神皇正統記巻一 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).3.11日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「神皇正統記巻一」を確認しておくことにする。神皇正統記(じんのうしょうとうき)は、 作者/北畠親房で、 1339(曆応2、延元4年?)年、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝の後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書。1343(興国4)年修訂。神代から後村上天皇の即位までが、天皇の代毎に記される六巻よりなる。なかでも後醍醐天皇についての記述が一番多い。 神武天皇以来皇位が正しい理に従って継承し来ったという皇位継承論と、南朝こそが正統だとする南朝正統論が論述されている。 史的著述の間に、哲学・倫理・宗教思想と並んで著者の政治観が織り込まれている。後代の歴史書である大日本史、読史余論、日本外史などに大きな影響を与えた。 「Wikisource 神皇正統記」を下敷きとする。 2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).3.11日 れんだいこ拝 |
【神皇正統記巻一】 |
大日本ハ(者)神国也。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみこの事あり。異朝にはそのたぐひなし。これ故に神国と云ふ也。神代には豊葦原千五百秋瑞穂国と云ふ。天地開闢の初よりこの名あり。天祖
国常立尊、陽神陰神に授け給いし勅にきこえたり。天照太神、天孫の尊に譲まししにも、この名あれば、根本の号なりとはしりぬべし。 又は大八州国と云ふ。これは陽神陰神、この国を生給いしが、八の嶋なりしによって名けられたり。又は耶麻土と云ふ。これは大八州の中国の名也。第八にあたるたび、天御虚空豊秋津根別と云う神を生給ふ。これを大日本豊秋津州となづく。今は四十八ヶ国にわかてり。中州たりし上に、神武天皇、東征より代々の皇都也。よりてその名をとりて、余の七州をもすべて耶麻土と云うなるべし。唐にも、 周の国より出たりしかば、天下を周と云、漢の地よりおこりたれば、海内を漢と名づけしが如し。 耶麻土と云へることは 山迹と云う也。昔、天地わかれて泥のうるほひいまだかわかず、山をのみ往来としてその跡おほかりければ山迹と云ふ。或古語に居住を止と云ふ。山に居住せしによりて 山止なりとも云へり。大日本とも大倭とも書ことは、この国に漢字伝て後、国の名を書くに字をば大日本と定てしかも耶麻土と読ませたるなり。大日孁のしろしめす御国なれば、その義をもとれるか、はた日の出る所に近ければしか云へるか。義はかゝれども字のまゝ日のもとゝは読まず。耶麻土と訓ぜり。我国の漢字を訓ずること多く如此。自ずから日の本などいへるは文字によれるなり。国の名とせるにあらず。〔裏書云。日のもとゝよめる哥、万葉[に]云ふ。いざこども はや日のもとへ おほともの みつのはま松 まちこひぬらん〕 又古より大日本とも若は大の字をくはへず、日本ともかけり。州の名を大日本豊秋津といふ。 懿徳・ 孝霊・ 孝元等の御謚皆な大日本の字あり。垂仁天皇の御女大日本姫と云ふ。これ皆な大の字あり。天神饒速日尊、天の磐船に乗り大虚をかけりて「虚空見日本の国」との給。神武の御名神日本磐余彦と号したてまつる。孝安を日本足、開化を稚日本とも号、景行天皇の御子小碓の皇子を日本武の尊となづけ奉る。これは大を加ざるなり。彼此同くやまとゝよませたれど大日孁の義をとらば、おほやまとゝ 読てもかなふべきか。その後漢土より字書を伝へける時、倭と書てこの国の名に用たるを、即領納して、又この字を耶麻土と訓じて、日本の如に大を加へても又のぞきても同訓に通用しけり。 漢土より倭と名けゝる事は、昔この国の人はじめて 彼土にいたれりしに、「汝が国の名をばいかゞ云ふ」と問けるを、「吾国は」と云うをきゝて、即倭と名づけたりとみゆ。漢書に、「楽浪の彼土の東北に楽浪郡あり。海中に倭人あり。百余国をわかてり」と云ふ。もし前漢の時すでに通けるか。一書には、秦の代よりすでに通ともみゆ。下にしるせり。後漢書に、「大倭王は耶麻堆に居す」とみえたり。〈耶麻堆は山となり〉。これは若すでにこの国の 使人本国の例により大倭と称するによりてかくしるせるか。 〈神功皇后の新羅・ 百済・ 高麗をしたがへ給いしは後漢の末ざまにあたれり。即ち漢地にも通ぜられたりと 見たれば、文字も定て伝はれるか。一説には 秦の時より 書籍を伝とも云う。大倭と云うことは異朝にも領納して書伝にのせたれば、この国にのみほめて称するにあらず。〈異朝に大漢・ 大唐など云うは大なりと称するこゝろなり〉。唐書「高宗咸亨年中に倭国の使始めてあらためて日本と号す。その国東にあり。日の出所に近を云ふ」と載たり。この事我国の古記にはたしかならず。推古天皇の御時、もろこしの隋朝より使ありて書をおくれりしに、倭皇とかく。聖徳太子自ら筆を取りて、返牒を書給いしには、「東天皇敬白西皇帝」とありき。かの国よりは倭と書たれど、返牒には日本とも倭とものせられず。これより上代には牒ありともみえざる也。唐の咸亨の比は天智の御代にあたりたれば、実には件の比より日本と書て送られけるにや。 又この国をば 秋津州といふ。神武天皇国のかたちをめぐらしのぞみ給いて、「蜻蛉の臀舐の如くあるかな」との給いしより、この名ありきとぞ。しかれど、神代に豊秋津根と云う名あれば、神武にはじめざるにや。此外もあまた名あり。細戈の千足国とも、磯輪上の秀真の国とも、玉垣の内国ともいへり。又扶桑国と云う名もあるか。「東海の中に扶桑の木あり。日の出所なり」とみえたり。日本も東にあれば、よそへていへるか。この国に彼木ありと云う事きこえねば、たしかなる名にはあらざるべし。凡内典の説に須弥と云う山あり。この山をめぐりて七の金山あり。その中間は皆な香水海なり。金山の外に四大海あり。この海中に四大州あり。州ごとに又二の中州あり。南州をば 贍部と云う。又、閻浮提云ふ。同ことばの転也。これは樹の名なり。南州の中心に阿耨達と云う山あり。山頂に池あり。阿耨達こゝには無熱と云ふ。外書に崑崘といへるは即ちこの山なり。池の傍に樹あり。迊七由旬高百由旬なり 。一由旬とは四十里也。六尺を一歩とす。三百六十歩を一里とす。この里をもちて由旬をはかるべし。この樹、州の中心にありて最も高し。よりて州の名とす。 阿耨達山の南は大雪山、北は葱嶺なり。葱嶺の北は胡国、雪山の南は五天竺、東北によりては震旦国、西北にあたりては波斯国也。この贍部州は縱横七千由旬、里をもちてかぞふれば二十八万里。東海より西海にいたるまで九万里。南海より北海にいたるまで又九万里。天竺は正中によれり。よ[つ]て贍部の中国とす也。地のめぐり又九万里。震旦ひろしと云へども五天にならぶれば一辺の小国なり。 日本は彼土をはなれて海中にあり。北嶺の伝教大師、 南都の護命僧正は中州也としるされたり。しからば南州と東州との 中なる遮摩羅と云う州なるべきにや。華厳経に「東北の海中に山あり。 金剛山と云ふ」とあるは大倭の金剛山の事也とぞ。さればこの国は天竺よりも震旦よりも東北の大海の中にあり。別州にして神明の皇統を伝へ給へる国也。同世界の中なれば、天地開闢の初めはいづくもかはるべきならねど、三国の説各ことなり。天竺の説には、世の始まりを劫初と云ふ。劫に成・住・壊・空の四(よ)あり。各二十の増減あり。一増一減を一小劫と云ふ。二十の増減を一中劫と云ふ。四十劫を合て一大劫と云う〉。光音と云ふ天衆、空中に金色の雲をおこし、梵天に偏布す。即大雨をふらす。風輪の上につもりて水輪となる。増長して天上にいたれり。又大風ありて沫を吹立て空中になげおく。即大梵天の宮殿となる。その水次第に退下て 欲界の諸宮殿乃至須弥山・四大州・鉄囲山をなす。かくて万億の世界同時になる。これを成劫と云う也。この万億の世界を三千大千世界といふなり。光音の天衆下生して次第に住す。これを住劫と云ふ。 この住劫の間に二十の増減あるべしとぞ。その初めには人の身光明とほく照して飛行自在也。歓喜を以食とす。男女の相なし。後に地より甘泉涌出す。味酥密の如し。或るいは地味とも云う。これをなめて味着を生ず。仍神通を失ひ、 光明もきえて、世間大にくらくなる。衆生の報しからしめければ、黒風海を吹て日・ 月二輪を漂出す。須弥の半腹におきて四天下を照さしむ。これより始めて昼夜・晦朔・ 春秋あり。地味に耽しより顔色もかじけおとろへき。 地味又うせて林藤と云う物あり。或るいは地皮とも云う。衆生又食とす。林藤又うせて自然の秔稲あり。諸の美味をそなへたり。朝にかれば夕に熟す。この稲米を食せしによりて、身に残穢いできぬ。これ故に始めて二道あり。男女の相各別にして、つひに婬欲のわざをなす。夫婦となづけ舎宅を構て、共に住き。光音の諸天、後に下生する者、女人の 胎中にいりて胎生の衆生となる。その後秔稲生ぜず。衆生うれへなげきて、各境をわかち、 田種を施しうゑて食とす。他人の田種をさへうばひぬすむ者出来て互にうちあらそふ。これを決する人なかりしかば、衆共にはからひて一人の平等王を立、名て刹帝利と云う。田主と云う心なり。 その始めの王を民主王と号しき。十善の正法をおこなひて国ををさめしかば、人民を敬愛す。閻浮提の天下、豊楽安穏にして病患及び大寒熱あることなし。寿命も極て久无量歳なりき。民主の子孫相続して久く君たりしが、漸正法も衰しより寿命も減じて八万四千歳にいたる。身のたけ八丈なり。その間に王ありて転輪の果報を具足せり。先づ天より金輪宝飛び降(くだ)て王の前に現在す。王出で給ことあれば、この輪、転行して諸々の小王皆なむかへて拝す。あへて違者なし。即四大州に主たり。 唯我が国のみ天地ひらけし初めより今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給いしことよこしまならず。一種姓の中におきても自ずから傍より伝へ給しすら猶正にかへる道ありてぞたもちましましける。これしかしながら神明の御誓いあらたにして余国にことなるべきいはれなり。抑、神道のことはたやすくあらはさずと云うことあれば、根元をしらざれば猥しき始めともなりぬべし。そのつひえをすくはんために聊勒し侍り。神代より正理にてうけ伝へるいはれを述ことを志て、常に聞ゆる事をばのせず。しかれば神皇の正統記とや名け侍べき。 天地未分ざりし時、混沌として、まろがれること鷄子の如し。くゝもりて牙ふくめりき。これ陰陽の元初未分の一気也。その気始めてわかれてきよくあきらかなるは、たなびきて天と成り、おもくにごれるはつゞいて地となる。その中より一物出たり。かたち葦牙の如し。即化して神となりぬ。国常立尊と申す。又は天の御中主の神とも号し奉つる。この神に木・火・土・金・水の五行の徳まします。先水徳の神にあらはれ給いしを国狭槌尊と云ふ。次に火徳の神を豊斟渟尊と云ふ。天の道ひとりなす。ゆゑに純男にてます。純男といへどもその相ありともさだめがたし。次木徳の神を泥土。蒲鑒反瓊尊・沙土瓊尊と云ふ。次金徳の神を大戸之道尊・大苫辺尊と云ふ。次に土徳の神を面足尊・惶根の尊と云ふ。 二神又はからひてのたまはく、「我すでに大八州の国および山川草木をうめり。いかでかあめの下のきみたるものをうまざらむや」とてまづ
日神を生ます。このみこひかりうるはしくして国の内にてりとほる。二神よろこびて
天におくりあげて、天上の事をさづけ給う。この時天地あひさることとほからず。天のみはしらをもてあげ給う。これを
大日孁の尊と申孁字は霊と通ずべきなり。陰気を霊と云とも云へり。女神にましませば
自ら
相叶にや。又天照太神とも申。女神にてまします也。 次月神を
生ます。その光日につげり。天にのぼせて
夜の政をさづけ給う。 次に
蛭子を生ます。みとせになるまで
脚たゝず。
天の磐樟船にのせて風のまゝはなちすつ。次素戔烏尊を生ます。いさみたけく不忍にして父母の御心にかなはず。「根の国にいね」との給ふ。この三柱は男神にてまします。よりて一女三男と申す也。すべてあらゆる神みな二神の
所生にましませど、国の主たるべしとて生給いしかば、ことさらにこの四神を申し伝えけるにこそ。 |
○
地神第一代、
大日孁尊。これを天照太神と申す。又は
日神とも皇祖とも申す也。この神の生給うこと三の説あり。 一には伊弉諾・伊弉冊尊あひ計て、天下の主をうまざらんやとて、
先、日神をうみ、次に、月神、
次、
蛭子、
次、素戔烏尊を
生給えりといへり。又は伊弉諾の尊、御手に
白銅の鏡をとりて大日孁の尊を化生し、
右御手にとりて
月弓の尊を生、御首をめぐらしてかへりみ給いしあひだに、素戔烏尊を生ともいへり。又伊弉諾尊日向の小戸の川にてみそぎし給いし時、左の御眼をあらひて天照太神を化生し、右の御眼をあらひて月読の尊を生、
御鼻を
洗て素戔烏尊を
生じ給うとも云ふ。日月神の御名も三あり、化生の所も三あれば、凡慮はかりがたし。又おはします所も、
一には
高天の原と云、二には日の小宮と云、三には
我日本国これ也。八咫の御鏡をとらせましまして、「われをみるが如くにせよ」と勅し給いけること、和光の御誓もあらはれて、ことさらに深道あるべければ、
三所に勝劣の義をば存ずべからざるにや。
爰、素戔烏尊、父母
二神にやらはれて根国にくだり給へりしが、天上にまうでゝ姉の尊にみえたてまつりて、「ひたぶるにいなん」と申し給いければ、「ゆるしつ」との給う。よりて天上にのぼります。大うみとゞろき、山をかなりほえき。この神の性たけきがしからしむるになむ。天照太神おどろきましまして、兵のそなへをして待給う。かの尊黒心なきよしをおこたり給ふ。「さらば
誓約をなして、きよきか、きたなきかをしるべし。誓約の中に女を生ぜば、きたなき心なるべし。男を生ぜば、きよき心ならん」とて、素戔烏尊のたてまつられける八坂瓊の玉をとり給へりしかば、その玉に感じて男神化生し給う。すさのをの尊
悦て、「まさやあれかちぬ」との給ける。よりて御名を
正哉吾勝々の速日天の忍穂耳の尊と申す。これは古語拾遺の説。又の説には、素戔烏尊、天照太神の御くびにかけ給へる御統の瓊玉をこひとりて、天の真名井にふりすゝぎ、これをかみ給ひしかば、先吾勝の尊うまれまします。 |
○第二代、 正哉吾勝々の速日天忍穂耳尊。高皇産霊の尊の 女栲幡千々姫の命にあひて、饒速日尊・ 瓊々杵尊をうましめ給て、吾勝尊葦原中州にくだりますべかりしを、御子うみ給しかば、「かれを下すべし」と申し給いて、天上にとゞまります。まづ、饒速日の尊をくだし給し時、外祖高皇産霊尊、十種の瑞宝を授給う。瀛都鏡一、辺津鏡一つ、 八握剣一つ、生玉一つ、死反玉一つ、 足玉一つ、 道反玉一つ、蛇比礼一つ、蜂比礼一つ、 品の物比礼一つ、これなり。このみことはやく神さり給いにけり。凡国の主とてはくだし給はざりしにや。吾勝尊くだり給べかりし時、天照太神三種の神器を伝へ給う。後に又瓊々杵尊にも授ましまししに、饒速日尊はこれをえ給はず。しかれば日嗣の神にはましまさぬなるべし。この事旧事本紀の説也。日本紀にはみえず。天照太神・吾勝尊は天上に止り給へど、地神の第一、二に数へたてまつる。その始天下の主たるべしとてうまれ給いしゆゑにや。 |
○第三代、天津彦々火瓊々杵尊。天孫とも皇孫とも申す。皇祖天照太神・高皇産霊尊いつきめぐみましましき。葦原の中州の主として天降給はんとす。こゝにその国邪神あれてたやすく下給いしことかたかりければ、天稚彦と云う神をくだしてみせしめ給いしに、
大汝の神の女、下照姫にとつぎて、返こと申さず。みとせになりぬ。よりて名なし
雉をつかはしてみせられしを、天稚彦いころしつ。その矢天上にのぼりて太神の御まへにあり。血にぬれたりければ、あやめ給いて、なげくだされしに、天稚彦
新嘗てふせりけるむねにあたりて死す。世に返し矢をいむはこの故也。さらに又くださるべき神をえらばれし時、経津主の命 〈
檝取神にます〉武甕槌の神 〈
鹿嶋の神にます〉みことのりをうけてくだりましけり。
出雲国にいたり、はかせる剣をぬきて、地につきたて、その上にゐて、大汝の神に太神の勅をつげしらしむ。その子都波八重事代主神 〈今、葛木の鴨にます〉あひともに従申す。又次の子健御名方刀美の神 〈今、陬方の神にます〉したがはずして、逃げ給いしを、すはの湖まで追ひて攻められしかば、又従ひぬ。 かくて諸々の悪神をばつみなへ、まつろへるをばほめて、天上にのぼりて 返こと申し給う。大物主の神 〈大汝の神はこの国をさり、やがてかくれ給いしと見ゆ。この大物主はさきに云う所の三輪の神にますなるべし〉事代主の神、相共に八十万の神をひきゐて、天にまうづ。太神ことにほめ給き。「宜八十万の神を領て皇孫をまぼりまつれ」とて、 先かへしくだし給いけり。その後、天照太神、高皇産霊尊相計て皇孫をくだし給う。八百万の神、勅を承て御供につかうまつる。諸神の上首三十二神あり。その中に五部神と云うは、 天児屋命 〈中臣の祖〉、天太玉命 〈忌部の祖〉、天鈿女命 〈 猨女の祖〉、石凝姥命 〈鏡作の祖〉 、玉屋命 〈 玉作の祖〉也。この中にも中臣・忌部の 二神はむねと神勅をうけて皇孫をたすけまぼり給う。又三種の神宝をさづけまします。先あらかじめ、皇孫に勅して曰、「葦原千五百秋之瑞穂国 吾子孫 可主之 地也なり]。宜爾皇孫就而治焉。 行給矣。 宝祚之 隆 当与天壌無窮者矣」。又太神御手に宝鏡をもち給、皇孫にさづけ 祝て、「 吾児 視此宝鏡 当猶視吾。可与同床共殿以為斎鏡」との給う。八坂瓊の曲玉・天の叢雲の剣をくはへて三種とす。又「この鏡の 如に 分明なるをもて、 天下に照臨給へ。八坂瓊のひろがれるが如く曲妙をもて天下をしろしめせ。神剣をひきさげては 不順るものをたひらげ給」と 勅ましましけるとぞ。 この国の神霊として、皇統一種たゞしくまします事、まことにこれらの勅にみえたり。三種の神器世に伝こと、日月星の
天にあるに同じ。鏡は日の体なり。玉は月の精也。剣は星の気也。深き習いあるべきにや。抑、彼の宝鏡は先にしるし侍石凝姥の命の作給へりし八咫の御鏡〈八咫に口伝あり〉、〔裏書に云ふ。咫説文云ふ。中婦人手長八寸謂之咫。周尺也。但、今の八咫の鏡[の]事は別口伝あり〕玉は八坂瓊の曲玉、々屋の命 〈天明玉とも云う〉作給へるなり。八坂にも口伝あり。剣はすさのをの命のえ給いて、太神にたてまつられし叢雲の剣也。この三種につきたる神勅は正く国をたもちますべき道なるべし。鏡は
一物をたくはへず。私の心なくして、万象を照らすに是非善悪の姿あらはれずと云うことなし。その姿に従ひて感応するを徳とす。これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。智恵の本源也。この三徳を翕受ずしては、天下のをさまらんことまことにかたかるべし。
|
○第四代、
彦火々出見の尊と申。御兄火の闌降の命、海の幸ます。この尊は山の幸ましけり。こゝろみに相かへ給いしに、
各幸なかりき。弟の尊の、弓箭に魚の釣鉤をかえ給へりしを、弓箭をば返つ。おとゝの尊鉤を魚にくはれて失ひ給けるを、あながちにせめ給しに、せんすべなくて
海辺にさまよひ給いき。塩土の翁〈この神の事さきにみゆ〉まゐりあひて、あはれみ申して、はかりことをめぐらして、海神綿積命 〈
小童ともかけり〉の所におくりつ。その女を豊玉姫と云ふ。天神の御孫にめでたてまつりて、父の神につげてとゞめ申つ。つひにその女とあひすみ給。みとせばかりありて故郷をおぼす御気色ありければ、その女父にいひあはせてかへしたてまつる。大小いろくづをつどへてとひけるに、口女と云う魚、やまひありとてみえず。しひてめしいづれば、その口
はれたり。これをさぐりしに、うせにし鉤をさぐりいづ〈
一には赤女と
云ふ。又この魚はなよしと云う魚とみえたり〉。海神いましめて、「口女いまよりつりくふな。又天孫の饌にまゐるな」となん云いふくめける。 又海神ひる珠みつ珠をたてまつりて、兄を従へ給うべきかたちををしへ申しけり。さて故郷にかへりまして鉤を返つ。満珠をいだしてねぎ給へば、塩みちきて、この神おぼれぬ。悩まされて、「俳優の民とならん」と誓ひ給いしかば、ひる珠をもちて塩を退け給いき。これより天日嗣を伝へましましける。海中にて豊玉姫はらみ給しかば、「産期に至らば、海辺に産屋を作て待ち給へ」と申しき。はたしてその妹玉依姫をひきゐて、海辺に行あひぬ。屋を作りて鸕鶿の羽にてふかれしが、ふきもあへず、御子生まれ給いしによりて鸕鶿草葺不合尊と申す。又産屋をうぶやと云う事もうのはを葺(ふ)けるゆゑなりとなん。さても「産の時み給うな」と契り申しを、のぞきて見ましければ、龍になりぬ。はぢうらみて、「我にはぢみせ給はずは、 海陸をして相かよはしへだつることなからまし」とて、御子を捨ておきて海中へかへりぬ。後に御子のきらきらしくましますことをきゝて憐み崇めて、妹の玉依姫を奉て養ひまゐらせけるとぞ。この尊、天下を治給こと六十三万七千八百九十二年と云へり。 震旦の世の 始をいへるに、万物混然としてあひはなれず。これを混沌と云ふ。その後軽清物は 天となり、重濁物は地となり、中和気は人となる。これを三才と云う。これまでは我国の初りを云うにかはらざる也。そのはじめの君盤古氏、天下を治こと一万八千年。天皇・地皇・人皇など云う王相続 て、九十一代一百八万二千七百六十年。さきにあはせて一百十万七百六十年〈これ一説なり。 実にはあきらかならず〉。広雅と云う書には、開闢より獲麟に至て二百七十六万歳とも云ふ。獲麟とは孔子の在世、魯の哀公の時なり。日本の懿徳にあたる。しからば、盤古のはじめはこの尊の御代のすゑつかたにあたるべきにや。 |
○第五代、彦波激武鸕鶿草葺不合尊と申。御母豊玉姫の名づけ申しける御名なり。御姨玉依姫にとつぎて四の御子をうましめ給ふ。彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、日本磐余彦の尊と申す。磐余彦尊を太子に立てて天日嗣をなんつがしめましましける。この神の御代七十七万余年の程にや、もろこしの三皇の初、伏犠と云う王あり。次神農氏、次軒轅氏、三代あはせて五万八千四百四十年〈一説には一万六千八百二十七年。しからばこの尊の八十万余の年にあたる也。親経中納言の新古今の序を書に、伏犠の皇徳に基して四十万年と云えり。何説によれるにか。無覚束事也。その後に少昊氏、顓頊氏、高辛氏、陶唐
氏〈堯也〉、有虞氏〈舜也〉と云う五帝あり。合て四百三十二年。 その次夏・ 殷・ 周の三代あり。夏には十七主、四百三十二年。殷には三十主、六百二十九年。周の代と成て第四代の主を昭王と云き。その二十六年甲寅の年までは周おこりて一百二十年。この年は葺不合尊の八十三万五千六百六十七年にあたれり。今年、天竺に釈迦仏出世しまします。 同き八十三万五千七百五十三年に、仏御年八十にて入滅しましましけり。もろこしには昭王の子、穆王の五十三年 壬甲にあたれり。その後二百八十九年ありて、 庚申にあたる年、この神かくれさせまします。すべて天下を治め給うこと八十三万六千四十三年と云えり。これより上つかたを地神五代とは申しけり。二代は天上にとゞまり給。下三代は西の州宮にて多の年をおくりまします。神代のことなれば、その行迹たしかならず。葺不合の尊八十三万余年ましまししに、その御子磐余彦尊の御代より、にはかに人王の代となりて、暦数も短くなりにけること疑ふ人もあるべきにや。されど、神道の事おしてはかりがたし。まことに磐長姫の 詛けるまゝ寿命も短くなりしかば、神のふるまひにもかはりて、やがて人の代となりぬるか。天竺の説の如く次第ありて減たりとはみえず。又百王ましますべしと申める。十々の百には非るべし。窮なきを百とも云へり。百官百姓など云うにてしるべき也。昔、皇祖天照太神天孫の尊に御ことのりせしに、「宝祚之隆当与天壌無窮」とあり。天地も昔にかはらず。日月も光をあらためず。況や三種の神器世に現在し給へり。きはまりあるべからざるは我国を伝る宝祚也。あふぎてた[つ]とびたてまつるべきは日嗣をうけ給すべらぎになんおはします。 |
(私論.私見)