてがいしたてまつらんことをはかりけり。火のいきほひまぬかれがたかりけるに、はかせる叢雲むらくもの剣をみづからぬきて、かたはらの草をなぎてはらふ。これより名をあらためて草薙くさなぎの剣とふ。又火うちをもて火をいだして、むかひ火を つけて、賊徒を やきころされにき。これより船に給いて上総かづさにいたり、転じて陸奥みちのおくの国にいり、 日高見ひたかみの国 〈その所異説あり〉にいたり、 ことごと蝦夷えびすたひらげ給う。かへりて 常陸ひたちをへ甲斐かひにこえ、又 武蔵むさし 上野かみつけをへて、 碓日坂うすひざかにいたり、 弟橘媛おとたちばなひめと云しみめをしのび給う 〈上総へ 給いし時、風波ふうはあらかりしに、尊の御命をあがはんとて海にし人なり〉。東南のかたをのぞみて、「吾嬬あづま者耶はや」との給しより、 山東さんとうの諸国をあづまと云う也。これより道をわけ、吉備の武彦をば 越後ゑちごの国につかはして不順者まつろはぬもの たひらげしめ給う。尊は 信濃しなのより尾張をはりにいで給う。かの国に宮簀媛みやすひめと云うをんなあり。尾張をはり稲種宿禰いなたねのすくねの妹也。この女をめして ひさしく 留まり給ふあひだ、五十葺いぶきの山に荒神あらぶるかみありときこえければ、剣をば宮簀媛の家にとゞめて、かちよりいでます。山神やまのかみ して小蛇こへびになりて、御道によこたはれり。尊またこえてすぎ給しに、山神毒気をけるに、御心みだれにけり。それより伊勢にうつり給う。能褒野のぼのと云う所にて御やまひはなはだしくなりにければ、武彦の命をして天皇に事のよしをそうして、つひにかくれ給ぬ。御年三十也。天皇きこしめして、しみ給う事 なし。 群卿百寮ぐんけいひやくれう て、伊勢国能褒野にをさめたてまつる。 白鳥しらとり て、大和国をさして 琴弾ことひきの原にとゞまれり。その所に又 みささぎをつくらしめられければ、又 河内古市かはちのふるいちにとゞまる。その所に陵をさだめられしかば、白鳥又飛てあめにのぼりぬ。よりて みつの陵あり。 かの草薙の剣は宮簀媛あがめたてまつりて、尾張にとゞまり給。今の 熱田あつたの神にまします。五十一年秋八月はつき武内たけうち宿禰すくね棟梁とうりやうの臣とす。五十三年秋、小碓をうすの命の ことむけし国をめぐりみざらんやとて、東国に みゆきし給う。 十二月しはすあづまよりかへりて、伊勢のかむばたの宮にまします。五十四年秋、伊勢より大和にうつり、纏向まきむくの宮にかへり給う。天下を治め給いしこと六十年。百四十歳おましましき。
 ○第十三代、 成務せいむ天皇は景行第三[の]子。御母八坂入姫やさかいりひめ、八坂入彦の皇子[の] 〈崇神の御子〉女也。日本武やまとたけの 日嗣ひつぎをうけ給ふべかりしに、世をはやくしましまししかば、この御門みかど 給う。 辛未かのとひつじの歳即位。近江の志賀高穴穂しがのたかあなほの宮にまします。神武より十二代、大和国にましましき 〈景行天皇のすゑつかた、この高穴穂にましまししかどもさだまれる皇都にはあらず〉。この時はじめて他国にうつり給う。三年の春、武内の宿禰を大臣おほおみとす 〈大臣の号これにはじまる〉。四十八年の春、 姪仲足彦をひなかたらしひこの尊 〈日本武の尊の御子〉をたてゝ皇太子とす。天下を治め給いしこと六十一年。百七歳おましましき。
 ○第十四代、第十四世、 仲哀ちゆうあい天皇は 日本武やまとたけの尊第二の子、景行けいかうの御孫也。御母両道入姫ふたちいりひめ垂仁すゐにん天皇[の]女也。大祖たいそ神武より第十二代景行まではのまゝに 継体けいたいし給う。日本武尊世をはやくし給いしによりて、成務せいむ是をつぎ給う。この天皇を太子としてゆづりましまししより、だい せいとかはれる初也。これよりは世をもととしるしたてまつるべき也。 代と世とは常の義 差別しやべつなし。しかれ承運しよううんとまことの継体とを分別ぶんべつせん為に書き分たり。字書にもそのいはれなきにあらず。代はかうの義也。世は周礼しゆらいの註に、父 しして子たつを世と云うとあり。この天皇御かたちいときらきらしく、御たけ一丈ましましける。壬申みづのえさるの年即位。この御時熊襲又反乱して朝せず。天皇いくさをめしてみづから征伐をいたし、筑紫にむかひ給う。皇后息長足姫おきながたらしひめの尊は越前ゑちぜんの国 笥飯けいの神にまうでゝ、それより北海をめぐりて行あひ給いぬ。こゝに神ありて皇后にかたり奉る。「これより西にたからの国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国也。又伊弉諾・伊弉冊のうみ給へりし国なれば、うたずともつひにしたがひたてまつりなん」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずして 橿日かしひ行宮かりみやにしてかくれ 長門ながとにをさめ奉る。これを穴戸豊浦あなとのとよらの宮と申す。天下を治め給いしこと九年。五十二歳おましましき。
 ○第十五代、神功じんぐう皇后は息長おきなが 宿禰すくねの女、 開化かいくわ天皇四世の御孫也。 息長足おきながたらし姫の尊と申す。仲哀たてゝ皇后とす。仲哀神のをしへによらず、世を早くし給いしかば、皇后いきどほりまして、七日あ[つ]て 別殿べつでんを作り、いもほりこもらせ給う。この時応神天皇はらまれましましけり。神がゝりて様々道ををしへ給ふ。この神は「表筒男うはつつのをなか筒男・ そこ筒男なり」となんなのり給けり。これは伊弉諾尊日向の 小戸をど川檍あはぎが原にてみそぎし給いし時、化生けしやうしましける神也。後には 摂津つの 国住吉すみよしにいつかれ給う神これなり。かくて 新羅しらぎ 百済くだら 高麗かうらい 〈この三け国を三韓さんかんふ。ただしくは新羅にかぎるべきか。辰韓しんかん馬韓ばかん弁韓べんかんをすべて新羅と云う也。しかれどふるくより百済・高麗をくはへて三韓と いひならはせり〉うちしたがへ給いき。海神うみのかみかたちをあらはし、御船をはさみまぼり申しかば、おもひの如く彼国を たひらげ給う。神代より年序久くつもれりしに、かく 神威しんゐをあらはし給いける、不測はからざる御ことなるべし。海中にして如意によい たま給へりき。さてつくしにかへりて皇子を誕生す。応神天皇にまします。神の給いしによりて、これを 胎中たいちゆうの天皇とも申す。皇后 摂政せつしやうして 辛巳かのとみの年より天下をしらせ給う。皇后いまだ筑紫にましましし時、皇子の異母いぼ このかみ忍熊おしくまの王 謀反むほんをおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、 紀伊水門みなとにつけ、皇后はすぐに難波なにはにつき給いて、程なくそのみだれを平げられにき。皇子おとなび給いしかば皇太子とす。武内[の]大臣もはら朝政を輔佐ふさし申しけり。大和の 磐余稚桜いはれわかさくらの宮にまします。これより三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、この国よりも彼国に 鎮守ちんじゆのつかさをおかれしかば、西蕃せいばんつうじて国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「 倭国わこくの女王遣使つかひをつかはして来朝す」と後漢書ごかんじよにみえたり。元年 辛巳かのとみの年は漢の孝献帝かうけんてい二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王まうと云うしんくらゐをうばひて十四年ありき。そののち漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢はめつしてこの御代の十九年己亥つちのとゐに献帝位をさりて、文帝ぶんていにゆづる。これより天下みつにわかれて、しよく となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづつうじけるにや。 ごの国より道々みちみちのたくみなどまでわたされき。又 ぎの国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年乙酉きのととりと云し年、魏又ほろびしんの代にうつりにき。 蜀の国は三十年癸未みづのとひつじに魏のためにほろぼされ、呉は魏より後までありしが、応神十七年 辛丑かのとうし晉のためにほろぼさる〉。この皇后天下を治め給いしこと六十九年。一百歳おましましき。
 ○第十六代、第十五世、 応神おうじん天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。胎中たいちゆうの天皇とも、又は誉田ほむだの天皇ともなづけたてまつる。 庚寅かのえとらの年即位。大和の軽嶋豊明かるしまとよあかりの宮にまします。この時 百済くだらより 博士はかせをめし、 経史けいしをつたへられ、太子以下いげこれをまなびならひき。この国に経史文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。異朝いてうの一書の中に、「日本は呉の太伯たいはく のち也とふ」といへり。 返々かへすがへすあたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云う事のありし、かの書をば、桓武くわんむの御代にやきすてられしなり。天地あめつち ひらけて後、すさのをの尊かんの地にいたり給いきなど云う事あれば、彼等の国々も神の 苗裔べうえいならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。 天地神あめつちのかみの御すゑなれば、なにしにかくだれる 呉の太伯が後にあるべき。三韓さんかん震旦しんだんに通じてより 以来このかた、異国の人おほくこの国に帰化しき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ 蕃人ばんじんの子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せしによりて、 姓氏録しやうじろくと云うふみをつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。異朝にも人の心まちまちなれば、異学のともがら 云い出せる事後漢書ごかんじよよりぞこの国のことをばあらあらしるせる。符合したることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書たうじよには、日本の皇代記くわうだいき神代かみよより光孝くわうかうの御代まであきらかにのせたり。さてもこの御時、武内たけうちの大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされけるころ、おとゝのざんによりて、すでに追討せられしを、大臣の やつこ真根子まねこと云う人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりてちゆうせらる。大臣はて都にまうでゝ、とがなきよしをあきらめられにき。上古 神霊しんれい あるじ猶かゝるあやまちましまししかば、末代まつだいいかでかつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治め給いしこと四十一年。百十一歳おましましき。

 
欽明きんめい天皇の御代に始めて神とあらはれて、筑紫の 肥後ひごの 菱形ひしかたの池と云う所にあらはれ たまひ、「われは人皇にんわう十六代 誉田ほむだ 八幡丸やはたまろなり」との給いき。誉田はもとの御名、八幡は 垂迹すゐじやくの号也。後に豊前ぶぜんの国 宇佐の宮にしづまり給いしかば、聖武しやうむ天皇東大寺 建立こんりふの後、 巡礼じゆんれいし給うべきよし 託宣たくせんありき。 よりて威儀ゐぎをとゝのへてむかへ申さる。又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺に勧請くわんじやうたてまつらる。されど勅使などは宇佐にまゐりき。清和の御時、 大安寺だいあんじの僧、 行教ぎやうけう宇佐にまうでたりしに、霊告れいかうありて、今の男山石清水をとこやまいはしみづにうつりまします。爾来しかしよりこのかた行幸も奉幣ほうへいも石清水にあり。 一代一度いちだいいちど宇佐へも 勅使をたてまつらる。昔天孫あめみま 天降給いし時、御ともの神八百万やほよろづありき。大物主おほものぬしの神したがへてあめへのぼりしも、八十万やそよろづの神と云えり。今までも 幣帛へいはくたてまつらるゝ神、三千余坐よざ也。しかるに天照太神あまてらすおほみかみの宮にならびて、二所ふたところ 宗廟そうべうとて八幡をあふぎ申さるゝこと、いとたふとき御事也。八幡と申し御名は御託宣たくせんに「得道来みちをえてよりしてこのかた不動法性ほつしやうをうごかさず示八正道はちしやうだうをしめして垂権迹ごんじやくをたる得解脱苦衆生くのしゆじやうをげだつすることをえたりこのゆゑに号八幡大菩薩はちまんだいぼさつとがうす」とあり。 八正はちしやうとは、内典ないてんに、正見しやうけん 正思惟しやうしゆゐ 正語しやうご 正業しやうごふ 正命しやうみやう 正精進しやうしやうじん 正定しやうぢやう正恵しやうゑ、これを八正道と ふ。こころしやうなれば身口しんくはおのづからきよまる。三業さんごふよこしまなくして、内外真正ないげしんしやうなるを 諸仏しよぶつ出世の 本懐ほんくわいとす。神明の 垂迹すゐじやくも又これがためなるべし。又八方に 八色やいろ はたたつることあり。密教の ならひ西方阿弥陀さいはうあみだ 三昧耶形さんまやぎやう也。その故にや行教和尚くわしやうには弥陀三尊みださんぞんの形にてみえさせ給いけり。光明くわうみやう袈裟けさの上にうつらせましましけるを頂戴ちやうだいして、男山には安置し申けりとぞ。神明の本地ほんぢを云うことはたしかならぬたぐひおほけれど、 大菩薩だいぼさつ応迹おうじやくは昔よりあきらかなる証拠しようこおはしますにや。或るいは又、「昔於霊鷲山りやうじゆせんにおいて説妙法華経めうほけきやうをとく」とも、或るいは弥勒みろくなりとも、大自在王菩薩だいじざいわうぼさつなりとも託宣し給う。なかにも八正の幡をたてゝ、八方の衆生を済度さいど本誓ほんぜいを、能々よくよく思い入てつかうまつるべきにや。天照太神もたゞ 正直しやうぢきをのみ御心とし給へる。神鏡をへましまししことのは、さきにもしるしはべりぬ。

 又
雄略ゆうりやく天皇二十二年の冬 十一月しもつきに、伊勢の神宮の新嘗にひなめのまつり、夜ふけてかたへの人々罷り出のち 神主物忌等かむぬしものいみらばかり とどまりたりしに、 皇太神すめおほみかみ 豊受とようけの太神、 倭姫やまとひめの命にかゝりて託宣ししに、「人はすなはち天下の神物じんもつなり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝに祈祷を以てさきとし、みやうはくはふるに正直を以てもととす」とあり。 おなじき二十三年二月きさらぎ、かさねて託宣し給いしに、「 日月じつげつは四州をめぐり、六合りくがふを照すと ども正直の いただきを照すべし」とあり。されば二所ふたところの宗廟の御心をしらんと思はゞ、ただ正直を先とすべき也。大方おほかた 天地あめつちの間ありとある人、陰陽の気をうけたり。不正にしてはたつべからず。こと更にこの国は神国なれば、神道にたがひては一日も日月をいたゞくまじきいはれなり。倭姫の命人にをしへ給けるは「 きたなき心なくして きよき心をもて、 いさぎよく いもほり つつしめ。左の物を右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめぐることも 万事よろづのことたがふことなくして、太神おほみかみにつかうまつれ。 元々本々はじめをはじめとしもとをもとゝす故なり」となむ。まことに、君につかへ、神につかへ、国ををさめ、人ををしへんことも、かゝるべしとぞおぼえはべる。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本となる。 周易しうやくに、「霜を ふんで かたき こほり いたる」と云うことを、孔子釈しての給はく、「積善しやくぜんの家に 余慶よきやうあり、積不善の家に 余殃よあうあり。君をしいし父を弑すること一朝一夕の故にあらず」とり。毫釐がうりも君をいるかせにする心をきざすものは、かならず乱臣となる。芥蔕かいたいも親をおろそかにするかたちあるものは、はたして賊子となる。この故に古の聖人、「道は 須臾しゆゆもはなるべからず。はなるべきは道にあらず」と云いけり。しそ すゑを学びてみなもと あきらめざれば、ことにのぞみて おぼえざるあやまちあり。その源と云うは、心に一物いちもつをたくはへざるをふ。しかも虚無きよむうち とどまるべからず。天地あり、君臣あり。善悪の むくい 影響かげひびきの如し。 おのが欲をすて、人を利するを先として、 境々さかひさかひに対すること、鏡の物を照すが如く、 明々めいめいとして迷はざらんを、まことの正道と云べきにや。代くだれりとてみづか いやしむべからず。天地の始めは今日を始とする理なり。加之しかのみならず、君も臣も神をさること遠からず。常にみやう知見ちけんをかへりみ、神の本誓ほんぜいをさとりて、 しやうきよせんことを心ざし、よこしまなからんことを思い給べし。
 ○第十七代、 仁徳にんとく天皇は応神第一の御子。御母仲姫なかつひめの命、 五百城入彦皇子女いほきいりひこのみこのむすめ也。大 鷦鷯さゞきの尊と 。応神の御時、菟道稚皇子うぢのわかのみこと申すは 最末さいまつの御子にてましまししをうつくしみ給いて、太子に むとおぼしめしけり。このかみの御子達うけがひ給はざりしを、この天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神 よろこびまして、菟道稚を太子とし、この尊を 輔佐ふさになん定め給いける。応神かくれましまししかば、 御兄このかみ達太子を失はんとせられしを、この尊さとりて太子と心をひとつにして彼をちゆうせられき。 ここに太子天位を尊に譲り給。尊くいなみ給う、三年みとせになるまで て位をしくす。太子は山城やましろの宇治にます。尊は摂難波なにはにましけり。国々の つぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民のうれへとなりしかば、太子みづからうせ給いぬ。尊おどろき 歎き給ことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、癸酉みづのととりの年即位。摂 津国つのくに難波高津たかつの宮にまします。日嗣をうけ給ひしより国をしづめ民をあはれみこと、ためしもまれなりし御事にや。民間の まづしきことをおぼして、三年の 御調みつき とどめられき。 高殿たかどのにのぼりてみ給へば、にぎはゝしくみえけるによりて、

  高屋たかきやにのぼりてみれば 煙立けぶりたつ たみのかまどはにぎはひにけり

とぞよませ給いける。さて猶三年を許されければ、宮の中 やぶれ 雨露あめつゆもたまらず。 宮人みやびと ころも やぶれてそのよそほひまたからず。 御門みかどはこれをたのしみとなむおぼしける。かくて六年むとせと云うに、国々の民おのおのまゐり あつまりて大宮づくりし、 いろ)々[の]御調を そなへけるとぞ。ありがたかりし御まつりことなるべし。天下を治め給いしこと八十七年。百十歳おましましき。

 ○第十八代、履中りちゆう天皇は仁徳の太子。御母 磐之姫いはのひめの命、 葛城かづらき 襲津彦そつひこの女也。庚子かのえねの年即位。又大和の 磐余稚桜いはれのわかさくらの宮にまします。 のちの稚桜の宮と。天下を治め給いしこと六年。六十七歳おましましき。
 ○第十九代、 反正はんぜい天皇は仁徳第三の子、履中りちゆう同母の弟也。丙午ひのえうまの年即位。河内の丹比たぢひ柴籬しばがきの宮にまします。天下を治め給いしこと六年。六十歳おましましき。
 ○第二十代、允恭いんぎよう天皇は仁徳第四[の]子、履中反正同母[の]弟也。壬子みづのえねの年即位。大和の遠明日香とをつあすかの宮にまします。この御時までは三韓の御調年々としどしにかはらざりしに、これより後はつねにおこたりけりとなん。八年己未つちのとひつじにあたりて、もろこしのしんほろびて南北朝となる。そうせいりやうちんあひつぎておこる。これを南朝なんてうふ。後魏こうぎ北齊ほくせい後周こうしう)次々におこれりしを北朝ほくてうふ。百七十余年はならびてたりき。この天皇天下を治め給いしこと四十二年。八十歳おましましき。




(私論.私見)